2007年12月03日

聖ピオ十世会は「合意協定」を守るべきである

このカトリック専門ブログ「カトリックの擁護」を2007年8月に立ち上げ、日本語サイトではほぼ唯一、公然と聖ピオ十世会のような「伝統原理主義」批判の立場で記事を書いているが、ある程度反響があるようでありがたい限りである。
実は、個人的な事だけを言えば、聖ピオ十世会は、私にとっては「終わった問題」である。似非カトリックに過ぎないのだから、彼らのプロパガンダについて、特にどうこう思うところもない。また、彼らの主張を信じるひとがいようと、それは個人の信仰の自由だから、いちいち説得しようとも思っていない。
しかし、教皇との交わりを絶とうと望んでいないカトリックの内部にいる信徒でも、直接にせよ間接にせよ彼らの誤謬に影響されることもあるようだ。これは、場合によっては教会内に深刻な不一致を引き起こす。私はそれを憂い、そういう人たちが自ら考えるためのきっかけになればと願って「伝統原理主義」批判記事を載せている。

聖ピオ十世会の問題は、一言で言えば、離教状態にある非合法のグループの「合法化」(legitimation)あるいは「正常化」(normalization)の問題に尽きる。
ここで叩き台になるのは、1988年エコンの司教の違法聖別(これにより会の創始者ルフェーブルらは破門された)の数ヶ月前5月5日に、交渉の末に成立した、聖座(名代ラッチンガー)と聖ピオ十世会との「合意協定」である。

PROTOCOL OF AGREEMENT BETWEEN THE HOLY SEE AND THE PRIESTLY SOCIETY OF SAINT PIUS X
http://www.unavoce.org/protocol.htm

その中で、ルフェーブルは以下のことを宣言している。

私、ルフェーブルと、私によって設立された聖ピオ十世会のメンバーは、

1)次のことを約束する。カトリック教会と、教皇、つまり、至高の牧者であり、キリストの代理者、司教全体の頭としての首位権において聖ペテロの後継者への忠誠を。

2)私たちは宣言する。教会教導権と教導権に対して当然払われるべき支持に関する、第二バチカン公会議の教義憲章「ルーメン・ジェンティウム」25節に含まれる教義の承認を。

3)私たちにとって簡単には伝統と調和しないように見える、第二バチカン公会議によって教えられた幾つかの点、あるいは、のちの典礼や法の刷新に関して、私たちは論争を一切避け、肯定的態度で研究し聖座との交わりを保つようにする。

4)私たちは次のことも宣言する。教会の意向の通りに行う意図を持つ、教皇パウロ6世と教皇ヨハネ・パウロ2世によって公布されたローマミサ典礼書と秘跡儀礼書の規範版に示された諸典礼に従って行われたミサの犠牲と秘跡の有効性を承認すると。

5)最後に私たちは約束する。教会と教会法に共通の規律、とりわけ、ヨハネ・パウロ2世によって公布された教会法に含まれたもの、特別法によって聖ピオ十世会に与えられた特別の規律についても偏見なしに、敬意を持つことを。


よく知られている通り、この合意は、この直後にルフェーブルによって破棄され、反故にされた。
指摘しておくべきは、そもそもこの「交渉」は対等の立場同士によるものでも何でもないことだ。たとえるならば、国際的に承認された合法政権が、内戦を行っている非合法のテロ組織と交渉し、武装解除と引き換えに議会への議席権を認めようとしているようなものである。非合法団体でしかない聖ピオ十世会を認めるなど、カトリック内部からの激しい反発も予想された(今でもそうである)。その点を鑑みれば、聖座が会と「交渉」を行うという時点で、聖座の側からの大いなる歩み寄りがあったと言うべきである。
ともあれ「交渉」なのだから、何らかの取引が行われるのは当然で、しかもこの交渉で聖座が呈示しているのは、カトリック教徒なら誰でも承認し、従っていることに過ぎない。ところが聖ピオ十世会のシンパは、これが聖座サイドの「無茶な要求」だと言う。開いた口がふさがらないどころか、ケンドー・コバヤシのごとく「正気ですか?」と尋ねたくなる。
一部のピオシンパの妄想にもかかわらず、現教皇の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(2007年7月7日)によっても、聖ピオ十世会の非合法的ステイタスは変更されていない。同じ主題について相反することが書かれていれば「新法は旧法に優先する」のが教会法の原則であるが、更新されたのは1962年版ローマ・ミサ典礼書の使用条件についてであって、破門については一言も述べられていない。したがって、前教皇の自発教令「エクレジア・デイ」(1988年7月2日)の「ルフェーブルの離教に対するいかなる支持も止めるように」という勧告は、カトリック教徒に対しては今でも有効である。
ローマ・カトリックと聖ピオ十世会の和解が今後あるかどうか、私には未来を予測することはできない。しかし、単純に言えることがある。少なくともローマ側の扉はいつでも開いている。なんなら、「叩けば開かれる」と言ってもよい。「合意協定」の地点に戻り、教皇の権威を認め、第二バチカン公会議と、その後の合法的な刷新を受け入れさえすればよいだけの話だ。入ろうとしないのは、聖ピオ十世会側の問題に過ぎない。

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 13:24| Comment(29) | TrackBack(0) | 伝統原理主義批判
この記事へのコメント
金田さん。私は自分がここの11月29日のコメント欄においてあなたから「私は貴殿のことをまともに応答する相手ではないと思っている」と二度言明されたことを忘れた訳ではありません。あなたに主の御恵みがありますように。

あなたにとって聖ピオ十世会の問題が完全に終わってしまう前に(既にそうなのかも知れませんが)、小野田神父様があなたの"Waby-Saby"07/03/09の記事に反応してご自身のブログでお書きになった2007/03/14の文章、その最後の段落に対する金田さんのお考えをお聞かせ頂きたいです。あなたは応えていないように思えるから。

最後の段落とはこれです。

> しかし、実証できる文献として、この教皇リベリオが、聖アタナジオ
> を公式に破門したということだけは事実である。問題は、教皇様が
> この破門の宣言をした時、本当に現実に真理において、聖アタナジオ
> は破門されたのか、ということだ。もし本当に破門であったなら、
> 聖アタナジオの「罪」は何だったのか? 彼が「破門」された「罪」
> は、ニケア公会議の信仰宣言を力強く擁護したことだった。これは
> 本当の「罪」なのか? 問題は、教皇リベリオが聖人か否か、という
> よりは、むしろ、教皇様であっても、どのような理由であるにしろ、
> 罪なきひとを「破門に処する」ということがあり得る、ということだ。

http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/f2ba643790ac6de505e41b78db7290cc
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月03日 19:15
はじめまして(かな?)。金田さん、envoy magazineの訳は読みやすくてとても良い記事でした。

