最終更新日:2004年03月31日

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中国帰還者連絡会の人びと(中)

  忘れえぬ七三一部隊の狂気−篠塚良雄さんの場合−

星 徹


中国帰還者連絡会の人びと(上)

中国帰還者連絡会の人びと(下)


■このルポは、『週刊金曜日』第304号(2000年2月25日)に掲載されたものです(若干の修正をしました)。

 千葉県八日市場市内の寺院の一角に、ひとつの「謝罪碑」がある。

・・・私たちが侵略者として中国で犯した滔天の罪行は 被害者の心情を思えば思うほど深くしてなお重く とても償えるものではありません(中略)帰国四十年に当たりいま在る我が身を想い 「怨みに報ゆるに徳を以てす」の偉大なる中国人民に対し 限り無い感謝と謝罪の誠を捧げ 亡き先達の遺族と共に此の地に碑を建て 永遠なる日中友好の誓いとします
   一九九七年七月吉日
   中国帰還者連絡会千葉県支部建之

 篠塚良雄(旧姓・田村。76歳)は、碑の前で「わしは中国の人たちに本当にひどいことをしました」とつぶやく。近所の人たちは皆、この碑のことも彼が中国で行なったことも知っていて、花を供え掃除をしてくれるそうだ。「篠塚」の家の墓も、ここから20メートルほどの所にある。

 この1ヵ月ほど前の98年6月25日、篠塚は自らが中国でなした罪行について米国とカナダで講演するため、飛行機で米国のシカゴへと向かった。事前に、両国政府機関から「731部隊の戦犯なので、入国を許さない」という情報を受け取ってはいた。それでも、「話せば分かってもらえる」という思いで出発したのである。

 シカゴのオヘア国際空港の入国審査で、コンピュータが反応した。
「ワシントン(米国政府)の命令だから、入国は認められない。篠塚には、ただちに日本に帰ってもらう」
 審査官にそう言われ、篠塚は成田へと送還された。(注1)

 「証言するから入国させない、としか思えない。口をつぐんでいる人は入国できるのに」
 篠塚は悔しさを押し殺してそう言うと、目をつぶったまま動かなかった。

<731部隊少年隊へ> 

 篠塚は、1923年11月、現在の千葉県中央部のある村に生まれた。5人兄弟姉妹の2番目で、家族で農業を営んでいた。「篠塚」少年は農業を手伝うのがとても好きで、ひとりで多くのウサギの飼育もしていた。

 日本軍による中国への侵略戦争が激しさを増すなか、15歳の篠塚は、知人の勧めで関東軍防疫給水部(満州第731部隊。以下、731部隊)の試験を受け、合格した。そして39年4月1日から約1ヵ月間、現在の東京都新宿区戸山にあった陸軍軍医学校防疫研究室で、同年代の少年たちと共に初歩的な教育を受けた。

 5月12日には、中国東北部(旧「満州国」)・ハルビンの南方約20キロメートルにある平房の731部隊に到着した。そこでまず教えられたことは、「見るな、聞くな、言うな」ということである。そして「逃げ出せば、敵前逃亡と同様に処刑」という厳しい規則があった。しかし、「当時は、秘密があればあるほど、やりがいがあると思っていた」と篠塚は語る。

 彼らは、731部隊の少年隊として教育を受けることになった。
 日課はおおむね次のとおりであった。    
1.朝6時すぎから1時間ほど軍事訓練。
2.朝食後昼ごろまで(または夕方まで)、人体などに関する学科授業または実習。
3.午後に授業がない時は、各研究班への手伝い。篠塚の場合は、蚤の増殖や細菌の培養などの手伝いだった。

 41年7月の関東軍特別演習(注2)を前に少年隊は解散され、多くの少年隊員は各地に散らばっていった(注3)。しかし、篠塚は第四部第一課柄沢(十三夫・軍医少佐)班に配属され、細菌培養の作業に従事することになった。

 篠塚は、この柄沢班にいる間に、人体実験に関わったのである。しかし、講演では決してこのことに深く立ち入ることはない。そして、悲しみや辛さをあまり表には出さず、淡々と証言をする。

<「マルタ」を解剖した「日本鬼子」>

 柄沢班での一番の目的は、ペスト菌・コレラ菌などの細菌の毒力を強化し、大量に培養することにあった。この目的のために、篠塚は42年10〜12月と43年1月に、合計7人の中国人への生体実験に関わった。

 私は篠塚に、この時期のことを数回にわたって尋ねた。
 42年10月からの「実験」では、5人の中国人男性「マルタ」(注4)のうち4人に、柄沢班開発のものを含むさまざまな種類の対ペスト・ワクチンを打ち、その後に5人全員にペスト菌を注射した。

 「彼らはみな毅然としていて、私はよく『リーベンクィズ(日本鬼子)!』などと罵倒され、睨みつけられました」

 篠塚は当時のことを思い出しながら、落ち着かない様子で話し始める。
「そのうちの1人のインテリ風の男からは、一番いろいろなことを言われ、諭されました。私は中国語が少し分かったので、初めのうちは恐くてガタガタ震えていました。しかし、当時は命令されれば何でもやるのが当然という雰囲気で、おかしいなどと考える余裕はありませんでした」

