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村上隆と知的財産権
投稿日時:2006年04月25日00:24
村上隆氏が、子供服メーカーを著作権侵害で訴え、和解金を勝ち取りました。ここでニュースになっています。村上氏の主張はここに記されています。
僕はこの件について、報道以上の情報をもっていません。そのうえでの印象論ですが、この事態は僕をたいへん戸惑わせます。
村上氏の美術活動の中心は、現代社会を満たしている商業主義的アイコンを借用し、パロディ化し、価値転倒を行うことにあります(と書くと左翼っぽいですが、現代美術はもともとそんなものです)。その戦略はアンディ・ウォーホルのオタク版アップデートとでも言ったもので、いままではおおむね有効に機能してきました。だからこそ僕は、ここ数年、「村上隆はオタクを搾取しているのに、どうして東さんは彼を支持しているのか」と非難されても、あまり耳を貸す気になりませんでした。村上氏の行動が表面的にどれほど商業主義的に見えたとしても、その全体はいまでも悪意あるパロディになっている、だからこそ彼の「搾取」は許容されるべきだ、そういう風に理解してきたからです。
ところがその彼が、知的財産権を盾にしてメーカーを訴え、和解金を勝ち取ったというわけです。僕はこの事態をどう理解してよいのか、よく分かりません。
村上氏は、上述のサイトで、「私が生きている現代アートの世界はオリジナルであることが絶対的な生命線です。一つひとつコンセプトを考え抜き、心血を注いで造形した,私の子供の様に愛し育てて来た作品達。まして「DOB君」の世界観は誕生させて10数年, ゆっくりと育てて来たものです」とコメントを発表しています。確かに、DOB君は村上氏の代表作です。そしてナルミヤの「マウスくん」はDOB君に似すぎているかもしれません。相手が美術家だからといって、無神経にデザインを借りていいわけがない。その意味では、村上氏が対価を求めるのは正当でしょう。いわゆる「知財強化」の流れにも合っています。
しかし他方で、彼のDOB君もまた、ドラえもんやミッキーマウスのハイブリッドなパロディであり、アンディ・ウォーホルの有名な「キャンベルスープ缶」の延長線上にある美術作品ではなかったでしょうか。そして、DOB君に限ったことではなく、そのような価値転倒があったからこそ、村上氏の(少なくとも一時期の)作品のデザインそのものが既存のアニメやフィギュアにどれほど似ていたとしても、それには独自の、つまり「作品」としての値段がついていたのではないでしょうか。たとえば、村上氏の代表作にはタイムボカンの爆発雲そっくりの平面作品がありますが、それはそういうものとして高い評価を受けている。そちらの話はどうなったのでしょうか。ウォーホルを尊敬し、自分のスタジオを「ファクトリー」と名づけ、弟子の代表作が某アニメキャラそのものだった村上氏から、「現代アートの世界はオリジナルであることが絶対的な生命線です」という言葉が出るのは、にわかには信じられません。
むろん、美術家もお金は稼がねばならない。その点で商業主義的でもかまわない。村上氏が六本木ヒルズのコンサルティングやCM出演でいくら稼ごうか、それはまったく気にならないし、むしろ後続の美術家を勇気づけるものとして歓迎です。
しかし、ここで問題なのは論理の一貫性なのです。彼の美術家としてのオリジナリティは、本来は、DOB君のデザインではなく、むしろ商業主義や美術の文脈の転倒というトータルな戦略にあった。デザイナーではなく美術家であるとは、そういうことです。というより、それが村上氏の主張であり、免罪の理由だったのです。美術家はコンテクストで勝負する、これが村上氏の口癖でした。
ところが、その彼がいまやデザイナーとして権利を主張している。少なくともそう見える。おそらく村上氏としては、デザインの借用そのものというより、自分のコンセプトに敬意を払わないままにデザインだけ借用された、そのことへの怒りのほうが大きかったのでしょう。それは分かりますが、それでもこの裁判はデザインの問題として理解されるはずです。著作権侵害で争うというのは、そういうことです。だとすれば、今後は、DOB君のデザインが本当にオリジナルなのか、商品としてどれほどの魅力があるのか、ほかの無数の商業主義的なキャラクターと同じ厳しい基準で検討されざるをえない。今回の和解で、DOB君の権利は救われたとしても、村上氏の特権的な位置は怪しくなったのかもしれません。
誤解を避けるため付け加えますが、僕は美術家は著作権を主張すべきではない、と言っているのではありません。造形のオリジナリティで勝負している美術家もいるでしょう。しかし、それが村上氏なので戸惑っているのです。
村上隆という作家を、僕は尊敬しています。それは、彼が「日本のオタクポップを代表する新しい美術家」云々だからではなく(あまりそうは思いません、というより、そんなキャッチコピーを真剣に信じているのは少数でしょう)、むしろ彼の活動がきわめてコンセプチュアルだからです。村上氏の戦略は、美術と市場という二つの世界の差異に基づいたものであり、現代美術のゲームに対する強い危機意識のうえに立てられています。村上氏には、美術家と同時に商売人の顔がある。その二重戦略は、ある視点からすれば搾取に見えるでしょうが(市場で売れないものを美術作品として高額で売り抜け、逆に美術界の評価を市場に持ち込んでまた儲けているのですから)、別の視点からは、そのような二重基準を作り出す現代社会への鋭い批判のように見える。その点で僕には、村上氏の活動は、現代美術を無自覚に再生産し、美術館に収まっている作家よりはるかに刺激的に見えてきました。しかし、搾取と批判のあいだは本当に紙一重です。
これは難しい問題です。僕は美術家の一部には、本来は著作権で守られているはずの市場のデザインを借用することが大幅に認められるべきだと思います。そうでなければ成立しない活動もあるからです。そしてそれは、いまは慣習で認められています。しかし、もしその当の美術家が、オリジナリティを根拠として知的財産権を全面的に主張し始めたら、そのような慣習は成立しなくなるでしょう。村上隆がメーカーを訴えることができるなら、アニメスタジオもまた村上隆を訴えることができるかもしれない。村上氏の主張には、そのような危うさがあります。
いずれにせよ、ひとつ言えることは(そして残念なことは)、このニュースを見て僕のなかでDOB君のオーラが消えてしまったことです。実は、僕の自宅のリビングには、DOB君の版画がここ数年かかっていました。僕にとってDOB君のシリーズは、村上さんの価値転倒の戦略を代表する作品だったからです。しかし、そろそろレイアウトを再考すべきかもしれません……。
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