日本殖民統治賛美論総批判(台湾)
作者 許介鱗
発行 文英堂(台北)
価格 80台湾元
出版 2006年8月
住所 台北市萬和街8號7F-2
TEL 02-82300010
HP: http://www.japanresearch.org.tw
E-mail:tjr@japanresearch.org.tw
内容紹介
目次 序
1.戦勝者史観の克服
2.植民地隔離政策
3.植民地の経済搾取
4.覇権者の「現代化」論
5.台湾の歴史的断層と連続
以下に内容の一部を紹介します
1.戦勝者史観の克服
殖民統治と帝国主義に対する批判
1895年台湾は日本より経済的に裕福で進んでいた
明治前後日本は飢饉があり、台湾の産業は進歩していた
戦勝者は実は強盗集団だった
日本の「明治維新」、その実は強盗略奪の背景を隠していた。
「明治維新」はもともt「王政復古」とよばれ、西洋の史書にもMeiji Restorationと書かれている。
この前は日本は「幕藩体制」をしいていた。全国各地は幕府により260の藩に分かれて領主が統治
していた。幕府の最後の年に、薩摩長州土佐藩など、将来性のない下級武士が謀反を起こした。な
ぜなら武士は戦い以外にはほかの職業に就くことが許されていなかったから。そして徳川幕府の平
和政策により、自分の武勇を実践する機会がなかったから。そして「皇国史観」をもって集まり、「幕
藩体制」を倒し、新政府を組織し、「維新」で「復古」を覆い隠し、「国盗りの」劇を演出したのだ。
この刀をもった武士が形成した「盗国」集団は薩摩長州両藩が組織した新政府軍によって、1868
−1869年の戊辰戦争を経て、権力を握っていた幕府を倒し、古代の「天皇親政」を復古させ、「尊
王」の名の下に新しい中央集権国家を組織し、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(この3人は「維新
三傑」と尊称される)、榎木武揚、板垣退助、井上馨、山県有朋、伊藤博文などを含んだ「盗国」に
成功した武士たちによって国家政府の重要な役職を占めた。もし「盗国」が失敗していたら、あるいは
盗国集団内の反目闘争で失敗していたら、武士たちは「匪賊」に変わっていた。これは日本の人口
な膾炙する「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのだ。
この盗国集団が中央政府の官僚になってから、日本国内の各藩の土地と人民を収奪し始めた。
これが明治初年の「版籍奉還」「廃藩置県」の過程である。新政府の最も重要な部門は軍事力で
あった。薩摩人が海軍、長州人が陸軍を担当し、全日本の領土、人民を統治した。これが日本の
軍閥勢力の起源である。このような「王政復古」の過程はその実、強盗集団が「天皇親政」の名を借
りて、その他の藩の土地、人民を奪う略奪の過程であった。したがって、成立した「近代国家」の表象
の下には下級武士の強盗集団の「盗国」の謀略が隠されていた。
強盗集団が組織した「明治政府」は国内ではその他の藩の土地と人民を略奪してから海外への
略奪の準備を始めた。そこで、武家階級の制度を廃止し、西洋の列強に習って全人民を「徴兵」し、
国家の軍隊を発展させ、海外での略奪の準備をした。これがすなわち、「明治維新」後に、すぐに
「征韓」や「征台」を画策した原因だ。
日本の教科書は「明治維新」について、ただ日本国内の「富国強兵」「殖産興業」の一面だけを
ひけらかしていて、わざと武力によって「隣国を略奪」し、「植民地を搾取」して、富んで強くなった
一面を隠している。すなわち、ただ日本帝国の「富強」の革新過程のみを宣伝し、その背後の
強盗「略奪」の特性と本質を隠している。このため「王政復古」「版籍奉還」の後、どうして続いて
「征台」「征韓」をするようになったのか、歴史の連関性をうまく解釈することができない。その
「強盗哲学」によって見てみると、ようやく日本帝国(皇国)の発展してきた来歴や経過をはっきり
とかつ完全に納得することができる。強盗にも哲学があり、その主なものは「八紘一宇」(世界一
家)の精神が統一された世界だ。そして世界のすべての人が天皇(現人神)の恩恵をありがたく
思うのだ。
その実、日本の近代史は、明治維新から1945年の敗戦までずっと、戦争を準備し、戦争を行
い、戦争に勝って財物を略奪する、また戦争を準備し、また戦争を起こし、また戦争に勝って財物
を略奪することを繰り返してきた。したがって、それは連続した戦争と略奪の歴史でもある。
1941年12月日本は資源豊富なアメリカに戦争を仕掛けた。すなわち日本が略奪した中国の広大な
領土を元手にして、ようやくアメリカとの4年に及ぶ太平洋戦争をすることができたのだ。
「強盗哲学」の先生:吉田松陰
日本は幕府末年から明治の時期に、最も熱心だった「尊王」思想家は吉田松陰である。彼は1854
年に書いた”幽囚録”のなかで、日本は”急いで軍備を固め、戦艦をいくつか、大砲をいくつか持ち
蝦夷(北海道)を開墾し、諸侯を封じ、機を見て(ロシアに属する)カムチャッカ半島、オホーツク海、
を奪い、琉球に朝貢させ、朝鮮に貢物を持ってこさせ、北は満州の地を割譲させ、南は台湾、フィ
リピン諸島を収め、次第に進取の勢いを見せる”。吉田の松下村塾が育てた門弟木戸孝允(桂小
五郎)らは、「倒幕維新」のために「尊王攘夷」を推進し、伊藤博文等は日本帝国の海外拡張のため
に尽力した。
明治の強盗集団は吉田松陰を思想的導師として奉り、新政府の目標を「富国強兵」と定めた。
一方で欧米列強の作った強大な軍事力に学び、他の一方では欧米の海外侵略に学んだ。すなわ
ち、植民地から搾取をして富を増やし、これが日本の「殖産興業」の本質だった。
明治の初め、日本政府は財政困難で、明治元年に「太政官札」という不換紙幣を発行し、銀幣
は廃止した。そしてそれで足りなかった軍事費用を払った。しかし危機的な通貨膨張と金融恐慌
