思ったり、起こったりしたこと
2003。



2003年12月4日(木)
「早すぎる」


 クリスマスが早すぎる。

 師走の声を聞いたばかりだというのに、街はもうクリスマ 
ス一色だ。11月のうちからあちらこちらにイルミネーショ
ンが点っているし、11月30日に服を買ったら、紙袋が真っ
赤だった。別にプレゼントを買ったわけでもなく、普通に自
分の服を買っただけなのに。
 翌日、仕事の合間にファミレスで食事をしたが、店内の音
楽がずーっとクリスマスソングだった。帰りの車の中で聴い
ていたラジオからは、マライア・キャリーのあの曲が流れて
いた。

 早いって。早すぎるって。

 そりゃあ私だって大人なのだから、この不景気、できるだ
け購買意欲を高めようという意図なのはわかる。でも、クリ
スマスはイブを入れてもたかだか2日間のイベントだ。今か
ら盛り上がっていたら疲れてしまう。大体にして、恋する2
人とか小さな子供以外には、あまり関係の無いイベントなの
だ。もっと出し惜しみして、ギリギリに盛り上げるぐらいの
方がクリスマスっぽいと思う。

 そういう私も、クリスマスに翻弄された経験が無くはない。
ちょうど二十歳ぐらいの頃、世の中はバブル真っ盛りであっ
た。バブルの時期、世の中が最も浮かれていた日を挙げよと
言われたら、私は間違いなくクリスマスイブを挙げる。どう
考えても盛り上がり過ぎだった。
 当時、ティファニーのオープンハートというよく知られた
デザインのネックレスがやたらと流行り、みんなが三越に買
いに行ったので、クリスマスを待たずに売り切れてしまった。
それで、買えなかった男達が、買えなかったという証明書を
出してくれなどという要望を出したと報じられた。
 バカみたいな話なのだが、これは事実だ。何故知っている
かというと、当時私も、要望に応じてティファニーに行った
からだ。あぁ恥ずかしい。行ってみたら、オープンハートの
ネックレスは、イブの何日も前に売り切れていた。売り切れ
ていたから私は買わず、他の店で別のものを買った。だが、
ギリギリに店に出かけた人は、目当てのものが無いので慌て
たのであろう。店員に詰め寄っている人が本当にいたのであ
る。

 オープンハートが無いぐらい何だ。大体にして、売り切れ
ていたのはシルバーで、ゴールドとかプラチナだったらきっ
とあったのだ(ゴールドやプラチナのオープンハートが存在
したかどうかは忘れたが)。シルバーしか買えないのに店で
怒ったりするなよ、と二十歳そこそこの私でも思っていた。
みんなが浮かれていて、みんなが分をわきまえていなかった。
もちろん私も。

 めざましテレビの仕事をしていたとき、25日の朝にお台
場で街頭インタビューをしたことがある。別にクリスマスを
狙ったわけではなく、取材日程の都合でたまたまそうなった
だけであった。当時とても人気があったホテル日航から、何
十組ものカップルが次々に出てくるのを見て、ああそうか、
昨日はクリスマスイブだっけな、と思った。そしてなんだか
こっちが恥ずかしくなった。これだけの人数が、同じホテル
の別の部屋で、それぞれにクリスマスムードに酔いしれてい
たなんて。
 見ていると、男の人が一様に疲れた感じだ。まぁ、恋人同
士でホテルに泊まったんだから、疲れるようなこともあって
おかしくないとは思うが、なんだかそういう疲れだけじゃな
いようなのだ。脱力した感じというか。

 きっと、昨日のためにいろいろ尽力して(当時、イブにお
台場の日航の部屋を取るのは至難の技であった)昨日は昨日
でプレゼントだのディナーだのといろいろお金と気を遣い、
部屋でまた体力と気を遣い、朝は朝でどう起きようかと気を
遣い、ようやくチェックアウトというところで、驚くような
金額を目にするのであろう。そりゃぐったりだ。

 これからの人生、なるべくクリスマスに踊らされないよう
に生きていきたい。黙っていても世の中はクリスマスなのだ
から、そんな雰囲気をぼんやりと感じるぐらいでいい。色気
が無いとか、女心がわかってないとか言われても結構だ。あー
どうせ女心なんかわかりませんよー、だ。
 クリスマスに浮かれるぐらいなら、好きな人と除夜の鐘を
突きに行って、初詣でおみくじを引いて帰ってくる方がよっ
ぽど落ち着くではないか。ただし、間違っても2人で絵馬を
買って「来年も一緒にいられますように」などと書いたりし
てはいけない。それではお正月ムードに浮かれてしまってい
る。

 何の話だかわからなくなってしまったが、要はもうちょっ
と静かにならないかな、ということである。無理なのはわかっ
ているんだけど。




2003年8月16日(土)
「青い鳥のこと」


 ボロットさんの東京でのコンサートの打ち上げで、劇団青
い鳥
の制作の長井さんと村本さんに初めて会った。巻上さん
は以前青い鳥の舞台に出たことがあって、その縁で今回の公
演の制作をやることになったのだそうだ。
 名刺にある青い鳥という文字を見て、私は即座に「青い鳥っ
て、あの青い鳥ですよね?」と思わず話しかけていた。

 青い鳥、という劇団の名前を聞いたことがある人も多いと
思う。今から20年ぐらい前の小劇場ブームのとき、青い鳥
は女性だけの劇団として注目を集め、かなりの観客を動員し
ていた。
 当時私はまだ青森にいて、当然芝居だの演劇だのには全く
縁が無かったし、小劇場ブームだなんて全然知らなかった。
そんな私が、演劇部にいた姉に誘われて、ある芝居を観るこ
とになった。

 それが、青い鳥の「シンデレラ」であった。シンデレラっ
ていうくらいだからシンデレラの話なのだが、内容は私が知っ
ているシンデレラとはまるで違うものだった。というか、私
の知っている「演劇」とも、なんだか違うものだった。
 内容はもう忘れてしまったが、芝居の最中に何かを食べた
り、なんだかいきなり方言で話し始めたり。大体にして、話
の筋があるんだか無いんだかもよくわからない。初めて体験
する世界であった。
 でも、ゲラゲラ笑ったり、ホッとしたり、なんだか和んで
しまったり。高校生の私は、なんだかよくわからないながら
も「青い鳥」という名前を忘れられなくなっていた。

 私が高校を卒業して上京したころ、小劇場ブームは絶頂期
であった。勤めていた国会図書館には芝居好きの人が結構い
たので、野田秀樹さんの夢の遊民社とか、鴻上尚史さんの第
三舞台とか、渡辺えり子さんの3○○とか、あれこれと観に
行った。
 遊民社にしても第三舞台にしても、当時はものすごく勢い
があった。多少わからない部分があろうが、青森から出てき
たばかりの私には、ガーンとくることばかりであった。

 もちろん、青い鳥の公演も欠かさず見ていた。青い鳥も、
小劇場ブームの流れで語られることが多かったと思う。
 でも私の中では、青い鳥だけは別物であった。もちろん劇
団によって、やっていることは全然違うのだけれど、テーマ
とか内容とか演技とか、そういうことではない何かが、全然
違うような気がしていた。

 ガーンとは来ない。でも、毎回なにかが心にひっかかる。

 「ゆでたまご」という芝居があった。劇場ではなく、東宝
の撮影所での公演だった。とにかくほこりっぽかった記憶が
ある。
 3つぐらいのエピソードからなる芝居だと思ったが、細か
い内容は忘れてしまった。覚えているのは、遭難して無人島
に着いたスチュワーデスが、地面に大きなSOSを書こうと
するのだが、Sを書いているんだかOを書いているんだかわ
からなくなって大喧嘩をするシーンとか、いろんな人が「わっ
しょい」「ちーろりん」(だったかな)と言いながら舞台を
通り過ぎていくシーンとか。いつも、芝居の筋とかセリフと
いうより、その場面の空気のようなものが印象に残る。

 確か、芝居の終盤だったと思う。遠足のとき、ゆでたまご
を持たされた、という思い出を語るシーンが出てきた。
 遠足にゆでたまごを持ってくる人はいると思うが、ゆでた
まごだけ、という人は少ないであろう。でもその時は、ゆで
たまごだけがお弁当だった、という話だった。
 遠足のお弁当がゆでたまごだけだったら。戦後の混乱期な
らともかく、今の自分だったら、と考えると切なくなった。
そして思い出した。

 小学生の頃。運動会の日、母親が仕事を休めなかったので、
家に帰って一人で昼食を食べ、また学校に戻ったことがあっ
た。運動会といえば、普通は親が豪華なお弁当を持ってやっ
てきて、リレー頑張ったねとか言いながらお昼を食べるのが
普通だ。
 今思うと、自営業の家もあるのだから、多分そんなに珍し
いことではなかったのだと思う。その時も確か、自分から親
に「来なくていいよ」と言ったし、仕事が休めないのは仕方
が無いことなので、別になんとも思わなかった。だからすっ
かり忘れていた。

 突然、そのことを思い出したのだ。芝居の最中なのに、何
故そんなことを思い出したのかと驚いた。そして思った。あ
の時、寂しかったんだなぁ、と。

 人はいつも、全部に満足して生きているわけではない。まぁ
満足して生きている人もいるだろうけれど、大抵は、何かし
ら我慢したり、感情に蓋をしたりして、折り合いをつけて毎
日を生きている。折り合いをつけて、寝て、また起きて一日
が始まって、昨日我慢したことや折り合いをつけたことは少
しずつ記憶の奥底に沈んでいく。そして忘れた気になる。

 青い鳥の芝居を観ると、その、折り合いをつけたつもりの
ところ、忘れたつもりのところを揺り起こされるような感じ
がするのだ。私だけかもしれないけれど。
 でもそれは、決して不快なことではない。なんというか、
我慢した自分、折り合いをつけた自分に「あぁ、そりゃ大変
だったねぇ、結構辛いよねぇ」と言ってもらっているような
感じになるのだ。終演後の会場も、どちらかというとほわん
とした空気に包まれていることが多い。観客総立ちで熱狂的
拍手、というのではないのだが、それとは違う満足感に包ま
れている。青い鳥のどこが好きかと尋ねられてもうまく答え
られないのだけれど、毎回その「ほわん」を感じに行ってい
たというのが一番近い気がする。

 福岡の放送局に入社して、芝居を観る機会はかなり減って
しまった。でも、青い鳥の芝居だけは、休みを取って上京し
て観ていた。それなのに、東京に戻ってきてからの方が生活
に余裕が無くなり、青い鳥を観るのを忘れることが多くなっ
ていた。もともと年に1度位しか公演をしないので、最近は
ちょっと遠ざかっていたのだ。

 話がずいぶん脱線してしまった。

 たまたまお会いした長井さんと村本さんに、ここまで詳し
くはないものの、青い鳥をずっと昔から観ていることを話し
たところ、たいそう驚かれた。その場で「8月の公演に来て
下さいね」と言っていただいたのだが、8月の予定が全然わ
からないので、お返事ができなかった。行きたいのはやまや
まなのだが、行けるかどうかがギリギリまでわからないのが
この仕事の難しいところだ。

 そして公演が始まる週。私はといえば、岩手にロケに行き、
勢いで余分に一泊してきたり、NHKの本番があったりして
全然余裕が無かった。ましてや千秋楽の日もロケが入ってし
まったので、青い鳥のことはほとんどあきらめていた。だが
千秋楽の前の日、村本さんがわざわざ電話をくれて、千秋楽
でも大丈夫なのでぜひいらしてください、と言って下さった。
 せっかくお電話をいただいたので、私はなんとしても行こ
うと決め、てきぱきとロケを終えて夕方には青山に着くこと
ができた。村本さんからの電話が無かったらきっとあきらめ
ていた。ボロットさんのコンサートでお会いしていなかった
ら、私はどんどん青い鳥から遠ざかっていたかもしれない。

 久しぶりの青い鳥の舞台は、やっぱり気持ちのどこかがほっ
こりと動かされたような感じだった。相変わらず舞台では何
かを食べるのだが、今回はステージ上でカレーを作っていた。
芝居の中でカレーを作り、食べるのだ。もちろん、カレーを
作るという芝居ではない。レストランのまかない、という設
定でカレーが出てくるだけのことだ。でも、芝居をしながら
本当にカレーを作る。30年これをやり続けるってすごい。

 終演後、長井さんと村本さんに「声をかけていただいて本
当に良かったです」とお礼を言った。すると村本さんが「会っ
ていったらどうですか?」と、私を楽屋口に連れていってく
れた。
 役者さんには何の面識も無いので、お会いするつもりも無
かったのだが、せっかくなので芹川藍さんにご挨拶をした。
青い鳥の役者さんはみんなそれぞれに好きなのだが、芹川さ
んは昔から大好きだ。年齢のことを言っては失礼だが、劇団
が30年ということは、芹川さんは私よりずっと年上である。
でも舞台の上の動きが相変わらずとってもかわいいのだ。
 私にしては珍しく、ちょっと緊張しながらお話した。芹川
さんは、私だけでなくいろんな人に「ありがとうね、ありが
とう」と言い続けていた。青い鳥の人って、ありがとうが似
合う感じだ。わかりにくい表現だけれど。

 私がこの劇団と出会って20年。観客動員は増えたり減っ
たりしているが、劇団の持っている空気は全然変わらない。
それをたいして不思議に感じることも無かったのだが、考え
てみればすごいことだ。
 会場で「それから、青い鳥はどう飛んだ?」というドキュ
メンタリービデオが売られていたので買ってみた。青い鳥の
この30年を振り返ったビデオだ。

 ビデオを見て、なるほどと思ったことがあった。青い鳥の
人達は、売れようとか有名になろうとか、そういう気が全然
無いのだ。芝居をするということに対して純粋で、それとお
金儲けとか有名になるとかいうことは繋がっていない。
 私もそうだ。いい仕事をしたいと思うし、その為に経験を
積み、力をつけたいとは思うけれど、よくない仕事でお金儲
けをしようとは思わないし、たくさん出て有名になろうとも
思わない。自分が仕事を決めるとき、内容は聞くが金額は気
にしていない。自分の仕事がいくらになるのか知らないまま
仕事を終えることもある。
 ビデオの中で、芹川さんが「もうちょっとお金に執着があっ
たら、違う方に転がっていたかもしれない」と話していた。
私も同じだ。お金が欲しくて仕事をしていたとしたら、同じ
アナウンサーという仕事であっても、今とは違う方向に進ん
でいたかもしれない。

 人は食べていかなければならないので、好きなことだけを
続けて生きていくのはなかなか難しい。青い鳥の劇団員は、
今でも公演の無い時はアルバイトをして生活をしている。で
も、自分達が純粋にやりたいことをやっている。そして、舞
台の上で輝いて生きている。それでいいのだと思う。

 何故青い鳥の芝居を観るとほっとして、でも心のどこかが
動くのか。それは、青い鳥の人達の純粋さに触れるからだと
思う。純粋であることに癒され、そしてこの純粋さをどこか
で忘れていないかと自分に問うてみたくなるのだ。