それに比べ、SSPXのシンパなお人が主張されているのは、実に些末で本質を外しているといった印象です。

教皇は教会を牧するために、解いたりつないだりする権限が主イエスから与えられているのですから、誤りがあり危険であると見なされれば破門もあるだろうし、その嫌疑が晴れれば解除だってあるでしょう。
聖アタナシウスを間違って破門することに同意したことがあったからといって、SSPXの違法叙階を正当化する理由にはなりません。
なんと的外れの議論でしょう。
教皇も間違うことがあるという可能性だけに望みをかけ、自分たちは間違っていないと主張するのは、あまりにも苦しい言い訳です。見ていて痛々しい。

金田さんの議論は筋が通っていて清々しいです。良い勉強になりますので、時々お邪魔いたします。応援しています。
Posted by angelic feline at 2007年12月04日 01:17
そうではありませんよ、angelic felineさん。ちっとも痛々しくなんかありません。これはごく普通のことなんです。むしろ「常識」の部類に入ることでしょう。
それはここ(↓)でも書いたことなんですが、
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/poppyoil/diary2007/d-2007-11-21.html
「ある認識され指摘された事柄そのもの」と「それを認識し指摘した人」は別である、ということなんです。
ここに教皇ヨハネ・パウロ2世の『イネスティマビレ・ドヌム』を引きつつ「信者にはご聖体拝領の時に跪くことを選ぶ権利がある」と主張している人がいるとして、もしその人がリトル・ペブル教団の人であったとしても、それは言われたこと自体の「真偽」には関わりがないことでしょう? ということなんです。
ここに性的な罪を犯しているカトリック教会の聖職者がいて(事実少し前のアメリカではよくあったことらしいですが)それがあるジャーナリストによってスキャンダルとして暴かれたとして、もしそれを暴いたのが共産党のジャーナリストであったとしても、あいるは戦闘的な無神論者のジャーナリストであったとしても、暴かれ指摘された事柄が事実そうであるならば、そのこと自体の「真偽」「事実性」には関わりがないことでしょう? ということなんです。
私は、私達はこういうところでは「信仰者」や「思想家」であるよりもむしろまるで自然科学者のような態度を持たなければならない、と思う者です。一つ一つの事柄に関する真偽を単純に、丁寧に、そして厳密に確かめていかなければなりません。「部分」を疎かにしては「全体」に対する認識だって完全ではないでしょう。何かに賛成したり反対したりするのはあくまでその後の「結果」であって、私達が第一に基礎的に大事にしなければならないのはそのような研究態度ではないでしょうか。
そのような観点から、私はもし金田さんがここでは小野田神父という人によって提出された或る「事実」に、もしただ蓋をして立ち去るなら、金田さんの立論は完全ではないだろう、確かに穴が空いているだろう、と言っているのです。
私達は何かに対する擁護者であったり反対者であったりする前に「個人」であるべきですし、そのようなまるで自然科学者であるかのような単純さ、丁寧さ、厳密さ、公平さ、拘りのなさ等を心に蔵した者であるべきだと私は思います。

話は変わります。誤解される可能性が大ありなことに気づいたので説明しますが、最初に書いた「二度言明されたことを忘れた訳ではありません」というセリフは、私の怨念を表わしているものではありません(笑) 「そう言われたけどまた入りますよ」という意味でした。
私はその昔臨済によって頭を手酷くひっぱたかれた時に、耳から「プライド」という "ゴミ" が出て落ちまして、ですからこんな時にも意外と涼しい顔をしているのでございます。
そしてまた、「お前は相手にすべきまともな人間ではない」と言われても懲りずにまたヒョコヒョコやってくる別の理由は、一つは無神経だから、良く言って無頼派?だからですが、もう一つには、私は私にとって「まともに相手にする価値のない人間」を一人も持たぬからです。基本的にすべての人類同胞に広く心の扉を開け放っているのは良いことです。そして医者が病人を(金田さんが病人だと言っているのではありません、そういう文脈で言うのではありません)断わっては商売にならず、心理学者が精神疾患を抱えた人を断わっては商売にならないのを思えば、信仰家は基本的に自分の視野の中に「話にならない相手」を持っていては商売にならないと言えるでしょう。それは主イエズスの聖心にも確かに反することでしょう。金田さんも、angelic felineさんも、そして私も、主によって望まれた「霊魂」達です。そのため、もし私が道で金田さんにバッタリ会っても、まあ、少しは困惑するかも知れないけれども(笑)、次の瞬間には意外とあっさりニコニコすることでしょう。
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月04日 12:22
当事者であるヨゼフ・ジェンマさんには痛々しくはないだけでしょう、必死なだけで。
痛々しいと感じるのは外野からの視線ですから。

>それは言われたこと自体の「真偽」には関わりがないことでしょう? ということなんです。

で、そんな些末なことを勝ち取ってなんだと言うんですか?
だから議論がマトハズレだと言ったんですよ。

あなたがワァワァ騒ぐのは、外野席から見ていたら結構面白いので、私は構いませんけど。金田さんがこのブログを立ち上げられたのは、もともとあなたとその周辺の方のためだったようですし、好きなだけ騒がれればいんじゃないでしょうか。貴重な時間を使ってあなたの的はずれな質問に付き合われるかどうかは別問題です。ブログ主さんにその義務は全然ないと思っております。
Posted by angelic feline at 2007年12月04日 13:25
ああ、どうしてそんなに感情的になるのでしょう。。
「勝ち取って」って... だから勝敗を競っているのではないと言ったではないですか。。
私は「信仰云々以前の地平でさえもう少し緻密で正確な議論が可能な筈です」と言っているに過ぎません。
どうしてこう人は簡単に「陣営」に分かれたがるだろう。。
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月04日 14:38
ヨゼフ・ジェンマさん 


 貴殿のお気持ちはよく分かりますが、ここでは貴殿の主張は、正しく理解されないでしょう。

 沈黙を守られるのも、立派な姿勢だと思いますよ。

 また、固有名詞(人名)は出されないほうがいい。貴殿とは、別の人格だからです。
Posted by カーテンレール at 2007年12月04日 19:11
カーテンレールさん。

> また、固有名詞(人名)は出されないほうがいい。
> 貴殿とは、別の人格だからです。
そうですね。読んでいる人に余計な混乱を与えかねませんね。
ありがとうです。

> 沈黙を守られるのも、立派な姿勢だと思いますよ。
はい、まあ、私も自分の中でその頃合いを計っているつもりなのですが。。
(対外的にではありませんよ。対外的には、私はネット界の持つ性質についてあまり神経質でないことも手伝って、かなり無遠慮なのです。反省しなければね。。)

