IT & Economics
池田信夫 blog
拙著
おすすめの本
goo ブログ
| gooID: | |
| ブログの作成・編集 | |
gooおすすめリンク
| goo トップ |
| goo ブログ |
| goo ホーム(SNS) |
| 教えて!goo |
| goo メール |
| 無料 ブログ作成 |
| ランダムブログ |
| トレンドランキング |
|
|
携帯 |
携帯からもアクセス |
QRコード(使い方) |
最新の記事
| ICPF緊急シンポジウム「2.5GHz帯をどうする」 |
| 大江健三郎という「嘘の巨塊」 |
| ネットはクリエイターの敵か |
| Supercapitalism |
| コンプライアンス不況 |
| スパコンの戦艦大和「京速計算機」 |
| 2.5GHz帯の怪 |
| オークション理論とデザイン |
| 市場と法 |
| 次世代無線は仕切り直せ |
最新のコメント
| TKIP/ネットはクリエイターの敵か |
| 素人ですいません/ネットはクリエイターの敵か |
| 双子の片割れ/ネットはクリエイターの敵か |
| ななし/大江健三郎という「嘘の巨塊」 |
| 通りすがり山猿/大江健三郎という「嘘の巨塊」 |
| くまさん/ネットはクリエイターの敵か |
| ある視点/ネットはクリエイターの敵か |
| I田/大江健三郎という「嘘の巨塊」 |
| 鐵假面/大江健三郎という「嘘の巨塊」 |
| 安野/ネットはクリエイターの敵か |
最新のトラックバック
| 「初音ミク」をめぐるプロとアマの「差」 (専門家や海外ジャーナリストのブログネットワーク【MediaSabor メディアサボール 】) |
| 白洲次郎とは何者だったのか (12) (折り返し地点を過ぎれば人生下り坂) |
| アーティストもお客さんと共に育つ (Prayin’ for the ground) |
| 「ウェブ時代をゆく―いかに働き、いかに学ぶか」を読んで (shinyanakaoのよすがブログ) |
| 有望インディーズ系ミュージシャンが音楽業界関係者にアピールするネットマーケティングステージ (専門家や海外ジャーナリストのブログネットワーク【MediaSabor メディアサボール 】) |
| ウェブ時代をゆく 『書評』 (おもしろすぎるぜ 中国で農業) |
| 来るべき暗黒の日(2) 世界株安と円高再び フレディーマック・ファニーメイ・RMBSとナイトの不... (国家破綻研究ブログ) |
| ギガ口コミはむしろ広告業界に脅威か (佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン) |
| ネット配信 VS CD (つれづれコンサル) |
| 池田信夫 blog ネットはクリエイターの敵か (oryzaの環境備忘録) |
カテゴリ
ブックマーク
検索
プロフィール
| goo ID | |
| ikedanobuo |
|
| 性別 | 男性 |
| 都道府県 | 東京都 |
| 自己紹介 | |
| 上武大学大学院教授 学術博士 | |
カレンダー
| 2007年11月 | ||||||||
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
| 1 | 2 | 3 | ||||||
| 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | ||
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | ||
| 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | ||
| 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | |||
|
||||||||
過去の記事
| URLをメールで送信する | |
| (for PC & MOBILE) | |
大江健三郎という「嘘の巨塊」
15日の記事のコメント欄で少しふれたが、大江健三郎氏が11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイで、彼の『沖縄ノート』の記述について弁解している。それについて、今週の『SAPIO』で井沢元彦氏が「拝啓 大江健三郎様」と題して、私とほぼ同じ論旨で大江氏を批判しているので、紹介しておこう。大江氏はこう弁解する:
このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。
私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。「罪の巨塊」という言葉を読んで「死体」のことだと思う人は、彼以外にだれもいないだろう。『沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。『沖縄ノート』の原文には
