〜醜悪祭〜(上)
クレナイ

著者:片山 憲太郎
イラスト:山本 ヤマト
■ISBNコード: 978-4-08-630342-2
■判型/総ページ数: 文庫判/304ページ +口絵4ページ
■発売年月日: 2007年11月22日
   第一章 冬が来たりて

 結局、わたしは一人で行くことにした。
 助けは呼べない。相談もできない。口外すれば全て無効。資格は消える。
 それが、赤い手紙に記されたルールなのだ。
 行かないという選択肢は、もちろんあった。
 あれを、見なかったことにすればいい。
 無視して、忘れて、これから先も生きていけばいい。
 そういう道はたしかにあった。
 でもわたしは、行くことにした。
 だって、どうしても、どうしても、どうしても、許せなかったから。
 許すわけにはいかなかったから。
 わたしは一人で、行くことにしたのだ。
 妹には、悪いと思う。本当に、すまないと思う。
 ごめんね、静之(しずの)。
 どうか、お姉ちゃんを許してね。



 紅真九郎には、村上銀子という名の幼なじみがいる。無駄話が嫌いで、必要がなければ何時間でも口を開かない彼女だが、昔は、唐突に質問をぶつけてくることがよくあった。「ねえ、真九郎。空がどうして青いのか知ってる?」とか、「憲法って知ってる?」とか、「人類がいつごろ発祥したのか知ってる?」など、分野を問わない様々な質問。読書家の銀子は幼い頃から博識だったのだが、家族は仕事で忙しく、身につけた知識を披露する機会に恵まれなかったので、適当な相手として身近な者を選んだのかもしれない。その選定は間違っておらず、「きっと神様が青いの好きなんだよ」とか、「ケンポーって、必殺技があるやつでしょ?」とか、「すっごく昔だと思う」などと、トンチンカンな返答しかできない真九郎は、彼女の自尊心を満足させることにかなり貢献していたはずである。銀子はいつも「あんた、そんなことも知らないの?」という顔をし、嬉しそうに笑っていた。そして、「それはね」と答えを告げるのだ。多分そこには、ろくに本を読まない無知な幼なじみに対する気遣いも含まれていたのだろう。彼女のそういうところが、真九郎は好きだった。真九郎が彼女から得た知識は、とても多い。
 しかし、いくつか答えを教えてもらっていないこともあったりする。
 その一つは、こんな質問だ。
「ねえ、真九郎」
「何、銀子ちゃん?」
「あんた、男と女の違いが何かわかる?」
 これは簡単だった。真九郎はすぐにわかった。だから答えた。
「おっぱい!」
 真九郎は、耳まで真っ赤になった銀子に思いっきり頭を叩かれた。それからしばらく銀子は口を利いてくれなかったので、答えを聞きそびれてしまい、現在に至るのだ。
 ……あれ、正解は何だったんだろう?
 今さら訊くのも恥ずかしい。
 永遠の謎か。
 十二月九日。水曜日。朝。星領学園。
 寝不足気味の頭を抱えて校門を通った真九郎は、たわいもない記憶を振り返りながら下駄箱で上腹きに履き替え、廊下を進んで教室に向かった。一年一組の扉をそっと開き、心持ち姿勢を低くしつつ教室に入ると、そこで待っていたのは重苦しい静寂。生徒はシャーペンを片手に問題と格闘中で、教卓にいる監督役の教師が、険しい表情で真九郎を睨みつけていた。正面の黒板には、『日本史 八時五十分〜九時四十分』というチョークの文字。星領学園は今、期末テストの真っ最中だった。本日はその最終日で、現時刻は九時十分。つまり。
「遅刻だな?」
「……遅刻です」
 教師の言葉に頷き、真九郎は肩を落とした。出席番号と名前、そして遅刻の理由を尋ねられたので、「出席番号十二番、紅真九郎、寝坊です」と真九郎は返答。遅刻の理由はウソだが、本当の理由は言う必要もない。平気でウソをつけるのが大人になった証拠だよな、と無駄な思考を働かせているうちに退出を命じられ、教師の顔色から取り付く島がないと判断し、真九郎は素直に従うことにする。
 教室を出る際、誰かの視線を感じて振り返ると、既に問題を解き終わったらしい銀子がこちらを見ていた。メガネの奥にあるのは、呆れたような眼差し。口が小さく動く。それは読唇術の心得がなくとも解読可能な、簡単な三文宇だった。
 バカね。
 悪かったな、と同じく口を動かして反論し、真九郎は教室から退散。
 しょうがない。終わるまで、廊下で待つとしよう。


