朝鮮の正しい歴史認識その他
「日韓2000年の真実」名越二荒之助氏の著作よりの引用は別コーナーをもうけました。このページは2ちゃんねるのハングル板を元に引用させていただきましたが、責任はすべてページ制作者である私にございます。
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ニューヨークで発行されてた週刊誌「ニューズペーパー」 (1893/09/29)に掲載の記事。
朝鮮の全権大臣一行が、アーサー英大統領を公式に拝謁する図。 |
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伊藤博文公の保護政治に感謝していた当時の韓国人!!
韓国人の安寧と幸福、その生活の向上を図るため、母国日本の財政負担は三年間 に三千万円に達している。日本及び日本人を益することを少しもやらないで、
韓国及び韓国人のために図りてあまりにも忠実である。飽くまで韓国の主権を 尊重するため、中央の各部大臣や地方長官はすべて韓国人を任用し、日本人は
その下働きになっているに過ぎない。利権は韓国人のみに与えて、日本人には 荒蕪地開発の第一号を与えただけではないか。なおその上、韓国通の大陸浪人を
追放するなど、日本及び日本人から孤立した政策を採ってきた伊藤総監の心事那辺 にあるやを疑わしめるものがある。
韓国発行 「邦字新聞」より
「韓国独立運動の父」の血涙!!
子孫は先祖を憎み、後進は先輩を怨み、我々民族の不幸の責任を己以外
の誰かに転嫁しようとする。一体、なせ゜我々にできず、その上に他人
のみを非難するのか?我々が独立できないのは「ああ、我々のせいだ!」
と己の胸を叩いて悔いることができず、「あいつらのせいだ!あいつらは 殺されてしかるべきだ!」と叫ぶだけで、どうして座り続けているのか!
己こそ殺されてしかるべきだと、どうして悟れないのか!
韓国独立運動の父 安昌弘 上海臨時政府での演説より
「われわれの民族的信用を最も失わせるものは、万事において虚勢を張る病であろう。
実力も伴わないのに、声だけ大きく発する虚偽である。」
韓国の代表的作家 李光洙
当時の韓国人は日本人に憧れ、積極的に日本人になろうとしたのだ!!
朝鮮人は、朝鮮語を忘れてしまわなければならない。朝鮮人が日本語でものを 考えたときこそ、朝鮮人が最も幸福になった時である。学校で朝鮮語を教える
必要は全くない。朝鮮人を不幸にしようとするならば、朝鮮語を永続させて、 朝鮮的な低級な文化を与え、それ以上の発達を阻止することである。
玄永燮 「朝鮮人の進むべき道」
朝鮮人は、朝鮮語を忘れてしまわなければならない。朝鮮人が日本語
でものを考えたときこそ、朝鮮人が最も幸福になったときである。
われわれのてっぺんから足の爪先まで日本人なのである。・・・
学校で朝鮮語を教える必要はない。朝鮮人を不幸にしようとするならば
、朝鮮語を永続させて、朝鮮的な低級な文化を与え、それ以上の発達を
阻止することである。
玄永しょう「朝鮮語撲滅論」
「朝鮮人の進むべき道」 と「朝鮮語撲滅論」はどちらが正しいのでしょう。
「日本が敗戦した1945年8月15日までは、日本人に気に入られ ようと、われもわれもとぺこぺこしたくせに、日本が負けると判ると
今度は自分はこのように独立闘争をしてきたと嘘っぱちを並べる。
昨日まで警察にいて朝鮮人の思想を取り締まっていたやつまで、自分 が警察にいてかばっててやったから、多くの思想犯が無事でいられたと
ぬかしやがる・・・・・」
「山河哀号」 麗羅
伊藤博文公が韓国の自堕落官僚たちに与えた名訓示!
「日清戦争後間もなく、ロシアが手を韓国にのばすや、韓国はそれを とがめぬばかりか、韓国独立のために謀る日本を嫌厭した。韓国は自国
の独立の為には、不利なことは判りながらロシアに追従したではないか。
日清の役から日露の役に至る十年間、韓国は奮って、独立の要素を滋養 しなければならなかった時期であったにもかかわらず、これを顧みず、
或いは右に傾き、或いは左に傾いて、その為ついに、日本が韓国のために ロシアと戦わねばならなくした。故に今日、日本が韓国の外交権を掌中に
収めたのは、当然のことである。
何故ならば、これを依然として、韓国人の手中に収めて置くとするならば 韓国は何時までも、列強の競争場となり、日本のために極めて危険だから
である。
然るに韓国人は、今日にいたっても尚、外交権を回復するだけの実力を養う 努力をしようとせず、しきりに、他国の援助によって、これを日本から取り
去ろうとしているようである。けれども、どんな国にせよ、他国のために自国 の財力と国民の生命を供するものではない。およそ、国家は、自ら独立する
要素なくて、単に、他国に寄りかかっているだけで、立っていけるものでは ない。今日のままで進むとすれば、韓国を亡ぼすものは、他国ではなく、韓国
自身ではなかろうか。
故に諸君は反転表裏なく、専心一意、韓国のために謀らなければならない。
日本は諸君を助けて、韓国を独立させるよう尽力しつつある。然るに韓国人は 日露戦争のような大激戦を目撃しながら、尚、覚醒しないのは何事であろうか。
そうだ。韓国を亡ぼすのは日本人ではなくて、内外の形成を察せず、無謀軽挙 を事とする韓国人である。
自分は韓国の改革に絶望した事もしばしばである。然しながら、韓国の形勢に 顧みて、忍耐して従来の方針を改めないる国は自ら立たなくてはならない。
今日のように進むならば、韓国はもはや、自滅の外ない。」
「伊藤公暗殺」に対する韓国皇帝の論調
<伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。公はわが国に忠実正義 をもって望み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言してい
た。日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の 平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害
を加える者があるとすれば、物事の理事を解さない流浪人であろう。>
十月二十七日 太皇帝(高宗)
<伊藤を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。
その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない。>
十月二十八日 太皇帝(高宗)
朝鮮の産業は大正六年頃迄は資本投下の盛んな時代であったので 移出入は入超であったが、爾来出超に転じたのは米の移出が増加
したからであった。
それが昭和四、五年頃は米の値が低落したために一時入超となっ たことがあり、また昭和八年以後は朝鮮に鉱業(特に金鉱)、電気
事業、化学鉱業等の新規な目論みが多く、之がため内地資本投下 が盛んとなり、その投資は機械、建設材料等の移入となる部分も
多いので、之が貿易を入超に転じせしめたのである。猶お近年は 満州国への再移出のための内地品移入も増大している。
朝鮮の移出の太宗は米で、嘗て米は移出総額の過半を占めたが、 近年は移出総額の三割乃至二割を占めるに過ぎず、他の移出が増
大している。即ち米以外の重要移出品は銅、肥料、水産物、生糸 豆類、タングステン鋼、魚油、繰綿、金鉱などである。
近年朝鮮の金鉱採掘は甚だ盛んで、その精錬に当って生ずる含金 銀粗銅が内地に送られてきたが之も大東亜戦以来幾らか下火とな
っている。
肥料が移出重要品であるのは、朝鮮に大規模な硫安工業があるか らで、硫安以外に魚類の〆粕の移出も相当に多い。タングステン
鉱の採掘が増しているのは時局柄当然であり、又魚油移出は大部 分は鰮油である。綿花も増産され移出は増している。
次に移入は各種生活用品及び建設資材に亙るが、金額の最も多い のは衣料品で、其の中で以前は綿織物が圧倒的に多かったが、今
ではスフ、人絹、絹等の織物が多くなっている。
昭和18年版 日本国勢図会 本邦の移出入貿易〔朝鮮〕(P58〜9)
朝鮮も台湾も日本の版図に加わる以前に於ては今日の百分の一程 度の貿易であったが、日本の指導により産業の各方面に急速に開
発が行われ今日の盛大さに達し得たもので、全く隔世の感があり、 為政の方針が確固たるものであれば国民経済が如何に急速に発展
し得るものなのかの実例をここに見るのである。
昭和18年版 日本国勢図会 本邦の移出入貿易 (P.58)
旧仮名、漢字は変更しています。
併合前後の韓国人は日本人に「土民」と呼ばれていた!!
