お知らせしたかったのはクオ・プリームムはじめモツ・プロプリオに関する件です。
モツ・プロプリオですが、定型の書式があり、教皇さまはそれに則って文面を作らねばなりません。
もしピオが文末の一文に拘って、「永遠」を主張するにしても、当時の時代背景から考えると、教皇側がああいう文面を書くのは聖俗関係なく当たり前(現代に照らし合わせれば恐ろしさを感ずるほどの威圧感があるかもしれませんが)のことなのです。
Motu については1484年のイノケンティウス8世以降の全文書を調べると文章の共通性が見えてくるのでは、と拝察しています。ピオが主張する「○×教皇」という個人を上げて永久性を押し付けるのは不自然というのが私の現時点での考えです。極端な話をすれば日本の役所に提出文書のように、単語だけを代える基本作業のみになるのがモツなのです。
ですからクオ・プリームムだろうが、今回のB16のモツだろうが、出だし、箇条書き、結びの文で構成され、特に結びの文(教皇の決意表明と思われる部分)など時空を飛び越えて似通った文章になっています。
また、エクレジアデイ文書の有効期限が今年のmotu発布をもって切れている、という主張もあります。今、調べていますが、新しいモツが発布されることでそれより前のモツの効力がなくなる可能性があるかもしれません。
とりあえず、ですが、ご参考になりましたら幸いです。
情報いただいた方には、ここであらためて感謝の意を表したい。
リコウディス+ホワイトヘッドの「クオ・プリームム」についての主張を箇条書きすると以下の通りである。
・それは「規律的文書」である。従って不可変ではない。
・それが拘束するのは、教皇以外の(当時の)聖職者と俗信徒であって、のちの教皇ではない。
・「永遠に」という表現は、教会文書によくある「決まり文句」である。時期を特定していないだけで、無効になるまで有効という意味に過ぎない。
・従って、「クオ・プリームム」によってトリエント・ミサは永遠のものとして列聖化されたというのは空論である。
聖ピオ十世会のシンパにままあるのは、公文書であるところの教会文書を、あたかも個人的著作のように扱い、その背後にある感情をからめて読むことだ。だから、教皇のペルソナと役職という区別をして、ペルソナによる文書・文言は無視してかまわないかのような主張をする。もちろん、教皇の教皇の名による文書が、単なる個人的命令であることなどありえない。
そもそも、聖ピオ10世会シンパのような「伝統原理主義」者は、自分にとって都合のよい文書・文言だけを大げさに持ち上げてかつぎ回り、都合の悪いものは切り捨ててはばからないが、そのような態度は明白に教皇に対する不従順を意味し、それ自体「離教精神」(Dave Armstrong)を表すものと言うよりないのだ。
(文責・金田一輝)
まずはっきり言っておかなければなりませんが、私は貴殿のこれまでの言動から判断して、まともに応答する相手ではない、と思っています。一見謙虚な態度を見せようと、すぐ手の平を返しますから、信用できません。
それゆえ、常に私が応答する保証はありません。また、もしメールなどを送って来られても、貴殿に個人的に応答するつもりは今の所ありません。
>教皇が、教会においてキリストの望まれた事と別の指針を、あるいはそれと反対の指針を許し、励まし、望むことが一体できるのだろうか。
教皇の指針が、キリストの望みと「反対」であると「誰」が判断するのかが問題です。
その権利があるのは、貴殿でもなければ、O氏でもなく、ピオ10でもありません。ペトロの座にある教皇と、教皇と完全な交わりの中にある司教全体です。聖霊の保護があるのは、教会全体であって、個人や会ではないからです。
貴殿が、自分の勝手で、教会の命令を「間違い」だと判断すれば、それは「私的判断」ですから、何の権威もありません。もちろん、自分の勝手な判断で行動するのは自由ですが、それは「カトリック的」とは言えません。
不可謬的でない事柄については、教会が間違うことはありえる、というのは本当です。しかし、その間違いを判断し、訂正できるのは、教会そのものであって、貴殿のような一個人ではありません。
不従順であっても許されるのは、明白に神法・自然法に反する場合だけです。
第二バチカン公会議の諸決定や、ノブス・オルドを受け入れない、というのは、許されない不従順です。
金田さんの言葉に対する応答を書いておりましたが、かなり長くなりました。だから、ここに書くのはご迷惑でないかと思います。
私自身のサイトに、金田さんのお考えに対する感想と分かる形で、書いてもいいでしょうか?
