*


 人は、何故、遠くへ行こうとするのだろうか。
 人は、何故、此所ではない向こう、水平線や地平線の向こうの、未だ見ぬ彼方へ、遥々とした視線を向けるのだろうか。
 人、というより、僕の裡には、抜きがたい、そういう彼方への憧れがある。
 旅、と、そう呼んでもいい。
 漂泊、と、そう呼んでもいい。
 読み残した物語、あるいは書き残した物語、そういう物語の続きや結末へ馳せる思いと、そういうものへ憧れる気持ちとは、どこか共通するものがあるようである。
 何処か判らない無辺彼方に、物語の結末は預けられている。
 その結果、物語の続きを探しにいこうとする行為が、ひとつには僕にとっての旅であるような気がする。書き終えない、あるいは読み終えないその続き、結末が存在するかもしれない彼方へ向かって、その距離を埋めていく。それが、旅なのではないか。
 旅でもいい、漂泊でもいい。そういうものへ、なにが人を駆り立てていくのだろうか。
 旅には、不思議な力学がある。
 たとえば、哀しみの深さ、喪失したものの大きさに合わせて、人は、遠い距離を動いていくもののようである。旅の力学のなかには、間違いなく、そういうものがあるように、僕には思われる。
 僕自身で言えば、若い頃から、喪失のたびごとに、遠い距離を動いてきたように思う。
 たとえば、ひとりの女が、自分の傍からいなくなるたびに、じたばたし抜いて、自分自身にイベントを課してきたのではないか。そのイベントが、実際の旅であったり、あるいは、あるひとつの物語を書き上げるという旅であったりしたのではないか。
 行き場のない身体内の力を持て余して、それこそ、歯を軋らせながら、ただ歩き続ける。そういう山を何度かやった。
 新しい物語を書くことも、未だ行ったことのない山に登るのも、僕にとっては、同様の力学の裡の行為であったような気がする。
 そして、そういう力学は、今もって、僕の行動パターンを、何処か、根の深いところで支配しているようである。
 かつて、21歳の折りに、僕はヒマラヤに出かけたことがあった。
 小説を書いていこうという覚悟が、ようやく出来たか出来ないかの頃だ。
 自分が何者であるのか、自分にはなにが出来るのか、なにも判らない頃だ。自分が、なにをやりたがっているのか、そういうことすらも、判っていなかったに違いない。判った気になった夜が明けたとき、朝の光に照らしてみて、じつはなにも判っていない自分に気がついて背中に冷や汗を掻く、そんなことを繰り返してきたはずだ。
 自分は、小説を書いていくべき人間ではないかという気負いや不安に、苛まれている頃だ。なにも判らない代わりに、未来の量だけはほとんど無限にあるかのように思い込んでいた。
 やりたいことの、一番上の席は常に空白で、とりあえず、二番目をやっている。ヒマラヤへ行っても、小説を書いていても、いつも自分は今その二番目をやっているのだという意識が抜け切れなかったような気がする。一番目の座は、常に、空白のまま、なにものかのためにとっておく。
 今も、そういう意識が少し残っている。
 なんだ、これは少しも進歩していないということではないか。
 なんだか、これは、どうも、相当に恥ずかしいことを書いているような気がする。
 まあよろしい。
 一度くらいは、そういう恥ずかしいことをきちんと正面から書いておく必要はある。
 二十一歳のときにヒマラヤに向かった自分も、三十歳が具体的に見えてきた現在の自分も、じたばたし、混沌としている。
 世界も、また、しかり。
 その混沌を、混沌のまま、ゴッホの表現を借りれば、《掘り出したばかりの土のついた馬鈴薯色》のまま、それを書いてみたいと思っている。
 自分は何者であるのか。
 古代神話の英雄譚がそうであるように、旅というのは、自分自身を探すための果てのない彷徨であると、大体が、そういうことになっている。
 自分の苔の一念でやってきた物語を書くことや、ささやかな旅を、そういう神話の英雄譚に準えるつもりはないが、いくらかは、そういう要素を、旅というものは含んでいるはずだと思う。