(大正デモクラシーの旗手、吉野作造の見た朝鮮半島)
異民族の統治は、「威圧」だけで成功するものでないことは固より言うを?俟たない。
幸いにして朝鮮政府(朝鮮総督府、もちろん日本の統治機構)は、一方に於いて国家 の威厳を示して居りながら、他方に於いて土民に近代文明の恩沢に浴するの機会を与え
殊に昔の李朝時代に見なかったいろいろの生活上の便宜を供して居る。殖産興業もだんだん盛んになって居る。交通機関も開けた。殊に道路はどんな田舎に行っても今や立派に造られて居る。病院も設けられた。その上朝鮮総督府は朝鮮民族の精神的満足並びにその開発を計る事を怠って居ない。社会公共の秩序は立派に維持されて居る。権利の保障には土民と内地人(日本人)との区別を立てぬ。比較的公平なる裁判は土民を満足せしめて居るようだ。
某朝鮮人は予に、「自分の父祖の代までは、その蓄積せる財産に眼をつけられて故なくして府の長官から捕縛され、その度毎に多額の身代金を取られたものだが、かくの如き不当の
侵害は今日は全くなくなった。これ全く日本の統治以来のことだ」と言った。
殊に現在の総監寺内伯は、正義の観念の極めて強烈な人で、道に合わないことは秋毫の微といえどもこれを仮借しない。しかも、この点について伯は決して土民と内地人とを別たないといわれて居る。この点は朝鮮人は皆、伯を徳として居るようだ。
かく一方には国家の威力を示し、他方に於いては土民に物質上の満足と及びその発達の機会を与えて居るのだから、朝鮮民族の同化は十分出来ないまでも、その統治の事業に於いては決してまごつく訳はない筈である。
民本主義の提唱者 吉野作造 (大正五年満州と朝鮮半島を視察)
「私の生涯は汚辱で終わるのだ。人々は、栄光を度外視して汚辱の生涯
だけを拡大して伝えるだろう。それは当然なことだ。人生は動機よりも
残した足跡が大事だから・・・親清派や親露派には無関心の寛容を見せ
ながら、なぜ親日派だけにそれほど過酷なのか知れない。きっと、結果的 に国が滅びたからそうなのであろう。私も自主独立だけを絶対値に信じる
者だ。ただ、その次善の策が親日であっただけだ。なぜ併合条約に前後し て、この国の独立主義者たちは私を殺さなかったのか。ひそかに物足りな
く思う。私はなぜ農民の子に生まれてこなかったのだろう。それが怨めしい!」
1926年 併合時の韓国首相 李完用 臨終にて
私は解放後の韓国で、悠揚迫らない大人風の紳士に親切に遇せられ、後でその人が、植民地時代には
剛直な反日家だった、と聞いてびっくりするという体験を何度かした。60年代のことである。この人たちは
「日本のおかげで、われわれは今こんなに苦労している」といったことを一言も言わなかった。そんなこと
を言えば、われわれはまだ日本の影響下にある、と告白するみたいなものではないかと、その種の言葉
をみずからに禁じていたのである。そこには腸のねじ切れるような亡国の無念を、新たな出発のテコにし
ようとする強靭な志があり、私は感動した。人間の「格」というものを思わせる体験でもあった。そうした経
験をしたものには、近ごろ喋喋されている歴史論議などに加わる気がしない。敗北にも平然としておれる
人々のおはなしは結構である。私は師事・兄事してきた韓国人と、(その多くはすでに他界されたが)夜空
の星をなかだちとして、はるかに通信できれば十分である。
田中明 「物語 韓国人」
李朝末期の韓国は、暗黒の世界で日本が暗闇を破り、光明をもたらしたのだ。
1890年代から1930年代の間に、日本人が韓国にもたらした革命的な改革 が、どれほどまで絶賛されたことだっただろうか!韓国人が自らの手では、とう
てい、行えなかったことだった。ただ、日本人が外国人であったからいけなかった のだ。
「醜い韓国人」 朴泰赫 光文社
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伊藤は、「植民地にする気はない」といって朝鮮人による 朝鮮の統治
を 淡々と説いた。(新渡戸稲造『偉人群像』、実業之日本社、1931年)
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植民論に関する文献調査・研究
http://www.hokudai.ac.jp/letters/project/project96.html
佐藤昌介と東京帝国大学教授【新渡戸稲造】が1910年以後も植民地経営 への卒業生の送出について連絡をとっていること、新渡戸稲造が植民地
の官吏・学者の人事に大きな影響力を持っている史料を見いだした。
新渡戸稲造が韓国統監府へ出張し、植民地経営の急進派(伊藤博文統監を 穏健派と批判する勢力)として運動し、言論活動をしている当時の史料を
見いだした。東京帝国大学の農学者、日本帝国農商務省の高級官僚が、 新渡戸などと同じように韓国に進出し、植民地経営の積極派として同じ
論陣を張っている史料(視察報告など)も発掘した。
韓国誌 319頁
「又個人的随意契約により若しくは父母に売られて奴隷となるもありて、 世襲奴隷と一時的奴隷とはその間厳重なる差違を存し、
世襲奴隷の子女は常に奴隷となり、 主人の承諾を得るにあらざれば絶対的にその自由を回贖するを得ざるも、
一時的奴隷の子女は多くの場合において解放せられ、 その奴隷自身も犯罪により奴隷と為りたるものを除くの外は、
主人の意に反すとも一定の金額を納めて自由の身となることを得るなり。
世襲奴隷は常に全く主人の専有物と見なされ、
主人は之を売買し、貸与し、贈与しその他すべて随意に之を処分することを得。」
日本敗戦後、日本から独立する気も気概もなかった韓国人!
