報告する小牧薫氏
裁判が始まるまで
11月9日の朝は、裁判所の市役所側でビラを配っている人がおり、その中に2人の子どもが「おじいちゃんの無念を晴らして」というプラカードを持っていました。他に「ノーベル賞作家大江の人権侵害を許すな」というものもありました。裁判所の裏ではたくさんの人たちがパネルを広げ、大声で宣伝していました。
9時半には傍聴希望者がたくさん集まっており、10時に抽選を行いました。沖縄タイムスの記者が傍聴希望者数を確認するため、最後に並んだところ、693番でした。7月の公判では219人でしたから、大幅に増えました。約700人のうち、原告側が300人、こちら側が200人で、あとの200人は報道陣です。ある社はアルバイトも含め20〜30人が並んだそうです。一般傍聴席は65で、他に記者席、当事者席があります。一般席の中に報道陣が10人以上入っていたと思います。スケッチ担当だけで3人いました。
10時30分開廷で、テレビカメラと写真撮影が2分間あって、37分に裁判が始まりました。
裁判の争点と裁判によって明らかにしたいこと
第一に裁判の争点ですが、沖縄戦の真実ではありません。大江健三郎氏がどう書いているか、それが名誉棄損かどうかということです。座間味島の元隊長梅澤裕氏は11月に91歳になられるので名誉を棄損しているか、渡嘉敷島の元隊長赤松嘉次氏は亡くなっているので、敬愛追慕の情を侵害しているかどうかが争点です。名誉棄損は被告大江・岩波側が立証しなければならず、敬愛追慕は原告赤松が立証しなければならないので、二つは少し違います。つまり沖縄戦での蛮行すべてが問題とされているのではなく、座間味、渡嘉敷での「集団自決」の際に隊長が命令したかしないか、それ一点の裁判です。
家永三郎氏の『太平洋戦争』の記述では梅澤氏が命令し、「集団自決」によって多数の死者が出たと書いてありますが、大江氏の『沖縄ノート』の記述では梅澤・赤松の名前は書いておらず、日本軍の命令による「集団自決」で多数の死者が出たと書いてあります。「罪人・悪人・極悪人」とは書いていません。
裁判で明らかにしたいことは、住民虐殺がどう行われたのか、軍が何をやったのかということです。
1.教育(皇民化政策) 沖縄は意識がないということで、本土よりもさらに徹底的に行われた。
2.戦陣訓 「生きて虜囚の辱めを受けず」 みんながそう信じていたことは梅澤も認めた。
3.軍のいたところで「集団死」があった。軍のいなかったところでは「集団死」は起こっていない。
4.基地建設に住民を動員し、軍の秘密を知ったということで、離れたらスパイとして処刑した。
5.軍の重要な武器である手榴弾が配られた。「1発を敵に、1発で自決」と言われた住民の証言がたくさんある。
渡嘉敷島で「集団自決」を体験した金城重明さんは9月10日、那覇の出張法廷で次のように、証言しました。
昭和20年3月27日、日本軍から、住民は北山(にしやま)に集結せよという命令が出て、行かなければならないと思い行った。村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は軍の自決命令を住民に伝達した。村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて、「集団自決」が行われた。手榴弾は不発のものが多く、手榴弾による死傷者は多くない。これが、悲惨な殺し合いの原因となった。肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。
このように日本軍が「集団自決」を強制したことが裁判の中で明らかになっています。原告のよって立つところは全くなくなりました。
元隊長らの証言
赤松氏は一度は自分の責任を認め、文章にして残しています。梅澤氏は11月9日の証言で「集団自決」命令を出したのは「行政の上司」「那覇あたりの指令」で軍とは関係ないとし、以前の「村長・巡査など村の有力者」だという証言を翻しています。勝手に住民に渡るはずはない手榴弾を渡されたという証言が多いのに、梅澤氏は「あなたの命令なしに渡ることはないのですね?」という質問に「はい」と答え、住民は忠魂碑前に兵隊がいたと言っているのに、「忠魂碑前に兵隊はいましたか?」という質問には「いません」と答えました。
さらに梅澤氏は、「『沖縄ノート』をいつ読みましたか?」という質問に「去年」と答えました。裁判を起こしたのは一昨年です。「どうして読んだのですか?」という質問には「念のために読んでおこうと思って」、「『沖縄ノート』にはあなたが自決命令を出したという記述はありますか?」には「ありません」と答えました。
赤松秀一氏(赤松嘉次元隊長の弟)は「(大江が赤松氏を「極悪人」と書いていると主張している)曽野綾子さんの本を読んで、『沖縄ノート』をパラパラと読んでみたが、むずかしくてわからなかった」と証言したので、傍聴席からは失笑が起こり、それに対して裁判長が「退廷させますよ」と言いました。「赤松と梅澤が命令したと書いてありますか?」という質問には「ありません」と答えました。「山本明さんに裁判をするようすすめられたのですか?」との質問には「そういうことになります」と答え、あわてた原告側代理人が「裁判を起こそうとしたのはあなたですか、山本さんですか?」と尋ねると、「私の気持ちです」と答えました。山本明さんとは赤松嘉次さんと同期で、戦後は自衛隊に入った人です。
大江さんの証言
被告側がこの裁判を起こした目的の一つは、大江さんを法廷に引っ張り出すことであったと思われます。大江さんはノーベル賞作家であり、9条の会の呼びかけ人の一人でもあるからです。もう一つの目的は、裁判によって教科書などの沖縄戦に関する記述を書き換えさせることでしょう。私たちは大江さんが出てくることはないと思っていましたが、裁判官が「本を書いた動機を聞きたい」と言ったので、被告側申請の証人として立ってもらうこととし、2時から4時の2時間に渡って、尋問が行われました。
大江さんの『沖縄ノート』の執筆動機は、1970年、渡嘉敷島の元守備隊長が島を訪れようとし、島民の猛反対にあったこと、そこには戦後の日本国憲法下の日本とアメリカ軍支配下の沖縄とのひずみが表れており、本土には罪責感がなく、日本人としてアジアと世界の中でどうあるべきかを自分の問題として書いたということでした。大江さんは「命令」は隊長個人の性格・資質・選択ではなく、日本軍→第32軍→守備隊という縦の構造によるものなので個人名は出さなかったこと。曽野綾子さんが「大江が守備隊長を極悪人と書いている」と言っているが、「極悪人」とは書いていないので、これは明らかな誤読であることなどについても証言しました。そして『沖縄ノート』の訂正の必要は認めないこと、「集団自決」が美しい・清らかなものであり、愛国心に殉じたと言いつのることは人間を貶(おとしめ)るものだと証言しました。
教科書検定問題が起きたことで、この裁判も注目されるようになり、新たな証言も次々に出てきました。弁護士も島へ行って聞き取りをし、ある意味ではこの裁判による成果とも言えます。沖縄では1970年代に村史、県史が編纂されましたが、まだまだ証言していない人たちも多いので、今、きちんとしないと真実が隠されたままになってしまいます。沖縄では新たな村史作りが進んでいます。
相手側弁護士は3月30日の第9回口頭弁論後には「この裁判によって(軍の命令が)削除されたことは喜ばしい」と言いましたが、最近は検定問題で迷惑していると言っています。
今後の課題は、沖縄戦の真実を深め、広めることを、検定問題と併せてやっていくことです。12月21日には最終弁論が予定されています。公正な裁判を要請する署名は11月2日に5,445筆を提出しましたが、その重さに書記官が驚いていました。あと6,000筆位集まっています。12月21日午前中に最後の提出をしますので、一人でも多くの方にご協力をお願いします。