230が斬る!

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さるさる日記

2007/12/01 (土) オバケが書いたミリオンセラー-ホームレス(寸前)記者ぼやく

内科医でありながら作家の顔も持つ志賀貢氏(72)に私は会ったことはないが、ゴーストライターとして氏の名前で本を書いたことがある。正確には、会社員のかたわら、新宿にある編集プロダクション「R」(あえて匿名)からこっそり仕事をもらっていた私は、もう1人の別のライターとともに、「間違いだらけの性常識・大人が読む本・第4集」という単行本を執筆した。

版元は廣済堂出版で、奥付を見ると、1994年刊行となっている(13年も前だ。私も若かった…)。本のどこにも、「R」の名前は出てこない。もちろん私の名前も出てこない。廣済堂が、ひょっとして間に別の業者が入っていたかもしれぬがとにかく「R」に仕事を卸し、それが末端のライターである私に回ってきたのだ。

男女の営みを200以上の項目立てした構成のページを今めくると、概ね半分が私の手による文章のようだ。しかし、「もう1人」の別のライターに私は会ったこともない。そもそもそう説明されただけで本当に「1人」なのかどうかさえ分からないし、「R」のスタッフが書いたのかも知れない。とにかく、テーマと関連資料を渡され、「○○字でまとめてください」と言われるのみだった。

「『230』さん、志賀先生の著書を読んだことないでしょう?」と、途中段階の原稿を届けに言った際(当時は電子メールがなかった!)、「R」女性編集者に詰問された。もちろんない。読むつもりもない。「文体が、志賀先生とかなり違うんですよね。できるだけ合わせてください」と要請されたが、構わずそのまま書いていったら、そのまま載った。

ギャラは1文字1〜2.5円。400字詰め原稿用紙1枚書いて、400円〜1000円だ。「R」から受けている他の仕事と同時進行していたので、この本でいくらもらったのか覚えていない。でも、志賀氏の書物をわざわざ自分で買って研究したり、図書館に行って調べる費用も時間も使いたくなかった。ゴーストライターには私のように単価で報酬を得る方法と、印税を表面上の著者と山分けするケースがあるが、後者の経験は私にはない。

往年の推理小説「点と線」がこのほどテレビ朝日でドラマ化された松本清張は、そのあまりの多産ぶりに、「工房のようなところで分業しているのでは」との指摘が同業者からあったが、当人は否定している。また、著名人が書いたとされる本を手に取ると、一読しただけでゴーストの手によると分かり、興ざめすることが多い。漫才コンビ、麒麟の田村裕(28)が書いたとされる自叙伝「ホームレス中学生」(ワニブックス)が110万部を突破したそうで、おめでとうございます。

2007/11/19 (月) 空白の「一世代」を埋める−テレビCMにドキュメンタリーを見た

今から29年前、1978年11月21日に日本中を揺るがした、「江川卓空白の一日事件」を覚えておいでか。プロ野球読売巨人に入団したい江川と、江川を採りたい巨人は、ドラフト会議のルールを破って、阪神入りが決まっていた江川を無理矢理巨人にねじ込んだ。代わりに、巨人の小林繁投手を阪神にトレードに出した。野球に興味のなかった当時小学生の私も、「エラいことになった」と新聞、テレビにかじりついた。

事情を知らされなかった小林は、キャンプ入りのため勇んで宮崎に向かう羽田空港ロビーで、球団関係者に呼び止められ、ひとり球団事務所に引き返し、トレードを通告された。巨人の投手に誇りを持っていた小林は目の前が真っ暗になったという。以来、阪神−小林と巨人−江川は、お互いが引退してからも因縁の四半世紀以上をたどることになる。大方の見方は、江川が悪者、小林が被害者というものだった。

この間、ちょうど一世代が巡った。当時、テレビにかじり付いたアンチ野球少年の私にも、すでに中学生の娘がいる。事件は風化したかに見えた。そんなある日、ぼんやりテレビを見ていたら、当の小林と江川が競演していた。目を疑った。2人はあの「事件」後、目が合ってもあいさつさえしないというではないか。それが、恐縮し謝罪する江川に、小林が応えている。酒造メーカー「黄桜」のCMだ。

