【岩村】山城の麓に一筋にのびる城下町

町並み紀行:まちづくり取材

東海・北陸・信越地方
愛知淑徳大学 谷沢明研究室

土佐屋2階から町並みを見る

2001年度から愛知淑徳大学研究助成費を受けて、日本の街やむらを歩き始めました。私は学生の頃(1970年代)、古い町並み中心に見て回っていましたが、この助成研究では、「歴史・風土・文化を活かした地域づくり」を中心に、まちづくりや地域文化の振興の実践例をテーマに歩いています。フィールドワークのスタイルは、宮本常一先生から教えを受けた「あるく・みる・きく」。行った先々で、多くの方々にお世話になっています。そこで見聞したこと、教えられたことは教育活動で若い学生たちに極力伝えようと思っています。皆様の街に訪ねることもあるかと思います。そのときは、どうぞよろしく。

岐阜県恵那市岩村町、2006.5.6取材


藩主邸宅跡から町並みを望む




木村家




木村家裏の海鼠壁土蔵




土佐屋




土佐屋裏の天正疎水




勝川家




浅見家




古い看板がある水野薬局

 岐阜県東南部に位置する、山間の城下町岩村。恵那市の市街地から阿木川湖の湖畔を通り、国道257号を南下し「日本一の農村景観」といわれる富田地区を経て、城下町・岩村に到着。岐阜県南東部には、中山道の宿場であった中津川・恵那、そして山間部に岩村・明智の街があり、それぞれ周辺農村部の拠点の町場となっていたが、岩村と明智は、平成1610月、恵那市に合併された。旧岩村町には、日本三大山城の一つである岩村城址をはじめ、国選定の重要伝統的建造物群の町並みが残されている。

 岩村には、何回か足を運んだことがあるが、今回、初めて富田地区を訪ね、展望台から「日本一の農村景観」といわれる風景を眺めた。高台からは、岩村城址、武並山を背景に、農家や土蔵が点在する岩村盆地の風景が広がる。「日本一の農村景観」は、昭和63年に京都教育大学木村教授が名付けたもので、「第7回日本のむら景観コンテスト」の集落部門で農林水産大臣賞(最高賞)を受賞した集落景観だ。

 岩村に到着後、岩村城址を目指した。霧ケ城ともいわれた岩村城址は、海抜721メートルの山城だ。今回は、車で頂上まで登ったが、前回は、藩主の館が置かれていた歴史資料館から東に向かって延びる登城道を30分ほどかけてあえぎつつ登ったことを覚えている。藤坂を登ると一の門跡。ここからが、岩村城の本城となる。周囲には見事な石垣が残っている。一の門跡には、当時は二階建ての櫓門が建ち、番所や多門があったというが、今は跡形もない。付近の石垣は、中世末期に積み上げられたものという。土岐坂を経て、大手門跡へと向かう。かつて、このあたりに平重門や櫓門があったというが、今は桝形のみ往時の名残をとどめる。

 大手門跡を過ぎると、ほどなく本丸跡だ。堅牢な石垣に固められ、平地が広がっている。本丸跡には、岩村城のいわれを記した案内板が立っている。岩村城は、文治元年(1185)、加藤景廉(源頼朝の重臣)が地頭職に捕せられ、景廉の長男の景朝が岩村に移って遠山氏を名乗って居城としたのが始まりという。戦国時代になると、秋山信友(武田信玄の臣)が岩村城を奪うが、ほどなく信長の軍に破れた。以後、城主は、河尻氏、森氏三代、田丸氏とめまぐるしくかわる。そして、関ヶ原合戦後、松平家乗が城主となり二代をすごし、丹羽氏五代、松平氏(分家)七代を経て明治維新をむかえた。

 岩村城址の西方、岩村川に沿って城下町が広がっている。川の北側が武家屋敷の置かれたところで、南側が町人が住んだ町である。東西に一筋に延びる本町通りが、町人町として形づくられたところだ。以前は、岩村川上流にあたる東の方から、上町・中町・下町と呼んでいたが、今は、すべて本町通りとなっている。