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。(強調は引用者)と書かれているが、この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。「罪の巨塊」を「かれ」のことだと解釈するのは「文法的にムリです」と大江氏はいうが、赤松大尉が自分の犯した「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで・・・」という表現は文法的にも意味的にも成り立つ。というか、だれもがそう読むだろう。では大江氏のいうとおり「罪の巨塊」=「死体」と置き換えると、この文はどうなるだろうか:
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい死体のまえで・・・これが「文法的にムリ」であることは明らかだろう。「死体をつぐなう」という日本語はないからだ。さらにcorpus delictiは、彼もいうように警察用語で「他殺体」のことだから、この文は正確には「あまりも巨きい他殺体のまえで・・・」ということになる。その殺人犯はだれだろうか。井沢氏は「自殺した人に罪がある」と解釈しているが、これは無理がある。Websterによれば、corpus delictiは"body of the victim of a murder"と他殺の場合に限られるから、犯人は「なんとか正気で生き延びたい」とねがう「かれ」以外にない。つまり大江氏自身の解釈に従えば、彼は(自殺を命じることによって)赤松大尉が住民を殺したと示唆しているのだ。事実、大江氏はこの記述に続いて、「かれ」を屠殺者などと罵倒している。
このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。
| 前の記事へ | 次の記事へ |
こんなものを載せてる朝日が恥をさらしているのは、いつものことですが、ただ呆れるばかりですね。日本の裁判の質が気になるぐらいでしょうか。
http://japan.techinsight.jp/2007/11/200711221525.html
この場合、本人も事務所も謝罪している分だけ、大江氏と岩波書店よりましです。彼らが口先で唱えてきた「人権」や「ヒューマニズム」の偽善性が、根底から問われているのです。だからこそ、彼らは絶対に非を認めないのでしょうが。
「121号」とは、日本人が忘れてはいけない「米議会下院・決議121号」のことだ。
隼・英字チームは「慰安婦決議の嘘」を出版するスタートラインに着いた。巻頭文を池田信夫先生にお願いしたい。やはり、このエントリのように、5000字以内(和文)の、詐欺師マイク・ホンダが読んでも明快なメッセージをお願いしたい。英訳は伊勢がする。
認めれば、いくらか良心があるというものだ。人を文書で「殺人犯」と書いて、無罪で済むのでしょうか? スエーデンのノーべル賞アカデミーは、この裁判をどう考えるのでしょう?
隼速報に、「謎解きゲーム」「出版計画」を載せました。http://falcons.blog95.fc2.com/
勇気ある(?)反論にお答えして以下簡潔に。
(祭りの予感がしますが)
誰が読んでも、
赤松大尉=罪の巨魁=屠殺者
と読めてしまうから今問題になっているのではないでしょうか?
しかも、大江氏は日本語を使う作家です。弁解できないでしょう。
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html
曽野氏も、そんなことは書いていない。「それほどの確実さで事実の認定をすることができない」(『集団自決の真実』p.296)と書いただけだ。こんな簡単な事実確認もしないで、はてなブックマークに「死ねばいいのに」というコメントをつけることこそ「無謀な誤読」だ。これは規約に違反する「犯罪の教唆」として事務局に通告した(もう証拠は保全したよ)。
君は、こういう低級なコメントをつけてくる常習的なストーカーだ。このコメントを訂正して謝罪し、ブックマークを削除しない限り、次の段階の行動をとる。
いや、ごめんなさいすればまだ良いのですが、絶対にしないところは頑固なのか商業性が無くなるので出来ないのかは知りませんが。「過ちを改めず。これを過ちという」
20世紀の遺物世代はきつい世の中ですよね。「歴史」として語られる世代ですから。
あと日本語は文法的に誤魔化しが効くので、誤魔化しが難しい英文で大江健三郎氏がこの本を書くとどうなるかが見物です。外語訳できない文章は基本的に悪文だと思っています(文学除く)。
も訴えた方が良いですよ。
「君は訴状を読んだのか。」とのことですが、この点に関しましては、
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/
