【論文

 だから私は少年の死刑を求める



犯罪被害者の会●もとむら・ひろし 本村 洋
聞き手・本誌編集部 桑原 聡

《事件は昨年四月十四日、山口県光市の新日鉄の社宅で起きた。十八歳の少年が強姦目的に水質検査を装って本村洋さん(24)宅に侵入し、抵抗する本村さんの妻、弥生さん(当時23)を絞殺し、遺体を凌辱した。さらに泣き叫ぶ生後十一カ月の娘、夕夏ちゃんを床にたたきつけ、絞め殺した。検察は死刑を求刑したが、山口地裁の判決は無期懲役。その判決を聞いた洋さんは「少年を私の手の届くところに置いてほしい。私が殺す」と絶句した。四月二日、光市に本村さんを訪ね、その心境を聞いた》

 ――判決から十日が経過しました。判決が出た直後は、犯人を自分の手の届くところに置いてほしい。自分が殺したいという発言をされました。

 本村 いまも被害者としてその気持ちは変わりませんよ。殺したいと思うからこそ控訴も上告もするわけですし、そこが被害者としての原点ですからね。テレビで殺したいとは何事だとか、死刑を求めるとは何事だと、非難される方はたくさんおられますが、それが被害者の感情ですから。被害者が少年の更生を願ったりするわけありませんからね。あれが被害者としての当然の感情だし、だからこそ裁判があるんだと私は思ってるんですけど。

 ――その後、検察側が控訴した。

 本村 当然だと思います。あの判決は検察側としても納得いかないものだと思います。

 ――今回の事件は、私の理解では大きく分けて三つの問題点があらわになったように思うんですね。一つは司法制度そのものの問題、それから少年法、特に少年法の六一条の問題、そしてマスコミの報道のあり方。司法も硬直していますが、マスコミの報道も硬直したというか、自分で責任を取らないで済む安易な方法で報道をしてきた。本村さん自身が当事者として感じられている点は。

 本村 マスコミの報道について私がどうこう言う立場ではないのですが、ただ、被害者となってわかったのが、被害者に全然許可なく名前が出たり、写真が出たりすることです。まずそれが問題だと思いました。そして少年法六一条と絡んでくるかもしれないんですけど、報道する人がどうして少年の名前を実名で報道してはいけないのかというのを全く考えずに匿名にしていた点です。実名報道が人権侵害になるのか、少年の家庭を崩壊させてしまうのかといったことを、マスコミの方が全然考えてなくて、六一条があるから匿名にしているという安易な姿勢がすごいショックでした。 「被害者が実名で流せるのに、どうして少年だけは匿名になっちゃうんですか」って聞いて、マスコミの誰も答えられなかった。実名で流して過去に少年の更生に支障を来したことがあるのか、具体的に名前を出したことで人権侵害が起きてしまったのでしょうか。

 私はシンナーを吸ったり、けんかしたりとか、そんなことで実名を出せなんていってるわけじゃなくて、人を殺して逆送致されるような事件に関してまで匿名にする意味というのを知りたかったんですね。それをマスコミの方が考えていない。それが少年事件の場合の報道の問題点ではないかと思います。

 結局、事件の真相が伝わらなければ、死んだ人間は浮かばれないと思うし、犯罪の事実をきちんと伝えないと、それに付随する法の問題だとか、処罰の問題とかも語れないと思うんですよね。ですから私の事件に関しては、私が妻と娘に関してはすべて責任とるから、向こうのお母さんの許可も得てるから、私の事件に関しては被害者の意志として、遺族の意志としてすべて流してほしいといったわけです。 匿名報道は個々に検討すべき

 本村 匿名報道は個々の事案で分けるべきだと思います。例えば妻が強姦されて生きていたら、私は必死でそのことを守るために情報を漏らさないように頑張るでしょうし、それは事案事案によってマスコミが被害者と直接接したりしてどういった報道をすべきなのか、どうすればいいのか、考えるべきで、性犯罪ひとくくり、少年犯罪ひとくくりでやるべきじゃない、事案事案で考えてもらいたいなと思ったんです。

 ――判決のあった夜、本村さんは「ニュースステーション」(テレビ朝日系列)に出演され、いまおっしゃったことを主張された。コメンテーターの清水建宇氏が「(マスコミが)事件の真相を一つひとつ見極め、自分たちで判断すること」が大事だと応じていました。まさに正論だとは思うんですけどね、ただ、マスコミがそのように動いてるかといえば、全くそうではない。

 本村 そうですね。ただ、確かに被害者の人権を保護するために、どこまで伝えるかという点でたくさん問題があると思います。でも事実は歪めたくないという思いがあるんですよね。遺族として受け止めたくない事実もありますけれど、それが伝わらないと、事件の悲惨さが多分伝わらない。犯行現場がどんな状態だったか、そこでどんなことが行われたのか、きちんと伝えることではじめて事件の悲惨さが理解してもらえるのではないでしょうか。それを踏まえて刑罰の軽重が判断できると思うんです。

