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梅が満開である。 風が吹けば、梅の匂いが届いてくる。夜道を歩いている折り、梅の香りが深く染み込んでいる大気の層に出会うと、今さらながらに、季節の巡りの疾さに驚かされる。 本当に、旅に出ていてよかったと、僕は思う。 こんなことを軽々しく言っていいものかどうかわからないのだけれど、僕は、もし旅に出ていなければ、オウム真理教に入信していた可能性だって、あったのだ。そして、地下鉄にサリンを撒いていたかもしれないのだ、と、今、思う。 だから、本当に、世界中をふらふら歩いていてよかった。 おそらく、オウムに入信した人の大部分は、真面目に、在るべき世界を追求していたのだろう。 それは、林郁夫被告の手記を読んでもわかるし、村上春樹も、著作『ポスト・アンダーグラウンド』のなかで明らかにしている。 今にして思えば、僕は、彼らとまったくおなじ理由で、旅に出たような気がする。 あの、若くて青くて堅いばっかりだった頃に、僕は、たしかに、在るべき世界を求めて、旅に出た。 交通費、宿泊費を含めた1日の全生活費が数百円程度のストイックな旅だったが、そんな旅を続けるなかで、世界は美しくも醜くもなく、ただそこに在るのだということに、僕はいつの間にか気づいていた。 すっきりとした論理など入り込む隙もないほど、世界は、激しくも豊かな矛盾に満ち溢れていた。 たとえば、インドのカルカッタの空港を一歩外に出ると、バクシーシ(路上生活者)が、黒山となって僕を取り囲み、手を差し出す。また、目抜き通りのサダル・ストリートでは、人間の死体が雑作もなく転がっている。その横で、花屋が、熱帯地方特有の信じられないくらいに美しい花を売っている。あるいは、こんな逸話がある。カースト制度のもとでは、乞食に生まれた子供は、乞食にしかなれない。だから、母親は、赤ん坊のうちに我が子の両腕を切り落としてしまう。そのほうが哀れみを買って、乞食としては生きやすかろうという、母親の親心である。 僕の旅は、そういう環境に、単身で放り出されることの連続だった。 最初のうちは、まず、対処出来ない。 そういう場所では、観念をいじくっているだけではなにも対処出来ないことに、気づく。 そうする暇もなく、リアルな現実が次々と襲ってきて、具体的な対応を、否応なく迫られる。虚無だ、矛盾だ、と、逡巡している暇は、なくなる。 なるほど日本円にして5円も渡せば、バクシーシたちは感謝して去っていくだろう。しかし、100人のバクシーシに、1000人のバクシーシに、10000人の0バクシーシに、おなじことをするのか、そう、問いかけられる。 そういうリアルな現実を、繰り返し繰り返し、ナイフのように突きつけられるうちに、僕には、ある種の耐性が身に付いたように思う。 旅は、とどのつまり、自身の内面を旅することに他ならないのだけれども、そしてオウムの修行もまた、自身の内面を旅することなのだろうけれど、それでも、現実に旅をすることには、外部との否応なしの関わりがある。そして、外部との関わりと向き合うことによって、リアルな手応えを、自身の裡に手繰り寄せることが出来る。それは、引いて手応えのあるものだから、正しい。 ガンジスの河畔で、洗濯屋が軒を連ねている。カーストのなかでは、洗濯屋は、ヒトのヨゴレを扱うものとして、最下層に近いランクに位置する。聖なるドブ川で、ヒトのヨゴレを洗い落とすという仕事。 こんな仕事だって、あるのだ。こんな仕事で、人生を全うすることだって、ヒトには出来るのだ。 自分の生きる理由を探して出たはずの旅で、僕は、いつの間にか、生きるための具体的な手段に、興味の対象を移していた。それでよかったはずだ。 おかげで、今の僕には、オウムのことがよくわかる。 オウムのように、外部との関わりを遮断し、観念的な内面追求だけを行っていくと、自家中毒を起こす。だからこそ、地下鉄にサリンを撒くなどという極点にまで、暴走する。 たとえ博打でもいいから手を使え、身体を使え、という諺が、ラテンの社会にはある。 この諺と出会ったとき、僕は、眼から鱗が落ちる思いがしたのだった。 現在の、僕の、オウムに対するスタンスについて、書いておきたい。 