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いじめと大人の余力(石坂 啓)

 子どもの周辺で事件や事故が起こるたびに早い段階で「いじめはなかった」とコメントする大人たちのことを、私は信用できない。

 主に学校関係者だ。マスコミ相手に身構える事情もわからないではないが、簡単に子ども同士の関係を、友人どうしに見えて仲の良いグループだったからいじめがあったとは考えられない――とくくってしまうのは危険だと思う。

 いじめはあるだろう、と考えておいてちょうどいい。私の解釈はこうだ。いじめは、全国の子どもたち全員が知っている、全員に流行っている、「遊び」である。彼らはおもしろいから「遊んで」いるのだ。いつでもどこでも、何人からでも始められる。鬼がくるくる変わることもあれば、ずーっと1人が鬼のこともある。

 ルールはひとつだけ。「大人にみつからないようにすること」――だ。

 そんなサイテーな、残酷な、腐った遊びがおもしろいと感じるほど、おそらく彼らの日常は楽しくないのだ。

 いじめの定義を見直して文科省が行なった調査では、前年度の6倍にあたる12万5000件の報告がなされたという。対応が遅すぎるしまだまだ不十分だが、「あってはならないからなかったことにする」といった現場の空気に、少しでも風穴を空けてくれればと思う。

 息子は高校生になったが、小学校に入る前からこの間ずっと、周辺の人間関係は大丈夫かなァと気をつけて見てきた。息子の級友や教室の雰囲気はどうなんだろうと、距離をとりながらも気にかけてきた。相当に用心をしてきたつもりだが、もし見落としていたら怖かったなァと思う局面が、それでもある。

 実感できるのは、近くにいる大人がちゃんとしていれば、子どもはかなりちゃんとするということだ。子どもは感度がいい。いじめに対して大人が鈍感だと、相当に見くびられる。

 そんなサイテーなことをするな! ダセーことしてんじゃねえよ! もっとカッコイイこともスゲェこともいっぱいあるんだぜ! つまんねーことで時間つぶしてんじゃねーよ! 小っちぇーな! もっとデカい世界を、デカいロマンを、デカい夢を見せてやる!

 大人の側にもしそんな余力があれば、その場でまずはひとつ「遊び」が終わる。




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