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「三丁目」は美しかった? 50年前の東京

2007年11月22日07時58分

 映画「ALWAYS続・三丁目の夕日」がヒット中だ。1959(昭和34)年の東京が舞台で、コンピューター・グラフィックスを多用して当時の澄んだ風景を「再現」したという。だが、あのころは公害が社会問題化し始めていたはずだ。東京の空はどれほど青かったのか。大事な場面で登場する「日本橋」の下を流れる川は澄んでいたのか。

 主人公たちが住む「鈴木オート」や「茶川商店」があるのは夕日町三丁目。完成したばかりの東京タワーに近く、都電が走る「都電通り」から路地を入った所だ。

 制作者側は「想像上の場所で特定の土地をモデルにしたわけではない」と話すが、当時東京タワーのそばを都電が走っていたのは国道1号(桜田通り)と日比谷通りが代表的。推測だが、映画では神社が近所に登場することから、愛宕神社があり西に東京タワーを望む、港区愛宕1丁目付近が考えられる。西日が当たる東京タワーとの位置関係からは、同区麻布かいわいもありえそうだ。

 映画には、夕日に映える東京タワーとともに、遠くまで街並みが見渡せるシーンがあるが、当時は見晴らしが悪い日が今よりずっと多かった。高度成長期に入り、工場などの燃料は石炭から重油に切り替わりつつあったが規制が不十分で、大量の煙が出ていたからだ。

 気象庁によると、59年10月〜12月に、東京・大手町の庁舎からの見晴らし(視程)が10キロ以下の煙霧(スモッグ)を74日観測した。天候にかかわらず視程2キロ以下で東京タワーはもとより霞が関の官庁街がかすむ日も多かった。89年度以降に濃い煙霧(視程2キロ以下)を観測したのは6回。当時の空がいかに汚れていたかが分かる。

 東麻布1丁目でそば店を営む堀江浩さん(67)の記憶によると、空はもやに包まれる日が多かった。「当時はそれが普通だと思っていたから気にはならなかった」

 59年10月6日付の本紙東京版にこんな記事がある。〈工場、フロ屋、家庭のエントツまでが負けずに黒煙をふき上げる。ワイシャツが汚れる、洗たくものが黒ずむなんていうのはまだいい方〉

 すす状の「ばいじん」も観測された。都の調査では、千代田区にあった紙製品会社付近では同年2月、1キロ四方あたり221トンが地上に降り注いだ。中央区日本橋では月平均で同31トン、東京タワーに近い港区芝でも同16トンほどに達した。

 59年の東京の人口は約900万人と終戦時から倍増。自動車も約50万台と急増中だった。大気汚染の深刻化を受けて、東京タワーでも60年代、大気中の汚染物質の観測が始まったのだった。

 川はどうか。堀江さんの近所で洋服店を営む長谷川進さん(67)らによると、近くの古川で60年代前半ごろまでは釣りを楽しんだり、網で魚を取ったりした。その後、ドブ川に変わり、夏はあぶくが川面ではじけていた記憶がある。当時は下水道が未整備で、どの川も生活雑排水や工場の排水がそのまま流れ込み、汚染が進んでいた。

 映画では、首都高速道が橋の上を通る前の日本橋が、象徴的な場所として描かれる。かつての恋人と偶然再会したり、主人公たちが並んで夕日を眺めたりする。

 秋から冬の設定なので実際にもこんな風情に浸れた可能性はあるが、都の調査では59年8月、日本橋川は汚染の指標となる生物化学的酸素要求量(BOD)が134ppmと極めて高かった。水に溶けた酸素もゼロ、硫化水素も発生して魚はすめなかった。資料には「フハイ」と記されている。

 日本橋のそばで暮らし続けている吉田滋さん(77)は「一時は川のそばを通るとくさかった」と振り返りつつ、こう語る。「下水道の整備や、川をきれいにしようという街の人々の取り組みでずいぶんよくなった。日本橋は我々のシンボル。汚いままでは申し訳ない」

 映画の配給元の東宝宣伝部は「映像で再現する際、当時の写真を参考にしながら雰囲気や空気感を大切にした。ただ映画はファンタジーの部分もあるので、あくまで雰囲気が伝われば」という。

 現在。都内の空や川はかなりきれいになった。が、見えない所に昭和の「負の遺産」も残る。東京湾の奥部はいまも、夏に魚がすめなくなる。川などから長年流れ込んでヘドロ化した栄養分が、分解時に海中の酸素を使い尽くすからだ。

 都環境科学研究所の安藤晴夫研究員は「大雨時に陸から流れ込む栄養分を減らすなど、これからも努力を続けることが大切だ」と話す。

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