まず、オウムは、宗教団体なのかどうか。 かなり多くあった意見は、オウムは宗教団体なのではなく、テロ集団であり、教祖の肥大したエゴを満足させるための団体であり、金儲け優先の団体である、というものだ。宗教とは、そもそも人々の心の安らぎのためにあるのであり、金儲けやテロに走るものは宗教団体ではないのだ、と。 そうだろうか。 宗教が人々の心の安らぎのためにあるということについて言えば、それは大きな幻想である。宗教が約束している、あるいは約束しようとしている心の平和は、その宗教を信仰するものに対してのみ、というケースがほとんどであり、我々の宗教を信仰しなくてもあなたは幸福になれるとは、滅多に言わない。 キリスト教の一派であるエホバの商人で言えば、ハルマゲドン(これは土地の名前である。ヘブライ語で、「メキドの山」を意味する言葉のギリシャ語音訳)後、復活を遂げて天国に行くことを許されているのは、信者のみであり、救われる人数もかぎられている。 宗教は、押し並べて、異教徒に対しては冷たく、残酷である。 十字軍の遠征を初めとして、宗教が原因で、多くの戦争や闘い、殺人があったことは、歴史が証明しており、現在でも宗教に根を置いた戦争は続いている。 宗教によって、生命が救われた人間と、死んだ人間と、どちらが多いかと言えば、これは簡単には答えられる問題ではないはずである。 宗教においては、しばしば、人の生命は、その教義よりも軽くなる。少なくとも、現世や今生での生命よりも、もっと大切なものがあると、宗教は信者に思わせてしまう。宗教が幸福と言うとき、それは、その宗教を信仰する者の幸福を指す場合が、少なくない。 オウム真理教には、いかがわしさを含め、宗教の持つほとんどあらゆる要素が入っている。オウム真理教は、紛れもない宗教団体である。それを踏まえておかないと、見えるものも見えなくなる。 では、オウム真理教はテロ集団ではないのか。 そんなことはない。 オウム真理教は、テロ集団であり、金儲けに走った団体であり、教祖の歪んだ自我そのものが具現化されていった団体でもある。 オウム信者の微罪逮捕や別件逮捕などについて、いろいろと話題になった。 僕は、法律学者でも弁護士でもないので、あえて、このケースにかぎり、眼を瞑りたい。そんなこと言ったって、このケースにかぎられるかどうかわからないよ、一度許すととめどなくほかのことにも適用されてとんでもないことになるよ、と、言う人がいる。それでも、僕は、このケースにかぎって、眼を瞑りたい。なぜなら、僕は法律を守るために生きているわけではないからである。法律を守って、挙げ句の果てに死ぬというバカな役は、したくない。もう半年か1年、この摘発が遅れていたらと考えると、ぞっとするものがあるからだ。さらに書いておくならば、破防法が適用されたが、それも止むなし、というのが、今の僕のスタンスである。 オウム信者が体験したという、神秘的な現象がある。 いわゆる、神秘体験。 呼吸や瞑想によって、チャクラと呼ばれる概念上のエネルギー回路を活性化させることは、無論、ヒトは出来る。最下方のチャクラに眠っているクンダリーニという力を発動させることも、そういった力を、背骨に沿って存在するスシュムナー管と呼ばれる気道を通して上昇させ、ポア(無論、本来は「殺す」という意味ではない。意識の次元を上のレベルに押し上げてしまうこと)という現象を、自らに体験させることは、ヒトには可能である。 そういったことを、ヒトという精神は、自身の肉体を利用して、行うことが出来る。 それを、どう呼ぶか。 ただの体験と呼ぶか、神秘体験と呼ぶか、それはどちらでもいい。どう呼んでもいいが、その体験は、結局、技術論の範疇で語ることが出来るものである、ということだ。ポアは、一種の身体技術である。 たとえば、ピアノを天才的な技量で弾くこと。たとえば、300キロオーバーのバーベルを、ベンチプレスで上げること。たとえば、ボクシングの世界チャンピオンになること。それが、身体技術、能力であるのとおなじ次元で、オウムのそれも、身体技術である。 脳の部位には、脳内麻薬と呼ばれるさまざまな薬物効果をヒトにもたらす物質を出す場所がある。ドーパミンとかエンドルフィンとか呼ばれる物質がそうだ。 