金田さん、すみませんでした。もうここには来ることはありませんよ。
最後にお願いです。もしこの先金田さんがキリスト教精神に進まれようとするなら、正当な正義心は別として、聖ピオ十世会の人達を、軽蔑したり、見下げたり、せせら笑ったり、唾棄したり、見限ったりするのでなくて、たまにはその霊魂のために、どのような意味においてでも良いですから、主イエズスに祈って下さい。ロザリオを通して聖母に祈って下さい。

いつものように非難がましいものを含んだ「お願い」ですが(笑)
私のこういうのも妙な癖ですよね.. (^^;ゞ

ここではさようなら、金田さん!
お元気で。
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月04日 20:45
金田氏はピオ10世会の人々というか主張を「軽蔑したり、見下げたり、せせら笑ったり、唾棄したり、見限ったり」はしてないでしょうね。寧ろかなり敬意を払っていると思います。でなきゃ、ここまで論を尽くしはしないでしょう。単純にピオ10世会の主張する論に対して反論をぶつけているだけでしょう。

批判行為=軽蔑、見下げる、唾棄 ではありません。そこを勘違いする人が多いのはこまりものですね。神学世界なんか批判しあって成長してなんぼの世界ですよ。

ゆえに感情論的な、或いはこの場において信仰の押し付け的なコメント等に関してはうんざりはしてるかもしれません。
Posted by あんとに庵 at 2007年12月05日 02:42
ヨゼフ・ジェンマさん、

貴殿にまともに応答するつもりはない、という意味は、貴殿が当ブログに投稿してきても、常に答えるとは限りませんよ、という意味です。投稿するのは自由ですから、公序良俗に反しているとか、度が過ぎるほどマナーを失していない限りは、削除したり、アクセス制限することはありませんので、いつでもどうぞ。
もちろん、貴殿が自分のサイトで私の記事について何を書こうがまったくかまいません。
ご質問についてですが、angelic felineさんのおっしゃる通りの答えです。

>聖アタナシウスを間違って破門することに同意したことがあったからといって、SSPXの違法叙階を正当化する理由にはなりません。

破門について間違った判断が過去あったという単なる事実は、ルフェーブルの破門が間違っていることの証明にはならないし、ましてや、その破門が無効だということを意味しません。
破門を無効にする権限があるのは、のちの教皇か、それに準じるautholityがあるひとだけです。
聖ピオ十世会は、ルフェーブルらの破門を認めないという言動そのものによって、正統な教会の権威、教皇の権威を否定してしまっているわけです。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月05日 08:56
angelic felineさん、コメントありがとうございます。

>はじめまして(かな?)。金田さん、envoy magazineの訳は読みやすくてとても良い記事でした。
>金田さんの議論は筋が通っていて清々しいです。良い勉強になりますので、時々お邪魔いたします。応援しています。

こういう言葉には素直に感謝いたします。
訳はもっと手直しするべきなんですが、ほかにもやることがあるので放置しています。英訳に自信があるわけではないですが、ほかにするひとがいないので、仕方なく、という感じです。私のように、海外情報を紹介する方が、もっと増えてくれたらと願ってます。
とりあえず、生暖かく見守っていてください。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月05日 09:02
あんとに庵さん、コメントありがとうございます。

>金田氏はピオ10世会の人々というか主張を「軽蔑したり、見下げたり、せせら笑ったり、唾棄したり、見限ったり」はしてないでしょうね。寧ろかなり敬意を払っていると思います。

正直言うと、「似非カトリック」と言った以上、そうとられても仕方がないかな、と思ってます。なぜ「似非カトリック」と言うかというと、私個人にとっては、聖ピオ十世会は、リトル・ペブルや教皇空位論者(Sedevacantist)と同じくくりだからです。とはいえ、そう結論するまで、調べはじめてから一年以上かかりました。
ただ、少なくとも「人々」について軽蔑したり、見下げたり、せせら笑ったり、唾棄したり、見限ったり」していないとは思います。問題にしているのは彼らの主張であって、彼らの人格ではないからです。
実際、ヨゼフ・ジェンマ氏などは、ほっておけば、そのうち真実に気づくだろうと、楽観してます。それが一年先か十年先か、死ぬ直前なのかは分かりませんが。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月05日 09:08
私へのレスがあったし、また「いつでもどうぞ」と言われたので、簡単に前言撤回してまた来ちゃう私ですが.. (^^;ゞ

あんとに庵さん。

しかしですね、あんとに庵さん、端的に言って、
「あなたは私にとってまともに応答する相手ではない」
「半分 "洗脳" されているあなたを説得する気などない」
それから金田さんご自身認めておられるように、
「似非カトリックに過ぎない」・・・

"人間批判し合って成長し合ってなんぼ"
これは私も愛する言い回しですが、しかしねあんとに庵さん、上記のようなものの言い方が、その「成長を促す批判のし合い」において、それほど "普通" なことなのですか?

「あなたは私にとってまともに応答する相手ではない」
「半分 "洗脳" されているあなたを説得する気などない」
これが「見限り」的表現でないとどうして言えますか。

> 寧ろかなり敬意を払っていると思います。でなきゃ、
> ここまで論を尽くしはしないでしょう。
金田さんが論ずることに熱心なのは第一に論ずることが面白いからなので、それ故ここに「でなきゃ」という言葉を置くのは必ずしも適切ではありませんよ。論ずることに熱心な人は論ずることに真摯なのであって、それは必ずしも「人」に対するものを意味しているわけではありません。

> 批判行為=軽蔑、見下げる、唾棄 ではありません。
> そこを勘違いする人が多いのはこまりものですね。
何を言っているのですか、あんとに庵さん。「勘違い」しているのは、あるいは敏感でないのは、あんとに庵さんの方ですよ。私達は私達の議論において、大抵「軽蔑、見下げる、唾棄」等を混入させるのが実態、正直なところではありませんか。(もちろん私だって完全ではありません。ここには私も含まれます。)
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月05日 15:58
金田さん。

入室をお許し頂きまして、ありがとうございます。

> 破門について間違った判断が過去あったという単なる事実は、
> ルフェーブルの破門が間違っていることの証明にはならないし、
> ましてや、その破門が無効だということを意味しません。
> 破門を無効にする権限があるのは、のちの教皇か、それに準じる
> autholityがあるひとだけです。

