*


 ヒマラヤを越えていく鶴のことを僕が知ったのは、高校生の頃だった。記憶に間違いがなければ、それは、読売新聞の記事であったはずだ。
 「成層圏を越える鶴」
 そのようなタイトルがついていたように思う。
 ヒマラヤの高空を越えて、インドへと渡っていく鶴がいるというのである。
 ヒマラヤのマナスル登山に出かけていた日本人登山隊の隊員が、登山の途中にその鶴を見て、その鶴が飛ぶさまを写真に撮ったのだという。
 8000メートルを超える高さにある山の頂を、鶴が越えていくわけがない。
 第3キャンプの標高6300メートルより上であるにしても、7000メートルよりは下の、山の肩あたりを、鶴は越えていくのであろう。
 しかし、それでも、酸素の量は地上の3分の1だ。そのような大気を呼吸しながら、鳥が、空を飛ぶことが出来るのだろうか。
 モノクロの不鮮明な写真が載っていた。
 どのような写真であったか、今は定かでないが、その記事によって頭のなかに浮かんだイメージは、その後も、ずっと僕のなかに残った。
 8000メートルのヒマラヤの高峰が、青い空のなかに聳えている。雪を被った、白い岩峰だ。空は、宇宙の黒がそのまま透けて見えるような濃い青。
 その、青く高い風のなかを、純白の鶴が越えていく。
 美しい。
 魂が、しんと澄みわたって凍りついてしまいそうなイメージだ。
 それを、僕は、長いあいだ、自分の眼で見たいと考えていた。
 折に触れて、僕は、ヒマラヤを越える鶴のことと、それを観に行くための方法を調べ、探してきた。
 ヒマラヤを越える鶴には、何種類かあることが、それでわかった。
 そのうちの代表的なものは、モンゴルやシベリアの平原にいる、ソデグロヅルである。
 そのソデグロヅルが、毎年10月の初め頃に、ヒマラヤを越えてインドの平原まで飛んでいくのである。
 ヒマラヤの高空には、年中強い風が吹いている。
 モンスーンだ。
 このモンスーンが、時期により、大量の雨や雪を、ネパールからインドにかけて降らせることになる。この時期に、鶴はヒマラヤを越えない。
 しかし、年に2度、5月と10月の前後に、そのモンスーンが止む。プレ・モンスーンとポスト・モンスーンである。その時期に、ヒマラヤ一帯の空は、信じられないほど晴れわたり、雨や雪の量が減る。
 この時期を狙って、鶴はヒマラヤを越えて、インドとシベリア、モンゴルのあいだを行き来するのである。
 そのときに、鶴がヒマラヤを越える場所が、何ヶ所か知られている。
 その鶴がヒマラヤを越える場所のひとつが、マナスル近くにあるというのである。
 マナスル。標高8125メートル。
 しかし、どうやってそこに行くか。
 ネパールの、カトマンドゥ、ポカラ、インドのカピラヴァスドゥ、カシミールには、何度か行ったことがある。
 人づてに探して、実際にマナスルで鶴を見た登山家の清水大悟さんに会った。
 清水さんと、東京でお会いして、話を聞いた。
 「あれは、じつに綺麗ですよ」
 清水さんは言った。
 「登山家でない、普通の体力しかない人間が、その鶴がヒマラヤを越えていくのを見ることが出来ますか」
 「出来ます。実際に頂上に立とうというのではないんでしょう。6500メートルあたりまで、つまり第3キャンプまで行けば、見ることが出来ますよ」
 「でも、僕の体力は、並以下ですよ」
 「大丈夫。問題は、高山病だけです」
 高い山へ登ると、空気が薄くなり、酸素の量が減る。たとえば、富士山のてっぺんの3800メートルあたりでは、酸素の量は地上の半分になる。チョモランマなどの8000メートルを超える高山では、酸素の量は、地上の3分の1以下になる。
 そのために、高山に登ると、さまざまな症状が出てくる。
 軽いところでは、頭痛と、疲労、食欲減退。それが、さらにひどくなると、頭痛や疲労はさらに大きくなり、食欲がなくなるだけでなく、それが吐き気に変わる。気分が悪くなり、立っていられなくなる。
 ついには、眼底出血、肺水腫、脳浮腫になる。つまり、眼が見えなくなり、呼吸のたびに肺に溜まった水がゴロゴロと音を立て、幻覚を見るようになる。
 こうなったら、一刻も早く下降しなければ、確実に死ぬ。
 そして、恐ろしいことに、これは人によって個人差があり、さらに、同じ個人でもそのときの体調によって、高山病がひどくなったり、そうでなかったりする。つまり、場合によっては、4000メートルから5000メートルくらいの高度で、高山病で死ぬケースもあるのである。
 「同じテントのなかで、仲間の人間が、肺をゴロゴロ言わせて呼吸をしているのを聞くのは、あまりいい気分じゃないですね」
 と、清水さんは言った。
 「鶴を見るなら、いい方法があります。ちょうどこの秋に、マナスルへ行く登山隊がありますから、その登山隊に混ざって、マナスルへ行けばいいですよ」
 「本当ですか。そういうことが、出来るんですか?」
 「出来ますよ」
 「しかし、僕のように、体力のない人間が登山隊に混じった場合、その登山隊に迷惑をかけることになりませんか?」
 「大丈夫ですよ。6500メートルくらいまでですから。途中で、ちょっと氷河の上を歩いたりするときは、ヤバいことがあるかもしれませんけど。でも、まるっきり山を知らないわけじゃないんでしょ」
 本当に?
 と、僕は思った。
 清水さんは、ヒマラヤの8000メートルを越える雪のなかでピヴァークをしたこともある、現役の本物の登山家である。
 その清水さんの基準と、僕のそれとは、違う。
 たとえば、僕が、多少、同人誌で学生の頃に小説を書いたことがあるくらいの人に、
 「大丈夫ですよ。べつに、月に1000枚書くわけじゃないんでしょう。300枚くらいなら、1日に10枚ずつ書いていけばいいんですから」
 と言うようなものではないか。
 しかし、
 「大丈夫ですよ」
 と、清水さんは言う。
 それで、僕は、ついに決意してしまった。
 で、紹介されたのが、『マナスル・スキー登山隊』である。
 かくして、僕は、マナスルに行くことになったのである。



