情報公害を放置すると大きな問題に(CSR解体新書20)
現在発生している「いじめ」の半数以上が、「ネットいじめ」ではないかという指摘があるのをご存じですか?
「ネットいじめ」とは、インターネットや携帯電話などを濫用するイジメを総称する言葉です。多くはネットワークの匿名性に隠れながら、被害者に永続的な悪影響を及ぼし続けるという意味で、大変悪質、かつ犯罪的です。
「ネットいじめ」は「情報の環境問題」ないし高度情報化社会でCSR(企業の社会的責任)を考えるうえで、最も切実な問題の1つを私たちに問いかけていると思います。
大変残念なことですが、21世紀に入って進展したブロードバンド化に伴って、文字テキストのみならず、静止画音声動画メディアも使った「ネットいじめ」が横行するようになってしまいました。
2007年7月には兵庫県神戸市の私立滝川高等学校で、インターネットを悪用したイジメを苦に、あろうことか生徒が授業中に「トイレに行く」と教室を出たまま4階から自ら身を投げて、若い命を失うまでに、事態は悪い方向に進展しています。
9月になって各種メディアが報道したところによれば、滝川高等学校の事件では、被害者生徒が虐待を受けている画像がネットワーク上にアップロードされるなど、携帯やネット上のマルチメディアがイジメの道具に使われていたということです。
大変に悲しむべきことですが、被害者の自殺という最悪の事態によってこの事件が社会に知られるようになってしまいました。
しかし現実には、報道によって広く私たちが知ることのない、無数のイジメや犯罪が、ネットワークの水面下で氾濫している可能性が高いと言います。
例えば計画的な性犯罪者が、レイプに当たって犯行中の音声動画を携帯で記録して、被害者を「もし警察に通報すると、ネットワーク上に写真や動画をばら撒くぞ」と恐喝するようなケースが、実際は相当数あるらしい。そういう「情報化社会」の負の側面が、今日のブロードバンドネット上に、確かに存在してしまっている。
「いつでもどこでも情報化」というユビキタス社会には「いつでもどこでもどんなケースにでも、つまりイジメにも犯罪にも利用できる情報ネット」というもう1つの側面がついて回ります。これを正面から受け止める「ユビキタスクライシス」の観点、見失うべきではないと思います。
前回、テレビやネットワークの音声動画コンテンツなどの「ユーザー受動型メディア」(受動メディア)は、新聞雑誌の文字テキスト等「ユーザー能動型メディア」(能動メディア)と違って「識字率」(リテラシー)による限界がないため、広範な影響力を持つとお話ししました。
この「ユーザー受動型メディア」であるテレビや映画、インターネット動画などには、脳認知科学の観点から考えると、これに加えてもう2つ、決定的に重要な特徴があるのです。
それは、
(1) 視聴者が自覚するより前に、コンテンツの内容に感情を動かされ、喜怒哀楽の情動が発動したり、
(2) 覚える気もないのに内容を記憶してしまったり、甚だしい場合には、主体的な判断に先立って、意思決定がなされてしまう
という2点です。きちんと認識していないと、この2つは私たちを陥れる罠としても機能してしまいます。
この2つの落とし穴は、重要なメディアの特質です。しかし現状では多くの視聴者がその意味を正確に理解、認識していません。その一因はあまりにもそれらが当たり前すぎることにあると思われます。
あまりにも自然な人間の反応なので、かえって事態を把握するのが困難なのです。
そこでおのおのを、より具体例で考えてみましょう。
テレビやネットを見ていて「おやっ」と興味を持つことは誰しも経験があると思います。例えばニュースで報道されていた話題、奇抜な新商品、印象に残るCM、などなど。