 今日の残る岩村の城下町づくりは、天正10年(1582)まで在城した織田家譜代の臣・河尻秀隆が手がけた。河尻秀隆は、岩村川左岸の町人町を東から西へ通ずる道路(現在の本町通り)を中心に、左右にそれぞれ二本の用水を設置した。これは、「天正疎水」と呼ばれる用水路で、今も町家の屋敷を清らかな水が流れている。そして、岩村川を挟んで武家屋敷と町家を配置する町割りを行なった。この城下町づくりは、江戸時代に入り、松平氏入封後に完成したという。本町通りの枡形の西側に町並み続きに延びる西町・新町地区は明治39年の岩村電車開通と共に発展した歴史の新しい町並みだ。

 歴史資料館から南に下った道が本町通りに交差する場所に、常夜灯がたっている。竿の正面に「太神宮」、右に「金毘羅大権現」、左に「秋葉大権現」、裏に「明和二年創立、寛政七年再建之」と刻まれている。岩村の町は、明和2年(1765)に大火にみまわれ、火伏せを祈願して上町・中町の有志が建立した常夜灯だ。

 町中には、この大火後の明和6年(1769)に再建された浄光寺が建っている。本堂は、火災を防ぐため土蔵造りの珍しい建築様式だ。

 

 常夜灯から西に向けて、本町通りが延びている。常夜灯付近の旧上町界隈は、ひなびた感じの家並みが続いている。本町通りの中心地には、木村邸、土佐屋、勝川家(この3軒は公開)、浅見家などが昔の面影を伝えている。

 木村邸は、格子造りの堂々たる家構えをしている。木村家は、もと、三河挙母の藩士で、岩村藩主に招かれてこの地に移り、問屋を営んだ家である。その来歴と関係してか岩村藩とのつながりが深く、藩財政窮乏の折は、御用金を用立てていたという。たとえば、岩村藩駿河領の水害や、西美濃領の凶作の時は救済事業に手をかし、岩村藩江戸藩邸火災の折はその復旧に金品を用立てたという。木村家は、町人でありながらも藩主から特別な存在として認められており、藩主がこの家を幾度となく訪れたという。そのため、屋敷には藩主出入りの玄関があり、表通りに面した格子には、武者窓もついている点が、一般の町家とは違っている。

 土佐屋は、明暦3年(1657)に亡くなった河合又右衛門を祖とする家で、元禄年間(16881704)に現在の場所に移り住み、4代目の時に染物屋をはじめたという。そして、明治期になると金融業を営むとともに、濃明銀行岩村支店(明治32年創業)や岩村銀行(明治41年創業)の設置にも尽力した家である。入口の大戸をくぐると、広い土間があり、吹き抜けの通り庭にそって、「中の間」「仏間」「奥座敷」が一列に続く間取りである。この母屋の裏に中庭があり、その奥に離れ座敷、味噌倉、土蔵、染工場が続いている。母屋は、安永9年(1780)の火災で類焼後の建築と見られている。建物は、平成8年から復元工事が行われ、平成114月に「工芸の館」土佐屋としてオープンした。

 勝川家は、江戸時代、松屋を屋号とする材木や年貢米を扱った豪商である。母屋の裏には、昔3千俵の米を収めたといわれる米蔵が残っており、「一斎塾」の事務所になっている。「一斎塾」は、『言志四録』の著作で知られる岩村藩儒学者・佐藤一斎の教えを学ぶグループだ。屋敷の裏の建物は、蕎麦屋「ゆい」として活用されている。また、平成158月、隣接する建物を整備して「江戸城下町の館・勝川家」がオープンした。