> しかし、その間違いを判断し、訂正できるのは、教会そのもの
> であって、貴殿のような一個人ではありません。
こういう言葉が金田さんの口から飛び出すとは、私はやはり基本的なところでガッカリします。
「判断する」ということ、あるいは判断したことを外に「表現する」ということに関しては、もっと多くの、深い、細やかな目を向けなければなりません。それは単に謂うところの「教会の権威」「従順」「謙遜」「一致」「カトリック性」等に関係しているばかりでなく、実際、人間の自然的なレベルから、そして教会の中でさえもの、考えられる一定の「自由」及び「権利」と、そして時には「義務」「責務」と想定されるものとも、関係しています。それについてはここで書くとまた「大量書き込み」になって嫌われますから(既に嫌われてますが.笑)控えますが。
だけどそれにしても、「訂正できるのは、教会そのものであって、貴殿のような一個人ではありません」と金田さんが言わなければならないなんて、繰り返しますが、私はそうとう基本的なところで失望します。聖ピオ十世会も、ましてや私も、何事かを信じそれを表現することにおいて、自分達が教会内の何事かを「直接に訂正する権限」を持つと思っているわけでも、また、それ(権限)を欲している、だから教会の最高教導職に「それは私達にこそ相応しいから、あなたはそれを手放して私達に渡すべきだ。それをコッチに寄越しなさい」と言っているわけでもないことは、かなり明らかなことではないでしょうか?
主イエズスが人々にとって不思議な権威の光を帯びつつお語りになった時、当時の教会の権威者達は主が彼らの権威・権限を奪おうとしているのではないかと、要するに「錯覚」したのでした。
もうこれでやめます。
お元気でいらして下さい。
アヴェ・マリア!
私が貴殿をまともな相手と考えないのは、「頬白親父」氏のブログの一件だけからではありません。
また、まともに応答する気はありませんが、自分の間違いを訂正する勇気はある方だと思いますから、ご自分で、じっくり考えていけば、いずれ私の書いていることの意味も理解できるだろうと思います。
ひとりひとりの個人を説得する気はないです(ましてや半分洗脳されている人においてをや)。
>聖ピオ十世会も、ましてや私も、何事かを信じそれを表現することにおいて、自分達が教会内の何事かを「直接に訂正する権限」を持つと思っているわけでも、また、それ(権限)を欲している、だから教会の最高教導職に「それは私達にこそ相応しいから、あなたはそれを手放して私達に渡すべきだ。それをコッチに寄越しなさい」と言っているわけでもないことは、かなり明らかなことではないでしょうか?
OKです。
そうであれば、ピオ10は、今すぐにでもルフェーブルの「破門」を認め、第二バチカンとその後の刷新を受け入れ(カトリック教徒なら、みなそうしています)、ローマ・カトリックの懐に戻ればいいではないですか。
ピオ10がそうできないのはなぜでしょう? 1988年聖座との合意に達した時、再「合法化」されるチャンスがありましたが、ルフェーブル側はそれを自ら反故にしました。
ローマの扉はいつでも開いています。入ろうとしないのはピオ10の問題に過ぎません。
> カトリック教徒なら、みなそうしています
この気の抜けるような一文をここに置けるということも、勿論、金田さんが私を「まともな相手」と考えていないことの証でしょう。
> ピオ10がそうできないのはなぜでしょう?
一から説明するのですか。
>この気の抜けるような一文をここに置けるということも、勿論、金田さんが私を「まともな相手」と考えていないことの証でしょう。
この発言そのものが、貴殿の反カトリック精神を証ししています。
>> ピオ10がそうできないのはなぜでしょう?
>一から説明するのですか。
もちろん、これは一種の反語です。ピオ10が「ルフェーブルの「破門」を認め、第二バチカンとその後の刷新を受け入れ」ないのは、彼らが「似非カトリック」だからです。