最初、別撮りの合成かと思った。いや、そんなことをした方が問題だ。そっくりさんの起用かとも思った。でも何のために? ニッポン球界の歴史に汚点を残した「事件」の当事者2人が酒を酌み交わしている様は、共産圏の崩壊よりも、南北朝鮮の融合よりも、日本共産党の自衛隊容認よりも衝撃的だった。29年前に受けた以上のショックだった。

企画は黄桜の幹部と大手広告会社の担当者の酒の席で持ち上がった話が発展したものだという。電通か博報堂の仕事だろう。CM撮影では通常、共演者同士の控室が隣り合わせであることも多く、撮影前に挨拶を交わすという光景が見られるが、今回は本番収録開始まで出演者の2人が出会わないようにする準備から始まったという。2人の緊張ぶりが、CMからも見て取れる。

黄桜HPによると、撮影開始直前、まず江川がスタンバイ。手を身体の前で組み、足をそろえた直立の姿勢でその瞬間を待つ。スタッフも小林の登場を、固唾を呑んで待つ。たった一度しかない、2人が出会う瞬間から撮影がスタートした。CMが、伏魔殿の球界に決着の道筋を呈した。これがジャーナリズムだ、ドキュメンタリーだ。制作ディレクターはただ者ではない。歴史に残るテレビCMだ。

2007/11/18 (日) 墓場を荒らす同業者−きょうもしつこく長井さんネタ

民放のドキュメンタリー番組を観ていたら、ミャンマーで取材中に銃撃され死亡したフリージャーナリスト、長井健司さん(50)の追悼みたいな企画をやっていて、番組スタッフが長井さんの足跡をたどっていた。契約先のAPF通信社、山路代表を批判する内容の「週刊文春」記事でコメントした本人と思われるタイ在住の日本人女性が主宰する、エイズ孤児ホスピスのような施設が紹介されていた。

施設には、HIVが母子感染(垂直感染)した大勢の孤児が暮らす。長井さんの取材、報道で日本のNGOだかから援助があり、抗ウイルス薬が行き渡ったという。長井さんの活躍をなぞる中で、番組スタッフは取材テープを発掘する。取材で親しくなった女児の様態が変わったとの連絡で、カメラを抱えた長井さんが病院に向かうところから映像はスタートする。

長井さん手持ちカメラは病室に入り、ベッドに横たわる女児を一瞬捉えるが、カポジ肉腫なのか顔面全体がただれている様子が映ると、長井さんはいきなり女児をファインダーからはずし、以後、女児の顔がレンズに映ることはなかった。この場面はこれまで放映されたことはないという。番組では「長井さんの人柄を表す」とかなんとか賞賛していたが、おふざけになるのもいい加減にしてほしい。

記者は取材してナンボ、発表してナンボだ。死に行く女児のカポジ肉腫の顔面が痛々しいからとカメラをそむける行為は、それを放棄したに過ぎない。「これ以上、立ち入るべきではない」「公にしてはいけない」と現場で判断するのもまた記者の領分だ。私も数多くの修羅場で自らフィルムを捨てたし、医者のカルテのように他人には読めない文字のメモのまま日の目を見ないネタが山ほどある。

対象から目をそらした時点で、取材したものを上司なり雇い主なりに報告しなかった時点で、記者は取材者としての道を降りている。それは全く責められるべきものではない。しかし、「道を降りた」記者の判断を、第三者が暴いては絶対にならない。もちろん、その時はなんらかの意図があってカメラを止めた、取材成果を発表しなかったが、事情が変わり、自らの判断でそのことを含め世に出すことはある。

番組ディレクター氏は、長井さんの現場判断を踏みにじった。それだけではない。「降りる」行為を美化することで、どんな悲惨な対象も取材するべき報道マンとして自らの首を絞めたのだ。最近、市井の人たちと話していると、「お前はどっちの味方なんだ」「一体だれが悪いって言うの?」と批判されるが、私たちは水戸黄門のような勧善懲悪の世界に生きているのではない。

2007/11/16 (金) 所属記者の「無駄死に」食い物−APF山路社長が暴走

ミャンマー取材中に死亡したフリージャーナリスト、長井健司さん(50)は、同国に初めて入って2日後に銃撃された。国内情勢を事前に把握する余裕がなかった。だから、本来なら避けるべき、デモの中、あるいはデモと政府軍の延長線上に足場を構える、危険な「縦位置」で撮影していた。銃撃の瞬間を撮影した他メディアの動画もスチールも、セオリー通り、デモ、政府軍双方が見渡せる「横位置」から構えていたのに。