 いまの報道は、死者がどれほど恐怖を味わったか、どれほどの苦痛を味わったか、全然考えないんですね。想像もできないと思うんですよ。裁判の冒頭陳述なんて本当に官能小説のようにグロテスクにいうわけですから、あのまま報道すればいいじゃないかと思うんですよ。それでもまだ刑が重いだとか、少年の処罰はあれで適当だとか、遺族が死刑を求めるのはおかしいとか、いえるのかな。裁判を見たこともない、事件をよく知らない人がそういうふうに批判されるのは、遺族としてすごく悲しいことです。どのように私の妻と娘が死んでいったのか想像して下さい。それでもあの少年が更生するなんて、あなた考えられますか、と問いたかったのです。 公開の裁判で裁かれる少年に少年法の適用が必要か

 ――昨年「週刊新潮」で本村さんは少年の実名を出しましたね。

 本村 そうですね。あれはべつにマスコミを使って、少年を血祭りに上げようということでは毛頭ありません。少年は逆送致されて、公開の法廷で裁かれたわけです。誰もが裁判を傍聴できたわけで、法廷に入れば、犯人の名前どころじゃないですよ、どんなことをしたか、どんな生い立ちだったか、顔や表情、言動、すべてわかるわけですよ。だったら裁判で明らかになったことは、そのまま出してもいいんじゃないですか。ただそれだけなんですね。

 裁判所はマスコミ用の傍聴席を用意して、遺族が入れないのに、何人も優先的にマスコミが入って、少年の言ってることを全部書き留めている。名前も住所も全部書き留めてるわけですね。にもかかわらずそれを報道しないわけでしょう。じゃ、あなたたち、いらないじゃないですか。それなら遺族を入れて下さい、一人でも多く。事件の真相を知りたいんだから。何のためにマスコミの方々が公開の法廷で傍聴席を十何席も用意されて優先的に傍聴できるのか。それは事件の真相を伝えなきゃならないという役目があるからでしょう。裁判所もそれを知ってて、記者席を用意してるわけですから。それなのになぜ自主規制をかけるのか。だったらマスコミを最初から入れなきゃいいんです。その矛盾を気づいてほしかったんですよ。マスコミ自らがやってる矛盾。少年の名前を報道してはいけないんだと言いつつ、競って、アルバイトを使って傍聴券をたくさん入手する。遺族は一人しか並べない。その行為は矛盾だと思いませんか。

 あと少年法第六一条というものが、どこまでを適用されるのか。刑事訴訟規則第四編に、「少年事件の特別手続」という項目をわざわざ設けてて、そこには非公開なんてことは一切書かれてない。つまり公開の法廷で裁かれ、誰もが裁判を傍聴でき、且つ裁判所は記者席を用意している。にも関わらず、少年を推知できるような情報は流してはならないとしている、裁判を傍聴して少年を知ることと、マスコミの情報により、少年を知ることのどこに差異が存在するのか、私には理解できないのです。

 もっとひもとけば、憲法では裁判は公開を原則としていますが、その原則を少年法第二二条は払拭してしまう。どこまで少年法というものが適用されるのか。どの程度の少年の犯罪まで適用されるのか。いまの少年犯罪は、戦後間もないときに、仕事もお金もなく自分が生きるためにものを盗んだ少年とは訳が違う。生きるためにものを盗んだ少年を守るのは当然だと思います。しかしいまの犯罪というのはそれに値しないと思います。もっと考えてもらいたいと思ったから、実名報道という手段を取って問題提起をしたかったんです。 犯罪少年の情報隠匿は国民の権利の侵害

 ――確かに事件というのはそれぞれが全く別の様相を持っているはずなのに、マスコミは単に、六一条があるからということですべて伏せてきた。 《少年法第六一条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない》

 本村 そうなんですね。だからあれは必ずしも少年の保護になってないと思うんですよ。本当に生まれながらに不遇な環境の少年もいるわけですね。堺市通り魔事件を実名で報道した「新潮45」(九八年三月号)の高山文彦さんのルポ(「『幼稚園児』虐殺犯人の起臥」)をお読みになりましたか。こういう不遇な生活をした少年がこんな犯罪を起こしてしまったんだ。罪は罪だけども、どうしてそうなったかという経緯を明らかにしなきゃならない。そのためには少年の名前を出さなきゃいけないし、少年の町も出さなきゃいけない。どういった町で、どういった環境だったのか。そのすべてを高山さんは伝えたかった。それが真のジャーナリズムの立場だと思います。すべてを伝えるということは、少年に有利なこともいっぱいあるわけですね。決して不利なことばかりじゃないと思うんですよ。