を招き、「太政官札」の価値は一気に下落した。経済は簡単に崩壊した。新政府は商人から強制
的に借款を徴収し、また西洋の列強に対して起債を行い、負債が累々と積み重なる状況の下で、
明治初年に「征韓」あるいは「征台」の国策論争があった。日本は「征韓」を置いてまず、「征台」を
先に行い、それは国際情勢から判断して、「征台」のが「征韓」より容易だったからである。
1872年日本の強盗は台湾東部を試しに侵略した
日本は台湾を奪取しようとしている、それは台湾侵略前のスパイ活動からその計略を垣間見るこ
とができる。樺山資紀の”台湾記事”(軍事状況の偵察)、水野遵の”台湾征蕃記”(民間の状況の
偵察)、上野専一の”台湾視察記”(商業の偵察)は、すべて日本がまず台湾を偵察し、台湾を
略奪する準備をしている。日本が台湾に出兵したのは、1871年の琉球人が台湾原住民に殺さ
れたいわゆる”台湾事件”を口実としてだが、当時清政府は国際法を良く知らずに、「文化の遅れ
た地」、「政治や教育が及ばない」などの言葉で言い逃れをして、1874年日本が台湾に出兵す
る機会を与えてしまった。
日本が「台湾出兵」したのを経済的計算で見てみると、出兵費用は771万円、清国が払った
賠償金はたったの50万両=日本円で67万円、割に合わない。日本は台湾を獲得しなかったが
さきに琉球の統治権を確保した。その後、20年の準備期間を経て戦争を起こした。1894年に
起こした甲午戦争では賠償金2億3000万両=日本円で3億6000万円を獲得、日本は一気に
国家財政の4年分のお金を略奪したのだ(1894年の日本の国家予算は9000万円だった)
そして台湾と澎湖諸島も割譲させた。戦争に敗れた中国は賠償金を払うために外国から借金を
することになってしまった。戦争に勝った日本は第1次産業革命をおこし、このため甲午戦争が
中日の運命を決定した鍵を握る戦いだったのだ。
日本の「征台」の結果、さきに琉球を取って台湾を取らなかった経済的計算は実はもうひとつの
巧妙な計算があったのだ。清政府は1874年から1895年まで沈葆驍ノよって台湾で始められた
洋務運動が展開されていた。砲台を建設したり、海底ケーブルを敷設したり、事業を起こしたり、
鉄道を建設したり、台湾のために20年間に投資された外務の資本は、そして日本はそれまで台
湾に1銭も投資しなったのだが、20年を経過した後に、日本は1枚の馬関条約で「台湾を割譲」
し、ただちに清朝政府が心血注いだ20年の投資も割譲することになった。加えて、1860年から
台湾は開港を始めていたが、外国資本も台湾で相当の投資利益を上げていた。この投資利益も
しだいに日本強盗集団によって取って代わられる事となった。日本はこれからすべての台湾の資源
と利益を独占する事となった。
世界の列強はみな強盗集団
1895年台湾が割譲されたのは日本の強盗の意志によるもので清政府または台湾人民の望んだこと
ではなかった。日本が台湾を割譲したとき、まさに帝国主義が植民地を争って分割する頂点のときだった。
1870年代アフリカは”暗黒大陸”と呼ばれ、英国のアフリカ探検家スタンリー(Sir Henry M.Stanley)
が1878年アフリカのコンゴ川流域を探検し、この地域の経済的重要性がわかった。ここから列強の
アフリカ分割が展開された。約20年の時間を経て広大なアフリカは帝国主義の列強によって完全に分割
された。たとえば古代文明の国エジプトは英国の植民地に変わり、北アフリカ各国はフランスの植民地に
変わった。このとき列強は太平洋地区にも侵入し、英国は北ボルネオ州を占有し、アメリカはフィリピンと
グアムを獲得し、さらにハワイを合併した。白人の囚人に開墾されたオーストラリアとニュージーランドは
大英帝国の自治領に変わった。そこで、列強は植民地での投資権利を競争し、鉄道を敷設し、工場を
建設し、鉱山を開発し、農場などを経営し、各種各様のやり方で植民地に対する投資を進める権利を
競争した。1910年までにイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの4カ国で世界の有価証券の約80パー
セントを占めた。
この帝国主義の植民地分割の絶頂期に、日本は世界列強の植民地分割の流れに乗って、東アジアで
台湾を割譲した。日本の文化人類学者の伊能嘉矩は、スタンレーのアフリカ探検を褒め称えるだけでなく
自分も「台湾土蕃」(原住民)の地を調査して、「暗黒のアフリカ」にならって「暗黒の台湾」と呼び、彼の
「台湾探検日記」を書いている。
帝国主義の植民地分割の絶頂期に、台湾の住民は日本が武力で台湾を割譲することに反対し、一枚の
馬関条約によって植民地に落ちることに従わなかった。だから東アジアに一つ目の「台湾民主国」が成立
した。西洋列強が干渉をすることを呼びかけた。しかし西欧の帝国主義は関心を持たないだけでなく、阻止
することができなかった。それが「台湾民主国」の失敗につながった。欧州の列強はイギリス、フランス、ロ
シアの先進的「植民地が多い国」と、ドイツ、オーストリアなどの後進的「植民地が少ない国」が対立を生み
出し、日本は列強の植民地闘争を利用し、イギリス、フランス、ロシア、ドイツと個別に交渉を行い、台湾海
峡は各国の公共の航路で、日本の占有でもなければ管轄もしないと宣伝し、日本政府は台湾と澎湖島を
他国に譲らなかった。このように日本は外交上条件をつけ、西洋列強が承認せざるを得ないようにした。
日本は台湾を植民地として割譲し、それは戦勝国の「戦利品」であった。
甲午戦争は朝鮮問題からおこり、台湾とはなんの関係もなかった。しかし、日本はしつこく「台湾の割譲」
を迫り、完全に武力で脅迫してきた。当時中国当局は「台湾の割譲」を望まなかった。台湾の住民も植民地
になるのを望まなかった。日本の行為は完全な強盗行為だ。1895年3月李鴻章が日本の下関に上陸して
交渉したとき、伊藤博文は停戦を拒絶し、それどころか日本軍「比志島混成部隊」を派遣し澎湖島に上陸
