リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ、通称カカは、2007年バロンドール(世界最優秀選手賞)の受賞者となり、歴代のビッグネームに名を連ねることになった。世界のサッカー界の新たなスターとなった彼がブラジリアで生まれたのは1982年4月22日。その後すぐ家族とともにサンパウロに移り、そこでサッカーを始めた。
カカという愛称は、弟のジゴン(彼もミランでプレーしている)が小さいころにリカルドの名前をうまく発音できなかったためにつけたあだ名で、ブラジルでは珍しい名前だ。ブラジルの子供たちによくあるような、貧しい暮らしからサッカーで身を起こしたというようなバックグラウンドは彼にはない。家族は中流階級で、父親のボスコはエンジニア、母親のクリスチーナは教師として働いている。そのためか、はじめはなかなかブラジルのファンに愛される存在とはならなかった。
サンパウロでプレーを始めたカカはトップチームで衝撃的なデビューを飾る。2001年1月12日に行われたリオ・サンパウロ選手権決勝のボタフォゴ戦(2−0)で後半から出場し、わずかな時間で試合を決定付ける2ゴールを記録。その後2シーズンブラジルでプレーし(ブラジル代表が優勝した2002年ワールドカップ・日韓大会ではコスタリカ戦で18分間出場)、ヨーロッパの主要なクラブからの注目を集めた。最も手が早かったのはミラン(同じブラジル出身のレオナルドの協力も大きかった)。850万ユーロ(約13億8000万円)を支払って彼を獲得した。
イタリアではカカという名前は、発音によっては汚物を意味するために、からかわれてしまう。当時ユベントスのスポーツ・ディレクターだったルチアーノ・モッジの言葉は忘れることができない。「あんな名前の選手を獲得することはリスクにつながるかもしれない。どんなジョークが生まれると思う?」
結局これが、カカがユベントスのユニホームを着ない理由となった。
しかし、2003年9月1日のリーグ開幕戦からは、誰もが考えを改めなければならなかった。ミランがアンコーナを2−0で破った試合で、カカはシェフチェンコに2アシスト(一つは中盤で相手選手の頭上を抜いたプレーだった)を供給。その後カルロ・アンチェロッティ監督が彼を外すことはなかった。
カカは欧州カップのデビュー戦でもサンシーロを沸かせる。9月16日に行われたチャンピオンズリーグ(CL)のアヤックス戦だった。2003年10月5日のダービー(3−1で勝利)でミランでの初ゴールを決めると、それは運命だったかのように感じられた。世界のサッカー界に新たなスターが誕生したことを誰もが理解し、過去の偉大な選手たちとの比較が始まった。彼がそういった名手たちのカテゴリーに属することはすぐに明らかとなる。イタリアでの1年目で10ゴールを記録していきなりスクデット(セリエA優勝)を獲得した。
しかし、ラ・コルーニャでは悪夢のような夜も過ごした。CL準々決勝のデポルティボ戦で、第1戦の4−1というスコアを0−4で逆転されてしまったのだ。その翌年、ミランとカカはイスタンブールでそれ以上に冷酷な悪夢を見ることになる。リバプールとの決勝で6分間の狂気に見舞われ、すでに手中に収めたかに見えたCLのタイトルを逃してしまった。0−3から3−3に追いついたリバプールがPK戦の末に欧州最大のタイトルを獲得した。
カカは決定的な場面でのスーパーゴールや観客を魅了するプレーで、ミランのチームリーダーとしてますます存在感を強めていく。2005−06シーズンのCLでトルコのフェネルバフチェから奪ったゴールは忘れられない。中盤で競り勝ち、相手選手3人をかわしてゴールを決めた。
2006年の夏にはブラジル代表として、ワールドカップ・ドイツ大会に出場。クロアチアとの初戦で素晴らしいゴールを決めたが、ブラジルは準々決勝でフランスに屈した。その翌年のCLではアンデルレヒト戦でハットトリック。20メートルの距離から回転をかけたシュートをゴール隅に突き刺した3点目は、世界中を駆け巡った。
ベスト16のセルティック戦でのゴールや、オールド・トラフォードでのマンチェスター・ユナイテッドとの準決勝第1戦での2ゴールなど、ヨーロッパでは決定的なゴールを決め続ける。5月23日にはアテネでリバプールにリベンジを果たした。この試合ではカカの獲得したフリーキックがフィリッポ・インザーギの先制点へとつながり、2−0のゴールもカカがアシスト。カカは初めて欧州王者のタイトルを獲得し、10ゴールで大会の得点王にも輝いた。
今季はセビージャを破ってヨーロッパ・スーパーカップのタイトルも獲得。あとは最近のことだ。好青年の顔をした“怪物”がバロンドールを獲得するに至った。
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