だからですね、私はそういうあまりに当たり前のことを言っているのではありません。
> ルフェーブルの破門が間違っていることの証明にはならないし、
> ましてや、その破門が無効だということを意味しません。
-----その通りですよ。
> 破門を無効にする権限があるのは、のちの教皇か、それに準じる
> autholityがあるひとだけです。
-----その通りです!
これらの指摘は思わず部屋の中を駆け回りたくほどあまりに当り前のことです。
金田さんは、私がそのようなことを否定したいがために聖アタナシウスの事例を引くと思っているのですか?
-----とんでもない!
私も聖アタナシウスの事例が即ルフェーブル大司教の破門が間違っていることの証明になると思っているわけではないのですよ。
本当に、誰がそんなことを思うのでしょうか。。
こんなこと言っちゃ傲慢だけれど、私も論の進め方において、ものの追究において、そこまで馬鹿ではありませんよ。。

私が言いたいのは、ただ、次のようなことです。
聖ピオ十世会問題に関係なく、その手前において、それ自体として、この聖アタナシウスの事例は、私達カトリック信者の心の中に、ごく自然な形で、一つの《事実》を置く。それは何かと言うと、「その時聖アタナシウス自身にとっては、この信仰における『権威』というものは、単純に教皇にあったわけではないだろう」ということです。「彼にとって『権威の所在』(12/05金田さん) は、単純に教皇にあったわけではないだろう」ということです。その時の聖アタナシウス自身にとってはですよ?「聖アタナシウスの内面においては、確かに教皇の半アリウス主義を受入れた部分については『教皇は間違っている』という確信があっただろう」ということです。そうでなければ正式な破門に至るまで自らの持論に公的に「固執」して頑張りはしなかったでしょうから。
これはものすごく単純なことです。ものすごく容易に見て取れることです。彼の内面における事実はそれです。

そしてここで私はこのことを "わざわざ" 聖ピオ十世会との絡みにおいて取り上げます(何故なら、やっぱり皆さんは気になるのだろうから)。すなわち・・「このことは、このこと自体によっては、『ルフェーブル大司教の破門が間違っていた』ということを証明するものではありません。-----決して。」

私が言いたいのは、基本、それだけなのですよ。

私が気になるのは、金田さんが聖ピオ十世会を意識するあまりに、この聖アタナシウスの事例によって私達が容易に見て取れるものを無視する、それに蓋をする、それがあたかも無いかのように振る舞う、そのようなご態度のことです。
私の考えでは、金田さんは、「一人の聖人の心の中に、『教皇の権威』の上にあるものとして『天主の権威』が想定され、また求められており、その想定され求められた後者の権威にどこまでも従うことによって、彼は間違わなかった」・・この事実を <それ自体として> 素直に認め、受入れるべきなのです。

そして <その上で> こうおっしゃるべきなのです。
「確かにカトリックの信仰において、『教皇の権威』の上にあるものとしての『天主の権威』が想定される。しかしこのことは、天主が人間のためにご自身の権威の可視的な現われとしてこの地上にお立てになった教会の、あるいは教皇の権威との関係において、通常、容易に持ち出されるべきものではない。そこには常に大きな危険が伴うからである。確かに聖アタナシウスの事例は、教皇もその通常教導権においては誤りを犯し得、そのかわりに一人のカトリック信者がそれ自身の『信仰の感覚』において "より正しい" こともあり得る、ということをわれわれに教えている。しかしこれはあくまで歴史が証明したことである。現在に置かれたわれわれが現在の時制において、もしそれと同様のものを持つとしても、どうやってそれを何の危険もなく見出せるというのか。そして天主は何のためにペトロの座をお定めになったのか。それ故、カトリック信者は危険を犯さぬために、通常...etc.」

人間の頭の中というのは本当に "イメージの連なり" でいっぱいになっていて、そのため、なかなか、たった一個の事象からさえ、そこから汲み取るべき、学ぶべき要素を、クリアーな形ですくい上げません。
聖アタナシウスのことは、確かに聖ピオ十世会の主張の中から私達のもとに来ましたが、それでも、何度も言うようですが、「情報」とその「提供者」は別のものであります。私達がいつも「提供者」のことばかりが気になって、それから頭が離れなくて、彼らが好きだとか、反対に彼らが気に食わぬとか言って、そういうものに振り回されるなら、どうして一片の情報からさえ、正しい「学び」ができるでしょうか。
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月05日 16:00
ヨゼフ・ジェンマさん、

> ルフェーブルの破門が間違っていることの証明にはならないし、
> ましてや、その破門が無効だということを意味しません。
-----その通りですよ。

お尋ねしたいのですが、それではヨゼフ・ジェンマさんは、ルフェーブルは破門されたとお考えなのですか?(ピオ10の解釈とは違って) イエスかノーかだけでもお答え願いますか。

>聖ピオ十世会問題に関係なく、その手前において、それ自体として、この聖アタナシウスの事例は、私達カトリック信者の心の中に、ごく自然な形で、一つの《事実》を置く。それは何かと言うと、「その時聖アタナシウス自身にとっては、この信仰における『権威』というものは、単純に教皇にあったわけではないだろう」ということです。「彼にとって『権威の所在』(12/05金田さん) は、単純に教皇にあったわけではないだろう」ということです。その時の聖アタナシウス自身にとってはですよ?

アタナシウスが内心どう考えたか、私にはわかりません。これは、ただの憶測でしょう?
で、アタナシウスがむにゃむにゃ考えていたということと、ピオ10が教会法を無視し、教皇の権威に従っていないことと、どうつながるのですか? ぜんぜん分かりませんが。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月06日 12:12
「『教皇の権威』の上にあるものとして『天主の権威』が想定され、また求められており、その想定され求められた後者の権威にどこまでも従うことによって、彼は間違わなかった」

アリウスも、ネストリウスも、ルターも、デリンガーも、つまり異端や離教者などもみな、主観的にはそう思っていたはずです。ルフェーブルが主観的にそう思って、地上の権威に従わず離教してしまったのと同じことです。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月06日 12:17
>「彼にとって『権威の所在』(12/05金田さん) は、単純に教皇にあったわけではないだろう」ということです。その時の聖アタナシウス自身にとってはですよ?「聖アタナシウスの内面においては、確かに教皇の半アリウス主義を受入れた部分については『教皇は間違っている』という確信があっただろう」ということです。<

それはヨゼフ・ジェンマさんの想像する聖アタナシウスとその時代のイメージで、事実は逆です。

金田さんが訳されたPeter Vereの文章をよく読まれましたか? Ds.209「教皇リベリウスの正統信仰について」のことが出ていたでしょう。Ds209に書かれているとおり、教皇リベリウスはアリウス主義に屈しなかったというのが、聖伝の伝えるリベリウスの姿なんですよ。

