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えこまの部屋 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-12-10

女性映画監督に思う

12月9日(日)

先ほどNHK教育ETV特集」では日本女性監督テーマ彼女らの作品紹介や直接取材が放映されていた。「かもめ食堂」で有名な荻上直子監督作品はまだ見ていないのだが、他にも「ゆれる」西川美和監督や「萌の朱雀」「もがりの森」(もがりの漢字Macことえりでは出ず...)の河瀬直美監督映画プロデューサー季さんによって紹介され、とても興味深い番組だった。



季さんは、こういった女性の撮るものを「女性ならではの作品」「女性にしか作れない内容」と評価してとらえられていた反面、「男には怖くて出来ない(作り方だ)。特になにも大きな事件が起らない(このような退屈な)映画は作れない。僕自身、はじめの方はしばらくは退屈さを我慢して見ている。でも最後まで観ると確かに面白い。そんなゆるさで観客をひきつけることの出来る女性監督の登場は映画の新境地に思う。」と語られたのが印象的だった。



女性が、男性にはできない日常の経験を通して、こういったものの観方、目線を培って作品に反映させている。繊細な感性で新しい女性ならではの境地の作品が生まれている気がする、という内容のことをラストに言われたのが印象深い。


このことは昨日のブログにも書いた「女と男の悟り方の違い」にもろに通じていることだと私は思うのだった。U子さんからいただいたコメント内容にも通ずる。番組では「映画の賞をとりたい」という映画製作学校の若い娘さんが紹介されていたが、賞をとれば映画仕事ができると思っている節を感じた。確かに見知らぬ誰かに自分を知ってもらう最初の信頼の第一歩の糧にはなるかもしれないが、一度の受賞が、今後、多くの人にみてもらえる映画が撮れるようになることに繋がっているとは全く思えない。


日常をきちんと体験しないことには、本当は多く人々にみて貰えるような、人の心を掴める映画なぞ撮れるわけがないと私などは思うのだ。


私は昔からハリウッドのドンパチものが大の苦手で、どうして男はああいう血の気の多いアクションものを喜ぶのか不思議だった。エンターテイメントとはああいう、ディズニーランドの箱物の中のような経験をさせることをいうのかと、その浅薄さに疲れるのだ。女の殆どは、あのような映画は観ても消耗するだけでは?と思って来た。


だけど季さんに言わせると「特に何も事件の起らないピースな日常」を映画にすることの方がよほど不思議感性のようで、この、男女の感性の違いが面白かった。



以前に浜Qさんがフェミネタの記事のコメント欄に正直にご自分が思われたままに「男は女に敵わない、とも。」と言い切られたときに、フェミ特有の奪還論を否定した後でそれを書いてしまうことは、どうなんだろう?と実はどこかで共感しながらも、驚き、ちょっとどのように返答すればよいのか戸惑ってしまったことがある。


しかし先日こってり再会した陽子さんと会話した内容のように、ほんとうは女性の方が「感」覚の世界から理屈理論を通さずに家の事や家族の世話をすることを通して「悟り」の世界へそのままダイレクトに移項できる凄さがあるのだということを本当に感じている。


この言説を男性側や一部の男性化した女性達に(戦略的に)都合良く「女は通常、子を産み、子を育て、介護に従事し、家を守るもの」として拘束するために利用されることを私は全く望まないが、そういうイデオロギー問題とはまた全く別に、このことは(男性よりも女性の方が大悟するのに近いアクセス系統を持っている)重要事実なのだと思うのだった。


女は、胎(はら)の中の子との一心同体経験に始まり、子育て授乳やおしめ替え)を通して、要求を言葉化されない状況で、相手を読む能力を培い、与え施す修練を日常的に「当たり前」のこととして扱われながらやってきた(ある意味、他者から敬意を向けられる修行僧よりも大変な日々を過ごした)種だからだ。



男より女のほうがコミュニケーション能力が高いことは、周知のことだと思う。

昔から井戸端会議女性専売特許だし、そういう「女性同士のゆるいコミュニケーション」が地域社会の相互扶助共同体を支えていたのも確かだ。だから女性コミュニケーション能力シャーマン的な力にそのまま繋がっている気がする。


死者の口寄せをするイタコも、神の媒体になるシャーマンも、昔から女であるのは、その証拠なのだろう。


現代の20〜30代の女性DNAにだって、たぶんまだそういう要素が未使用・未開拓の手付かず状態でたくさん残されているはずだ。(とはいっても、生殖活動を通した繁殖可能な年齢に到達しても、そのバトン機能を使わない女性が、いまだかってないくらい多くなったのが現代だ。ひと昔前のように適齢期がきても誰も(親も親戚も職場の先輩も)やかましく言わなくなったし、結婚するしないを女性にあからさまに問うことや、既婚者に「子どもはまだ?」と聞くことが、モラハラセクハラの無神経発言と認定されたのが今の時代だ。自由を謳歌したい独身女性にとっては今や最も居心地の良い時代が到来したわけだ。高度な医療技術によって「丸高出産」の年齢も上がったし、これらは確かに女性解放運動の功績のひとつだろう。しかし、女性身体幸せにとっては、その功績は、どうだったのかは疑問が残る。



さらにもうすでに次の時代の風潮の始まりさえ私は感じる。それは「繁殖可能時期だったあの時、なぜ、もっと口うるさく言ってくれなかったのか?」あるいは「半強制的にでも、お膳立てしてくれなかったのか(そこに運命の分かれ道、思わぬ出会いがあったのではないか)」と、「ある世代特有の、当事者子ども)に、無条件に自己決定権&選択権を与えた大人の物わかりの良さ」が後年には仇になって、高齢化した独身女性に責められるような時代が、地球温暖化のように確かに到来しつつあるように感じるのは私だけか?)


女は生まれながらに与えられた身体女性機能を全うすることで、自然霊性が高まるように装置されている。

私はそう感じている。



だから私がオニババ本に賛同できるのはそういう点でなのだ。


よく、「子を産み育てた女性の方がそうでない女性よりも人間的に成熟している」という言説に反論を唱えるフェミニスト女性の主張を物心ついた頃から新聞の投稿欄などで見聞してきた。そういうこともあって、少女時代から「あぁ、こういうのは差別発言に繋がるから、言っちゃいけないことなんだな。」と思って来た。


私が親しくしている女性も、子を産み育てた経験のあるなしに全く関係なく、素晴らしい女性はほんとうに素晴らしい。


だけど

女は生まれながらに与えられた女性機能を全うするプロセスを通して、自然霊性が高まるように装置されている。

ということも、ゆるぎない真実のひとつだと私は感じている。


だから、全ての女性にとは思わないが、いつか子を産み育てたいと願う女性には、是非、大願成就して欲しいと願って、今日ヨガ教室を行っている。