デモと制圧の方法は万国共通ではない。パレスチナなど市民、政権側ともデモ慣れしている地域では、制圧部隊は、まずガス弾、空砲でデモ群集を威嚇、そして隊列が前進。これを繰り返す。だから、制圧部隊の動きが取材陣にも読める。ところがミャンマーは、予算不足のためか、防盾、ガス弾、空砲などの装備が不足。政権側もデモ制圧の経験が乏しく、訓練が不十分と見られる。

こうした情勢を把握していなかった長井さんは、立ち位置を誤った。世界の紛争地域での豊富な取材経験がかえって災いした。ミャンマー情勢は、契約していたAPF通信社も、発表の場であった日本テレビも、熟知していなかった。あるいは知っていても、長井さんに伝えなかった。その必要もないと考えていたのかも知れない。

「長井さんはミャンマー問題に関心がなく、現地に行くのを嫌がっていたが、(APF通信社の)山路社長の命令で行かざるを得なくなった」とする、タイ在住日本人女性のインタビュー記事を週刊文春(11月22日号)が載せたことに対し、当の山路徹社長が、「長井さんの名誉を傷つけられた」と損害賠償を求める民事訴訟と、名誉毀損容疑での刑事告訴をすると発表した。山路社長は何を寝ぼけているのか。

自分の土俵ではない場所での相撲を避けるのは、記者として当然だ。生前の「だれも行かないところにだれかが行かなければならない」との口癖を、APFも国内メディアも美談にすり替え、「特攻精神」をことさら崇めたてている。死んでは意味がないのだ。いまだ取材テープは戻って来ないではないか。結果的に死をもって内外に反響を及ぼしたとしても、それは本来ジャーナリストの仕事ではない。

山路社長はしかも、提訴、告訴とその記者会見に、長井さんの父親を担ぎ出している。所属ジャーナリストの「無駄死に」をよくもそこまで利用できるものだ。長井さんはフリーなのだから、生命の安全は全て自ら責任を負う。結果、死亡した。ただ、契約先のAPF通信、発表メディアの日本テレビも、付随的な責任は免れない。責任回避したい日本テレビ始め大手メディアが、山路社長の暴走を後押しする。

2007/11/08 (木) 不祥事捜査のアウトソーシング−郵便Gメン、職失う

駅や電車内で痴漢をしたら、駅員とともにすっ飛んでくる「鉄道警察隊」は今では、都道府県警察組織の一員だが、かつてJRが民営化する前は、国鉄職員だった。鉄道公安職員、一般には「鉄道公安官」と呼ばれ、テレビドラマの題材にもなっている。警察同様の捜査権限のほか、けん銃といった武器使用も認められた。

しかし、1987年の国鉄民営化で、「一民間企業が公安組織を持つのはふさわしくない」との理由で解体され、警察に組み込まれることになった。かつて取材で親しくなったベテラン警察官が、「オレっち、旧国鉄からの転職組なんだよね」と言うものだから、「へぇ〜『とらばーゆ』か」と何の気なしに思っていたら、鉄道公安官出身だった。

警察も含め、刑事訴訟法に基づき犯罪の捜査に当たる職種を「司法警察職員」という。旧国鉄の鉄道公安職員(旧運輸省所管)のほか、麻薬取締官(厚生労働省所管、いわゆる麻薬Gメン)、海上保安官(海上保安庁所管)などがある。麻薬Gメンは警察に、海保は自衛隊に再編しようという動きがあり、当事者は戦々恐々としている。

このほど民営化した日本郵政公社(旧郵政省)にも司法警察職員がいた。郵政監察官だ。郵便事業にかかわる犯罪の捜査に当たった。郵便局職員による預金使い込みといった不正なども、彼らの捜査対象。容疑者を取り調べ送検することなどはできるが、職務上、武器使用の必要はないとされ、鉄道警察、麻薬Gメンのように逮捕術やチャカ訓練は受けていない。民営化で職がなくなっても、警察に転職はできない。

郵便物1003通を配達せず隠し持っていたとして、郵便事業会社南関東支社が、同社平塚支店(神奈川県平塚市追分1)第三集配課の男性社員(32)を懲戒解雇し、郵便法違反(郵便物の隠匿)容疑で県警平塚署に被害届を出した。10月の民営化後、初の懲戒解雇となる。民間企業になったのだから「解雇」。公務員時代だったら、「懲戒免職」という表現だったはずだ。