(一旦は呂運亭らの「朝鮮準備委員会」に行政権を与えたがアメリカの命令で再び統治権を取り戻した日本に対し)かくまでの恣意的な凋落に対し、韓国の民衆は憤慨して決起することはなかった。
かの三・一独立抗争(という名の単なる暴動)に見られる武装蜂起もなかった。レジスタンスもなく、本格的デモもなかった。
連合軍が進駐してくる前に、自分達の手で帝国主義者を処分としておくという発想がなかった。
韓国光復軍といったところで、実はなにもしなかったのであった。
いくら何でも正式の会戦で日本軍を破れ、ここまではルーズベルトもチャーチルも蒋介石も周恩来も要求はするまい。いや、考えてもみないだろう。しかし、重慶に本拠をおく大韓臨時政府の軍隊(?)たる韓国光復軍。せめて対日ゲリラくらいには参加してもよかったのではないか。
韓国の開放が日帝から戦いによって奪取したものではなく、日帝とアメリカの取引によって得られたものであること。
この外傷が致命的な後遺症となって大韓民国を呪縛することになる。
「韓国の悲劇」小室直樹著より抜粋
東南アジア諸国の教科書
タイの中学2年の社会科教科書には「西暦7世紀に統一国家を形成したが、その国名は新羅といい、中国の支援を受けて統治した。17世紀に中国の支配下に入り、これが19世紀末まで続いた」と書かれている。
フィリピンの高校教科書「アジアの歴史」にも「韓国は中国王朝の数人の支配者らが 次第に勢力を弱めて破滅するようになったにもかかわらず、およそ400年間も中国の植民地になった」と記されている。
フィリピンの教科書は古代史についても「3世紀の大和政権の神功天皇は征服者として韓国に来たが、日本の韓国統治は689年に韓半島が権力組織を確立するまで続いた」と書いている。
タイの教科書はほとんどの地図が「東海」を「日本海」とし、韓国を仏教国と表示している。
フィリピン教科書は日本の「大東亜共栄圏」について「このような構想の目的は、その地域を統合して日本の支配のもと、西欧からアジアの国家を解放させるというもの」とし、日本は軍国主義化から自由な新しい秩序を樹立することで満州、韓国、内モンゴル、中国に平和と安全をもたらそうとした」と記述している。
インドネシアの教科書も「日本は1910年、韓国に産業基地と鉄道を建設することになる」とし、
日本の侵略があたかも韓国の近代化のために行なわれたように記述している。
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=soci&cont=soci0&aid=20010725140639400
自分達が、朝鮮の歴史を捏造しておきながら、面の皮の厚い民族です。
3・1独立運動の当時の韓国人の評価
−独立運動でもなんでもないただの暴力沙汰・暴徒化事件−
運動の指導者は、非暴力を宣言しながら、それは口実であって、至る所で暴力沙汰 が広がったではないか。それは公務執行妨害罪であり、騒擾罪に該当する。いわゆる
独立運動なるものは、同胞に累を及ぼすような不法の中から生まれるものではない。
朝鮮民族にとってそもそも独立とは何であろうか。三韓時代の昔から李朝末までに 至るまで、常に支那の直接または間接の支配に甘んじ、朝貢を続けてきたのではなかったか。わずかに日清戦争後、(日本によって)「大韓帝国」の国号を建てたが、ロシアの勢力が強大になると、たちまちその方向になびいていった。もし日本がロシアを抑えなかったら、朝鮮はロシアに支配されていたことは間違いない。現在は国際連盟に期待しているようだが、提唱者のアメリカでさえ、国連は頼むに足らずとして加盟しないではないか。ウィルソンの大手品に踊らされるのはやめて、足元を見よ。
1919年3月7日付け 「京城日報」
だれも同調しなかった3・1事件
ウィルソンの民族自決主義は、第一次世界大戦中、敵国であったロシア
オーストリア、ドイツ等の支配地域の民族に呼びかけたものであって、味方である日、米、英、仏の支配地域は例外である。
パリ講和会議に参加した列強に、朝鮮独立を請願しても受けつけられるはずもない。
1919年3月6日「京城日報」
これこそ日本人の「正しい歴史認識」!!
−日本女性から指紋押捺拒否の韓国人への手紙−
自らなす事もなくえんえん、四十年もたつのに今だに日本国にすがりつき、一世 の差別を種に恫喝に明けくれ、元日本人だから日本並に等と訳のわからぬ朝鮮人の
世迷言と、自国にもどれないのも日本人のせいにする。皆日本人のせいにするこの 愚かな民族には、ほとほと、日本人はあきれるのである。植民地の日本同化より独
立国になった年月のほうがはるかに長いのです。独立して四十年間、何をしていた のか。反省するべきである。如何にどんな民族であるかが、これだけでもわかる。
向上自立ができないのである。かっての差別の国屈辱の国とののしった国日本国に勝手に来て居座り続ける無神経さ。其の上外国日本国に事々に挑戦的な在日朝鮮人。
それに本国の韓国の政府の上層部の生意気な態度。日本国の援助なしでは何一つできないくせに、後進国のくせに先進国に無礼である。コンプレックスのかたまりの挙句の果ての韓国民族のあがきと日本国民は十分承知して居るが、我々はあまりの
態度に腹が立つ。しかし、日本人の大半は国際社会、人間社会の中の倫理無視のあまりの行動を苦々しく思い、あきれ果て低級民族のコンプレックスのあがきと冷たい目で相手にするなと始めから馬鹿にして、どうせ亡国民族のしみ付いた国民性は折角独立国になっても、四十年たとうが、百年たつとしてもこれのくり返しで、絶対に我々日本国と肩を並べて対等に付き合える国ではないと断言して居るのです。
「民族差別と闘う関東交流集会連絡実行委員会」
これこそ韓国人の「正しい歴史認識」
「究意するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。
また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要もなし。
詮ずるところ、其の責任は二千万同胞にあるのである。
思うに韓国自体が独立の要素を欠き、独立独行することが出来なかったためであって古今を問わず韓国国民全体が無気無力の為す事なかりしの致すところであって、まことに自ら招ける禍と云わねばならぬ」
韓国道知事 朴栄
第11次朝鮮通信使節(1763〜1764)の一員だった金仁謙の日本紀行文、
「日東壮遊歌」金仁謙著 高島淑郎訳注 平凡社東洋文庫 より。
大阪を見ての驚き
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」
「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」
名古屋を見ての驚き
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり 遠路随一といえる