*


 ネパールの空港に降り立ったときに、不意に、懐かしい匂いを僕は嗅いでいた。
 その匂いを、なんと表現したらいいのだろう。
 世界中のあちこちにある匂い、である。
 日本が、失ってしまった匂い、でもある。
 人間を含む、動物の匂い。
 人や、犬や、街なかにいる牛や、羊や、山羊の汗と糞の匂い。シヴァのおちんちんであるリンガにばらまかれる花の匂いと、そこにふりかけられる山羊の血の匂い。
 火の匂い。
 そして、煙の匂い。食べものの匂い。
 それから、たぶん、ヒマラヤの高峰の雪の匂いや、ヒンドゥの神々の匂いまで、カトマンドゥという街の大気のなかに溶けているようであった。
 それが、カトマンドゥという、混沌とした街の匂いである。
 なにもかもが、渾然としてそこでひとつになっている。
 風のなかに、僕は、不意にその匂いを嗅いでいた。
 不意打ちであった。
 「ああ、帰ってきたのだな」
 そういう思いが、不意に、僕の胸を満たした。
 ペルーのアマゾンに帰ってきた気がしたし、ここネパールにも、やって来たのではなく、帰ってきた気がした。
 7年前、このカトマンドゥに初めてやって来たときは、夜であった。
 そのときも、僕は懐かしさを味わっていた。
 なんと懐かしい灯りと闇であったろうか。
 裸電球の灯りだ。
 闇のなかに、その灯りが、ぽつん、ぽつんと見えているのである。大阪の灯りのように、ぎっしりと、闇の底に、きらびやかな星雲のようにひろがる灯りではない。
 灯りと灯りとの距離が、なんとほどよいのだろう。灯りと灯りのあいだの闇が、なんと暖かく見えるのだろう。
 暖かい闇というものを、そのとき、僕は生まれて初めて見た。
 その光景を、僕は思い出していたのである。
 カトマンドゥに着いてから、ヘリの予定が上手くとれず、僕たちはカトマンドゥに5泊した。
 結局、軍隊のセスナが臨時便として出て、僕たちがカトマンドゥ空港を飛び立ったのは、9月28日に日本を出てから8日目の、10月5日であった。
 目的地のサマの村は、標高、およそ3400メートル。
 しかし、ヘリで真っ直ぐにその村に向かったわけではない。
 その村は、ヒマラヤの懐深くの谷のあいだにあり、左右から聳える高いヒマラヤの尾根に挟まれている。
 4000メートル以上もあるその尾根を、軍隊のヘリは、越えることが出来ないのである。
 それで、かなり低い地点からその谷にヘリで入り、曲がりくねった谷筋に沿って、谷を登りながら、サマの村へ向かっていくのである。
 感動的な光景を見た。
 ヘリで谷を飛んでいると、足の下の水の流れる渓の左右は、濃い緑が覆いかぶさる夏である。
 そして、ヘリの高さの左右が、紅葉した樹々が山壁を埋める秋である。
 そこからさらに視線を上に転じれば、そこは、峨峨たる岩峰に雪を冠り、岩と岩のあいだに氷河を抱えた冬なのである。
 三つの季節を、ほぼ同時にこの眼のなかに収めることが出来るのである。
 しかも、なんと巨大な光景であろうか。
 ようするに、日本アルプスの標高3000メートルクラスの山々、穂高や、槍ヶ岳や、北岳を、ごっそり巨大なバケツのなかにぶち込んで、それを、標高5000メートルのチベット高原の南に思い切りぶちまけたのが、このヒマラヤということになる。
 たまらん。



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 10月の8日に、3800メートルの仮ベースキャンプから、4800メートルにあるベースキャンプに上がった。
 じつは、前日の7日に、一度、空身でベースキャンプまで登り、その日のうちに下へ降りている。高度に身体を順応させるためである。
 8日は、二度目のベースキャンプ入りということになる。
 前日の疲労が抜けず、喘ぎながら足を持ち上げ、体重を上へと押し上げていく。この一歩一歩の繰り返しが、ほとんど無限に続くように、僕には思われた。
 酸素が薄く、呼吸しても呼吸しても、ラクにならない。
 「1週間前くらいまえに、うちのシェルパが、夜に3〜4羽ほどの鶴が飛んでいくのを見たと言ってたな」
 仮ベースで会ったスペイン人が、そう言っていた。その言葉を噛みしめながら登る。
 じつは、今回、おなじ時期に、スペイン隊もマナスルに入っていた。ネパール政府から許可をもらうのが、スペイン隊のほうが早かったため、我々の隊は、スペイン隊に頼み込み、かたちのうえだけ、スペイン隊との合同登山ということで、入山許可をもらっていたのである。
 夜に3〜4羽、というのは、シェルパが眼で確認したのではなく、その鳴き声を耳で確認したというものであった。
 彼らは、耳で、空を鳴きながら飛ぶ鶴の数が、わかるらしい。
 しかし、夜に鶴が空を飛ぶものだろうか。
 いろいろ考えてもわからない。が、ヒマラヤの現地に住むシェルパがそう言ったというのなら、ひとまずそれは信じるべきだろう。
 紅葉した林のなかを、登っていく。
 天候はよくない。かろうじて、雪が降らないだけである。昨日も、重く霧が垂れ込めていたが、その日は、昨日よりもひどい。
 この時期、ヒマラヤは晴れるはずなのだけれど、ずっと天気は悪い。
 林が終わって、尾根に出た。
 眼のまえに、氷河が見える。
 昨日もそうであったが、比べるものがないため、一瞬、その大きさの見当がつかない。しかし、その氷河を、周囲の風景や自分の手足とともに見つめていると、だんだんと距離感が見えてくる。距離感が理解出来た途端、その大きさが、不意に、心臓に飛び込んでくる。
 自分が、圧倒的に巨大なものを眼のまえにしているのだということがわかったとき、震えに似た感動に、僕は襲われた。
 濃霧で、谷の上部は見えないが、恐ろしく広大な谷の上方の霧のなか、おそらくは数千メートルの天の彼方から、その氷河が氷の塊となって、雪崩れ落ちてきているのである。
 新宿にある高層ビルを、およそ100万個も集めて、8000メートルの山の上部からその谷に流し込んだら、この光景に近いものが出来るかもしれない。
 氷河のあいだは、青氷になっていて、これまで、僕が見たこともないような、淡い青色を、そこに見せている。あるいは、セルリアン・ブルーに似ているだろうか。
 この光景を見るだけでも、此所に来る価値がある。
 この氷河を左に見ながら、尾根を登っていく。
 その途中で、雪が降りはじめた。
 冷たい、湿った雪だ。
 「雪だな」
 喘ぎながら言っているうちにも、雪の量は急速に増えていき、たちまち、視界がその灰色の雪で塞がれていく。
 さっきまで見えていた岩や草が、見る見るうちに、白一色に変わっていく。
 途中で休む予定を変更して、案内のシェルパを先頭にし、休まずに登っていく。
 ベースキャンプに着いたときには、昨日は雪がなかったモレーン一面が、白い雪に覆われていた。
 そして、その雪に、ベースキャンプにいるあいだじゅう、我々は悩まされることになったのである。