聖アタナシウスはアリウス主義者によって5回追放されたなか、2回目の時はローマに逃れています。そこで教皇の支持を得ています。

www.newadvent.org のカトリック百科事典のLiberiusの項によれば、教皇自身もアリウス主義の皇帝によって追放され、対立教皇Felixを立てられ、2年間の監禁と暴力のすえアタナシウス追放に署名をさせられました。
で、当のアタナシウスがどういっているかと言うと"Historia Arianorum"(アリウス主義の歴史)という著作の第41章でリベリウスのことに触れているんですね。
http://www.newadvent.org/fathers/28155.htm
But Liberius after he had been in banishment two years gave way, and from fear of threatened death subscribed. Yet even this only shows their violent conduct, and the hatred of Liberius against the heresy, and his support of Athanasius, so long as he was suffered to exercise a free choice. For that which men are forced by torture to do contrary to their first judgment, ought not to be considered the willing deed of those who are in fear, but rather of their tormentors.
(試訳)しかしリベリウスは2年間追放され取って代わられた後、死の恐れをつきつけられ署名した。しかしこの出来事だけ見ても彼らの暴力的な振る舞いや、リベリウスが異端を嫌悪していたこと、そして彼がアタナシウスを支持していたこと、自由な選択をする限り苦しめられたことがわかる。拷問によって最初の判断とは反対のことを強制された場合、恐怖にある者が望んでやったこととは判断してはならない。それは迫害者の意思なのだ。

上記のアタナシウスの言葉を見れば、
>『教皇は間違っている』という確信があっただろう」ということです。そうでなければ正式な破門に至るまで自らの持論に公的に「固執」して頑張りはしなかったでしょうから。<
とは彼は全然思っていなかったわけで、
今までサポートしてくれたとおり教皇は署名しても本当のところは私の味方であり、教皇とともにアリウス主義には反対していかなくてはいけない、と思っていたのでしょう。

一度カトリック百科事典のリベリウスの項をよく読まれるといいですよ。
http://www.newadvent.org/cathen/09217a.htm
追放されるまでにも皇帝は教皇のもとに賄賂を送ったり脅したり、あめとむち作戦で散々やっていますが、リベリウスは全然屈しなかったし、ローマ市民もリベリウスに忠実を誓い、対立教皇にはそっぽを向いていました。アタナシウスはリベリウスの本心をよく知っていました。
教皇に刃向かう伝統なんてものはカトリックにはございません。
SSPXの固執をアタナシウスの心情になぞらえるなんてことは、おやめいただきたいと思います。

Posted by angelic feline at 2007年12月06日 12:53
あなた方の心情には呆れ返ります。
「心情」という言葉で私が言いたいのはつまり...「私が今迄これほど何度も繰り返し繰り返し『私はこれを聖ピオ十世会擁護のために言うのではありません。これは聖ピオ十世会との関連で言うのではありません』と言っているのに、あなた方には耳がないのですか?」...ということです。
「私はここで、ただただ、一人のカトリック信者の内面に有り得る簡単な信仰の心的な構造について、ごく小さな事柄を言おうとしているに過ぎません」と、何度言えばわかって頂けるのですか?
もちろん、私はここで「議長」であるわけではありませんから、他者の自由な発言を禁止する権限はありませんが、それでも私は、"一つの小さな真理" を確かめるための要するに「議論の秩序付け」というものを、もの凄く気にします。この「議論の秩序付け」に関するセンスということにおいて、私は今回の金田さんの私に対する言葉の投げかけ方には、かなり呆れました。

angelic felineさんのご指摘には率直に感謝致します。
なるほど、教皇リベリウスの置かれていた状況は通常のものではなかった、それほど単純なものではなかった、ということですね。

私はこれから話を始める前に、悲しいことにもう一度同じことを言わなければなりません。angelic felineさん、私が先程言った「あなた方には耳がないのですか?」の「あなた方」には、実は、あなたのことも含まれています。あなたが一番最後に置いた一文によってです。私はあなたの文章と知識とご態度に対して感銘を受けつつ読んでいたのですが、一番最後の文でグッタリしてしまいました。
どうしてこう人は議論において相手に関するイメージにこれほど左右されるのですか。どうして「純粋な議論」、話の進め方ができないの?

いいですか。私は今、「聖ピオ十世会を擁護するため」にではなく、あたかもこれが自然科学における「調査」であるかのようにしつつ、教皇リベリウスの周辺の事柄に関して私よりずっと詳しいと思われる angelic felineさんに、二、三のことをお訊きしますから、angelic felineさん(あるいはその他の方でも)、もし時間があればお願いします。
しかしそれは単なる「事実」に関する調査(確かめ)という意味合いにおいてですよ?
私は私より知識のあるであろう angelic felineさんにお訊きします。もちろん、もし私にその能力があれば、後で自分でも調べますが。
「真理」を掴むための、その手前における一つ一つの「事実」の確実な認識(確かめ)のために、お訊きします。
次の幾つかの質問は「聖ピオ十世会擁護」のためではありません。
いいですか? わかって頂けますか?
私は聖ピオ十世会の神父様の書いた言葉を引用します。しかしそこでとっさに「ヨゼフ・ジェンマはやっぱり聖ピオ十世会を擁護したいのだ」と思わないで頂けますか? ここでは「聖ピオ十世会の神父様を」ではなく、単純に聖ピオ十世会の司祭を通してそこに置かれている一片の「情報を」、扱って頂けますか? 「議論の秩序付け」のためです。私達の議論と意識に余計な "混濁" を入れないためです。
わかって頂けますか?

[angelic felineさんにお訊きします。もし時間とエネルギーとお気持ちがあれば、情報と知見の提供をお願いします。]

1. 私がこのコメント欄の一番最初で引用した聖ピオ十世会の司祭(であるここでは一情報提供者)の文章にはこうあります。
「実証できる文献として、この教皇リベリオが、聖アタナジオを公式に破門したということだけは事実である。」
-----これは事実なの? それともそうではないの?

2. またその同じ情報提供者は、別のところでこう書いています。
> DzS 138 Studens pacis にはリベリオの書簡が引用されている。
>「あなたたち(=東方の司教たちのこと)との一致の心遣いにおいて
> 私(教皇リベリオ)が書いたこの手紙は、次のことをあなたたちに
> 知らせなければならない。すなわち、私はあなたたちとカトリック
> 教会の全ての司教たちと平和を保っているが、しかし既に述べた
> アタナジオは私との交わりから除外されている、つまりローマ教会
> との交わりから、そして教会書簡の交換から除外(破門)されている。」
>
> この聖アタナジオの破門は教皇リベリオの次の書簡によって再度
> 確認されている。
> DzS 141 Pro deifico
> DzS 142 Quia sxio
> DzS 143 Non doceo
-----angelic felineさんはこの教皇リベリウスの書簡周辺について何かご存知ですか?
-----これも、政治的な圧迫によって強制されて教皇が「書かされた」ことなの?