 糸井さんや芹川さんを初めて知ったのは高校生の時だ。そ
れから20年近くが経ち、私はその時の糸井さんや芹川さん
の年齢になった。
 お二人とも、昔から素敵で今でも素敵だ。私はちっとも素
敵ではないが、あと20年後も、自分らしくスットコドッコ
イに生きていられたらと思う。素敵だったらもっといいけど。



2003年6月23日(月)
「きもののこと」


 最近、きものにはまっている。

 アンティークのきものを買ったのは去年の暮れのことだ。 
その顛末は「ミイラ盗りが」のところに書いてある。

 買ってから、「ほぼ日」の対談に着ていったのだが、その
後着る機会が無いまま3ヶ月が過ぎた。
 きものを買ったお店で閉店セールがあるというので出かけ
ていった。その時も、安いアンティークのものがあれば買お
うかな、くらいの軽い気持ちで出かけた。しかし私はそこで、
結城紬の反物を勧められ、あまりに安いので仕立てることに
してしまった。
 仕立てた時、丈を見るために羽織ったきものがちょうどピッ
タリだったので、オマケにいただいた。オマケなのでタダだ。
タダなら、多少汚しても惜しくない。そう思って、芝居を観
たり飲みに行ったりするときに、どんどん着ることにした。

 最初は特別なものだったのだが、何度も着ていると普通の
感覚で着られるようになったし、身のこなし(着崩れたとき
の直し方とか、タクシーに乗る時の所作とか)が自然に身に
ついていった。なんだって、回数をこなさないと上手くなら
ない。きものももちろんそうで、ただ着ていればいいのでは
なく、着方がこなれていなければ格好が悪い。そのことに、
だんだん気づいていった。
 その後、浅草の男きもの専門店にも足を運ぶようになって、
少しずつきものが増えていった。飲み仲間の感心力田中さん
やほぼ日西本さんも、私のきもの姿にだいぶ慣れてきたよう
であった。

 その2人に、ダヴィンチ編集部の丹治さんを加えたメンバー
で、田口ランディさんの家におじゃましたときのことだ。西
本さんに「今泉さん、今日きものじゃないねぇ」と言われて、
私が最近きものを着てでかけている話になった。すると丹治
さんが「今度和もの特集をやることになったんですけど、全
然わからなくて困ってるんです」と言った。
 私は「最近着始めたばっかりなんですけど、いいですよー、
きもの」などときものの良さについてちょっとオーバーに語っ
た。丹治さんは「今度ぜひ教えて下さい」と言っていたが、
まぁその場の話だと思って、そのことをすっかり忘れていた。

 すると数日後、丹治さんからメールが届いた。

「先日お話ししておりました『ダ・ヴィンチ』での小特集、
『和ものを楽しむ』の下調べをしているのですが、どこから
手を着けていいやら……の状態で、今泉さんがどんなきっか
けで和服に行きついたのか、はじめてお店にはいるときのド
キドキは? やっぱり高いの?など、初心者が気になる部分
を(正式のインタビューとは別に)少々お聞きしたいのです」

 あれ、本気だこの人。でも専門的なことを聞かれるわけで
はないのでお役に立てるかと思い、改めてお会いして、私が
見たホームページや本のことを話した。
 丹治さんの頭の中ではある程度の構成が出来上がっていて、
特集の中でこれを紹介したいんです、とある本を手渡された。


天使突抜一丁目 通崎睦美 淡交社

 通崎睦美さんはマリンバ奏者なのだが、アンティークのき
ものを集めていて、最近はきものでの仕事が増えているとい
う方だ。タイトルの「天使突抜一丁目」というのは、通崎さ
んが住んでいる京都の家の住所である。

 この本は、京都の四季に合わせて、そこで暮らす通崎さん
がどんな風にきものを着こなしているかがさりげなく綴られ
たエッセイだ。文章にも写真にも、押しつけがましいところ
が何も無い。内容は女性のきものの話なので、着こなしがそ
のまま自分にあてはまるわけではない。でも、きものとの距
離のとり方というか、特別でもなく、本当の普段着でもなく、
好きで大事に着ているというのが伝わってきて、とても気に
入ってしまった。

 最初の構成では、私と通崎さんは同じ特集に別々に登場す
ることになっていた。でも、私が「いいなぁ、これ」としき
りに言っていたら「今泉さんも京都に行きます?」というこ
とになった。きものの取材で京都に行くだなんて願ったりか
なったりだ。こうして、通崎さんに会いに行くことになった。

 京都に行く前の日は、たまたま「きもので歌舞伎を観る会」
があった。これは、私がきものを買うきっかけになった堤ノ
ンさま
や、きもの好きのはなまるの女性スタッフが時々開い
ている会だ。私がきものを買ったことを知って誘われ、私も
喜んで仲間になったのだが、実際にきもので行くのは今回が
初めてであった。

 今回はシアターコクーンのコクーン歌舞伎「夏祭浪花鑑」
を観にいった。きものの話とずれてしまうので詳しくは書か
ないが、エンターテインメントとして非常に面白かった。歌
舞伎とはいえアンコールの拍手が鳴り止まず、しまいにはス
タンディングオベーションである。まだやっているし当日券
もあるので、時間に余裕があったらぜひ。

 堤さんは、終演後の客席でいつも写真を撮っている。私も
堤さんも一応テレビに出ているので、二人できものを着てい
るとそれなりに目立ってしまうのだが、そんなことにはおか
まいなく「今ちゃん写真撮ろうよ」と言うので、最近は堤さ
んのことを「パー子さん」と呼んでいる。


調子に乗って花道で撮った。


ノンさまと私。

 堤さんや、以前はなまるでディレクターをしていた村上さ
んに「明日通崎さんという方に会いに行くんですよ」と言っ
たら、二人ともすでによくご存知で、ものすごくうらやまし
がられた。きもの界では有名な方らしい。

 翌朝、鞄にきものを入れて東京駅へと向かった。着ていこ
うかとも思ったが、車内では思い切り寝ようと思っていたの
で京都に着いてから着替えることにしたのだ。車内では本当
にグーグー寝て、京都のホテルでチェックインの前に部屋を
借りて着替えた。

 持ってきたのは、先日取材用にと浅草のちどり屋さんで買っ
た単の本塩沢であった。単と書いて「ひとえ」と読む。裏地
のついていないきもので、6月と9月に着るものだ。本塩沢
というのは、新潟県の塩沢で作られている織物。ちどり屋の
おかみさんに「これはいいものですよ」と言われ、羽織って
みたらとっても風合いが良かったので買った。確か4万円ぐ
らいであった。
 4万円を高いと思う人もいるだろう。しかし、本塩沢を反
物から仕立てたら、モノにもよるが確実に3ケタにはなって
しまう。私だって、初めて買った時、2万8千円という値段
には結構躊躇したのだ。いつ着るかわからないものの値段と
しては決して安くはない。
 でも、どこに着ていっても誉められるし、失礼にならない
し、流行が無いので来年どころか十年二十年先でも平気で着
られることを考えたら、安いんじゃないかと思えたのだ。
 洋服で「これ十年前に買ったの」と言えるようなモノはな
かなか無い。あっても、十年後にサイズが合うとは限らない。
きものなら、多少太っても痩せても何の支障も無いのがいい。

 その時一緒に、きものの下に着る長襦袢も買った。単の時
期、6月と9月用の長襦袢があって、それの古着がたまたま
あったのだ。ちょっと大きかったのだが、めったに出ないも
のだというので買うことにした。

 その長襦袢と本塩沢を持っていったのだが、忙しくて家で
合わせないまま持っていってしまった。長襦袢の裄(そでの
長さ)が長めだとは思っていたのだが、実際に着てみたら、
きものの袖から襦袢がはみ出してしまう。これは格好が悪い。
 きものはなんでも、ちらりと覗くぐらいが粋だそうだ。こ
れは着てみて本当にそう思う。胸元にチラッと覗く襦袢の襟
の色が違うだけで、印象もずいぶん変わってくる。ただ大事
なのは「ちらりと」である。下のものが見えすぎても、見え
なさすぎても格好が悪い。この時の私は「見えすぎちゃって
困るのォ〜」のマスプロアンテナ状態であった。古いか。

 フロントに下りてセロハンテープを借り、袖を引っ張り上
げてとりあえず留めた。あとはずり下がってこないように気
をつけるしかない。せっかくのきものの取材なのに困ったも
のだと思っていたら、下で待っていた丹治さんが「通崎さん
から電話があった」と言う。何かと思ったら「8月号だから
夏物を着たんですが、それでいいんですか」との問い合わせ
であった。

 ガーン。そうか、うかつであった。テレビの仕事は大体が
速報である。旬のネタを取材して、できるだけ早めに放送す
ることが多い。でも雑誌は先取りのメディアだ。取材は6月
で、発売は7月はじめでも、雑誌そのものは8月号なのだ。
 雑誌の取材は初めてではないが、季節が関係するようなも
のは初めてであった。8月号ならば、8月のきものを着た方
がいいに決まっている。いくらいいものであろうと、8月に
6月のきものを着ていたら時期はずれだ。

 しかし、どのみち一つしか持ってきていないし、私はきも
の初心者として通崎さんに会いにいくのだ。そういうことも
ひっくるめて教えてもらおう。そう開き直って、タクシーで
通崎さんの家に向かった。

 天使突抜一丁目は、名前から想像するようなファンシーな
通りではなく、ごく普通の京都の下町という感じであった。
通崎さんは小柄で目がくりっとしていて、本の印象よりもか
わいらしい感じの方であった。



 通崎さんの家の和室で、いろいろと話を聞きつつ、その話
をライターの赤澤さんが書き取り、カメラの市橋さんが撮っ
ていく。いつもなら、どういうコメントを引き出そうかと考
えながら話を聞くのだが、今回はテレビではないので普通に
話していた。

 話が一段落したところで、通崎さんが「長襦袢、縫いましょ
うか」と言った。私が度々袖を引っ張り上げていたのに気づ
いていたのだ。普通こんなことを言ってくれる人はいないと
思うが、アンティークのきものには往々にしてこういうこと
があるのをよくご存知なのだ。
 しばらくすると、針と糸を持ったおじさんが「どれどれ」
と部屋に入ってきて、私のきものの肩をずり下げて縫い始め
た。通崎さんもおじさんも普通にしているので、一応「あの、
こちらの方は…」と尋ねてみた。通崎さんは、あ、そうか、
という顔をして「父です」と言った。そうじゃないかと思っ
たがやはりお父さまであった。

 初めての家におじゃまして、いきなり襦袢の寸法を直して
もらうだなんて。でも、その心遣いがとても嬉しくて、私は
申し訳ないと思いつつも笑みを抑えることができなかった。
 お父さまが私のきものを触って「これは?」というので、
「塩沢です」と答えると「そうやろ、うん、ええもん着ては
る」と言って下さった。考えてみたら、きもので京都に来る
だなんて、なんて身の程知らずなんだろう。着ているものか
ら着こなしから、全部見られているのだ。誰にも何にも教わ
らないまま、自分勝手にきものを着ている私は、京都の人か
らはどう見えるのだろう、と段々不安になってきた。

 でも、通崎さんは「初心者といいながら似合うてはる」と
私を励ましてくれた。お世辞でも嬉しかった。家での取材を
終えたあと、通崎さんがなじみの「裂・菅野」さんに向かっ
た。
 菅野さんのお店は、通崎さんの本の中にも出てくる。ここ
では通崎さんと私がきものをいろいろ見せていただく場面を
撮影することになっていたのだが、私はせっかくなので、夏
の麻のきものがあったら買って帰ろうと思っていた。
 菅野さんは私を見て、まず一つを持ってきてくれた。羽織っ
てみたら、軽くて上品で、一目で気に入ってしまった。値段
を見たら2万8千円だ。「安い!」と声をあげると、菅野さ
んはニッコリ笑って、他のものをどんどん出して下さった。

 半年前には同じ値段の冬の着物を買うのに迷っていた。そ
れが今では、いいものがこの位の値段だったら安いな、と思
えるようになった。
 もしこの時、私が値段を見て迷っているようだったら、菅
野さんはそれ以上物を出さなかったと思う。出しても迷うば
かりだからだ。この程度のものに対してのこの値段をどう思
うか、をわかってもらえると、きもの選びはお互いずいぶん
ラクになる。

 いろいろ羽織ってみたのだが、私は一番最初に着たものが
一番気に入った。財布の中を見たらお金が無かったので「近
くに銀行はありますか」と尋ねると、通崎さんが「向かいの
コンビニで下ろせますよ。私もよく下ろしに行くんです」と
笑って言った。今の私の気持ちを、通崎さんはよくおわかり
なのだ。
 慌ててお金を下ろし、最初に着たものと、もう一つ安いも
のを買った。菅野さんが「気を遣って買って下さって」と言
うので、私は何度も「買うつもりで来たし、いいのを出して
下さったんですから私は大喜びなんですよ」とお礼を言った。

 そこで取材は終わりなのだが、通崎さんが「ウチの近所に
もう一軒お店がありますよ」と言うので行ってみた。広い畳
の部屋にどどーっときものが積んであって驚いた。赤澤さん
と市橋さんは、通崎さんにきものを見立ててもらって、次々
に羽織っていた。その様子を見ていて驚いた。本人が選ぶも
のと、通崎さんが選ぶものは微妙に違うのだが、通崎さんが
選ぶものは間違いなく似合っているのだ。これが「見立て」
というものであろう。

 私もいろいろ羽織ってみて、40年ぐらい前の大島紬を買っ
た。これまた、今普通に仕立てたら絶対に100万円以上す
るようなものだ。丹治さんは私達が次々にきものを羽織って
いるのを見てうらやましがっていたので、丹治さんの身長に
合うものを探してもらった。男性の場合、170センチを超
えると、アンティークを探すのは難しい。その点、私は小さ
いので、とてもアンティーク向きなのだ。
 丹治さんに合う丈のものは2点しかなく、どちらも裄(袖
の長さ)が短めなのだが、5千円もしないような値段だった
ので「タンちゃん、買っちゃいなよー、持ってるのと持って
ないのは全然違うよー」とそそのかしたら結局買っていた。

 こうして、取材とは全然関係が無いのに、小一時間通崎さ
んに付き合っていただいた。通崎さん、ひとのきものを見立
てている時はとても楽しそうだ。自分が似合うのも、他人が
似合うのも楽しいというのはわかる気がする。そしてそれは
呉服屋さんもたぶん一緒だ。どうせなら、似合っている人に
着て欲しいと思いますよ、と通崎さんが言っていたが、本当
にそうなんだと思う。

 ホテルに戻って、食事に行くことにした。雨なので着替え
ようかとも思ったが、せっかく京都に来ているのだからきも
の姿で歩いてみたかった。
 どうせなら、きものが似合う町並みを歩いてみたい。それ
で、先斗町を歩いた。



