実は、個人的な事だけを言えば、聖ピオ十世会は、私にとっては「終わった問題」である。似非カトリックに過ぎないのだから、彼らのプロパガンダについて、特にどうこう思うところもない。また、彼らの主張を信じるひとがいようと、それは個人の信仰の自由だから、いちいち説得しようとも思っていない。
しかし、教皇との交わりを絶とうと望んでいないカトリックの内部にいる信徒でも、直接にせよ間接にせよ彼らの誤謬に影響されることもあるようだ。これは、場合によっては教会内に深刻な不一致を引き起こす。私はそれを憂い、そういう人たちが自ら考えるためのきっかけになればと願って「伝統原理主義」批判記事を載せている。
聖ピオ十世会の問題は、一言で言えば、離教状態にある非合法のグループの「合法化」(legitimation)あるいは「正常化」(normalization)の問題に尽きる。
ここで叩き台になるのは、1988年エコンの司教の違法聖別(これにより会の創始者ルフェーブルらは破門された)の数ヶ月前5月5日に、交渉の末に成立した、聖座(名代ラッチンガー)と聖ピオ十世会との「合意協定」である。
PROTOCOL OF AGREEMENT BETWEEN THE HOLY SEE AND THE PRIESTLY SOCIETY OF SAINT PIUS X
http://www.unavoce.org/protocol.htm
その中で、ルフェーブルは以下のことを宣言している。
私、ルフェーブルと、私によって設立された聖ピオ十世会のメンバーは、
1)次のことを約束する。カトリック教会と、教皇、つまり、至高の牧者であり、キリストの代理者、司教全体の頭としての首位権において聖ペテロの後継者への忠誠を。
2)私たちは宣言する。教会教導権と教導権に対して当然払われるべき支持に関する、第二バチカン公会議の教義憲章「ルーメン・ジェンティウム」25節に含まれる教義の承認を。
3)私たちにとって簡単には伝統と調和しないように見える、第二バチカン公会議によって教えられた幾つかの点、あるいは、のちの典礼や法の刷新に関して、私たちは論争を一切避け、肯定的態度で研究し聖座との交わりを保つようにする。
4)私たちは次のことも宣言する。教会の意向の通りに行う意図を持つ、教皇パウロ6世と教皇ヨハネ・パウロ2世によって公布されたローマミサ典礼書と秘跡儀礼書の規範版に示された諸典礼に従って行われたミサの犠牲と秘跡の有効性を承認すると。
5)最後に私たちは約束する。教会と教会法に共通の規律、とりわけ、ヨハネ・パウロ2世によって公布された教会法に含まれたもの、特別法によって聖ピオ十世会に与えられた特別の規律についても偏見なしに、敬意を持つことを。
よく知られている通り、この合意は、この直後にルフェーブルによって破棄され、反故にされた。
指摘しておくべきは、そもそもこの「交渉」は対等の立場同士によるものでも何でもないことだ。たとえるならば、国際的に承認された合法政権が、内戦を行っている非合法のテロ組織と交渉し、武装解除と引き換えに議会への議席権を認めようとしているようなものである。非合法団体でしかない聖ピオ十世会を認めるなど、カトリック内部からの激しい反発も予想された(今でもそうである)。その点を鑑みれば、聖座が会と「交渉」を行うという時点で、聖座の側からの大いなる歩み寄りがあったと言うべきである。
ともあれ「交渉」なのだから、何らかの取引が行われるのは当然で、しかもこの交渉で聖座が呈示しているのは、カトリック教徒なら誰でも承認し、従っていることに過ぎない。ところが聖ピオ十世会のシンパは、これが聖座サイドの「無茶な要求」だと言う。開いた口がふさがらないどころか、ケンドー・コバヤシのごとく「正気ですか?」と尋ねたくなる。
一部のピオシンパの妄想にもかかわらず、現教皇の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(2007年7月7日)によっても、聖ピオ十世会の非合法的ステイタスは変更されていない。同じ主題について相反することが書かれていれば「新法は旧法に優先する」のが教会法の原則であるが、更新されたのは1962年版ローマ・ミサ典礼書の使用条件についてであって、破門については一言も述べられていない。したがって、前教皇の自発教令「エクレジア・デイ」(1988年7月2日)の「ルフェーブルの離教に対するいかなる支持も止めるように」という勧告は、カトリック教徒に対しては今でも有効である。