ならびに占領し、これ等は日本軍が刀で台湾ののどもとを刺して李鴻章に「台湾割譲」を迫っているような
ものだ。4月に日本軍が台湾の咽喉を締め付けるもとで、清政府は台湾を手放さないのは難しいと考え、
やっと「台湾を割譲」する馬関条約に署名した。
しかし、台湾の住民の立場からすると、馬関条約の「台湾割譲」のことは台湾島の島民が完全に「同意
できない」ことで、このため「台湾民主国」ができた。5月「台湾民主国」が建国され、対外的に国旗、国号
の通告を行い制定した。これは6月に日清両国が行事を行なう前である。「台湾民主国」は成立したので
日本政府は主権者である「台湾民主国」と台湾領土の帰属問題を交渉すべきであった。しかし、日本の
強盗は列強の「三国干渉」に屈服して遼東半島を返し、台湾住民の「台湾民主国」の意志を踏みにじり、
台湾人民は従わずに20年もの長きにわたる植民地戦争を展開することになった。
さらに台湾人の立場から見ると、これは日本強盗が「台湾を占拠」したのであって、王詩琅ら台湾省
文献委員会の諸兄のように、日本植民地体制下の台湾を「日本占拠時期」と呼ぶ。なぜなら日本は
暴力で台湾を殖民統治する合法性と正当性は、1945年日本が戦争で負けて完全に崩壊した。現在の
学術界は堕落して日本の「植民地経営」を「現代化」と呼び、自分の立場を見失って「日本統治時期」と
呼んでいる。はなはだしきにいたっては、日本の立場によって「日本が領有した時期」と呼ぶものもある。
いわゆる「価値中立」の言葉は主体性のない思想に過ぎず、権力ある人に取り入る奴隷思想の表現であ
る。
暴力で「台湾割譲」した強盗は台湾と中国の関係も切り裂いた。それは強盗が暴力で母親と子供の
関係を分離したのに等しい。母親は2億3000万両のお金を強奪され、子供は強盗に拉致され居候と
して奴隷的労働に就かされた。子供は強盗の50年の「皇民化」教育を経て、棄てられたという意識から
母親に対する疎外感を生じた。甲午戦争は日本が国民全体を結集し、中国北洋軍の李鴻章との戦争だ
った。戦争に敗れた清朝は3年分の国家予算に匹敵する賠償金を払わなくてはいけなくなった。なぜなら
当時の清朝の歳入は1億両にも達しなかったから。5年後の義和団事件はさらに4億5000万両、すなわち
6年分の歳入を賠償しなければならなくなった。そして財政困難の極地に達した。反対に、日本は中国から
略奪した資金で第1次産業革命を遂行した;賠償金の1部分の58億円で八幡製鉄所を建設し、日本の
重工業も発達した。日露戦争の前後に第二次産業革命を達成した。
強盗の強制的割譲に対して台湾人は武力で20年間戦った。
中日甲午戦争と台湾植民地戦争はわけて見る必要がある。中国大陸での中日戦争は台湾島での植民地
戦争ほど激しくなかった。甲午戦争はわずか8ヶ月、台湾の植民地征服戦争は1895年から1915年まで
全部で20年にわたるものだった。日本統治期の5分の2を占める。
台湾の植民地戦争は3つの期間に分かれる。第1期は1895年「台湾民主国」の台湾防衛戦、日本の
近衛師団長北白川能久親王が台湾遊撃隊に刺殺され死んだという伝説がある。1895年11月3日、樺山
資紀総督が台湾全島が平定されたと宣言し、そこで台湾の対日武力闘争は終わった。しかしその後、台湾
各地での武装抗日事件はやむことなく、有名な抗日事件は99にも達する。
第2期の郷土防衛戦は1896年から1902年まで。1902年5月、日本の憲兵が台湾中部の有名な抗日
リーダーを「帰順」儀式を行なうという名目で惨殺した。日本の歩兵三大隊は基幹として特別に編成された
討伐隊で、帰順の林少猫一族とその部下を、鳳山の後方の林で包囲し殺害殲滅した後、台湾総督府は台北
で抗日部隊を完全に鎮圧した祝賀会を開いた。日本側はこのように大規模の殲滅作戦を行なった。抗日分子
の武器をすべて没収した後、このあとでは武装による抗日活動はなくなった。台湾総督府は慰労会を開き、
台湾の抗日武装闘争は終わったと宣言した。しかし、その後も台湾では抗日運動が引き続き起こり、話の
つじつまを合わせることができなくなった。文献上は「抗日」事件を「陰謀」事件と改称した。我々は日本の
「征伐」史観によって、屈辱的に1902年台湾は完全に「平定」されたとはいえない。
1902年のあと、台湾の抗日武力抗争は絶え間なく続き、ある人は1902年から1907年は抗日の休止
期と呼ぶが、実は日露戦争のため、台湾は厳戒態勢が引かれ、抗日運動は比較的落ち着いていた。しかし
その後、大陸の辛亥革命成功の影響を受けて次々と抗日活動が起こった。1912年劉乾の林杞埔事件、
黄朝の土庫事件が起こった。1913年には李阿斉の関廟事件;南投地区では沈阿栄、六甲地区では張火
爐、台中東勢角では頼来、それと苗栗地区では羅福星が抗日に立ち上がり、日本では苗栗事件といわれて
いる。1914年になると、羅臭頭の六甲事件が起こった。1915年には余清芳のば噍罵吧事件があった。
日本人は噍罵吧事件のときの処刑は非常に非人道的だった。日本の作家武者小路実篤は雑誌”白樺”で
「八百人の死刑」を発表し、感嘆して言った。「世界の文明国の中で、どこに800人に死刑の判決を下す
国があろうか。毎日死刑を執行し、実に間違っている。」
日本軍が台湾の植民地戦争で戦死した人数は、甲午戦争での戦死者よりはるかに多い。台湾の同胞が
日本軍や警察に虐殺された総人数は、ある学者が日本側の公文書台湾憲兵史、台湾警察沿革誌を累積
した統計で、約40万人近くになるとしている。中日甲午戦争と台湾植民地人民戦争は性質が違うと見るこ
とができ、台湾島民の植民地統治への反抗の生命力が特別強かったことを物語る。
植民地統治者の台湾島民に対する処刑は鶏を絞め殺して猿を脅す(見せしめにする)政策で、20年にも
及ぶ抗日事件の後、平地の武器はすべて日本当局に没収され、武装が完全に解除された状態で、
日本に対する闘争は方針を変えざるを得なくなった。武力による闘争から文章による闘争へ。1920年代、