 歩いていて居心地がいいというか、東京を歩いている時の
ように、周囲の景色と自分がそぐわないという違和感がまる
で無い。いつの間にか背筋もしゃんとする。

 あぁ、来て良かったなぁ、京都。もちろん、ここに住んで
ここできものを着て暮らしている人と比べると、着こなしも
何もかもまだまだだと思う。それでも、この格好で京都を歩
く気持ちよさ、一度やってみると、きものを着ることに対す
る構えが違ってくる気がする。

 また行こう。絶対に行こう。知っているようで知らない京
都のことを、これから時間をかけて知っていこうと思う。そ
んな気持ちになれるのも、きもののおかげなのだなぁ。


2003年6月19日(木)
「イトイさんとご対面」


 糸井重里さんが、はなまるカフェにやってきた。

 このところ会っている人はみんなイトイさんとつながりが 
あって、私はいろんな人とイトイさんの話をしている。どう
やらイトイさんの方も、私の話を耳にしている様子である。

 でも、イトイさんと私にはお会いするほどの仕事の繋がり
が無いので、去年メールをいただいてから度々やりとりがあっ
たものの、会うには至らなかった。
 会いたい、と誰かに言えば会うことは簡単だっただろうけ
れど、会いたいとは思わなかった。というか、メールをいた
だくだけでもう十分だった。それに、いつかどこかでお会い
できるような気がしていて、その時が楽しみだったというの
もある。だから、誰にもお願いをしなかった。

 今回イトイさんにご出演いただくにあたって、ちょっとお
手伝いをした。出演が決まったとき、これはご挨拶をするい
い機会がやってきたと思った。「お会いするほどの仕事の繋
がり」だ。

 福岡にいた頃、大好きな矢野顕子さんが局にやってきたこ
とがある。インタビューの収録をスタジオで見学させてもら
い、プレゼントの柚子味噌を手渡したのだが、あの時はかな
り舞い上がっていた。コンサートツアー中なのに、壺に入っ
た味噌を差し上げるだなんて、今考えてもどうかしている。
矢野さんは「あらぁ、ちょうど昨日、きゅうりに味噌つけて
食べたいって言ってたのよねぇ」と言って下さったが、内心
では困っていたであろう。それくらい舞い上がっていたのだ。
 子どもの頃から憧れていたということではイトイさんも同
じだ。ひょっとしたら今回も舞い上がったりするのかな、と
ぼんやり思っていた。

 出演するわけでもロケに行くわけでもないのに、朝TBS
に行った。担当のディレクターと一緒に控え室へ行き、部屋
のドアをノックすると「はーい」という声がした。ドアを開
けると、イトイさんがニコニコと立っていた。間違いなくイ
トイさんだ。
 ディレクターとともに「おはようございます」とご挨拶を
したあと、私はなんと言おうか一瞬迷った。初対面なのだか
ら、いつもならば「はじめまして」と言いながら名刺を渡す
場面だ。実際そのつもりで名刺入れも持っていた。それでい
いのだけれど、なんだか違うような気がして躊躇してしまい、
結局「ええと、あの、はじめましてというか」とヘンテコな
挨拶になってしまった。でも、緊張していたのでも、舞い上
がっていたのでもない。本当に、何と言っていいのかわから
なくなったのだ。

 イトイさんは「今泉さんは、はじめましてじゃないよねぇ」
と笑いながら言った。そう、そうなのだ。はじめましてとい
う気が全然しなかったのだ。テレビで見ていたからとかそう
いうことではない。イトイさんは私がどんな人間かというの
を、メールのやりとりやこのHPや、周囲の人の話ですでに
ご存知であった。それは私も同じだった。人間関係を一から
作る必要が無いから、仰々しい挨拶をする必要も無いのだ。

 それから本番まで、余計な気を遣わずいろいろお話をした。
イトイさんは話が面白くて、的確で、気を遣わせないように
気を遣って下さっているのがわかるのだがそれがまたさりげ
なくて、一緒にいてとても気持ちが良かった。自分の至らな
いところもひっくるめてドーンとおまかせしたくなるような、
懐の深さがあった。そして、そういう感じのひとつひとつが、
私が昔から糸井重里というヒトについて抱いていた感じと同
じであった。

 出演が終わったあとも、控え室に戻ってちょっとお話をし
た。出る前も、出ている時も、出た後も、イトイさんはずっ
とそのまんまであった。イトイさんにとっては、テレビに出
るというのはどうということもないのだと思う。もちろん、
昔から出ていて慣れているのもあるだろうけれど、イトイさ
んはどこに行っても、いつもこのままのイトイさんなのだか
ら、テレビに出ようが出まいが変わりは無いのだ。
 そしてそれが私の理想だ。どこにいても私であること。当
たり前だけれどなかなか出来なくて、最近やっとかなり近づ
いてきたなぁと思っている。その努力は無駄ではなかったの
がわかって嬉しかった。イトイさん、本当に素敵だった。

 玄関までお見送りをした。イトイさんは「これからも西本
と遊んでやって下さい」と言って、さわやかに手を挙げて去っ
ていった。ハイ、来週早速遊びますよ。

 今日の会話の中でいちばん面白かったのは、イトイさんが
私や感心力の男田中さんの年齢を訊いたときだ。私が「イト
イさんと私、ちょうど二十違うんですよ」と言うと、イトイ
さんは「なんだ、子どもだなぁ」と笑った。
 来月35歳になろうという男は普通子どもではない。でも、
イトイさんはこの位の年齢から、どんどん人生の幅を広げて
いった人だ。50歳の手前で「ほぼ日」を始め、54歳にし
てゴルフを始めたような人からすると、34歳はまだまだ子
どもであろう。バカにして言っているのではない。これから
いくらでも大きくなれると言っているのだ。
 私が今のイトイさんの年齢になるまで、あと20年もある。
なんだってできる気がしてくるではないか。

 今度いつお会いすることになるのかわからない。でも、い
つお会いしても今のままお話ができる気がした。背伸びをし
たり、知ったかぶりをしてもイトイさんには全部お見通しだ。
だから、私は今度も、その時の私のままお会いしようと思う。

 今度、いつになるんだろうなぁ。



2003年6月11日(水)
「沖縄、行って良かった。」


 沖縄に行ってきた。

 アルタイ共和国からやってきたボロット・バイルシェフさ 
んという歌手と、巻上公一さんのコンサートの司会をするた
めだ。
 そもそも司会をするどころか、沖縄に行く予定すら無かっ
たのだが、田口ランディさんの家におじゃましてコンサート
の話を聞いていたら、どうしても行きたくなってしまった。
 どうせ行くのだったら、せっかくアナウンサーなのだし、
司会もしますよ、とランディさん経由で沖縄の担当の方に伝
えてもらったら、ぜひお願いしますということになったのだ。

 しかし。沖縄に行く前の日の朝、起きたらノドに痰がから
んでうまく声が出なかった。そんな日に限って葛飾FMで3
時間の生放送だ。なるべくノドに負担をかけないように喋っ
たが、無理をしているのでだんだん話すのが辛くなってきた。
 家に帰って、吸入をしたり薬を飲んだり、その他いろいろ
やって、加湿器をかけてマスクをして寝た。

 翌朝。8時半に羽田集合だったので6時には起きたのだが、
声は相変わらず嗄れたままだった。どうしようかと思ったが
どうしようもない。
 ランディさんやボロットさん達は前日に沖縄入りしていた。
仕事の都合であと入りしたのは、私と感心力の男田中宏和
そしてやはりどうしても行きたくなってしまったテレ朝野村
アナ
の3人である。特に田中さんは人生初沖縄のため、出発
前から軽く高揚していた。

 飛行機の中で、私はマスクをしてひたすら寝た。最近は機
内でビールが買えるので、いつもだったら朝だろうが昼だろ
うが迷わずビールを飲むのだが、今回は話もせずとにかく寝
た。沖縄についたら11時半だった。
 コンサートが行われるのは、那覇から車で1時間ほどの読
谷村というところである。すぐに向かおうと思ったが、今回
の沖縄ツアーの幹事であるメディアファクトリーという出版
社の丹治さんに連絡をしたところ、ホテルを3時半に出発す
るので、それまでは自由時間だということだった。
 私達3人は、やはり仕事のため次の日の早朝には東京に戻
らなければならない。せっかくなので田中さんに少しでも沖
縄っぽいところを体験してもらおうと、先に国際通りの市場
に行くことにした。

 国際通りの牧志市場は、観光客なら誰でも行くところでは
あるが、手軽に沖縄らしい空気が味わえるので時間が無いと
きにはいい。とりあえずみやげ物屋をぐるっと回ったあと、
市場へ行った。
 私はこの市場で魚を見るのが好きだ。近所では見られない
不思議な色や形の魚が並んでいるからだ。田中さんも野村さ
んも見たことが無いというので「さかな、さかな」と言いな
がら連れていったら、日曜なので魚のコーナーは休みであっ
た。残念。

 市場の2階には、沖縄料理の食堂がたくさんある。ちょう
どお昼だったのでここで食べることにした。田中さんの高揚
レベルはどんどん上がり、メニューを見ていてもなかなか食
べるものが決まらない。結局、ゴーヤチャンプルー、パパイ
ヤチャンプルー、青菜とラフテー、ソーキそば、中味そば、
島らっきょうなど、こんなに食えるのか、というくらい頼ん
でしまった。
 まずゴーヤチャンプルーが運ばれてきた。東京で食べるよ
りもやはりゴーヤの量が多い。田中さんは一口食べて「うま
い!」と声をあげ「沖縄に来て良かったぁ」と言った。おい
おい、沖縄にはさっき来たばかりだし、料理だって一品目だ。
いくら感心力の男とはいってもそのセリフは早すぎないか。

 その後出てきた料理もいちいちおいしかった。観光客相手
の店なので、もっとおいしい店は他にもあるだろうが、東京
で食べられないものを食べているという前提で、おいしいと
思える味なのだから別にいい。

 3人でお腹いっぱい食べて大満足したあと、1階の売店で
うこん粒を買った。以前行ったお店で、おばあがやたらとお
まけをくれるところがあったので、また行ってみたのだ。行
くなりうこん粒を手に乗せられ、そのまま飲めってか? と
思っていたらうこん茶の缶を渡された。まだ買うともなんと
も言ってないのにこのサービスだ。でも確かにうこん粒は東
京で買うより安いし、黒砂糖にガムまでもらったのでこれま
た大満足だ。田中さんはしきりに「良かった〜、来て良かっ
た〜」とつぶやいていた。

 そろそろ読谷へ向かおうと道路に出ると、まさにスコール
としか言いようのない激しい雨が降っていた。タクシーに乗
るまでの間にびしょ濡れになりそうだったので、またみやげ
物屋を回って雨が弱まるのを待った。田中さんは、私が珍し
いものを説明すると「それ買う買う」と次々に手に取ってい
た。きっと田中さんの部屋にはくだらないものがたくさん転
がっているのであろう。野村さんは小さな楽器を買っていた。

 雨が止む気配が無いので、タクシーを停めて走って乗った。
読谷までの間も、田中さんはキョロキョロと周りを見て感心
してばかりであった。こんなに落ち着きの無い田中さんを見
たのは初めてだ。
 ホテルが近づくに連れて、雨が弱まってきた。今日のコン
サートは屋外で開かれるので、なんとしても雨が止んでくれ
ないと困る。声も出てくれないと困るのだが。

 1時間ちょっとでホテルに着いた。岬の突端にある、とて
も景色がいいホテルだったが、残念ながら空も海もどんより
と濁っていた。
 この辺を散歩するという田中さんと野村さんを残し、私は
集合場所のロビーへと降りた。ランディさんに「こんな声に
なってしまって」と言うと「今回はいろんな試練があるねー」
と笑って言った。雨は降るわ私の声は出ないわ。本当に申し
訳ない。
 雨が降ったときの代わりの会場は用意してあった。その判
断をしなければならないギリギリの時間だったのだが、外は
相変わらず雨が降ったり止んだりであった。

 ランディさんはどうしても外でやりたがった。それには理
由がある。会場は「座喜味城址」というかつての城の跡で、
世界遺産に指定されている。普通コンサートなどをやるよう
な場所ではないところを、やっとここまでこぎつけたのだ。
 私もどうしてもここでやりたかった。事前に会場の写真を
メールで送ってもらって、どんな場所なのかを見ていたから
だ。





 私が沖縄行きを決めたのは、この写真を見たからだ。不思
議な曲線の城壁の真ん中に、ここから登場して下さいと言わ
んばかりの階段がある。ここでコンサートをしたらどんなに
気持ちがいいだろう。もうどうにもこうにも行きたくて仕方
無くなってしまったのだ。

 しかし、外は芝だし屋根はもちろん無いし、機材が濡れて
も困るので、雨が降る可能性が少しでもあるなら会場を変更
せざるを得ない。地元でコンサートを仕切っていた長嶺さん
も、ここでコンサートをやるためにずいぶん尽力したのだが
(長嶺さんは沖縄で「伽楽可楽」というタウン誌の編集をやっ
ている。会場を決めるまでの顛末はこちらを)結局、会場は
近くの文化センターに変更ということになってしまった。

 文化センターに行くまでの間、ランディさんは何度も「やっ
ぱり外でやりたいなー」「これで晴れたら長嶺さん一生あた
しの言う事聞くハメになるよー」と言っていた。もちろん仕
方無いのはわかった上で言っているのだが、多分みんな同じ
気持ちであった。
 会場に着いてみると、すでに椅子がセットされ、ステージ
上のセッティングも済んでいた。代わりの会場だというのに
これだけの準備をしていたのかと驚いたし、むしろ地元のス
タッフの皆さんの方が残念だっただろうと思った。たぶんラ
ンディさんもそう思っただろう。会場に入ってからは何も言
わなかった。

 夕方5時過ぎ、会場まであと1時間という時だ。ふと窓の
外を見ると、雲が切れて光が射しているではないか。ランディ
さんに「晴れてますね!」と言ったら「さっき、レラさんが
那覇に着いたって電話があったのよ」と言うので驚いた。

 ランディさんの「聖地巡礼」という本の中に、アシリ・レ
ラさんというアイヌのシャーマンの女性が出てくる。レラさ
んの周りではいろいろと不思議なことが起こるのだが、一番
印象に残っているのは、富士山に登ったとき、前も見えない
位に辺りを覆っていた霧が晴れ、ほんの一瞬富士山がその姿
を現したというくだりだ。そこには、富士山をバックにレラ
さんがニッコリ笑っている写真が載っている。レラさんと富
士山の間には雲が無いのだが、山の向こうはどんよりと曇っ
ている。曇っているのに、レラさんがその場所に来たらそこ
と頂上の間だけ雲が切れたというのだ。

 レラさんが那覇に着いたと同時に晴れた、というのは単な
る偶然かもしれない。でも、晴れたことには違いが無いのだ
から、レラさんが来たから晴れたと思った方が楽しい。こと
さらに肯定することも否定することも無いと思う。