 当然のことながら、廊下にはまったく人気がなかった。無人の空間にあるのは、窓から射し込む陽光と、隅へ追いやられた薄闇、そして冬の冷たい空気だけ。じっとしていると足元から冷気が這い上がってくるようだったが、あまり歩きたい気分でもないので、真九郎は我慢することにした。頭と体が、少しだるい。多分、朝食を抜いたのが原因だろう。今朝は、いろいろと大変だったのだ。
 真九郎が目を覚ましたのは、午前五時頃。まだ朝日も昇らないそんな時間に起床したのには、もちろん理由がある。廊下からの騒音に、眠りを邪魔されたのだ。具体的には、「じんぐろうぐーん」という呻き声である。誰かと思い真九郎が部屋を出て見ると、それは武藤環。彼女はいつものようにジャージ姿で、いつものように飲んだくれ、いつものように廊下で寝転んでいた。「じんぐろうぐん……お水……じょうだい…」。ガラガラ声で手を伸ばす彼女を見てため息をつきながらも、真九郎は一度部屋に戻り、コップに水を入れて渡した。「環さん、ちゃんと自分の部屋で寝てくださいよ」「むーりー」。常識的な注意をすねるような顔で受け流し、環は水を一気飲み。放っておけば、廊下で熟睡するのが毎度のパターン。真九郎は仕方なく環を背中に担ぎ、6号室の扉を開いた。すぐに後悔した。見るんじゃなかった、と。五月雨荘において、4号室が奇々怪々な異空間だとすれば、6号室は整理整頓という思想の存在しない魔境。生ゴミで溢れかえった台所をはじめとして、様々なものが散乱しているのだ。敷きっぱなしの布団、いつ洗濯したのかわからないジャージや下着、様々なリモコン、ゲーム機のコントローラー、扇風機のプロペラ、錆びたバーベル、ボーリングの玉、洗面器、ビデオ、DVD、マンガ、そして大量の酒瓶とビールの空き缶等々……。特に、天井に届くほど山積みにされたカップ麺の空容器は壮観で、何か芸術的な意味でもあるのかと錯覚してしまいそうなほど見事に部屋の一部と化していた。
 真九郎は時計を見て、僅かに逡巡したが、すぐに決断。ひとまず環を5号室に寝かせてから、戦いを始めることにした。敵はもちろん6号室。まずは窓を開け、濁った空気を入れ換える。生ゴミやカップ麺の空容器などの捨てられるものを廊下に出し、床に散乱した雑誌類は、整理してから押入れに。畳が見えたところで念入りに掃除機をかけ、雑巾で細かい汚れを除去。ジャージや下着はまとめて洗濯。湿った布団の代わりに自分の部屋から客用の布団を運んで敷き、「あうー、お母さん、そのマンガ捨てないでー」と子供の頃の夢にうなされる環を抱えてそこに寝かせた。その後で布団と洗濯物を干し、大量のゴミを外のゴミ捨て楊に運び、環の食べるおかゆを作り、それからようやく真九郎は登校したのだ。朝からそんなことをしていれば、遅刻しても当然ではある。
 これで日本史は赤点になってしまったわけだが、まあいいかな、というのが真九郎の正直な気持ち。このことで環を責める気もない。武藤環は出会った頃からそういう人物であり、それも含めて、真九郎は彼女が嫌いではないのだ。格闘家として尊敬しているし、多少の迷惑は許容してもいいと思う。真九郎のこういう気性は、銀子に言わせると「あんたは昔から、一つでも美点を見つけると、その他の欠点はわりとどうでもよくなっちゃうのよね」と、半ば呆れられたりもするのだが。 (…この続きは本書にてどうぞ)
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