同化会から始まり、文化協会、議会設置請願運動、農会、工会運動などにいたるまで、みな 文章による
闘争だ。したがって、1915年の噍罵吧事件が台湾漢族の武装闘争運動と政治社会運動の分水嶺である。
日本の殖民統治者は平地の台湾島漢族を「征服」した。しかし山地の原住民族は「征服」できなかった。
日本の強盗は武力で清朝を征服し「馬関条約」に署名させ台湾を割譲したが、1枚の条約で完全に台湾
人の民心を征服できると考えた。しかしそれは簡単ではなかった。1915年以後、まだずっと抗日事件が
やむことなく発生した。日本の台湾占領50年は台湾同胞の反抗の50年でもある。
後藤新平は「知能犯」の強盗の典型だ
ある人は殖民統治者後藤新平を「台湾現代化の基礎を固めた人だ」という。日本の台湾植民地統治がどの
ようであったかを評価するには、まずこの台湾植民政策の推進者の後藤新平のことを理解すべきである。
後藤新平は第4代総督児玉源太郎の部下の民生長官だった。任期は1898年3月2日から1906年11月
12日だった。その後「満鉄」の総裁になった。児玉源太郎が台湾総督だった期間、大部分は日本国内にいて
軍務と日露戦争の対策を練っていた。したがって当時台湾の統治は大部分が後藤新平の手に握られていた。
後藤新平は台湾を治める方法を「生物学的統治方法」と呼んだ。後藤新平は医学の出身で彼は科学的
観点から植民地の統治方法を考えた。この方法で西洋列強の植民地統治を超えようとした。「生物学的
統治方法」とはなんだろうか?それはつまり、台湾人を生物と見て治めるやり方で、動物を飼いならすのと
一緒で、もし環境を変えたかったら、突然変えてはいけない。魚の養殖をするのにいっきに水を変えては
いけない。ゆっくり水を変え、水質を変え、魚はやっと生きられるようになる。すなわち、後藤新平はまず、
台湾人の今までの慣習に従って、統治の条件と環境が整ってから、巧妙な方法でゆっくり変えていくという
ものである。たとえば、製糖業の政策で、すこしずつ台湾人の自営製糖業を追い出し、日本の財閥製糖業
資本に徐々に台湾に侵入してもらう。最後には完全に台湾の製糖業を独占する。台湾人はみな農奴になった。
すなわち、生物学的統治方法は表面上は台湾人の古くからの習慣を尊重してるように見える。しかし、
実際は知恵を使ったきわめて巧妙なペテンだ。そして台湾人民に管理しやすくて素直な植民地人に変えた。
台湾人が日本人に変わりたければ夢ではないと思わせるほど。
後藤新平と日本の「アヘン王」二反長音蔵は協力してアヘン戦略を展開した。ここでもその台湾の統治方法
を垣間見ることができる。一種の巧妙な詐欺的手法だ。このアヘンで儲ける方法は台湾から中国大陸にも
展開された。アヘンを利用して儲けて財政収入を増やし、「招き落として」だまして殺す方法で抗日分子を
殺害した。名誉や利益によって御用紳士を誘い、はなはだしきにいたっては孫文の革命を援助するという
ペテンでアモイを占領しようとたくらんだ。このペテンは、「知能犯」と言うことができるが、どうして賛美に
値しようか?殖民統治された側から、だまされた側の立場から、厳しい批判がされるべきだ。
後藤のいわゆる「生物学的政治」は、すなわち台湾島民を動物のような「土人」と見る見方で、家畜の羊
と野獣に分けられ、家畜の羊は飼っておいたまま羊毛をとられ、野獣は捕獲して殺害或いは実験につかわれ
る。日本関東軍の731部隊は中国東北での生物化学兵器の生体実験もこの化学実験の延長だ。非人道の
極みだ。厳しく非難されるべきだ。
「現代化」で指導者になった者の史観は「価値倒錯」している。すなわち、人を人と見ずに暴力で台湾の資源
を略奪するのを「開発」と呼んだ。抗日の台湾同胞をだまして殺すのを日本が台湾で「治安を確立」したと言っ
た。日本の財閥による台湾資源の略奪を「経済発展」と呼ぶ。後藤は台湾に「現代医学」を植えたと褒め称えら
れるが、その内容は医療に従事しながらスパイ活動を行なうというものであった。新しい科学技術で一方では
伝染病が殖民統治者に伝染するのを防止し、別の一方ではアヘン販売によって植民地の御用紳士を丸め込み
あるいは台湾の同胞に医学を学ぶ便宜をはかり、その臨床的開業で金を稼ぎ、これらはみな、殖民統治のやり
口を強化するためのものだ。今日でもまだ児玉や後藤が台湾植民地を運営したのを「成功」だという人がいるが
正しくは児玉や後藤は「知能犯」で、人をだまして金儲けをする才能に長けていたと言える。
後藤新平は最も典型的な「日本民族優越論者」、「日本膨張論者」だ。彼は日本は神が創造した国で、地球上で
もっとも卓越した国家であり、日本の国土に住む日本人は神の選民だと考えていた。彼は言う。日本民族は
膨張する国民で、世界に羽ばたく思想、膨張発展する思想は歴代の天皇の「大御心」の中にあり、みな日本民族の
全体の血管の中に脈打っている。日本は貧乏だ。西洋にははるかに及ばない。富の程度、物質的生産力は西洋に
はるかに及ばない。しかし、日本の台湾、満州、朝鮮などへの殖民運営成績はすでにどんな国の施行した文明政策
の能力や信念にも負けない。蛇はたったの数寸だが人を飲み込む気概を持つ。日本人もこの一種なのだ。
日本民族は驚くほどの発展力を持っていて、それは同化進取の国民だ。この世界中に日本に匹敵する民族はない。
このような卓越した民族精神はいわゆる「大和魂」というものだ。日本膨張論の核心ガここにある。もしあなたが
後藤新平の”日本膨張論”を読んだら、彼が「台湾現代化の基礎を築いた人だ」と言うのが恥ずかしく思えるようにな
るだろう。
後藤新平はまた「権謀外交」が好きだった。しかし彼の権謀は決して日本人に幸福を与えなかった。1909年伊藤
博文は「満州」を視察し、後藤の斡旋によってロシアの財政大臣アカフサフと会談した。10月26日、伊藤がハルビン
駅に着いたとき、朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された。後藤は1916年に外相になり、在職期間の1917年に