*


 僕は、長い間、考えてきた。
 旅についてだ。
 そして、自分は、旅に生き、旅に果てる人間であると、漠然と信じていた。
 20歳の前半、僕は、ザックを担いで山を歩いた。ザックを担いで、ネパールやヒマラヤの山麓をうろついたりした。カトマンドゥの街には、世界中をうろつきまわったりした挙げ句に、そこに集まってきたヒッピーたちがたむろし、動物やニワトリまでが、人と同じようにその街でうろうろとしていた。
 見上げれば、雪のヒマラヤが見える。
 街の中は、人の汗や動物の糞や血の匂いでいっぱいだった。原色の仏教であるラマ教の寺院があり、ヒンドゥの寺がある。そういう寺院の壁からは三つの眼が不気味に僕を睨んでいたりした。カトマンドゥは、渾然とした、仏教とヒンドゥ教と、生きものの街であった。街の隅にあるシヴァ神のリンガ(おちんちんのかたちをした石柱のことなのだよ)には、真っ赤な山羊の血と、無数の花びらがふりかけられ……。
 本当に、カトマンドゥは不思議な街であった。
 帰らなくてもいい……。
 ザックを担いで旅に出るときには、いつも、そういう想いを、刃物のように胸に秘めていたように思う。
 ところが、いつの間にか、僕は、そういう旅をしなくなった。
 僕は、畑を耕しはじめた。結婚をし、連れ合いを持った。結婚したことと畑を持ったことにはほとんど時間差がなかったのだが、そのことに因果があることに気づいて、僕はしばし愉快になった。どちらも、根を張ることで、同じだったのだ。生きていく土地、生きていく生業、生きていく人の心に、僕は根を張ったのだった。僕は、土着したのだった。そこで物語を紡ごうと思っていた。畑を耕し、作物を育てることは、物語そのものだった。あるいは、連れ合いの心の奥底を覗いてみること、自身の澱を垣間見せることは、物語そのものだった。
 それ以降、僕の旅は、帰ってくることを前提とした旅になった。いつの間にか、連れ合いだとか仕事だとかいう荷を、僕は担ぐことになっていた。その荷があるための、どうしようもない不自由さはあるにしても、しかし肩にかかってくるその重さは、不思議なことに、軽やかだった。
 帰ってくるための旅。それはそれで、男としての微妙な哀しみもある代わりに、妙な満足感もまたあったのである。
 出発点へ帰ってくる旅。山や河や海を越えた挙げ句に辿り着く場所は、結局、自分のいる場所である。自分へ帰ってくるための旅だ。
 いつの間にか、そういう旅をするようになった理由は、もうひとつ、あった。
 物語を書くようになったからである。
 山登りや、旅や、釣りや、そういうことのために使っていた時間に、物語を書く、畑を耕す、ということが割り込んできた。会えないでいる女のことを考えたり、金がないためにバイトをしていたりした時間を使って、僕は物語を書き、畑を耕すようになったのである。
 望むところであった。
 山や、女のためには死ねないが、物語を書くことによって、自身の身体が蝕まれていき、結果としてそれで死ぬようなことになるのなら、それはそれで構わないとさえ思った。
 「ぶっ壊れるまで物語を書く」
 それが、単純な僕の望みだった。
 その頃、僕は、ひとつの発見をした。
 それは、
 「山に登ることも畑を耕すことも、あるいは連れ合いを持つことも、それは物語を書くことと同じではないか」
 という発見である。
 その発見によって、僕は、ひどく安心した。
 書くことで、山に登ろうと思った。その傍らに、連れ合いがいて、畑があるのなら、これは最高ではないかと思った。
 此所ではない、向こうに行くことが旅であるなら、その旅を、物語を書くことですることが出来るのだ。
 それは、物語を書くことで、ひとりの求道者たろうとする決意だった。
 ひとつの物語を書き綴ることが、ひとつの旅であった。その旅を終えれば、また次の旅に出る。
 前の物語で辿り着いた場所から、また、べつの場所へと書き続けること。次の物語を書き続けること。永久に書き続けること。
 それが、僕の旅になった。
 ただ、書き続けることでなく、書くことによって、次の場所、次の物語へ辿り着くこと、それを繰り返し続けていくことが、僕の望みとなった。