 せっかく晴れたので、ボロットさんを連れて座喜味城址に
行き、演奏の様子をビデオに録ろうということになった。私
も慌てて車に乗った。ここに行きたくて沖縄までやってきた
のだ。
 丹治さんの運転で城に向かう途中、道に迷った。ふとラン
ディさんが「ここお墓ロードだね」と言うので外を見ると、
道の両脇にお墓が家のように連なっていた(沖縄のお墓はちょ
っとした小屋のような大きさだ)。この土地のご先祖様に呼
ばれてるのかねー、などと話しながら城へ向かった。よくも
あんな道に迷い込んだものだと思う。

 座喜味城址は、写真を見た時に思った通りの素敵な場所で
あった。



 城壁の上に青空が見える。本当に、ほんの10分前までは
雨が降ったり止んだりしていたのだ。
 ボロットさんに「どこで歌いたい?」と尋ねると、ボロッ
トさんは迷わず階段を上り、一旦隠れて、演奏しながら降り
てきた。



 この時、私とボロットさんの間は10mぐらい離れていた。
しかし、マイクが無くてもボロットさんの声は私の体に響い
てきた。声が大きいというのではない。響いてきたのだ。
 城壁の中だけが切り取られて、違う空間にいるようだった。
切り取られているといっても、狭い場所にいる感じではない。
しっかりと大地に立っていて、自分の周りを風が吹き抜けて
いくような感じ。

 時間にして10分ぐらいだろうか。ボロットさんが静かに
演奏を終えたところで、自分の頬がしっとりと濡れてきたの
に気づいた。終わった途端、霧雨が辺りを包んだのだ。
 ボロットさんは「こんなに素敵なところなのでもう1曲演
奏したい」と言い、笛を吹き始めた。

 いつまでも聴いていたかったが、ボロットさんも私もコン
サート会場に戻らなければならない。笛の演奏は3分ほどで
終わった。ここで聴けて本当に良かった。田中さんはゴーヤ
チャンプルーの時点で思っていたが、私はこの時、沖縄に来
て良かったと心から思ったのだった。

 コンサートは大入り満員であった。200席ちょっとの椅
子はすぐに埋まり、椅子の前の、ビニールシートを敷いただ
けの固い桟敷席も一杯になり、後ろは立ち見で一杯になった。
私の声は相変わらずだが、もうやるしかない。

 開演前、「座開き」と称して三味線の演奏があり、その時
点でお客さんは手拍子を打っていた。いい空気だなぁ。さす
が沖縄だと思った。その空気のまま、私はとてもリラックス
して、冗談交じりで司会を始めた。
 まず、私とランディさんと巻上さん、途中からは写真家の
川内倫子さんも交えてのトークショー。皆さん話が上手いの
であっという間に30分が経った。その後はボロットさんの
ソロライブ。さっき座喜味城址で聞いたのと、マイクを通し
て聴くのはまた迫力が違う。そして、声の幅が3オクターブ
ぐらいあるのだ。一体どこからどうやってこんな声が出るの
か。最初静かに始まった「カイ」という叙事詩は、メロディー
が変わるわけでもないのに、どんどん広がりと厚みを増して
聴いている者を圧倒するのだ。途中からは巻上さんも合流し
て音に深みが増し、終わった後ボーっとしてしまって拍手を
忘れるほどだった。
 ランディさんが、巻上さんが「とにかくすごい」と言って
いたのはこのことだったのか。これは確かにすごい。「あり
がとうございました」と言いながらステージに出たものの、
「あの…なんというんでしょうか…」と言葉が出なかった。
それどころか、あまりにボーっとしていて原稿を持たずに出
てしまったため「ちょっと待ってくださいね」と言って一旦
引っ込んだりする始末であった。

 次には、沖縄古典音楽を大湾清之さんという方に演奏して
いただいた。大湾さんは沖縄では知らない人はいない程の方
だが、長嶺さんに3日前突然演奏を依頼され、何が何だかわ
からないまま今日やってきたそうだ。ボロットさんの演奏に
「何のコンサートだか知らずにやってきたんですが、あまり
にすごくてボーっとしてしまって、何と言っていいのやら」
と、私と全く同じ状態になっていた。しかし三味線とともに
唄が始まると、そこは琉球になった。音で空気がどんどん色
を変えていく。なんて面白いんだろう。

 その後アシリ・レラさんの登場。登場の前に、富士山の話
と、さっきの晴れた話をすると、会場に「へぇ〜っ」とどよ
めきが起きた。東京ではみんな疑って、こんなに素直に驚い
てくれないと思う。
 レラさんは大盛り上がりで歌い、途中からみんなで踊ろう
と言ってステージのセットを片付けようとしたり、予定外の
ことをどんどんやるので驚いた。時間があれば全部やっても
らいたかったのだが、9時終了予定がその時点ですでに9時
半になっていたので、舞台上で謝って引っ込んでいただいた。
一応20分とお願いはしてあったが、みんなどんどん調子が
出てどんどん伸びていくのだ。それはつまり、楽しいという
ことなのだけれど。

 そして巻上さんのボイスパフォーマンス。どこからどうやっ
てどの音が出ているのかさっぱりわからなくて面白い。一番
嬉しかったのは、あのテルミンという不思議な楽器の演奏の
様子を初めて見られたことだ。音も動きも妙なのだが、とに
かく飽きない。この感じ、文章で説明したいのだがどうにも
難しい。いつか自分でも演奏してみたいものだ。

 最後は再びボロットさんと巻上さんが一緒に演奏した。ぐっ
とくだけた空気が、またアルタイの色になった。内容はバラ
バラ、でもそれでいてコンサートとしては面白くまとまって
いたように思う。さすがチャンプルーの島だ。

 アンコールでボロットさん、巻上さん、ランディさんに登
場してもらった。ランディさんは私のマイクを手に取って、
「私は、どうしてもあの座喜味城でもう一回やりたい! だ
からまた呼んでください」とお客さんによびかけた。大きな
拍手が起こった。
 その頃には、私の声はすっかりかすれていた。言いたいこ
とがたくさんあるのに、最低限のことしか言えないのが悔し
くて仕方無かった。私も心の中で思っていた。もう一度司会
をやりたい。座喜味城で、万全の状態で。

 打ち上げ会場は「ビーチロックハウス」という、これまた
ナイスな場所であったが、私は声が出ないのであまり喋らず
にいた。話さないでいるのもつまらないので、紙に「声が出
なくてごめんなさい」と書いてランディさんのところに持っ
ていくと「ここで声が出ないっていうのは、多分これから新
しく声を鍛えなさいっていうことなんじゃない?」と言われ
た。なるほどなぁ。
 アナウンサーになって、声が出ないことでこんなに悔しい
思いをしたのは初めてだ。それと同時に、声が出るというこ
とがどんなに大切でありがたくて幸せなことなのかも、よく
わかった。商売道具なので大事にしていたつもりだったが、
どのくらい大事なのかがちゃんと見えていなかった。声は、
もっと鍛えなければならない。

 私と田中さんと野村さんは、翌朝6時半にホテルを出発し
なければならなかったので、打ち上げを途中で抜けて帰った。
ゆっくりできないのは残念だったが、それでも来て良かった
と3人とも思っていた。

 那覇発8時40分の便で東京に戻った。結局、沖縄に滞在
していた時間は一日に足りない位短いものであった。でも、
それでも良かった。本当に。
 この経験と、たくさんの人との出会いは、いつか必ず自分
に返ってくる。そう確信できる旅だった。

 楽しかったなぁ。行けるようにしてくれた出会い、行った
先での出会い、みんな嬉しかった。皆さんありがとう。



2003年5月25日(日)
「クラブランディでボーイをする」


 このところ、ランディさんモードに入っている。

 昨日は田口ランディさんの懇親会であった。とあるお店を
貸切にして、ランディさんが日頃お世話になっている人や仲
の良い人を招いて「一日ホステス」になっておもてなしをす
る、という会である。
 こないだランディさんの家ですっかりごちそうになったの
で、今度はお手伝いをして恩返しをしようと思い「お手伝い
しますよー」と言ったら「じゃあ今泉くんはボーイさんだね」
ということになった。ランディさんがホステスで私がボーイ。
ホステスとボーイは絶対にいい仲になってはいけないのがこ
の世界の掟だ。気をつけねば。

 こないだ買った古着の単(ひとえ。裏地のついていない着
物)を着て、差し入れの食べ物を持って出かけた。最寄り駅
に着いたところで、会場の名前や電話番号が書かれた、ラン
ディさんのメールを印刷した紙を忘れてきたことに気づいた。
 メールを読んだときに地図を開いてみたので、大体の場所
はわかっていたのだが、どのビルの何階の何という店なのか
がわからない。ランディさんの携帯の番号を知らないし、感
心力の田中さんは芝居を観てから来ると言っていたので電話
が繋がらない。どうしようかと途方にくれた。

 悩んでいても仕方がないので、とりあえず探してみること
にした。大体の場所と、1階がバーだという断片的な記憶の
もとに、10分ほど歩き回って、ようやくそれらしきひっそ
りとしたビルを見つけた。上がってみると店の入り口に「C
LUB RANDY」と書かれた小さな紙が張ってある。間
違いなくここだ。見つける気で探したが本当に見つかるなん
て。
 ランディさんにそのことを話したら「よく見つけたねー」
と驚かれた。その位目立たない店なのだ。自分で自分を誉め
てあげたい。

 来ている人はやはり出版社の方が多かったのだが、それだ
けではなくいろんな業種の方がいらしていた。私は今回ボー
イに徹しようと思っていたので、和服姿でせっせとお酒を運
んだり灰皿を片付けたりしていた。
 運んだ相手の応対から、お店の人だと思われているんだろ
うなぁ、というのをうすうす感じ取ってはいたのだが、それ
もまた面白いなぁと思っていた。確かに、普通こんなところ
でアナウンサーが和服姿でお酒を運んだりはしない。気づか
ないのも無理はない。大体にしてそこまで有名じゃないし。

 お店のオーナーは作務衣姿で、私よりも年上なのだがとて
も若く見える、気持ちのいい方であった。どんどんグラスが
足りなくなるので、私がカウンターでお酒をつくり、オーナー
は裏でせっせとグラスを洗っていた。
 次々にお酒をグラスに注いでいると、「お店をはじめてど
のぐらいなんですか?」と尋ねられた。えっ。
 でもまぁ、和服の人がカウンターにいて、作務衣姿の人が
グラスを洗っていたら、私が店の主人に見えるであろう。

 さすがにオーナーに申し訳無く思い、お酒を配るついでに
自己紹介をすることにした。一様に驚かれるのがまた面白かっ
たので、せっせと名刺を配った。

 予定の時間が過ぎ、お客さんが帰ったあと、ランディさん
が「今日はよく働いたよねぇ」とねぎらってくれた。しかし
私は途中から、カウンターの中がかなり居心地よくなってい
た。オーナーに「うち、今従業員募集してるんですけど」と
言われたが、あながち冗談でもないくらいに馴染んでいた気
がする。ランディさんへの恩返しとか、そういうことをすっ
かり忘れて楽しんでいたのだ。なんてお調子者なんだろう。
 もちろん簡単なことではないのはよーくわかっているが、
お店をやるというのもいいなぁ、としみじみ思った。いざと
なったらこの店に弟子入りさせてもらおう。

 そんな訳で、次回の懇親会もボーイで参加することに決定。
こうしてお店を出す準備を着々と進めていくのだ、ってウソ
だけど。 


2003年4月16日(水)
「積み重ねるということ」


 先週から、初めてのNHKでの仕事が始まった。

 アナウンサーという仕事は、どこでもそれほど本質的には 
変わらない。でも番組が変わったり、仕事をする局が変わっ
たりすると、ちょっとしたことが違ったり、もちろんスタッ
フも違うので、最初のうちはどうしても戸惑う。

 局アナを辞めてから、いくつかの局で仕事をさせてもらっ
たけれど、どこでも慣れるまでに3ヶ月はかかっている気が
する。自分が慣れるというだけでなく、周りのスタッフが私
に慣れるまでの時間も要る。慣れるまでの間も、もちろん画
面上はそれなりに仕事をこなしてはいるが、画面上のことに
きちんと集中できるまでには時間がかかるのだ。

 特に今回はNHKなので、私なりに緊張していた。仕事そ
のものも、ある方の紹介で私のプロフィールが番組に渡り、
一度会いましょうというので行ってみたらそのまま会議に出
ることになり、渡された台本には既に自分の名前があった。
行ったら決まっていたのだ。
 これには驚いた。もちろん、決めていただいたのには、私
を紹介してくれた人が私に太鼓判を押してくれたことや、今
までに担当した番組の数や内容を評価してもらえたという理
由があるのだが、それにしても会ってもいないのに仕事が決
まったなんて初めてだ。

 その時の台本では、私は途中6分程度のコーナーを担当す
ればいいだけだった。ところが次の打ち合わせでは出る部分
が数倍に増え、本番ではさらに増えた。まだ仕事をしていな
いのに出番が増えるなんてめったに無い。
 実は、会議の席でお会いするまで、ほとんどのスタッフは
私がどんな人なのかよく知らなかったらしい。最初の打ち合
わせのあとで、これまでの出演番組のVTRが欲しいと言わ
れたので渡したのだが、多分それを見て「この位の仕事はで
きるだろう」と判断してくれたのだと思う。

 フリーになったばかりの頃の、広辞苑のCMやめざまし調
査隊はオーディションを受けて決まった仕事だ。どちらも1
00人以上が来ていて、世の中には同じような仕事をしてい
る人がこんなにいるのかと驚いたものだ。
 だがその後は、人との出会いとか、私の仕事を見てくれた
ことなどで仕事をいただくようになった。テレ朝の番組や、
アッコやはなまるはそんな感じで決まった仕事だ。仕事が積
み重なることでまた仕事が来るんだなぁ、と感じていたが、
今回改めてそれを実感した。NHKで仕事ができるなんて思っ
てもみなかったからだ(NHKにはたくさんの男性アナがい
るので、男のフリーアナが出ることはほとんど無い)。

 とはいうものの、NHK、しかも教育テレビだ。民放でし
か仕事をしていない私が、いつもの調子でやっていいものか。

 本番一週間前に、本番と全く同じ形で(リハーサルも含め
て)シミュレーションが行われた。どうせ放送されないので
やりたいようにやってみて、ダメなら修正すればいいや、と
思ってやった。終わった後、何か言われるかと思ったら何も
言われなかった。途中2回ほど、私が「ティーチャー今泉」
として説明をするコーナーがあって、打ち合わせの時に「メ
ガネとか差し棒とかあったらティーチャーっぽいんじゃない
ですかね」と言ったら、それもそのまま採用された。

