慈悲の心
天台宗 青蓮院門跡門主 東伏見慈晃(ひがしふしみ じこう)
(2007年『大法輪』10月号より抜粋)

 
   
  『水からの伝言』を見て
 少し前になりますが、たまたまある所で江本勝さんの125点の水の氷結した結晶を撮影した写真集『水からの伝言』を目にしました。この写真集が大変興味深かったので、まずご紹介したいと思います。  雪の結晶は皆さん馴染み深いのですが、水を凍らせてその結晶を撮影したものなのです。まず日本国内ばかりでなく世界の銘水が、それぞれ美しく個性的な形で撮影され、カラーで紹介されています。
 次に、世界の代表的な都市の水道水を凍らせて、その結晶を撮影した写真が出てきます。東京、ロンドン、パリの水道水は結晶していません。それらの写真はそれぞれ違いはあるものの、本来六角形の結晶がポンと写っているべきところに、ペースト状のどろっとした感じの泥を、画面全体に刷毛で塗ったようなイメージの写真となっています。これを何千倍かしたものを飲み水にしていると思うと、ちょっといやな感じになる写真です。
 近畿の水瓶の琵琶湖の水も同じ様な状況です。琵琶湖が汚染されていることが分かります。隅田川や淀川の水になると、まさに主要な町を通過して生活の全てを洗い流す役割を果たした川の水、苦悩した水となっています。
 水道水でも大阪と京都の中間に位置する交野市(かたのし)の水道水は大変美しい結晶になっています。昔から交野の水は銘水と言われ、千利休もわざわざ取り寄せて愛飲したとのことです。交野市の水道水は地下水を60%入れているとのコメントが添えられています。
 次に興味深いのは、バッハ、モーツァルト、ベートーベンの名曲や、チベットの僧侶の読経、美空ひばりの「川の流れのように」等を水に聞かせてから凍らせたものは、きれいに結晶しています。それぞれ曲名が表示してあるのですが、それぞれの曲名にふさわしい変化に飛んだ美しい結晶になっています。
 これからがさらに興味深いところなのですが、なんと人の心の状態を表した言葉、例えば「ありがとう」「愛」「感謝」「しようね」等を書いた紙を、水を入れた容器に貼って一晩置いてから凍らせて撮影をしたものが、きれいな結晶になっています。
 ところが逆に「馬鹿野郎」「むかつく」「殺す」「鬼」「汚い」「しなさい」等を貼ったものは、結晶していません。ロンドンやパリの水道水と同じ様な泥のような写真です。「むかつく」「殺す」は本当に醜く歪み、潰れ、飛び散っています。それに「しようね」と「しなさい」がこんなに違うのか驚かされました。「しようね」はきれいな結晶ですが、「しなさい」は結晶せずに真ん中にぽっかりと大きな穴が開いています。あたかも命令された言葉を出来るだけ聞かないように、通り抜けてもらいたいと水が思っているようです。
 歴史上の有名な人物の名前にも反応しています。さらに幼い子供の笑顔の写真の上に乗せた後、撮ったものは、本当にきれいな美しい結晶です。 私はこの写真集を見てあまりのことに本当に驚いてしまいました。本当なのか、意図的に編集された合成写真ではないか、と思ってしまいます。これが本当ならすごいことだと思います。人の思いというものが、良きにつけ悪しきにつけ、他に及ぼされていくものだということが目に見える形で表されています。
 たまたま7月30日の京都新聞文化面〈フォーラム京〉に京都女子大学の小波秀雄先生が、この写真集を採り上げられ、『世にあふれるニセ科学』のタイトルにて、「意図的な操作で作った結晶の写真であるとしか言いようのないもの」と論評されています。また、先生は大阪大学の菊地教授の来訪を受けた際、一緒にネット上でこの写真集の検索を試みて、この写真集を称える記事が展開されていることに驚き、科学者として危機感を感じた菊地教授は、この問題を精力的に調査して多くの論考を発表されている、と書かれています。 私は江本勝さんに直接お会いしてこの結晶が本当なのか確認した訳ではなく、小波先生の言われることも当然と思います。ただ菊地教授が行われた精力的な調査の内容にはその記事では触れておりませんでした。菊地教授が江本勝さんの研究室を訪ねて実験に立ち会われるかした上で、この写真集の再現ができなかったのであれば、小波先生の論評も筋が通るものと思います。