*


 物語におけるファンタジーを支えるのは、リアリズムである。これは、無論、物語/フィクションとしてのリアリズムである。
 プロレスもそうだ。
 プロレスにおける感動/ファンタジーを支えるのは、リアリズムでなければならない。鍛え抜かれたリアルな技と肉体が、プロレスの感動/ファンタジーの核にならなければならないのだ。
 単純な、人の肉体というこれ以上ないリアルなものが、リングの上に良質の感動/ファンタジーを生むのである。
 小説だって、同じなのだ。
 リアリズムを追求し抜いた果てに、感動が生まれることを、15年以上も前に、僕は猪木の試合から教えられたのだった。
 その猪木が、リアルな肉体を失って久しい。肉体の衰えとともに、猪木は、感動/ファンタジーをつくるべきリアルな言葉を失ってしまった。
 そのときに、僕は、
 プロレスこそが世界一の格闘技
 というものが、ひとつの幻想/ファンタジーであったことに気づいたのである。
 世界最強
 という幻想/ファンタジーは、明らかに、猪木の肉体のリアリズムによって支えられていたのだ。猪木という天才の肉体、その肉体の放つオーラ、そういうものによって、猪木はひとつの幻想/ファンタジーをこの地上に繋ぎ止めていたのである。
 この地上で誰が一番強いのか?
 それは、現実に答えの出しようのない問いである。
 それは、永久に証明されることのない問いなのだ。
 しかし、それでもなお、僕たちは問うてしまう。
 この地上で一番強い男は誰なのか、と。
 猪木は、それに、答えを出そうとしたのだ。
 それは、小説でいうなら、ひとつの虚構/ファンタジーである。しかし、その虚構を信じ込ませるだけのパワーとエネルギーを、猪木という肉体/文体は、有していたのである。
 15年間、プロレスを見続けることによって、猪木を見続けることによって、結局、僕が辿り着いたのは、自分の小説における方法論であった。
 世界最強
 を、ひとつの心理と置き換えるなら、その心理は、現実の世界には存在し得ないものである。
 確認のしようがない。
 しかし、虚構、つまり、小説という物語の世界でなら、それを表現出来るかもしれないのだ。
 僕は、プロレスを見続けた挙げ句に、なにを語るにしろ、自分という人間は、それを物語という虚構によって語る人間であり、虚構という方法論に拠ることのみが、自分に出来ることだと気づいたのだった。
 それを、さらに突き詰めると、結局のところ、表現というものに辿り着く。
 すべては、表現なのだ。この宇宙すらも、その意味では、一種の表現である。
 まあ、宇宙については、またあとで語る。
 猪木のことであった。
 1989年、平成元年4月24日のその晩、猪木は、東京ドームで、チョチョシビリというソビエトの柔道選手と、異種格闘技戦を行ったのである。
 この試合がよかった。
 最高の試合であった。
 46歳という年齢、リアルな猪木の肉体が、そのリングにはあった。
 じつに、数年ぶりで、猪木の試合に、僕は、感動/ファンタジーを感じたのである。
 結果は、猪木の負けであった。負けであっても、しかし、そこには紛れもなく、僕が見たかった猪木の姿があった。
 プロレス界の隠語に、ケーフェイという言葉がある。
 初代タイガーマスクとして知られた佐山聡の著書によると、それは、
 「フェイク(fake)という言葉を裏返しにしたもの」
 であるという。
 その晩の猪木の試合は、ケーフェイを超えていた。
 ケーフェイがあったのかなかったのか、もはやそういうことを超えて、迫ってくるものがあった。
 この夜の猪木は、最高だった。
 勝者である猪木でこそなかったが、それこそが、僕がリングで見たかった猪木なのである。



*


 それにしても、猪木が、モハメド・アリと闘ったのはいつだったろうか。
 1976年。昭和51年6月26日。
 猪木が33歳のときである。
 現在、アリは現役をとっくに退き、猪木はまだリングにいる。
 32歳の猪木の肉体が為したことを、50歳を超えた現在の猪木の肉体が為せるはずもなく、また、為す必要もない。50歳なら50歳の肉体のリアリズムがあるはずである。
 物書きも同じだ。
 10代後半や、20代の初めに書いたリリカルな物語は、もう、すでに僕には書けなくなっている。
 『チャイと惰眠、瓦礫の中のゴールデンリング』という、今となっては懐かしい話を、僕はもう書けない。それは、10代最後期だからこそ書けたものなのだ。もし、今、同様の物語を僕が書こうとするなら、それは、虚構ではない。嘘の話になってしまう。同じ、リリカルな話を書くにしても、今、29歳になってしまった僕には、その29歳なりのやり方がある。やり方など意識せずとも、自然な力でやれば、自然にそういうやり方になってくるはずだ。
 人は、物書きにかぎらず、その年齢に応じた生き方、表現を自然にしていくのである。つまり、ある年齢においてしか書けないようなテーマ、表現があるのだ。
 たとえば、猪木が望んで出来なかった試合がいくつかある。対ジャイアント馬場戦がそうであり、脂の乗り切った時期のD・ファンク・ジュニアとの試合がそうである。
 しかし、今となってしまっては、たとえそういう試合がこれからあり得たとしても、それは僕の望んだ30代の猪木の肉体が表現する試合では、あり得ない。
 望みながら闘われることのなかった試合がレスラーにあるように、物書きにも書こうとして書かれることのなかった物語があるはずだ。僕にも、そういう、書かれることのなかった物語がいくつかある。今の年齢になってしまっては、どうしても書けない種類の話は、あるのである。
 しかし、胸の裡に秘めた、書かれることのなかった物語もまた、僕の年齢とともに、書かれないままに胸の中で成長していくものらしい。
 だから、あるとき、20年30年という年月を経て、不意に、そういう物語を書き出すことがあるのかもしれない。しかし、それは、20代の物書きが書いたであろうものとは、自ずと違ったものになる。
 もっと言ってしまえば、人は、その年齢や器量に応じた物語しか生み出せないのである。
 僕の最大の不安は、今、書いている物語が自然に要求してくるレベルが、僕という物書きのレベルを上まわってしまったらどうしたらいいのか、ということである。
 物語が、その生み手である作者を見放してしまうことだってあるのだ。
 そのために、なにが必要なのかは、わかっている。
 自分自身のレベルをあげることだ。具体的に言うならば、智のパワーを身につけることだ。もっと具体的に言うなら、勉強が必要なのだ。僕は情念のエネルギーなら持ち合わせがあるが、今の僕に必要なのは、智のエネルギーである。たとえば、お前は最新の宇宙理論を、数式ではなく言葉で言い表すことが出来るのか?
 出来るはずだと思う。
 可能なはずだ。
 それは、宗教であろうが物理学であろうが、言葉による小説的なやり方であろうが、方法論こそ違え、どれもみな宇宙に対する表現であるからである。
 僕がやろうとしている小説もまた、そうだ。僕は、天についての物語を書きたいのである。
 宗教は宇宙への恋であると言った人がいた。これは、恋なのだ。
 ああ、話が取り留めない。



