皇后美智子妃(72)がストレスによる体調不良のため、公務を休止されることが明らかになった。今後3か月間、公務を休まれる。これに関連して、「皇后陛下がご病気にもかかわらず公務を続けられる」ことへの非難がある。その正誤・当否はどうであろう。
皇后陛下のご病気が私的なことは言うまでもない。もちろん私的だということが、重要な場合もある。しかし皇后陛下の容態は緊迫した状態ではない。従って皇太子と雅子妃は公務を続けておられるのだろう。
しかしそれでも不満を表明なされる人もいるようである。
確かに政権担当者(皇室は政権ではないが、国家の象徴としての担当者)として「私的秩序(礼儀作法)」は問題とされなければならない。世界の何れの子民であれ、国民というものは、その国民の指導者の教養・常識・礼儀作法には非常に敏感である。そのため、それらの指導者の「私的秩序(礼儀作法)」は、その国民の前に演出されることは言うまでもない。
アメリカのニクソン大統領は、その録音テープにあった「タブーとなっている性的隠語の発覚」が失脚の重要な一因となった。一方、未開といわれるアフリカの一種族でも、その酋長が「落馬で陰部を露出した」ことが失脚の原因となった。これらのことは、秩序の基本が武力によるものではなく、私的秩序によるものであることの例証であろう。
秩序の安定した社会にあっての武力とは、秩序を侵した者への刑の執行に限られるものであり、またそれの実施も、あくまでも、その刑の執行によって秩序の回復をはかる場合のみ許されることである。
指導者と言えども、個人が守るべき秩序=礼儀作法を無視する権利を獲得することはできない。そして、このことは、その表れ方の相違はあっても、世界の何れの民族にもある考え方である。これを無視する者は、如何なる暴君となりうるか、如何なる想像に絶する悪行を行なうか、予想がつかないから、全ての人間が、その人間に暴力(警察組織や軍事組織)を委託しておけないと感ずるのは当然である。
従って、私的秩序(礼儀作法)において問題とすべきは、その不法の内実の型である。まず衣・食・日常生活の「不法」がある。そしてその「不法」が行なわれる場合、それは伝統文化の諸様式への軽蔑なしいは無視という形で示される。現在の日本ではそうでもないが、多くの民族は実質的に各個人を拘束している全国的な成文法は存在していない。そのため慣習の無視は、そのまま一切の法の無視となるそして自らが権力者ないしは指導者であるが故に、公私ともども一切の法を無視しうると見なした場合、国民がそれを許さない方向へ向うのは当然である。
この観点から「皇后陛下がご病気の場合には公務は控える」とする慣習は日本には存在しない。またそれは国民の慣習でもない。多くの人は両親のどちらか、あるいは夫や妻や子供などが病気であっても、公務(仕事)を続ける。最悪の場合、死に目を見なかった人をも現れる。しかしこれを「私的秩序」という法を侵した者と見る人はいない。同じように皇太子殿下や雅子妃の行動を、皇后陛下のご病気と関連させて見る人もいないだろう。ましてや皇后陛下は緊急の容態ではないのである。
もっとも心配性&神経過敏な方々の中には、それでもこのことを問題とする。それは皇室の捉え方のひとつであり、その見方や考え方を否定しようとは思わない。そしてその見方から、身近な将来、実に馬鹿げた皇室持つ事になると憂慮し、進歩派(左翼)はその有様を見て「これで皇室は終焉を迎える」と暴走を見てみぬ振りをしていると考える。
これは二分法における保守派(右翼)対進歩派(左翼)の闘争図式であり、多くの日本国民(私もその一人)に無関係な争いである。
このブログエントリのトラックバック用URL:
http://katu.iza.ne.jp/blog/trackback/135884
by ブルーフォックス@雅…
マナーを正しくすべしのオリジ…