草創期の内弟子には、青山一真、宇宿五郎、鳥居武二、上広哲彦(のちに分派して実践倫理宏正会を創始)たちがおり、長男の丸山竹秋も父親の仕事を助けました。次第に雑誌頒布の努力が実り、 次々に心境を磨く道場としての「朝の集い」会場が開設されて、この運動はやがて東京近郊はもとより関西・中国・九州へと波及し、全国に広がっていきます。
昭和23(1948)年に『無痛安産の書』が上梓されるや、敏雄は超人的に講演、個人指導、書道や短歌の指導をこなしながら、研究に打ち込み、数多くの論文や著作を矢つぎ早に発表していきました。昭和26(1951)年には病身をおして夫人を伴い、伊勢神宮に人類救済の誓願を奉じています。それは身命を犠牲にしての壮絶な誓願でした。同年の12月14日、東京都武蔵野市の自宅「高杉庵」において永眠。
「我が願ひたぐひも無けれしみじみと人類の幸思ふなりけり」
晩年の作であるこの一首に、丸山敏雄の真情と念願が込められています。 |