ローマ・カトリックと聖ピオ十世会の和解が今後あるかどうか、私には未来を予測することはできない。しかし、単純に言えることがある。少なくともローマ側の扉はいつでも開いている。なんなら、「叩けば開かれる」と言ってもよい。「合意協定」の地点に戻り、教皇の権威を認め、第二バチカン公会議と、その後の合法的な刷新を受け入れさえすればよいだけの話だ。入ろうとしないのは、聖ピオ十世会側の問題に過ぎない。
(文責・金田一輝)
あなたにとって聖ピオ十世会の問題が完全に終わってしまう前に(既にそうなのかも知れませんが)、小野田神父様があなたの"Waby-Saby"07/03/09の記事に反応してご自身のブログでお書きになった2007/03/14の文章、その最後の段落に対する金田さんのお考えをお聞かせ頂きたいです。あなたは応えていないように思えるから。
最後の段落とはこれです。
> しかし、実証できる文献として、この教皇リベリオが、聖アタナジオ
> を公式に破門したということだけは事実である。問題は、教皇様が
> この破門の宣言をした時、本当に現実に真理において、聖アタナジオ
> は破門されたのか、ということだ。もし本当に破門であったなら、
> 聖アタナジオの「罪」は何だったのか? 彼が「破門」された「罪」
> は、ニケア公会議の信仰宣言を力強く擁護したことだった。これは
> 本当の「罪」なのか? 問題は、教皇リベリオが聖人か否か、という
> よりは、むしろ、教皇様であっても、どのような理由であるにしろ、
> 罪なきひとを「破門に処する」ということがあり得る、ということだ。
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/f2ba643790ac6de505e41b78db7290cc
それに比べ、SSPXのシンパなお人が主張されているのは、実に些末で本質を外しているといった印象です。
教皇は教会を牧するために、解いたりつないだりする権限が主イエスから与えられているのですから、誤りがあり危険であると見なされれば破門もあるだろうし、その嫌疑が晴れれば解除だってあるでしょう。
聖アタナシウスを間違って破門することに同意したことがあったからといって、SSPXの違法叙階を正当化する理由にはなりません。
なんと的外れの議論でしょう。
教皇も間違うことがあるという可能性だけに望みをかけ、自分たちは間違っていないと主張するのは、あまりにも苦しい言い訳です。見ていて痛々しい。
金田さんの議論は筋が通っていて清々しいです。良い勉強になりますので、時々お邪魔いたします。応援しています。
それはここ(↓)でも書いたことなんですが、
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/poppyoil/diary2007/d-2007-11-21.html
「ある認識され指摘された事柄そのもの」と「それを認識し指摘した人」は別である、ということなんです。
ここに教皇ヨハネ・パウロ2世の『イネスティマビレ・ドヌム』を引きつつ「信者にはご聖体拝領の時に跪くことを選ぶ権利がある」と主張している人がいるとして、もしその人がリトル・ペブル教団の人であったとしても、それは言われたこと自体の「真偽」には関わりがないことでしょう? ということなんです。
ここに性的な罪を犯しているカトリック教会の聖職者がいて(事実少し前のアメリカではよくあったことらしいですが)それがあるジャーナリストによってスキャンダルとして暴かれたとして、もしそれを暴いたのが共産党のジャーナリストであったとしても、あいるは戦闘的な無神論者のジャーナリストであったとしても、暴かれ指摘された事柄が事実そうであるならば、そのこと自体の「真偽」「事実性」には関わりがないことでしょう? ということなんです。
私は、私達はこういうところでは「信仰者」や「思想家」であるよりもむしろまるで自然科学者のような態度を持たなければならない、と思う者です。一つ一つの事柄に関する真偽を単純に、丁寧に、そして厳密に確かめていかなければなりません。「部分」を疎かにしては「全体」に対する認識だって完全ではないでしょう。何かに賛成したり反対したりするのはあくまでその後の「結果」であって、私達が第一に基礎的に大事にしなければならないのはそのような研究態度ではないでしょうか。
