大国露西亜のバルチック艦隊を見事撃滅した、その華々しい戦果だけが取りざたされているが、その誕生は恥ずべきものであった。
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艦内の展示の基本にあるのは、
「わが国が挙国一致して独立と安全を守りぬいた誇りの象徴」としていることである。
はたしてそうだったのか?
戦艦三笠が建造された当時、日本は日清戦争によって国費はボロボロ状態、にもかかわらず山本権兵衛発案した『6・6艦隊』計画の一環として戦艦三笠は英国ヴィッカース社に発注された。ところがその手付金を払う金が無い。海軍大臣の山本は上司であった西郷従道(西郷ドンの弟、元海軍大臣)に相談すると「それは予算を流用するしかない。もちろん大変なことだから万一の時は二人で二重橋の前で腹を切ろう」と言われたという。
三笠は不正な国家予算の流用にて作られた、日本人として恥ずべき船だったのである。
司馬遼太郎が持ち上げられることの多い昨今、明治の人間はすべて偉いって風潮が蔓延っているがイカガナモノカ。
この三笠の件も、ヴィッカース社への支払いに関してナニか匂うのだが……。
「山田洋行に始まった防衛汚職の最初の事例として忘れてはならない恥ずべき戦艦」として我々は記憶しておくべきではないだろうか。
そのことは、館内の展示には何も説明されてはいない。
入場料500円払って中に入る。自衛官割引のあるのに注意。
ブリッジより艦首を見る。
その方角は、皇居の方を向いている。
さて、戦艦三笠は一度爆発事故で沈没している。
1905年9月11日に、佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没した。この事故では339名の死者を出した。弾薬庫前で、当時水兵間で流行っていた「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む」悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器を引っくり返したのが原因とする説や下瀬火薬の変質が原因という説もある。なお、この爆発沈没事故は秋山真之が宗教研究に没頭する一因ともなったとされる。10月23日の海軍凱旋式は戦艦敷島が三笠に代わって旗艦となった。事故当時、東郷は上陸していて無事。また、艦隊付属軍楽隊に着任していた瀬戸口藤吉も、これまた事故当時は上陸中で難を逃れたが、軍楽兵の多くが事故で殉職した。
三笠は予備艦とされ、1906年8月8日浮揚、佐世保工廠で修理され1908年4月24日第1艦隊旗艦として現役に戻った。(Wikipedia)
これは新聞号外として『軍艦三笠の珍事』として伝えられた。
戦艦三笠は退役後の1925年、現在の場所に固定保存されることとなった。
ところが敗戦後、三笠の艤装は米軍の命により取り払われ、館内にはキャバレー・トーゴーを設置。毎夜パンスケとの淫行騒ぎに汚されることとなる。
1958年に三笠保存会が再建され募金活動を開始、1959年より、復元工事が行われることとなった。
もちろん、この復元事業には疑問の声が上がった。
募金が始まった1958年は伊勢湾台風により、死者・行方不明者は5,098人、負傷者39,000人にのぼる多大な被害が出ている(この犠牲者の数は阪神・淡路大震災まで戦後の自然災害で最多のものであった)。
その被害者の救済復興が進まないなか(被災者は汲み取り便所の汚水にまみれた不衛生な環境のまま3ヶ月も生活)、政府が三笠復元に5000万円(国家公務員の初任給は10200円)もの巨費を投じるのはいかがなものかというものであった。
笑えたのが、大東亜戦争にて鬼畜米帝太平洋艦隊司令長官であったチェスター・W・ニミッツ提督が戦艦三笠保存に貢献していたことである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog128.html
艦内での展示説明によれば、
「ニミッツ元帥はバルチック艦隊を迎撃し比類のない大勝利を収めた東郷元帥を青年時代から尊敬し、その戦略、戦術を研究、太平洋戦争でその教訓を活かして戦いました」とある。
皮肉にも、我が大日本帝国海軍は軍神東郷元帥の戦略、戦術に何も学ばず、その手柄を鬼畜米海軍の元帥にやってしまったようだ……苦笑。
展示室には、戦艦三笠搭乗員が雅子妃の母方の祖父であることの家系図も展示。母の父である江藤豊に元チッソ社長と書かれていることに注意。
東郷元帥の使用したバスルーム。
三笠公園の帰りに、ヘンなものに遭遇した。
小泉純一郎の事務所であった……。