 ――事実を明らかにすることによって、当然少年にとって有利な面も出てくるだろうし、不利な面も出てくる。

 本村 どういうふうに子供を育てればこんな犯罪を犯してしまうんだとか、こういうことをしてはいけないんだ、こういうことをすると子供が孤独にさいなまれるんだとか、私も少しの間、父親になりましたが、いまの少年法の下ではそういうことを学習のしようがないですね。

 少年が中一のときにお母さんが亡くなるなど、環境に問題があって少年が犯罪に至ったのか、そんなこと関係なくて、たまたま少年の資質がそうであったのか、もっと詳しく調査して報道してくれないと、まったくわからないでしょう。マスコミはそういう情報を全然流さない。それが本当にいいことなのかと思いますよね。事実を伝えないことで、視聴者や読者は勝手な想像をする。そのことが少年の人権侵害になってしまうことだってあるんじゃないですか。

 ――それと柳田邦男さんがそれに関連して発言していたのですが、実名報道することによってこそ、事実を明らかにすることによってこそ、その少年が更生しようとするのであれば、真に自分が犯した罪と向き合うことができると。

 本村 柳田さんが書かれたのは、本当の更生とは何かということですね。社会に対して自分が犯した罪を明らかにして、自らの努力で信頼を回復しなさい。それが更生だというふうに書かれている。私もそれはもっともだと思います。自分の罪を隠して生きるというのはずっと嘘をついてるわけで、それは真の更生にならないし、信頼をかちえてないわけですよね。それは国が国民に対して不利益なことをしてるともいえるわけです。殺人者が隣にいてもわからない。もし情報をもらっていれば、その人は身を守る手段を考えることができるのに、国はその権利すら国民に与えない。

 平成十一年の刑法犯の五二・五%が少年の犯罪です。刑務所、少年刑務所の再犯率は五四・八%にのぼっています。少年院の再犯率は二四・三%もあります。それに対して国は一切責任を取りません。匿名ということが少年にとっても、国民にとっても、本当に利益になってるのか。私はそうは思いません。 少年は可塑性に富むというお題目

 ――アメリカでは性犯罪者に関しては、その前歴を社会に伝えていますが、アメリカのやり方を本村さんはどのようにお考えですか。

 本村 私は専門的に精神医学とか勉強してるわけじゃないのでわからないんですが、犯罪白書を見ると、殺人、放火、強盗殺人、強姦といった人の人権を著しく侵害するような犯罪者は犯罪を繰り返すと言われてるんですよ。累犯者というわけです。

 昭和五十七〜六十一年までの五年間のデータですが、殺人、強盗、同致傷、強盗強姦、同致傷など、人の生命、身体に危害を与える、いわゆる危険な犯罪を繰り返した者は、三六%に上っている。平成十一年九月に三人の死刑が執行されましたが、三人とも一回殺人を犯して無期懲役になり、仮出獄を許可され再び社会に戻ってまた人を殺してるわけですね。やっとそれで死刑になった。最初の段階で死刑にすれば次の被害者は生まれなかったわけなんですね。性犯罪や殺人は人間の資質として繰り返すと思うんですよ。快楽殺人とかあるかもしれないし、それに性的な喜びを感じる人間がいればそれはどうしようもないわけでしょう。だからといって全員死刑にしろなんて言えないと思うんですよね。六四%が更生する可能性もあるわけです。ならば、国は国民に自己防衛させる手段を持たせるべきなんですよ。そういう意味でアメリカは合理的だと思います。確かに前歴を明かされる人間は生きにくいかもしれないけれども、それは国民全体見れば利益なんです。

 また、少年は可塑性に富む、更生しやすいなんていってますが、刑務所、少年刑務所の再犯率は五〇%超えてますよ。人権派の弁護士は何をもって少年は更生するんだ、可塑性に富むといっているのか。半分は更生してないじゃないか。国がすべてを保護して、更生させるといってるにもかかわらず、全然それが実績として出てない。国はどういった更生のプログラムを組んでいるのか。

 ――そこですね。はっきり言って更生のプログラムはないに等しい。

 本村 日本には一方で゛三つ子の魂百まで″なんてことわざがあって、三歳になるまでに決まってしまうという見方があるにもかかわらず、一方で二十歳ぐらいまで可塑性に富むんだと。何をもって可塑性に富むとかいってるのかわからないですよ。四十だって更生する人いると思うし、十五だって全然更生しない人もいる。それは年齢じゃなくてその人間の本質、資質だと思うんですね。

 平成五年に出所した人が二万二千人ぐらいいます。そのうち平成十年までに刑務所に帰ってる人は四八%いる。誰も刑務所に入ることを恐れてないんじゃないかと思ってしまいます。

 ――そういう人たちは確実に存在しますからね。

 本村 ですよね。再犯するのをわかって出してるわけだから。それが軽微な犯罪であるならばある程度しようがない点もありますが、殺人、放火、強盗殺人など、人の人生を著しく変えてしまうような犯罪者に対してそんな無責任でいいのか。累犯者は繰り返すというデータ持っていながら裁判長は死刑を出すのにおびえる。人の命を取るのにおびえている。確かに死刑を求めることとか、人を殺めることは、人間にとって大変難しいことだと思います。しかし、司法は刑罰権を独占している限り、どっかで厳罰というのをしなきゃいけないんじゃないかと思いますね。それは少年であってもしかりだと思います。 裁判は復讐の場ではないのか