 浅見家は、慶長6年(1601)に松平家乗が上州から岩村に封じられた時、御用商人として松平家に従って岩村に移り住んだ家という。8代目浅見政意のときに大庄屋兼問屋職となり、幕末3代にわたって大庄屋を勤めた。この家も、木村家とともに岩村藩とのつながりが深く、郡上騒動による郡上八幡城取り壊しの命を岩村藩が受けたときに資金を調達し、あるいは領下の困窮者に籾米を施し、また、岩村藩江戸藩邸火災の折はその復旧に金品を用立てたという。大庄屋というと、かなり大きな家構えだと思いがちだが、母屋の造りはごく普通の町家の規模である。

 非公開の浅見家を以前、見せていただいたことがある。土間には大庄屋を勤めた時代に用いたという「かご」が吊され、座敷には姫路の絵師酒井包一の屏風が置かれ、床の間には下田歌子の和歌の掛軸が掛けてあった。現当主の祖父にあたる浅見家10代目の与一右衛門は、大井(恵那市)と岩村間を結ぶ鉄道開通(明治39年)に尽力した人であった。

 これら旧家集まる本町通りの東方向にも、水野薬局、岩村醸造、松浦軒など、目を引く店構えが見られる。水野薬局は江戸時代から続く薬種商で、美濃・飛騨・三河まで手広く薬を卸していた家だ。軒下には、古い板の薬の看板6枚がかかっている。右から、「清龍丹」(養神保寿四季要薬、東京牛込邑田資生堂)、「六神丸」(腸病・胃病・風邪・下痢・諸症、京都市伊藤半次郎)、「百毒下し」(伊勢国赤堀加藤翠祐堂)、「新月丸」(子宮病を治す、東京高木與八郎)、「美顔水」(にきびとりの妙薬、紀州粉川桃谷順天堂)、「奇応丸」(小児かん虫諸病奇効の良剤、木曽福島高瀬兼喜製)と書かれ、上に商標がついている。水野薬局は、これらの薬の販売店となっていた。

 岩村醸造は、古い町並みの中にある造り酒屋で、天然の地下水を使い、「女城主」「幻の城」を造っている。屋敷の中には、天正疎水が流れ、店舗と酒蔵を結ぶ土間には、大正初期につくったトロッコのレールが残っている。

 松浦軒は、素朴な味のカステラを製造販売する店だ。建物は修景され、古い町並みによく調和している。この店でつくっているカステラは、寛政年間、岩村藩の藩医・神谷雲沢が長崎に遊学した折、製造法を覚えて岩村に伝え、松浦軒に伝授したものという。余談になるが、神谷雲沢の子孫にあたる方が偶然にも学生時代の友人にいて、その話をしたところ、「それは、僕の先祖である」と言われ、驚いたことがある。世間は狭いものだ。

 本町通りの西の桝形跡を右に折れて岩邑中学校に向かう新道には、鉄砲鍛冶を営んだ加納家の建物も残っている。間口8間の塗籠造りの家である。加納家は、土岐郡萩原村瑞浪市)を出身とする家で、文化11年(1814)に、松平乗保に召し抱えられ、鉄砲製造の御用を勤め、かたわら刀や鳶口などを鋳造していた家である。

 

 城下町岩村には、このように由緒ある家が今も何軒か残っていて、町並みに風格をそえている。昭和60年代に入ると、この歴史的町並みが注目され保存対策のための調査が行なわれた(昭和6263年)。また、その頃から「女城主の里」をキーワードとしたまちづくり活動が「いわむら町まちづくり実行委員会」を中心に始まった。

 歴史的町並みは、本町通りを中心に、岩村駅方向に延びる西町、新町朝日町を加えた、東西約1.3キロメートル(約14.6ha)で、ここには、伝統的建造物120件(建築物97、工作物23)、環境物件7件がある。平成5年、岩村町では「岩村町伝統的建造物群保存条例」を制定し、翌年には保存審議会を発足させた。そして、平成9年、伝統的な町並みの保存計画を作成し、保存地区決定を行ない、翌平成10年「岩村町岩村本通り伝統的建造物群保存地区」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