たとえば、ヒトの肉体や精神に、ある苦痛が持続して加えられていると、その苦痛を和らげるために、エンドルフィンは分泌される。この物質が、人に桃源郷の夢を見させたり、悟りと呼ばれるような、非常に心安らかで意識がクリアな状態をつくったりもする。 神秘体験は、このような脳内麻薬のみならず、メキシコ・インディアンたちが利用する、ペヨーテと呼ばれるキノコに含まれる幻覚物質によってももたらされ、大麻やLSDなどのさまざまなドラッグによっても、もたらされる。 オウム関係者の言う「悟り」というものは、ほとんどがこの次元のもののように、僕には思われる。 イニシエーションと称して、薬物投与を行っていたオウムの幹部や麻原影晃は、このあたりの事情を、基本的に理解していたのだろう。 はっきりと書いておくが、オウムの言う意識上の大いなる体験は、オウムになぞ入らなくても、キリスト教徒であろうが、小説家であろうが、マラソン・ランナーであろうが、誰でも、宗教や思想に関係なく体験出来ることなのである。 なぜなら、それは、逆上がりが出来る、逆立ちが出来ると言ったような、一種の身体技術であるからである。ひとつの技術として、脳内麻薬を分泌させる身体技術や、瞑想システムは、存在する。 壁のすり抜けや、地震予知、ハルマゲドンについては、これはフィクションの世界の話となる。 それを神秘体験と呼ぶのも、覚醒と呼ぶのも、悟りと呼ぶのも、自由である。それを自分にもたらした人物を、尊師と呼んで崇めるのも、自由だ。 選挙に出るのも自由だ。 信仰をしてよろしい。 しかし、 ここで、僕は、大きな壁に突き当たる。 ならば、現行の法に触れようと、信仰によって、人を殺すのも自由なのではないか。 そういう考えかたも、一方の極として存在するからである。 突き詰めて言えば、善悪を判断するときの、絶対的な基準は、この世にはない。 オウムの法と、日本国という社会が持つ法、このふたつは、客観的に見れば、対立するふたつの思想であるに過ぎない。どちらが正しくて、どちらが悪いという、絶対的な視点は、ない。客観的な視点があるとすれば、それは、多数派と少数派という区別があるだけだろう。 ほかに、主観的な視点も、無論、存在する。 オウムについて、法の基準を持って判断するのは、僕の任ではない。 法律なぞは、関係ない。善悪という、相対的でしかない考えかたも、また、関係ない。 僕の主観という基準から、今の僕は、オウムについては否定的である。 オウム信者に対する差別的な主観も、正直に書いておけば、すでに僕の内部には生じている。 オウム信者とは、交遊を結びたくない。また、あらかじめオウム信者とわかれば、その人間と関係を持つのを避けるだろう。一般の真面目な在家信者と、出家した麻原色の強い信者がいることは、わかる。社会に戻ろうと考えている信者がいることも、わかる。しかし、そういう信者と、いつまた麻原のひと声でサリンを撒きかねない信者との違いを、僕は判断出来ない。出来ない以上は、オウムというものを、自分の生活空間内で接点を持たないように、僕は生きてしまうだろう。 善悪ではなく、もっとわかりやすく言えば、オウムは、僕の敵、なのだ。 相対的な概念である悪という言葉より、僕の主観においては、敵と呼ぶのがわかりやすい。 この、僕の敵、という言葉を発見して、僕は、自分の内部でのオウムの位置付けが、ずいぶんとラクになった。 敵。 なぜなら、オウムは無差別に人を殺そうとしたからである。無差別ということは、当然、この僕も、その殺される側に含まれているということだ。 地下鉄サリン事件で言えば、標的にされた日比谷線も丸ノ内線も、僕が東京に行く際には、必ずと言っていいほど利用する路線であり、僕自身が巻き込まれて死んでいた可能性だって、あったのだ。 新宿地下鉄の青酸ガス事件について言えば、当日、僕は近くにいた。これまた、僕が死んでいたかもしれないのだ。 つまり、オウムは、この僕を殺そうとした、ということだ。 だから、オウムは、僕の敵なのである。 そして、恐ろしいことに、その敵というのは、どうやら自分の内部にもいそうなのである。 オウム、あるいはオウム的なものは、僕やあなたや、おそらく、誰の心のなかにも棲んでいるのではないか、ということだ。 