中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが この地に比べれば 寂しい限りである」
江戸を見ての驚き
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様 橋や船 にいたるまで
大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」
京都を見ての電波(笑)
「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり帝だ皇だと称し
子々孫々に伝えられていることである この犬にも等しい輩を皆ことごとく掃討し 四百里六十州を 朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳をもって礼節の国いものだ」
村での植民地統治への態度は相対的である。
李朝の両班の残酷性と戦後独裁政権に比べてましであると思われていた事も結構あった。
戦後の勧告の民族主義的学者達は国家主義のイデオロギーの極大化により、ナショナリズムが高まり侵略主義に対する独立運動に焦点を置き、
その研究内容の大部分は、否定的な面だけであって客観性の乏しいものが多い。
それは民衆から離れていったものである。
つまり、村レベルでは植民地を肯定的にみる見方さえある。
それは本研究の進行中、当時の体験者達へのインタビューから分かった事である。
崔吉城 中部大学教授 『日本植民地と文化変容』(お茶の水書房)より
韓国独立の志士、羅寅永らの団体「自新団」の歌
「同盟の歌」 大意
怨むなよ怨むなよ 日本人を怨むなよ 日本人を決して怨んではならぬ
日本人にあらざれば 露国の強暴免れじ 日本は凶悪なロシアを駆逐して
龍岩浦をば犯せしを 友邦日本の兵力で くれたではないか これは日本
之を千里に駆逐せり 是れ恩徳に非ざるか でなければできないことであって
我が政府に人在りて 内治外交を料理せば 恩徳ではないか 韓国政府が内外
日本の如き文明が 野心を起こす理あらんや の処理をきちんとしていればどうして
大韓国勢強盛に 東洋平和の維持あるに 文明国の日本が野心を起こそうか
大逆無道の国賊が 君を売り国を売り 韓国さえしっかりすれば東洋平和が維持
自ら請うて譲与す 争奪繁きこの時に できる それを邪魔しているのが国内の
売国奴どもだ
中央日報
【コラム】民族と親日
カナアン農軍学校の金容基(キム・ヨンギ)校長は
「民族というものは3000万人の民族をいい、 領土というもの3000里の山河をいいます。
歴史というものは半万年の歴史をいいます」
と教えてくれた。
私はこの話を聞いた瞬間、目が覚めるような感じだった。
民族という言葉の意味がこれほどはっきりと具体化されたのを、 40歳を超える彼から初めて聞いたのだ。
ところで金容基校長はいつ誰から民族という言葉を習ったのだろうか。
25年が過ぎたいま、こうした質問が頭に浮かんでくる。
少なくともこれだけは明らかである。
民族という言葉は明治維新以後に日本でつくられたということだ。
中国人が日本人に漢字文化を伝えた功績を誇れば、 日本人は「中華人民共和国」から「中華」を除いた「人民」と「共和国」という言葉は
現代の日本が作ったと言い返すという。
日帝が朝鮮を併合した際、朝鮮にはこの併合を恥じる主体の民族意識がなかった。
民族は民族意識と同じだ。したがって朝鮮には「民族」がなかった。
李完用(イ・ワンヨン)らが「売国」した朝鮮には主権と領土はあっが、自らを国民だと意識してその主権と領土が自分たちのものだと主張する民族がなかった。
王と両班のものとしての朝鮮朝の主権は、韓日合併前、既にほとんど自滅していた。
外勢との争いに敗れて滅亡したのではない。
李完用らが「売国」したというのは誇張された修辞である。
争いは清国、日本、ロシアという外勢の間で、 無主物となった朝鮮の主権を先取りしようして行われた。
親日派、親ロ派、親清派は名前を付け替えた四色党派の変種にすぎないと 見るのがいっそのこと適切でないだろうか。
日本が朝鮮の主人となった後、親日派という朝鮮のエリートは老論の世の中を継承しただけだ。
滅亡した朝鮮朝に忠誠だった「臣下」を民族主義者だったということはできない。
民族は外部的には他の民族との境界ないし葛藤、 内部的には民族主権という2つの側面をたどって意識化される。
朝鮮王朝のように「民」には垂直的に捧げる忠誠だけがあり、 水平化された自由と人権がない国家では、民族主権がないため、
国家があっても民族意識はあり得ない。
さらに自由と民主主義がない国の民族意識は 虚偽意識(false conciousness)でしかない。
日本人は日帝が韓国に鉄道と学校を建設したことを誇りに思っている。
ウォン・イルファン(H.B.アンダーウッド)教授は、日帝が韓国に及ぼした功労は 鉄道や学校の建設ではなく両班階級の破壊だと話す。驚くべき洞察力だ。
しかしおそらく日帝のもっと大きな功労は、たとえこれを感謝することはできないとしても、
他民族による支配という苦痛と葛藤を通じて 韓国人に民族意識を芽生えさせてくれたことではなかろうか。
民族を構成する要件は共通した言語、神話、領土の3つだといわれる。
この3つのうち最も重要なのは共通した神話であり、 現代のすべての民族に共通した最も重要な神話は自由と民主主義だと私は考える。
19世紀ヨーロッパの民族主義は、民族固有の古代神話を作り出すことに熱狂した。
しかし過去の神話がない米国では、自由と民主主義という未来の神話で 「米国民族」をつくっている。
アフガニスタンでのテロとの戦争でも、ソルトレークシティ冬季オリンピックでも見せた
強力な米国の「民族主義」である。
韓国でも民族意識が本格的に定着し始めたのは、 韓国で産業化と民主化が本格化した1980年代からだとみられる。
外部的には日帝時に芽生えた民族意識が、内部的にはようやく茂り始めた。
個人の自由と繁栄という未来の神話が、 韓国でも民族意識の正常かつ最も重要な要素である。
日帝時の民族的抗日運動をした先覚者らは民族の師表として称賛を受けるに値する。
しかし日帝時の親日をすぐに民族に対する離反と見なすことには、 過去の無意識を現在の意識で判断するという時間的エラーがある。
したがって親日派を断罪しなければならないという政治的退行性強迫観念は 何にもならないだろう。失敗した、または失敗する政治家の運命的な煽動として、
古いレコードのように反復回転をするだけである。
姜偉錫(月刊エマージ編集人)
2002.03.07 15:0
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=opi&cont=opi0&aid=20020307150452100
「京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな低い屋根に 泥ぬりの荒壁
というありさま。それに道路がせまい上に、石塊出没して
