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助産所ゼロ 安全模索/どうなる出産

2007年11月28日

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開業以来使ってきた新生児用ベッド。島内の産婦人科診療所から贈られた=隠岐の島町有木で

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診察室には今も女性が相談に訪れる。奥の棚に出産関係の書類がしまってある=出雲市多伎町多岐で

 県内で2カ所だけになっていた開業助産所が今年3月と7月、相次いで分娩(ぶんべん)をとりやめた。妊婦の心強い味方となってきたベテラン助産師の思いは後輩に受け継がれ、助産師の活躍の舞台は今後、病院や診療所に移る。医師や看護師と連携し、互いの力をどう高めていくか。安全なお産を守るための模索が続く。(上原賢子)

∞緊急時、病院頼れなくなった/902人「感謝の気持ち」∞

◇長野助産院・長野千恵子さん◇

 隠岐の島町の長野千恵子さん(74)は7月いっぱいで「長野助産院」を閉めた。

 緊急時に妊婦を受け入れてくれた隠岐病院が今年4月から常勤医1人態勢になった。分娩の受け入れは正常な経過をたどっている経産婦に限られることになり、緊急の際に頼れなくなった。

 2月の町民向け説明会で、松田和久町長から「医者は探してくるから」と声を掛けられた。だが、全国的な産科医不足のなか、医師が島にやって来る見込みはなかった。「『夜中でも構わないから早くおいでー』と妊婦さんを迎える自信がなくなってしまった」

 岡山大学医学部の付属学校で学び、57年に助産師の資格を取った。東京の病院や隠岐病院の勤務を経て、81年に開業した。

 出産を終えるまで要した時間の最長は98年2月の31時間45分。途中、妊婦に「病院で陣痛促進剤をお願いすれば楽になるよ」と言うと、「ここで産みたい。がんばります」との答えが返ってきた。身の引き締まる思いがしたのを昨日のことのように思い出す。

 26年間、かかわってきた母子の様子を大学ノートに日付順に書き留めてきた。最後の記録は、1月14日にとり上げた902人目の赤ちゃん。「感謝の気持ちと満足感でいっぱいです」としみじみ語った。

∞お産減り、手伝い確保困難に/「またかかわりたい」∞

◇森脇助産院・森脇正子さん◇

 出雲市の「森脇助産院」を営む森脇正子(しょうこ)さん(67)は3月いっぱいで、分娩業務をやめた。分娩台は処分したが、診察室で母乳の相談などに応じている。

 母の笑子(えみこ)さん(93)が助産師として、各家庭を回る姿を見て育った。大阪赤十字病院の付属学校で学び、63年に助産師になった。

 翌年、出雲市多伎町の実家に戻り、県立湖陵病院や県立中央病院で助産師として勤務した。笑子さんが71年に自宅に助産院を開業すると、夜は助産院でのお産も手伝った。

 95年に病院を退職。笑子さんから助産院を引き継いだ。不測の事態に備え、妊婦の出産予定日が近づくと、医療機関に健診に行くのに付き添った。「様子が少しでもおかしいと感じたら、すぐ連絡してね」とアドバイス。陣痛が来た妊婦とは一緒に和室でお茶を飲んだり、散歩に出かけたりして、緊張を和らげるよう努めた。

 病院や診療所で産む人が増え、訪れる妊婦はここ数年、年1けたに減っていた。分娩をやめたのは、少なくなったお産のために、施設の維持や食事作りなどの手伝いを頼む人を確保するのが難しくなってきたからだ。

 「オギャーの産声にほっとして、次もがんばろうという気になれた」。場所は変わっても、またお産にかかわりたいと思っている。

◆助産師の役割重さ増す◆

 日本助産師会県支部によると、県内では20年前、10の開業助産所があった。同会によると、岩手や山形、徳島などでもすでになくなっている。

 減っている理由としては、医療機関での出産を望む人が増えている▽今年4月の医療法改正で産婦人科の嘱託医と連携医療機関の指定が義務づけられた――などが挙げられる。その一方で、産婦人科医が不足するなか、助産師の役割は重要さを増している。

 常勤産婦人科医が2人から1人に減り、再び出産に対応できなくなる危機に直面した隠岐病院に4月、院内助産所ができた。出産を受け付ける対象は、2人目以降を産む人で経過が正常な場合。原則として分娩に医師は立ち会わず、2人の助産師が対応する。これまでここで26人が出産した。

 県支部は10月末、松江市内で開いた研修会でこの院内助産所の取り組みを紹介。一ノ名(いちのみょう)緑支部長は「ほかの病院への広がりや、新たな助産所の設立に向け、助産師一人ひとりの力を高めていきたい」と話す。

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