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 雪は、止まなかった。 3日間、雪は降り続け、その3日目に、上のキャンプに上がっていた隊員全員がベースキャンプに降りてきた。
 そのとき、すでに、第1キャンプ、第2キャンプ、6300メートル地点の第3キャンプまでテントの設営が済んでおり、食糧も第3キャンプまで上げられていた。
 その3つのキャンプにいた全員、日本人隊員とシェルパが、ベースキャンプに集まってしまったのである。
 日本での壮行会以来、思いがけなく全員が、ベースキャンプに集まってしまったのである。
 どの隊員の顔も、黒々と灼けている。
 「いやいや、よくここまで上がってきましたね」
 懐かしい信州訛りで、髭面の隊長が言った。
 日本を出るときには、なかった髭である。
 日本を発ってから1ヶ月余り、髭を剃っていないのだと言う。
 さらに、雪は降り続いた。
 いったいどうなっているのか、誰にもわからない。本来ならば、1年中でも一番天候が安定する時期に、すでに入っているのである。
 あとになって、この雪は、ベンガル湾にふたつのサイクロンが長時間居座り続け、最終的にヒマラヤを越えていったために生じた天候であることがわかるのだが、ベースキャンプでは、そんなことはわからない。
 夜に、ラジオのスイッチを入れて、息を殺して皆で天気予報を聴く。
 予報は、ただひとこと。
 「オール・ネパール・レイン」
 これのみである。
 「そんなことはわかっているんだ。問題は、この雪がいつまで続くかってことなんだよ」
 隊員の誰かが、冗談のように言った。
 天気予報の次は、ニュースである。
 そのニュースによれば、この雪は、ヒマラヤ全域で降っているらしく、チョモランマにアタックしているインド隊の隊員が、現在、第3キャンプに閉じ込められていて、動けなくなっているという。
 それが、翌日には、食糧が尽きたというニュースになり、3日後には、ベースキャンプとの無線連絡も途絶えたというニュースになる。
 そういうニュースを、雪で閉じ込められたベースキャンプで耳にするのは、腹の底から震えが来るような凄みがある。
 僕らも、状況としては、似たり寄ったりであった。
 食糧の半分近くが、上のキャンプに上がってしまっているのである。
 食糧が、どんどんなくなっていくのに、雪は止まない。 隊員の顔に、焦りの色が浮きはじめていた。