 それで、自分に要求されていることがわかった。NHKっ
ぽくなく、でも伝えるべきことはちゃんと伝える、というこ
とだ。それなら、今はなまるでやっている仕事と変わらない。
薬丸さんや岡江さん、曜日レギュラーの方の予期せぬリアク
ションに臨機応変に対応しつつ、伝えるべきことはきちんと
伝える、という仕事を1年やってきたので、できるような気
がした。

 そしていよいよ番組初日。ゲストも一緒に時間通りのリハー
サルをした。これは初めての経験であった。民放のリハーサ
ルはもっとざっくりとしている。ましてや朝の番組なんて、
時間が無いので本当にざっくりだ。あと、報道番組は基本的
にリハーサルをしている時間が無い。
 時間通りとはいっても、やってみたら6分半オーバーだっ
た。どこかを縮めなければならないが、縮められるのは自分
のコーナーだと思った。私のコーナーは私が一人で喋るので、
時間のコントロールができるからだ。

 自分で自分の出番を縮めるというのは、他の人ならやらな
いかもしれない。普通はできるだけたくさん出ようと思うだ
ろう。私が自ら自分の出番を縮めようと思ったのは、自分が
メインで番組をやった経験があったからだ。番組全体として
時間配分を見た時に、まとめられるとしたら自分の場所だと
思ったし、まとめられると思ったからそう提案した。
 縮めるといっても、単純に短くすればいいというのでもな
い。私が話している間に、メインセットで物の出し入れがあっ
たり、人の移動があったりする。最低限必要な時間というの
があるのだ。なので、準備ができたら合図をもらって、合図
を目安にコメントを終えますよとか、番組の終わりのコメン
トは1分半あるけれどこれは40秒で喋れますとか、具体的
に縮める方法を提案した。本番まで時間が無かったからだ。

 そして本番。番組は時間内にきちんと終わった。スタジオ
に「あぁ時間通りに終わったねぇ」という空気が漂っていた。
これはもちろん、私だけではなく、司会の榊アナ、似鳥さん、
ゲストの方、そしてスタッフの総力でやったことだ。でも、
終わった後、スタッフに「いろいろ助けてもらってありがと
う」と言われた。
 番組の一員なのだから、放送がうまくいくように頑張るの
は当たり前のことだ。でも「ありがとう」と言われて、正直
言って嬉しかった。番組の初回から評価してもらえたのだか
ら。

 「トップ!」でやったこと、今「はなまる」でやっている
こと、もちろんその前にやった仕事も、全部つながって私の
中に積み重なっている。そしてその蓄積が、仕事の幅を広げ
ていくんだと改めて思う。今やっていることにムダなことは
無いと日々言い聞かせて仕事をしているけれど、たまにそれ
を実感することがあると本当に元気が出る。

 なーんてちょっと真面目な話してみたり。たまにはいいか。


2003年4月6日(日)
「ここ数日の私」


 なんだかバタバタしていた1週間を日記風に。

4/2(水)

 船橋にある三菱電機の工場でロケ。洗濯機の中を初めて見 
た。面白い。



 洗濯槽って、洗濯機の上の四隅から吊られてぶらさがって
いるのだ。知ってました?



 こんな感じ。面白くないですか。うーん。

 アナウンサーになって良かったことの一つに、大人になっ
ても工場見学ができるというのがある。ビール工場とか納豆
工場とかいろいろ行った。いつもワクワクする。
 日々何気なく使っていたり食べていたりするモノには、い
ろんな苦労や工夫が隠れている。「へぇ〜」とか「ふ〜ん」
の嵐だ。

 工場を出て、慌てて電車に乗って渋谷へ向かう。アルケミ
スト
というユニットのライブがあるのだ。ボーカルのこんや
しょうたろうくんはかつしかFMを一緒にやっているお友達
である(彼についてはここの7月30日「持っているという
こと」をぜひ読んでいただきたい)。

 開演前にテレ朝佐分アナ(以前ライブに来て、気に入って
くれたのだ)と待ち合わせして東急東横店に行った。何故ラ
イブ前にデパートに行ったかというと、この日までSKIP
の臨時ショップが出ていたからだ。

 店頭ではイズミさんがイキイキと野菜を売っていた。



 イズミさんは「ただいま、ワタクシの全人生をかけまして
このピーマンを皆様にオススメしております」とか言ってい
た。すごい売り文句だ。アハハ。
 佐分さんはトマトジュースを試飲して「甘〜い!」と感激
していた。



 女子アナとツーショットでちょっと嬉しいイズミさん。

 5月には松屋銀座にSKIPのお店がオープンする。イズ
ミさん、忙しそうだったけど本当にイキイキしていた。本当
にお客様と接しているのが好きなんだなぁと思う。

 イズミさんと別れてライブに向かう。会場は満員で、ライ
ブも楽しくてあっという間に終わった。後ろの方に目立つ人
がいるなーと思ったら、こないだまでテレビ神奈川の番組で
アルケミストと一緒だったぜんじろうさんだった。わざわざ
来てくれるなんていい人だ。

 終了後はかつしかFM仲間と佐分さんとでご飯を食べた。
佐分さんが今担当している番組は全部ニュースなので、最近
はずーっと戦争のニュースばかり伝えている。だから番組も
気持ちも暗くなるそうだ。
 テロの時、私もそうだった。だから仕事が無い日は意図的
に気分転換をしていた。それはそれ、これはこれだ。だから
こんな時にライブなんて、とか言わないで欲しいと思うのだ
けれど。

4/3(木)

 お昼からNHKで打ち合わせ。前回初めて会議に出た時は
私はちょっとしたコーナーを担当するだけだったのだが、新
しい台本を見たらかなり出番が増えていてビックリ。そりゃ
出ないよりは出た方が嬉しいしやりがいもあるが、出番が多
い少ないよりも仕事の内容として、はなまるよりもタフな仕
事という感じだ。

 打ち合わせの後、はなまるロケに合流。ロケ先はやはり三
菱電機の工場だったのだが、場所が遠かった。最寄り駅は秩
父鉄道の小前田駅。どこだかわからない方が大半であろう。
埼玉県の花園町というところにある。
 渋谷から湘南新宿ラインで大宮へ行き(しかも途中線路に
人が降りたとかで10分以上止まっていた)大宮から高崎線
で熊谷へ、さらに秩父鉄道に乗り換えて小前田へ。渋谷から
ちょうど2時間かかった。ちょっとした旅行である。

 秩父鉄道はなかなか良かった。単線で、ディーゼルカーが
のんびり走る。もちろんパスネットなんて使えない。ただ、
熊谷駅のホームにあるそば屋のそばは激マズだった。あんな
にマズいそばを食べたのは初めてだ。いくら立ち食いそばだ
からといってもありゃひどい。

 ロケを終えて都内に戻り、誘われていたお花見に合流した。
場所は芝公園。歩きながら桜の向こうに東京タワーが見えた。



 お花見をしていたのはサイバードの皆さん。聞いたことが
あるな、という方も多いであろう。携帯電話向けのコンテン
ツをたくさん提供している、今まさに伸び盛りの会社だ。社
長の堀主知ロバートさんは、アメリカのタイム誌で「世界の
15人」に選ばれていた。サイバードのホームページを見て
もカタカナばかりである。

 そんな最先端の会社の人はどんな人達だろうと思ったら、
面白い人ばかりであった。会社も若いし、働いている人も若
いのでなんだか活気があるし、誰も説教とかしていないので
楽しい。年齢の近い方ばかりなので、とても楽しく飲んだ。
ちょっと寒かったけど。
 そういえば、途中で誰かがたこやきを買ってきたら、後ろ
から明らかに小学生だろう、という子どもが走ってきて「お
代を先にお願いします」と言っていた。こんな遅くに働く子
ども。そして言うべきことはちゃんと言うしっかりさ。なん
だか「あかんたれ」のメロディーが聞こえてくるようであっ
た。

 花見のあと、麻布十番に移動して飲み、さらにカラオケに
行った。初めて会う人ばかりなのにあんなに楽しかったのは
久しぶりだ。
 あんなに面白い人達も、昼間はカタカナをさりげなく使い
ながらバリバリと働いているのであろう。メリハリって本当
に大事だと思う。昼を夜に持ち込みすぎたり、夜を昼に持ち
越したりするのはカッコ悪いのだ。

 すっかりお世話になったので、もしアナウンサーに御用が
あったらいつでも、と言いそうになったが、社長の奥様はあ
の永井美奈子さんだ。私の出る幕は無いであろう。

4/4(金)

 NHKでシミュレーション。今度私がやるのは、毎週金曜
日の夜9時から教育テレビで放送される「今夜もあなたのパー
トナー もっと知りたい! 暮らしQ&A」という番組だ。

 NHKの中に入るのは採用試験以来だ(打ち合わせは別の
建物でやっていたので)。NHKの試験といえば思い出すこ
とがある。カメラテストに向かう途中、同じエレベーターに
乗っていた女子学生4人がこんな会話をしていたのだ。

「いいなー、ロンドンに留学してたんだ。私シンガポールだ
 からなぁ」
「いいじゃない、私なんて中国だもん」

 当時の私は留学どころか海外旅行に行ったことすら無かっ
た。面接の順番が彼女たちの後だったので、私は聞かれても
いないのに「海外は伊豆大島しか行ったことがありません」
と言って大笑いされた。

 あの時乗ったエレベーターはどれだろう、などと考えなが
ら歩いていたら局内で迷った。テレビ局ってどうしてどこも
わかりにくい作りなんだろう。

 簡単なリハーサルとしっかりしたリハーサルをやって本番
をやった。本番といっても放送されない。さすがNHK。で
もNHKの割には大真面目でもないので楽しくやれそうな感
じ。

4/5(土)

 かつしかFM「サタデーマンスリーゴールデンファンタス
ティックアワー どうにもとまらない」を午後4時から7時
まで。

 去年の8月から、月に一度好き勝手に番組をやっていたの
だが、この4月からは毎月第1土曜日にやることになった。
レギュラー化だ。
 時々友達とか、イズミさんとかに来てもらっているが、4
月にふさわしいゲストがいないかなーと思っていたら、ふと
あの超人気サイト「Webやぎの目」の「立石ホットライン」
というコーナーが目についた。

 かつしかFMは葛飾区の立石というところにある。作って
いる林さんはどうも立石に住んでいるらしい。じゃあ来てく
れないかな。
 そう思って突然メールを出したら、出ていただけることに
なった。



 手前から、村上りよんさん(お笑い女優)おかおゆきさん
(お笑い女優)こんやしょうたろうくん(歌うたい)そして
林さん。
 初めて会った林さんは思った通りの面白い人だった。面白
いっていうかくだらないっていうか。何故やぎの目なのかと
尋ねたら「なんでもいいんです。最初はサロン・ド・はやし
だったし」と言っていた。アハハ。いいなーそれ。このHP
もサロンにしようかな。サロン・ド・今泉。最後が硬いな。
まぁいいんですけど。

 やぎの目の「死ぬかと思った」からいくつか選んで読んで
いたのだが、自分にもそういう話が結構あるなぁ、と思って
ついその話をした。お尻からバリウムを入れる検査をした後、
トイレでバリウムを出したら、「ブゥ〜〜〜〜〜〜〜〜」と
信じられない長さと音量のオナラが出たとか、そういう話だ。

 放送中はみんなでゲラゲラ笑っていたのだが、終わったら
「時間帯を考えて下さい」と局の人に怒られた。確かに夕方
からウンコとかオナラの話で盛り上がっちゃいかんわなぁ。
これでもアナウンサーを10年以上やっているのに、今になっ
てオナラのことで怒られるなんて。トホホ。

 終わった後林さんと飲んだ。林さんは時々イベントをやっ
ているので、今度遊びに行きますねーという話をした。ちな
みに今度やるのは「でかい頭ナイト」だそうだ。林さんより
頭が大きかったら料金割引。林さん、本当にくだらない。


 こんな調子の数日。働いたり遊んだりとメリハリがあった。
新しい仕事とか、新しい出会いとか、いいなぁ春って。でも
ちょっと飲みすぎかも。
 



2003年3月27日(木)
「寿司の作法」


 TBSで打ち合わせの後、なんとなく寄った書店で8冊も 
本を買ってしまった。

 その中の1冊。


「寿司屋のかみさんのちょっと箸休め」
  佐川 芳枝  青春出版社


 佐川さんは東中野にある寿司屋のおかみさんで、「寿司屋
のかみさん」で始まるエッセイを何冊か書いている。寿司に
ついての知識が増えるので見つけると買っている。

 読んでいたら猛烈に寿司が食べたくなった。だがゆっくり
食べるほどの時間が無かったので、赤坂見附の回転寿司店に
入った。
 私が入ってほどなく、外人の男女2人連れが入ってきて、
隣に座った。場所柄外国人が多いのだろうか、店員が英語の
メニューを持ってきていた。見た目と言葉からしてアメリカ
人であろう。
 いまや回転寿司なんて外国でも珍しいものではないし(ロ
ンドンのビクトリア駅にも回転寿司があったっけ。まぁ回っ
ているモノを見たら寿司と呼ぶにはどうかなーというのもあっ
たけれど)ネタも料金もわかりやすくて安心なんだと思う。

 男の人が、生ビールを頼んでからトイレに立った。女の人
の方は察するに回転寿司が初めてらしく、皿を取るでもなく
キョロキョロと辺りを見回していた。私はちょうどイクラを
食べるところで、ガリにしょうゆをつけてイクラに垂らして
いた。
 軍艦のネタにしょうゆをつける時はガリを使えばいい、と
いうのも佐川さんのエッセイに書いてあった。昔、人がやっ
ているのを見て、便利だなと思って真似をしていたのだが、
作法としていいのかどうかがずっとわからなかった。寿司屋
のかみさんがいいというのだからいいんだな、と思って今は
迷わずやっている。

 男性が帰ってきて、まず板前さんに「ワサービ」と言った。
いきなりワサビをもらう位だから、寿司屋慣れしているのか
もしれない。
 しかし、山盛りのワサビをしょうゆ皿に乗せてもらった男
性は、その半分ぐらいの量をしょうゆにドボッと入れて溶き
始めた。ひええ。そんな食べ方どこで教わったんだろう。

 私だけでなく、板前さんも周囲のお客さんも驚いていたが、
男性は気にする風でもなく、ワサビたっぷりのしょうゆを、
これまたたっぷりと中トロにつけて食べていた。あれじゃネ
タの味なんてさっぱりわからないであろう。
 そんな調子なのですぐワサビが足りなくなり、5分としな
いうちに「ワサービ」と追加でもらっていた。板前さんもさ
すがに「ワサビ好きだねぇ」と呆れたくらいだ。

 店内が男性のワサビにすっかり気をとられていたその時、
隣で妙な光景が繰り広げられていることに気づいた。女性が
ガリを使って海老に必死にしょうゆを塗っていたのだ。

 ……あ。原因は私か。

 私がガリを使っていくらにしょうゆをつけていた時、じーっ
と視線を感じていたのだが、そこだけ真似されても。これは
訂正してあげた方がいいんだろうか。しかし私と女性の間に
はワサビが大好きな男性が座っている。どうせ訂正するなら
こっちも訂正してやりたい。でも英語でどう言えばいいんだ
ろう。ワサビがトゥーマッチだとかそういう言い方でわかっ
てもらえるんだろうか。