 ――少年の事案ではありませんでしたけれども、今年になって強姦で刑務所から出た人間がお礼参り殺人をしたという事件がありましたね。

 本村 あれも悲惨ですよね。犯人はかなり前に高校生を絞殺してるんですね。高校生を絞殺して服役、出所して、女性を強姦して七年間服役して、出て二か月後に強姦した女性を殺してるんですね。あれは一審は無期刑だったんですね。ふざけるなと言いたいですよね。本当に殺され損。

 ――そうとしか言いようがないですね。

 本村 ええ。

 ――明治になって仇討ちを禁止して、復讐をするという権利を国が奪い取った。それで被害者の気持ちに則した司法の運用がなされていればまだ納得ができるんですけど、いまの司法は加害者の人権ばかり重視していますね。

 本村 実は自分の裁判の最終弁論で、弁護士がいった言葉で非常にショックを受けたんです。検察側が死刑を求刑したんですね。その死刑求刑の理由の一つに、被害者の峻烈な応報感情があると述べたわけですね。

 それに対して弁護側が、裁判は復讐の場ではない。求刑を決めるに当たって被害者の応報感情を考慮すべきではないと。それ聞いて非常にショックを受けました。昔仇討ちというのは当然認められた権利だったんじゃないですか。

 ――人間として当然じゃないですか。自分の愛する者を奪われた人間が犯人を殺したいと思うのは。これはもう人間としてごくごく自然な感情だと思いますよ。

 本村 当然だと思います。それを否定してはならない。それはこらえる、こらえないはあると思いますよ。感情として絶対ありますよ。それなのに、裁判は復讐の場じゃない。死刑という刑があるのに、私がマスメディアで死刑を求めるといえば、それは非人間的だと。死刑という刑があるじゃないか。私は当然だと思う。刑があるからそれを求めるといってるわけで、死刑がないのに死刑にしろといってるわけじゃないんですね。終身刑だったら終身刑を求めますよ。とにかく一番重たい刑を求める。極刑を求めるといってるわけなんですね。弁護士の感覚は、病んでいると思います。人間として当たり前の感情を否定してる。

 あの弁護士は自分が殺人事件の遺族になったこともないし、殺意というものを経験したことがないんですよ。私は自分の妻と娘を殺されて、初めて殺意というものを経験して、今でもそれに悩まされています。時に事件のことを思い出すと、猛烈な殺意に駆られるんですよ。殺意というのは本当にすごい感情で、体がブルブル震えてきて、わけがわからなくなってしまう。とにかく殺してやる! 殺してやる! という気持ちになるわけです。それを必死に理性で抑えて、当たり前の生活をしないといけない。これは遺族にとってはすごくつらいんですよ。

 弁護士は殺意というのはどんなにつらいかって多分知らないんですよね。人を殺したいと思う気持ちを必死に抑えて当たり前に生活しないといけない。時に話を合わせて当たり前に笑わないといけない。でも、どっかで人を殺したいという非日常的な感情を持ってるわけですから、それを一生懸命理性で抑えてる。それをぬぐい去るには、司法が仇を取ってくれるしかないんです。いつか少年が出てきて、もし普通に幸せに生活してたらどうする。自分は妻と娘を守ってやることができなかった。仇も取ってやれなくて、そんなんで自分は生きていいのかとかと思いますよね。当然の感情だと思うんですよ。 犯罪的な裁判官の相場主義

 本村 私の裁判でもう一つショックだったのは、裁判長は、遺族が死刑を求めるのは至極当然であるといってるにもかかわらず、死刑を出さなかったことです。遺族は死刑を求めて当然なんだけど、そんなもの関係ありません。考慮しません。今回は少年だったかもしれませんが、よって立つのは過去の判例と少年の可塑性だけ。裁判で涙を見せたから一端の人間性がある。更生の可能性があるというわけのわからないロジックを組んでるんですよ。そりゃ泣きますよ、自分の命がかかっていれば。それだけで、遺族の感情なんていうのは全然考慮されない。何のために遺族が裁判で証言しているのか。それなら証言させなきゃいい。