それは、たとえば、次のようなものだ。 社会への不満。 さらに高いものへの憧れ。 異性への欲望。 自分をもっと認めてほしいという願望。 思い通りにならないこの世の中を、いったん破壊し、再生させたいという思い。 狂気。 これらのものの多くは、多かれ少なかれ、誰の心のなかにもあるものではないか。量を問わぬなら、僕の心のなかにもある。 つまり、僕自身が、麻原影晃であり得た可能性も、少なくとも資質のうえでは、皆無ではなかった、ということだ。 僕が、オウムの出家者になり得た可能性については、オウムに入信した人と僕が旅に出るにいたった精神のメカニズムが酷似していたことを、僕は冒頭で述べた。 しかし、現実には、僕はオウム信者とならなかった。麻原影晃にもならなかった。麻原影晃となったのは、松本智津夫という、ひとりの青年であった。 一連の事件で考えていくとき、自分がサリン事件の実行犯だったとして、地下鉄でサリンを撒けという命令を、果たして、あの状況で、拒めただろうか、ということだ。断れば、自分の生命がないとわかっている。そういう極限状況で、ノンと言えただろうか。友人の首を絞めて殺せば、おまえの生命を助けてやると言われ、ノンと言えただろうか。間違いのない死を目前にして、生への可能性を突きつけられたとき、自分はどのように行動出来るだろうか。 わからない、としか答えようがない。 それを考えるとき、根源的な人間の尊厳を弄んだ麻原影晃とオウムの思想に、激しい怒りを覚えてしまう。 しかし、ではいったい、なにが麻原影晃という存在を生んだのだろうか。何物が、松本智津夫を麻原影晃たらしめ、そうでない人間を麻原影晃たらしめなかったのか。オウム信者と、オウム信者でないものとを、何物がわけたのだろうか。 欲望の量? 先天的な、何物かの欠如? 欲望そのものは共通するものがあったとしても、その方法論において、松本智津夫という青年は、麻原影晃というやりかたを選んでしまった。おそらくは、おなじ欲望を抱えていたとしても、多くの人間は、麻原影晃という方法論を採らない。ではなぜ、松本智津夫は、麻原影晃という方法論を選んだのだろうか。 それは、つまるところ、才能と、素質と、状況であったのではないか。 たとえば、僕自身が、自分の抱えている状況のなかで、浅香保・ルイス・龍太という方法論を選択していったように、松本智津夫という人間も、彼が抱えている状況のなかで、麻原影晃という方法論を選択していったのではないか。 先に、僕は、誰もが麻原影晃になり得た可能性を持っていたのではないか、と書いた。 しかし、誰もが、麻原影晃になってしまうわけでは、無論、ない。 野球選手になろうと思っていた誰もが、野茂やイチローになれるわけではない。 サッカー選手になろうと思っていた誰もが、中田英寿やロナウドになれるわけではない。 将棋のプロになろうと考えた誰もが、羽生善治になれるわけでは、ないのだ。 画家になろうと志し、誰でもが、ゴッホになれるわけではない。誰でもが、ミケランジェロに、ダ・ヴィンチになれるわけではない。 結局のところ、その人はその人になるのである。 その人は、その人のような野球選手になるのであり、その人はその人のような画家になり、小説家になり、宗教家になるのである。 その人は、その人にしか、なり得ない。 しかし、 モハメド・アリという最高のテンションを持ったボクサーが、ひとつの時代を背負い、ひとつの時代を象徴してしまったように、あるいは手塚治虫という漫画家が、見事にひとつの時代を背負っていたように、あるいは美空ひばりという歌手が、見事にひとつの時代とシンクロしていったように、麻原影晃という存在もまた、平成のこの時代と、深い部分でシンクロしていったのであろう。 誰もが心の裡に持つ闇の部分、つまり、暗い欲望、不満、時代が持つ、そういったものの集合的無意識の象徴として、麻原影晃という現象、あるいはオウムという運動は、捉えられるのではないか。 誰もが心の裡に持つ暗い部分にその根を持ちながら、オウムという現象には、理解を越えた怖さ、身の毛のよだつような不快感がある。 たとえば、好きな男や女に裏切られ、思い余って、その男や女を殺してしまったという現象については、まだ、僕たちの想像力や理解が及ぶ。