 そんなことを考えていたら、店を出なければならない時間
になった。ずっと隣の2人に気を取られていたので、最後の
2皿は何を食べたのかよく覚えていない。
 「ごちそうさま」と言って席を立ち、皿の数を数えてもら
いながら横を見ると、今度はいなり寿司にガリでしょうゆを
塗っているところであった。あぁ。

 罪悪感のようなものが私をじんわりと襲った。あの時、私
がイクラじゃなくてマグロとかを食べていたら、こんなこと
にはならなかったであろう。運命のいたずらだ。ちょっと話
大きくしすぎだけど。

 早めに誰か訂正してやって欲しい。英語が得意で寿司通の
お客さんと、どこかの回転寿司で隣り合わせになりますよう
に。そんな機会あるかなぁ。



2003年3月24日(月)
「仲良しの理由」


 先日、テレ朝アナウンサーの皆さんの公演に行き、楽屋に
おじゃました話を書いたら「どうしてそんなに知り合いが多
いのですか?」というメールをいただいた。

 地方局出身のアナウンサーとしては、確かに知り合いは多 
い方かもしれない。元々日テレ系の局にいて「ズームイン朝」
を担当していたので、日テレにも系列の局にもお知り合いが
たくさんいる。同様に、TBSにもフジテレビにもいる。
 テレ朝では、関東と一部の地方局でしか放送されなかった
のだが、早朝のニュースのキャスターをやっていた。「ラジ
朝」という名前で1年、その後「トップ!」と名前が変わっ
て半年、合計1年半お世話になった。

 今見てみたら、テレ朝のサーバーにまだ番組のHPが残っ
ていた。いつ無くなるかわからないので早速こちらをクリッ
クしてご覧いただきたい。

 …見ていただけましたか(強制)。自己紹介とか「裏トッ
プ」を見ていただけると、出演者同士とっても仲がいいとい
うのがおわかりいただけると思う。天気担当の中岡さんを除
いて、他の5人は全員テレ朝のアナウンサー。今はそれぞれ
に違う番組で活躍しているが、龍円さん、佐分さん、村上さ
ん、河野さんにとっては、この早朝番組が初めてのレギュラー
番組であった。

 私にとっても、初めての局、初めての人、そして初めての
メインと初めてづくしで、しかも朝5時過ぎから始まるニュー
ス番組だったので、本当のことを言うと自分のことだけで手
一杯だった。いろんな事にできるだけ早く慣れる必要があっ
て、最初の3ヶ月は本当に必死だった。

 しかし、私の初めてと、佐分さん(当時は石井希和アナと
2人でお天気担当だった)の初めては、初めての意味が全然
違った。
 なにせほとんど初めてテレビに出る状態だったのだ。早い
話がなんにもできない状態。もちろん、最初だからできない
のは当たり前で、でもできるようにならないと本人も番組も
先に進まないので、いろんなアドバイスをしたし、一緒に考
えた。多分、アナウンス部の先輩よりも話す時間が長かった
と思う。同じように、当時3年目だった野村さんや2年目の
龍円さんも、それぞれに悩みや不安を抱えていた。

 私は1冊のノートを用意して、その日のコメントや、季節
の話題、他の人に知らせたい間違いなどをみんなで書こうと
呼びかけた。
 野村さんは先輩として細かいアドバイスを書いてくれた。
龍円さんについては「今日の龍円さん」というコーナーを作
り、ナイスなボケを(本当に面白いのだ)忘れないように書
き留めた。佐分さんはよくうさぎの絵を描いていた。段々と
落書き帳のようになったが、みんなで面白がって書いていた。
そして、すっかり仲良しになった。

 1年後、今度は村上さんと河野さんが入ってきた。やはり
最初はなんにもできなかったし、いろんな悩みがあったけれ
ど、またみんなで楽しく朝ごはんを食べて、いろんな話をし
て、仲良しになった。みんな本当に素直で、性格が良かった
のだ。

 毎日2時に起きて、ニュースに没頭する毎日。番組に生活
のピークを合わせるため、ほとんど人と会えなくなったし、
生活のリズムを作るだけで大変だった。でも、一度も辛いと
思ったことは無かった。仕事が好きだったし、番組も好きだっ
た。そして何より、一緒に働く仲間が大好きだった。

 私が番組を離れることが決まって何日かして、朝ごはんを
食べている時に、佐分さんと村上さんにさりげなくその事を
告げた。佐分さんは絶句して涙を流し、村上さんは真っ青に
なった。そういう姿を見ていたら私もじーんときたが、泣か
ないでこう言った。

 「一緒に仕事ができるのもあと少しだから、残りの時間、
この1年半でできるようになったことをちゃんとやって辞め
たいんだ。僕も頑張るから、2人とも頑張ろう」

 2人とも、とても真面目な顔になった。他にも、仕事には
こうして時々区切りが来るけれど、その度に「ここが成長し
た」とちゃんと思えるように仕事を積み重ねて行こう、とか
朝っぱらから大真面目な話をした。

 仲良しといっても、お友達というのではなく、一緒に番組
を通して成長できた同志という方が近いと思う。だから朝っ
ぱらからこんな真面目な話ができるのだ。私にとっては、自
分が大変だった時期を支えてくれた、大切な仲間だ。

 私が今でもテレ朝アナの公演を観に行くのも、アナウンサー
の皆さんが今でも私を出迎えてくれるのも、お互いに大切な
仲間だから、である。
 もし私がどこかで同業者と食べたり飲んだりしていても、
それはいわゆる合コンとは全然違うのでご理解いただきたい。
なんだそりゃ。



2003年3月10日(月)
「大当たり〜」


 ウフフフフ。アハハハハ。

 今日も朝から富津へ。今日は潮干狩りではなく、水産研究 
所の方にお話を伺ったのだが、予定より早く東京に戻ってき
たので、午後のロケまで2時間ほど時間が空いてしまった。

 一人で食事をして、本屋さんをブラブラしたものの、どう
にも時間が余ってしまったので、ものすごく久しぶりにパチ
ンコ屋に入ってみた。この前いつ入ったか覚えていない位に
久しぶりだ。

 私は賭け事をやらない。嫌いだとかそういうのではなく、
向いていないしあまり興味も無いのでやらないだけだ。せい
ぜい宝くじを買うくらいで、競馬は馬を見たくて一度行った
きりだし、パチンコは今日のように、他にやることが無い時
にふらりと入ってみる程度だ。

 さて、ものすごく久しぶりに入ってみたら、その店にはお
客さんがあまりいなかった。なんだか不安がよぎったが、も
ともと時間つぶしだから別にいい。
 最近はカードを買わなければならないというのは知ってい
たが、私の中でのパチンコ限度額は千円、盛り上がったら2
千円だ。そんなんじゃパチンコと言えないのはわかっている
が、それ以上使うぐらいなら、お昼ご飯を奮発すれば良かっ
たと後悔しそうなので限度額は守りたい。

 そう思って店内を歩いていたら、現金でもできる機種があっ
た。よし、これにしよう。
 でも、この中のどこに座ったらいいのかが全然わからない。
何の勘も働かない。仕方ないのでとりあえず座り、千円を入
れてハンドルを握った。

 その1分後。リーチがかかったと思ったら、画面に大きな
バッテンが出て、大変なことになった。以前にも一度、フィー
バー(今もこの表現でいいんだろうか)状態を体験したこと
はあるが、今回はなかなか止まらない。あっという間に大き
な箱がいっぱいになり、お兄さんが箱を換えてくれた。

 私の数少ないパチンコ体験の中で、この大きな箱が玉でいっ
ぱいになったのは初めてだ。わーい、と思っていたらすぐに
リーチがかかり、さっきは気づかなかったのだが、画面にお
姉さんが降りてきた。



 お姉さん。右手でハンドルを握りつつ左手に携帯を持って
撮っているのでブレているが本人は必死だ。

 またあっという間に箱がいっぱいになったが、今度はお兄
さんが見当たらない。そのうち玉が詰まって出なくなった。
いかん、こんなラッキーな時に。ポロポロとこぼれる玉を手
でかき集めつつ必死に周囲を見回すと、上に「呼び出し」と
いうボタンがあるのに気づいた。押したらすぐにお兄さんが
来て、また箱を取り替えてくれた。

 ホッとしていたら、今度は生きている本物のお姉さんが
「お飲み物はいかがですか」と近づいてきた。なるほど、当
たっている人のところを狙ってやってくるのか。しかし私に
は飲み物など飲んでいる余裕は無かったので「け、結構です」
と断った。
 断った途端に「リーチ!」という声がして、画面にはまた
お姉さんが降りてきて、また箱がいっぱいになった。



 もう大変。結局大当たりは4回続いて終わった。30分、
必死だったが楽しませてもらった。

 今度はこれを交換しなければならない。でもこんな重いも
のを4つもどうやって運ぶんだろう。また辺りを見回すと、
壁際に小さな台車があるのを見つけた。なるほど、これで運
ぶのか。
 箱を積み上げ、ゴロゴロと押していたらお兄さんが飛んで
きて、後はやってくれた。なんだ、また呼び出せば良かった
のか。

 8012個、と書かれたレシートをもらってカウンターに
行った。これがいくらになるのかさっぱりわからないし、交
換所がどこかもわからない。「あのー、どこに行けばいいん
でしょうか?」と尋ねると、お姉さんは私の目の前に置いて
ある地図でめんどくさそうに教えてくれた。

 ドキドキしながら交換所へ向かった。私がもらったプラス
チックの板は、結局3万2千円になって返ってきた。ええっ?
千円が30分で3万2千円!? そんな事がこの世にあるわけ?
どうりでみんなパチンコにはまるわけだ。納得。

 私がパチンコに夢中になっている間に、テレ朝の小松アナ
が電話をくれていたのだが全然気づかなかった。気づいた私
はすぐに小松くんに電話をして、相手の用件を聞く前に「あ
のさー、千円が結局いくらになったと思う〜?」と自慢した。

 それから、さっき行った本屋さんでこれを買った。



 「類語大辞典」。面白い辞書だと思ったのだが6500円
もするのでちょっとためらっていたのだ。でも今なら余裕で
買える。だって、これ買ってもまだ2万5千円もあるんだも
ん。
 ウフフ。アハハ。全日空の当たり便に乗った時以来の「笑
いが止まらない」感じだ。

 これほどあからさまなビギナーズラックを、初めて身をもっ
て体験した。すごいなーパチンコ。でも、こんなことめった
に無いんだろうな。
 今日の感動と興奮を忘れた頃にまたやってみよう。今後パ
チンコをやるときには、常にビギナーとして臨むことに決定。

 最初のバッテンがダブルリーチで、その後の大当たりを確
変と呼ぶのを後で教わったのだが、今日の話、パチンコやっ
てる人には当たり前すぎて全然面白くないんだろうな。すい
ません。



2003年3月4日(火)
「野菜づくし」


 SKIPから、注文していた野菜のセットが届いた。

 ニンジン5本、キャベツ1個、ブロッコリー1個、寒じめ
ほうれん草3把。

 青い野菜が食べたいなぁ、と思って注文したのだったが、
先週ずーっと春キャベツの取材をしていて、毎日キャベツば
かり食べていた。うーむ。
 取材先で食べ、さらに家でも食べていたので、キャベツは
後回しにすることにした。

 とりあえずニンジンがたくさんあるので、ニンジンを食べ
よう。ちょうどこんな本を買ったところだった。


小林カツ代の
野菜でまんぷく野菜でまんぞく
     講談社+α文庫
 

 これ、料理の本だけれど文庫本だ。昔は写真が無い料理本
など買わなかったが、最近は写真が無くても大体加減がわか
るようになったので構わない。少々切り方が違っても、見た
目が違っても、おいしけりゃいいのだ。

 さて、ニンジン料理を探してみた。意外に少ない。ニンジ
ンのポタージュというのを見つけたが、うちにはミキサーが
無いので断念。結局ニンジンサラダを作ることにした。
 せっかくなのでもう一品作ってみよう。サラダ2品では飽
きるので、ブロッコリーとクレソンのソテーに決めた。

 作り方をご紹介したいところだが、勝手に載せてはいけな
いと思うので、できあがりの画像をお見せしよう。



 はい、こんな感じ。

 千切りにしたニンジンに、細切りのハムとかいわれ大根を
入れてドレッシングと和えるだけ。今日はせっかくなので、
生でそのまま食べられる寒じめほうれん草も入れてみた。
 ブロッコリーのソテーは、本当は最後にバターで炒めたパ
ン粉をかけるのだが、パン粉が無かったのでバター炒めにし
た。

 ニンジン、そのままでも食べられる位に香りがいいのだが、
だからといって1本まるまるは食べられない。でも、ドレッ
シングの酸味、かいわれの辛味、そしてハムを合わせると、
飽きずに食べられる。寒じめほうれん草は、そのまま食べる
とくるみのような香りがする。エグ味は全然無いのでサラダ
で十分いける。
 ブロッコリーのソテーもおいしかった。多分パン粉があっ
た方がもっと香ばしくいただけるだろう。

 難点は、ハム以外が全部野菜だということ。わかってて作っ
たんだけど、途中で肉が欲しくなった。やっぱり食事ってバ
ランスだ。

 明日はキャベツを食べよう。なんだかうさぎの気分。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 2時間後追記。

 ニンジンは4人前で大1本という分量だったのだが、私は
中の大くらいのニンジンを一人で1本近く食べた。結果、胃
にもたれてしまった。生のニンジンはそんなに消化が良くな
いので、食べるにしてもほどほどの量にした方が良さそう。

 なんかヘンなアドバイスだな。



2003年2月23日(日)
「おいしいものを食べよう」


 うわ、全然ここ更新してない。すいません。

 先月、ほぼ日の西本さんとSKIPのイズミさんに、かつ
しかFMで私がやっている番組のゲストとして来てもらった。

 じゃんけんに負けた西本さんが、近所のコンビニまで全員
分の飲み物を買いに行く様子を中継したり(リスナーの人が
コンビニにいて、西本さんはその人と買い物をした挙げ句に
スタジオまで連れてきた。面白かったぁ)2人にコントをやっ
てもらったりと楽しかったのだが、中でも、近所のスーパー
の野菜とSKIPの野菜を食べ比べてみる、というコーナー
がかなり面白かった。
 もう、本当に驚くほど違うのだ。

 この感じを、少しでも皆さんに味わっていただきたいと思
い(まぁ味わうのは無理だけど)当日のやりとりを文章に起
こしてみた。どうぞ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

今=今泉 イ=イズミ 西=西本
お=おかお 村=村上 こ=こんや
 
〜♪SKIPのテーマ
 
今   今日はSKIPのイズミさんに
    お越しいただいているのですが、
    せっかくだからSKIPのものが
    食べてみたいな、ということで
    果物を持ってきていただきました。
 
    (一同拍手)
 
イ   持ってきました。
    …ウソです。宅配便で送りました(笑)
 
今   何を送ってくれたんですか?
 