 ――そう思います。それなら裁判長は機械でいい。

 本村 コンピューターと一緒です。

 ――過去の判例がこうだったから、じゃこれはこのレベルであろうと。

 本村 そうですね。どうして警察とか検察が一生懸命私たちの調書を取ってくれたのか。どうして私たちが犯人を目の前にして証言したのか。何の意味もないわけですね。妻と娘が生きていれば死刑なんて求めないですよ。でも殺されてるんですよね。取り返しがつかないですよ。何をもって人を殺めた罪を償うのか。私は全然わからないんですよね。今だって自分の妻と娘を守れなかった罪をどうやって償ったらいいのか全然わからない。世の中に対して司法制度の問題を訴えたり、犯罪被害者の権利を訴えたり、本当にそれで償えるのかと思うと、答えはノーですよね。そんなことで自分の家族を守れなかった罪を償えるか。一生償えないと思いますよ。一生私悩みながら生きていかないといけない。悩むことが罪滅ぼしかなと思って生きてるんです。

 そこまで裁判長は考えてるのかなと思って。遺族の応報感情に立たずして、量刑のバランスだけをとる。何のための裁判なのか。裁判の判決が出て、被告人が笑って遺族が泣く裁判なんてあっちゃならないと思います。

 本当に今回の裁判はふざけてて、遺族が死刑を望んでも当然だ。犯行の内容も残虐で極まりない。反省の色もうかがえない。謝罪も十分とは言い難い。何をもって情状酌量するんですか。

 ――情状酌量の余地はまったくないですね。

 本村 永山則夫の死刑判決のときに、死刑とする四つの理由が示されました。計画性、犯行の残虐性、被害者の応報感情、結果の重大性、四つです。私の裁判では、被害者の応報感情は強く、残虐な犯罪であり、結果として二人を殺すという結果の重大性と、三つは満たしたわけですね。あと一つ、計画性ということ、これだけを否定した。強姦しようと思ったが、殺そうと思っていなかった、というわけです。

 少年は殺したあとに強姦してるわけだから、強姦しようという意志のまま人を殺してるわけですね。にもかかわらず殺意は否定するんですね。結局よりどころは過去の判例と少年の可塑性。何をもって少年が更生するか、更生しないかという判断基準を持ってるのか。

 精神分析をして、どうだったらこの少年は更生するんだとか、どうだったら更生しないんだとか、この少年が更生するためにはこうこういうカリキュラムを組むことで更生する可能性が高いんだとか、そんなこと一切ないんですよ。法廷で涙を見せれば人間性の一端が残ってる。そんなことで更生の可能性を見いだす。おかしいですよね。少年が更生しようが、計画性があろうがなかろうが、そんな事は、被害者、遺族にとっては、関係ありません。少年の罪は、私の妻と娘の輝しい未来を奪った事なんです。だから、罪に対する罰を受け、被害に対する償いをまず少年はしなければならない。少年が更生するかもしれないから、減刑されるのは、全く筋が通っていないと思います。 万引と殺人を同じレベルで語る人権派弁護士

 ――神でもない人間が人間の可塑性を判断できるかと言えば、それは無理だと思います。それを承知の上で、可塑性があるかどうかを判断するテストなりを作り、そして更生のためのプログラムを作ることが先決でしょうね。

 本村 だと思います。それを遺族に提示して納得させ、さらに国民を納得させないと。もしこの少年が世に出てまた同じ犯罪を繰り返す可能性もないとは言えないと思うんですよ。もしかしたらそれは立ち直るかもしれないし、それはそれでいいですよ。でも立ち直らなかった場合というのはどうするのか。私の妻と子の死は無駄死にですか。殺され損ですか。遺族としてそう思うんですよ。私がこれをテレビで言うと、「どうして本村さんはそんな悲観的にしか考えられないんですか」なんて平和ボケした人が言うんですが、「今度はその少年にあなたが殺されるかもしれないんですよ」と私は言うんです。

 殺人者なんて常識が通用しないんですから。襲ってきたときは遅いわけですよ。日本人は身を守る手段を持ってないんですよ。拳銃もないし、少年だから顔も名前もわからない。そんな状況で少年を社会に出すんですよ。絶対に更生しますなんて国は印鑑を押すわけじゃないんですよ。とりあえず社会に出して様子を見てるんです。また人を一人殺したらまた捕まえて、今度は死刑かなとか、もう一回可能性があるかなとか、そんなものなんですね、司法なんて。

 少年法の中に減刑処置がありますね。十八歳未満で死刑が出た場合は無期懲役。無期は十年から十五年。あれは非常に変な法律で、この人間もう更生の可能性はない、世に出してはまずいと裁判官が判断して死刑という刑を下しても、十八歳未満だと無期にする。無期になっても少年法第五八条で七年で仮出獄する可能性があるわけで、いつか出てくるわけですよ。司法が更生の可能性がないと判断しても、少年法によって無期になって、無期は少年法によって七年になってしまって、いつか社会復帰してしまう。出していいんですか。またやるかもしれないでしょう。どうしてこんな少年法が成り立っているのか。ものを盗むとか、暴走行為したとか、喧嘩をしたとかいうのはいいんです。今の少年法のままで。非公開の審判でやってもいい。ただ、殺人のような人の人権を著しく侵害する犯罪を犯した少年に対して、今の少年法で守ろうとするのは問題です。人権派の弁護士は、万引から立ち直った少年だとか、非行から立ち直った少年だとか、そういう話をしますが、それはそれでいいんです、立ち直ってるんだから。ただ、殺人を万引と同じレベルで扱っていいのか。

