生と死の狭間で








「待っていて、私、必ず戻ってくる……」

 高校生活最後の三学期。
 その少女、和泉穂多琉は、今、彼女にとって、かけがえのない存在になっている少年に、しばしの別れを告げた。
 彼女の自覚以上に悪くなっていた、彼女の体。
 すぐに手術をしなければ、命にかかわるという。
 どうして、そこまで悪くなってしまったのか。
 今にして思えば、当然のことであった。
 高校に入る前に、穂多琉が巻き込まれた、あのバスの転落事故。
 あの時、彼女は大切な幼なじみの男の子を永遠に失い、
 彼女自身も、大きな傷を、負った。
 それから、2回の大手術を行ったにもかかわらず、
 穂多琉の体の中には、小さな金属の破片が、いくつか残ってしまっていたのだ。
 学校に通い始めた頃は、人目を避けるように、振舞っていた彼女。
 ただ静かに、毎日を過ごしていた彼女。
 そうしている限りは、何の問題もなかった筈だった。
 けれど。
 穂多琉は、出会ってしまった。
 その少年に。
 その少年は、傷ついた穂多琉の心を、少しずつ、少しずつ、癒してくれた。
 穂多琉を包んでいた悲しみは、その少年と過ごす時間とともに、薄らいでいった。
 いつしか、死んでしまった幼なじみと同じくらい……いや、それ以上に、穂多琉の心を占めていった、その少年。
 その少年と過ごす日々。
 癒されていく、日々。
 始めはとまどっていた穂多琉も、いつしか、純粋に少年と過ごす時間を、楽しく思うようになっていた。
 そして、自分の体が爆弾を抱えていることをつい忘れていた。
 事故に遭う前の頃の感覚で、遊び、体を動かし、はしゃいでいた。
 それが、結果的に、彼女の体に無理をさせていたのだ。
 すぐに手術をしなければいけないほどに危険な、今の穂多琉の体。
 しかし、その手術も、かなり難しいものだと、言う。
 あのバスの事故以来、彼女の心にまとわりつく、「死への恐怖」。
 手術は、正直、恐い。
 それでも、穂多琉は手術台に上がることを、決めた。
 生きるために。



  ――― * ――― * ―――



「それでは、麻酔をかけますね。――大丈夫ですよ、起きた頃には、全て終わっていますから」

 そんな、医者の言葉に、穂多琉は黙って頷いた。
 医者が、穂多琉の左腕をとって、注射器の針を、差し込んだ。
 かすかな、痛み。
 それは、生きている、証。
 その証を確かに感じながら、
 不安と希望を胸に、穂多琉の意識は、まどろみの中に落ちていった……。



  ――― * ――― * ―――



 穂多琉は、夢を見ていた。
 暗い、荒涼とした何もない空間。
 そこに、穂多琉は一人で、いた。
 何もない、空間……。
 穂多琉は、右を、左を、見回してみる。
 形あるものは何も見えない。天地の方向も、明暗すらも、判然としない。
 そこに、穂多琉は一人でいる。
 さみしい。
 とても、さみしい。
 言いようのない不安が、穂多琉を包む。
 そんな穂多琉の耳に、声が聞こえてきた。

 ――穂多琉……穂多琉……。

 その声に、穂多琉は、はっとする。
 聞き覚えのある声。
 忘れられない、その声。
 それは、もう聞くことのできないはずの、彼の声。


 ……死んだ、幼なじみの声。


 穂多琉は、全身が固まるような感覚に、襲われた。
 彼女の体を包む、それは……彼に対する罪悪感。
 彼は死んで、自分は生きている。
 そして今、彼以外の男を愛している。
 その、罪悪感が、一気に穂多琉の体に満ちてしまう。


 ――どうして、どうして?


 穂多琉は、問い掛ける。
 その声に。
 そして、おぼろげながら見えてくる。その影に。
 穂多琉に、微笑みかける、その影に。
 どこまでも優しく、
 どこまでも愛しく、
 どこまでもどこまでも……懐かしい、その影に。


 けれども、その影は答えてくれない。
 理由など、要らないとばかりに。


 どこまでも優しく、
 どこまでも愛しく、
 どこまでもどこまでも……懐かしい、その影。

 そして。

 あの頃と、
 あの時と同じ、
 あの声で。
 穂多琉に呼びかける。



 ――またせて、ごめん。



 ――一緒に、行こう。



 ――これからは、ずっと、一緒にいられる。



 どこまでも優しく……!
 どこまでも愛しく……!
 どこまでもどこまでも……懐かしい、その声……!!
 その笑顔。


 ――どうして、どうして!


