2006年08月28日 22:15 [Edit]
平等←博愛→自由
本書、「日本とフランス 二つの民主主義」は、この自由と平等のトレードオフの関係が、日本、というより日本をも含めた「英米」の「自由」に軸足をおいた民主主義と、フランスをはじめとする大陸欧州の、「平等」に軸足をおいた民主主義の相克が非常にすっきりした形で書かれている。
日本では、保守が右翼で革新が左翼ということになってしまっていて、これは「右」=right(正)、「左」=left(余)という点では間違いではないのだが、世界的趨勢でいくと、むしろタイトルに書いたように、左は平等を、右は自由を指すと解釈した方がいい。著者はそれを強調するために、「中央集権体制≠非民主的」、「同国民≠同人種」、「愛国心≠軍国主義」といった具合に項のタイトルに≠を多用している。
本書の各所でなされる指摘は、文字通り目から鱗という感じで、私にとっては鱗を通してもおぼろげに見えていたものが、本書をとおしてより明瞭に見えるようになったという感じである。「欧米」と書くが、日本から見ているそれは「英米」であり、仏がないことがとてもよくわかる。
民主主義を知るのにフランスを見ないのは、仏教を知るのに仏を無視するのも同様なのである。フランスはもっと日本において研究されるべきであり、本書はその格好のApéritifだ。
ただ、疑問点もある。
Fraternité -- 博愛という言葉が本書には一度も登場しないのだ。
404 Blog Not Found:自由と平等の間にはだからこそ、Liberté(自由), Egalité(平等) の最後に Fraternité があったのだと思う。
Fraternité -- 博愛、これこそが、民主主義社会の目的なのではないか。
私には、著者があえてこの言葉を本書で使わずにとっておいたような気がする。その意味でここにこうして書いてしまったのはある意味ネタばれではあるのだけれども。
筆者は自由と平等のどちらがいいかの判断は保留している。しかし今は平等に軸足をおくフランスにしてから、標語にはLiberté(自由)をEgalité(平等) の前に持ってきているし、平等のためにはどんな不自由にも耐えるべきとしているわけではない。これは英米、そしてに日本してもそうで、自由のためにはどんな不平等に耐えるべきとはしていない。どころか公民権法など、平等を担保するためにかなり強権的に「不自由」を発動するための措置もしている。
日本は、今までどちらかというと、建前で自由を標榜しつつも本音では平等--たとえそれが出る杭を打つことになっても--という社会だったのが、本音が建前に近づきつつある社会になってきているのだと思う。しかし、平等な規則が自由な表現を生むということを古来から知っているのもまた日本人ではなかったのか。短歌から○●道まで、これらは型という平等が生んだ自由な表現であり、それがあるからこそ日本の文化がフランスにも大いにアピールしてきたのだと思う。
フランスから、今、目が離せない。
Dan the Unfree Brother of Yours in the Unequal World
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「Fraternité」を「博愛」とするのは意図的な誤訳のようで
日本語に訳すなら「義兄弟」が近いらしいです。
ようは「任侠」ですな。(笑
最近おんなじような話を終風爺のところでやっておりましたよ。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060823/1156292842
『フランスにも多いにアピール』→『フランスにも大いにアピール』
でしょうか。
です。直しました。
Dan the Typo Generator
スクウェア・エニックスの子会社になったようです。
任侠といってもあくまで限られた集団内でのルールであって
世界は一家、人類は皆兄弟
っていうのはちょっと無理かなあと思われ。
なんか抗争してるし。