「私」をめぐる諸説について


 インターネットによって、世界中の情報が手に入り、自分から世界に情報を発信出来るようになった。すごいことだ、いったいどんな情報が飛び交うのだろうと思っていたら、個人のホームページの多くが自分の趣味や日記のような文章を公開した。
 地球を覆い尽くす媒体を手に入れたときに、人が発信した情報が、ごく私的な情報だったということが、僕には興味深い。
 「どれも自意識過剰でくだらないものばっかりだよ」と、友人のKは吐き捨てるように言う。
 自分でもホームページを公開しているTは、「なかには面白いものもありますよ。女性のものなんかで新しい文体が生まれています」と言う。
 なぜ、人はホームページを開き、日記を公開するのだろう?
 「かけがえのない私がここにいるって、光を発していたいんですよ」とTは言う。
 「私、私って、私がなんぼのもんじゃいと言いたいね。恥じらいってもんがないよ」とKは言う。
 両者の言い分とも、僕にはわかる。
 日記を公開するような自意識過剰は格好悪いと、思う。一方、私を手放したとき、人に表現すべきなにがあるというのだろうとも、思う。
 じつは僕には、僕が文章を書いている動機とホームページで日記を公開している人の動機が同じような気がするのだ。僕には自分を赤裸々に表現したいという欲求がある。また、他人を取材しても、その人のもっとも個人的な辛い部分に触れたいという思いがある。
 露悪趣味だとか、下品だとか、恥知らずだと、よく批判される。
 批判されても仕方ないかもしれない。僕の関心は立派なところにあるよりも下世話なところに、理論よりも実生活に、元気なところよりも悲しいところにあるからだ。
 Kのような意見を聞くたびに、僕は自分自身が批判されているような気持ちになる。
 なぜ、僕を含めた多くの人は、自分を表現したいと思うのだろう?
 「私」をめぐる考えの枠組みは、大雑把に言って、一方の極に、「かけがえのない私派」がいて、反対の曲に「私がなんぼのもんじゃい派」がいるという構図になる。
 「かけがえ派」の代表は、なんと言っても夏目漱石だろう。『私の個人主義』(1914年)という題名の講演記録が残っている。
 夏目は英文学を学んでいた。当時の日本人の研究者は、英文学について、英国人の評価を鵜呑みにし、英国人に倣って自分の評価を決めていた。彼は、「それって、なんかヤダな!」と思っていた。
 英国に留学した。神経がおかしくなるくらい、「ヤダな!」という思いが強くなっていた。
 あるとき、英国人が行う英文学研究と日本人が行う英文学研究は違っていて当然じゃないか、という考えがひらめく。価値尺度を英国人に置くのではなく、日本人としての自己に置けばいい。「自己本位」でいいのだ。
 夏目は、ポンと膝を打った。
 こう言っている。
 「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました」
 「かけがえ派」の哲学者、鶴見俊輔は『根元からの民主主義』(1960年)という文章のなかで、私が私を変えようとすることが政治行動だし、知識の量ではなく私が成長していくことが思想の中身なのだと言っている。私が私を変えることが政治行動の動機となっている場合、どんな大きな組織でも、国家でも、国際連合でも、見返す力が私にはある。
 鶴見は、こう書いている。
 「国家に対して頭を下げないということは、私が、国家以上に大きな国際連合とか、国際社会の権力を後ろに背負っているからではなく、私のなかに巧みに底まで下っていけば国家をも、世界国家をも批判し得る原理があるということへの信頼によっている」