シベリア出兵をした。1918年第1次大戦後、彼は「新旧大陸対峙論」を提唱し、日本は欧州列強と協力し新大陸
の国アメリカと対抗すべきであると言った。この主調は、第2次世界大戦のとき日本がドイツイタリアと結んだ三国
枢軸同盟につながり、アメリカと開戦し戦争に負けるということの種となった。
台湾、朝鮮、満州などの植民地は日本が海外に膨張する侵略の対象でその一つ一つが日本がたくましく育つための
栄養を補給し、そして飲み込まれた。殖民されて苦しんだ側の立場から、どうしてこれが「台湾現代化」と賛美できようか
どうして日本の殖民統治に良心があったとほめることができようか。後藤新平はただ「台湾人植民地の卑劣な根性」
の基礎を築いた人で、「台湾が日本が膨張するための第1番目に餌食になった対象」の設計者だと言える。
2. 植民者の隔離政策(省略)
3. 植民者の経済搾取
日本の「経済開発」の目的は「経済搾取」にあった。
一般的な言い方をすれば経済搾取は「植民地主義」、経済開発は「現代化」と呼ばれる。
後藤新平の娘婿鶴見裕輔による植民地の収益計算では、日本が台湾を占領した最初の7年間の累計した
経済利益は莫大なものだった。台湾の新領土が母国日本に対して貿易額の利益は1335億円だった。それに
樟脳の専売利益が185億円、母国日本国民が獲得した利益は1520億円。当時の台湾に対しての国庫補助
の総額が2731億円だったから、投下資本の利益回収率は55パーセントにも達した。もし台湾経営を一つの商
業会社の投資としてみれば、1年に55パーセントの純利益を得たことになる。
日本が台湾を占領した最初の7年は、台湾の植民地の武装抗日闘争が最も激烈な時期で、また日本の軍事警
察の費用も最も多かった時期である。かつ、日本の台湾への投資はほとんど中国からの賠償金3億6千万円の
中から支出された「台湾経営費」の支出が1200億円だった。これは日本の台湾植民地の経営は費用は中国から
出されたものだということになる。そのほかに、日本は台湾で実施したアヘンの専売から莫大な利益を得た。しかし
日本の統治者は故意に避けて語ろうとしない。そのことから見ると、日本の台湾植民地での経済的利益が人をひ
きつけるものであったということができる。
実際、日本の台湾植民地への経済略奪は金鉱から開始した。早くも日本が台湾を占領して2年目の1896年、
藤田組が金瓜石、瑞芳などの鉱山の採掘権を獲得した。1897年に牡丹坑金山が発見され木村組が採掘権を
獲得し、みな台湾銀行が資金を供給し産金を購入し、1902年の台湾銀行に売った金額は100億円にも達した。
中国が払った賠償金のほかに、台湾の金と朝鮮の金は、日本が金本位制を確立するのに重要な役割を果たした。
その他、台湾で徴収した地租、関税、アヘン収入、樟脳収入、食塩収入、糖、米、茶の生産利潤はみな日本帝国
資本主義に貢献した。
世界各国の植民地支配と略奪はすべて金融の支配、土地の支配、鉄道の支配から着手する。このため、日本
帝国の台湾植民地に対する経済略奪も例外ではなかった。
まず、金融支配だった。1897年台湾に設立された特殊な金融機関台湾銀行は外国の銀行と西洋の銀行を
駆逐して台湾の金融を日本の通貨圏に編入させた。そして台湾植民地の利潤を汲み取った。その次が土地支配
だった。植民地統治は1898年から土地調査を開始、土地の売買制度を整理し、これは台湾の土地を奪い、地租
の税収を増やすためのものだった。加えて専売収入を増やした。日露戦争のあった1905年までに台湾はすでに
日本の中央政府の補助を必要とせず、財政上の完全な自立を達成していた。そしてさらに進んで、日本の資本
主義化を支援した。第3が交通の支配だ。交通は「侵略の尖兵」で、台湾に縦貫鉄道を作り、キールン港を建設
する目的は現地の”地方会社”が台湾の北、中、南それぞれで大陸の対岸との緊密な貿易関係を遮断し、北部
の茶葉、中部の米、南部の製糖を、縦貫鉄道によって市場を統一して日本の経済圏内に編入し、キールン港か
ら台湾の資源を日本に輸送することにあった。
日本による占領期に台湾植民地に対する略奪は総督府の役所側の収入は多くなり、台湾の同胞が自分で経営
する産業はしだいに微々たる物になった。台湾人の税負担は日本人に比べはるかに重く、当時日本の内地の
人民の各種税金の総和は1人あたりの負担が3円34銭3厘だった。台湾の住民は日本人民より1円11銭1厘
多い税負担であった。また同じ植民地だったインド人民よりもさらに2円37銭4厘負担が多かった。かつ、植民地
の台湾人民は台湾総督府の財政収支に対して口出しする権利がなかった。総督府は台湾の税収を台湾での
各種の建設に使ったが、しかし設計はすべて日本の独占資本(特に日資糖業)に対する原料の供給と商品の
販売を有利にしていた。これは日本の占領時代の台湾産業の高度な植民地性を示すものだ。
日本の殖民統治者は法律によって台湾の「民族資本」の台頭を阻止し、日本の独占資本が台湾ですきなよう
に経済侵略するようにさせた。このような政策は決して台湾のための「現代化」などと褒め称えることはできない。
台湾は1941年には資金20万円以上の株式会社の91.1パーセントが日本資本のもので、台湾の資本は
わずか8.3パーセントしかなかった。
台湾の税金の使い方を、台湾総督府の民生費から言うと、はじめは約半数が警察費に使われていた。言い換
えると、これは台湾人がお金を出して厳密な警察の監視を受けていたことを意味する。台湾の同胞の租税学は
日本人よりも多かった。それならばどうして中等以上の学校はほとんどの日本人が進学したのか?台湾は日本
の植民地統治下で、このように「不平等」「不民主」だった。ところが民進党の留美博士の若い秘書は言う。”
絶対的多数の台湾人は、日本に統治させたほうが国民党の執政より気分がいいように感じる、と思っている”
と。それなら、台湾人の「気概」はどこにあるのか?台湾社会の「正義感」はどこにあるのか?