 5人のうちでこの男にだけは、ワクチンなしでペスト菌が注射された。そして、2日目くらいには、相当高い熱が出て顔色が青くなり、その翌日には、瀕死の状態で顔が黒っぽく変っていた。ペストの末期症状であった。

 柄沢班の医師たちは、この瀕死の「マルタ」を解剖室へと運び込んだ。軍医2人、判任官(注5)1人、そして下働きの軍属・篠塚が解剖室に入った。裸にされ解剖台に載せられた「マルタ」の体を、篠塚はデッキブラシで洗うようにと指示された。

 「わしは、なるべくこの男の顔を見ないようにして、ホースの水で体全体を洗いました」
 私がその後も質問を続けると、篠塚は次第に息づかいが荒くなり、つぶった目もとや口のあたりが小刻みに震えだした。

 「ちょっときついです。これ以上はつらくて話せません。勘弁してください」
 そう言って、潤んだ目を見開き、必死に涙をこらえている。

 後日、解剖室でのその後について、もう一度尋ねてみた。
「その中国人は、瀕死の状態のまま生体解剖され、途中で死にました。わしはその時、命令されるままに下働きをしました。内臓は次々と体から取り出され、最後にはほとんど無くなっていました」

 篠塚が体験した生体解剖の様子などは、後に戦犯管理所で書かれた「手記」(注6)に詳しく記されている。

 「『手記』に書いたことは、全部わしが実際に体験したことです。でも、あれは読みたくありません。これまでにも、ほとんど読んだことがないのです」

 そう篠塚は語る。そして、この「手記」の中では、自身を恐れを知らぬ非情な人間のように書いているが、「実際は違うのです。虚勢を張って表向きは確かにそうふるまっていたのかもしれませんが、内心はいつもおどおどしていた」のだと言う。

 あとの4人もペストを発病した。そのうち2人は、前の中国人と同様に篠塚も加わり生体解剖をして、内臓を取り去った。残りの2人については、「診療部に送り、生体解剖されたはず」と言う。

 さらに43年1月にも、2人の中国人「マルタ」の男性にペスト菌を注射し、発病後に篠塚は生体解剖に関わった。

 「いくら下っぱの仕事とはいえ、わしには伸し上がりたいという幻想がありました」
 篠塚たち少年隊出身者にとっては、敷地内の重要地域に出入りできる「特別班出入許可証」をもらうことが、まずは第一の「出世」の証であった。そして将来は、判任官になることが目標であった。

 篠塚は、当時の自らの心の内を、次のように語る。
「こういった『出世欲という面』も確かにあったのですが、上官の命令に逆らえば厳罰に処されるという『強制という面』もあったのです。当時は、拒否できるという雰囲気ではありませんでした。結局、こういった両方の面があったのです」

 43年3月、篠塚は班長の柄沢に「ここ(731部隊)を辞めたい」と申し出た。
 「嫌気がさしていたのです。良心の呵責からではありません」
 そう回想する。一番の理由は、自分の身の危険を感じたことだった。細菌に感染して、仲間が次々と死んでいくのを見てきた。そして、ペストに感染して発病した同僚への生体解剖にも、協力せざるを得なかったのである。

<敗戦、そして認罪の始まり>

 篠塚は「休みをやるから」と言われ、一時帰国した。日本で徴兵検査に合格した後、柄沢班長からの指示で「満州国」の他の地域に軍属として派遣された。そして44年3月、ソ「満」国境に近い黒河省(当時)内の関東軍歩兵部隊に入隊し、同年11月からは師団司令部軍医部で働いた。45年2月には平房の731部隊に戻り、下士官要員教育を受け、同年6月に通化の関東軍第125師団軍医部に移った。

 45年8月15日、日本敗戦の日。篠塚は出先地から通化の軍医部に戻り、軍医部長からの手紙を受け取った。

 「ソ連の捕虜になるな。朝鮮を通って日本に帰れ」
 篠塚は「徹底抗戦派」の将校に残るようにと言われたが、中国人にまぎれて「逃亡」した。しかし日本に帰りそびれてしまい、困っているところを共産党軍に助けられ、以後彼らと行動をともにした。

 「解放軍の人たちはみな親切で、彼らに助けられるなかで、自らの罪行の重大さに気づくようになりました。わしのやったことが、いかに中国人民を苦しめてきたかが、次第に分かってきたのです」

 49年10月1日、「内戦」の末に共産党軍が中国本土を解放し、中華人民共和国が成立した。篠塚は51年に拘束されて北京人民法院に収容され、52年には撫順戦犯管理所へと移された。