*


 天について、語るべきである。
 天について、物語らねばならない。
 あなたと僕は違う人間である。僕はあなたではなく、あなたは僕ではない。
 あなたと僕だけではなく、人と人とはそれぞれに違う人間である。違うものの見方をし、違うものの考え方をする。どちらが正しい、どちらが正しくない、どちらが間違ってる。僕が語りたいのは、そういうことではない。僕とあなたが確実に違うとしても、そのどちらもが正統であるべき言葉で、語りたいのである。
 天について、正しい言葉で語りたいのだ。
 たとえば、それは、そこに転がっている、なんの変哲もない石が正しいと言い切ることである。
 その石は正しい。
 その木は正しい。
 その花は正しい。
 その水は正しい。
 石も木も花も水も、その存在は、宇宙にとって等分である。
 その石よりもその木が正しいとか、その花よりもその木は正しくないとか、そういう言葉は、宇宙にはない。
 ひとつの石について正しいと言い切ることは、宇宙を肯定することである。
 たとえば、あなたの足許に転がっているひとつの石がある。その石が正しいと言い切ることが出来るような、それと等質の重さを持った物語を書きたいのである。
 天について語るというのは、そういうことである。



*


 天山に行こうとしていたのだった。
 天山は、タクラマカン砂漠の北にある、日本列島と同じ長さを持った山脈である。
 地球の骨だ。
 それが、砂漠から天に向かって盛り上がり、宇宙に向かって剥き出しになっている。
 そこを、越えていこうと企てていたのだった。
 香港で、4人の男が集まり、天山を歩こうと企てたのだ。山男がそのうちに2人いたことが、決断する際のもっとも大きな要因であった。
 ひとりの男の足跡を追うためである。
 玄奬という名のひとりの僧が辿った道を、そのまま辿る旅である。
 玄奬三蔵。『西遊記』においては、三蔵法師の名で知られている人物である。
 この玄奬が、唐の都長安から、遥々、天竺(インド)までの旅に出たのは、今から1360年前のことである。仏教の経典を取りにいくための旅である。
 その全行程は3万キロ以上に及び、出発したのが629年、帰唐したのが645年、足掛け17年にも及ぶ旅であった。
 その玄奬の旅を、この僕もやってみようと考えたのだった。
 長安(現在の西安)から蘭州、酒泉、敦煌、河西回廊を西へ突き抜け、吐魯蕃(トルファン)、烏魯木斉(ウルムチ)まで足を伸ばした。それから天山を越える。烏魯木斉からアクスまで行き、アクスから天山の山の中へ入った。最初はジープであった。途中からは馬になった。馬で、氷河から流れ出た濁流を渡り、さらに徒歩になった。
 ザイルやハーケンを使い、岩壁を攀じ登り、それをトラヴァースして、いよいよ玄奬の越えた氷河へ辿り着こうという手前で、事故があって、僕たちはその地点から引き返したのだった。
 濁流で、ひとりが死にそうになったのだ。
 そのとき、僕たちは冷たい濁流を渡ろうとしていたのだった。
 氷河が溶けて流れてくるその河は、昼になってくると、見る間に水量を増していく。恐ろしく冷たい水だ。落ちれば、その冷たさでは5分も生きてはいられない。日本人も、漢人も、ウイグル人も、同じだ。同じように、死ぬ。
 この、とてつもないリアリズム。自然のなかでの平等。
 玄奬という男の凄さは、そのリアリズムのただなかにあって、常にその心の裡に、西天取経というファンタジーを抱き続けていたことにある。
 胸が熱くなる。
 その水を渡っていく途中で、仲間のひとりが動けなくなってしまったのだ。河の向こう岸とこちら岸に固定してあるザイルに、カラビナでザックを繋ぎ、それを別のザイルに引き寄せようとしていたとき、河の中ほどで、ザックについていたピッケルが岩に引っかかり、ザックが動かなくなってしまったのである。
 そのザックを取りにいくために、仲間のひとりが、河に渡したザイルに、カラビナで自分の身体を繋いで、河に飛び込んだのだ。
 ザイルは、河の中心で、V字形になった。V字の尖った部分が下流方向であり、その尖った場所の頂点で、河に飛び込んだ仲間は、水の勢いに押され、動けなくなってしまったのである。
 仲間の身体は、水中に潜って見えなくなった。仲間の身体にぶつかっている水が、音を立てて宙に跳ね上がる。
 「ばか!」
 どうして飛び込んだのか。
 大声で叫んだが、仲間には声は届かない。
 ザイルを引こうとしても、動かない。
 もともと、濁流の騒音で、向こう岸の2人の仲間と、こちらの2人の声のやり取りが出来ず、それで、向こう岸の仲間のひとりが、止めようにも止められない状況で飛び込んでしまったのである。
 完全に、死ぬと思った。
 自分の眼のまえで、人が死んでいこうとしているというのに、手の下しようがない。冷たい水のために僕が用意したドライスーツは、水のなかにいるその仲間が着ているのである。
 「ナイフ!」
 僕は叫んだ。ナイフでザイルを切れば、仲間は濁流に押し流されはするが、助かるかもしれないのだ。
 しかし、同行の仲間の山男は、ザイルを切ることを嫌がった。山をやっている彼にとっては、ザイルを切ることは、仲間を見殺しにしてしまうことと同じことである。
 「ザイルを切らなければ……」
 「それはダメだ」
 と、やり取りをしている最中、不意に、水中で動けなかった仲間の身体がザイルから離れ、下流に押し流された。
 下流に流され、下流の河岸にしがみついた。その河岸から彼は這い上がってきた。
 彼は、水中で何度も失敗しながら、信じられない体力でカラビナを外し、自力で脱出したのである。日体大の学生であり、体力だけは常人以上にある彼だからこそ、あの、轟々たる濁流のなかでその作業が出来た。
 助かった。
 そう思ったとき、危うく、僕はそこに腰を落として、へたり込みそうになった。
 しかし、僕がそのときにいたのは、中州である。
 水かさはさらに増えて、中州自体が、すでに消滅しつつあった。
 ガクガクしそうになる膝を伸ばして、本当の向こう岸へ渡らねば、僕たち2人も危ない。
 向こう岸に渡り終えたときには、身体が小刻みに震えていた。
 もとの岸に残っている仲間2人と、こちらの岸と、4人の仲間が、2人ずつに別れてしまった。
 そこでピヴァークした。
 夜に大雨が降ったら、逃れることの出来ない河原だ。
 テントもない。
 食糧のほとんどがない。
 死を思った。
 萎えそうになる気力を奮い起こす。
 なんとか、石を積んで、人が横になって風を除けられるだけのものをつくり、そこで、一夜を明かすことにした。
 不思議なことに、自分の身体を囲む石積みが出来ると、ようやくほっとして笑いながら話をする余裕も出てきた。
 夜、雨雲のあいだに星空が覗いた。
 そこに、いくつかの流れ星が走るのを見た。
 ほとんど眠れずに、僕は一晩中、雲が動いていくのを眺め、その割れ目に覗く宇宙と対面し続けた。
 翌朝、水量の少ないうちに河を渡り、仲間と合流したときには、旅を続けようという気力が萎えていた。気力がもしあったとしても、すでに、山の道具も食糧もない。一刻も早くベースキャンプである村に帰るしかない状況であった。
 仲間は助かったが、ザックが流され、大量の食糧、テント、コッヘル、寝袋が流され、荒野のような岩山のただなかでピヴァークし、その夏の旅を、僕たちは断念したのだった。
 やるだけのことはやった。
 そういう満足感はあった。
 2日をかけて、村に辿り着いた。
 村では、同じ時期に来ていた登山隊が、やはり崖下に馬を落とし、食糧やテントやらを失って断念して戻ってきたところだった。また、別の登山隊を編成していたウイグル人は、馬で河を渡る途中で、馬ごと流されて死んだ。
 それは、紛れもなく、玄奬の旅だった。
 玄奬が馬で行った場所を馬で行き、歩いた道を僕もこの足で踏んだのだ。
 その天山越えで、
 「10人のうち3人から4人は死んだ」
 と、玄奬が記している旅であった。
 生還したとき、わけもなく涙が出た。
 はっきりとわかっているが、悔しかったからではない。
 憑きものが落ちたのだ。
 最初の天山越えは、そのようにして断念した。
 僕は、未だ旅の途中であった。再び、僕は静かに旅を続けた。