民営化前だったらこうした不祥事は、内部の警察機構である郵政監察官が、取り調べていた。そして、内部に甘い結論を導いていたに違いない。ところが、民営化で監察官制度はなくなり、捜査をアウトソーシングするしかなくなった。昨日までお役人で何でも内部で処理できたのに、郵政事業会社としては忸怩たる思いだろう。事件が隠されず表に出たのは、民営化の産物だったのかもしれない。

2007/11/03 (土) 僧侶のケアまでセッティング−マルタイ自殺「三部作」【完】

今からちょうど7年前の2000年11月5日、私はある県の警察本部と、県庁所在地の市役所を掛け持ちで担当し、他社の記者2人分以上の業務量を仰せつかっていた。その日も前日の激務で寝坊し、正午ごろになって、市役所の記者クラブに「出勤」した。テーブルに無造作に置かれた各朝刊のうち、「毎日新聞」だけ、一面トップに、まるで戦争でも始まったかのような太い見出しが躍っていた。

何だろうとはやる気持ちを抑えながら青い題字の紙を手に取った。考古学者が発掘現場にニセの石器を自ら埋めている現場を、ビデオで押さえ、複数のスチール写真にして掲載している。後に新聞協会賞などを取る、世紀のスクープと言われた報道だ。「これ何よ! スゴイじゃん?」と大声を上げた私に、クラブにいた同業者らは「今ごろ何だ」というような顔をして、「うち(の担当エリア)じゃなくてよかったよね」と笑った。

激写されたのは、東北旧石器文化研究所の藤村新一氏(当時50)。遺跡から石器を探り当てる能力は「神の手」とあがめられた。そのプレッシャーに負けたという。毎日新聞の連続写真は、スコップを手にした藤村氏が、遺跡にニセの石器を埋める一部始終をとらえた。カメラで狙われていることに気づかなかった藤村氏は、数時間後、自ら現場で石器を掘って見せ、その秩父の土地にも石器を使う原人が住んでいたと主張したのだという。

「こりゃこのオヤジ、きっと自殺するな」と、市役所ソファに昼間から寝転びながら、ライバル紙をアイマスク代わりに顔にかぶせ、取材に当たった同業者に同情した。「スクープはいいが、『死に追いやった』と批判されるのが関の山だ」と、未知のライバル紙記者を思いやった。しかし、藤村氏は7年たった今も健在。取材時の毎日新聞のフォローは万全だった。

一方、翌年の、大分県の聖嶽(ひじりだき)洞穴発掘の中心だった別府大学の賀川光夫名誉教授(当時78)の自殺は対照的だ。旧石器と人骨がともに見つかった遺跡として注目された聖獄は、当地では見られない材質の石器が含まれるなど、いくつか不自然な点があったと「週刊文春」(文芸春秋社)が指摘。教授は抗議の自殺を選択した。文春が自殺をほう助した。

疑惑がグレーの当事者は自殺し、真っクロの当事者は生き残っている。毎日新聞は、藤村氏の直属の上司が僧侶であることまで考慮に入れ、万が一の場合の心のケアを想定した。取材対象者の自殺を食い止めることができるかで、メディアや当局の真価が決まる。真相を棺おけに持って行かせるようでは、取材、捜査に当たる者としては二流だ。

2007/11/02 (金) 記者へのわいせつマッチポンプ−二流メディアが自殺後押し

北海道警静内署の署長が知り合いの会社員女性(当時26)にわいせつな行為をしたと、北海道新聞(道新)が社会面でスクープしたのは、2000年2月のことだ。この署長は、道警方面本部監察官室への「栄転」が決まっていた。事件は送別会の席の後に起こった。報道後、署長は自殺した。「会社員女性」は実は、道新静内支局の記者だった。静内署主催の送別会に出席して、「被害」にあった。

道新静内支局は当時、支局長と、入社6年目の若手男性記者、そして当の女性記者の3人が勤務していた。他の報道機関に混じって若手2人で出席した送別会で、いつも取材に来る女性記者にゾッコンだった署長は、同行の先輩格である男性記者に、「今夜は2人きりにさせてくれ」と頼み込んだ。警察の「風紀委員」である監察官室への異動が決まっている署長の頼みだから、まさか間違いは起こらないだろうと先輩は許した。