 「わしには罰を受ける覚悟ができていました。自らの戦争犯罪をずっと胸に秘めてきたのですから」

 篠塚にとっての認罪活動は、撫順に来る前からすでに始まり、ここでさらに認罪意識を深めていった。そして中国の寛大政策により、56年6月に不起訴処分となり、その夏に帰国することができたのである。

 千葉県の故郷に戻って数日後、同郷の731部隊の元上官たちが歓迎会を開いてくれた。その場で、違う部署の元上官から、「一緒に石井(四郎)部隊長閣下のところに帰還の挨拶に行こう」と誘われた。篠塚は行く筋合いではないと思い、「わしはもう石井の部下じゃない。行くのは嫌だ」と断った。その場は険悪な雰囲気になり、それ以降こういった会合に誘われることはなくなったという。

 「あの時、石井四郎に会って就職の世話にでもなっていたら、今頃は口をつぐんでいたかもしれません。行かなくてよかった」

 そう回想する。その後、地方公務員となり、定年まで働いた。定年後の84年ごろから、731部隊での体験を講演するようになった。それまでは、そういった機会が与えられなかったのだ、と言う。

 「わしが中国でやったことを、闇から闇に葬るわけにはいかない、と思ったのです」
 真剣な眼差しでそう私に訴える。

 講演会での証言は、93年に「731部隊展」が全国各地で開催されるのと平行して、頻繁に行なわれるようになった。

 嫌がらせも度々あった。東京・渋谷での講演後、ロビーでチンピラ風の若い男に「でたらめ言うな!刺すぞ!」と脅されたこともある。そんなことがあっても、証言を続けている。
「わしたちは、人としてやるべきでない事をしてしまったのです。被害者や遺族の立場になれば、どう思っただろうか、といつも思います。せめてもの償いです」

 そう言うのだが、講演で目にする篠塚は、いつも苦しそうだ。
「講演をして当時のことを思い出すと、苦しくて夜はなかなか眠れないのです。思い出すのは、とてもつらいのです」
 そう私に語ったことがある。

<生涯を通じて責任を取る>

 米国とカナダへの入国拒否について、さらに聞いてみる。
 「確かにわしのやったことは非人道的な行為でした。申し訳ないと思っています。しかし、米国は石井四郎(元部隊長)ら幹部と取り引きをして“免罪”しているじゃないですか。彼らが入国できたのに、わしみたいな下っ端を入国させないのは、納得できない」

 確かに、篠塚は非人道的行為をした。しかし、被害国である中国の裁判では不起訴処分になっており、「元戦犯」ではない。米国は、731部隊などの人体実験やその他の“研究”資料を手に入れることを条件に、これら戦争犯罪を追及しない、という取り引きをした。その一方で、篠塚のように自らの罪を認めて謝罪し、積極的に事実を証言している元下級軍属を入国させないのである。

 米国から送還されて1ヵ月半後、篠塚は中国へと向かった。「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」の現地調査に協力するためである。この裁判は、731部隊など日本軍細菌戦部隊が培養・散布したペスト菌・コレラ菌に家族が感染して死亡したとする原告108人が、97年8月に東京地裁に提訴したものである。

 同行して訪中した原告側の一瀬敬一郎弁護士は、「篠塚さんは、平房の731部隊跡の実地検証にも協力してくれました。当時は柄沢班でペスト菌の培養などをしていたので、とても貴重な証人です」と言う。

 篠塚は弁護団からの協力要請を快諾し、積極的に協力を続けている。99年12月の口頭弁論期日では、原告側証人としての陳述が申請され、現在その準備が進められている。
 篠塚は、731部隊の目的について次のように語る。

 「731部隊というと生体実験(注7)にのみ焦点が当てられがちですが、その目的は、より強力な細菌などを大量培養し、人間を大量に殺戮するための生物兵器を開発することにあったのです」

 篠塚はその細菌の開発・培養に直接かかわり、人体実験・生体解剖にも手を貸してしまった。そして、大量に培養された細菌は、中国の広い範囲にばらまかれ、多くの被害者を出した。

 「わしがやったことの責任を取りたいのです。裁判に取り組み、事実を明らかにするのは、当然のことです」

 篠塚は、生涯を通じて認罪しつづける覚悟でいる。


(注1)『週刊金曜日』第231号(1998年8月21日)・一瀬敬一郎「戦争犯罪証言者の入国を拒否した米国の過ち」に詳しい。
(注2)41年6月にドイツ軍がソ連に進攻を始めたのを機に、関東軍がソ「満」国境を中心に約70万人を動員して行なった“演習”。(注3)42年4月に新しい少年隊が結成され、再出発した。
(注4)日本軍が中国で生体実験の「材料」にした人間のことを、当時はこう呼んだ。
(注5)一般の隊員の中でも高い階級の軍属で、獣医などが多かったという。
(注6)中国帰還者連絡会編『完全版 三光』(晩聲社・1984 年)に所収。
(注7)49年のソ連・ハバロフスク裁判の証言などから、平房の731部隊だけで約3000人が生体実験などによって殺された、とみられている。

(ほし とおる・1960年生まれ。ルポライター)


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