*


 何故、天竺であったのか。
 何故、玄奬の旅を、僕もまたはじめることになったのか。
 そもそもは、子供の頃からの夢であった。
 子供の頃に読んだ『西遊記』の物語が、おそらくはこの旅の出発点にあたるのだろうと思う。『西遊記』もまた、此所から何処かへ行く物語である。それも、古代中国の破天荒な旅の物語である。奇書だ。異様な混沌/カオスと、秩序/コスモスを有した物語である。僕という書き手に、もし、原点というものがあるとすれば、それが、この『西遊記』なのではないか。
 僕のなかにある、仏教志向、中国、インド、西域、ヒマラヤ、仙人、ヒンドゥの神々、彼岸、輪廻、宮沢賢治、山、そういうものへの執着の根が、この『西遊記』のなかにあるのではないか。
 常に、地平線の向こうへと視線を放ち続けること。
 それは、光と重力をひとつの理論のなかへ捉えようとして果たせなかったアルバート・アインシュタインが、宇宙に向けたはずの視線と同じものだ。胸が痛くなるような、呼吸が苦しくなるような、そういう視線を、ほとんどの男は、意識の何処かに捨てずに隠し持っている。
 僕の場合、それが、天竺であったのである。
 ずっと、僕は、物語と心中するつもりでいた。
 僕は、自分が山では死ねない人間であることに、そのとき、すでに気づいていた。
 山は好きだが、死ぬ覚悟で山には登れない。イデオロギーや、政治に命を賭けるつもりもない。
 しかし、物語となら、
 もし、小説を書くことで、病気になり、自分の肉体が蝕まれていくのなら、その結果が死であっても構わないと、その頃、僕は考えていた。自分がそういう人間であることに気がついたのは、ヒマラヤの、マナスル山中の雪のなかであった。10日以上も降り続いた雪のなかに閉じ込められ、夜毎、いつやって来るかもしれない雪崩の恐怖に怯えながら、テントのなかで、そのことに僕は気がついた。寝袋のなかで、脱出用のナイフを握りしめながら、歯を噛みながら、眼を尖らせていたそのときに、自分は、山とではなく、物語と心中すべき人間であることに気がついたのだった。
 そのマナスルに出かけたのも、似たような動機からであった。原稿でなにもかもが埋まっていく日々に飽きて、ヒマラヤに行き、そのときも、結局は、自分が書くべき人間であることを発見して帰ってきたのだった。
 しかし、そういうことに不思議な満足感を、僕は味わっていた。
 たちまち、腹に肉がついた。
 書くと胃が痛くなり、胃が痛くなると食べるからである。
 見る見るうちに体力が失われていく。
 しかし、男は、やっぱりダメなんだな。
 誰もが、胸にひとつの刃を忍ばせている。
 連れ合いを捨て、仕事を捨て、家庭や地位を捨てて、ただの風となって何処かへ吹かれていくこと。そういう旅への欲望が、刃物のように、どんな男の胸の裡にも、ほとんど一生抜かれることなく、眠っているのではないか。
 僕は、そういう刃物を持っている。
 しかし、それはもはや一生抜かれることはないだろうと、自分はこれから先、そういう刃物を抜かないだろうと、そういうふうに、僕は自分のことを考えていた。
 しかし、
 なお、奇妙な不満が僕の内部で燻っていた。 僕は、書き続けていた。
 情けないほど、書くことに対してスケベな人間に出来上がってしまっている。
 だから、書く。
 とにかく、書く。
 体力だけが失われていく。
 久しぶりに山へ出かけて、僕は愕然となった。昔は休まずに登り切ったなんでもない峠の道を、喘ぎながら登った。
 ここまで自分の体力が落ちたのかと思った。
 しかし、なお、書くことを、僕は選んだ。
 抜きがたい放浪への憧れを殺しながら、書くことの旅をしようとしたのである。
 しかし、書くことの旅も、思いのままになるものではなかった。
 たとえば、ものを喰べるシーンがあるとする。これまで、何百回となく書いてきたシーンだ。ものを喰べるシーンを書くそのパターンを、ひとりの書き手がいくつ持てるのだろうか。仮に、僕がものを喰べるシーンを100持っていたとする。しかし、その100回分のパターンは、たちまちのうちに使い果たしてしまう。101回目をどうするか。