会が終わって、署長は「送り狼」に豹変した。女性記者の自宅アパートの前でタクシーを帰らせ、「水を一杯飲ませてくれ」と部屋に上がりこみ、行為に及んだ。翌朝、女性記者からの訴えを聞いた先輩記者と支局長は、署長に怒りの鉄槌を食らわすことに決めた。そして冒頭のような事態に発展した。署長自殺後、当事者の女性記者は札幌に異動。支局長は表舞台に出ないし、先輩格の男性記者は、「お前らが署長を殺した」と静内署内外に批判にさらされた。

もちろん道新は、署長を死に至らしめようとまで思ったわけではない。しかし、全国で裏金など警察不祥事が噴出していたころ。道警に対しても道新は食い込んでおり、公の記者会見の場でも「道新さんは遠慮してください」と道警から拒絶されることもあった。そういう中での、道新による道警叩きだった。

結果的に、「消極的」ではあるものの、道新は署長の自殺に加担した。道新にとって、相手は道警の幹部。しかも、方面本部監察官室への異動が決まっている。しかもしかも、内容は下半身系。道警叩きのマイナス要因と言えば、被害者が身内であることくらい。だから、初報ではあえて「知人の会社員女性」とぼかして書いた。署長の送別会に出席する妙齢の会社員女性って、新聞記者しかいないのに。

長崎市役所の男性部長が、報道機関の女性記者にセクハラしたとして市の内部調査が行われることになっていた1日未明、自ら命を絶った。同日の長崎新聞は、部長への直接取材で反省のコメントを取る「独自取材」に成功している。しかし、当事者を死なせてしまっては元も子もない。長崎新聞も道新同様、二流の報道機関だったということだ。

2007/11/01 (木) 「オヤジキラー」と後ろ指?−被害女性セカンドセクハラ

自らの行動によってだれかの自殺を誘引したことがあるか? 私はある。厳密には、私を含めた周囲の報道陣の行き過ぎ取材と、早期の身柄確保に踏み切れない腰抜け田舎警察の判断ミスによって、本来ならしょぼい傷害事件の「重要」参考人女子学生が、事件のあった大学校舎から抗議の飛び降り自殺をした。

今から10年ほど前のことだ。和歌山ヒ素カレー事件を発端に、全国で食品への異物混入事件が多発した。そのうちのひとつ、私の任地でも、国立大学の研究室で、コーヒーを飲んだ学生や教職員がバタバタ倒れる事件があった。室内にあった給湯ポットと砂糖瓶から、実験用のアジ化ナトリウムが検出された。

室内の薬品棚にあったアジ化ナトリウムを混入できるのは、研究室の関係者しかいない。ひとりの女子大学院生が捜査線上に乗った。県警捜査一課幹部からのリークも、夜回り取材に勤しむ私たちにもたらされた。高卒後いったん社会に出て、大学に入りなおしマスターコースまで進んだ彼女は、警察にも報道機関にも揺さぶりを掛けられた。

当初、比較的珍しい彼女の名前(仮に沢尻エリカとしておく)は分かっても、顔が分からなかった。あるライバル会社のイケメン記者(妻子あり)は、キャンパスに潜り込み女子大生の集団を見つけると、「さっわじっりさ〜ん!」と叫び、「何なに?」と振り返った彼女を最初に特定した。「ナンパされちゃった!」と彼女は友だちとジョークを飛ばし合っていたという。

ところが警察は、関与を否定する彼女に対する公判維持が困難と判断し強制捜査には及び腰のまま発生から半年を迎えた。彼女はある日の早朝、「私は何も知らない」という遺書めいたメモを残し飛び降り自殺。前日まで連日、任意の取り調べをしていた警察は、彼女のコウカク(=行動確認)をしていたはずなのに、みすみす死なせてしまった。事件は迷宮入りになったままだ。

長崎市の部長(59)が報道機関の女性記者にセクハラ行為をしていたとして、市が内部調査を開始したことを地元、長崎新聞が報じた1日未明、当の部長が自殺した。時間帯から見て、「載せます」と先方に仁義を切った直後であろう。長崎新聞も市も、自殺を予見できたはず。自ら解決の道をふさいだ責任は大きい。そして被害女性は「人殺し」と後ろ指を差され二度目の被害を受けることになりかねない。

