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guiter: 阿守孝夫 amori takao
愛すべき過不足

ロックンロールの素晴らしいところは、どんなに理想を声高に叫んでも、叫んでいる当の本人が、聖人でも君子でもなんでもなくて、クソみたいなくだらない現実にまみれた、一個の人間であるところに、あるのだと思う。クソみたいなくだらない現実にまみれた、一個の人間であるところの彼が、そこに踏みとどまることなく、精神の棒高跳び世界記録を目指すがごとく、ワン・ステップ・ビヨンドしようとするからこそ、その必死の咆哮は、ボクらの心臓を突き刺す。それが、ロックンロールの真髄だろ?
ボクらは、完璧でも完全でも、なんでもない。一人の人をキチンと愛していられているかといえばそうでもないし、誰にも後ろ指を差されないような生きかたをしているかといえばそうでもない。イラクやパレスチナで毎日のように殺戮が行われていることを知っていながらも、そのことに悲しみを抱きながらも、同時に、下半身は目の前に現れた待望のアナルセックスの相手に全身の血を集めていたりするわけで。
まったく、ボクらは、どうしようもない。
阿守孝夫もまた、どうしようもない。
バイト募集先に応募の電話をして、短期は募集していないと言われると、なら終身雇用のみの募集ですか!と、無茶な食いつきをしたりする。だいたい、普段から地下足袋を愛用している。ラーメン屋にバイトに行けば、ラーメンを作ってやっているという感覚で、接客する。そのくせに、たったの200円がなくて、慕ってくれているバンドのライブに行けなかったりする。財布に200円がない男の社会生活が、まともであるはずがない。なにげない会話に、空海だのサルトルだの村上水軍だの、マニアックな単語を、散りばめる。はっきり言って、うるさい。そしてライブのMCでは、落ちもなにもない話を、唐突に、かつ延々と、喋る。
生きていく上で、なにかが過剰なのであり、なにかが欠落している。でも、ボクらは、そうしたものこそを、愛してきたのではないだろうか。GRAYになくてミッシェル・ガン・エレファントにあるもの、アーノルド・シュワルツェネッガーになくてアルチュール・ランボオにあるもの、矢吹丈にあって読売巨人軍にないもの、スーツ着たリーマンになくて阿守孝夫にあるもの、それは、過不足だ。でも、それは、愛すべき過不足なのだ。それこそが、ロックンロールじゃなかったか?



vocal: 前田智也子 maeda chiyako
赤と黒と白

ロックンロールを色で表現すると、赤と黒と、そして黒の裏返しである白になる。赤は身体内を流れる血の色だし、黒は抱え込んだ闇、そして白は汚れなき無垢の象徴だ。
前田智也子の歌いっぷりに初めて触れたとき、そんなことを思った。彼女の歌には、赤も黒も白も、ロックンロールのすべてが詰まっている。
ステージで歌う彼女の顔貌を見つめていると、抱え込んでいる闇の深さもさることながら、どれほどの闇にさらされようとも、腐乱することも陵辱されることもきっぱりと拒絶し、ロックンロールの純血であろうとする強靱な意志を、ありありと感じる。その強靱な意志に流れているものが、真っ赤な血潮だ。青でも黄でもない、触れれば火傷してしまいそうな、ドクドクと絶え間なく鳴動する、熱く真っ赤な血潮だ。
生きている。生きていこうとする以上、上を向いて生きていこうとするのが、前田智也子の血であり、彼女の、生きている、だ。それが、前田智也子の歌いっぷりであり、ロックンロールなのだ。幸福の数よりはどうやら不幸せの数のほうが多いらしいこの世の中にあって、一時の慰めや憂さ晴らしではない、本物の幸福を手に入れるための、ロックンロールだ。
WDLのライブに居合わせていると、必ず、上へ持っていかれる瞬間が訪れる。ジェット気流に乗せられたかのように、身体丸ごとを上へ上へと持っていかれる。その瞬間こそ、前田智也子が作り出す時空だ。それは、ロックンロールが持っている魔法なのかも知れないが、同時に、彼女が放射するヴァイブ、意思の表れでもあるヴァイブなのだ。そのヴァイブが、上へ上へと向かう気流を作り出し、たまらなく心地いい地点にまで、ボクらを連れていってくれる。さらに、あの、長唄を収得したキャリアのなせる技か、何語なのかさっぱりわからないボーカル・スタイルは、間違いなくオリジナルの輝きを放っている。
上を向いて生きていこうとする者だけが、巫女の資格を持つのだとすれば、前田智也子こそが、ロックンロールの巫女だと言える。凡百の歌姫ではない、ボクらを誘い、導いてくれる、巫女だ。
WDLには、不思議と、メジャー感が漂う。それは、偏に、前田智也子によるものだろう。魂とカネを交換したわけではない。生きていこうとすることのデカさが、バンドのスケールを底が見えないほどにデカくさせているのだ。生命力の、ケタが違うのである。
優秀な歌うたいがことごとくそうであるように、ステージを降りたときの彼女もまた、意外なほど小さく、愛らしい。そのことは、彼女が表現のデーモンと契約済みであることを、疑いようもなく物語っている。