人の思いは他に影響を及ぼす
 私はこの写真集が、全部か一部に意図的な操作があるかないかは別として、人の強い思いというものが、他の人やそしてこの場合では水という無機物質にまで、つまり自然界のありとあらゆるものに影響を及ぼすことは、大いにあり得ると考えています。その意味でこの写真集を見て私には、ごく自然にそういう事も起こり得るだろうと感じた訳です。
 科学万能、科学で説明の付かないものは全て信用が出来ないとする考え方は、科学の研究がそこまで達していないだけで、未知の世界は山のようにあるとの謙虚な立場を忘れられているのではとも思いました。
 宗教の世界はまさに科学では説明のつかない分野でしょう。ただしこの分野でも、宗教は人間の何千年にも及ぶ体得と叡智から産み出されたものであり、いずれ科学が進歩していけば、謎解きができる部分が出てくるかも知れません。
 お店の名前をうっかり記録してなかったのですが、神戸に毎日行列の出来るパン屋さんがあるそうです。そこのパンが大変おいしくて評判を聞きつけた人が毎日詰めかけるとのことです。そのご主人は毎朝、4時頃から準備にかかるそうですが、まずお店の前に出てその日の気温や湿度を肌でしっかりと受け止めてから、仕事にかかります。パン生地をこねていく訳ですが、その時に一生懸命に全力を傾けて生地をこねながら「おいしいパンになれよ」とひたすら念じるそうです。そのことをご本人が何かに書いておられました。
 私はご主人の強い思いが、パンに伝わっていると思います。
 科学万能の考え方から言えば、そんなことはない、水加減、塩加減、火加減、小麦粉の産地や品種、こねる力加減、といった計量できる、いわばレシピによるものだ、とお答えでしょう。私はレシピや条件が全てなにもかもが同じでも、最後はこのご主人の「おいしいパンになれよ」という強い思いが加わるか加わらないかで違いが表れるのだと思います。
 胎教が大切と昔から言われています。まだ科学では充分説明のつかない分野だと思います。最近は母親がモーツァルトを聴くのが良いそうですね。母親が近所の神社やお寺にお百度を踏んで、よい子が産まれますようにと願う。胎内の我が子に優しい言葉をかけ、励ましてあげる。そして良い音楽を聴かせていけば、胎児の心はすくすくと健康に育つということなのだと思います。
 この水の結晶のことを考えると本当に頷(うなず)けます。母胎が怖い思いをしたり、極度の精神的ストレスを受ければ、胎児の心の深層部分に影響すると思います。家庭内暴力等で不幸にも夫から母胎が暴力や罵声を浴びたなら、胎児の段階で心に深い傷を負ってしまうのではないでしょうか。そのような子供は産まれながらにして大きなハンディを負ってしまうと思うと恐ろしいことです。
 普通に私達の生活の中でも、自分の発する言葉が人を傷つけているかも知れません。そして「しようね」と「しなさい」でこんなに違いがあるのなら、「勉強しなさい」と子供には絶対に言ってはいけなくて、せめて「勉強しようね」ということだったのだと思いました。良いことを思うことと、悪いことを思うことがこんなにも違いがあるのだとつくづく思いました。

他人のために考え、行動する
 伝教大師最澄は、「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と説かれております。
 慈悲という言葉を皆さんはどのような意味にお考えでしょうか。慈はいつくしむだから、かわいがってあげることかな、そして悲は悲しみだから、親しい人が亡くなってしまった寂しい気持ちだろうか、と。
 仏様が説かれた慈の本当の意味は、「自分の大切なものを他の人に何もかもあげる。人のために自分の全てを投げ出して尽くす」という心の段階であると説かれています。悲の方は「自分の悲しみでなく、他の人の悲しみが自分のことのように、ひしひしと分かるという心の段階である」と説かれています。つまり慈悲の意味はいずれも自分のことでなく、他の人のために自分の全てを投げ出すことだということです。これは仏様でしかできないことです。しかしそこに少しでも近づこうと努力することは出来ます。それが仏への道であります。
 我々はともすれば、自分さえ良ければ良いと、自己の利益になることに汲々とした日々を過ごしています。競争社会の中で、そのように小さい時から懸命に生きてきたと思います。
 最澄は、己を忘れて他を利することは、右にお話した慈悲という状態の極まった状態であって、そのように行うことが、仏への道、すなわち我々の目指す方向であると説かれました。
 良い思いをしっかりと思う、念じる。良い思いを心から一生懸命に祈って行きましょう。良いこととはここで何度も申し上げたように自分のことでなく、自分以外の他の人のために考え行動していくことなのです。なかなか出来ないことなのですが、少しでも実行すること、実行できなくても、思うだけ、あるいは願い祈るだけでも良いのです。強く思っていると、水のような無機物質にも思いは伝わるのです。ましてや相手が人であれば、自然に相手に伝わって行き、自分もそうせざるを得なくなって行きます。
 自分より他の人のために一生懸命に尽くし、励んで行く先に自然に自分への利益が回り回って戻ってくる。これが本当の御利益だとお考え下さい。我々一人一人がそのような気持ちで努力しましょう。世の中はもう少しましな方向になって行くと思います。
 まずは身近な方のために、毎朝手を合わせて拝んでいただけませんか。