 ――その距離たるや、すさまじい距離がありますよね。万引と殺人を同じ土俵で判断することはとても不可能だという気がしますね。

 本村 ですね。遺族がいるような犯罪を犯した場合は、少年の保護とか更生を考える前に、遺族がどうすれば立ち直ってこれから社会生活を営んでいけるかというのを第一に考えるべきなんです。そういう被害者がいない犯罪はいいです。少年のことだけ考えて、一生懸命更生させれば。被害者、遺族がいた場合、被害者、遺族をほったらかすでしょう、少年法で。関係ないんだと。少年のことが大事なんだと。そこがやっぱり問題だと思います。

 少年法を擁護する立場で考える人は被害者、遺族を見てないですからね。被害者の苦しみとか遺族の涙とか悲しみだとか、犯罪被害者となって家庭が崩壊していく人もいるわけです。たくさん。そういう人を見てないんですね。 無視されてきた犯罪被害者の人権

 ――犯罪被害者となることで、夫婦間に溝ができて別れざるを得なくなるとか、そういう例をよく耳にします。そういったところに今の司法は、一切の気配りがありませんね。

 本村 遺族だって立ち直らなきゃならないんです。怒ったり憎んだりしてるわけです。そういった心だったら人を思いやれないんですよ。やっぱり。どうせお前は幸せなんだろうとかと思いますよ。どうせお前は人を殺したいとか思ったことがないだろうって思っちゃうんですね。

 怒りとか憎しみを乗り越えて、人を思いやるとかやさしさを取り戻すためには、遺族って相当の努力をしないといけないんですね。ある意味仙人じゃないですけど、悟りみたいなものを開かないといけないんじゃないかと思うぐらいです。もしくは宗教に走って新しい価値観を手に入れるとかしないと立ち直れないと思うんですよ。だからそういった遺族の気持ちを汲み取るべきだと思いますよ。それはもう少年法だけじゃないですね。今の司法全体にいえることです。とくに少年法がひどいというだけで。

 ――いまの日本では、犯罪被害に遭われた方の人権はことごとく無視されてきてますよね。

 本村 というか、犯罪被害者に人権はないですね。

 ――被害者の人権という規定がそもそもない。

 本村 六法を開いてもどこにもないです。

 ――被告の人権は認めるように、いろんなところに書かれていますけれども。

 本村 だから、まず国家が応報とか、刑罰権を独占したんですね。その時点で強い国家対弱い被告人という関係になったと思うんですよ。昔は戦時中とかひどかったと思いますから、取り調べとか冤罪たくさんありましたね。そのために被告人の権利を守らなきゃいけない。だから強い国家に対して対抗できるように権利を保障していった。それはいいと思うんですよ。しかるべきことだと思います。ただ、その一方で被害者がいることを忘れちゃったんですね。結局被告人を守ることばかりに終始してしまって、被害者の存在を忘れてしまって、刑訴法、刑事手続きの中から被害者がどこかへ行ってしまった。

 ――完全に抜け落ちてますね。

 本村 ええ。被告人の権利を守ろうとしたときに被害者が邪魔なんですね。被害者がいままで声を上げてなかったのは、被害を受けて、精神的にすごいダメージ受けて、声を上げる気力もないし、社会も被害者に対して冷たかったですね。あと、マスメディアが被害者にあまり注目しなかった。加害者の家庭や生い立ちなどに注目して、ほとんど被害者に注目しなかった。被害者自身が声を上げなかったことも問題かと思いますが、訴える場を与えなかった社会というのはやっぱり問題があったんじゃないかな。いまでこそメディアの方が注目してくださり、耳を傾けてくださるんで、私はまだ救われます。 遺族を部外者と見る裁判所

 ――以前ですと、犯罪被害者になっても例えば裁判がいつ行われるか、そういったことすら連絡がなかったということなんですけれども、それは若干改正されましたね。本村さんのときには。

 本村 私の年からじゃないですか。被害者通知制度ですね。

 ――平成十一年四月からですね。

 本村 そうですね。それまではいつ裁判が開かれるのかも知らされなかった。あと、おかしいと思ったのは、裁判の冒頭陳述や判決要旨をマスコミはもらえるのに、被害者はもらえないことです。どうしてもらえないんだろう。新聞を見て知るしかないんですよ。マスコミの方に「見せて下さい」と頼んでも「部外者(司法記者クラブ以外の人)には、見せてはいけない規則なんです」と言われました。

 ――本当ですか。

 本村 そうです。私は部外者と言われるとちょっと腹が立ちますよね。部外者じゃないでしょう。自分の妻と娘の裁判ですよ。マスコミには教えても遺族には教えない。マスコミには記者席をどうぞと用意しても、遺族には傍聴席を用意しない。おかしいですよね。

