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オタクとは何か? What is OTAKU? 大泉実成
第16回 ジェンダーの越境
ゲーム内での「性行為」

 以前、外見オタク内面少女、という話を書いたことがある。
 ある投稿から、いわゆる萌えヲタ(萌え系オタク)と呼ばれる人たちの中には「自分の中には少女が住んでいる」という人がいると紹介した。たしかに、店の萌え系諸氏とつきあっていると、非常に神経が細やかで優しく、何くれとなく気を配ってくれることが多い。ある意味で、いまどき珍しい気配りのできる青年たちなのである。どんな男性にも女性的な側面というのはあるものだが、それが非常に発達している、という言い方もできる。したがって昨今のオタク文化は、彼らの発達した女性性と深くかかわっているに違いない云々、というようなことを書いた。で、このことに関連して最近聞いた話がちょっと衝撃的だったので、まずはそれについて。
 話してくれたのは店の後輩のT君である。22歳。彼は萌え系については造詣が深く、アニメ、ゲーム、マンガ、なんでもござれである。180を超える長身でありながら女装したこともあり(『ToHeart 2』(*1)の制服。ピンクのセーラー服)、コミケにはパロディ4コママンガを作って毎回のようにサークル参加している(夏コミは『らき☆すた』4コマだった)。作品は僕が見てもかなりの水準に達している。このような人なので、あるとき、僕が思わず、
 「Tさんって絵に描いたようなオタクですね」
 とこぼすと、
 「ありがとうございます」
 と全く悪びれない口調で即答した。そういう人である。
 彼がギャルゲーの大家Uさんと話しているのがなんとなく聞こえてきた。それはネットゲームの話で、二人とも女性として登録し、女性キャラを使ってゲームをし、ゲーム内で本人は女かと聞かれればそうだと答えるらしい。すると、しつこく口説かれることがあるという。それがいかにうっとうしいか、という話をしている。面白そうなので、T君をつかまえて話を聞く。
 「そうですね、金をみつぐやつもいるし、ゲーム内で結婚しているカップルもいます」
 T君も、ゲーム内で結婚したことがあるという。無論女性キャラでである。
 「だから僕もここなら結婚したことがあるんですよね、っていうのはもっとダメ人間ですか」
 「ははははは」
 ゲーム内での性行為もある、というのには驚いた。そんなコマンドがあるのか?
 「いや、ぜんぶ妄想ですよ。僕がログインすると、『○○、待ってたぜー』って、ずっと待ってるらしいんですよ。向こうは女だと思いこんでますからね。オタクの性欲っていうのは強いと思いますよ。ほんとうざいですよね。やるのは、実際には、キャラが服を脱いでぺたんと座ってるだけ。後はチャットです。まあこっちはエロゲで鍛えたテクで相手をするんですよ」
 一瞬あっけにとられたが、なるほど、このようにして彼らの女性性は鍛えられていくんだ、と思った。
 T君は「けっこう興奮しますね」とぽつりと言った。そしてしばらくしてから「終わってから『何やってんだ俺は』と思いますけど」と付け加えた。
 僕は自室でパソコンの前に座っているT君の姿を想像した。相手の男の性欲を冷静に見つめている横顔や、女性キャラになりきってキーボードを叩いているシーンなど。そして彼が感じた興奮の質について考えていた。
 彼は平野綾をこよなく愛し、どうすれば彼女と結婚できるか真剣に考えているような人間なので、もちろん同性愛者ではない。日頃話していても、自分とさして変わらない性的感受性を持っているように思える。女装にしても「女性キャラの気持ちが少しわかった」と言っていたので、創作上女性キャラを描くことがある彼の行動としては、なんら不自然な感じはしない。
 僕が衝撃を受けたのは、そんな、自分とさして変わらぬ性的感受性を持っているようなT君が、さかっている男の相手をしてやり、ある種の性的興奮を感じたということだった。むろん女性役をやって、性的な興奮を感じるというのは当然予想できることである。人間の性的な興奮の射程の広さというのは日頃から感じていることであり、当然そのような立場と役割で女性役をやれば、僕も何らかの興奮に襲われると思う。
 しかし、僕にはそれを自主的にやろう、という気が起きない。たとえそれがネット上という間接的な場であろうと、男の性欲の相手をする、という点で、生理的な拒絶が起こる。無論この世には男と女しかいないのだから、もう一つの性を理解するためにネット上で女になりきって性行為をしてみる、というのは意義豊かなことがらであろう。だが、そうした経験を求める気持ちより、拒絶感のほうがはるかに上回る。
 それをやってみようという男が、T君やUさんだけでなく、ある程度のマスとして存在するのが予想できること。そして、その動機が、僕が言うように単なる創作上の必要とか、もう一つの性を理解しようとかいった表向きのものではなく、より内面的で切実であること(面白がってやっているという側面はあるにせよ)。僕が驚きを覚えるのはこの点である。それは、オタク文化に、そして日本文化そのものに、どのような影響を与えるのか。与えているのか。