2007/10/29 (月) 国際テロ組織との関係吹聴−鳩山法相バタフライ

ノストラダムスが1999年7月だか8月だかに恐怖の大魔王「ハルマゲドン」が降臨し世界は終わると予言したから、それまで刹那主義で過ごしてきた。どうせ世界の終焉は防げないからと蓄えもなし。ところが、99年の秋になっても冬になっても、2000年のミレニアムを迎えても、世界はいっこうに終わる気配を見せない。せっせと働くアリを馬鹿にしていたキリギリスのように、私は寂しい余生を送ることになった。

「○月○日は東京でテロが起きるから地下鉄には乗らないように」といった速報型の都市伝説がネットを媒介によく流れる。「親切にしてやったホームレスのイラン人からお礼に聞かされた」といったもっともらしい説明も付く。2004年12月に中日新聞(名古屋市内版)が、「不安なうわさ クリスマス名駅(名古屋駅)テロ」(カッコは筆者)という見出しの記事を掲載した。愛知県警が「根拠がないので動揺しないように」と火消しに回った。

鳩山邦夫法相が日本外国特派員協会で記者会見し、11月施行の改正出入国管理・難民認定法について述べる中で、「わたしの友人の友人が(国際テロ組織の)アルカイダ」「(02年の)バリ島の爆破事件に絡んでいるが、バリ島中心部は爆破するから近づかないようにというアドバイスを(友人が)受けていた」と得意げに語った。日本に入国する16歳以上の外国人に指紋採取などを義務付けた、同法の意義を強調したかったらしい。

突然のカミンガウトに、日本語を解する特派員がざわついたのも無理はない。ことの重大さにやっと気づいた鳩山法相は、「爆破事件の3、4カ月後に聞いた話。真偽は確認してないし(アルカイダのメンバーとの)面識はない」と前言をひるがえしたが、疑いは晴れない。政治家の立場で事前にテロを知っていながら手を打たなかった可能性があるのだ。

法務省は外局に、公安調査庁を持つ。同庁は、破壊活動防止法や無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律に基づき、日本に対する治安・安全保障上の脅威に関する情報収集(諜報活動)を行う機関。つまり、テロ対策が主な任務なのだ。そのトップが、国際的なテロ組織とのつながりを吹聴するとは、何たるお気楽極楽。

テロを知らされた相手は「チョウの趣味の仲間」という。鳩山氏は昨年12月、フィリピン・ルソン地方に公務で出かけ、現地在住の日本人男性(58)と一緒にチョウ観察。男性は誤って高圧電線に触れ感電し、今年4月に死亡している。この男性がアルカイダとの仲介役ではなかろうが、趣味のチョウを巡って周辺はキナ臭い。鳩山氏は法相の器ではないということだ。

2007/10/29 (月) 妻夫木くんになりたい!−きょうも散文調

 美女から親しみを込めてニィニィ(お兄ちゃん ※沖縄方言)と呼ばれたい。
 
 娘が生まれときに、その思いを遂げようと思った。すなわち、娘に「ニィニィ」と呼ばせようともくろんだのだ。
 
 「バブー、ニィニィだよ〜」とゼロ歳児に話しかけていたら、沖縄出身の女房(当時。以下同)にどつかれた。
 
 以来、娘からは成長に伴い普通に「パパ」→「パパちゃん」→「父さん」と呼ばれている。
 
 ところが、娘が3歳位だったある日、女房は、「ダメでしょう? そんなことしたらネェネェが怒られるんだよ!」と娘を叱りつけていた。
 
 「ネェネェ? だって?」
 
 なんと女房は娘に自分のことをネェネェ(お姉ちゃん)と呼ばせていたのか? 舌を出しながら、女房は弁解した。
 
 「4人きょうだいの長女で、一番下の弟は9歳年下。妹や弟がしでかしたことでも、怒られるのは自分。だから娘のことを、末っ子の妹を叱るような気分だった」
 
 一応、筋は通ってる。
 
 TBSの月曜ゴールデン「涙そうそう」を観て思い出した。長澤まさみ可愛い。

 が、ニィニィと5〜6歳離れている設定のはずなのに、幼い日の回想シーンの映像は、そんなに離れてなく見える。制作段階での監督急病による交代が原因か?

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