吉田勝二さん(75)=長崎市片淵2=にとって先月9日は2度目の忘れられない日になった。
同市の桜馬場中学校に招かれ、卒業生が吉田さんの被爆体験を基に作製した絵本「私たちが伝える被爆体験」を贈呈された。生徒たちの朗読を聞きながら、報われた気がして「伝えてきてよかった」と涙を流した。
吉田さんは13歳の時、爆心地から約850メートルの地点で被爆。その体験を同校で05、06年の8月9日に語った。被爆直後の惨状に加えて、体に、そして心にも深く刻まれた「傷」についても--。
被爆地を見ることが出来たのは、実は45年8月9日の1日だけ。後は顔がやけどではれ上がり、目が開かなかった。顔の右半分は皮下組織が破壊され、大村市の病院に入院。ももの皮膚を移植したが、失敗を重ね3回目でようやく成功した。
傷跡がまざまざと残った。退院し長崎に戻る電車で、散髪に行った理髪店で、奇異の目にさらされた。散歩をすれば近所の子供が顔を見るなり泣き出した。食料品卸会社に就職した後も差別は続き、自宅にこもった。
その度に、母カホさんは「外に行ってきなさい」と厳しく、時に優しく促した。会社で上司に差別され、帰宅して泣いている時も「逆の立場になったら、あなたが部下を差別しない人になりなさい」と諭された。いつしか「このつらさを乗り越えよう。被爆者であることを堂々と示して、戦争の恐ろしさを伝えよう」と思うようになった。
95年4月、修学旅行で来た福岡県夜須町(現・筑前町)の三並小に体験を話した。感動した児童らは絵本を作った。予算が乏しかったらしく、栽培した花を売って資金を作り、印刷は町役場のカラーコピー。送られた5冊がうれしかった。
はるばる同校に招かれ給食をともにした。席につくと「そこはだめです」。導かれた席は、リンゴが薄く切ってあった。やけどで口を大きく開けない吉田さんへの配慮。「話を隅々まで聞いてくれていたんだ」。今度はうれし涙がこぼれた。
母は91年に他界した。だが、今では多くの人が吉田さんの支えだ。その証しの2冊の絵本。桜馬場中の絵本の最後には、英語と日本語で吉田さんの言葉が記されている。「平和の原点は人間の痛みがわかる心を持つことです」【錦織祐一】<「ナガサキ平和リレー」は毎月9日に掲載します>
〔長崎版〕
毎日新聞 2007年6月9日