いわゆる「基礎工程」が「植民地整理」を覆い隠す
日本統治時期の歴史的文献は大多数が日本統治者が編集させたものだ。このことから、日本側の史料の記載
はみな日本帝国の立場からだ。台湾をアフリカのようなまだ開発されていない植民地としてみている。台湾の住民
を「土人」とひとくくりにして、日本がどのように台湾の「土人」のために基礎工程を建設するかを。今日の台湾の
学会では、少なくない人が日本統治者の記載を模倣して言うが、これは日本占領時期の「基礎工程」の展開だ。
このような論調は台湾と台湾人を侮辱するものである。まさにアフリカ植民地のように遅れたものとして。
日本人の論述は少なくともまだこれが「日本植民地の基礎工程」だといっている。しかるに今日の台湾の学術界
にはなんと更に進んで「これが台湾現代化の基礎工程であったと」賛美するものまでいる。これは台湾人がほんと
にいらない「土人」であり、台湾の「現代化」あるいは「資本主義化」はまだ日本人に頼って達成しなければならないと
言っているようなものではないか。そんなことを言っていて、どうして「台湾の主体性」などといえるのか。
その前の清朝による統治の200年あまりは漢民族が持続的に台湾に移住し、原住民の土地を奪い、開拓を進
めた。台湾は1860年ごろに開港、1874年に洋務建設を開始、特に1885年台湾省ができてから、劉銘伝が台湾
の巡撫に任命され、洋務運動を推進、例えば鉄道を建設、水路や電線を敷設、船舶を購入、郵便制度を開始、
軍事鉱業を興し、新式の学校を建設するなど、一連の進歩的建設計画を実行した。このため、劉銘伝の時代の
建設への投資は日本の学者伊能嘉矩の”台湾文化史”或いは東嘉生の”台湾経済史研究”、いずれにも相当の
ページを使っての論述が見られる。ただ、彼らは清朝統治を「封建時代」、日本植民地時代を「資本主義時代」
と定義している。我われは清朝時代台湾で行なった「清国行政法」、「台湾私法」「台湾旧慣」などを帳消しにす
ることはできない。また清朝後期の台湾洋務を無視することはできない。そしてすべて日本の台湾に対する「
現代化}のおかげにすることはできない。
歴史は連続的なものだ。日本植民統治は台湾史にとっていわば一個の断層だ。日本の「統治史観」に引っ張
られてはいけない。この断層の意義をはっきり見極めなくてはならない。そして客観的な判断を」下さなくては
いけない。このことから、日本の台湾での初期の政治はこれが日本の台湾に対する「植民地的整理」だと判断
すべきだ。実際、日本の農村社会では戦後の農地改革まですっと半封建的な寄生地主制が残っていた。日本
の近代的工業、あるいは資本主義化は戦争によって蓄積された資本を奪うこと以外には、日本の農民に向けて
搾取が行なわれた。そしてその相当な部分が植民地を搾取することで完成したのだ。
日本工業の急速な発展は植民地からの略奪のおかげである
日本の植民地からの略奪は、台湾を除いて朝鮮半島と中国の占領地東北(満州国)などの土地で、これらの
地方では植民地になってから日本が自由に搾取できるようになった。日本帝国とその資本家は植民地と中国
の占領地で労働力と原料の資源を搾取した。
日本帝国主義の台湾の略奪の第1歩は島内の農民または原住民に対して土地を没収することから始まった。
この目的を達成するために、児玉総督、後藤民生長官が就任した1898年に、土地調査を開始、台湾人の土地
を「無主地」と認定、これは台湾の農民が開墾しても土地の所有権証を提出しない弱みに付け込んで没収してし
まい、この土地を日本の国有地と認定し、台湾総督府の官有財産として編入してしまうものであった。
台湾の農地を没収してから1910年からは、総督府は普通の行政区域(「蕃地」は含まず)で林野調査を行なっ
た。測量の結果、台湾人が権利を申告した97.4万甲地のうち、75.3万甲を官有地(その中の林野面積は73.5
甲)と裁定して、民有地はわずか3.1万甲しか認めなかった。実際上、これら「無主地」と裁定された土地はみな
数世紀以来台湾の農民が使用してきた土地であった。その後、植民地統治者は台湾原住民を囲い込み、一歩一
歩、台湾の原始森林を略奪し、「国有」として奪ってしまった。1925年、「蕃地」の開発を進め、国有林野の総面
積は241.0万甲にも達し、大学の実験林を除いて日本の企業家あるいは台湾の協力者に投売りする許可地、
ならびに日本の企業家に交付する処分予定地、など全部で189.2万甲の林野であり、そのうちの101.6万甲
を対象として開発調査を進行させた。
いわゆる土地調査と林野調査は、目的は「無主」の土地を確定して、日本帝国の国有財産に編入し、その後
安い価格で日本の資本家に投売りして製糖工場などを作るためであった。そのほかに、日本の資本家は、台湾
の土地を購入する必要があった。土地所有権を持つ台湾の農民は土地はその生計の主要な源泉だから、
日本の資本家には売りたくなかった、そんなときに植民地政府は全力で資本家を支援し、あるときは「調停」とい
う名目で、警察の暴力も使用し、台湾の農民が土地を売る証文に印鑑を強制的に押させた。これはすなわち
台湾に農民運動が起こる原因となった。
日本の殖民統治者は憲兵の暴力を利用して、強制的に台湾島の土地と森林を没収し、台湾の農民や原住民
を彼らの故郷から追い出し、日本の資本家は台湾総督府の憲兵の暴力に頼って、低廉な価格で植民地台湾の
肥沃な土地を奪い、これがすなわち日本資本主義が急速に発展した原因の一つだ。
4.覇権者の「現代化論」 (省略)
5.台湾の歴史の断層と連続
「終戦」をもって台湾の「光復」にかえることの誤り
明治以来、日本は不断に戦争をしてきた。いたるところで日本軍は外部に侵略し他人の財産を奪って
自らを富ませてきた。日本の対外侵略は失敗したことがなかった。しかし1945年日本が戦争に負けて
降伏し、アメリカ人に占領された。日本人にとっては耐えられないことではなかったか?そのため日本人は
「敗戦」というのを好まず、日本の公文書や新聞などマスメディアはみな「終戦」と呼んでいる。戦争が
終わったことで戦争に負けて投降した事実を覆い隠している。
日本の近代史は1945年8月15日を境にして大きな断層が存在する。これは価値体系の大転換であ
った。8・15以前は日本は軍国主義と天皇絶対主義だった。日本の国民も多くの苦しみを受け、ずっと戦
争に苦しめられた日々を送っていた。8・15以降、日本は平和主義と民主主義の時代になり、憲法は「戦
争放棄」を規定し、日本の核武装を防止し、日本政府の海外派兵を禁止してきた。日本の男子は、徴兵
されることはなくなり、高度成長に伴って、日本国民は有史以来の最も富んで最もよい日々を享受した。
日本は敗戦以来、アメリカ覇権主義が世界政治を操縦する「冷戦戦略」に追随し、こっそりとアジアの
「熱戦」(朝鮮戦争、ベトナム戦争)に参与し、アメリカを支援して「戦争特需」を得て、経済的利益を享受し
た。そこで敗戦後の日本の「一億総懺悔」の態度を改め、日本がアジアの「現代化」「資本主義化」を促進
した功労を賛美し、日本軍国主義に対するすべての非難を否定し、アジアの国々が南京大虐殺を捏造し
ていると逆に非難し、慰安婦を強要するなどの暴行を否認し、過去に侵略戦争に手を染めたことへの反
省の考えなどまったくない。