男性主体がどこにもいない

 竹熊健太郎さんが脳梗塞から回復し、「IKKI」誌上で『サルまん2.0』(*2)の連載を始められた。慶賀の至りである。
 竹熊さんも元気になったことだし、インタビューが「つづく」のままになっていたので、第3回の原稿をまとめて送った。現在修正中なのだが、その過程でいろいろと面白いお話を聞かせてもらった。
 一つは、オタクの発生より「やおい」の発生の方が先ではないか、という話。竹熊さんの話では、オタクの発生には諸説あるが、言葉としての「おたく」は1983年の中森明夫による造語化を待つことになる。一方のやおいだが、1979年にはすでに、波津彬子が主催する『らっぽり』という同人誌上で「やおい特集」が組まれている。これに参加している波津、坂田靖子、花郁悠紀子らはそうそうたる作家陣で、彼女たちはいわゆる24年組(萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、山岸涼子)の『風と木の詩』に代表される少年どうしの恋愛に深い影響を受けた世代である。
 自分とは異なる性の役割をすすんで行うこと。これをジェンダーの越境と呼ぶとするなら、前節のT君はまさにそうした局面に積極的に身をおいていることになる。そして、こうした行為においては、やおいの方がはるかに先輩になる。
 T君はなぜそうした行為をしようとするのか。その内面的で切実な動機とは何なのか。それを考えるための幾つかの手がかりが、先輩であるやおいの中にあるのではないか、と今僕は漠然と思っている。しかし僕はやおいの文化に暗いので、いずれ専門家から話を聞くことになると思う。今はとりあえず、漠然と思っていることについて漠然と書く。
 前著『萌えの研究』で、僕はオタクたちが萌えるということがらを片っ端から経験しようとしたが、その中でどうしようもなく違和感を覚えた一群の作品があった。それはこの連載の中でも何度か触れられてるが『マリア様がみてる』(*3)に代表される女子高生の世界であった。いわゆる「百合」と呼ばれる女性同士の恋愛の世界である。初読の時、僕はこの作品の中に自分の自我を託せる男性主体を見出すことができず、作品とどう切り結べばいいのかさっぱりわからなかった。
 その後読んだ『あずまんが大王』(*4)は、ある意味でもっとすごかった。これまた女子高生の世界だが、作中に男性主体がいないとかいうレベルの話ではなく、ひたすらかわいいものをめでる作者とキャラの息づかいしかしないのだ。性的な要素が微塵も感じられない。読む人が読めばその空気感が心地よいのだろうが、僕には空気が止まっているようにしか感じられず、眠くて死にそうになった。そして、何度挑んでも最後まで読み通せなかったのである(アニメ版は工夫が凝らされていて面白く見ることができたのだが)。
 店員取材を始め、萌え系の人たちの人格に触れることで徐々に理解したのは、彼らの穏やかで優しく、繊細で傷つきやすい感受性にとっては、このような世界が格好の癒しの場になるということだった。彼らは僕のように作中に男性主体を探そうなどという無駄な努力はせず、自らのうちの少女を、つまり彼らの中の女性性を最大限に共鳴させ、作中の女子高生たちの一員となってその世界にあることを楽しんでいたのである。というようなことをこの連載で以前書いた。
 ブログ時代というのは有難いもので、kaienさんという人が、僕の文章を引用し、さらに考えを深めてくれた。タイトルは、ずばり、「オタクは女の子になりたがっている?」。