*


 雪に閉じ込められている日々、ほんのひとときに、嘘のように空が晴れわたることがあった。
 それは、深夜のときもあり、早朝のときもあった。しかし、雪は、ほとんど絶え間なく降り続いた。
 昼も、夜も、降る。
 不安な気持ちで、テントにさらさらと触れてくる乾いた雪の音を聞いているうちに、眠くなってくる。
 すでに持ってきていた『今昔物語』はすべて読み終えていた。
 隊員と、短い言葉で、ぼそぼそと日本の話をしたり、鶴の話をしたりしているうちに、いつの間にか、眠ってしまう。
 夜半に、寝苦しくなり、唸り声を上げて眼を覚ます。酸素が足りないための現象だ。眠ると、呼吸の速度が普通に戻ってしまうため、肉体に取り入れる酸素の量が減ってしまうのだ。それで、苦しくなって眼を覚ます。
 頬に、なにか触れている。
 テントの生地だ。
 雪がフライシートのうえに降り積もり、その重みで、フライもテントの生地も、内側に大きく沈んでいるのである。
 テントがつぶれる寸前である。慌てて隊員を起こし、テントの内側から叩く。テントに積もっていた雪が落ちる。
 と、それまで忘れていたように、テントに触れてくる雪の音が、不意に、耳に甦ってくるのだった。
 テントに厚く雪が積もっているため、雪の音が聞こえなくなっていたのが、積もっていた雪が落ちると、直接、テントの生地に触れて、その音が聞こえるようになる。
 夜は、その繰り返しだ。
 腰の下の雪が溶けて、テントの床の部分がへこんで、そこに腰が沈む。ハンモックで寝るような体勢になっている。
 その格好で、夜半、眼を開いたまま、僕は、日本のことや、書きかけの物語のことを、何時間でも考えていたりした。
 僕はまだ、悪人(ヒール)になる覚悟も、善人(ベビーフェイス)でやっていく覚悟も、出来てはいなかった。
 起きていると、小便に行きたくなる。
 しかし、行きたくなってから、外に出る決心をするまで、およそ1時間かかる。
 寝袋から出て、羽毛服を着込み、高山用の登山靴を履かねばならないからだ。喘ぎながら靴の紐を締めるだけでも、長い時間がかかってしまう。まだ、その高度に、完全に身体が順応していないのである。
 しかも、外は、マイナス20度である。
 どうせ朝まで我慢しきれるものではないと、覚悟を決めて出るまでが、およそ1時間なのである。
 雪のなかを外に出る。
 どこに、どういう光線があるのかわからないが、外は、完全な闇ではない。ヘッドランプを消しても、周囲には仄白い灯りがある。
 雪灯り。
 ヘッドランプを点け、切れるような白い凍りついた雪のうえに、黄色い小便をする。この、夜の小便のときに、さまざまな光景を、僕は見た。
 チベット方向の、足下よりも低い谷のどこかで、何度も何度も、不思議な光が瞬くのである。遠くで光る稲妻のようなのだが、しかし、そのとき、雲は上にあり、谷には、雲がないのだ。
 またあるときは、寒気がするような星空を見た。
 僕は、それを、どう表現していいかわからない。
 深夜、外へ出たとき、思いがけなく、空が晴れていた。
 凄い星空であった。
 黒々と静まり返った、下方の闇。
 そして、白い、チベットまで続く、岩峰の連なり。それが、満天の星空のもとに、どこまでも続いているのである。
 なんという光景であったろうか。
 これほどたくさんの星を、これまで、僕は一度に見たことがなかった。
 宇宙が、肉眼で見えた気がした。
 ここは、地球が、宇宙に向かって剥き出しになっている場所だという感覚を、僕は初めて味わった。地球という惑星の時間、そして、空間的な広がり、宇宙のただなかに、ぽつんといるだけの自分。それは、ほとんど宗教的なエクスタシーに近いものであったろう。
 それは、僕の内部にある情がもたらした、ほんの一瞬の、あるいは錯覚のようなものであったのかもしれない。ある種の、極限状態における感情の昂りが、そういう錯覚を生んだのかもしれない。しかし、それは神聖な錯覚であった。
 あのような光景に、人は、一生のうちに、何度出会えるのだろうか。
 ヒンドゥの神々が、それぞれの山の頂きに立って、無音の天上の音楽に耳を傾けているような幻想を生んだ。
 そういう日の朝は、夜明け前から起きて、三脚を立てて、日の出を待った。
 ベースキャンプより、さらに遥かな高みにマナスルの頂きはある。
 それが、初めは、夜の闇のなかで静かに動かない。
 成層圏に近い高みにあるその頂きに、不意に、ポッと、灯りが点るのだ。まだ、地平線の向こうにあるはずの太陽から放たれる光の矢が、この地上で、一番先に、その頂きに当たるのである。
 その灯りが、ゆっくりと、8215メートルの高みから、地上へと降りてくる。
 カメラを構えて、夢中でシャッターを切る。
 そして、いきなり、太い陽光が僕を叩く。
 正面から現れた太陽の光が僕にぶつかり、僕のいる谷を、その太い陽光がたちまち走り抜けて、僕の背後にある、高い、白い岩峰に、ドン、と、音を立ててぶつかるのである。
 ぎらぎらと朝がはじまっていく。
 すでに、遥か下方の地上までもが、白く雪に覆われているのが見える。
 写真を撮っているうちに、いつの間にか、染みのような白い雲の一片が空の一点に現れ、それがたちまち数を増して、1時間もしないうちに、あれほど見えていた白い山々を覆い隠していくのであった。
 また、雪。
 天と地上の境に我々はいて、その中間を沈黙が埋めていく。