 たとえば、物語を書いている最中に、喰べる場面になるたびに、僕が直面したのはそういう問題であった。これまでの、100回のパターンのなかからその喰べかたを選ぶのなら、簡単である。しかし、真摯に表現というものに向き合うなら、その都度、その101回目の新しい表現を生み出さねばならない。それが、僕が選んだ書くことの旅の意味である。これまでの100のパターンのなかから選ぶのであれば、それは旅ではなくなる。その場所に留まることになるからだ。
 役者でいうならば、泣く演技を100パターン持っている役者が、ある映画で101回目の泣く演技を要求されるのに似ている。自分の持っているパターンのなかで、安住したら、それでお終いである。そのパターンが100あろうと1000あろうと、同じである。
 常に、次の新しい表現を考え続けねばならない。
 前のパターンを使うのなら、そのまま一気に書き続けられるところを、新しいパターンでやるとなると、1時間2時間は、その数行のためにすぐにかかってしまう。その2時間に、どれだけの枚数が稼げるかを思うと、従来の手持ちの表現を使うという誘惑には抗し難いものがある。
 その誘惑に、あるときは勝ち、あるときは負ける。白状すれば、負けるときも多かった。
 その都度、あらゆるシーンに新しい表現を発見していくことなど出来ない。出来るわけがない。しかし、そう思ってしまったら、そこで旅は終わりである。自分は、旅を選んだ書き手であった。
 だから、であるからこその、天竺であったのである。
 玄奬を衝き動かしていたエネルギーは、智への飢え、胸の痛くなるような智への渇望であったはずである。
 唐にあった教典のすべてを、玄奬は読破した。教典を読めば読むほど、疑問は玄奬の胸に湧き上がってきたことだろう。この教の考えかたは、どうなのか。この教のこの文章をどう解釈したらいいのだろうか。次から次へと、飢えた獣のように教典を読み漁った挙げ句に、玄奬が気づいたのは、もう、この長安には、自分の疑問に答えてくれる教典、人間はいないという結論であった。
 唐で手に入れた教典は、完全本ではなく、欠落している部分がある。また、訳が不正確である。さらには、未だ訳されていない万巻の教典がある。
 どうすればいいのか?
 天竺へ行くしかない。
 それが玄奬の結論であった。
 天竺になら、教典が揃っている。その教典を、天竺の言語で読む。仏教の開祖であるゴータマ・シッダルダの生まれた土地、カビラバスドゥに行く。その発想を得たとき、玄奬の身体は、興奮のため、激しく震えたはずだ。
 飢えた獣のように、玄奬は、国禁を犯して長安を飛び出し、17年、30000キロに及ぶ天竺への旅に出かけていくのである。
 その旅もさることながら、玄奬の真の偉大さは、長安に帰ってきてからにある。自ら持ち帰った膨大な量の仏典を、残りの一生をかけて、中国語に翻訳していくのである。その翻訳のため、まったく新しい漢字すらも、玄奬はつくった。
 日本に渡ってきている仏典のほとんどは、この、玄奬訳のものである。
 玄奬の旅のことであった。
 結局、僕が玄奬の旅に出ることになったのは、危機感からであった。
 書くことの旅は、思うにまかせず、わずかしか進まない。そのあいだに肉体は衰え、醜くなる。
 ザックひとつを背にして、言葉もわからない国をたったひとりでウロウロすることなど、出来ない人間になってしまうのではないか。
 もう一度、自分をたったひとりの旅に放り出さなくてはならなかった。
 『国際花と緑の博覧会』という平和ボケしたイベントに10ヶ月間忙殺されるなかで、僕はそんなことを考えていた。
 今、行くべきであった。
 その頃、若い僕の友人の何人かは、そういう旅に出ていた。ひとりでザックを背にして、異国に出かけていく友人を見ては、僕は切なく胸を焦がしていたのである。
 僕もまた、行かねばならない。
 言葉もわからない異国で、切符を買うことだけのためにおろおろとし、目的地に辿り着くという、それだけのことのためにじたばたする旅に、僕はもう一度、自分を放り出さなければならなかった。自分が、未だ、そういうことが出来る人間であると、僕が自分に証明しなければならなかった。
 だから、長安であった。
 1000年以上も昔、空海が、遥々日本から辿り着いた長安へ、また、玄奬が天竺へ向かって出発した長安へ、僕は、ザックを担ぎ、ひとりで日本から出かけることになった。
 それが、僕の玄奬の旅であった。
 しかし、その旅は、中国で起きたひとつの事件によって、僕は断念することになったのである。



