AIRWOMAN COLLIES
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コリーを飼うことができなかった学童期、TVドラマで見る
コリーではない、生きた現物のコリーで思い出に残る犬が
4頭居る。
父が入院していた病院の中庭で飼われていたセーブルと
トライのペアと、小学校の同級生が飼主に返さず飼ってた
セーブルと、私になついて、そろばん教室から自宅まで
付いてきた大きな迷子のセーブルのオスのコリーである。
その家まで付いてきた迷子のコリーを飼いたいと父母に
頼んだが、子供に大型犬は世話できないと許してもらえ
なかった。
そして、翌朝、家の前の道路の50m先のセンターラインの
上に静かに横たわる茶色の死体を発見した。その迷子の
コリーだった。
うちで飼っていれば死ぬことは無かったのにと後悔した。
可哀想で可哀想でしかたなかった。いつか自分でお金を
貯めて、犬を飼える様になったら、絶対にコリーにしよう、
絶対に迷子にしないように、絶対に交通事故に会わせない
ようにしようと決心した。
どんな犬の幸せも命の安全が保たれた上での話である。
脱走して交通事故で死ぬ可能性があるのに、飼育環境を
改善しないような飼主は、私にしてみれば、飼育不適格者
以外のなにものでもない。命を守ってやれなくて、いったい
なんのための愛情だろうかと思う。そんなのは自己満足の
為の一方的な愛情に過ぎない。いや、愛情だと錯覚した
自己満足といった方が良いかもしれない。
犬にかける優しい言葉も、美味しい御飯も、行き届いた
手入れも、命の安全が保てない飼い方であれば、全く
意味が無い。どうして世の中には、犬が脱走するような
環境で飼うことを深刻に捉えない人が居るのか不思議だ。
交通事故にあった犬の亡骸を見たことが無いのだろうか。
滅多に車が入ってこないような閑静な住宅街とか寒村の
ような僻地でしか、犬を飼ったことがないからだろうか。
自分の犬が、脱走したのに、たまたま運よく生きて戻って
きたから、全ての脱走犬が生きて戻れるだなんて呑気に
考えているのだろうか。
私の幼い頃の最も鮮烈なコリーの思い出は、楽しそうに
走るコリーでもなければ、飼主に甘えるコリーでもなく、
朝靄の中、冷たい道路に横たわる哀れで悲しい交通事故
死体である。
今のような交通量のない時代だったけれども、夜間に
ふらふらしていて轢かれたのだろう。何十年の年月が経ち
どこもかしこも車だらけの世の中で、犬が脱走してしまう
可能性を完璧に絶つ努力をしない人は、若かろうが、犬に
優しかろうが、有り余るほどのお金をつぎ込もうが、犬の
生命の安全を保てない、命を重く捉えることのできない
飼育不適格者であると私は思う。