*


 雪崩に襲われたのは、何日目であったろうか。
 それは、深夜であった。
 低い、ドロドロという音が、天のどこかではじまり、それが、ゆっくりと近づいてくるのである。
 これまで何度も耳にしてきた雪崩の音であった。
 僕らのいる谷の周囲は、雪崩の巣のような場所であった。
 左の崖の上方から、あるいは右の崖の上方から、積もった雪が、繰り返し繰り返し、落ちてくる。
 仮設トイレのすぐ上部の、氷河のうえに積もった雪の庇が崩れてきたこともあったし、ほとんど見わたすかぎりのあらゆる斜面から、雪が落ちてくる。朝、深い谷を挟んだすぐ向かいの山の斜面に、強烈な雪崩の跡を見たこともあった。頂上近くではじまったその雪崩が、一気に、太い蛇のように山の下まで1000メートル余りの距離を這い落ちているのである。
 ぞっとする。
 あのような雪崩に巻き込まれたら、血肉も骨もずくずくに押しつぶされ、まともな人体のかたちでは残らないかもしれない。
 そういう雪崩の音を、夜、テントの寝袋のなかにくるまり、背中で聴くのである。眼を閉じ、闇のなかで、背中でその音を聴いている。低い、遠くで聴く、ジェット機の爆音に似ている。その音は、上方から聴こえることもあり、左からも、右からも、もっと遠くの谷からも聴こえてくることがあった。足下の、遥か下方に、その音を聴くこともあった。
 上方に聴く雪崩の音が、一番怖い。
 天の何処かではじまったその音が、ゆっくりと自分のテントに向かって近づいてくるのだ。心臓が鳴る。その音が、途中で止まると、ほっとして止めていた息をゆっくりと吐き出す。
 そういうことが何度かあった。
 僕らのテントサイドは、モレーンの上であった。
 モレーンというのは、氷河が運んできた岩石の堆積物のことだ。
 氷河のうえを滑り落ちてきた雪崩は、そのモレーンに遮られて、止まる。
 しかし、降り続く雪のため、その雪で、氷河とモレーンが繋がってしまったのだ。その上を、雪崩が滑り落ちてくる。雪と、その雪崩が、氷河上の凹凸を埋め、雪崩のたびに、雪が滑りやすい斜面がそこに出来上がっていくのである。
 上から落ちてくる雪崩の音が停止する場所が、夜毎にテントサイドに近づいてくるのである。巨大な白い手が、山の上から、少しずつテントに這い寄ってくるイメージ。
 そして、その晩、ついに雪崩が来た。
 初め、上方で、その音ははじまった。
 その音が、近づいてくるのだ。
 近づいてくる。
 近づいてくる。
 あれっ?
 止まらない。
 えっ?
 と、思う間もなく、いきなり、強い力でテントが揺さぶられた。
 来たっ!
 僕はうつぶせになて、頭をかばって、両腕で頭を抱え込んだ。
 誰かが、外から激しくテントを拳で殴りつけてくるように、雪と氷の塊がテントにぶつかってくる。
 歯を噛んだ。
 その瞬間、僕は死を覚悟した。
 横で寝ていた隊員は、立ち上がり、両手でテントを押さえている。
 「テント、押さえて!」
 叫んでいる。
 テントのなかで立ち上がっていると、雪崩の直撃を全身に受ける。それよりも、身を低くして頭をかばうほうがいいのだ。
 しかし、隊員の必死の迫力に、僕は思わず立ち上がってテントを押さえていた。僕も、完全に動転していたのである。
 今でも、そのときの時間がわからない。
 10秒であったのか、30秒であったのか。
 それが収まったとき、
 「大丈夫か!」
 外で、隊員の叫ぶ声が聞こえた。
 とにかく、外へ出る。
 隊員がいた。
 「なんだったんですか?」
 僕は、訊いた。
 すでに、そのときは、あちこちのテントから、隊員やシェルパが這い出してきており、雪のなかで、ヘッドランプの灯りが動いている。
 「雪崩だ」
 と、隊長は言った。 「助かったのは自分だけかと思ったよ」
 自分のテントだけは雪崩の端にあったため、やられずに済んだが、他のテントは雪崩の直撃を受けて全滅したと、助かった一瞬、隊長は考えたのだと言った。
 なにが起こったのかわかったのは、翌朝だった。
 上部のどこかで雪崩が起こり、それが、我々のいる大きな谷間で流れ出てきて、河のうえを、雪崩となって滑り落ちてきたのである。
 その跡が、氷河のうえにしっかりと残されていた。
 それが、我々のテントサイドの上部にあるモレーンの丘にぶつかって、途中で向きを変えたのである。そして、我々のテントサイドの幅10メートルほどのところを、滑り落ちていったのだ。
 雪崩の先端は、圧縮された空気である。雪崩の上部も、雪煙である。
 雪崩の本体そのものは、モレーンの丘のうえに当たって向きを変えはしたが、その先端の圧縮された空気と、上部の雪煙だけは、そこで向きを変えなかった。そのまま丘を越えて、空気と雪煙のエネルギーが、テントにぶつかってきたのだ。それは、ただの空気ではない。その空気のなかには、雪の塊や石が、無数に混じっている。それらが、いきなり、テントに叩きつけてきたのである。
 助かったのは、半分、奇跡のようなものだ。
 その晩から、僕は、夜、寝袋のなかで、ナイフを握って眠るようになった。
 足には登山靴も履いた。
 なぜか。
 それは、次のような話を聞いたからだ。
 「仮にね、雪崩に遭ってもね、雪のなかで、死なないで生きているケースがあるんですよ。雪崩で埋もれた人間を探すときには、鉄の棒を雪に突き立てて捜すんです。雪のうえに、10人くらいの人間が横に並んで、30センチずつ、その鉄の棒を突き立てながら、歩いていく。下に人間が埋もれていれば、感触が違うからすぐにわかります」
 と、隊員のひとりは言った。
 「でね、生きている人間を掘り出すこともあるんですよ」
 こういうことだ。
 雪崩にやられても、もし、それが直撃でなく、雪崩の端に巻き込まれるくらいであれば、人は死なない場合があるのである。雪に埋もれた状態で生きている。しかし、生きていても、すぐに、雪のなかでは呼吸が出来ずに死ぬことになる。しかし、稀に、顔の周囲の空間に、掌を開いたり閉じたり出来るくらいの空間があれば、その空気を吸うことによって、人は20分近くは生きていられるというのである。
 しかも、埋もれている深さが20センチより深くなければ、自力脱出出来るケースも、稀にはあるという。
 無論、そういうことは、滅多にあることではない。
 ヒマラヤ級の雪崩を受けて、雪のなかで、生きていられるチャンスがどれほどあるものか。
 生きており、さらに、その顔の周囲に呼吸出来るだけのスペースがあるという状況は、もはや、奇跡の領域である。そして、さらになおかつ、自力脱出出来るだけの肉体的な条件も、そのときに持っていなければならない。それはつまり、いくら、雪崩で埋もれ、生きており、20分くらいは呼吸する空気があったとして、どこかの骨が折れていたり、怪我をしていたりすれば、自力脱出は出来ないということだ。
 だが、しかし、万が一にもそういうチャンスがあるなら、僕は出来るだけのことはしたかった。
 だから、ナイフを持って眠ったのである。
 つまり、テントで眠っていたときに雪崩に遭ったとすると、テントごと、雪のなかに埋もれることになる。
 それは、どういうことか。
 まず、身体は、シェラフのなかだ。頭は、シェラフの外にあるとしても、足は、間違いなく、シェラフのなかにある。次に、テントが外から被さっていよう。
 シェラフから脱出し、なおかつ、テントを裂かねば、脱出は叶わない。素手では、シェラフから脱出出来ず、さらにテントを切ることも出来ない。
 ナイフが必要になる。
 ナイフを握っていれば、そのナイフでテントや寝袋を裂くことも出来、手の周囲の空間を少し広げ、手の自由度を大きくし、ゆっくりとその空間を広げ、雪を掘って脱出することも、かぎりなくわずかな確率のなかで可能だろう。
 ナイフを握って眠ったのは、そのためである。
 安心のためだ。
 登山靴を履いたのは、仮に、もし、脱出出来たとしても、素足に靴下であっては、たちまち凍傷になってしまうからだ。マイナス20度の雪のうえを歩くことは出来ない。死が、わずかに、先へ延びるだけのことだ。
 僕がいたのは、そういう場所であったのだ。
 夜、シェラフのなかで、ナイフを握りしめながら、浅い眠りに就く。
 雪崩の音に、すぐに目が覚める。闇のなかで、眼と意識が尖ってしまう。
 雪崩の音が近づいてくる。
 歯を食いしばる。
 音が止む。
 ほっと息を吐く。
 浅い眠り。
 また、眼を開く。
 そういうことの繰り返しであった。
 ナイフを握りながら、僕は、僕の書きかけの物語のことを考えていた。