この「おやっ」と興味を引く、関心を惹起するということが、先ほど述べた「情動の発動」にほかなりません。
お笑い番組で思わず噴き出してしまったり(喜)、ドラマで憎まれ役の態度やセリフに思わず反感を持ったり(怒)、人情話でホロリとしたり(哀)、動物や子供の思わぬ反応に笑ったり(楽)、ホラー映画でショッキングなシーンにギョッとしたり(怖)…。
テレビや映画は私たちのありとあらゆる感情を惹起する力を持っています。
この時、私たちは「理性」を働かせて「これは面白いと思うべきだから面白がろう」と判断しているわけではない。
この事実に注目する必要があります。
この問題で講演すると、聴衆の中に「いいや、私は外からごちゃごちゃ言われても、そんなものには左右されない。不動心を持っておる」という方が結構な頻度でおられます。
そういう方には、こんなふうにお話しすることにしています。
「人間誰しも売り言葉に買い言葉で、ついムカッとすることがあるでしょう。これを自分から『ムカッとしよう』と思って怒ったのだ、とすると、もしその結果刑事事件が起きた時、より重い、主体的な責任が発生します。
犯意があったことになりますから、より重い刑罰を適用される可能性が高くなる。逆に、その場の行きがかりで『ついカッとして』ということだと、より軽い事犯として扱われることになる。
なぜなら、その怒りの感情はその場で相手から惹起されて発生したものであるから…。このように、感情が外部から喚起されるという生理的事実は、人間一般に通底するのみならず、刑事法廷でも重要な役割を果たしているのです」
こんなふうに、法律や刑罰の言葉を補ってご説明すると、理解していただけることが多いようです。
感情の発動は、理性より常に先立って働く。情動は自律神経によってほとんどオートマティックに動き、それを理性が追いかける、というのが近年の脳科学が明らかにした、人の心の動きの基本的な特質の1つにほかなりません。
今日のようにメディアが発達した時代、私たちは人間の「心」の持つ特徴を、よく理解しておく必要があると思うのです。
一般に「感情」というのは、人間だけに特有のものではなく、イヌやネコ、鳥や獣も持っている心の働きです。
進化系統的に言うなら「より下位」の、つまり生命にとってより深いところ、本質的なところに根を持つ、実は大変に「強いもの」なのです。
これに対して「理性」と称されるものは、われわれ人類など、ごく少数の高度に進化した生命だけが持っている「心の働き」、動きは遅いですし、しかもちょっとしたことで簡単に働きを失ってしまう、いうなれば大変に脆弱なものです。
私たちは通常、理性で物事を判断して生活している、と思いがちですが、それは大きな誤解です。
食べ物を食べて消化するプロセスを考えてみましょう。理性が介在するのは、せいぜい食物を選んで口の中で咀嚼する、その一部程度までで、一度飲み込んでしまったら、あとの消化プロセスはすべて「自律神経」が勝手に行ってくれます。
呼吸や心臓の鼓動も同じです。もし、ちょっと気を抜いてて「心臓動かすの忘れてた」なんてことになったら、命が保証されません。私たちの体や心は、そんな危なっかしい作りではなく、もう少し賢く作られています。
例えば、お酒を飲んで泥酔しても、勝手に心臓を動かすことを忘れたり、自発呼吸がなくなったりすることはない。でも、より脆弱な、人間に特有の悟性の高次能力は、飲酒で簡単に鈍磨してしまいます。
その結果よっぱらいが自分の感情を抑えられなくなって、暴れたり、後で悔やむようなことをしでかしたりする…。
感情というのはこんな具合で、人間という動物にとって理性より先立って自動的に働く、より強いメカニズムなのです。
さて、皆さんは、特に注意していたわけでもないのに、テレビで流していたコマーシャルソングやキャッチフレーズを覚えていたという経験がありませんか?