を読まれたのかどうかを、私のほうから問いかけさせていただくことで回答に代えさせていただきます。
【関連】
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/398325
こちらのほうが読みやすいかと存じます。
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
こちらもあわせて。
> これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。
(曽野綾子氏の発言)
本訴訟において、曽野綾子氏の「ある神話の背景」などの大江批判が大きな影響を持つことはご存知の通りでしょう。大江氏の発言は、本訴訟の底にある、この曽野綾子氏の読解に対する反駁であるという文脈を無視できないはずです。
ノーベル文学賞はその作品群を対象に与えられるものですから、本人の資質とは関係がないはずです。
薬物中毒者、禁治産者、犯罪者----優れた文学作品を書いた作家本人は不道徳という例はたくさんあります。
(何十万というゲルマン人を殺したカエサルの「ガリア戦記」という例もある)
コメントのいくつかにノーベル賞にふさわしくないという主旨のものがありましたので、敢えて書いてみました。
「死ねばいいのに」というタグについてはどう考えるのか、答えろ。
荒々しい言葉を言うな 怒りを含んだ言葉は苦痛である 報復が汝の身に至るであろう。
きちんと池田氏に反論すればいいのに他人様のブログのコメント欄を使ってのこうした毀損行為はまわりの共感を得られないと思います。
山崎氏の文章を読むと『文芸評論家』という割に文章が猥雑で非論理的です。多分無名のまま一生を終わられると思いますが、これでは氏が弁護される大江氏や岩波書店が少し気の毒な気がします。
「罪の巨塊=赤松大尉」とリテラルに書いてある場所というものの存在が、私の立論に必要ないことは一般的な普通の日本語読解能力があればご理解いただけることと存じますが。
訴訟の原点に、曽野綾子氏の著作や各方面での発言があり、大江の反論は、それを下敷きとした「罪の巨塊」解釈に対する反論なのですから、その文脈を無視しての批判はおよそ建設的なものといえないのではないのではないのかといいたいのですがごりかいいただけないでしょうか?
曽野綾子女史が「罪の巨塊=赤松大尉」と読み取ることが可能な発言をしていることは、すでに引用したとおりです。
>「死ねばいいのに」というタグについてはどう考えるのか、答えろ。
一種の作品であるエントリーのほうで、どのような暴言を投げかけられれも感情は抑制できますが、対話モードでこれでは、貴兄の血圧が心配になります。
品の悪い冗談ではあると考えてはおりますが?それほどご不快だというのでしたら、それは申し訳ないですね、としか言いようがありません。
【参照】
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%A4%CD%A4%D0%A4%A4%A4%A4%A4%CE%A4%CB
http://www.news.janjan.jp/living/0705/0705155553/1.php
こういう流行語が不快だという年配の方の意見は尊重したいとは思いますが、全く使うなといわれるとやや応答に困ります。
そして、ノーベル文学賞! 不可解なり、と思った。
彼は、この現状をどうするつもりだろうか・・・
私は命令がないのに自殺してしまうその空気と言うかそう言ったものの方が恐ろしいと感じたのですがそうは思わない人が多いようですから。
戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」は有名だが
その前節の「愈々奮励して其の期待に答ふべし」は語られない。
自決は期待にこたえたのか?
こんなことも書かれている。
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」
無茶苦茶だが他の部分を読んでも自決せよ、と言っているとは思えない。
(私は死ぬまで戦え、と言っている様に思える。どの道ひどいことに変わりはないが…)
戦陣訓は日本の死生観やその場の空気でさらにおかしな方へいってしまったのだろう。
真実に目を向けなければ再び同じことが起きるであろうことを理解できない人が多い。
>(評論家として)三流どころか査定外。
何の根拠もなしに断定的に語ることが多いし、他人を罵倒する言葉も多い。
品位にかけている。
当時の慶応文学部なんてバカでも入れたはず。
> 私の立論に必要ない
Unknown (Buyobuyo) さんの投稿より
2007-11-28 09:08:02
> 大江が問題としている部分は、訴えている側が、
> 「罪の巨塊」=赤松大尉と読んだところだったはずで
「罪の巨塊=赤松大尉」とリテラルに書いてある場所がなくてもこの投稿が成り立つんですか?