 文芸評論家の秋山駿は、じっと座り込んで、『私とはなにか』(1965年)と考えることから評論活動を開始した。自問自答し、考える時間だけが堆積した。結論は出ない。ただこんなことがわかった。
 「私を疑うことがなぜ必要か、私はその理由を語ることが出来ない。けれどもこう言ってはどうだろう。世の中には、私という病気を患っている人間と、そんな病気にかかりもしなければ、この病気があることさえ知らぬ人々がいると。私はこの病気を患った者の一人である」
 三田誠広は『僕って何』(1977年)という小説を書いている。
 大学生になり上京した「僕」は、友だちが一人もいなくて孤独だった。たまたま、政治党派に属している同級生から声をかけられ、嬉しくて運動に参加し、同じ党派の女性と同棲する。しかし、党派的な運動に疑問を持ち、同棲中の女性を裏切る。自分の頭で考えなければと思うが、しっかり考えられるわけでもなく、どの党派が正しいという判断もつかず、帰属する集団を失う。ふらふらになってアパートに帰ると、女性が母親と一緒に待っていた。「僕」はなんだかホッとする。
 ここに描かれているのは、当時の等身大の若者だ。なんの心配もなく育ってきた「僕」が都会に上京して、淋しさから政治運動に参加し、違和感を感じる。集団からはずれたときに「僕って何」という問いがやって来る。ぼんやりした頼りない「僕」だが、大切な「僕」だということだけはハッキリしている。

 「かけがえ派」のいくつかの私を紹介した。それぞれがそれぞれの仕方で私を掴んでいる。夏目は西欧と向き合って私というものを掴んでいるし、鶴見は国家と向き合って私を掴んでいる。秋山は壁と向き合って「私病」になり、三田は政治運動と向き合って「僕って何」と考えはじめている。
 時代とともに私の背負っているものが軽くなっているが、自覚の構造は似ている。自分の外側にある集団に同一化出来なくなったり、はぐれたりしたときに、私の自覚はやって来る。一度自覚すると「私とはなにか」という問いを手放せなくなり、すべての判断と行動の起点に私を置くようになる。

 「なんぼのもんじゃい派」の代表は、柳宗悦だろう。民芸運動を起こした柳は、人々が日常使っている器に美を見出し、『雑器の美』『民芸の意味』『民と美』(1948年)という文章を書いた。雑器の美は無欲、無名、無心の職人による反復手作業から生まれたものだという。「かけがえのない私」などという考えの入り込む余地はない。
 民芸に対して、「個人的工芸」という、作者の名が記され、作者の美意識を表現した工芸品もある。柳はそれらと無名の職人が使った民芸品とどちらが美しいかと問う。そして柿右衛門や仁清に比べても民芸品のほうが美しいと判定を下す。
 「無銘の工芸こそ工芸の主流である。なぜなら無銘の作より美しい作を見たことがないからである。もし在銘の作で真に美しいものがあったら、それは作者が一生の精進を持って自我を超え、無銘の域に達し得たが故に過ぎない」(『民芸の意味』)
 以上は工芸品について述べられたことだが、表現一般のこととして拡大解釈したい。私一個の美意識を超えたところに真の美はあると。

 「かけがえのない私」が大衆のものになったのは、1960年代に入ってからではないかと、トム・ウルフは言う。「ミーイズム」という言葉をつくり出した彼は『ミー・ディケイドと新宗教フィーバー』(1970年)という文章で、60年代から70年代にかけてのアメリカ人の風潮を描写している。第二次世界大戦後、経済の好景気が続き、人々の生活は向上し、貧しかった層が中流化してきた。その結果として、ヒッピー・ムーブメントが起こり、自分を大切にし、自分を語る人が増えた。人々は自己啓発セミナーで自己を語り、精神療法にかかり、やがて宗教へと流れ込んでいった。
 こうした時代をひとことで示す標語がある。毛染め剤のために書かれたコピーで、当時の人々の心をとらえた。
 「たった一度の人生なら、ブロンドで送りたい!」
 この「たった一度の人生なら、────で送りたい!」の「────」を人々は自分の欲望で埋めた。「────」はフリー・セックスだったり、有名人だったり、働かないことだったりする。この自分の欲望を大切にする人々を生み出した時代をトム・ウルフは「ミー・ディケイド」と呼び、恥ずかしいもののように語る。
 ミーイズムが流行するまで、人々は人間の輪廻についての信仰を持っていた。信仰があるから子供の未来のために自分の成果を捧げたり、戦争に行ったり、山に樹を植えたりした。祖先から自分を通って子供へと繋がるなかに生きているという実感があった。ミーイズムはこの信仰への挑戦だ。挑戦者たちに向かってウルフはこう書く。
 「『たった一度の人生なら、────で送りたい!』の「────」を本当の意味で埋められるものなら埋めてみな!」