ちょっと古い広告の例で考えてみましょう。
私たちの子供時代は
「男は黙って」とくれば「サッポロビール」ですし、
「元気はつらつ」とくれば「オロナミンC」でした。
これらの広告を知っておられる方の中には、健康飲料である「オロナミンC」の商標をコメディアンの大村崑さんの声で思い出される方もあるでしょう。若い世代で、上記をご存じでない読者の方は、記憶に残るテレビCMを念頭にご想起いただければ幸いです。
私たちは無数のテレビ広告を、それと意識する前に「記憶」しているのが普通です。
試みにテレビのスイッチをひねってみれば、1度でも見かけたことのある広告は、初めて見るものと「なんとなく」であっても、区別がつくケースが多いことに気がつくことでしょう。
これらは「よし、今晩はコレコレのCMを暗記しよう!」なんて、ねじり鉢巻きしなくても、自然に記憶の中に刷り込まれてしまったものです。
こんな具合で、メディアは気づきに先立って、私たちの脳内、記憶の中に忍び込むことができる。
意識の閾下を示す「サブリミナル」という言葉は、専門的にはむしろこういうことを考える際に使用されるものです。
もう少しだけ、本論の準備段階としてテレビCMの話を続けましょう。
CMで興味を持った商品を「欲しい!」と思うことがありますね。これも「よし、私はこれを欲しようと思うことにするのだ!」と固く心に決めてから、努力して購買意欲を持つわけではない。自分の意思に先立って「あ、これ絶対に欲しい!!!」と、心が先に動いている。
つまり、メディアによってもたらされた「これ、いい!」という情動によって、私たちは悟性による判断に先立って「どうしても欲しい!」という意思の決定を先に下してしまう、そういう脳認知の生理特性を持っているのです。
これは、人間誰しも避けることのできない、生理的な原理原則にほかなりません。
さらに情動を伴う認知は、反射的な行動に人間を駆り立てます。
熱いやかんを触って、瞬間的に「アチチ!」と手を引っ込める。それが人間の生理で「ええと、これはどういう温度かな…。おや、100度を超えているではないか。これは熱いはずだ、ああ、熱い」などと考えている間に、やけどが酷くなってしまうでしょう。
四の五の考えるより前に、半自動化した行動を発作的に取ってしまう。これが、人類が進化史上に選択してきた、より生存確率を高めるための戦略であった。脳認知科学ではこのように考えます。
このように、人間の心と体は、大変巧妙に作られているわけです。そしてまた、そのメカニズムは同時に「死角」を作ってしまう。メディアと認知を考えるうえではそのことを重々、認識しておく必要があるのです。
さて、上では主にテレビCMを例にお話を進めてきたわけですが、現実の日本社会では、これらはさまざまな「縛り」つまり制約を受けています。
20代から30代前半にかけて私は、テレビ朝日系列「新・題名のない音楽会」という定時番組や、NHK の音楽特集番組など、いくつかの番組制作に関わりました。
その経験を一言で言うなら、いかにして制約の中でパターン踏襲に陥らず、新しいことを考え出して実行するか、に尽きます。
改めて言うまでもなく、民放の番組はスポンサーの絶対的制約を受けます。広告代理店もあれこれ介入してきます。また民放以上に縛りが多いのが「皆様の受信料」で運営されているNHKの番組です。
様々なレベルでの内部審査を経て、NHKでは番組がオンエアに漕ぎ着けます。
さらに、こうした内規を超えて「放送法」「電波法」という国の法規がテレビやラジオなどのブロードキャストマスメディアを規制しています。
これらに抵触し続けていると、役所から放送免許を召し上げられてしまいますので、放送局としては生命線に関わる部分で、大変神経質に遵法的な放送を心がけるのが常となっています。
さてしかし今、何千万、何億という人に音声動画番組を届けながら、「放送法」「電波法」などの規制を一切受けないメディアが存在するようになりました。
それが「ブロードバンドインターネット」にほかなりません。
ネットワーク上に存在する音声動画メディアは放送法や電波法の規制を受けません。また、一般のユーザーがYouTubeなどにアップロードするコンテンツは、スポンサーチェックも受けません。