drums: 平尾正和 hirao masakazu
解放と秩序のビート

ちょっと、カッコつけた言いかたをすると、
ビートは、秩序そのものでありながら、あらゆる観念から解放されている。スローテンポだとか、速いビートだとか言うけど、あれは正しい言いかたではない。ビートは、8ビートや3/4拍子だとかいった表現でしか、表しようがない。つまり、絶対的な秩序、だ。速いとか遅いとかいう、曖昧で相対的な観念から、ビートは、徹底的に独立して存在している。
それはつまり、ボクはボク、というふうに言い換えることが出来る。いち日本人であるとか、音楽ジャンキーであるとか、商売人であるとか、オタクであるとか、シリアスであるとか、変態であるとか、遊び人であるとか、職人であるとか、アホウであるとか、そういう観念的な形容詞を剥ぎ取り、徹底的に削ぎ落とした果ての果てに残った、なにものにも覆い隠されていない裸のもの、それが、ビートだ。
ボクはボク、それこそが、ビートの正体だ。
でも、メロディは違う。メロディはとても観念的なものだ。悲しいメロディ、うきうきしてくるメロディ、勇気の湧いてくるメロディ、そんなふうに、人はメロディのことを言う。それは、とても相対的なものだ。つまり、あるメロディが、ある人にとっては悲しいと感じることもあれば、べつの人には楽しいメロディと感じることもある、ということだ。それどころか、同じ人であっても、あるときは悲しいと感じたメロディを、次の日には楽しいと感じたりしている。
昨日の夜、たしかに閃いたアイデアが、翌朝には一般論にすりかわっている。あんなに好きだったはずの彼女のことが、いつの間にかキライになっている。
永遠に変わることのない、絶対への憧れ。
ロックンロールの基本原則でもある、この、絶対への憧れを、WDLの奏でる音からは感じることが出来る。
それは、ひとえに、平尾正和の生み出すビートによって、もたらされている。
俺がロックンロールであり、俺がビートであり、俺は俺だ、と、なにものからも解放され独立しながらも、強力な秩序を構築している。それが、平尾正和の生み出すビートだ。
この、ロックンロールの純血に対しての潔癖さが、平尾正和の生み出すビートの肝であり、WDLの屋台骨を支えている。
ともすれば散文的混沌に陥ってしまいがちなWDLの音に、解放と秩序を同時にもたらすもの、それが平尾正和のドラムなのだ。