イ   イチゴと、りんご。りんごはサンふじです。
    あとネーブルオレンジ。
 
今   で、私もうちの近くのスーパーで
    サンふじとネーブルオレンジを買ってきたので
    今日は食べ比べをしてみようかと。
    じゃあまず、イチゴからいきましょうか。
    (袋を開ける)
    …あ、いい匂い〜!
 
こ   なんか今のちょっとわざとらしくない(笑)?
 
今   ホントだって、ちょっと匂いかいでみてー?
 
イ   ほんとに、この香りを
    ラジオの前の、にいるみな、みなさま…
 
お・こ (イズミさんの話を全然聞いていない)
    
うわぁ! いい匂い!!
 
今   …あのー、ラジオって2人以上同時に喋ると
    2人とも聞こえないのと、
    イズミさん全然ろれつが回ってなかったんで(笑)
    もう1回。
 
イ   (無駄にカッコつけて)
    いや、ホントにこの香りを
    ラジオの前の皆さんにお伝えできないのが
    残念ですねぇ。
 
こ   …どんなキャラなんですかそれ。
 
今   やればやるほど信憑性無くなるよね(笑)
    えっと、イチゴこのまま食べても大丈夫ですか?
 
イ   大丈夫です。
 
こ   じゃ一番おいしそうなのから食べよ。
 
イ   あー、まだまだじゃのう。
 
今   はぁ?
 
イ   これは、イチゴのつぶつぶのところまで
    赤いのがおいしい
んですよね。
 
こ   あ、そうなんだ。
 
イ   そこまで見て食べたら
    ステキだと思います。
 
今   えーと、この表面の
    種みたいに見える部分が赤いのが
    美味しいんですか?
    …あ、ほんとだぁ、赤くなってる。
    じゃ、いただきます。
 
一同  (イチゴを口に入れて)あ、甘〜い!
 
イ   中まで赤くなってるでしょ?
 
今   ほんとだ、中まで赤いですね。
    …いやぁ、甘いねぇ!
 
お・村 これ驚き!
 
今   ほんとに甘いねぇ!
    ちなみに品種は?
 
イ   「さちのか」っていうイチゴです。
    高知で作ってます。
 
お   これは練乳とか砂糖とかいらないよねー?
 
今   いらないいらない。
 
イ   プーヤオプーヤオ(不要不要)。
 
西   なんで北京語なんですか(笑)
 
今   イズミさん、わかんないからそれ(笑)
    それにしても、
    このイチゴおいしいねぇ。
 
一同  おいしい〜。
 
イ   (自慢げに)でしょ?
 
今   あっという間に食べちゃったねー。
    じゃ次、サンふじいきましょうか。
    これは切った瞬間に違いがわかりましたね。
    私の家の近くで買ったサンふじ、
    青森産だったかな?
    これはね、中に蜜が
    入ってないんですね。
    SKIPのりんごには入ってるんですけど。
    じゃ、うちの近所のサンふじから
    食べてみましょっか。
 
    (一同食べる)
 
今   …あ、でもこのりんごも、
    別にまずいりんごじゃないですね。
    私青森出身なんで
    結構りんご食べてますけど。
    
こ   普通においしいー。
 
今   じゃあSKIPのりんご
    食べてみましょっか。
 
イ   (挑発的に)食べてみて食べてみて〜。
 
今   こっちは種のまわりに
    たっぷり蜜が入ってるんだけど…。
 
    (一同食べる)
 
お   あ! 違う!
 
今   これ全然違うね!
 
村   なんか通販の番組みたい(笑)
 
今   なんかね、密度が濃いっていうか。
    さっきのりんごがスカスカって訳じゃないんだけど
    もっと実が詰まってるね。
 
お   噛むとりんごジュースが出てくる感じ。
 
こ   味が濃いねー!
 
今   これはおいしいねー!
 
    (一同サクサクと食べ続ける)
 
村   …なんかおいしくて黙っちゃうよねー(笑)。
 
こ   だって、スーパーのりんご
    ちょっと食べたけど、
    もう食べる気しないもん(笑)
 
西   それ正直すぎるよ(笑)
 
今   これはちなみにどこのりんごですか?
 
イ   青森です。
 
今   あの、見た目がつるつるきれいっていう
    りんごじゃないんですね。
 
イ   袋かぶせないんで。
    袋かぶせないと、見た目きたなくなるし
    傷だらけになるんですけど
    蜜は袋かぶせちゃうと
    入ってこないんですよ。
 
こ   じゃ何のための袋なんだ、って
    感じがしますけど。
 
今   やっぱり虫がついたりするし
    実を囲えばそれだけ
    見た目はきれいに仕上がるんだけど、
    見た目で選ぶかどうかっていうことですね。
    じゃ次、ネーブルオレンジ
    行きましょうか。
    これはちなみに
    チリ産って書いてありました。
 
西   アニータ!
 
一同  アニータ!
 
今   関係無いじゃん(笑)じゃあいただきます。
 
    (一同食べる)
 
お   なんか、酸味も甘みも半端…。
 
今   なんかね、ホテルの朝ごはんのバイキングに
    よく置いてある感じ(笑)。
    うまくもまずくも無いというか。
    じゃ今度はSKIPのオレンジ。
    …見た目、皮が薄いよね。
 
お   粒が揃っててきれい。
 
今   皮が薄いというより
    ぎっしり実が詰まってるんだね、これ。
    じゃあいただきます。
 
イ   はい、召し上がれ。
 
    (一同食べる)
 
今   …アハハ、違う、全然違う!
 
村   ホントだ、全然違う!
 
お   おいしーい!
 
今   ビックリするねぇ!
 
こ   なんか、酸味もしつこくないし。
 
お   甘さもしつこくないね。
 
今   ちょっとこれはすごいね…。
    
全般的に味が濃厚ですよね、どれも。
    実も果汁も全部詰まってるんですよね。
    すごい。
 
イ   やっぱり食べ比べをすると
    わかりますよね?
 
今   すっごくよくわかる。
    これ、値段的にはSKIPの方が
    ちょっと高いですよね。
 
イ   ちょっと高いかもしれません。
 
今   でもどっちを食べるかと聞かれたら
    SKIPの方を食べるよねぇ…。
    だって、今まで食べてたりんごって
    なんて味気無いんだろう
って思うもん。
 
こ   思う思う。
 
今   あのね、こないだ「はなまる」で
    サプリメントについて取材したんだけど、
    どんなサプリメントを摂ったらいいのか
    わからない、という場合は
    まず「マルチビタミン」っていう、
    ビタミンBとかCとかいろいろ入っている
    ものから摂りましょう、って
    言われたんですね。
    それが何故かというと、
    昔に比べて野菜全般の栄養素が減っていて
    大抵の人はビタミンが全部足りない状態なんだって。
 
一同  へぇ〜。
 
今   野菜の旬が無くなったでしょ。
    いつでも食べられるようにはなったけれど、
    その分栄養素が少なくなっていて、
    ニンジンのビタミンAなんて
    50年前の10分の1なんだって。
 
一同  ええ〜っ!?
 
村   食べても意味無いって感じじゃないですか。
 
今   それから、輸送する途中で痛まないように
    ちゃんと熟する前に収穫してしまう野菜も
    あるんですけど、
    そういうことでも栄養価が下がってしまう。
    だから、この野菜はビタミンCが多いとか
    そういうつもりで食べてても、
    思った程ビタミンが取れていない。
    マルチビタミンを摂った方がいい、というのは
    そういう理由だったんですね。
 
一同  へぇ〜。
 
今   ということは逆に考えると、
    同じ野菜でも、ちゃんと育った
    旬のものは栄養価が高いわけですよ。
    だから、野菜からビタミンをちゃんと摂ろうと
    思ったら、
    野菜を選ばなければならない。

    そういう時代なんですって。
 
お   なんか考えちゃうね。
    あたしたち何食べてるんだろう。
 
今   ほんと、野菜は同じじゃないなぁ、というのを
    改めて思いましたね。
 
こ   今すごい気になっちゃったんですけど、
    これを実家のお母さんに贈ろう、とか
    できるんですか?
 
イ   (たっぷりためて)もちろんできます。
 
一同  (笑)
 
こ   いいギフトになりますよね。
 
今   あぁ、ほんとにおいしかった。
    食べ比べは面白かったですね。
    ありがとうございました。
    えーと、イズミさん、
    SKIPの電話番号って覚えてます?
 
イ   はい。
    0120−379−831、
    「みなくる野菜」ですっ。
 
一同  アハハハハ。
 
今   なるほどー(笑)。
    皆さん、そちらに問い合わせてみて下さいねー。
    イズミさん、どうもありがとうございました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 どうかなー、ちょっとでも伝わると嬉しいんだけどなー。
でも決してオーバーに書いているわけじゃなく、本当に笑っ
ちゃう位に違うのだ。これはぜひ試して欲しい。

 ちなみに問い合わせ先の電話は、「みなくる野菜」の他に
0120−084−831「おはよー野菜」もあるそうだ。



2003年1月28日(火)
「運命的な出会い」


 それはまた次回、と書いてから12日が経ってしまった。
書く時間が無かった訳じゃないんですけど。すいません。
 えー、この前の日記と続く話なので、前の内容を忘れてし
まった人は(ほぼ全員でしょうね)ちょいとこの下を読んで
いただけると嬉しいです。

 さて。本を読もうと決意した私の目に最初に飛びこんでき
たのは「自殺って言えなかった。(自死遺児編集委員会・あ
しなが育英会編)」という本であった。どうしてこの本に運
命的なものを感じたのか。

 局に入って2年目の夏。ひまネタの原稿を書いていたら、
デスクに「受付に取材依頼の人が来てるから行って」と頼ま
れた。
 放送局にはいろんな人が、取材をして欲しいとお願いにく 
る。もちろん全部取材するわけではなく、ニュースバリュー
があるかどうかを考えてから、取材するかどうかを判断する。
そういえば、今クローン人間で話題になっている「ラエリア
ン・ムーブメント」の人の話を聞いたこともある。普通はちょ
っとお話を伺って、資料をもらってお帰りいただくのだが、
あまりの怪しさに個人的に興味が湧いたのと、その日たまた
ま時間があったので、異星人エロヒムのメッセージについて
聞いてみたりした。到底地方局のニュースで放送できるよう
な内容ではなかったのだが、私がたまたま最初に熱心に話を
聞いてしまったために、その人はその後何度も局を訪れるよ
うになった。「あの人熱心だねー」という話になったが、そ
の原因が実は私だ、というのは言えなかった。

 閑話休題。受付に行ってみると、来ていたのは「あしなが
学生募金」の活動をしている学生達だった。
 この募金の名前を知っている人は多いと思う。元々は、交
通事故で親を亡くした子供の為に始まった募金である。私も
名前ぐらいは知っていた。だが話を聞いてみると、交通事故
で親を亡くし、奨学金を受けた学生達が、病気で親を亡くし
た子供の為に募金をしよう、ということであった。
 交通事故で親を亡くした場合は、本人が保険に入っていな
くても、相手の自賠責保険である程度の(それだって十分で
はないのだが)お金を受け取る事ができ、申請すればあしな
が学生募金から奨学金を受けることもできる。でも、病気で
親を亡くした場合、亡くなる前の段階で治療費にかなりかかっ
てしまうこと、生命保険に全員が入っているとは限らないこ
と、などの理由で、進学を断念する学生が多い。そのことに、
理由は違っても同じく親を亡くした学生達が気付き、新たに
募金を始めようということになったのだ。

 私は片親の家庭で育ち、離れて暮らしていた父親も亡くなっ
たので、大学に行くだけのお金が家に無かった。私が通った
高校は進学校だったので、進学しない、という選択について
相談できる人はいなかった。いろいろ考えて、働きながら大
学に通うという事を考えたが、どういう道があるのかは全然
わからなかったので、いろんな資料をひたすら読みあさった。
友達が必死に受験勉強をしている時に、私が読んでいたのは
ありとあらゆる就職雑誌であった。

 地元の大学に行くとか、地元で就職するという選択肢はあっ
たし、親はそれを望んでいた。でも、友人の多くが東京の大
学に進学するし、できれば自分も、生まれた土地を離れて違
うものを見てみたかったので、それ以外の方法を必死に探し
た。大学に通うだけなら自分一人でもなんとかなったかもし
れないが、公務員になる(プロフィールを見ていただくとわ
かるのだが、私は高校を出て、国立国会図書館の採用試験を
受け、国家公務員になったのであった)ことを決めたのは、
青森に一人残る母親に何かあった場合、公務員であれば、未
成年であっても世の中の信用が得られると思ったからだった。
夜間の大学に行きたかった訳ではない。大学進学をあきらめ
たくなかったから、自分の力で行ける大学を探したのだ。夜
間だと学費も安い、というのも大きな理由であった。

 親にも相談せずにこの結論を出したので、母親とはかなり
もめた。18歳なりに必死に考えた事ではあった。だが母親
にしてみれば、今までずっと子供の為に必死に生きてきて、
いきなり子供が離れていくというのは大変なことだったと思
う。私にしてみれば、一旦離れても、一生親の面倒を見るつ
もりで公務員になるのだ。でもそれが親にはなかなか伝わら
なかった。
 それでも母親は母親なりに納得して、私の上京に際してで
きるだけの事をしてくれた。私は何もかも一から始めるつも
りだったので、母親が気遣ってくれることにいちいち「そん
なのいらない」と言っていた。そしてある日、あまりにそっ
けない私に対して、「お母さんがあんたのためにこんなにやっ
てるのに!」と泣きながら怒った。
 「そんなこと、そんなことわかってるって!」私も泣いた。
「この家に生まれてなかったら普通に大学に行けてたかもっ
て思った事もあるけど、今まで育ててもらった事は本当にあ
りがたいと思ってる。わがままなのもわかってる。でも、ど
うしても行きたい」今まで言えなかった事を、夜中まで泣き
ながら母親に訴えた。涙を流しながら私の言葉を受け止めた
母が最後に言った言葉を、今でもはっきりと覚えている。

 「あなたが死ぬ時に、産んでもらって良かった、って思え
るような人生をおくってくれること、それが一番の親孝行だ
から」

 この言葉にどれだけ救われたかわからない。その後私は、
公務員をやめてアナウンサーになり、さらにその会社も辞め
ているのだ。最初の決意よりも、結局は自分のやりたい事を
優先してしまっている。でも、いつも「産んでくれてありが
とう」という人生をおくろう、というのが頭にある。私が今
死んだとしても、母親には感謝してもしきれない。そして、
あの時あきらめなくて良かった、やれるだけの事をやろうと
頑張ってみて良かったと思う。あの時あきらめていたら、今
の自分は無い。

