江川太郎左衛門という人がいるわけだ。この人は、清和源氏源経基の孫で、平安末期に伊豆に移住し、頼朝の挙兵を助けたり、鎌倉幕府、後北条氏に仕えるが、戦国末期には徳川家康方に寝返り、農地の改良・商品作物の栽培など天領の増収に尽したり、文化人としても名を残したり、反射炉作ったり、日本で初めてパンを焼いたり、気を付けや右向け右や回れ右といった掛け声を作ったり、県令になって岩倉使節団で留学したり、おいらの卒業した高校の校長になったり、国際私法の法学者で東大教授になったり、東芝の副社長になったり、ガン研究で東大の名誉教授になったりした人だ。ふぅ、草臥れた。
まぁ、どんな長生きの人でも平安時代から今まで生きているわけないんで、もちろん、別人である。歴代、江川さんちの当主は太郎左衛門を名乗る事になっていて、現在の当主は江川滉ニという人で、東大の名誉教授であり、ガンの免疫がどうのこうので、偉い人らしい。この江川家というのは歴代、とんでもなく偉い人ばかりなんだが、特に有名なのは幕末に活躍した江川英龍だ。この人は、江川家の当主なので韮山代官なんだが、通常、代官というのは世襲ではない。ところが、韮山代官だけは例外的に江川太郎左衛門が継ぐことになっていて、まぁ、大名というのとどう違うのかよく判らないんだが、ちょっと特殊な立場にいるわけでね。大名の領地というのは自分の領地だが、代官の領地というのは将軍家の領地であり、代官はただ預かっているだけだ。なので、オーナーではなく、中間管理職のようなものらしい。世襲の中間管理職というのもまた、よく判らないんだが、まぁ、そんなもんです。
で、この人は無類の軍事オタクで、砲術の大家だったんだが、それだけじゃない、三浦半島の観音崎と、その対岸、房総半島富津とのあいだに人工島を並べて外国船の進入を防ごうと進言したり、海軍創設を進言したり、日本の国防に関してさまざまなプランを持っていたわけだ。そのために蘭学を学び、近代的軍隊というモノを研究し、出した結論というのが「農兵」だった。
農兵とは何か? その良い例が、コレだ。
韮山で銃・砲の開発・製造に明け暮れていたこの時代、英龍は韮山代官として一度、外交上も目覚ましい働きを見せている。英国軍艦マリナー号が下田に入港して、勝手に測量を始めたとき、現地責任者として英国艦長と交渉、これを平和裡に退去させたのだ。
イギリス軍艦マリナー号は、嘉永二年(一八四九年)閏四月、相模の松輪崎の沖に表れ、相模湾を測量した後、下田に入った。下田でも、勝手に測量を始め、下田奉行の退去要請を無視して動こうとしなかった。入港を強行した場合の日本側の反応を確認し、沿岸防備の水準を見ることが目的であったろう。
英龍はかねてから何度も建議書で、外国軍艦に下田を押えられては表日本の海運が絶たれ、江戸は物資不足となって、日本は危機に陥ると指摘してきた。その懸念が現実のものとなったのである。
十三日、下田からの急報を受けて、英龍はすぐに配下に指示、武装を整えて集合させる。門人、家臣たちのほか、金谷村の農民たち合わせて五十人が、銃隊として英龍の指揮下に入った。
代官というのは大名ではないので、部下が少ないわけだ。それも書類並べて頭ひねってる役人ばかりで、武士とはいえ、長く続いた徳川300年の平和のせいで、軍人と呼べるような組織を持ってない。そこで、軍事オタクだった江川英龍は、地元の農民たちに密かに軍事訓練をして育てていた。さらに、欧米の軍隊は「そろいの服を着て行進する」という知識を持っていて、訓練した農兵たちに高島流の揃いの軍服を着せ、自分で発明した「右へならえ!」「前へ進め!」の掛け声のもと、整然と行進したわけだ。手にするは、自宅の庭で作った最新鋭雷管式の銃であり、指揮する英龍公は、ふだんは冬でも木綿のすり切れた粗末な袷(あわせ)一枚なんだが、この時ばかりは蜀江色の野袴と陣羽織、大小の刀は黄金作り、手代たちにも割り羽織を着せ、マリナー号のマセソン大佐に対峙した。