それは、日常的に、僕たちが体験する感情や出来事の、延長線上にあるからだ。 あるテレビのインタビューで、オウム教団の建物から出てきたふたりの女子高生が、次のように答えていた。 インタビュアーの質問は、次のようなものであった。 「坂本弁護士一家殺害事件では、幼い龍彦ちゃんまでが殺されていますが、それについて、どう思いますか」 これについて、ふたりの女子高生は、 「あんまり、かわいそうに思わない」 あっさりと、そう答えていた。 「だって、生は今生だけじゃないし、また将来、生まれ変わってくるわけでしょ」 僕は、その瞬間、強い怒りを覚えた。 本人がそう信じ、自らの生命を絶つというのなら、放っておけばいい。しかし、他人の生命を他人が奪うというのは、もっと厳粛なもののはずだ。このふたりの女子高生を、本気でぶん殴りにいきたくなった。 そうではない。 そうでは、ないのだ。 なんという、もどかしさ。 仮に、来世があり、生まれ変わりがあるとしてもだ。他人が他人の生命を軽々しい理屈で奪ってよいわけは、ない。今生の生を全う出来ずに、どうして来世の生を全う出来るのか。 これでは、まるで、他人の痛みをまったく感じられない、異生物ではないか。 オレは、そんなのはヤだね。 みっともなかろうが、痛かろうが、現世でドブにはまっていようが、生きていたいのだ。頑張って生きたいのだ。来世があるのなら、来世だってそうしたいのだ。 なにやら、よくわからないあとがきになってしまった。おまけに、あとがきにしては、長い。 旅をして、旅に関する文章を書いて、僕は、オウムというものと自分の関係を、上手く整理することが出来たように思う。 旅を終えて、ひとつの区切りをつけて、もう旅に出たいという欲求は涌かないだろうな、と、漠然と思っていた。 そこへ、オウムの、一連の事件が飛び込んできたとき、僕は、激しく動揺したのだった。 彼らは、間違いなく、かつての僕だったからだ。 もう、じゅうぶんに落ち着いたものと思っていた自分の感情の層に、不意にぶつかって、そういうものの生々しさにハッとしたりすることがある。 枯れる、 ということは、おそらく、一生、人にはないのだろう。 ときおり、感情や欲望が凪いだように穏やかになっている状態が続くときもあり、それはそれで仕事も進み、悪くない気分であるのだけれど、その代わり、歯軋りするような辛さや想いが減ったぶんだけ、歓びや感動も、少し薄まっているような気もするのだ。 かつて、自分が有していた、辛かっただけの日々や、息が苦しくなるほどの濃い感情が、急に懐かしくなるときがある。 おそらく、たぶん、人は、こういうことを、繰り返し繰り返し、続けていくのだろう。ふたつのもののあいだを、行ったり来たりする旅を、繰り返していくのだろう。 それを繰り返していく覚悟は、出来た。 生々しい感情や、仕事も手につかなくなるような深い淵のなかで、なんとか凌いでいく技術も、少しはマスターしたような気がする。 今回、この物語を書くにあたって、『チャイと惰眠、瓦礫の中のゴールデンリング』という、20代の前半に書いたものを、読み返してみた。 改めて読んでみると、冷や汗が出た。 観念だけが先走っている。20代前半の頃の自分は、こんなにも観念的に物事を捉えていたのだということを、思い知らされた。 まるで、オウムである。 しかし、また同時に、これは20代前半の自分にしか書くことの出来ない、リリカルな物語でもあるのだ。 嬉しい発見もあった。 僕は、あの物語を、それぞれの現場で書いた。インドのチャイ屋の片隅で、バスに揺られながら、バンコクのジュライ・ホテルの部屋の机で、イスタンブールの食堂で、ミナミのジャズ喫茶で、煙草の空き箱や、ノートの裏表紙や、地図の裏などに、ちまちまと書いていたのだ。今でもそうだが、僕は、あのころから、現場で書いていたのだった。 本当に、 書いていてよかった。 書く、という行為によって、僕は、間違いなく救われてきた人間であり、書くという行為そのものに、僕は求道的な歓びを持つことが出来る人間である。 これからも、書く。 そのことがわかっただけでも、この本をつくる意味はあった。
fin. |
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