どうか議論における利益・不利益を考えないで(これが極めて重要です)、もし何かご存知でしたら教えて下さい。
「議論における利益・不利益を考えない」・・もちろん私もそうするから、あなたもそうして下さいますか?
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月06日 18:49
事実か事実でないか他人に問いただす前に、デンツィンガーなど自分で簡単に調べられるではないのかと。
Posted by サエキ at 2007年12月06日 19:04
サエキさん。

だからね...どうしてそう情緒的に受け取るのですか。
私はね、「問い質して」いるわけではないんです。いわゆる「対抗的」に言っているのではないの。「証拠があるなら出してみろ」的に言っているのではないのですよ。一切。
これ自体わかって頂けます?

私はごくごく単純に、今自分と語り合っている人がもしそれに関する知識を持っているなら、ここで教えてもらってもいいな、と思っているに過ぎません。
日常でもあるでしょう。もちろん人は「横着」をするべきではありませんし、こんにち大抵のことはインターネットや図書館で自分で調べられますけど、でも、もし今自分の横に立っている人が、あるいは話している人が、その事柄について詳しい可能性があるなら、「ご存知なら教えて下さい」と訊くことは許されるでしょう。日常のごく平凡な情景ではないですか。

いいですか。私はもしここでangelic felineさんが私の質問に答えなかったとしても、議論を避けただの、逃げただの、一切思いませんよ。
そんな俗っぽい感覚を持ってどうするんですか。
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月06日 19:38
ヨゼフ・ジェンマ様>
失礼ですが、話す相手の態度が情緒的だの心情に呆れ返るだの
俗だのと評すること、議論じゃなくて人格攻撃に至っていませんか?
もしも、ジェンマさんが神さまを伝えること、信仰のあり方を
伝えることを一心に考えておいでなら、

>私達は私達の議論において、
>大抵「軽蔑、見下げる、唾棄」等を混入させるのが
>実態、正直なところではありませんか。

このようなご自分の尺度で他人を量らないことだと思われます。
「それが正直なところであるから、良いこと」であるのでしょうか?
人間が完全足り得ないなら、なおそのようなことないように
誰からでもいいからはじめて欲しいと思います。何より、本当に
信仰があるなら、誰に見限られたって主がおられるのだから、
どうでもよろしいことではありませんか!

こんなときこそ、祈って祈って、神様に言うべき言葉を
伺って頂きたいと切に思います。無礼をお詫びしつつ、
(キリストを信じる者として)伏してお願いを申し上げます。

管理者さま、皆さま>
横合いから、失礼をいたしました。
Posted by みち at 2007年12月06日 21:13
みち様。
私の表現に不備があったのかも知れませんが、私が「私達は私達の議論において、大抵『軽蔑、見下げる、唾棄』等を混入させるのが実態、正直なところではありませんか」と言ったのは、「それが正直なところであるから、良いこと」(みちさん)というふうに、つまり「人間は正直であれば、たとえ人を軽蔑することであっても、見下げることであっても、唾棄することであっても、それでいいではありませんか」という意味で言ったものではありません。(それとも、私が「みちさんはそのような形で私の言葉を受け取り、要するに誤解しているのではないか?」と思っていることも、これまた誤解ですか?)
私は、あんとに庵さんが「批判行為=軽蔑、見下げる、唾棄 ではありません。そこを勘違いする人が多いのはこまりものですね」とおっしゃったことに対して、「確かに批判行為は、よく気をつけられていた場合、軽蔑、見下げ、唾棄などを含みはしないでしょうけれども、しかし私達の議論の場の "実態" においては、それほどよく気をつけられてはいないので、軽蔑、見下げ、唾棄などを含む場合が相当あるのではないでしょうか。まずその私達の心の動きの "実態" にもっと敏感に "気づく" ことが大切なのではないでしょうか」というほどの意味合いで言ったのです。

それで、
> 話す相手の態度が情緒的だの心情に呆れ返るだの俗だのと
> 評すること、議論じゃなくて人格攻撃に至っていませんか?
ということですが、確かにこういうことは難しいと認めます。難しいと言うか、私の不足かもしれません。「呆れ返る」とか「俗っぽい」だとかいう表現が、「あなたは私にとってまともに応答する相手ではない」とか「半分 "洗脳" されているあなたを説得する気などない」などという表現よりも、「それが人格攻撃であるか否か」の点においてずっとマシだろう、などと言っても実際は(言葉を受け取る相手がいますから)無意味かも知れません。
確かに「呆れ返る」「俗っぽい」これらの言葉を排除しつつ書くことも可能でした。

ただ、みちさんは、
> 何より、本当に信仰があるなら、誰に見限られたって
> 主がおられるのだから、どうでもよろしいことではあ
> りませんか!
とおっしゃっていますが、私は金田さんの発言を指摘させて頂くことにおいて、その動機は、「自分の心が傷付いたから」ではありません。全体の図式・情景から言って、一般にはそう思われまた見られるでしょうけれども、実はハナからそうではありません。
金田さんだけではありません、私だってそうですが、人は誰でも、時に率直に言われなければ自分の姿に気づかないからです。そして、言って気づく可能性がある限り、私は言います。
私は基本的に、金田さんであれ誰であれ、たとえ私にどんな酷いことを言ったとしても、その人を排除しません。心の扉を閉めることはありません。何故なら私達はどんな人であれ一人残らず天主様から作られた天主様の愛の対象である「霊魂」達であり(霊魂は「人格」の下に、内側にあります)、そして 人格においては「成長」の途上にある者達だからです。幼きイエズスの聖テレジアもシエナの聖カタリナも、人間の「人格」の奥に隠されている「霊魂」を見て、殺人・強盗あらゆる悪を為した極悪人のために祈りました。もし私に彼女らに学ぶ必要があるなら、その時極悪人達はある意味私の兄弟です。そしてたとえ「カトリック的でない」と言われようとも、教皇空位論者もリトル・ペブル教団の人達もある意味私の兄弟です。ですから、本当は、私の私心においては金田さんの多少の発言は何程のものでもありません。それが、上のコメントで「もし私が道で金田さんにバッタリ会っても、まあ、少しは困惑するかも知れないけれども(笑)、次の瞬間には意外とあっさりニコニコすることでしょう」と言った所以です。

でも、キリストを信ずるみちさんのお心をお騒がせしたことを反省します。以後、自分の言葉遣いに気をつけます。
申し訳ありませんでした。
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月06日 23:04
ヨゼフ・ジェンマさん、