 本町通りの旧家が集まる一角に、旧十六銀行の建物を活用した、「町並みふれあい館」が建っている。ここは、休憩所を兼ねた観光案内所で、「いわむら町まちづくり実行委員会」の事務所などが置かれている。「いわむら町まちづくり実行委員会」は、岩村の活性化に情熱を注ぐボランティアグループで、設立から20年がたった(平成18年)。実行委員会の組織は、企画部会・広報渉外部会・総務部会・文化部会の4部会で構成されており、「いわむらファミリーウォーク」「いわむら城址薪能」「秋の月待ちお堂めぐり」「いわむらレディースマラソン」などなどの各種のイベントを主催している。そのときの写真が、「町並みふれあい館」に展示されている。

 「いわむらファミリーウォーク」は、岩村の歴史と自然に触れながら、スタンプ帳を片手に歴史の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)や、岩村城址など10ヶ所のチェックポイントを回るイベントで、6月中旬の日曜日に行なわれる。ゴール会場では、「岩村城女太鼓」などが披露される、「いわむら町まちづくり実行委員会」の中心的行事だ。

 「いわむら城址薪能」は、9月に、岩村城藩主邸跡(歴史資料館前駐車場)でかがり火を焚き、自然景観を活かした特設舞台で開催される野外能で、昭和60年に第1回目が行なわれた。

 「秋の月待ちお堂めぐり」は、923日(祝日)に「農村景観日本一」の富田地区で秋の収穫期を迎えた田園風景を楽しみ、点在する5つのお堂を含めた10ヶ所のポイントを巡るスタンプラリーだ。これは、平成6年から始まった行事だ。

 「いわむらレディースマラソン」は、「女城主の里」づくりをテーマとしてはじまったイベントだ。昭和63年に第1回目が行なわれ、女優・渡辺美佐子(郷土出身の下田歌子ゆかりの実践女子大の出身)を招き、「女城主」になぞらえイベントの目玉とした。このマラソン大会は、岩邑小学校グラウンドをスタートし、岩村駅前から歴史の町並みと、農村景観日本一の富田地区を回りコースが設定されている。

 「女城主の里づくり」をテーマとした試みはほかにもある。町並みを歩くと、女性の名が染め抜かれた青い暖簾が家々にかかっていることに気づく。また、竹筒に花を生けて格子に飾っている家が多い。これらは、岩村町商工会が商店街活性化対策事業の一環として始めたものだ。商工会の人たちは、ほかにも、10ヵ所の「まちかどギャラリー」をつくり、岩村に人をひきつけるための努力を行なってきた。

 城下町の歴史を持つ岩村は、明治39年に岩村電軌鉄道が開通すると、信州下伊那方面および三河北設楽郡稲武町方面の消費物資の集散地として栄え、南信地方の薪炭なども岩村町の卸問屋を経て名古屋方面に出荷されるようになった。また、明治40年代には周辺農山村部の養蚕業を背景として製糸工場もでき、東濃の商工業の中心地として賑わい続けた。ところが、明治末年に中央線が全線開通すると、商業の中心地は、しだいに大井(恵那の中心地)や中津川に移っていく。また、大正7年の第一次世界大戦後の経済不況により蚕糸、繭価の大暴落が起こり、主要産業の製糸業は打撃を受け、その後は、山間の小さな町場として、ひっそり生き続けてきた。

 最初、岩村を訪ねたのは、昭和40年代後半のことであるが、そのときは、何ら特徴もない山間のひなびた町という印象であった。その町が、昭和60年代を境に、少しずつ元気を取り戻してきた。町並み保存を始めた頃から、学生を連れて何度か岩村を訪れるようになったが、当時は、土佐屋が公開されているだけで、家々の修理・修景工事も始まったばかりで、町の魅力は必ずしも高くはなかった。今回、再訪して、公開民家が増え、家々の活用や修景が進み、「岩村は少しずついい街になってきている」、そんな印象を持つことができた。