*


 不思議な体験であった。
 その日々、僕は、死を、いつも、常に、身近に感じていた。
 具体的な死。
 その危険のなかに身が晒されているという感覚を、それまで、僕は味わったことがなかった。
 男同士が、テントのなかで、毎日顔を合わせていれば、じつにさまざまな話が出る。
 無論、女の話もした。
 それぞれが持っている、エロ話をする。しかし、それでもネタが尽きる。不意に、哲学の話をし、宇宙の話をし、怪談話になり、食いものの話になったりする。
 昼、テントの外に出て、出ない小便を無理に出し、灰色の吹雪のなかで、歯を噛んだ。ひとりになると、胸の裡が顔に出てしまう。
 いよいよ、此所で死ぬのか。
 そういう思いを噛みしめる。
 いつか、必ず、雪崩の直撃はあるはずであった。
 ただ、それがいつかわからない。明日かもしれず、3秒後であるかもしれない。
 それを、待つ。
 逃げるに逃げられない場所であった。
 隊員たちのあいだで、さまざまなトラブルがあれば、それが筒抜けになる。
 隊員のひとりが風邪をひいた。
 薬をどうするか。
 抗生物質を与えるべきであるという意見と、今後、さらに過酷な状況になったときのために、他の隊員のためにとっておくべきだという意見が出る。
 それで、口論になる。
 どちらの意見にも、理がある。ふたりが、テントの外に出ていき、大声でやりあう声が聞こえてくる。
 おそらく、天候もよく、登山が上手くいっているときには問題にならないような些細なことから、トラブルが生まれるのだ。
 食糧がなくなりかけている。
 下の村へは、雪が降り続いているため、降りることが出来ない。
 米は発電用の灯油をかぶってしまい、炊くと、すごい臭いの飯になった。
 灯油の臭いと味のする飯を、無理に食べる。
 不思議なことに、食糧がなくなってくると、
 「じつは、オレ、アメ玉を持ってるんだ」
 とか、
 「ウイスキーの小瓶を持ってる」
 とか言うやつが現れる。
 それぞれが、非常食として、隊の食糧とはべつに持ってきているものが、ちらほら出てくる。
 それを、隊員で分ける。
 3個のアメ玉を、どうやって10人の隊員で分けるか。
 それに数時間をかける。
 娯楽がない。
 食いものが少ないという、それを娯楽にして、数個のアメ玉を分けるのに会議をする。
 「皆で平等に分けるべきだ」
 と言うやつがいる。
 「どうやって平等に分けるんだ」
 「まわし舐めをする。時間を計って、一人30秒ずつ口に入れて、次にまわせばいい」
 「よし、口移しでそれをやろう」
 「おまえの病気なんか、オレはもらいたくないからな」
 そういう会議をする。
 3ヶ月前にはボルネオのジャングルでオウムを食べながら飢えをしのいでいた男がなにか言うと、アフガンの地雷原をソビエトに追われながらカメラを抱えて走って逃げた男が、それに応える。
 合いの手を入れるのは、しばらくまえまで、アフリカのサハラ砂漠をジープで走っていた男だ。
 いろいろな男たちが、いろいろな場所を巡って、今、このひとつのテントのなかにいる。そういえば、僕だって、ついこのあいだまでは、アマゾンのジャングルに分け入って、畑を耕していたのだった。
 何日目かに、パーティをやった。
 でかいテント(実際には、カルカと呼ばれる半石小屋風のものだ。石を積み上げて周囲に壁をつくり、真ん中に支柱を立てて、そのうえにシートを被せたものだ。雪のため、毎朝、このテントがつぶれており、全員でそれを張り直すのが、朝の日課だった)に集まり、シェルパたちと、チャンを飲む。
 ちゃんとは、日本で言うならドブロクのことだ。
 シェルパが歌を唄い、我々もまた日本の歌を唄った。
 そして、シェルパ・ダンス。
 ひとしきり、皆でシェルパ・ダンスを踊ったあと、シェルパ頭の男が、僕に、英語と日本語とネパール語で話しかけてきた。
 自分は、子供のころに、ラマの寺で修行したことがあり、あるとき、黄金に光るブッダと名乗る存在を見たというのである。
 「嬉しくて、早速、師僧にその話をしたら、嗜められてしまいました」
 「なぜ?」
 「おまえは、いつもブッダを見たがっていたのではないか、と、師僧に言われました。ハイと答えると、師僧は次のように私に言いました」 それは、おまえが騙されているのである。それはブッダではない。それは、おまえを騙そうとしている存在だ。おまえが、心の裡でブッダを見たいと思えば思うほど、おまえは、そういう存在に騙されやすい自分をつくってしまうことになるのだ……」
 師僧に、そう言われたというのである。
 もの哀しい声で、山の歌を唄う男であった。
 1年で、1メートルか2メートル、ゆっくりと長い時間をかけて、天から地へと這い降りていく氷河の横でそういう話を耳にすると、不思議にそういう話も信じられてくるのであった。
 外へ出る。
 隊長がいた。
 ふたりきりである。
 よい機会だったので、僕はまえから考えていることを口にした。
 「雪崩が怖くありませんか」
 と、僕は訊いた。
 僕は、雪崩が、心の底から、怖かった。それを、正直に告白した。
 「それは、自分だって怖いですよ。でも、むかしから、玉は龍が守っていると決まってますからね」
 と、隊長は言った。
 「玉?」
 「頂上ですよ。その玉を獲るために、その玉を守っている龍と闘う覚悟はしてきましたから」
 龍というのは、つまり雪崩であるとか、その他の困難な状況のことである。
 隊長の言葉は、こういう現場で聞くと、なかなかかっこよく、そして頼もしく僕の耳に響いた。
 「来ますかね」
 と、雪崩について、僕は小声で訊いた。
 「来るでしょう、ただ、それがいつであるかがわからないだけですよ」
 さすがに、ヒマラヤの場数を踏んでいるだけあって、落ち着いた口調である。
 人間の生死、死生観について、山の男たちは、ちょっと独特のものがある。
 長く山をやっていると、誰もが、友人の何人かを山の事故でなくしており、ときには、その現場に自分がいるケースも少なくない。さらには、なお、そのとき死んだのが友人であるのは運命のようなものであって、それが自分であってもまったく不思議ではない時間を、彼らは持っているのである。
 よく、山での遭難事故にたいして、
 「山を甘く見た」
 と、簡単に書くマスコミがある。
 それは、少し違う。
 それは、そう簡単に言える問題ではない。甘さゆえの事故が起こって死ぬ場合もあるが、彼らの多くは、山のベテランたちである。ひとくちに甘さと言うが、どんな人間であれ、甘さ、弱さは、持っている。その弱さを、常にねじ伏せておけるように、人間は出来てはいないのだ。
 僕の知っている男たちは、山では、大変な努力家だ。死なないために、出来うるかぎりの努力をし、考えられるかぎりのことを考える。
 しかし、それでも、なお、運命としか言いようのない気まぐれで、ホロリと、甘さが出るのである。それが、人間であろう。
 うっかり、
 安全と思って、アンザイレンなしで行くときもあるのだ。
 本当に自分の生を安全に生きるのなら、山に行かなければいいのである。
 しかし、人は、ついつい、危険を承知で頂きを目指してしまうのである。
 山の事故というのは、つい、山を甘く見てしまう瞬間もあるという人間の弱さをも含めた、巨大な不可抗力のなかにおいて、多くは起こるものであろうと思う。
 隊長の言葉は、僕の胸に染みたのだった。