 三浦雅士は、『批評、または私という現象』(1980年)という文章で、私とは確固とした実体ではないと主張する。私とは関係が生み出したものだし、文化的、社会的、歴史的な産物なのだ。ひとりひとりの個人があり、そのひとりひとりが集合して社会が出来上がっているというのは間違いだ。まず共同体が先にあって自己意識が生まれる。私という現象は社会の側から来たのであって、その逆ではない。
 三浦はこう書く。
 「思考の起点を自己に置くのは、したがってひとつの転倒である。むろん人間は転倒から考えをはじめるほかない存在であると言えるだろう。しかし、自己を自己として意識すること自体、すなわち自己という現象を生きること自体がそのまま社会的なことであるという事実を忘れなくてはならない」

 社会学者の上野千鶴子は、フェミニズム理論の学者として人々に知られる前に、俳句をつくっていた。たとえば、こんな句。

 さわられてみる わたしの境界線
 わたしというミスキャスト 幕が降りるまで
 待って待ってわたしの洞を血が削る

 私にこだわった句だ。
 十年間俳句をつくり続けた。上野は私の美意識にこだわり、こだわり続けた末に、私を捨てる。「表現の固有性を断念した」のだと言う。そして社会学者としての道を選んだ。このときに彼女の文体は変わった。
 「あるとき、ことりと音がするように文体が変わると同時に、読者の質・量が一気に変わるのを、目撃することがある」(『上野ちづ子句集 黄金郷』)
 事実、社会学者となった上野は、圧倒的な読者を獲得する。

 「なんぼのもんじゃい派」の私批判をいくつか紹介した。
 私へのこだわりは格好悪いとウルフは主張し、私へのこだわり自体が社会的歴史的なことなのだと三浦は言う。柳は雑器を見て、上野は自分の文章体験から、私へのこだわりを捨てたときに他人に手渡すことの出来る表現は生まれるものだと言う。
 「かけがえ派」の主張も「なんぼのもんじゃい派」の主張もなるほどなと思う。
 両派の主張は、個人の意識の発展段階による違いのようだし、力点の置き方の違いだけなのかもしれない。
 個人の意識の発展段階で言うならば、人は素朴に集団に一体化して行動を起こし、集団に違和感を感じて孤独になる。私の足で立ち、私の頭で考え、私の根のところから行動を起こすべきだと考える。そのときに、「私とはなにか」という問いがやって来る。
 判断と行動の起点とすべき「私」とはなにか。それは私の欲望だったり、私の美意識だったり、私の一番痛い体験だったりする。その私の欲望や美意識や痛い体験の根の根にあるものはなにか。
 人は「私とはなにか」という思考の泥沼でもがき、もがき疲れて、外に目を向ける。すると、外への反応の総体が私というものの輪郭なのだと気づく。
 なーんだ、私の内側ばかり覗き込んでいなくてもよかったんだ
 このラクなかんじが他人に通じる言葉を掴ませる。
 たとえばこんなかんじだ。恋人たちがお互いに愛し合っているかと自分たちの関係についてばかり話し合っていたら、鬱陶しい関係になっていくのに対して、ふたりで体験した出来事や見たことについて、つまり関係の外側のことについて話し合っていたら、それだけで自ずと関係が出来上がっていくのに似ている。
 こんなふうに人の意識は「かけがえ派」から「なんぼのもんじゃい派」へと発展する。
 一方、力点の違いということで言うならば、「かけがえ派」は安易な集団への帰属を批判するために私を強調している。戦前の国家への滅私奉公や現在の社会での和を大切にする気風などへの違和感を大切にしている。簡単に集団に一体化するのではなく、自分の頭で考えろという主張だ。
 それに対して「なんぼのもんじゃい派」は、ウルフを代表として、目前の欲望を肯定する「ミーイズム」を品位のない格好悪いものと見ている。「ミーイズム」は、彼が不倫するなら自分も不倫しても怖くないといった、一種の流行だ。もっと深く自分の欲望について考えろとウルフは言う。結局、それは自分の頭で考えろという「かけがえ派」の主張と同じことになる。「かけがえ派」は「深い私」を主張し、「なんぼのもんじゃい派」は、「浅い私」を批判している。力点の置き方の違いでしかない。

 じつは、「かけがえ派」と「なんぼのもんじゃい派」は、考える方法として両極を立ててみただけで、それぞれの主張者として挙げた人々は、はっきりと一方の極に立っているわけではない。
 「自己本位」の夏目が亡くなる直前に『則天去私』(天に則り、私を去る)という言葉を残したことは有名な話だし、鶴見は私についての文章以上に他人の伝記をたくさん書いている。一方、無私を主張する柳は、朝鮮の光化門を守るために私の意思として立ち上がっている(1922年)し、上野のフェミニズム理論は、その動機のところに自分の体験がある。
 このように、ひとりの人間の中で、「かけがえのない私」と「私がなんぼのもんじゃい」が幅を持って存在している。
 私はこの世でただひとりしかいない。かけがえがない。同じように電車に乗り合わせている隣の人もこの世でただひとりの「かけがえのない私」なのだ。「かけがえのない私」がそこらじゅうにぞろぞろいる。私だけがかけがえがないのではない。「私がなんぼのもんじゃい」なのだ。しかし、私は私の責任で生きていかなければならないし、私の痛みは恋人にさえ共有されない。私が死ねばすべてが消える。やはり「かけがえのない私」なのだ。こんなふうに、人は「かけがえのない私」と「私がなんぼのもんじゃい」のあいだで行きつ戻りつしているのではないだろうか。

 真木悠介に『自我の起源』(1993年)という本がある。ここで考えていることの重要な補助線になるので、簡単に紹介する。
 この本は、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』やジョン・C・エックルスの『脳の進化』などを参考にして、個体の起源を探っている。ドーキンスによれば、個体は遺伝子の乗り物でしかなく、遺伝子は個体から個体へと乗り継いでいくのだという。真木は個体が個体として利己的に振る舞う最初の頃、つまり元祖「かけがえのない私」を発見し、それを自我の起源としようと目論む。ところが、個体が個体として徹底して利己的に、つまり個体の欲望に忠実に振る舞うと、結果的に遺伝子の望むことを実現してしまうという逆説に行き着く。
 真木はこう書いている。
 「個体を自己目的として立ててみるかぎり、その生きることの目的は、ただ歓喜を経験することにある。そしてこの歓喜のすべては、(あるいはそのほとんどの主要なものは)同種や異種の他者たちの生や生殖の道具とし対象としメディアとして自己を放下することにしかないことを見てきた。性がそうであり、ジャンヌ・ダルクがそうであり、マザー・テレサがそうであり、花の下にて春死なむという自己肥料化願望がそうである」
 個体の目的は自己を喜ばすことだ。真に自己が喜ぶこととはなにか。セックスの歓びがそうであるように、ボランティアの歓びがそうであるように、他人に繋がり、他人の役に立つことなのだ。
 「かけがえのない私」の欲望を根の根のところまで探るならば、それは、他人と繋がりたい、そのために私を捨てたいということになるのだ。
 「かけがえのない私」を大切にすることは、「私がなんぼのもんじゃい」に繋がる。
 つまり、私を捨て切れない人は、「かけがえのない私」を徹底していないということなのだ。
 実際は、そう簡単に徹底出来るものではない。誰もがマザー・テレサになれるわけではないのだから。「かけがえのない私」と「私がなんぼのもんじゃい」のあいだで行きつ戻りつしている。
 いずれにしても、人は他人と繋がるために自分なりの触手を伸ばしている。その触手がボランティアという人もいるだろうし、恋愛という人もいるだろう。仕事の人もいるし、趣味の人もいる。道端でギターを弾く人もいれば、ホームページで日記を公開する人もいる。その触手が他人と結びついたときに幸せを実感するのだろうが、多くの触手は相手を求めて震えている。
 「かけがえのない私」という心根の底には、私を捨てて他人と繋がりたいという願望が潜在している。
 そう考えると、ホームページで公開されている日記のどれもが他人と繋がりたいという孤独なつぶやきのように見えてくる。

fin.