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●ブンガク

 普段から「知性派」で「文芸キャラ」で「インテリ」な方々は当然御存知でしょうが(笑) 言論界では「左翼」を「サヨク」と書くことがある。

 この出典は島田雅彦の小説「優しいサヨクのための喜遊曲」から取られている。

 なぜ「左翼」ではなくて「サヨク」なのか。

 当時「左翼」といえばマルクス主義でしたが、この島田雅彦が登場した頃は、一時期大流行だったこの「マルクス主義」もソ連や中国のあんまりと言えばあんまりな社会状況が広く知られるようになり、すっかり威光が薄れていました。

 そんな情況(今とあまり変わらない情況・・・要するに「政治の季節」が終っていたということです)で左翼的な運動(日本で「市民運動」なんてやるのは9割5部宗教か左翼なのですが)を続ける学生っていうのはどういう学生だったかというと、決して「マルクス主義さえ導入すれば社会はみんなうくいく」なんてことを本気で信じていた訳ではありませんでした。

 彼らの多くは「社会の不正に無自覚ではいられない」という後ろめたさや、「自分は<社会正義の側>に立っている」という陶酔感に浸るために運動に身を投じていきました。
 そんな彼らにとって「運動によって社会が変わってゆくこと」はもはや二の次、三の次であり、「運動を続けてゆくこと」自体が目的と化していました。
 勿論、こういった転倒現象は60年代、70年代の「政治の季節」にも数多く見られましたが、すくなくともここまで表面化することはありませんでした。

 運動を続けている彼ら自身、多くの人がこのことに自覚的であり、こういった彼らのことを島田は自嘲を込めて「左翼」ではなく「サヨク」と呼んだのです。

 で、この「サヨク」の話が「文学」と何の関係があるのか・・・・

 賢明な皆さんはもうお気づきですね、島田雅彦の登場から十年強、今度は「文学」が「ブンガク」となってしまった訳です。

 具体的に説明しましょう。
 
 昔・・・と言っても(日本の場合)戦前の一時期から戦後すぐあたりまでは、若い世代というのは唯一最大の<物語>メディアである「小説」から<世界>を学んだ訳です。
 丁度、今の私たちが「こち亀」で交番勤務のイメージを掴んだり、NHKの大河ドラマで歴史に興味を持ったり「ドラクエ」でファンタジーというジャンルを知ると言ったように、この時期の人々は漱石や鴎外、あるいはカフカやヘミングウェイを楽しむことを通して、いろんなことを考えたり、興味を持つ「きっかけ」を得ていた訳です。

 ところが、ですね。
 日本の場合、戦後あまりにたくさんのメディアが短期間に、それも爆発的に発展してしまったために、「文学」はたちまち「唯一絶対のメディア」から転がり落ちてしまった訳です。
 それに輪をかけて、肝心の「小説家」「評論家」といったいわゆる「文壇」の人々は先述の島田雅彦の登場する少し前あたりからどんどん権威化していって「文壇」の外のことには関心がなくなってしまいました。
 「俺たちは<文学>なんて高尚なものをあつかっているから偉いんだ」という意識ばかりが肥大して、先述の島田を筆頭にロクに小説も書かずに講演や雑誌への寄稿で世の中に物申すことばかりに一生懸命になる人々が続出してしまったのです。

 そうなると当然、「文学」は誰も読まなくなりますね。
 本当に「面白い」作品は減り、売れるのは赤川次郎や西村京太郎といった・・・そう、漫画でいうと「ドラゴンボール」や「GTO」「ARMS」といった週刊誌の少年漫画、時代劇で言うと「水戸黄門」のようなほとんど「消費財」としての作品ばかりになってしまいました。

 さっきの「左翼とサヨク」の例えでいうと、中国やソ連の失敗でマルクス主義の失敗がいよいよ明らかになってしまったような状態です。

 そんな中でも「文学」を読みつづけるのは一体どういう人たちでしょうか?

 これは、みなさんもよ〜く、御存知の筈です。
 なんせ、こういった現象が顕著になったのは90年代後半の話。
 あなたの高校時代「俺は<文学>を求めるんだ」と息巻いたり、書架に村上春樹を並べて悦に入る方がクラスに一人は居たはずです。
 痛々しい光景ですね。

 彼らが敢えて<文学>にこだわる理由は何でしょうか?
 それは大抵の場合<こういうのを読んでいるとカッコイイから>という理由ですね、言うまでもなく(笑)
 つまり誰も小説を読まなくなった結果、昔は珍しくもなかった「文芸キャラ」がファッション的な希少価値を発揮するようになってしまったのです。

 そんな彼らが好んで読むものは・・・・当然小説が古典の時代から積み上げてきた上にある「ちゃんとした作品」ではなく、先述した「こういうのを読んでいるとカッコよさそう」というイメージを優先したものになりがちです。

 具体的にいうとやたらと「殺人」「性の問題」「麻薬」「自殺」「暴力」「心理学用語」が頻出する小説です(笑)

 要するにこういうことですね。
 
 彼ら<今時小説を読む人>は先述のように「中身」よりも「カッコ」優先の人が殆どですから、漱石や鴎外は教科書程度に知っていても三島、川端で早くも黄信号、遠藤、安岡はもちろん、カフカやドフトエフスキーなんて海外作家になるとまず実質的には「読んでいない」ケースが多いのです(「目を通した」のは「読んだ」とは言わない・・・念のため)

 こう言う人たちにいわゆる「高いレベルの作品」と言ってもピンとこない訳ですね。
 ちゃんとした肉料理を食べたことがない人には「びっくりドンキー」のハンバーグが「至高のメニュー」に思えてしまうものです。

 って、ことで今現在、日本で売れている「純文学」作家・・・辻某、桜井某、江国某、町田某、そして今話題の田口某に早稲田に一芸入試で合格した綿矢某・・・ガラが悪い方の「村上」先生はデビュー数年はそうでもなかったけれど、ここ数年はすっかり・・・という方々の作品の殆どは先ほど私が例を挙げたような「カッコ良さ気に見える要素」をとにかく詰め込んだものに仕上がっています(本屋に行ってカバーのあらすじを見よ!)