凸凹状をなし、そのそばの土溝(どぶ) には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、 汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。この穢路(わいろ)
の奥にあった 一軒の日本家が著者の借住居であった。そこへ統監府から時々書類をもって
往復する 小使でさえ、通るたびに命がちぢまるといっていたくらいだから、 その非衛生的穢状が察せられるであろう」
そこで、何かの折りに、小松は伊藤博文にそのことを話したが、
「やせてもかれてもここは王城の地だ。そんなことがあるものか」
といって信じなかった。だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が 出席して、
小松の話がウソではないことを知り、さっそくツルの一声で、 統監官邸のある南山のふもとに、
日系官吏のために官舎が建てられることに なったという。
またきくところによると、朝鮮人は皮膚をなめらかにするため、毎朝小便で 顔やからだを洗い、
歯を丈夫にするため、小便でうがいをするとも書いている。
銭湯の湯槽は、日本人と朝鮮人とは 別々につくられていたが、朝鮮の女が
入浴にきた例はないという。 もっとも驚くべきことは、首都京城に新聞が一つも 出ていないことである。
前に『漢城旬報』という旬刊紙が出ていたが、 明治十七年十二月、“開国党”の朴泳孝、金玉均らが
暴動を起こしたときに つぶされてしまって、それからは『朝報』という官報が出ているだけである。
しかもこれは一枚ずつ筆写したもので、そのため韓国の宮廷では数百人の
筆耕を雇っていた。 以上は、当時の新聞特派員の通信に出ていたもので、
かれらの観察や報道にまちがいがなかったとは いえない。とくに朝鮮人が
小便で顔を洗ったりしたことについて、わたくしが調べたところによると、 とくに乳児の小便は清潔だというので、いろいろのことにつかったらしい。
(大宅壮一『炎は流れる』より)
前田日明氏 ビデオ発言(要旨)
前田 日本の戦後教育はこと自由さを教えることについてはあきれるくらいだった。
そういうところで染まった人が北の主体思想をやっているところとは合わない。
あげくのはてに中朝国境地帯のような辺境の地に飛ばされる。
へたすると強制収容所、もっとひどいと、いろいろでっちあげられて処刑されたりする。
ちょっとそれは複雑な気持ちでね。
私のおじいさんは李朝最末期の軍人で抗日ゲリラに参加して、捕まって逃げたりして、
日本に来たんですが、北朝鮮好きじやなかったみたいです。
韓国や北朝鮮だったら同じ血の流れた人間に対して、日本人が俺達にやっているより もっとひどいことをするだろうと言っていた。
日本に併合される前の朝鮮半島はまさに死せる墓場であった!
日露戦争直後の1906年、「武士道」の著者であり人道主義者の新渡戸稲造が 朝鮮半島を旅行している。
彼は朝鮮人を「政治的野心に欠けた、かの脆弱な女性的国民」と評して次のように述べている。
「山野は実に墳墓に充ち、予の今過ぎる所の路傍にも土饅頭を列ねて、また、やがて埋葬されるべき棺を列ぬ。/(朝鮮衰亡の原因は)その国の気候に非ず。
また、その土壌に非ず。かく死と密接なる国民は自ら既に半ば死せるものなり」
「枯死国朝鮮」 キリスト教徒 新渡戸稲造 (国際連盟事務次長)
「捏造された近代史」
黄文雄 日本文芸社
かっての主人明人を虐殺した朝鮮人
明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、 2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなのに、
新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。3回にわたる明征伐では、 朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、
盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に
下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪
を行ったのだ。清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のよう
なものがある。「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝、朝鮮において何の仇があろうか。
その恩に背いて、ここに至るかと…」(恒屋益服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)。
明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、
いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。
日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。万宝山事件は、朝鮮人と中国人の
水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。満州では、 朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/rekisi1.htm#shinryaku
落合信彦氏の著書
戦後の李承晩が韓国国民の目を逸らすため日本侵略を企てらしい。
韓国の初代大統領になった李承晩は日本統治よりも悪くなるばかりの国の経済に おける執政の失敗から、軍事訓練を行い上陸艇を用意し、日本侵攻直前まで行きました。
ところがそれが当時、日本や韓国に駐留しているアメリカ軍の知るところとなり、共産化と戦っていたアメリカにすれば同盟国の二つが戦争をするなど到底容認できる事では無く、強硬に李承晩を諫めました。
これが実現していたなら、侵略された口実をもうける事になり戦後補償どころか日韓関係や
良心的日本人にかなりの影響を与えたはず。
韓国の安寧と幸福、その生活を図るため、母国日本の財政負担は三年間に三千万円 に達している。そして、日本及び日本人を益することを少しもやらないで、韓国及
び韓国人のために図りてあまりにも忠実である。あくまでも韓国の主権を尊重する ため、中央の各部大臣や地方長官はすべて韓国人を任用し、日本人はその下働きに
なっているに過ぎない。利権は韓国人のみに与えて、日本人には荒蕪地開発の第一号 を与えただけではないか。なおその上、韓国通の大陸浪人を追放するなど、日本及び
日本人から孤立した政策を採ってきた総監の心事那辺にありやを疑わしめるものが ある。
韓国の邦字新聞
昭和20年代後半、日本のマスコミは「正しい歴史認識」を持っていた!