 ――おかしいと思いますね。

 本村 初めて裁判所に行ってびっくりしたんですね、記者席というのがあって。しかも最前列に。そのうえ、後ろも前もマスコミの人たちなんです。傍聴希望者が大勢並んでいるといってるんだけど、大半はマスコミに雇われたアルバイトですね。

 ――そうです。

 本村 それを知ってるわけですね、裁判所は。

 ――当然知ってるでしょう。

 本村 知ってるんだったら記者席なんか用意しなきゃいいんですよ。遺族はそんなお金ないですから。自分の裁判とか生活だけでも精一杯なのに。

 ――遺族が求める数だけ席を確保するという改善ぐらいできないんでしょうか。

 本村 ないですね。今回、法務省の法制審議会で審議されたあれで大分、「配慮する」なんていう言葉が使われてますけど、権利じゃないんですよね。必ずじゃないですから、配慮しなければならない。配慮してだめだったらあきらめなさいということです。私の裁判でいえば三席だけでした。あとは並んで、結局判決のときも三人しか入れませんでした。

 ――そうですか。

 本村 自分の家族の裁判を傍聴できないんですよ。新聞を見て判決を知る。新聞を見て判決文を見る。おかしくありませんか。誰のための裁判をやってるのか。誰の応報を満たすための裁判をやってるのか。ただ単純に罪刑法定主義に則って、法に違反した者に対する罰を与えるだけなんだ。そんなんじゃないと思うんですね、人間社会というのは。司法には人の心が全然ない。

 ――話がずれますけど、小渕首相(当時)今回の判決を聞いたときに、目に涙をにじませて、判決について感想を漏らしました。珍しいですよね、三権分立の建前から言えば。ただ、それを乗り越えさせる程の不当な判決だったということでしょう。

 本村 そうですね。多分、小渕首相というか、小渕恵三という一人の人間として、涙を流してくれたと思います。事件があったときに一回手紙をくださって、私もお手紙返して、二人の死を無駄にしたくないから、一生懸命頑張るので、政治家としてなるべく応えてください、と書いたんです。すると小渕さんも、そのように被害者の思いを一つでも二つでも沿えるように政治家として頑張っていきたいと、いってくださり、判決のときはコメントまで出してくださった。人間としていい方だなと思います。 犯罪被害者の権利確立に生涯を捧げたい

 ――犯罪被害者の会に本村さんは加わってるわけですが、具体的にはどういう活動をされてるんですか。

 本村 先程話があったんですけど、とにかく今の六法に犯罪被害者の権利がないんですね。じゃ、具体的に犯罪被害者の権利って何なのと。わからないですよね、犯罪被害当事者でないと。私も被害者になって何が足りないか初めてわかりました。だから被害者自身が足りないものを条文化しています。警察の捜査、裁判で事件の情報を知る権利、通り魔などに家族の長を殺された場合、国から経済的支援を受ける権利、犯人が出所したとき、お礼参り殺人の危険がありますから、いつ出たか、どこに住んでるかを知る権利、身を守ってもらう権利とか、そういったもの並べています。そのために月に一回集まって会議を開いてます。

 それと同時にシンポジウムを開きます。これまで犯罪被害者は横のつながりがないんですね。ぽこっぽこっと生まれて、全然どこにいるかを知らないし、連絡しようがなかった。地下鉄サリン事件とか、和歌山の毒物カレー事件のような多くの被害者が一度に出た場合は、弁護士がすぐに弁護団を結成してくれますが、一般の事件の遺族は孤独なんです。弁護士もつかないし、どうしていいかわからなくてみんな悩み苦しんでいるんですよね。民事訴訟をどうして起こせばいいのかとか、この苦しみを誰かと分かち合いたいけど、事件当事者以外の人に言ってもわかってもらえないし、逆に偏見の目で見られてしまうとかね。

 そこで「犯罪被害者が訴える」と題して、犯罪被害者が集まって、犯罪被害者自らの声で、弁護士など専門家のフィルターは通さない、自分の声で訴える場を提供すると同時に、犯罪被害者同士の横のつながりを作りたいなと思ってるんですよ。犯罪被害者同士だとどっかなごむところがあるんですよ。同じ苦しみを分かち合ってる人だから、わかってくれるだろうと思って安心して話せるんですよね。実際、本当にほっとするんですよ。

 ――会議は東京で。

 本村 はい。まだできたばっかりで全然基盤がしっかりしてないんですよ。事務所を探したりとか、いろいろやってるところなんですね。ファックスとか電話とか機器をそろえたり、寄付金でまかなっているので、お金もあまりありませんし。最初に発起人として立ちあげた者たちがとりあえず礎だけは作ろうということで東京で定期的に集まっているんです。