 穂多琉は、その身を裂かれそうな感覚を、覚える。


 ――どうして、……今ごろになって……。


 体の芯まで、焦がすような、黒い黒い炎。
 それが、穂多琉の意識の底から湧きあがる。


 ――あの時……あの時に私を連れて行ってくれていたなら。


 涙ぐむ穂多琉。
 そのまぶたの裏に、二人の男性の顔が浮かぶ。


 ――こんなに、苦しまないで済んだのに。


 けれども、その影は、答えてくれない。
 ただ、ひたすらに優しく、誘う。


 ――一緒に、行こうよ。


 ひたすらに優しく、
 ひたすらに愛しく、
 ひたすらにひたすらに……懐かしい、その声で。
 その影は、誘う。


 ――そうすれば、もう苦しいことは、なくなるから。


 そう。
 穂多琉は、今まで、何度そのことを思っただろう。
 苦しみ。
 逃れられない、苦しみ。
 愛する人を失った苦しみ。
 新たに人を愛してしまった苦しみ。
 常に胸の奥に残る、その苦しみ。



 いま、彼について行ったなら。


 苦しみから、開放される。


 もう苦しまなくて済む。





 ――でも。

 ――そうしたら。


 今、穂多琉を愛してくれている、彼はどうなるのだろう。

 穂多琉を失ったら、どうなるのだろう。















 今の穂多琉と、同じ十字架を背負うことになるのではないか。














 穂多琉の目の前に近づく、安らぎに満ちた世界。
 苦しみのない世界。
 しかし。
 穂多琉は。
 その世界に行くことは、できなかった。



 ――ごめんね、ごめんね。


 ただ、ただ、祈るように、穂多琉は呟く。


 ――ごめんね、ごめんね。


 子供のように、泣きじゃくる、穂多琉。
 苦しみからは逃れられない。
 彼への想いも振り切れない。


 それでも、穂多琉は、生きることを選ぶ。


 生きることを、望む。


 やがて、穂多琉の周囲は、光に包まれていく。
 温かい光が、刺すように穂多琉を包み込む。
 あふれる光。
 痛みを伴う、光の世界。



  ――― * ――― * ―――



 穂多琉は、目を覚ました。
 清潔ながらも、どこか空虚な部屋のなかで。


 ――手術、終わったのね。


 我を取り戻した穂多琉。
 彼女が今まで見ていたものは、彼女の心の中に今なお残る罪悪感が見せた幻だったのだろうか。

 それとも、……本当に、生と死の、狭間の世界だったのだろうか。


 しかし、それは、穂多琉にとっては、どちらでもいいことだった。

 ただ、左の目尻から、一滴の涙が、こぼれる。

 ……穂多琉は、それをぬぐおうとは、しなかった。



  ――― * ――― * ―――



 穂多琉は、再び、学校に戻り、……彼の前に姿を現した。

「ただいま……」

 にこりと微笑む、穂多琉。
 その優しい笑顔の裏には、しかし、強い決意に満ちている。


 ――傷を背負うのは、私一人でいい……。


 そんな穂多琉に、彼は、温かい微笑みで、応える。

「おかえり」

 彼の、この笑顔が、穂多琉を優しく包み込む。
 そのとき。
 そのときだけは、確かに、穂多琉は過去ではなく未来を見る。


 それは、ささやかであっても。
 暗闇の中のほんの小さな蛍光であっても。


 幸せ、と呼んでいいものなのかもしれない。








 だから、穂多琉は、……生きる。




終わり


後書き:
久しぶりに書いたマジメなSSです。雰囲気も、かなりダークですし。
ときメモでこういう雰囲気が似合うのは、なんといっても彼女です。
こんな彼女だからこそ、笑顔になってもらいたいな、と思うんですよね。
いかがだったでしょうか、皆さん。