 さて、ここで問題です。
 こういった「とにかく特定の要素が入った小説」というものは実は「文学的才能(笑)」とか「作家性(大笑)」なんて御大層なものがなくても、書けてしまうものなんですね、だってとにかく「特定の」カッコ良さ気な要素が入っていればいいんですから。
 そう、みなさんが大好きな「スレイヤーズ」や「魔術師オーフェン」が「魔法」や「美少女」や「願望充足型の<燃える>展開」さえ入っていればという安易な類似品を大量に生み出してきたのと全く同じな訳です。

 こういった「とにかく〜さえ入れてしまえば」という実質的には機械的な作業によって生み出された似たり寄ったりの作品群・・・これらは少なくともその作成過程に、そして作者の意識段階に、それまでの「文学」と明確な隔たりがあります。
 果たして、この一連の作品群を、「赤頭巾ちゃん気をつけて」よりはむしろ「スレイヤーズ」に近い形で量産されるこれらの作品を、ただ「哲学っぽい」「心理学っぽい」要素が入っているからと言って「文学」と言っていいのか・・・・?

 「そんなはずないだろ」と言った評論家が居ました。
 彼の名は大塚英志、このサイトでもよく名前が出てくるサブカル評論家です。

 御存知の通り、大塚自身「スレイヤーズ」や「オーフェン」と同じような「ジュニアノベル」の作者でもあります。
 
 「死体」や「麻薬」や「心理学」がこれみよがしに出てくる「多重人格探偵サイコ」は大塚の「ああいうひとたち」への皮肉なのです。

 大塚はこれらの「文学」を「特に才能がなくても書けるもの」(ブンガク、と揶揄される)であるとし、痛烈な批判を開始しました。

 しかしせっかく売れている作家を潰すようなこの大塚の批判(「サブカルチャー文学論」「物語の体操」)は「文壇」関係者から否定的に受け止められ、その結果「大塚側:ブンガク批判」vs「反大塚側:ブンガク肯定」といった形でちょtっとした論争が起りました(純文学変質論争)

 もっとも「文壇」自体がローカルな業界なので、あまり一般的には知られておらず、この論争自体も注目こそ浴びましたがそれほど盛り上がったとは言えません。
 しかし、現在にいたってもこの「ブンガク」をめぐる論争は、大塚の宿敵である大月隆寛の比較的大塚に近いスタンスでの乱入(「今時のブンガク」「腐っても文学」)などを経て、混迷を深めながらも続いています。(たとえば大塚の視点はいわゆる文学が「ブンガク」になったことを引き合いに、自分が携わってきた「おたく文化」の手法も含めて「文学」という概念の再構成を目論んでいる?のに対し、「ブンガク」というフレーズを最も多用していた大月隆寛はより徹底した(ある意味アナクロ趣味ともとれる)「ブンガク」批判を続けている)

 私見を述べさせていただければ、この問題の恐ろしいところは簡単に他のジャンルに飛び火してしまうところです。
 
 辻某や桜井某が「そういうのがカッコイイと思っている」「びっくりドンキーしか知らない肉料理好き」に受けているとするならば、「邦画」なんてジャンルはもう何十年も前に「ホウガ」になってしまっていることになります(事実アニメ以外壊滅していますが)
 更に村上春樹、吉本ばななといった決して「ブンガク」的に創作されたものではない作品群も、「あの辺の要素が入っている」というだけに「ブンガク」好きたちが群がってしまうという不幸な現象が起っています。
 (最も痛々しかったのが「エヴァ」を真に受けた連中の「深読み」・・・・・)

 このように、この「ブンガク化」ともいうべき現象は「文学」なんて死んだジャンルの問題というよりは、ここ十数年の日本文化全体の、ひいては社会全体の問題(「つくる会」の支持者なんてはっきりいって「ホシュ」又は「ウヨク」としか言い様がない)なのです、実は。

 ・・・なんていうのは大月隆寛の受け売り。
 「腐っても文学」の発売直後に本人に「あの文脈で90年代全体総括出来るじゃないですか」と言ったら「でも<損はさせてない>程度にしか売れてないからなあ」と苦笑していました。

 やっぱりコトの発端が「文学」じゃあ一般人へのアピールが弱いのでしょう。
 また「エヴァ」みたいな痛々しいアニメが流行ってくれればね・・・・って、それはそれでイヤだけど(笑)

 まあ、ながながと書いた結果、みなさんにアドバイスがあるとすれば

 「自分がたまたま感動した」からといってそれが「至高の肉料理」だなんて思い込まないこと、ですね。
 もしかしたらそれは「びっくりドンキー」のハンバーグかもしれないですからね。
 下手に鼻息荒くしない方がいいですよ、「これが俺の感性だ」なんて言っちゃうとあとですごく恥ずかしい思いをしますから(笑)


                                                 (文責:大村)

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