この時代、そんな組織的行動のできる軍隊なんか、どこの藩も持ってなかったんだけどね。もちろん、幕府も持ってない。欧米の知識を貪欲に吸収していた英龍ならではのパフォーマンスなんだが、これに圧されてマリナー号は退去するわけだ。マリナー号のマセソン大佐も、整然と行動する兵隊たちが、実は田方の百姓だとは思わなかっただろう。
幕府にカネがなかったので、英龍の提唱した軍事策というのはどれも実現しなかったんだが、ペリー来航に際して、東京のお台場を築造し、砲台を築いたというのは功績として残っている。ペリーは「来年、また来る」と言い残して支那まで下がるんだが、その隙に英龍は大場の久八というヤクザの親分を指揮して急遽、砲台を作る。このエピソードについてはおいら、以前にも書いた。徳川幕府もこの時代になると貧乏でね。まぁ、潰れるべくして潰れるのだが、その中でも海外の事情に明るく、知識と実行力を兼ね備えた技術官僚というのがいるわけだ。で、蛮社の獄というのがあるんだが、鳥居耀蔵とかいう馬鹿者が、この英龍を目の敵にして潰そうとしたのが蛮社の獄だったらしい。英龍はかろうじて逃げ切るんだが、そのために幕府の改革が遅れ、英龍の唱えた「農兵思想」はむしろ尊皇側が実行する事になる。幕府側が「農兵」を実現したのは、新撰組だけだというのが情けないね。
さて、この、江川英龍最期の大仕事というのが、ロシア船ディアナ号遭難に際して、ロシア兵たちを送り返すための代替船の建造だ。水戸の殿様なんぞは「ロシア兵をぶっ殺せ」とか言ったんだが、結局、英龍の指揮のもとで、日本初の洋式帆船を作る事になるわけだ。英龍というのは、イギリス海軍のマリナー号を追い返し、外国船を打ち払うためのお台場まで作った人間なんだが、というか、それだけに、日本の和船では戦争ができないという現実を知っていたわけだ。偉いね、どうも。そして、わずか三ヶ月で代替船ヘダ号が完成し、日露の国境が決められ、日本に洋式帆船の建造法がもたらされる。
こうして見てみると、結局、日本一の軍事オタクだったのに、結局、江川英龍というのは戦争をしてないわけだ。マリナー号の時も、ディアナ号の時も、戦わずしてきちんと成果をあげている。で、おいら思うんだが、
本物の軍人というのは、戦わずに済ませる事の出来る人間である。
こうした働きが認められて、英龍は勘定奉行に異例の大抜擢をされる事になるのだが、時すでに遅し、
このとき阿部正弘は、英龍を勘定奉行に任命する意志であったという。開国直後のこの局面にあって、英龍がもし健康で、幕閣が期待したとおり勘定奉行の職に就いていたならば、と歴史のイフを考えないわけにはゆかない。もし幕府中枢に英龍があったならば、その後、徳川幕府はあれほどもろく崩壊しただろうか。日本の近代化の道筋にはほかの選択肢もありえたのではなかろうか。
しかし現実には、ついに英龍は回復することはなかった。開けて安政二年(一八五五年)一月十六日、英龍は、多くの幕臣や諸大名、江戸の知識人たちが息を詰めて容態を案じる中、江戸本所南割下水の江川屋敷で永眠するのである。享年五十五(満五十四歳)であった。
ペリー来航から一年半、明治維新に先立つこと十三年前であった。
終焉の地は、墨田区亀沢1-3-11である。せめてあと10年、英龍公が生きていたら、という声は大きいのだが、世直し大明神と呼ばれた太郎左衛門の名は代々引き継がれ、おいらの卒業した高校も江川さんが作った学校だし、歴代の太郎左衛門は、あるいは法学者として、あるいは東芝の副社長として、あるいは東大名誉教授のガン研究者として、今でも世のため人のために生きている。
ちなみに、意外に知られてないんだが、アメリカから帰国したジョン万次郎も江川英龍の配下になった。英龍は万次郎からアメリカの情報を仕入れ、日本は将来、民主主義の国になるべきだと信じて、みずから民々亭と名乗っていたそうである。
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