#私はこれのことかと思ってました。
「沖縄タイムス 2007年11月10日(土) 朝刊 1・26面」
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200711101300_01.html
--------------------
原告側は反対尋問で、「沖縄ノート」の記述の解釈や、根拠について詳細な説明を求めた。
「罪の巨塊」という言葉で、個人を断罪しているのではないか。作家・曽野綾子さんが著作「ある神話の背景」などで「沖縄ノート」の記述を批判しているのと同様の主張を尋問でぶつけた。
--------------------
ただ私は
赤松大尉が「罪の巨塊」を犯した、と言う風に読みました。
「罪の巨塊」=赤松大尉だとまたも誤読しそうです。
それをフィクション並にかいてしまったから、このような事態を招いたのでしょう。
フィクションでも山崎豊子のように、限りなく現実に近いものもありますが、沖縄ノートのように裏取りが不十分なものはノンフィクションの価値も低いが、文学的価値も低い要に思います。
大江氏の小説も少し読みましたが、好きにはなれませんでした。
私は両氏に礼節を求めたいのですが、山崎氏のこの態度を強く批判したい。他人を基地外だなんだと罵る前に、誰かに議論を求めるそもそもの資質に全く欠けている人間だと思う。取り巻きに囲まれてシャドーボクシングで俺ツエー! とかやっているそこいらのチンピラと同レベルでしょう。
「死ねばいいのに」については、はてなの返事をみて、こちらの対応を考える。こういう事件が何度も繰り返されているので、今回は問題を根絶するまで徹底的にやる。
純文法的に言えば、目的語は明らかに「つぐなう」の前にある「それ」であり、では「それ」とは何かといえば、その後に出て来る「あまりも巨きい罪」を先取りして前に持ってきた強調法だと思う。後の「巨塊」は文学的表現としての累々たる幻影の死体の山であろうとなかろうと目的語「あまりも巨きい罪」を強調する表現法と解するのが一般的だろう。
つまり、「あまりも巨きい罪」を更に「巨塊」と擬物化することで並列させ、強調する修辞表現だと思う。
とすると、「巨塊」を死体とするのは文学表現としてもおかしい。「罪」を擬物化して死体とするのは、それこそあまりに無理がある。なぜなら、死体は被害者であり罪はないからだ。
この態度からして、意見が論理的かどうか以前に人間として色々なものが欠けてる気がしますね。日本の左翼の行動原理は自分が持っていないものを持っている人々に対するルサンチマンで成り立っているので、粘着的で自意識過剰、そして品位に欠けていることが多い気がします。大江氏もその同族です。
ここに粘着している某も似たようなもので、ノーベル賞ばりの権威がない代わりに、支離滅裂な駄文を投稿し続けてるのでしょう。
大江氏の言うように「罪の巨塊」=「死体」というのなら、「あまりも巨きい罪の巨塊」は「あまりも巨きい」+「罪の巨塊」と分解しなければならない。もし、そうなら「あまりも巨きい」は「罪の巨塊」を修飾していることになる。これはいくら何でも大作家の文章としてはへたれ過ぎる。「巨塊」は巨きいから「巨塊」なのだから、屋上に屋を架す、馬から落馬するの類の小学生並みのお粗末な文章ということになる。どう見ても後付の下手な言い訳なのは明らかだと思える。
大江氏の文章は雰囲気で読む文章で、論理的には多くが支離滅裂です。だから、大江氏の裁判での反論・証言も支離滅裂です。意図的なのかな?とにかく、裁判でそれがうまくいくかどうか、つまり吉と出るか凶と出るか。
この問題で、大江氏は『鉄の暴風』などを参考にして、守備隊長が出した軍命によって集団自決が起きたと言っていたわけです。そして「イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と言っていたのです。
でも、実際は自決命令どころか、赤松氏も梅澤氏も逆に「自決するな」とか、自決を制止する方向であったことが明かになっています。
例えば、自決しなかった島民を命令違反で殺すどころか、集団自決を知って「なんてはやまったことを」と嘆き悲しんで逆に衛生兵を派遣して治療にあたらせています。
事実のベクトルは逆なんです。それが知られてきて、『鉄の暴風』を参考にして書かれた『沖縄県史』や家永三郎『太平洋戦争』さえも、書きかえられて軍命説を取り消しています。