この半島のかつての禿山には水が茂り、田はよく耕され、鉱山は開かれ、道路 は四通八通し港湾の船の発着は自由となり、さらに北上すれば昔からあり得ない
譬にもいわれた、鴨緑江の水を逆流させるともいうべきほどの大工事もなされた のである。
吾々はすでに他人の手に帰した財産を数えて繰り言をいうほど未練がましい国民 ではない。しかし、かつて他人のものであり、今また他人のものとなった国土が
日本の管理下に置かれた期間に、美しく面目を改めたといい得ること、日本がかかる 能力を有する国民であることを自覚するのは、幸福なことである。
経済学者 小泉信三博士 「国土の姿」 読売新聞 昭和28年1月3日づけ
朝鮮民衆は日本統治時代になって、日本警察による両班取り締まりを大いに感謝した ほどだったという。ただし、朝鮮人の補助憲兵や巡査が日本の権力を借りて今度は
宿怨を晴らす恐ろしいシーンを展開し、「後の日本に対する悪感情を生んだ。如何に 横暴だったか、驚くべき事例をたくさん知っており、一冊の本ができる」
(今村靹『歴史民俗朝鮮漫談』昭和三年)。
西尾幹二/著「国民の歴史」
私たちは類例のない悲劇の国に、うかつにも手をつっこんでしまったのである。
朝鮮半島に巣くっていたさまざまな悩み、とぐろを巻く恨み、怒りと絶望。
あえていえば、手を触れないですめばいちばんよかった。へたに手を触れたために、 内部のドロドロとした情念までもが、われわれに火傷になって降りかかってきたのだ。
西尾幹二/著「国民の歴史」
民族独立記念館の拷問シーンについては、
1.日本人が本当にやった
2.実際には朝鮮人がやった
3.戦後の韓国人の創作
以上の3通りが考えられる。
2については、
【韓国人及び外国人による「韓国批判」】
http://teri.2ch.net/korea/kako/993/993549357.html
の280〜284を参照。
3については、戦後の韓国警察の拷問が背景にあるのでは。
「醜い韓国人 <歴史検証編>」 朴泰赫 加瀬英明 1995年 光文社
<加瀬>
(第二次大戦後の)南朝鮮過渡政府のときから、警察が恐怖政治を行なっていた。
混乱期だったということから、理解することもできますが、日本統治時代よりも、 ひどいものでした。ヘンダーソンは先の著書(『韓国渦巻きの政治』)のなかで、
1947年なかばに南朝鮮で7000人の政治犯を含む、2万2000人が投獄されていたが、 「日本時代の2倍近くに当たる」といい、また、1950年の韓国財務部の発表を引用して、
全国21ヵ所にある刑務所に、5万8000人が収監されているが、「国会の調査によれば、 このうち50〜80%が国家保安法違反によって捕らえれた者である」と、述べています。
そして、「拷問――腎臓を殴打する、水漬け、電気ショック(「電話」と呼ばれる)、 親指を縛って、身体を天井から吊るす(「飛行機」)、唐辛子を無理やりに大量に
食べさせる」ことが、ひろく行なわれていた、と書いている。また、警察の腐敗が 目にあまり、1948年には警察官の賄賂収入が、給料の「50倍から80倍に当たった」と、
述べています。
<朴>
私は拷問を受けた人々を取材したことがありますが,唐辛子を無理やりに食べさせる なんてことはできませんよ。これは、まず、人の顔を濡れた布で覆ってから、唐辛子を
溶いた真っ赤な湯を、ヤカンから目や、鼻腔に、流し込むんです。コチュゴモンという 拷問です。「電話」は、昔の手動式電話がありますね。陰陽の電流を流した線を、
被疑者の指につないで、電話器の取っ手をまわすんですよ。これも、効きますよ。
韓国人による韓国の反日煽動批判
韓国の政治的命脈は気息奄奄であつた。「何時滅亡するか」といふ状態 だつた。鶏林各道の山河は開拓すれば将来、大富源となることは疑ひ
ないところだつた。だが、政治は腐敗し、堕落は横行し、巨費を投じ て官を買ふ徒は財を奪ふなど「人々を苦しめた」。十三の長官などは、三
年その職に居れば子孫は三代の後まで寝転んで我が世の春を謳歌でき
た。かういふのが実情だから、富めば役人に奪はれるため、人々は働 いて富を得ようとする者はいない。人民は怠け者となる。唯、その日
暮らしの衣食さえ足りればいい。とした。土地があつても耕さない。
鉱山があつても採掘もしない。漁民も働かない。山林は乱伐にまかせ た。国をあげてその日暮らしである。かうして国運は日に日に衰える
一方だつた。
「北清戦観戦記」 坪谷善四郎
日本政府は併合以来、十年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、国利民福を向上させる 点に於いて用意周到であった。運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等
旧朝鮮時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらした。にも 拘らず朝鮮人の性情が偏狭、我執に傾いているためか、口では感謝しながら、心では
淋しさを感じ朝鮮人の自尊心を傷つけるなどと思う者が多い。
更に朝鮮人は米国を自由郷、現世の楽園のように思っている者が多い。しかし、そこ は白人の天国であって、有色人種の人権はほとんど認められない。パリ平和会議で、
日本が人種差別撤廃を提唱したが、オーストラリアのヒュース首相が強硬に反対し、 それを真っ先に支持したのは米国のウィルソン大統領でなかったか。米国の庇護に
頼って光栄ある独立が達成できるなど不可能の事である。日本統治下の朝鮮人は米国 に比べて遥かに幸福であることを認識し、穏当な方法によって民権を拡大してゆくこ
とを講ずべきである。
閔元植 「朝鮮騒擾善後策−鮮民の求むる所は斯くの如し」
「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか」 新井佐和子 (草思社 )
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794207980/ii-22
「引き揚げ婦女子の悲劇」
http://www.nomusan.com/vatican_asaoka_syouwanojyosei_2_04.html
「救済活動に挺身した人たち」
http://www.nomusan.com/vatican_asaoka_syouwanojyosei_2_05.html
昭和21年頃の博多は大陸からの140万人といわれる引揚者でごった返していた。
その中で日本の婦人たちが外地で受けたレイプの実態が次第に明らかになってきた。
妊娠し、或は性病を感染させられて故郷に帰るに帰られず、精神障害を起こしたり、 中には上陸を目前にして海に身を投ずる女性も出る有様だった。
引き揚げ体験記等から判断して被害者が5千人のはずがない。正確な堕胎件数は 判明していない
だろうし、死者は計算に入ってない。満州での邦人死者は婦女子が 大半で約20万。虐殺・自殺・餓死・凍死など。
「ベール脱ぐ引き上げ史 」
福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言 西日本新聞(平成9年5月13日)
http://web.archive.org/web/20010502014443/http://www.nishinippon.co.jp/media/news/9705/0513.html
終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍兵士らから暴行を受け妊娠した女性の 堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が
行われた。当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、
自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
(中略)
「博多引揚援護局史」などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。
患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。
堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、引き揚げ史の中
でも実態は詳しく分かっていない。
日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知って
いたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」
と当時の様子を証言した。
処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを
思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち「歴史の 一ページとして証言しなければならない」と思ったという。
(中略)
証言を聞いた住民グループ「戦後五十年筑紫野語ろう会」の田辺幸子代表は 「万感迫るものを感じた。ほかの引き揚げ地でも同じことがあったはず」と指摘。
金日成によって米中が戦争にまきこまれたのである。「南北を分断された」とコリアン はよく口にするが、「分断した」のは直接には金日成の「主体的」好戦性であり、コリ
アン自身である。それをいつまでも受身形でいいつづけるところに「コリア民族主義」
の宿命的な弱点がある。
関川夏央「拉致・誘拐は国家テロである」 中央公論2002年5月号
「読売新聞社と韓国日報社がアジア各国でおこなった共同世論調査」
(1995年5月23日・読売新聞)
『日本と韓国に対してそれぞれ否定的な印象を持っている各国人の割合』
中国人 対日37.8% 対韓31.1%
インドネシア人 対日13.9% 対韓33.3%
マレーシア人 対日 2.9% 対韓33.3%
タイ人 対日21.6% 対韓61.2%
ベトナム人 対日 1.1% 対韓41.3%
------------------------------------------
「戦後50周年アンケート」
(1995年読売新聞の世論調査)
『第2次世界大戦中に行なった行為は、今でも日本との関係の発展を妨げているか?』
妨げている
韓国 71%
中国 49%
タイ 36%
マレーシア 25%
ベトナム 13%
インドネシア 12%
日本に対して良いイメージを持っている
ベトナム 95%
マレーシア 94%
タイ 80%
インドネシア 72%
中国 53%
韓国 30%
明治14年、朝鮮の青年約60人が慶応義塾にきた。しかし彼らは遊んでばかりで ついには大学の金庫を荒らし、福沢諭吉を怒らせた。諭吉の「隣国の開明を待つ
猶予あるべからず」という脱亜論は、この留学生の姿を見て書かれたもので、 そこにははっきりと失望が読み取れる。
「日本警世(連載10)」 高山正之帝京大学教授
THEMIS(月刊テーミス)2002年4月号
米国の私立校は慶応のようだ。
米私立校「韓国留学生に問題児多い」
(前略)
今後この学校に入学しようとする韓国学生は、必ず事前に米国にきて、入学査定担当者と
直接会ってインタビューをしなければならない。
インタビューの目的は、単純に学業修学迫ヘ(英語実力)だけを見るのではない。学校側は
受験者が道徳的に問題があるかないかをまず検討すると明らかにした。
(中略)
しかし最近になって、相当数の米国私立学校で韓国学生を拒絶している。韓国学生を多数
受け入れると、学校の雰囲気が悪くなるという認識が徐々に高まっている。
(中略)
このため米国の学父兄らから「韓国の子供が多い学校に行かせるのはよくない」という非難
さえ出ているという。
麻薬や飲酒などに容易に陥って、試験の時は不正行為を頻繁にするので、学校側の悩みの
種になっているというのだ。
(中略)
その上、最近米国学校は韓国学生たち間での「イジメ」という悪習が米国学生の中にも広がる
可能性対して憂慮をみせている。
ニュージャージー州Sスクールのある教師は「外国で同じ民族の学生たちから除け者になった
場合、その精神的苦痛はなんとも言えないほど大きい。人種が違ってもいないのに、どうして
こういう現象が唯一韓国学生間で行われているのか、理解できない」と話した。
有名な名門校であるマサチューセッツ州のD高校は、韓国学生に対する査定基準を大幅強化
し、コネチカット州のR高校は韓国人入学生数を大幅縮小する計画だ。
一部の学校では転学してくる韓国学生に対しては、それ以前の学校での交友関係を調べる
こともある。
(後略)
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=soci&cont=soci0&aid=20000601120350400
安重根は「反日独立運動の英雄」どころか「日露戦争」の勝利を絶賛するほどの
「親日家」「親天皇派」だった!
「日本の天皇の宣戦書には、東洋平和を維持し大韓独立を強固にすると書かれていた。
そのような大義は青天白日の光線より勝っていたのであり、韓・清の人々の智恩を論 ずることなく、みな心を同じくして、賛同し服従したのである。もう一つは、日露の
開戦は黄白両人種の競争というべきものであって、前日までの日本に対する仇敵の心 情がたちまち消え、かえって、一大愛種党となるにいたったのであり、これまた人情
の順序であり、理に合うものであった。快なるかな、壮なるかな。数百年来、悪を行 い続けてきた白人種の先鋒が、鼓を一打したたけで大破してしまったのである。日露
戦争の勝利は一千古に稀な事業として万国で記念すべき功績であった。だからこのとき
韓・清両国の有志は、はからずも同じように、自分たちが勝ったように喜んだ」
「東洋平和論」 安重根
安重根を第一の民族の英雄として祭り上げている韓国は安重根の言うとおり、日露戦争を記念し、靖国神社、東郷神社を参拝しなければならないはずだ!
戦後の韓国人は、日本が言語、文字、文化を奪ったとか破壊したかとか言っている が、きわめて史実を無視した現実離れした話である。前述したように、そもそも朝鮮人
の独自の文字創出は、ただでさえ東アジア史上もっとも遅かったのに加え、両斑の排斥 にあったことから、国字、国文としての体系化はずっと後にならなければ進まなかった。
そのため、朝鮮人の歴史諸智識の蓄積もかなり遅れてしまったのだ。もともと独自の 歴史の蓄積がない文化なのだから、奪えといわれても奪うものはあまりない。
この点について韓国人はどこまで認識しているのだろうか。
韓国は日本がつくった 黄文雄
日本によって有史以来初めて独立した大韓帝国は
今の韓国と同じように身のほど知らずで夜郎自大であった!
<清国は大国であり、古い国であり、また文化の先進国である。しかし昨今除々 に衰退しているのに相変わらず人を侮り、己を尊しとしている。そして漫然と
しているうちにアヘン戦争で英国に負けた。国勢は日々傾いているのに、今も 自分を中華と呼んで自大視し、他国を外夷と言って軽蔑している。このことが
判っていないから、世界から笑われ、凌辱されていることを甘受しなければなないのである。>
大韓帝国 「国民小学読本」の第一課「大朝鮮国」より
日本の場合、江戸期を見ても、儒教において一学派による圧倒的な
支配がなかった。朱子学、陽明学、古学と、大きく分けてもいくつかの
学派が存在した。この点は朝鮮と比較すれば明らかである。朝鮮の儒教は
(とくに李朝の500年間)朱子学一色であったこと、官吏のポストを
多数の両班が争うさいの党争儒教であったこと、厳格な身分制度と家族制度 を律する礼学儒教であったことなど、日本とは対照的であった。
猪木武徳「学校と工場」
宇垣時代の普通学校朝鮮語の教科書の内容
「巻四」
第一課 朝の海 第二課 進歩する世の中 第三課 ラジオ 第四課 勲章か金か (正直な軍人の話) 第五課 私の癖 第六課 牛(詩) 第七課 文字の謎
第八課 瘤取りの話(朝鮮の童話) 第九課 釜山 第十課 三年坂(童話)
第十一課 俚諺 第十二課 貨幣 第十三課 村婦の歌 第十四課 二使臣(中国 に使いして綿花の種子を持ち帰った者及び対馬に対して甘藷苗を持ち帰った者の話)
第十五課 運動会 第十六課 汗の雫 第十七課 野球 第十八課 朝鮮の気候
第十九課 人参 第二十課 地理問答 第二十一課 朝鮮第一のもの(山川など)
第二十二課 明太(魚の一種、干魚として庶民の愛用するもの 第二十三課 名官 (大岡裁判のような昔話) 第二十四課 足跡(雪に印した、人や獣の足跡につい