私の次の質問にお答えいただいてないんですが。
再掲します。


> ルフェーブルの破門が間違っていることの証明にはならないし、
> ましてや、その破門が無効だということを意味しません。
-----その通りですよ。

お尋ねしたいのですが、それではヨゼフ・ジェンマさんは、ルフェーブルは破門されたとお考えなのですか?(ピオ10の解釈とは違って) イエスかノーかだけでもお答え願いますか。」
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月07日 08:20
みちさん、サエキさん、コメントありがとうございます。


ここでみなさんにお知らせがあります。
シーサーの仕様がどうなっているのかよく分からないのですが、一記事に対するコメント総量に制限があるかも知れません。
従って、限界に達した際、コメントが反映されない可能性があります。
そこで、みなさんにお願いですが、投稿時にはあらかじめコピー等しておくことをおすすめします。
反映されなくなった場合は、メールでご一報いただけたら幸いです。別記事を作成して、そこで議論が継続できるようにいたします。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月07日 09:01
他人のやりとりに口出しするのは何ですが。

>事実か事実でないか他人に問いただす前に、デンツィンガーなど自分で簡単に調べられるではないのかと。(サエキさん)

というコメントに対して、

>サエキさん。
>だからね...どうしてそう情緒的に受け取るのですか。(ヨゼフ・ジェンマさん)

という反応はどう考えても変でしょう?
サエキさんはちっとも情緒的じゃないです。事実関係を確かめたいなら、しかるべき文献があるのだから、ご自身でも調べられたらどうですか、と言っているだけです。

>私達は何かに対する擁護者であったり反対者であったりする前に「個人」であるべきですし、そのようなまるで自然科学者であるかのような単純さ、丁寧さ、厳密さ、公平さ、拘りのなさ等を心に蔵した者であるべきだと私は思います。(ヨゼフ・ジェンマさん)

「科学者」は他人の受け売りを「たれ流し」したりしません。まず自分で調べて、自分で確認します。サエキさんが指摘しているのは、ヨゼフ・ジェンマ氏がそれを怠っていることです。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月07日 09:08
管理者様、皆様>長文、すみません。これで終わりに致しますので。

ヨゼフ・ジェンマ様>
私は、ジェンマさまのサイトも以前から閲覧しております。信仰というものを一心に考えられている方と思っております。それゆえに、あえてコメント差し上げました。

残念ながらネット上は、表示されたテキスト以外判断材料が無いです。
それゆえ一つ一つの言葉選びを誤れば、意図しておられないことも伝えてしまう危険性もあるメディアです。それについて後々「このつもりであった」「あのつもりであった」という訂正が利きにくい性質も持ちあわせています。
ジェンマさまの信仰を思うなら、下手な信者の百倍祈っておられましょうし、「しかしみこころのままに」という姿勢も呼吸のように自然であられることでしょう。それゆえ、勿体ないと思うのは確かに世俗的なつまらぬ思いかも知れません。ジェンマさんという方を深くご存じない方々には『そう取られかねない』こともあることについて…余計ながら指摘させて頂きましたことも、ジェンマさまにはくだらぬことかも知れません。

しかし、それでは口惜しいと思う愚かな人間もありますのです。

ネットが環境さえあれば誰にでも読めるメディアである以上、公開での対話は「討論相手のみでなく(ある意味)閲覧者も相手」であることをご理解いただけますと感謝いたします。
ただ、「手段は目的を正当化しない」というお叱りがあればそれは慎んで頂戴させて頂きます。何よりジェンマさまに対しての無礼、侮辱だったなら重ね重ねお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。
Posted by みち at 2007年12月07日 14:17
金田さん。ここは金田のブログなのに、長々としたコメントをする不作法をお許していただいて、ありがとうございます。

さて、ジェンマさん。
結論から言うと、教皇リベリウスがDS138、141,142,143を本当に書いたかどうか、学者間で意見が分かれ、結論が出ていません。この問題はオープンに議論されていいものとなっています。

アタナシウスを破門するよう皇帝コンスタンティウスから呼び出されたとき、リベリウスはカプアのヴィンセントを特使として送り込んでいます。暴力に屈したヴィンセントが無理矢理署名させられたことを悲しむ手紙を、リベリウスはコルドバのホシウス宛てに送っています。

353年にアタナシウスがローマに到着すると、彼を破門しないリベリウスを非難した手紙が皇帝から届きます。それに対してリベリウスはObsecroという書簡で、東方の司教たちよりはるかに多い数のエジプトの司教たちがアタナシウスとともにあるので、彼を破門することはできないと堂々と反論した手紙を送り返します。
皇帝への書簡を送るたび、それを運ぶ特使たちは叩きのめされたり、追放されたりといった憂き目に遭います。ポアティエのヒラリウスもその一人です。
ついにリベリウス自身が引き立てられ皇帝にいるミラノに連れて行かれますが、
ニケア信条を捨てアタナシウスを破門するよう迫られ、3日間考えるように言われても「3日だろうと3ヶ月だろうと、気持ちは変わりません。私はすでにローマ市民に別れを告げてきた」と拒否したためベレアへ追放となったのです。

そこで2年間の監禁・拷問のすえに署名したものを「公式の破門」と呼べるかどうか、私にはわかりません。ヨゼフ・ジェンマさんの情報提供者にとっては「公式」になるのでしょう。
しかしリベリウスの問題は、教会史上、ローマの権限を貶めたい者が出るたびに取り上げられてきました。17世紀にフランスの教会がローマから独立しようとしたガリカニズムの隆盛期や、プロテスタントが出てきたときなどです。そういう者たちにとっては、リベリウスは「公式に破門した」ということにならないと都合が悪いんじゃないでしょうか。
たとえリベリウスがローマに帰ってきたあと、アリウス主義を一掃し、教会会議で皇帝から無理矢理署名させられた司教たちを許し正統信仰を確認したうえで復権させたという事実があっても、彼らにとっては「公式に破門した」というストーリーが必要なのだろうと思います。

リベリウスの書簡については
http://www.newadvent.org/cathen/09217a.htm#IV
そのサイトのIV.Forged letters(捏造された手紙)の章に詳しく書かれていますが、ことは複雑で、全部を説明するには時間も労力もかかりますし、私自身まだ十分な理解に達しているとは言えないと思います。ですから、一部のみを取り上げることをご了承ください。

Studens paci(DS138)は16世紀にバロニウスが書いた歴史書以来、捏造によるものという見方が一般化していますが、それでも真正であるととなえる学者たちもいて、結論は出ていません。
聖ヒラリウスは、この手紙がアキレイアのフォルトゥナティアン(アタナシウスを糾弾したアリウス派の一人)によって偽造された可能性があると見ています。