日本の統治階層が過去の侵略戦争を反省できないことは、台湾に対する殖民統治も頭を冷やしてよく
考える機会を与えない。そして多くの台湾人に「価値倒錯」(value perversion)の幻想をもたらしてい
る。
「台湾の光復」は一個の歴史的な大断層だ
歴史はもともと連続的で絶えることのないものだ。しかし歴史には断層がなければ躍進することもできない。
「台湾の光復」は一個の歴史上の大断層だ。1945年8月15日は日本の無条件降伏の日だ。しかし、10
月25日まで待って、中国戦区域の台湾地区が降伏式典を台北公会堂(現在の中山堂)で行い、やっと台湾は
法律上日本帝国主義の植民地から脱却し、「台湾降伏」と呼べるようになった。
日本が降伏して台湾の光復までの2ヶ月あまりの間、台湾はまだ日本の最後の総督安藤利吉が政治を行い
辜振甫らが日本軍が計画した台湾独立計画に参加するのを制止したり、企業廃止許可令を公布したり、各種
政府系会社を解散したり、日本植民地銀行と国外銀行ならびに戦時特別機構を封鎖したり、台湾銀行と、
台湾拓殖会社の営業継続を許可したり、台湾の光復までに接収することなどを含めて。だから、台湾が完全に
日本植民地統治から離脱したのは10月25日で、台湾総督安藤利吉代表が降伏文書に調印し権力の委譲を
行なってからだ。
台湾人はごく少数の日本の下級官吏やそれに類する日本の「犬」になった人以外は大部分が台湾の光復
を喜んだ。なぜなら台湾人は日本の殖民統治から離脱すれば、再び日本の「下等国民」になったり日本の
いじめや迫害や搾取を受けたりしなくてすむからである。かつ、日本は戦争が好きだから、戦争が続けば
餓死するのでなければ爆死することになる。日本が投降したというのは福音だった。もう戦争しないことに
なったのだから。そして「祖国」に復帰するというのが台湾人の50年来の願望だった。どこにも喜びにあふ
れた気分がみなぎっていた。
台湾人はもともと祖国の懐に帰ることを喜んでいた。そして国民政府を歓迎していた。決して国民党の腐敗
した役人を受け入れようとは思っていなかった。以前と同様の台湾総督府の悪政、たとえば専売制度や戦争
体制、を継続するとは思っていなかった。台湾人には「犬が去って豚が来た」(日本は犬で中国は豚)ように
思えた。台湾は何も変わらずに、主人公になれなかった。国民党政府の高等教育は、日本の殖民統治時代
のように台湾人を蔑視したりはしないが、国民党政府は高官を任命するときに台湾人を排除した。1947年
の二二八事件は蒋介石政権が殺生戒(やり方がひどいこと)をはじめた。国民党政府が台湾に逃げてきてか
ら、台湾の社会では逮捕、暗殺が濫発する白色テロの社会となった。「台湾光復」の喜びはこれにより暗くな
っていった。
しかし歴史は日本人の「終戦」を台湾の「光復」に置き換えることはできない。
戦後の台湾経済は植民地を離脱し、飛躍的に発展した。
(本文省略)
日本統治と国民党統治の連続性
戦後の台湾は経済が発展したが、政治的には日本の統治時代と相当の連続性がある。
いったい日本統治と国民党の統治はどんな連続性があるのか?換言すれば、戦前の日本の殖民統治は
戦後、国民党に何を遺したのか?国共内戦に敗れた蒋介石政権は1949年、台湾に逃れていこう、日本の
三悪政治を受け継いだ。第1に反共、第2に権威による統治、第3が独裁だ。
まず、反共についてのべよう。蒋介石は若い頃、日本に留学した。学んだのは日本の軍事だった。日本の
軍国主義は、蒋介石の思想に深く影響を与え、武力によって戦争をすることの正しさを彼に信じさせるよう
になった。戦後の台湾人は平和を望み、戦争はいらなくなった。しかし蒋介石は国軍を率いて内戦を行い、
台湾のすべての資源は「反共」の内戦のために使われた。
日本の軍国主義は最も「反共」的で、すべては「皇国」を擁護するためにが基本である。日本はもし社会主
義革命が起こったら、天皇制は守れなくなる。明治時代の社会主義者幸徳秋水(1871−1911)は、自由
民権思想からさらに進んで、社会主義を信奉し、「平民新聞」を創設し、反戦論を鼓舞した。著書に「二十世
紀の怪物帝国主義」がある。しかし、彼は天皇を暗殺しようとした首謀者という罪名で死刑に処せられた。
これが有名な「大逆事件」である。昭和時代の有名な哲学者三木清(1897−1945)はドイツに留学し、
マルクス主義に触れ、帰国後京都大学、法政大学で教鞭をとり、共産主義者の友人をかくまったという罪名
で逮捕監禁され、1945年9月26日、監獄で死んだ。これは日本が戦争に負け投降してからすでに1ヶ月あ
まりもたったときの事で、まだ牢に閉じ込められ虐待を受けていた。ここから日本の統治者はいかに残酷に
共産主義者の哲学者に対していたかがわかる。大正、昭和時期の社会評論家細川嘉六(1888−1962)
は最も台湾植民地の状況に同情した時事評論家だった。1926年に「植民政策批判」、1929年に「帝国主
義論」、1941年に「植民史」を出版し、彼もまた一人の反軍国主義者だった。そのため筆禍により投獄され
た。かれの供述は歴々とした貴重な記録に残されている。幸徳秋水、三木清、細川嘉六らはみな、日本の
珍しい人間国宝で、社会主義を信じて戦争に反対し、みな日本の統治者に「国賊」という濡れ衣を着せられて
処刑された。これは日本文化の大きな損失で、その影響は今日の日本人の思想をも束縛するもので、自ら
世界級の哲学者を生み出すのが難しくなっている。
日本軍国主義の「反共」戦略は蒋介石の「反共」精神と合った。なぜなら蒋介石は青年時代に日本軍国主
義の薫陶を深く受けたからである。戦後蒋介石が台湾を統治したときも、戦前日本が共産主義者に対したの
を継承した。ここから台湾の百年に近い歴史は連続した「反共」政治史ということができる。
台湾「反共のとりで」の舞台裏での黒幕
日本が戦争に負け、植民地であった台湾、澎湖列島等は、カイロ宣言、ポツダム宣言、日本投降文書の国
際規定によって、中華民国によって接収され、接収を完成して、台湾は蒋介石の避難の地となることができた。
1949年蒋介石の軍が国共内戦で次々と敗れて、共産軍が海を渡って台湾も統一しようとしたとき、日本は
ひそかに、「白団」を派遣し、蒋介石を援助し台湾を防衛した。白団は「恩に報いる」(蒋介石は「徳をもって怨み
に報い」、日本軍国主義の罪悪を追究しないとした)によって共同して「反共」で戦うという口実で、秘密裏に蒋介
石軍を助け、しかしその中には日本が台湾と大陸を分断しようという策略があった。
旧日本軍人が秘密裏に組織した白団によって、台湾が共産軍の進攻の重大な危機にあったとき(1949−
1952)、日本が良く使っていた詐欺戦術を使って、巧みに台湾に向かう外島を防衛し、共産軍が台湾本島に
進攻するのを阻止した。この日本の軍事顧問団は1949年11月から台湾に15年にもわたって存在し、共産軍
の来襲を防衛するためのほかに、台湾が日本に占領されていたときの「戦争動員体制」を蒋介石政権に伝授し
戦後の台湾の「反共のとりで体制」を完成させた。
これは日本が台湾と中国を分断しようとした謀略だ!なぜなら日本は戦後、連合軍(GHQ)に管理され、日本
の白団が蒋介石の軍事活動を援助したのは、国際上違法行為に属する。もし日本政府がひそかに援護してい
たのでなければ、旧日本軍の国際的な違法性はどうして人目をくらまして悪事ができただろうか?