*


 食糧がいよいよなくなってきたとき、雪が止んだ朝があった。空は晴れてこそいないが、雪は止んでいる。
 その折、シェルパが3人、下の村に降りることになった。下の村から、肉と野菜を手に入れてくることになったのだ。
 雪崩の危険のなかで、シェルパ3人が、下の村へ降りていった。
 戻ってきたのは、3日後であった。
 降り続く雪のなかを、彼らは帰ってきた。
 解体された羊が1頭、じゃがいも、野菜を、彼らは下の村から2日かかって担ぎ上げてきたのだ。
 それをつくって食べた焼き肉の味は、今でも忘れられない。
 その後も、雪崩の爆風は、何度となくテントを襲った。そのたびに、僕は歯をきしませて、死を考えた。
 そういう瞬間に、自分の思考がかぎりなくシンプルになるのがわかった。
 書きかけの物語のこと、自分の畑のこと、連れ合いのこと、そんなものだけが脳裏に浮かぶ。それ以外のものなど、脳裏からなくなってしまう。
 ほんの一瞬にしろ、自分がなにをやるべき人間であるのか、なにを大切にするべき人間であるのか、そのときにわかる。
 悟りというほどのものではないが、清い、と、そう表現してもかまわない思考状態にあったろうと思う。
 僕は、結局、10日をそのベースキャンプで過ごし、アタックを続ける本体を残して、小降りなった雪のなかを、サマの村まで降りた。
 サマの村で、3日間、ヘリを待ちながら過ごし、ようやくカトマンドゥに帰ったときには、7キロほど体重が落ちていた。なにがあっても増減したことのなかった僕の体重が、このときばかりは7キロも減っていたのだった。
 初めての体験であった。
 10月26日に、日本に着く。
 9月28日に出発してから、およそ1ヶ月の旅であった。
 日本に帰った途端、僕は体重とともに半月で社会復帰し、清い瞬間を持ったはずの僕の精神は、忙殺される仕事のなかで、元に戻っていった。
 残っていたのは、凍傷になりかけていた、足の指先の痛みのみである。
 さて、残った本隊が帰ってきたのは、さらに1ヶ月半後であった。
 帰ってきた隊員と、集まって飲んだ。
 山男たちは、いずれも陽に灼けて真っ黒になっており、笑うと白い歯がよく目立った。
 心なしか、彼らは、山にいるときよりも控えめで、少しはにかみを知る心を持ち、ギラギラと身体中にみなぎっていた力が、どこかへ抜けてしまったようなかんじであった。
 遠征は、失敗であった。
 結局、登頂はならなかった。
 代わりに、鶴を見たという。
 6300メートル地点から、3羽の鶴が、マナスルの肩を越えていくのを写真に撮ったという。
 「その写真は?」
 僕は訊いた。
 カメラマンは、首を横に振った。
 第3キャンプのその場所で、事故に遭ったのだという。
 頂上直下からはじまった雪崩にやられたのだ。
 幸いに、ほとんどの隊員がテントの外に出ていたため、逃げて難を逃れたが、シェルパのひとりが死んだという。
 テントのなかで眠っていたため、テントごと雪崩に押し流されて、下のクレバスのなかに落ちたのだという。
 のちに、僕は、そのときの映像をビデオで見た。
 雪のなかで、シェルパたちが泣き叫んでいるのを撮った映像だ。
 彼らの啜り泣く声は、吹雪の音に混じって、悲痛に僕の胸を打った。
 遺体も、テントもなにもかも、クレバスに落ちたので、回収は出来なかったという。
 だから、マナスルのその場所に、シェルパの遺体と、鶴を撮ったフィルムとカメラは、まだ埋もれたままになっている。
 この後、そのフィルムとシェルパの遺体は、氷河とともに山の時間を生き、およそ2万年も経てば、氷河に押し流されて、下の村に出てくるだろう。