また皇帝に反論した時の手紙Obsecroが改竄されてPro deificoができ、Quia scio uosはリベリウスが証聖者たちにあてて書いた手紙Quamuisとまったく逆のことが書かれており、Non doceoはホシウス宛てに書かれた手紙を改竄したものだということです。

もし357年に書かれているこれらの手紙が真にリベリウスのものだとしたら、359年に皇帝が招集した(アリウス派の)Seleusia教会会議やRimini教会会議に教皇が呼ばれていない、教皇の代理人も派遣されていないというのは不思議な気がします。この事実から個人的には、リベリウスは皇帝に屈しなかったし、デンツィンガーに残っているのは偽造された手紙であったという説に説得力があるように思います。

端折りすぎて意味が通じなくなっていなければいいんですが。

Posted by angelic feline at 2007年12月07日 15:24
管理人さん、
 
 差し支えなければ、お聞きしたいです。

 「カトリックの擁護」というと、教皇様の首位権を認めない、プロテスタント諸教派からの、カトリックの擁護かと思います。

 しかし、聖ピオ十世会の批判記事が多いのにびっくりです。生き生きと楽しそうに批判されていますが、何故そんな小さな修道会に興味を持たれたのですか?

 もうひとつ、実際に聖ピオ十世会の正式メンバー(つまり、司祭・助祭・神学生)に、直接会って、取材をされたことはあるのですか?
 
 ヨゼフ・ジェンマ氏は、HPを見る限り、使途座につながる日本の小教区のカトリック信徒であり、聖ピオ十世会(修道会)とは無関係の方なのではないですか?
 彼の考え方が、聖ピオ十世会の考え方を代表するものではないでしょう。

 1980年ごろ上智大の神学者も、ルフェーブル師の運動を、公会議後の混乱のひとつの反応と、捉えられていました。違法な司教聖別さえしなければ、どうなっていただろうと思います。
Posted by オムライス at 2007年12月07日 15:59
angelic felineさん。
私はあなたを尊敬します。
しかしその前に感謝ですね。「何かご存知でしたら教えて下さい」という私の希望に対して、このようにご親切に、手間を惜しまず書いて下さったことに、心から感謝申し上げます。これを書くために、本を開いたりサイトのURLを確認したりきっとなさったことだろうと思います。時間がかかっただろうと思います。本当にありがとうございました。

そして、angelic felineさんの文章から伝わってくるangelic felineさんの心の動きに、私は感銘を受けました。
(確かに前回は一番最後に余計なものが付いていたけれどね...笑。 あ、ごめんなさい、「余計な」なんて、また私は無神経な言葉遣いをしていますね。でも、要するに、私は皆さんが思い込んでいるほど聖ピオ十世会擁護に "血道を上げている" わけではないんですよ。それよりもまだ論じられていないことがあれば取り上げて「共に調べましょう」というほどのことなのです。それを何から何まで対立的・対抗的に受け取られると困ってしまって...。わかって頂けますか?)

教えて頂いた内容をきちんと受け止めさせて頂きますね。
色々なことが考えられます。色々なことを考えなければなりません。
そして調べても調べ切れない闇の彼方の事柄もありますね。確かに。

私は今日、市立図書館に行って来ましたが、この問題について詳しく書いてあるものはありませんでした。後日教会の図書館でデンツィンガー他いろいろ探してみようと思いますが(あ、だからね、この熱心は聖ピオ十世会擁護のための熱心ではありませんよ。一つの究明癖。)、きっとそれでも何事も確実に「証明」されることはないでしょうね。

> そこで2年間の監禁・拷問のすえに署名したものを「公式の破門」
> と呼べるかどうか、私にはわかりません。
教皇レベリウスが聖アタナシウスの破門宣告文を書いた時というのは、間違いなく「監禁」の時期なのですね? その時期以外で、自分で落ち着いて、自ら半アリウス主義を肯定する心において、それを書いたのでは〈ない〉のですね?
(いや、今回もまたこれは「問い質し」ではありません。angelic felineさんにお時間とご余裕があればの話です。私は私自身で調べますから。-----それも「論戦に勝つ」ためにではなくですよ?)

文書的にはやはり「公式」の "形" を取っているのでしょうね。
でもそれは教皇リベリウスの真意ではなかったと。そして聖アタナシウスもそれを知っていたと。だから確かに命令書は教皇リベリウスから来た "形" であり、聖アタナシウスはそれに従わなかったけれども、しかし "真実" においては聖アタナシウスは決して教皇に逆らわなかったと。

あと、こんな残酷な立論を立てることもできるかな。
「教皇リベリウスは正統信仰を否定する文書にあくまでサインすべきでなかった。監禁であれ拷問であれ、あくまでサインすべきでなかった。正統信仰を護るために。」

> 端折りすぎて意味が通じなくなっていなければいいんですが。
そんなことはありません。
何度も言うようですが、私はあなたに感謝します!
ありがとう!
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月07日 19:25
みち様。
みちさんのおっしゃることは本当だと思います。
みちさんはご自分のことで「世俗的なつまらぬ」「くだらぬ」「愚かな」などという言葉を使っていらっしゃいますが、本当は私のやっていることの方が神の御心に適わぬのかも知れません。
私は、ものすごく、「みこころのままに」、これが苦手です。信仰者であればどうしても心の一定の場所にこれを持っていなければならないのでしょうが、でも、正直私にはわからぬところがあるのです。私達の教会は、熱心に祈ってさえいれば、大丈夫なのでしょうか。良い方向に行くのでしょうか。祈りが第一であり根底であることは疑えません。でも、祈っていさえすれば、あとは一から十まで黙していていいのでしょうか。もし、私がそうしていたら、司教様から聖体拝領の際の跪きの許可を得ることはなかったでしょう。聖コルベ神父様も言論を使いました。「祈りだけではなく」とおっしゃいました。シエナの聖カタリナも「世界は沈黙のゆえに腐っている」と言いました。http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc8204.htm そして『指針 あがないの秘跡』も、場合によっては信徒が声をあげるべき必要を訴えています。
そんなわけで、概して、私は従来型の?カトリック信者より言論の力に期待する者です。
でも、それにしても、みちさん、私のここでの在り方には過剰なものがあったと思います。それはきっとみちさんが感じていらっしゃる通りだと思います。
わかりましたよ、みちさん。撤退します。

(金田さん、そんなわけで、ごめんなさい。)
Posted by ヨゼフ・ジェンマ at 2007年12月07日 19:26
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