映画なら映倫、ビデオにはビデ倫といった具合に、各業界には内容のチェック機構があります。そして、そういったチェックの仕掛けが一切ない、いわば「無法地帯」であるのがブロードバンドネットワークでの音声動画メディアの現状です。
日経ビジネスオンラインが発信する音声動画番組も、当然ながら放送法や電波法、あるいは専門機関の検閲を受けてゴーが下されるわけではありません。まして「音声動画メディア」はユーザー受動型メディアです。
視聴者は、我知らずのうちに番組に影響を受けて感情を動かされ、意思決定にまで至ってしまうことが、脳認知科学の観点から広く知られているわけです。ここでどのような責任の取り方が可能かを問わねばなりません。
例えば日経ビジネスオンラインの「ザ・ターニングポイント」では川嶋編集長自らがキャスターとして名と顔を公にし、責任を持ってオンエアされています。
ここでは、法による規制で内容を限定しているのではありません。
社ならびに編集部の「社会的責任」において内容が判断され、自社ブランドの名を冠して責任を引き受けているわけです…。つまり、本質的な定義に従って、これはCSRそのものなのです。
報道機関として、ブロードバンドインターネット状況下で企業の社会的責任が実践する、いわば最も純化されたCSRをここに見ることができると言ってよいでしょう。これは別段、筆者として日経ビジネスオンラインに世辞を言っているのではありません。
出版社として果たすべき役割をきちんと認識し、それを実行する。いわば喫水線、最低限守られなければならない水準の問題です。
では、そういった「社会的責任」の意識を一切欠くと、どのような事態が引き起こされるでしょうか。
実名ではなく匿名で、企業ではなく個人で、分別ある大人ではなく物事に理非のつかない子供が、社会的に引き受けるべき責任を一切放棄して、極めて悪質な音声動画などの「受動メディア」コンテンツをネットワーク上にアップロードすると、いったいどういうことが起きるのか。
その結果の1つが、冒頭で触れた「ネットいじめ」にほかなりません。
ここまで予備的な考察を準備したうえで、冒頭で触れた、「ネットいじめ」で、あろうことか自殺にまで追い込まれてしまった高校生のケースを慎重に検討してみましょう。
まず何よりも犠牲者のご冥福をお祈りしたいと思います。
彼が追い込まれてしまった隘路、その危険性に、決意を持って対処すべく、科学的根拠を踏まえて考えてみたいと思うのです。
この事件の詳細は、多くの関係者が未成年の生徒であり、大変デリケートな問題であるだけに、報道を通じて公にされていないことが少なくないように見受けます。
しかし、「イジメにインターネット、マルチメディアが使われていたこと」そして「その結果、被害者が投身自殺してしまった」という冷厳な事実だけは、決して揺るぐことはありません。
そこで、他のあらゆる具体的詳細をいったん捨象して、上記の事件の骨格だけを対象とし、先ほど検討した、脳認知科学から得られた結論を当てはめてみましょう。
すると、
<「メディアの誤用、濫用は(被害者を)悟性に先立って(自殺という最悪の)意思決定に追い込み(飛び降りという破局的な)行動に駆り立てた」可能性がある>
という、一切値引きのないアウトラインが明らかになってくるわけです。
なぜ、そんな早まったことをしてしまったのか。どうしてそんな取り返しのつかないことをしてしまったのか。
追い詰められた状態にある時、犠牲者は悟性をもってきちんと対策を立てることができなかった可能性が高いと思われます。そこまで彼を追い詰めてしまうに当たって、ネットワークやメディアが、最悪の役割を果たしたことが、科学的根拠に基づいて推察されます。
こんな無法は、決して許してはいけないことです。
事件は加害者被害者双方とも未成年の学生ということで、踏み込みにくい詳細が山ほどあると思いますし、私自身、そうした詳細には踏み込みません。
しかし、イジメを実行した個々の加害者などに言及する以前に、メディアに関連する部分について、上記のようにその構造的本質は抉り出すことが可能です。これを放置すべきか? が次に問われるでしょう。
問題の構造的本質や、危険の可能性(ポテンシャルハザード)が見えた時、私たちはどのように対処すべきでしょうか?