*


 僕を、ベースキャンプまで連れていってくれた遠征隊も、マナスル登頂を断念した。
 途中、雪崩に遭い、シェルパ1名が死んだ。
 体力的にはごくごく普通である僕のような人間が、一生のうちに、一度か二度、やっとあるかどうかという体験をさせてもらった。
 テントのなかで、来る日も来る日も、男同士が顔を併せ、エロ話やら真面目な話やらをした。アフリカの砂漠をジープで走っていた男がいて、ボルネオのジャングルでオウムを食っていた男もいる。アフガンの地雷地帯をカメラを抱えて走ったことのある男がいた。
 僕は、ただ物語を紡ぐしか能のない人間であった。
 ひとりではなにも出来ないに等しい人間だ。
 彼らはそうではない。
 それが悔しかった。
 本当は、オレは、彼らのようになりたかったのではないか。
 そんなことを考えながら、雪崩が上のほうではじまり、ゆっくりと下に落ちてくる低い轟を耳にしながら、ナイフを握りしめ、僕は寝袋のなかで身体を強張らせていたのだった。
 そんな夜を、いくつか過ごしたのだった。
 そのとき、僕は、ある書きかけの物語のことや、連れ合いのことなどを考えていた。
 オレは、しかし、やっぱり、モノを書いていく人間なのだな。
 そう、思った。
 しかし、こういう旅を、オレはやっておいてよかった。
 イヤ、しなければならない人間だった、オレは。
 それをやらなくなったら、オレという存在すらなくなってしまうとさえ、思った。
 そのことを、この僕は、いつの間にか忘れてしまっていたのだった。
 いや、物語を書くことで、安心してしまっていたのだった。
 物語を書くということは、山に登ることであり、ある物語を書きたいという衝動は、ある山に登りたいという衝動と、おなじ根っこから出てきたものであることに、僕は、不意に気がついたのだった。
 女を好きになることも、女を抱きたいと思うことも、みんな山だった。
 そこで僕はひどく安心したのだった。
 みんな山なら、ひたすら物語にのめり込んでみようかと思ったのだ。
 それはそれで正しい。
 少なくとも、その時期は正しかったし、今だって正しい。
 しかし、それでも、僕は、地平線の向こうや、かつて見た峠の向こうのやけに青い空や、そこに浮かんでいた白い雲を思い出しては、遥々としたものを胸に抱き続けてきたのである。
 恥ずかしいことだが、僕は、いつも、もっと違う自分になりたいと考えていたように思う。
 今もそうだ。
 もっと強くなりたい。
 此所ではなく、べつの場所へ行きたい。
 ひとつの物語が終われば、べつの物語を書きたい。
 これは、旅への憧れとおなじものだ。
 ひとりの女を欲しいと思う気持ちや、あの山の尾根を歩いて向こうへ行きたいと思う気持ちと、おなじものだ。そういうことのあれやこれやを、ただひとつ、物語をぶっ書くという、そこへ向けていきたかったのだ。



*


 ベースキャンプのテントのなかで、僕は一冊の本を読んでいた。
 僕はこの鶴を見るたびに、『チャイと惰眠、瓦礫のなかのゴールデンリング』という、自分の旅の総括を試みた、かつての物語を、持ってきていた。
 もう一冊持ってきていた『今昔物語』はすでに読み終わっていて、僕は自分のかつての物語を、ザックから取り出して読んでいたのである。
 夜。
 テントのなかで、寝袋に潜り込んで、ヘッドランプの灯りで読んでいた。
 遠くからは、さらさらと、雪の触れる音が聞こえてくる。
 バンコクでのこと、カルカッタでのこと、イスタンブールでのこと、シナイ半島でのこと、そしてリマでのことが書かれている。
 この物語を書いたときのことは、よく覚えている。
 22歳のときに、覚悟を決めて書いた物語である。
 友人の多くは、すでに、モノを書くことから足を洗っていた。僕は、やっと旅を終えたか終えないかの頃だった。結婚はしたのだけれど、たちまち明日の食べるものにも困るような状況だった。
 そのときの状況なりに、腹を据えたのだ。いつかではなく、今、本気にならねば、と、髪を振り乱すようにして書いた物語だ。
 稚拙な情熱。
 力やエネルギーをコントロールする術など、まったくわからないままに、肩にありったけの力を込めて書いたはずだ。
 読んでいるうちに、当時の記憶が甦ってきた。
 どのように歯軋りしながら、その物語を書いていたのか。
 どんな光景にいて、どんな風を受けて、どのような本を読み、どのような山に登ろうとしていたのか。
 なにを考え、なにに悩み、なにを望んでいたのか。
 涙が出た。
 僕は思った。
 運命のようなものを、感じていた。
 おまえは書くべき人間であると、運命にそう宣告されたのだと。
 それは、錯覚であるかもしれない。
 しかし、僕は宣告されたような、言い知れないざわめきを胸の裡に感じていた。
 書け、と。
 早く山を降りて、そこで書くべきであると。
 ああ、なんということか。
 オレは、そうして、長かった旅を終えたのだった。
 ヒマラヤの、その場所で終わったのだった。

漂泊論 レフトバンク トーチソング 此所ではない何処か オウムのことなど