そのような観点から、私はもし金田さんがここでは小野田神父という人によって提出された或る「事実」に、もしただ蓋をして立ち去るなら、金田さんの立論は完全ではないだろう、確かに穴が空いているだろう、と言っているのです。
私達は何かに対する擁護者であったり反対者であったりする前に「個人」であるべきですし、そのようなまるで自然科学者であるかのような単純さ、丁寧さ、厳密さ、公平さ、拘りのなさ等を心に蔵した者であるべきだと私は思います。
話は変わります。誤解される可能性が大ありなことに気づいたので説明しますが、最初に書いた「二度言明されたことを忘れた訳ではありません」というセリフは、私の怨念を表わしているものではありません(笑) 「そう言われたけどまた入りますよ」という意味でした。
私はその昔臨済によって頭を手酷くひっぱたかれた時に、耳から「プライド」という "ゴミ" が出て落ちまして、ですからこんな時にも意外と涼しい顔をしているのでございます。
そしてまた、「お前は相手にすべきまともな人間ではない」と言われても懲りずにまたヒョコヒョコやってくる別の理由は、一つは無神経だから、良く言って無頼派?だからですが、もう一つには、私は私にとって「まともに相手にする価値のない人間」を一人も持たぬからです。基本的にすべての人類同胞に広く心の扉を開け放っているのは良いことです。そして医者が病人を(金田さんが病人だと言っているのではありません、そういう文脈で言うのではありません)断わっては商売にならず、心理学者が精神疾患を抱えた人を断わっては商売にならないのを思えば、信仰家は基本的に自分の視野の中に「話にならない相手」を持っていては商売にならないと言えるでしょう。それは主イエズスの聖心にも確かに反することでしょう。金田さんも、angelic felineさんも、そして私も、主によって望まれた「霊魂」達です。そのため、もし私が道で金田さんにバッタリ会っても、まあ、少しは困惑するかも知れないけれども(笑)、次の瞬間には意外とあっさりニコニコすることでしょう。
痛々しいと感じるのは外野からの視線ですから。
>それは言われたこと自体の「真偽」には関わりがないことでしょう? ということなんです。
で、そんな些末なことを勝ち取ってなんだと言うんですか?
だから議論がマトハズレだと言ったんですよ。
あなたがワァワァ騒ぐのは、外野席から見ていたら結構面白いので、私は構いませんけど。金田さんがこのブログを立ち上げられたのは、もともとあなたとその周辺の方のためだったようですし、好きなだけ騒がれればいんじゃないでしょうか。貴重な時間を使ってあなたの的はずれな質問に付き合われるかどうかは別問題です。ブログ主さんにその義務は全然ないと思っております。
「勝ち取って」って... だから勝敗を競っているのではないと言ったではないですか。。
私は「信仰云々以前の地平でさえもう少し緻密で正確な議論が可能な筈です」と言っているに過ぎません。
どうしてこう人は簡単に「陣営」に分かれたがるだろう。。
貴殿のお気持ちはよく分かりますが、ここでは貴殿の主張は、正しく理解されないでしょう。
沈黙を守られるのも、立派な姿勢だと思いますよ。
また、固有名詞(人名)は出されないほうがいい。貴殿とは、別の人格だからです。
> また、固有名詞(人名)は出されないほうがいい。
> 貴殿とは、別の人格だからです。
そうですね。読んでいる人に余計な混乱を与えかねませんね。
ありがとうです。
> 沈黙を守られるのも、立派な姿勢だと思いますよ。
はい、まあ、私も自分の中でその頃合いを計っているつもりなのですが。。
(対外的にではありませんよ。対外的には、私はネット界の持つ性質についてあまり神経質でないことも手伝って、かなり無遠慮なのです。反省しなければね。。)
金田さん、すみませんでした。もうここには来ることはありませんよ。
最後にお願いです。もしこの先金田さんがキリスト教精神に進まれようとするなら、正当な正義心は別として、聖ピオ十世会の人達を、軽蔑したり、見下げたり、せせら笑ったり、唾棄したり、見限ったりするのでなくて、たまにはその霊魂のために、どのような意味においてでも良いですから、主イエズスに祈って下さい。ロザリオを通して聖母に祈って下さい。
いつものように非難がましいものを含んだ「お願い」ですが(笑)
私のこういうのも妙な癖ですよね.. (^^;ゞ
ここではさようなら、金田さん!