臭いものに蓋をすれば、根が絶たれていませんから、同じことが繰り返される危険があります。
人を憎む以前にまず罪を憎んで、決然と根本から断つ対策を考えなければならないと私は思います。
「ユーザー受動型メディアの無法地帯であるブロードバンドネットワーク」。
この危険な環境の中で、適切な安全のための措置を講じなければ、類似の事件は繰り返し起こる危険性を否定できません。
構造的原因がある問題は、それを断ち切らない限り、再発を防ぐことはできないのですから。
ネットいじめの犠牲となった彼の心中を思うだに、憤懣やるかたない思いを持たざるを得ません。
彼はいったい、どんな絶望の下でがけっぷちまで追い詰められてしまったか。私はカルト宗教や霊感商法の犠牲となって深く心に傷を負った人のカウンセリングのお手伝いをすることがあります。
お話を伺うたびに、一人ひとり心の傷はほかの人と比較することができないとつくづく思います。それでも、この神戸の事件を考えると、一切の言葉を失わざるを得ません。
ネットいじめを実行した加害者も子供です。イジメていた連中は、自分たちがいったいどういう破滅的なことをしているか、何も知らず、何の自覚もないままに、最悪の上に最悪を重ねて、取り返しのつかないところまで、被害者を追い詰めてしまった。
仮に犯人が検挙され処罰されても、今も世の中にいる多くの「ネットいじめ」実行犯の子供たちが、そのメカニズムを知らなければ、あらゆる学校で、何度でも、同じ愚行を繰り返し得る、その本を断たねばならないはずです。
「イジメはいけない」と頭ごなしに言っても、構造要因が取り去られなければ、そしてイジメる子供たちが芯から懲りなければ、同様の事態が再発しないと、誰も断言できません。
こんなバカな状況を野放しにしてよい道理は絶対にない。大人は、社会は、あるいは国は絶対に、きちんと有効性を持つ対策を講じねばならないと思います。取るべき対策を取り、亡くなった方を心から悼む、それこそがあるべき姿勢であるはずです。
ネットワークの情報環境問題の、最も身近で切実なケースとしての「ネットいじめ」。しかし大変残念なことながら、事態は今後さらに複雑かつ、より深刻になる懸念があります。
ところが、(詳細は次回以後にお話ししますが)面倒なことにこの問題を解決するうえで、単純な法律的規制も、単純なインターネットテクノロジーも、ほとんど役に立たないのです。
私たちは一体どういう対策を立て得るのか?
そう考える時、CSRの重要性が改めて再認識されるのです。なぜなら、単に法で禁じ、罰則を設けても、問題の解決には直結しないのだから。
今日のネットワーク情報社会を支えているのは、明らかにIT(情報技術)企業です。イジメなどの悪行をなす、子供を含む個々のユーザーの行動を取り締まることも重要ですが、同時に、私たちの社会を支える情報企業が、自覚を持って対策を立てることは必須不可欠だと言わねばなりません。
そこで「情報の環境問題」という設定を再度考えてみる必要があると思います。
山崎養世さんのコラムに「ワイドショー型不況」という鋭い考察が示されていましたが、伝染病のように蔓延する情報公害にどのような根本的対策を講じられるかは、企業、個人、国といった区別を超えて、私たちの社会全体を左右する大きな問題だと考えられます。
さらにここでは、前回も言及した「脳機能可視化」などの道具や知恵も的確に用いることが重要だと思います。何と言っても命に関わることです。無闇やたらな放言で解決されるべきことではありません。
ややもすれば標語にとどまりやすい「生徒のみなさん、イジメはいけません、やめましょう」というアナウンス、あるいは精神論やべき論の連呼ではなく、現実的有効性が科学的に保証された対策を講じることが、今一番求められているのではないか? 私にはそのように思われてなりません。
(つづく)