 ちょっと話が脱線してしまった。つまり、私は幸いに進学
できたのだが、それは18歳なりに必死に考えてそうなった
ということで、いろんな事情で進学できない人もたくさんい
るだろうな、というのはよくわかった。
 私は交通遺児でも病気遺児でもないけれど、一人でも多く
の人が「あきらめずに」進学して欲しいと思った。全員が大
学に行く必要は無いと思う。でも、行きたいと思う学生には
できるだけ行って欲しい。なので、この学生の取り組みを応
援しようと思った。イベントの取材なら50秒で終わってし
まうが、もっと長い時間で放送したくなったのだ。

 学生達の依頼はイベントの取材依頼だったのだが、私はこ
の取り組み自体を取材したいと思い、部屋に戻ってすぐ、デ
スクに企画を出した。「交通遺児が、病気遺児のために募金
を募っている」という内容の取材がこうして始まった。

 学生達の取材はスムーズに進んだ。今でもよく覚えている
のは、学生の下宿にインタビューしに行った時、その学生の
靴下に大きな穴が空いていたことだ。そんな靴下を履くほど
貧乏だったのか、たまたまずぼらな性格だったのかはわから
ないけれど、私はその穴がとってもいとおしくて(笑)取材
を終えた後、スタッフを全員帰して、学生達を連れて居酒屋
に行った。取材先の人にごちそうしたのはあれが初めてだし、
あんなに打ち解けて話したのも初めてだった。本当の意味で
の取材、というものを教えてもらった。

 だが、すぐに取材は壁にぶち当たった。実際に奨学金を受
ける人に取材を申し込んだのだが、ことごとく断られてしま
うのだ。あしなが育英会の方から何人も紹介していただき、
電話でお願いをした。自分もお金が無くてこういう経緯でア
ナウンサーになった、という話をすると、どの親御さんも真
面目に聞いて下さって、時には私を励ましてくれたりするの
だが、いざ取材となると皆躊躇してしまう。理由はこうだ。

 「いつも無理させているのに、貧乏だというのがテレビで
放送されると子供がいじめられてしまう」

 私は、貧乏だという理由でいじめられた事は無いような気
がする。でも、今になって思うと、「かわいそうな子供」と
いう扱いをされていた気もする。その時は別に気にしなかっ
たから構わないのだけれど、それを心配する親の気持ちはよ
くわかった。わかるだけに無理強いはできない。取材は暗礁
に乗り上げてしまった。
 育英会の方も同情する位に、ひたすら電話をかけ続けた。
そしてようやく、取材を受けてくれる方に出会った。学生達
のイベントを告知するというのが重要なことなので、イベン
トの前に放送しないと意味が無い。焦っていたので、とにか
く出かけることにした。

 取材を受けてくれたのは、4人のお子さんを持つお母さん。
ご主人を急性のガンで亡くし、お母さんも子宮ガンの治療中
で働けないという状態だった。大学進学がどうのこうの、と
いうより、高校生から小学生までの子供を抱え、全員を高校
に行かせてやれるだろうかと考えると眠れなくなる、と泣き
ながら話してくれた。
 放送で使ったのは20秒ぐらいだけれど、私はお母さんと
2時間近く話したと思う。当時夕方ニュースのキャスターを
していたので、昼間取材に出た場合はできるだけ早く局に戻
らなければならなかったのだが、お母さんの不安を聞く度、
自分の母親が何を考え、不安に思っていたかというのがわかっ
て、身につまされてしまって帰れなかったのだ。

 本当は、奨学金を受ける高3の娘さんにもインタビューを
するつもりであった。だが、あれだけ「いじめられる」とい
う話を聞くと、そこまでお願いする気になれなかった。大体
にして、お母さんが取材を受けてくれたことで、娘さんがい
じめられるかもしれないのだ。
 私はお母さんに「娘さんは大丈夫ですか?」と何度も聞い
た。お母さんは「娘を大学に行かせてくれる皆さんのためな
ら、この位大丈夫です。娘にも言って聞かせます」と言って
くれた。それで、私は娘さんに会わずに取材を終えた。

 今の私であれば、放送するにしても、娘さんに電話をして
事情を理解してもらったと思う。だが入社2年目の私は、そ
こまで余裕が無かった。お母さんのインタビューがとれた時
点でかなりギリギリだったので、すぐ編集作業に入ってしまっ
たのだ。

 放送そのものは、私の仕事の中で初めて大きな反響があっ
た。今度チャリティーコンサートをやるのだけれど、募金
の一部を贈りたい、という具体的なものまであった。それは
嬉しかったのだが、私の中ではずっと、娘さんのことがひっ
かかっていた。何日か経ったら、お母さんに電話をしてみよ
うと考えていた。

 放送の翌日。ニュースの放送を終えた私に電話が入った。
その娘さんからであった。受話器を取る前に、私は深呼吸を
した。放送してしまった事実をどう理解してもらおうか。そ
んな事の前に、いじめられていたらどうしたらいいのか。
 「はい、今泉です。お母さんにはお世話になりました。何
か大変なことがありましたか?」「いえ、ありがとうござい
ました。あの、お聞きしたいことがあるんですけど」「何で
すか?」「あの、どうやったらアナウンサーになれるんでしょ
うか?」

 彼女の質問の意味を理解するのに3秒ほどかかった。そし
て、不覚にも鼻の奥がツンとして、しゃべれなくなりそうだっ
た。私はもう一度深呼吸をした。

 「アナウンサーになる方法なんてないけれど、とにかく、
あなたが今やりたいと思った事を、頑張ってやってみて下さ
い。どんな経験であっても、アナウンサーという仕事につな
がると思います。あなたが今、アナウンサーをやりたいと思っ
てくれた、その気持ちを大事にして下さいね。電話をくれて
本当にありがとう」

 アナウンサーになって良かった、と思ったのはこれが初め
てだった。この時のこの気持ちのおかげで、今でもずっとこ
の仕事を続けていられるような気がする。それ位に忘れられ
ない経験なのだ。

 私が今でもこの仕事に就いている、その理由の大きな部分
を占めているのが、この「あしなが」の取材であった。だか
ら「運命的」だと思ったのだ。さぁ本を読もう、と思った時
に、私を一気に原点に戻してくれたのだから。



2003年1月16日(木)
「本を読もうっと」


 新年の「ほぼ日」の留守番番長企画、私が呼んでいただい 
たのはイズミてんちょー(仮)の日であったが、個人的に読
んで気になったのは田中宏和さんの日であった。

 田中さんは某大手広告代理店に勤める33歳、といっても
もうすぐお誕生日がやってくるので私とは同級生である。い
ろんな事に感心できる「感心力」のヒト、であるとイトイさ
んが紹介しているのだが、私が一番感心したのは本の紹介の
ところであった。

 何かで読んだのか、誰かと話したのかは忘れてしまったが、
「愛読書を聞かれる」とか「自宅の本棚を見られる」という
のは結構恥ずかしい、という話があって、それを聞いた時ほ
んとにそうだなぁと深く同意した記憶がある。
 今まで幸いに、愛読書は何か、などと尋ねられることもな
く生きてきた。しかし改めて考えてみると、これがとても難
しい。

 一番感動した本とか、繰り返し読んでいる本とか、あった
ような気もするのだが、それがどの本か、などと考えたこと
が無い。今までの人生で一番繰り返し読んでいるのは、多分
「ガラスの仮面」だ。引っ越しとか、本棚の整理とか、とに
かく何かしら手にしたら最後、3巻ぐらいはそのまま読み続
けてしまう。もう何度も読んでいて、亜弓さんの家の犬(し
かも一度しか登場しない犬)の名前がアレクサンダーだとい
うのを覚えている位なのだが、それでもいまだに手にしたら
最後、読んでしまう。それはそれですごい漫画なんだけど。

 だからといって誰かが私に「繰り返し読んでいる本は何で
すか?」と尋ねたとして、私がそのまま「ガラスの仮面です」
と答えたらポカンとするであろう。こういう質問は、その答
から何かヒントをもらいたくてする質問だからだ。漫画をバ
カにしている訳では決して無いが、私としてもこの答ではな
んだか違うしダメだと思う。

 田中さんが載せている「感心した本」の選び方に、私は結
構感心してしまった。大体にして英語の本がある。私は一応
英米文学部卒なのだが、大学に入ってみて、英語の文学にも
米語の文学にもそんなに興味がある訳でもないのがわかった
ので、卒業後洋書を読んだことなどほとんど無い。イングリッ
ド・バーグマンの伝記を読んでみた事があるが、読み切らな
いうちに翻訳版が出たのでそっちを買った。これでは何のた
めに大学に行ったのかさっぱりわからない。

 田中さんがすごいのは、選んでいる本がいろいろだという
ことだ。読んだ本を紹介するというのは、人によってはとっ
てもイヤミだったり偉そうだったりするのに、田中さんのは
全然そんな感じが無い。それどころかほんとに読みたくなる。
こういう本の紹介って、実はものすごく難しい。本をたくさ
ん読んでいるからできるというものではない。

 実は、私もほぼ毎日本は読んでいる。全然読まない日もあ
るにはあるけれど、毎日持ち歩いている鞄の中には大抵本が
あるし、サウナだとか家の風呂でも本を読んでいる。
 でも、私が読む本は、とりあえず仕事に必要な本、だとか、
かさばらない本、とか、電車を乗り過ごさずに済むくらいの
内容の本、であった。仕事の本以外は大体文庫本で、書店に
平積みになっているものからなんとなく選んでいる。文庫本
なら、寝ぼけて電車に忘れても、風呂で読んでふにゃふにゃ
になってもそんなに惜しくない。ちなみに年末ロケの帰りに
買ったのは、「AV男優(家田荘子)」と「実録!刑務所
(別冊宝島編集部)」という2冊の文庫本だった。
 なんでまたこんな本を、と思われるかもしれない。実は、
文庫本を買うようになったら本の買い方が変わった。読みた
いものがあればもちろん買うが、こんなの普段絶対読まない
よな、というものも、安いのでつい買ってしまうようになっ
たのだ。それはそれで面白いのだが、そうやって買ってみた
本には当たりはずれの差が大きい。どんな本でも読まないよ
り読んだ方がいいと思って読んではみるが、本棚に残そうと
思えるようなものにはなかなか当たらなかったりする。

 文庫本を買うようになったのには理由がある。引っ越すた
びに本の荷造りや荷ほどき、整理が大変だった為、本当に欲
しい本以外は文庫本になるまで待ってみる、というのをここ
2年ぐらいやっていたのだ。これは本の量の問題だけではな
く、会社を辞めてフリーになったら収入が不安定になり、お
金の使い方の優先順位が変わったというのも大きい。田中さ
んは毎月5万円分本を買うそうだが(いくら独身サラリーマ
ンだからといってもこりゃまたすごい金額だなぁ)私の場合、
会社を辞めたことで「5万円あったら何をするか」の順序が
変わってしまったのだ。
 とはいっても、文庫本中心に買うようになったら、冊数と
しては明らかに増えた。文庫になるのを待つというより、前
述の通り安いのでとりあえず買ってしまうことが多くなった
のだ。この2年、雑多に本を読んできたが、人に紹介すると
なると思いつかない、というのはこういう理由からだと思う。

 生活の中での優先順位というのは、その時々の生活状況に
応じて見直すべきだったのに、やってなかったなぁ、という
のを田中さんのおかげでしみじみと考えた。感心力の田中さ
んに感心しまくりであった。

 前置きが長くなってしまった。というか、おいおいここま
でが前置きかよ、と呆れた方も多いであろう。なのでもう少
しだけ書いて、続きは次回書くことにする。

 さて、田中さんに影響されて、本の優先順位を上げようと
決心した。別に誰かに紹介する訳でもないけれど、とにかく
いろんな本を読んでみよう、と思ったのだ。

 そう思って立ち寄った書店で、私の目に最初に飛び込んで
きたのはこの本であった。


自殺って言えなかった。
自死遺児編集委員会・あしなが育英会[編]

 本を読もう、と決意したら最初に出会った本がこれだとい
うのは、何か運命的なものを感じずにはいられなかった。
 何故この本との出会いが運命的なのか。それはまた次回。



2002年1月9日(木)
「ほぼ日スペシャル決定!」


 「ほぼ日」のおかげでいろいろなメールをいただいた。あ
りがたい事である。一応カウンターをつけていて、それはつ
けられるというからつけているだけの事であまり気にしては
いないのだが、気がついたら2万を超えていた。ひえー。い
つ超えたんだろう。

 そういえばいただいたメールに「今泉さんの出演情報は無
いんですか」と書かれてあった。言われてみれば、葛山信吾
さんのHP
にはそういう項目があった。こないだのかつしか
FM出演のことまで告知してあって、驚きつつ恐縮したもの
であった。
 葛山さんがいつテレビに出るか、というのは、葛山さんの
ファンであれば当然知りたい情報であろう。でも、私がいつ
テレビに出るのか、というのはそんなに大した情報じゃない
というか、HPでそんな事をお知らせするというのを今まで
一度も考えた事が無かった。

 じゃあ何でこんな事をやっているのかというと、トップペー
ジにある通り「この人誰?」と思ってネットで検索した時に
出てきたら、探した方もホッとするだろうな、と思ったから
である。ただ、そんな方がどれだけいるのかな、というのも
ずっと思っていた。だからちゃんとアクセスがあったり、メー
ルをいただいたりすると本当にありがたく思う(メールのお
返事がなかなか書けなくて申し訳ありません。今やっている
事が片づいたらお返事するつもりでおりますので、もうしば
らくお待ち、いや待たないでおいて下さい。忘れた頃にいき
なり届くかもしれません)

 そうやって考えてみると、せっかく「ほぼ日」に載ったり
したというのに、「ほぼ日」経由でいらした方のことなどあ
まり考えていなかった。イズミさんとの対談であれだけ偉そ
うな事を言っておきながら、新年早々私が書いている事といっ
たら杉本彩の話だ。まぁ杉本さんには何の罪も無いし、私も
好きで書いているからいいのだけれど、なんというか、ほん
とに商売っ気無いなぁと我ながら情けなくなる。

 商売っ気は無いのだが、面白そうなことは大好きだ。来週
の土曜のかつしかFM「サタデーマンスリーゴールデンファ
ンタスティックアワー どうにもとまらない」は、なんと!
「ほぼ日スペシャル」をやる予定である。こないだイズミさ
んに呼んでもらったので、今度はイズミさんに来てもらう事
にしたのだ。もちろんノーギャラで(笑)。ほぼ日のROC
K西本さんも来てくれるというので、お二人にいろいろやっ
てもらったり聞いてもらったりするつもりでいる。わー楽し
み。

 葛飾区近辺の人しか聞けないなんてもったいない。当日は
皆さんラジオを持って葛飾区へGO! ゴーって言われても
どこ行きゃいいんだかって感じですが。

思ったり、起こったりしたこと2002へ