お元気で。
批判行為=軽蔑、見下げる、唾棄 ではありません。そこを勘違いする人が多いのはこまりものですね。神学世界なんか批判しあって成長してなんぼの世界ですよ。
ゆえに感情論的な、或いはこの場において信仰の押し付け的なコメント等に関してはうんざりはしてるかもしれません。
貴殿にまともに応答するつもりはない、という意味は、貴殿が当ブログに投稿してきても、常に答えるとは限りませんよ、という意味です。投稿するのは自由ですから、公序良俗に反しているとか、度が過ぎるほどマナーを失していない限りは、削除したり、アクセス制限することはありませんので、いつでもどうぞ。
もちろん、貴殿が自分のサイトで私の記事について何を書こうがまったくかまいません。
ご質問についてですが、angelic felineさんのおっしゃる通りの答えです。
>聖アタナシウスを間違って破門することに同意したことがあったからといって、SSPXの違法叙階を正当化する理由にはなりません。
破門について間違った判断が過去あったという単なる事実は、ルフェーブルの破門が間違っていることの証明にはならないし、ましてや、その破門が無効だということを意味しません。
破門を無効にする権限があるのは、のちの教皇か、それに準じるautholityがあるひとだけです。
聖ピオ十世会は、ルフェーブルらの破門を認めないという言動そのものによって、正統な教会の権威、教皇の権威を否定してしまっているわけです。
>はじめまして(かな?)。金田さん、envoy magazineの訳は読みやすくてとても良い記事でした。
>金田さんの議論は筋が通っていて清々しいです。良い勉強になりますので、時々お邪魔いたします。応援しています。
こういう言葉には素直に感謝いたします。
訳はもっと手直しするべきなんですが、ほかにもやることがあるので放置しています。英訳に自信があるわけではないですが、ほかにするひとがいないので、仕方なく、という感じです。私のように、海外情報を紹介する方が、もっと増えてくれたらと願ってます。
とりあえず、生暖かく見守っていてください。
>金田氏はピオ10世会の人々というか主張を「軽蔑したり、見下げたり、せせら笑ったり、唾棄したり、見限ったり」はしてないでしょうね。寧ろかなり敬意を払っていると思います。
正直言うと、「似非カトリック」と言った以上、そうとられても仕方がないかな、と思ってます。なぜ「似非カトリック」と言うかというと、私個人にとっては、聖ピオ十世会は、リトル・ペブルや教皇空位論者(Sedevacantist)と同じくくりだからです。とはいえ、そう結論するまで、調べはじめてから一年以上かかりました。
ただ、少なくとも「人々」について軽蔑したり、見下げたり、せせら笑ったり、唾棄したり、見限ったり」していないとは思います。問題にしているのは彼らの主張であって、彼らの人格ではないからです。
実際、ヨゼフ・ジェンマ氏などは、ほっておけば、そのうち真実に気づくだろうと、楽観してます。それが一年先か十年先か、死ぬ直前なのかは分かりませんが。