bass: 野田圭一郎 noda keiichiro
振り向けば青空

WDLというバンドには、一見、カラフルな音を出すイメージがあるが、よくよく聴いてみると、通低奏に、とてもストイックななにかを貫かせていることに気づく。カラフルな音に見えるのは、プレイヤー個々の技量の高さゆえだが、同時にストイックななにかを感じるのは、けっしてプレイヤビリティを弄んだりはしないからである。
そうしたバンドの特性を、もっとも顕著に有しているのが、野田圭一郎のベースなのだと思う。
ロックンロールを標榜するバンドのリズム隊が前面に出ることは、とても簡単なことだ。しかし、それは、喩えて言うならば、恋愛における絶叫に似ている。恋愛の局面で、思い通りにならないとき、こんなはずではなかったと苦虫を噛み潰すとき、あらんかぎりに叫びをあげて、他者に思いの丈をぶつけるのは、高揚感を伴う。
また、べつの局面で、たしかに、ワイヤレスで完璧な交歓が達成出来たと感じたとき、ある種の人は、臆面もなく、天にも昇る高揚でもって、往来で絶叫したりする。
それは、どうしようもないものだ。
そうした、人を好きになってしまうことにつきまとうバカバカしさや恋にまとわりつくヘビやトカゲのような感情を、野田圭一郎が、知らないはずがない。知らないはずはないだろうが、彼は、あくまで、理性的であろうとし、徹底して抑制の利いたリズムを刻む。
激情を、激情のままに垂れ流すように演奏することは、それほど難しいことじゃない。そんな演奏屋は、掃いて捨てるほどいるし、見まわしてみれば、そんな演奏屋ばかりのような気もする。しかし、ラウドな音でなければ届かないというのは間違いであるばかりでなく、甘ったれている。ラウドな感情は、理性と知性で丁寧に微分されたとき、初めて、多くの人の耳に、遠くの人の耳に、深く染み込んでいく。表現とは、そのようなものでなければならないはずだ。
野田圭一郎のベースは、そういうベースだ。
だからこそ、彼の刻むリズムは、甘ったれた情緒に滑っていくことなく、精緻な細密画のように、身体の幹の中心の深いところに、正確に届く。彼の場合、その人柄もまた、演奏と同様である。晴れわたった青空のような静謐さを、湛えている。



keyboard: 前田雄一朗 maeda yuichiro
洗練の極み

WDLの音を聴いていて、かぶせものの音が意外に少ないことに、ふと気がつく。バイオリンやバンドネオン、ストリングスなどがあってもよさそうなのに、と。よく考えてみれば、ディストーションをかけて音を歪ませることすら、ないのではないか。
シンプルに、ドラム&ベース、ギター、キーボード、それにボーカルの5人が奏でる音のみで構成されている。それ以外の音は、ほとんどない。それでいて、あれだけの厚みとカラフルでサイケな音像を作り出すのだから、これは、プレイヤー個々の技量と楽曲本来のクオリティが高いことの証明でもある。
WDLのような音に、効果的なかぶせものの音を入れることは、容易い。容易いだけに、彼らは、安易に、そうはしないのだろう。そうした誘惑に駆られることも多かったに違いないが、ストイックであろうとする彼らの姿勢が、そうはさせないだと思う。
意外に無骨なのである、WDLは。
そんななかにあって、楽曲に艶やかな彩りを与えているのが、前田雄一朗の鍵盤だ。
と言っても、彼は、無邪気に極彩色の絵の具を塗りまくっているわけではない。彼は、最小限度の、これ以上は無理だろうというところまで削ぎ落とした、シェイプ・アップを重ねた彩りのみを、楽曲に与える。
抽象というのは、有象無象の具体から雑駁なありとあらゆるものをとっぱらって、ギリギリの本質のみを抽出したものだが、前田雄一朗の叩く鍵盤は、そこから紡ぎ出されるメロディは、そのような、抽象と呼ぶべきものだ。彼の身体内で濾過され、微分され、洗練された本質のみが、鍵盤を通して空に放射される。
そこには、余計なものがない。余計なものがないのだが、その、余計なものを見極める眼差しが、厳しい。また、厳しくあらねば、と、自身に課している。
本質に近づく行為は、一見、レンジを狭めるかのように見えるが、そうではない。本質に近づけば近づくほど、多くの人の、遠くの人の心臓を鷲掴みに出来るのである。そんなことは、先達の偉大な音楽家たちが、鮮やかに証明している。
前田雄一朗もまた、洗練を極めることによって、本質に近づこうとする。無邪気に極彩色の絵の具を塗りまくっているわけではない彼の紡ぎ出す音が、それでも目映く輝くのは、そのためだ。
まるで、フェリーニの映像を観ているかのような錯覚を覚えるのは、ボクだけではないだろう。





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