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 6月1日、あるグラビアの撮影を兼ねて、鮎解禁の長良川に出かけたときは、未だ、長安への旅に出かけられることを、僕は信じていた。
 学生たちは、天安門広場に集まっていたが、とりあえずのところ、その民主化運動は非常にいい雰囲気で進んでいるように、僕には見えた。
 ついに、中国もここまで来たのかとの感慨はあったのだが、まさか、軍隊が、自国の人民や学生に向かって発砲するようなことになろうとは、僕は考えていなかった。
 基本的に、なにもかもが順調に進んでいるように、僕には見えた。
 5月31日の晩。
 僕らは、いそいそと岐阜に集合した。
 岐阜で、イヤ、この地球上で一番美味いあんぱんを売っている『守屋』という店に、画家の佐藤英明さんを案内し、あんぱんを4つ買った。
 ずっしりとしたあんぱんである。甘みを抑えたあんこがぎっしりと詰まっているのである。パンの部分は、そのあんこを入れるための袋のようなものだ。
 そのあんぱんを手にした途端に、おお、と、佐藤さんが感動の声を上げる。あんぱんが重いからである。重くて未だ温かいからである。なにしろ、そこでつくってそこで売っているからつくりたてなのである。
 長良川の河原に行き、テントを張る。
 食事の用意をし、河原で食べる。
 温泉に行こうという話が盛り上がり、食事のあとに、なんと『天山野天風呂』というところへ出かけ、風呂に入り、再び河原に戻った。
 鮎釣りには、間違いなく禁断症状というものがある。
 鮎釣りの解禁というのは、河によって違うが、長良川の場合は、6月1日から10月14日までの、およそ4ヶ月半である。12月に、落ち鮎釣りの解禁があるから、その1ヶ月をプラスしたとしても、鮎を釣ってもよい期間というのは、およそ5ヶ月半である。
 大まかに言えば、日本中のどの河川も、ほぼ1年のうちの半分以上、鮎を釣ってはいけないことになっている。
 だから、禁断症状が出る。
 早く釣りたい鮎を釣りたいという思いが、6月1日のあの大混乱を生むのである。
 5月31日の夜が更け、6月1日に日付が変わるあたりから、河原には、1人2人と、少しずつ人が増えてくる。あちらこちらの河岸にいろんな場所のナンバーの車が停まり、闇のなかから河原を窺う気配がこちらにも伝わってくるのである。
 「私の場所を残しておいてくださいよ」
 我々のテントを見つけ、そう呟いて、闇の向こうにオッサンは消えていく、明日の早朝にまたやって来るつもりの下見である。闘いは、もう、とっくにはじまっているのであった。
 午前3時。もうたまらずに仕掛けをつくりはじめる。嬉しくて、嬉しくて、興奮して、手が震えてしまう。
 4時半になる前に竿を垂らす。
 対岸のオッサンと同じポイントを攻めるが、微妙なポイントの選びかたの差で、こちらのほうが3割方上がる鮎の数が多い。それが嬉しいと思う自分の気持ちのせこさにも、釣れているときは寛大になってしまう。
 ぬはははは。
 友釣りではなく、ちんちん釣りをする。
 使った毛針は青ライオン、黒髪、赤お染、八ッ橋。八ッ橋に小気味よく大振りの鮎がかかってくる。しばらく入れ食い状態となる。
 ぬはははは。
 佐藤さんと2人で30尾以上を釣り上げる。ほとんどが、5時から9時のあいだに釣り上げたぶんである。20センチクラスが10尾近くも入っている。誠に気分はよろしいのであった。釣った鮎は、必ず食べる。
 輪廻、輪廻と呟きつつ、河原で唐揚げにした鮎を食べる。これがまた、しみじみと美味いのであった。