しかし、今回の大江氏は、自分の書いた文章は赤松氏らの守備隊長に対してのものではない、だから赤松氏らへの名誉毀損にはならない。という論法で逃げようとしているようですね。
大江氏も、文章を書く人間の責任として事実は事実として素直になるべきだったのですよ。
大江氏は柳美理氏の裁判の陳述書で次のように述べています。
「不愉快にさせたなら、書き直すべきであり、それで傷つき苦しめられる人間をつくらず、そのかわりに文学的幸福をあじわう多くの読者とあなた自身を確保されることを心から期待します」
上の文章を美しいと感じるか、いやらしさを感じるか。私は後者です。好みというか、こういう文章はあまり好きじゃないですからね。もっとも、もし別の人が言ったなら感じ方も多少は違うかもしれませんが。
人間は一部の職人と一部の科学的思考をもった人間しか残念ながら信用ができません。日本の文学者の恣意的な解釈は伝統的なものです。そもそも日本語の文法も論理性に英語に比べればかけています。だからつけこまれます。
しかし、フランスの哲学者も造語を作り出したりしますがここまでの無法者はほとんどいません。私の印象ですが日本の文学者は自分のイデオロギーや信念でもって文法や意味解釈を
捻じ曲げても屁理屈をつけて表現します。
たとえば、かつては共産国を賛美したり途上国への移民を賛美したりと新聞メディアでもやりたい放題です。外国メディアの解釈も日本人の英語力のなさを逆手にとって恣意的な解釈の
オンパレードです。つまり、日本の文字メディアに携わる人間はすべて信用が著しくない人間ばかりだという認識が残念ながら知れば知るほどわかるということです。
自称文藝評論家が慶應文学部だからバカっていってる人もいるけど、東大文学部の大江も支離滅裂だから、これは一流大学でも文学部は論理性を欠いてるってことだろうな。奴らはレトリックに酔うから。自称氏なんか「哲学や文学が分からないやつが経済を語るな」ですから・・・有名無名は問わず、文藝評論家や文学者系の連中は論理性を欠いているにも関わらず社会問題や経済問題で床屋政談を繰り広げ、それをバカな大衆が「知識人」のご信託としてあがめる構図がかつてあった。吉本隆明とか柄谷とかもそうでしょ。ま、無学な理系学者の社会論「国家の品格」も困り者ですが。あと、自称氏はプライドが高いんだから、地雷を踏むよといったら本当にそうなったじゃんw
buyobuyoも奴なんだから「徹底的にやる」なんてのはやめたほうがいい。社会の底辺でルサンチマンを抱えている奴らはブログで著名人にケンカを売るのが「癒し」の一つなんだから。
>赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071023/edc0710230343000-n1.htm
私もこの「罪の巨塊」という表現は行為として捉えたので、「罪=命令」「巨塊=集団自決」と解釈してました。すると、「隊長の命令による集団自決の死体の山の前で、なんとか正気に〜」と読めます。一応、大江氏の説明も成り立ちます。
ところがそうなると「〜つぐなうには、」を受ける文章が無くなるので私は非常に変な文章だと感じていました。
一方、「つぐなう」を生かす文章だと、「人間としてそれをつぐ なうには、あまりにも罪が大き過ぎるが、かれはなんとか正気で〜」と解釈できます。すると原文の「まえで」という表現が不明になります。
要するに非常に”悪文”だという事です。
どちらの解釈にしても「罪」を犯したのは「かれ」だと書いているのですから、十分、名誉毀損に当たります。
こんな馬鹿馬鹿しい論点そらしを法廷でやっているということだけでも、大江氏は「有罪」です。
「かれ」が「日本軍のタテの構造」のことであって特定の個人をさしたものではない、という弁解も成り立たない。たとえば次のような一節があります:
<かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう。(『沖縄ノート』p.211)>
ここで「屠殺者」と呼ばれる「かれ」の「甘い涙」や「歪んだ幻想」というのは、きわめて個人的な内面の表現であって、日本軍の組織にも構造にも大江氏は言及していない。赤松大尉という個人が住民を「屠殺」したと断じているのです。屠殺者というのは、IMEの辞書でも出てこない差別語で、きわめて強い表現です。名誉毀損は助からない。しかも「罪の巨塊」が「他殺体」の意味だとすれば、ここでも赤松大尉を殺人者と断定していることになる。大江氏の弁解は、みずから墓穴を掘っているのです。