 ――何人が幹事をやられてるんですか。

 本村 幹事は今六名ぐらいです。それとは別に例えば片山隼君(登校中にトラックにはねられ死亡した小学生。警察も両親も知らないうちに運転手は不起訴になった)のお父さんであったり、常磐大学の学長をされている諸澤英道教授、そして弁護士の方をアドバイザーとしてお招きして、いろいろ勉強しています。会員もこれまで八十名ほど申し込みがありました。いずれは支部的なものも作って、そこで定例的に集まったりできればと思っています。

 ――そうすると、本村さんのプライベートはほとんど、会の活動に割かれているわけですか。

 本村 すべてとまでは行かないですね。私も仕事が手につかないんです。正直いろんなことを考えてしまって。ただ、会の活動をしてるときは、二人の死を無駄にしてない気がするんですよ。二人のために何か具体的にしてやれている。会の活動をやってるときは、心がすごくアクティブになるんです。この会の活動は、私にとって生きがいであり、活力の元だと思っています。生涯を注いでもいいと思ってるんで、いずれ東京に出てやっていきたいと考えています。 民事裁判は望まない

 ――話は変わりますが、民事はどうお考えですか。

 本村 民事を起こす気はないですね。まず少年に対して今死刑を望んでますし、彼にそんな賠償できる能力があるとは思えないんで、ただだらだらと時間が過ぎるだけでしょう。それと被害に遭ったのは妻と娘で私じゃないんですよ。私は遺族なんですよ。だから妻と娘がどれくらい苦しんだとか、どれくらい恐怖を味わったかというのはわからないんですよ、私も。だから私がべつにお金をもらう必要がないと思ってるんですね。それは犯人を苦しめたいと思えばお金を取ればいいんですけど、でも私はお金をもらって嬉しいわけでもないし、それは違うなと思います。それに、もし少年が心から反省したのであれば、少年から賠償金の申し出があるのではないかと、そんな期待もしています。

 少年の父親に起こさないのかと、マスコミの方には聞かれますが、最初は起こそうかとも思いましたよね。少年法で守ってるにもかかわらず、保護者に対しては全然刑事罰がないから。

 ――そうですね。少年法でもし守るのであれば、その保護者たる親に対して何らかの責任が生じて当然じゃないかという気がしますけどね。

 本村 そのために保護者を当事者として少年審判に入れてるわけです。今回の場合は逆送致されてるし、社会人になってるところもあって、なかなか父親に責任を問いにくいと言われましたが、それはやっぱりおかしいと思ったんですね。でも私の目的は、少年の家庭を崩壊させることじゃないんです。少年の家庭にはまだ弟さんがいて、あと小さな二歳ぐらいですか、夕夏と同じころの女の子が事件当時いたんです。いま二歳に満たないぐらいのお子さんのいる父親に莫大な民事訴訟を起こしてお金を払わせるというのは……。

 残された弟さんとちっちゃな女の子が、今もこの光市に住んでるわけですよ。事件のことを知らない人いないし、きっと社会的制裁も受けてるかもしれない。すごい逆境の中で生きてると思うんですね、あの家族は。そういった家族がお兄さんと同じように犯罪を犯さないように、あの父親には残された子供を真っ当な人間として育ててほしい。この光市にいる以上、それは困難かもしれないんですよ。でもどうしてあの家族ここに残っているんだろうって考えると、もしかしたら父親が自分の家族が犯してしまった罪を滅ぼすためにこの町に残っているのではないのかって。それに、事件を起こしたのは、少年の意志ですから、やはり責任は少年が負うべきだと思います。

 ――しかし、父親が同じ町に住みながら謝罪にこないという神経が私にはよくわかりませんね。

 本村 もし来たとしても、私自身それはいまさら遅いと思っています。それよりも父親には残された子供をちゃんと育ててほしい。というのも、あの少年は全然反省している様子はないし、良心の呵責に耐えかねるなんていうこともないんですよね。きっと人間としての心がないからだと思うんですよ。彼がいま接見できるのは、父親と友達と弁護士ぐらいです。やはり父親が会いに行って、少年が人間としての心を取り戻す努力をしてほしい。自分の犯した罪の重さとか、人をあやめることの罪の重さを少しでも認識させてほしい。認識すれば、おのずと苦しむし、反省するでしょう。最後には少年に死刑という刑を人間としてまっとうしてもらいたい。そのために父親を民事とかで苦しめようとは思いません。うまくこの気持ち表現できないんですけど、それで今は民事訴訟ということは考えてないですね。

 ――なるほど。ところで、地裁の判決が出たとき、墓前に報告へ行けないとおっしゃってましたが、墓参りの方は。

 本村 判決のあと、何時間かたってお墓に行って、「まだ続きがあるからね」って話しかけてきました。

 検察の方がすごい意気込みで「百回負けても百一回目を闘うぞ。こんな判例を残しちゃいかん」と強い口調で言ってくれたので、控訴してくれると信じていましたから、「まだ続きがあるからね」と言ったんです。でも、手は合わせられませんでした。


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