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 状況が変わったのは、6月4日である。
 未明に、天安門広場に集まっている学生に向かって、軍隊が、自動小銃を向け、発砲したのである。
 信じられないことが起こったのだ。
 戦車が、人の群れのなかに突っ込み、人間を押しつぶしていく。そういう光景がほとんどリアルタイムで、テレビの画面に映っていくのである。
 キャタピラを押し進める中国の戦車が下敷きにしているのは、本来なら、守るべき自国の、中国の人間なのである。
 言葉がなかった。
 奇妙な熱いものが、身体のなかから込み上げてくるのだが、それがなんであるかわからない。
 僕は混乱した。混乱した頭で、もう、天山も、長安も、行けないと思った。
 中国が危険だから、ではない。
 ひとつのモラルの問題として、僕は天竺への旅を断念したのである。
 天山登山を、外国人に開放するというのは、中国政府が、外貨を稼ぐためのひとつの手段である。僕が、中国の物価と照らしてみて驚くほどの高額の金を払って中国に行けば、それだけ中国の国家が潤う。
 市民、及び学生の虐殺を行った中国政府を潤すための金を払い、ウイグル人の村人に迷惑をかけてまで、今、行かねばならないのか。たとえ、僕が行く場所が、北京ではなく天山であるにしても、そんなことは関係ないからと、事件のあった北京を素通り出来るのか。
 僕は、そういうことはしたくなかった。
 こうして、僕は、断念したのだった。

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