蒋介石の「反共」白色テロ
日本に占領されていた時代の総督府の法令「匪徒刑罰令」は日本内地の法律の延長であった。植民地の台
湾では廃止されることなく、日本の投降まで存続した。匪徒刑罰令の第1条では大衆を集めるのを匪徒の罪と
規定している。一。首謀者ならびに教唆者は死刑に処せられ、二。計画に参与したもの或いは指揮者は死刑に
処せられ、三。追随したもの或いは下で働いたものは有期懲役または重い懲役に処せられた。戦後の蒋介石政
権の反共白色テロも、戦前の日本占領期の「匪徒刑罰令」を受け継いだものである。厳しい刑罰を行ない、植民
地の「匪徒」刑罰を中華民国の「国への謀反」を懲らしめるために位をあげた。なぜなら台湾は日本の植民地か
ら中華民国に位が上がったから。中華民国の1949年の「謀反懲罰条例」と、1950年の「混乱時期の匪賊スパ
イ取締り条例」によると、ひそかに大陸に渡ったり、大陸からひそかに台湾に来ることはもちろん、大陸と関係す
る疑いをもたれたどんな郵便物、電報、印刷品のやり取りも、あるいは大陸の作家の文学作品を読む読書会も、
すべて「共産党」のスパイの反乱犯と認定されて極刑に処せられた。
例えば、今日なお健在な「遠望」雑誌社の社長廖天欣(台中人)は戦後、独裁に反対し、内戦に反対し、民主
と和平を求めたため、蒋介石政権によって火焼島に送られ牢獄に13年間監禁された。さらに、台湾地区の政治
受難人互助会の常務代表陳明忠(高雄岡山人)は自ら二二八事件の時に遊撃小隊長を経験し、蒋介石政権に
よって反乱罪で死刑を宣告され、26年間牢獄に入れられ出獄した。いまでも社会主義を信奉している。
また例えば労働人権協会の会長林書揚(台南麻豆人)は若いときに社会主義に対する好奇心をもち、「麻豆スパ
イ事件」にかかわり、無期懲役に処せられ、34年7ヶ月牢獄に入ってようやく火焼島から釈放されて出てきた。
彼は暗い牢獄の中でも社会主義の信念を曲げることなく、出獄後は貧しい労働者農民など弱いもののために
声を上げている。これらは気骨のある変節しない台湾人で、一貫して自分が台湾人であり、中国人でもあると考
え、社会主義が社会正義の理念であるとを固く信じている。
蒋介石の反共白色テロの迫害を受けたものの中には、ずっと世間では無視されてきた台湾原住民がいる。例え
ば、角板山のタイヤー族のWatan Tanga(1930-)は台湾の光復後に名前を中国名林昭明に変え、建国中
学高校を卒業、原住民の自覚、自治、自衛を論点として同じ族の人々に自らを救う道を説いた。1952年蒋介石
政権に逮捕監禁され、1954年反乱罪で15年の刑に処せられ、1967年刑期満期で出獄した。全部で15年間も
牢獄に閉じ込められた。彼の伯父、タイヤー族のRochin Watan(1899-1954)は日本占領時代に有名な
公務員の医師だった。光復後名を中国名林瑞昌に変え、1945年尖石郷の衛生所所長に任ぜられた。1946年
尖石郷の郷長に任ぜられ、1948年台湾省政府の諮議に任ぜられ、1949年台湾原住民の最初の参議員に当
選した。しかし蒋介石政権の白色テロの迫害に遭い、1954年反乱罪で死刑に処せられ、その死刑執行の写真
は見るに忍びない。
光復後、台湾で文化の振興に努力した外省人はその処遇は本省人に比べて更に残酷だった。例えば、義民中
学の国語教師の姚錦(広東順徳人)、歴史教師の黄賢忠(広東陸豊人)はいずれも職務に忠実に教え、教室で
も共産主義や社会主義の宣伝をしたわけでもないのに、「読書会」に参加した嫌疑を掛けられたスパイ反乱事件
(中歴事件)で死刑に処せられた。1952年6月18日午前6時、本人であることを確認し、憲兵第8団に渡され、
処刑場に赴き、死刑が執行された。彼らの生前と死後の写真は台湾省保安司令呉国驍ノよって国防部参謀総長
周至柔に送られ、さらに蒋介石のもとに送られた。その悲惨な写真を見ると、独裁者蒋介石の「反共」「恐共」の
気持ちを垣間見ることができる。
国民党政府は台湾を統治した50年間に、台湾と大陸を隔離する政策を採った。2000年になり民進党政権に
なってもまだ大陸と隔離する「反共」「恐共」政策を採っている。現代の若者は社会主義または共産主義のどこが
よくないのか知らない。いわんや、中国大陸が改革開放した後、「社会主義市場経済」路線を進み、経済は日増し
に発展し、「平和が勃興している」ではないか。
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