「男性性への嫌悪感」を持つ男性

 このテキストの中で「どうして俺は女子高生じゃないんだ」(『マリみて』ファンの男性の掲示板への書き込み)という発言を含む熊田一雄の文章が引用されている(『“男らしさ”という病?』風媒社)。ある意味で、これまで見てきた萌え系のオタクの行動を象徴するような一言である。
 kaienさんはこのようなオタクの行動の背景にあるものを「女性性への憧憬」と「男性性への嫌悪感」であるとみる。前者について僕の意識は向いていたが、後者については十分に意識していなかったので、この指摘はありがたかった。
 なぜ男性オタクに男性性への嫌悪感が生まれるのか。さまざまな理由が予想されるが、kaienさんは「男性であるからこそ、男性のひどさ、みにくさ、あさましさを知っている」とし、「百合萌え男子たちが嫌悪してやまないのは、男性性そのものであると同時に、男性性の『加害者性』であると考えられるからである」と述べる。
 これは、実に納得できる見解である。心優しい彼らにとって、振り返れば自分自身がこのように暴力的で加害的な性の持ち主であることは、どこか耐えられない感じがするだろう。
 ここでT君のことを思い起こしてみると、女性キャラの視点に立ち、さかりまくって一直線になって向かってくる男の性欲について「性欲が強い」「うざい」と切り捨てるその発言には、男性性そのもの、そしてその加害者性に対する嫌悪感が如実に感じられる。その点では、T君の内在的な動機は百合萌え男子たちと共通であるように思える。
 ところが、T君はさらに一歩進んで、ジェンダーを越境していわば被害者側の立場に立った。男性として、傷つけられない雰囲気の中に浸ろうと女子高生との同一化を行ったのが百合萌えオタクだが、T君はさらに、今度は女性として傷つけられる性を引き受けようとしているのである。
 そこまでやってしまおうという動機が、実感的によくわからない。
 女子高生との同一化を徹底すれば、いずれ愛する男性の加害者的な性に身をさらすことになるのであり、T君の行為は一つの論理的な帰結であるとすら言える。しかし、それにしてもなあ。
 おそらく僕が彼と同じ立場に立っても、男性の性というものについてうんざりすることになるだろう。僕はこれまで自分の性欲を、相手をする側の視点に立って見たことがなかったのだ。その点だけ取ってみても、ジェンダーを越境しようとするオタクたちの行動は、性的感受性が彼らと大して変わらず、しかも僕のように想像力が乏しい人間にとっては新しいパースペクティブを切り開くものとなっている。
 これでT君がさらに女子高生との同一化を徹底させ、男性性への嫌悪感も超越してしまって「彼のその一直線の性欲がうれしいの」などと言い出すと事態はさらに進む(あああ、そんな想像はしたくない)。実のところ、そこまで進まれるともうついていけないんじゃないかと思う。しかし想像力だけで何とかついていこうとすると、そこで気になるのが、前述した「彼が感じた興奮の質」というものである。普通の男性でありながら、女性の役割を行うことでもたらされる興奮。それはいったい男性の性的興奮なのか、それとも女性の性的興奮なのか。
 ここまで考えると、はるか先輩として存在するやおいの方々の興奮とは何なのか、という問題がにわかに僕の中に浮かび上がってくる。同様に異性愛者でありながら、「攻め」として男性の役割を行うことでもたらされる興奮。それはどのようなものなのか。
 kaienさんのテキストにも、興味深い書き込みがあった。それはmさんという人のものである。

 男と女を入れ替えれば、ベテラン腐女子のやおい考察そのままのように思います。「やおい萌え女子たちが嫌悪してやまないのは、女性性そのものであると同時に、女性性の『被害者性』であると考えられるからである」と、どこかで言われていてもおかしくないですw

 このように、萌え系オタクとやおいはある種の明確なシンメトリックな関係を持つというのである。
 だが、残念ながらこの問題を論じられるような力量が今の僕にはない。というわけで、たいへん興味深いテーマではあるが、次の機会を待つことにしよう。

*1 『ToHeart 2』 http://www.aquaplus.co.jp/th2/
*2 『サルまん2.0』 http://blog.ikki-para.com/saruman/
*3 『マリア様がみてる』 http://www.gokigenyou.com/index2.htm
*4 『あずまんが大王』 あずま きよひこ/メディアワークス刊

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