て) 第二十五課 四名節(正月、寒食、端午、秋冬) 第二十六課 中江藤樹 (故郷に母を訪ねた少年のときの話) 第二十七課 手紙(学芸会の状況を報ず)
第二十八課 扶余(詩)
「巻五」
第一課 時調(歌詞の一種で日本の和歌に比すべきもの) 第二課 身体検査
第三課 選挙 第四課 金正浩(朝鮮で始めて正確な地図を作った人の話)
第五課 銀行 第六課 銭の由来 第七課 物の値 第八課 間島から(手紙)
第九課 漁夫の歌 第十課 柳の木下にて(対話) 第十一課 堆肥製造
第十二課 諺文の制定(世宗の功績を称える) 第十三課 梨を送る手紙と返事
第十四課 仲のよい兄弟 第十五課 伝染病 第十六課 動物の体色 第十七課
智慧くらべ 第十八課 白衣と色衣 第十九課 金剛石(日本の歌の諺訳)
第二十課 俚諺 第二十一課 沈清(孝子伝)
「巻六」
第一課 釈王寺(北鮮の名所) 第二課 時調五音 第三課 広大な宇宙
第四課 陽暦と陰暦 第五課 俚諺 第六課 孔子と孟子 第七課 商業
第八課 語呂あわせの笑話 第九課 詩話二篇 第十課 飲料水 第十一課 海の動物 第十二課 黄喜の逸話(世宗時代の大政治家の少年時代の話)
第十三課 裁判 第十四課 富士山と金剛山 第十五課 お母さんへ(手紙)
第十六課 更正 第十七課 品種の改良 第十八課 機会の神 第十九課
実業 第二十課 苦心の結晶 第二十一課 都会と田舎
【解説】
宇垣時代とは1931年〜36年。ちなみに斉藤時代(1929年〜31年)も 大差ないらしい。注目すべきは諺文の制定や沈清ら朝鮮の民族性を表す内容がある
こと。
上の資料は「日本統治下の朝鮮における朝鮮語教育」萩原彦三からの孫引きである。
カッコ内は萩原の解説である。ちなみに朝鮮語が随意科目になったのは1938年、 41年からは削除。
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日本の刺戟により朝鮮は富み且つ沃土と化した。その平野は耕作され、岡には森林が 植林されている。道路と鉄道とは網状に構成され釜山と鎮南浦さ申分なく整備せら
れているのである。
満州国においても同様な進歩が認められるが満州国は朝鮮の様に国が何処から何処ま で一変したというのではない。朝鮮では日本の開化事業が四十年前に始まり、三十年
前に漸く一段落ついたのであるが、満州国では事業に着手してから、辛うじて七年に なるに過ぎない。しかしこの七年間に国の災厄であった匪賊を抑え、−この真偽につ
いては新京の数名のフランス宣教師に尋ねて見られるがよい−又他日沃土と化すべき 耕作可能地七、八十万方キロの四分の一を既に開拓したのである。最後に満州国に多
い石炭、錫、マンガン、鉛、金、プラチナの鉱山は既に踏査され、熱心な活動により 既に採掘が始められているのである。又奉天には既に世界最新型の製鉄所がある。
尚、日本は世界の共同利権を脅かした匪賊を絶滅したのであるから列国は日本の満州 国の実権を握っていることを祝賀せねばならぬのである。
クロード・ファーレル著 森本武也訳「アジアの悲劇」
昭和15年6月15日発行 日光書院刊
※万宝山事件(昭和6年、満州・長春付近の、万宝山で耕作をしていた朝鮮人が中国人に 襲撃される事件がおこり、これが殺傷事件として朝鮮に伝わったため、朝鮮在住の中国人
への復讐襲撃が行われ多数の死傷者を出した。
これが更に中国に伝わる中で、朝鮮人を煽動したのは日本人だという宣伝がなされること
によって反日運動に火を付けた。
報復暴動後の平壌(現北朝鮮首都)西門通の中国人商店街の惨状写真
http://www.history.gr.jp/showa/manpozan.gif
「昭和史の真実」
http://www.history.gr.jp/showa/mokuji1.html
歴史を偽造する韓国。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198615055/qid%3D1021541000/250-2129860-0201050
朝鮮の『丙子録』という本には、清国による略奪虐殺の惨状を記して
「武力による略奪が行われ、すべては焼き尽くされ、官も氏も素っ裸
の状態であり、秀吉の侵攻の時よりも甚だしいものがある」とある。
"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち 「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄(光文社)
「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=soci&cont=soci0&aid=20020226212152400
「梨花学堂時代、柳寛順の級友だったポガック(99、僧侶)さんの証言によると、死亡
して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったそうです。その時、死体は腐って いましたが、四肢は切断されてはいなかったという話です」。
任さんは「柳寛順への盲目的な思い込みから、こうしたいい加減な事実が広まり、子 供向けの伝記にまで掲載された」とし、「今は、冷静になって史実を確認すべきだ」と話
した。
朝鮮総督府に見る「日帝」の功績 日韓裏面史-其の伍-
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/html/history/honbun/nikkan5.html
「韓国国史」を書いてみよう
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/korea/1021347730/l50
ちなみにシャルル・ダレは朝鮮に布教に行った宣教師の報告をまとめた人ね。
布教に行った宣教師ですか? ソウルで処刑されてます。
小中華を自負する属国の歪んだ自尊心
韓国人が自国の歴史認識について、もっとも忌み嫌うもののひとつは、中華帝国 によって朝鮮の歴史が決められてきたという「他律史観」である。「事大主義」
という言葉も、あまり好きではないようだ。これらの用語は、自国史の主体性に かかわるものだからだろう。史実とは関係なく、自律性が欠けていることを、ひ
たすら否定したがるのだ。
そのため1000年以上にわたる中華帝国との主従関係、君臣関係を無理やりに 「友好関係」「同盟関係」などと主張するのだろう。しかし、精彩を欠く半島史
は、冷厳な目で見れば他律性以外の何があるというのか。
中 略
しかし、李氏(朝鮮)一族の属国願望は限度を超えた、きわめて徹底したもので あった。明から国号を乞い、国王の認知を求め、生殺与奪の権をすべて宗主国に
任せてしまったのだ。これまた、人類史上類を見ない属国根性である。
韓国は日本人がつくった 黄文雄 徳間書店
「朝鮮の悲劇」 F.A.マッケンジー 1908年 (1973年 平凡社東洋文庫)
韓国人は、遺伝と教育とによって、その大部分が、おおげさな物言いをする人間か厚顔無恥
の嘘つきかである。それで、日本人の非行についての彼らの陳述は、検証なしに、これを受け
入れることはできない。
(ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用している)
◇新井白石の朝鮮観 (江戸中期の儒学者・政治家 1657〜1725)
日本に送られてくる通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀をうたいながら、朝鮮の文献を読んでみると、敵情探索を目的としている。これは恩義を忘れたものである。大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。
「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋○狢之俗、天性固然」(朝鮮人は狡猾でいつわりが多く、利のあるときには信義をかえりみない。狢(むじな=タヌキの異称)の類の風俗は、天性からしてそうなのである
「国書復号経事」)。
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