「出席者の事例報告で終わりですよ」「テーマが大き過ぎて、話がまとまりませんでした」―。最近、シンポジウムの取材から戻ってきた記者たちの第一声は、だいたいこんな感じだ。
関係者が、さまざまな課題について意見を交わし、お互いに認識を深めるシンポジウム。岡山県内の文化各界でも、よく開かれるようになった。
しかし、記者たちの話を聞いていると、先の報告のように、言いっ放しだったり、議論がかみ合わなかったりすることが多いようだ。中には、せっかく超豪華な顔ぶれのパネリストをそろえても、話が展開せぬまま欲求不満で終わってしまったケースもある。
主催者とコーディネーター(進行役)が、しっかりと打ち合わせをしておかねば、聴衆は睡魔と戦いながら長時間話を聞く苦痛しか残らない。そもそも公開で討論するシンポジウムは、何のために開くのか。主催する皆さんにはあらためて、テーマをきちんと絞り、どんな内容を深めたいのか、という視点をはっきりさせることを望みたい。
シンポジウムの語源は、古代ギリシャの饗宴(きょうえん)(客を招いて一緒にぶどう酒を飲んだ)にあるという。客をもてなし、自由に議論を“酌み交わす”という気持ちがなければ、集まった人たちの心には何も響かない。
日々、さまざまな題材を追いかける記者も、記事にするためにどんな切り口で、どう料理するかが求められる。現場と紙面の向こうにいる読者の皆さんを感じ、両者をつなぐ記事の掲載を心がけたい。
(文化家庭部・金居幹雄)