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問われる「医は煩悩か」


生命倫理学会 宗教者が議論

 先端医療の発展などを背景に生命倫理をめぐる議論が続いている中で、宗教はどんな役割を果たすことができるのか――。そんな問題を考える上で興味深い催しが、今月10、11の両日、東京都内の大正大学で開かれた。今年で19回目を迎えた日本生命倫理学会で、関連の二つのプログラムでは、「仏教から見れば医療は煩悩なのか」といった声が会場から上がるなど、熱い議論が展開された。

(時田英之)


宗教文化と生命倫理について議論が繰り広げられたシンポジウム

科学の「欲望」制御できるか

 日本生命倫理学会は、生命倫理に関係のある医学、倫理学、哲学といった諸分野の研究者などが構成する団体。今回の大会は仏教系大学での開催ということもあって「宗教」関係のプログラムが目立った。その一つが宗教者を発表者に迎えたワークショップ「いのちの尊厳と宗教」。

 宗教界には現在、仏教、キリスト教、新宗教系の26の教団が参加する「教団付置研究所懇話会」があり、それぞれの研究機関が横の連携を図っているが、2005年には下部組織として「生命倫理研究部会」が発足。脳死・臓器移植問題などについて意見交換を進めてきた。今回のワークショップには、こうした活動に加わってきた浄土宗、大本、曹洞宗、浄土真宗本願寺派から4氏が発表者として参加。「宗教者は生命倫理について何を語れるか」を論じた。

 その議論に共通していたのは、移植医療や生殖医療の行き過ぎに歯止めをかけるものとして宗教はなお有効、との視点だった。

 例えば「欲望から解き放たれた、執着を乗り越えたさわやかな生活こそ幸福な生活」という釈迦の教えを引きながら、「様々な問題を解決するためには自発的な欲望のコントロールという考え方が重要では」と説いたのは、浄土宗総合研究所の今岡達雄氏。

 浄土真宗本願寺派教学伝道研究センターの藤丸智雄氏も「現代社会は欲望を原理とするが、欲望から離れられない人間が社会を作っている、という考え方は仏教も共有している。ならば仏教が蓄積してきた処方も現代社会に有効といえるのでは」と発言。仏教の可能性を示唆した。

 また、曹洞宗総合研究センターの竹内弘道氏は「日本では古来、死者の魂の救済が宗教の重要な機能としてあった」と解説。その上で、今日ではそのような死者への思い抜きに、「生者」の意志のみで、例えば脳死による臓器移植などが進められてしまうことへの違和感を表明した。

 会場との質疑では、発表内容に疑問を唱える声も相次いだ。「死者の魂の救済が大事だといっても、今の普通の人には説得力がない」「患者が長く生きたいと願うことも仏教では煩悩になってしまうのか。それでは医療自体が煩悩ではないか」――。

 医療関係者も多い学会だけに、その「現場」と宗教者の間に溝があるのも事実。ただ、「このような場で宗教者が発言する場はほとんどなかった」(今岡氏)中で、今回の試みの意義は大きかったように感じられた。例えば、会場から出された「異論」について、当日は十分議論が展開されないまま終わったが、認識のギャップが明らかになった点だけでも議論は一歩前進。疑問の声に宗教者はどう答えるのか。対話の「続き」を今後に期待したい。

 
 

シンポジウムで発表する■島さん

 今大会で開かれたシンポジウム「死生の文化と生命倫理」もまた、生命倫理と宗教文化の関係を問う内容だった。

 宗教に関心の深い研究者5氏によるもので、各地に固有の宗教文化は、それぞれの生命倫理の考え方にどのような影響を与えているか、というのがテーマ。

 日本人の人工妊娠中絶の考え方を、「間引き」を踏まえて論じた島薗進・東大教授(宗教学)など、それぞれが宗教の影響力について語ったが、一方でユニークな議論を展開したのは、■島(ぬでじま)次郎・自治医科大客員研究員(社会学)。

 ■島氏は「やりたいことは何でもやる、というのが科学の精神であり、いわば科学は一つの精神世界として自立している。科学の外にある宗教に歯止めを求めるのは中世以前への退行になってしまう」と発言。さらに「歯止めとなる倫理は、科学の外ではなく、科学者と科学を享受する者が鍛え上げていくべきだ」と論じた。

 生命倫理の確立のために宗教文化が果たす役割を否定するラジカルな発言だったが、同時に興味深かったのは、科学が暴走する背後には「欲望充足の原理」がある、と氏が主張したこと。

 「欲望」とは、期せずして宗教者によるワークショップのキーワードでもあった。懐疑論もある中で、宗教は「欲望のコントロール」のために何らかの貢献ができるのかどうか。問われているのは宗教の底力だ、との感想を持った。

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2007年11月28日  読売新聞)

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