現在の「空気」なら書き得ない表現でしょう。ノーベル作家の筆を滑らせるほど「空気」とは強いのでは。
訴える側も、現在の「空気」なら勝てると踏んで、敵対イデオロギーの象徴的作家を引きずり降ろすべく頑張っているのでしょう。
赤松氏や大江氏を叩くより自覚すべき事があるはずです。「空気を読まない裁判官」は立派ですね。厳正な裁判を期待します。
捻じ曲げても屁理屈をつけて表現します。
たとえば、かつては共産国を賛美したり途上国への移民を賛美したりと新聞メディアでもやりたい放題です。
彼らは自分たちを「神」とでも思っているのでしょう。無責任な言論が社会にどんな悪影響を及ぼし、如何に多くの人々の運命を狂わせるかということなど、全く思考の外なのでしょう。文壇という「オリュンポス」の住人である彼らにとって、「下界」の民衆は奴隷や道具以上のものではないのです。
あゝ、あの虻や蜻蛉(とんぼ)を悪戯少年(いたずらこぞう)が扱ふやうに、吾々人間をば神さまが扱はっしゃる。
(シェークスピア『リア王』坪内逍遥訳)
慶良間や座間味で自決があったのかなかったのかについては、一方の訴状がいかに書こうと歴史の問題であって、
問題が問題だけに、本人がいかに「命令してない!」と言おうとも説得力は私にとってはありませんね。
歴史学会においても肯定論否定論両方あるわけで、「既に証明されています」というのは一方当事者が言ってるに過ぎない。
というより、ハッキリ言って証明のしようがないだろと思います。
そういう意味で大江氏の記述が断定的過ぎる側面はありますし、違うかもよ、という批判はありうると思います。
しかし、曽野氏が「ファシズム」や「軍国主義」という言葉を使わず、「空気」という単語で述べられるのには隠れた意図を感じますね。
現在の沖縄にはまだガマから生還した方がご存命の場合もあり、日本軍国主義への拒否感情も当然あるわけですが、それを「異様な空気」とする点も逆に異様さを感じます。
「諸君!」という雑誌との関連も、その政治的立脚点がどこにあるかを考えれば勘ぐってしまいます。
ここで第三者たる私たちがはっきりさせておかなくてはならないのは、日本軍による命令があった場合もなかった場合もあろうけども、
人が次々と自ら死を選ぶという異常事態が起こったのは、明らかに強烈な人権抑圧のファシズム体制によるものであるという点ではないですか。
知性の未熟なネット右翼イナゴ?の子ども達が、
「大江氏のその部分が誤りだったと訴えられている」=「日本軍国主義はやっぱりまちがっちゃいなかった!」
と安易に解釈しがちなのが気になります。
原告:罪の巨魁(赤松はとんでもない罪悪人)と書いてある
大江:罪の巨塊(大きな罪)と書いてあり、誰がとは書いていない
ということなのではないですか?証人尋問でも梅沢氏たちはそう認識していると答えたように思います。ここで問題は
A:原告がなぜ名誉毀損だと認識しているか?
B:実際に出版された本の記述と、それが一般的にどう解釈しうるか?
C:裁判所がどう判断するか?
の3点だと思う。判決の出ていない現在、Bの点では、大江健三郎は沖縄戦での軍の行動全体を批判したのであって、個人を批判したのではない。というのが新聞などの日本人の多数の見方だと思います。
確かに大江氏の文章は難しい。池田さんのブログでは屠殺者と書いてあるように思えますが、大江氏の朝日新聞の記事を読んだ後では、これは赤松氏個人を指している訳ではないのはわかります。池田氏がメディア論の専門家であるなら文法解釈ではなくどのように受け取られているかの分析の方に期待したいですね。出版されて相当年数がたつ訳ですから。
戦時中あれだけ、庶民たちがメディアが日本軍部を連合国に対して戦争するようにけしかけたということもあれば、いーや、むりやり日本軍が庶民をメディアを騙して戦争にいかせた。
だいたい後者が多いね。戦争に負けた後の論調、戦後民主主義教育、特に歴史教科書に載っていることは。
そして冷戦前は前者の意見を学会でいおうものなら、問題になってレッテルをはられたり追放されたりしていた。
だいたい日本のみを極悪非道扱いして、原爆をおとしたり、東京大空襲だって軍の施設を攻撃したわけではなく、罪のない人間に対する大量虐殺以外なにものでもないこのような発言をするだけで、軍国主義を復活させようとする発言だとか、日本が悪いからこのようなことをされたとか、このように言論の自由なんてあったものじゃないということね。
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません