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沖縄 戦争 NA_テーマ2
大江・岩波沖縄戦裁判 本人尋問の報告
2007/11/17
 11月14日、午後6時30分から、岩波セミナールームで、「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会」主催の連続講座第4回が行われました。セミナールームのある岩波書店のビルの前には、パネルを広げ、ハンドマイクを使って大声で大江さんを攻撃している人たちがいて、警備員がおおぜい出て、ものものしい雰囲気でした。岩波セミナールームには何度も来ていますが、警備員がいたのは初めてでした。

 大江・岩波沖縄戦裁判とは、沖縄の「集団自決」(強制集団死)をめぐって、当時の日本軍の隊長の軍命があったとの記述により名誉を傷つけられたとして、元隊長らが著者の大江健三郎さんと出版社の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めている訴訟です。今回の講座では、まず、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会事務局長の小牧薫さんから、11月9日に大阪地方裁判所で行われた本人尋問の報告がありました。(原告・被告ともに敬称を一部略させていただきます)。

報告する小牧薫氏
裁判が始まるまで
 11月9日の朝は、裁判所の市役所側でビラを配っている人がおり、その中に2人の子どもが「おじいちゃんの無念を晴らして」というプラカードを持っていました。他に「ノーベル賞作家大江の人権侵害を許すな」というものもありました。裁判所の裏ではたくさんの人たちがパネルを広げ、大声で宣伝していました。

 9時半には傍聴希望者がたくさん集まっており、10時に抽選を行いました。沖縄タイムスの記者が傍聴希望者数を確認するため、最後に並んだところ、693番でした。7月の公判では219人でしたから、大幅に増えました。約700人のうち、原告側が300人、こちら側が200人で、あとの200人は報道陣です。ある社はアルバイトも含め20〜30人が並んだそうです。一般傍聴席は65で、他に記者席、当事者席があります。一般席の中に報道陣が10人以上入っていたと思います。スケッチ担当だけで3人いました。

 10時30分開廷で、テレビカメラと写真撮影が2分間あって、37分に裁判が始まりました。

裁判の争点と裁判によって明らかにしたいこと
 第一に裁判の争点ですが、沖縄戦の真実ではありません。大江健三郎氏がどう書いているか、それが名誉棄損かどうかということです。座間味島の元隊長梅澤裕氏は11月に91歳になられるので名誉を棄損しているか、渡嘉敷島の元隊長赤松嘉次氏は亡くなっているので、敬愛追慕の情を侵害しているかどうかが争点です。名誉棄損は被告大江・岩波側が立証しなければならず、敬愛追慕は原告赤松が立証しなければならないので、二つは少し違います。つまり沖縄戦での蛮行すべてが問題とされているのではなく、座間味、渡嘉敷での「集団自決」の際に隊長が命令したかしないか、それ一点の裁判です。

 家永三郎氏の『太平洋戦争』の記述では梅澤氏が命令し、「集団自決」によって多数の死者が出たと書いてありますが、大江氏の『沖縄ノート』の記述では梅澤・赤松の名前は書いておらず、日本軍の命令による「集団自決」で多数の死者が出たと書いてあります。「罪人・悪人・極悪人」とは書いていません。

 裁判で明らかにしたいことは、住民虐殺がどう行われたのか、軍が何をやったのかということです。

1.教育(皇民化政策) 沖縄は意識がないということで、本土よりもさらに徹底的に行われた。

2.戦陣訓 「生きて虜囚の辱めを受けず」 みんながそう信じていたことは梅澤も認めた。

3.軍のいたところで「集団死」があった。軍のいなかったところでは「集団死」は起こっていない。

4.基地建設に住民を動員し、軍の秘密を知ったということで、離れたらスパイとして処刑した。

5.軍の重要な武器である手榴弾が配られた。「1発を敵に、1発で自決」と言われた住民の証言がたくさんある。

 渡嘉敷島で「集団自決」を体験した金城重明さんは9月10日、那覇の出張法廷で次のように、証言しました。

 昭和20年3月27日、日本軍から、住民は北山(にしやま)に集結せよという命令が出て、行かなければならないと思い行った。村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は軍の自決命令を住民に伝達した。村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて、「集団自決」が行われた。手榴弾は不発のものが多く、手榴弾による死傷者は多くない。これが、悲惨な殺し合いの原因となった。肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。

 このように日本軍が「集団自決」を強制したことが裁判の中で明らかになっています。原告のよって立つところは全くなくなりました。

元隊長らの証言
 赤松氏は一度は自分の責任を認め、文章にして残しています。梅澤氏は11月9日の証言で「集団自決」命令を出したのは「行政の上司」「那覇あたりの指令」で軍とは関係ないとし、以前の「村長・巡査など村の有力者」だという証言を翻しています。勝手に住民に渡るはずはない手榴弾を渡されたという証言が多いのに、梅澤氏は「あなたの命令なしに渡ることはないのですね?」という質問に「はい」と答え、住民は忠魂碑前に兵隊がいたと言っているのに、「忠魂碑前に兵隊はいましたか?」という質問には「いません」と答えました。

 さらに梅澤氏は、「『沖縄ノート』をいつ読みましたか?」という質問に「去年」と答えました。裁判を起こしたのは一昨年です。「どうして読んだのですか?」という質問には「念のために読んでおこうと思って」、「『沖縄ノート』にはあなたが自決命令を出したという記述はありますか?」には「ありません」と答えました。

 赤松秀一氏(赤松嘉次元隊長の弟)は「(大江が赤松氏を「極悪人」と書いていると主張している)曽野綾子さんの本を読んで、『沖縄ノート』をパラパラと読んでみたが、むずかしくてわからなかった」と証言したので、傍聴席からは失笑が起こり、それに対して裁判長が「退廷させますよ」と言いました。「赤松と梅澤が命令したと書いてありますか?」という質問には「ありません」と答えました。「山本明さんに裁判をするようすすめられたのですか?」との質問には「そういうことになります」と答え、あわてた原告側代理人が「裁判を起こそうとしたのはあなたですか、山本さんですか?」と尋ねると、「私の気持ちです」と答えました。山本明さんとは赤松嘉次さんと同期で、戦後は自衛隊に入った人です。

大江さんの証言
 被告側がこの裁判を起こした目的の一つは、大江さんを法廷に引っ張り出すことであったと思われます。大江さんはノーベル賞作家であり、9条の会の呼びかけ人の一人でもあるからです。もう一つの目的は、裁判によって教科書などの沖縄戦に関する記述を書き換えさせることでしょう。私たちは大江さんが出てくることはないと思っていましたが、裁判官が「本を書いた動機を聞きたい」と言ったので、被告側申請の証人として立ってもらうこととし、2時から4時の2時間に渡って、尋問が行われました。

 大江さんの『沖縄ノート』の執筆動機は、1970年、渡嘉敷島の元守備隊長が島を訪れようとし、島民の猛反対にあったこと、そこには戦後の日本国憲法下の日本とアメリカ軍支配下の沖縄とのひずみが表れており、本土には罪責感がなく、日本人としてアジアと世界の中でどうあるべきかを自分の問題として書いたということでした。大江さんは「命令」は隊長個人の性格・資質・選択ではなく、日本軍→第32軍→守備隊という縦の構造によるものなので個人名は出さなかったこと。曽野綾子さんが「大江が守備隊長を極悪人と書いている」と言っているが、「極悪人」とは書いていないので、これは明らかな誤読であることなどについても証言しました。そして『沖縄ノート』の訂正の必要は認めないこと、「集団自決」が美しい・清らかなものであり、愛国心に殉じたと言いつのることは人間を貶(おとしめ)るものだと証言しました。

 教科書検定問題が起きたことで、この裁判も注目されるようになり、新たな証言も次々に出てきました。弁護士も島へ行って聞き取りをし、ある意味ではこの裁判による成果とも言えます。沖縄では1970年代に村史、県史が編纂されましたが、まだまだ証言していない人たちも多いので、今、きちんとしないと真実が隠されたままになってしまいます。沖縄では新たな村史作りが進んでいます。

 相手側弁護士は3月30日の第9回口頭弁論後には「この裁判によって(軍の命令が)削除されたことは喜ばしい」と言いましたが、最近は検定問題で迷惑していると言っています。

 今後の課題は、沖縄戦の真実を深め、広めることを、検定問題と併せてやっていくことです。12月21日には最終弁論が予定されています。公正な裁判を要請する署名は11月2日に5,445筆を提出しましたが、その重さに書記官が驚いていました。あと6,000筆位集まっています。12月21日午前中に最後の提出をしますので、一人でも多くの方にご協力をお願いします。
◇ ◇ ◇
特集:裁判 クライシス

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[31262] 「疑わしきは罰せず」の話に薬害訴訟の件を持ち出しても意味がありません
名前:天地健
日時:2007/11/21 14:41

「疑わしきは罰せず」「疑わしきは罰する」について私の感想を述べなかったのは、私にとって都合が悪いからではなく、私がその是非について述べることによる無駄な争いを避けるためだったんですけどね。
更に、私がその是非について述べる義務があるかのような主張をされてますが、随分と自分勝手ですね。「あなたはどう思いますか」くらい言ったらどうでしょうか。


でもせっかくですので、私の見解を述べたいと思います。


第一に「疑わしきは罰せず」というのは、相手が一個人であろうと官僚であろうと国家権力であろうと遵守すべき原則です。第二に、この原則を論じるにあたって薬害エイズ訴訟の問題を持ち出すのは間違いです。


まず第二の点について申し上げますが、薬害の件は事前の防止策のお話であって、「罰する」「罰さない」という事後的な問題に関して持ち出す事案ではありません。


そもそも、薬害であろうと建築偽装であろうと食品偽装であろうと、何らかの不正等が発覚して国民の間に危険が生じる恐れがある場合は、それが事実であろうとなかろうと一部であろうと全部であろうと、一律に出荷停止・販売停止して再調査するなり改善するなりして被害が拡大しないようにすることは当然のことであり、このことは一般国民の間でも合意されているところであります。


しかしながらこの事前の防止策は、事後的な「罰する」「罰さない」のお話とは関係がありません。もちろん、販売できないことによる経済的な損失は受けますが、これはあくまで被害が拡大しないようにするため防止策をとったことの「結果」に過ぎず、その企業に損失を与えることを「目的」として販売停止したわけではありません(もちろん、国民から信頼を失い社会的制裁としての経済的損失を受けたことを「事実上の罰だ」という見方も出来ないわけではないですが、その場合には「じゃあ、うちの企業は売り上げが落ちたことによる事実上の罰を受けたので、刑事罰を受けなくていいですね」というロジックが出来上がることになるわけで、これが許されざるべきことは言うまでもありません)。



従って、山口一男さんの次の主張は明らかに間違いです。



>薬害が一つの例ですが、米国では薬害の恐れがあるとされた
(疑わしい)薬品は、まず販売禁止をし(製薬会社に罰を下し)、
>疑いが晴れてから販売を解禁する原則を作りました。一般国民
>の安全を製薬会社の利益に優先させたからです。


>一般国民の安全を製薬会社の利益の追求の自由に優先させて、害
>の疑いのある薬の販売を疑いが晴れるまで禁じる、その意味で薬
>害については「疑わしきは罰せよ」という原則である。



念のため指摘しておきますが、「販売禁止=罰」としているところが間違いですよ。もちろん、これが事後的な販売禁止処分だったら間違いではありません。例えば、「お前のところの会社は偽装が明らかになったから、営業停止処分○○日ね」という場合が該当します。これは明らかに「罰」です。しかし、上記事例は被害が出る恐れがある場合に、その拡大を防ぐための事前的な措置であり、明らかに「罰」ではありません。これが「罰」に該当するなら・・・いい加減しつこいのでやめておきますがもう言わなくても分かりますよね。




で、第一の点に戻りますが、どんなに反社会的な行為であっても反倫理的な行為であっても、相手が一国民であろうと官僚であろうと国家権力であろうと「疑わしきは罰せず」が大原則です。

山口一男さんは「社会的コストが甚大な場合は、『疑わしき罰する』が原則である」とおっしゃってますが、ならば「安部英は社会に重大な損失を与えた疑いが強いので『疑わしきは罰するの原則』により無期懲役ね」とか「オウムの麻原は反社会的反倫理的行為を行った疑いが強いので、『疑わしきは罰するの原則』により死刑ね」とか有りになっちゃいますけど。でも、これはおかしいでしょ?


しかも、「社会的コスト」の概念が抽象的で、恣意的な運用が可能になると言う点で問題があります。



>逆に有罪を誤って罪なしとした場合の一般国民に対するコストが大
>きい(例えば薬害)問題では国民の側に立てば(厚生労働省はこの
>点の認識が低いようですが)「疑わしきは罰せよ」がむしろ原則で
>す。集団自決の場合もこのような軍の心理的・物理的強制に非がな
>いとされ、このようなことが将来また起こりうるなら国民にとって
>重大なコストとなります


>一般に罰を課すことに2種類の誤りがあります。無実のものを誤っ
>て罰する誤りと罪を犯した者を誤って罪なしとして罰しない誤りです。
>通常は前者の誤りが法・倫理上(人権上)後者の誤りよりはるかに
>思いと考えられている。だから通常の原則は「疑わしきは罰せず」な
>のです。ただ後者の誤りの社会コストが前者の誤りのコストより非常
>に大きいと、この原則は成り立たない。


このロジックでいくなら、暴力的手段を用いて国家転覆を画策し、日本社会を混乱に落としいれ共産主義革命を目的とする団体は、バンバン「疑わしきは罰する」で処罰してOKということになります。山口一男さんはレッドパージ容認派ですか?


私は別の記事のコメント欄で、「中核派にシンパシーを持つ者が家宅捜索されても仕方がない」と批判してますけど、「中核派にシンパシーを持つ者が実刑を受けても仕方がない」とは違いますからね。念のため。


再三の指摘になりますけど、「結論ありき」で無理なロジックを展開すると、自分たちに跳ね返ってきます。「関与」とか「社会的コスト」とか曖昧な概念を口に出す前に、「自分たちが同じロジックで非難されたらどうするか」というシミュレーションを是非行ってください。

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[31257] 追加説明
名前:山口一男
日時:2007/11/21 05:30

理由も無く誹謗中傷する気ではないので、一言天地さんが「自分と異なる意見を矮小化する」と私が書いたことの説明をしたい。私は「疑わしきは罰せず」が絶対原則ではないという例として薬害問題を上げた。一般国民の安全を製薬会社の利益の追求の自由に優先させて、害の疑いのある薬の販売を疑いが晴れるまで禁じる、その意味で薬害については「疑わしきは罰せよ」という原則である。またその考えの背景を説明し、私が有益と考える情報を提供することで、在米日本人として日本での市民社会形成に微力ながら参加いるつもりである。この基準はわが国の厚生労働省の意思決定の基準には未だなっていないが、米国ではその原則があるといった。またその原則のないせいでわが国には薬害が頻発するとも。そしてさらにその原則の採用について今後その原則を明確化するか否かは我々国民の選択の問題であるともいった。ところが天地さんは、天地さん自身がその原則に賛成するか反対するかについて「その妥当性はともかく」と意思表示をさけ、問題は私がそれが「原則であるべき」といわず、「原則だ」と断定したことを持って、「要するに個人的願望ですね」といい、あたかも議論するに値しない説のように印象づける。これが論理のすり替えであり、矮小化である端的な例である。私が「原則であるべき」というところ「原則である」と断定的にいったのは単なる言語表現の問題に過ぎない、訂正せよというならこの部分を訂正することは何の支障も無い。しかしこれは単なる「個人的願望」などでは全くない、政策の意思決定基準に関係しており、今後の日本国民の薬害問題にもかかわる話をしている。「こうであったらいいなー」などという架空の話では全く無く、今現在その原則をわが国でどう考えるかという話である。また実際この問題に関する話をある公の場所で私はしたこともある。それを批判するなら、まずその原則自体を自分がどう考えるか表明するのが筋であり、そうする人間なら私と意見が異なろうとも対話を停止するつもりは無い。しかし天地さんの論議のスタイルは他の書き込みを見ても全く同様であるので、今後彼の意見には付き合わないと決めた次第である。

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[31255] 案山子をたたく
名前:山口一男
日時:2007/11/21 02:03

   天地さん。貴方の綿足の意見に対する書き込みを呼んで、私は私意見の異なる多くのJANJANの記者と対話の用意があるけれど、貴方とは今度対話しないことにしました。理由は、貴方の意見は自分の意見と違う人の意見を矮小化してたたくこと、「サヨク」等のラベルを貼ること、につきるからです。
   私が「サヨク」だなんて冗談じゃない。私は日本の次にアメリカが好きな人間(最もブッシュ大統領は歴代でも最低の大統領と考えていますが)、共産主義や共産主義国家の大嫌いな人間です。自由主義の信奉するから、慰安婦問題にせよ、沖縄の集団自決に限らず、終戦後になっても生き延びることを望んだであろう者までも巻き込んで家族の待つ祖国に帰すことを許さず集団自決をしいた東南アジアでの軍の集団自決を含み、旧日本軍の強制による人権蹂躪は許せないし、その歴史的事実は明確にされるべきであると考えている。自由主義だから拉致問題では前安部総理支持、規制緩和問題では、それによって生じたかもしれない格差社会のひずみは是正すべきと考えるけれど、小泉元首相の構造改革路線も基本的には支持です。人というのは様々で、様々だからこそ対話により理解できる部分は理解し合意しあうのが重要です。その理解の促進のためには、認識のベースとして事実を総合的に確認する作業が必要だと考えている。しかし、時にはそうしようとすることが全く無駄だと感じさせる人がいる。慰安婦問題での貴方の多くの書き込みを読んで、貴方は数少ないそういう一人だろうと感じていましたが、今回そうであると結論しました。私のほうから貴方の意見に先にコメントすることは今までも、今後も全くありませんが、今後は貴方にコメントも一切無視しますので、あしからず。

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[31253] 訂正
名前:竹本太郎
日時:2007/11/21 00:57

「同であったのか」→「何であったのか」でした。

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[31252] 佐藤さんへ(あるいは皆さんへ)
名前:竹本太郎
日時:2007/11/21 00:53

別に私は「歴史研究」をやっているのではありません。

私に対して反論されている方達は、言い方はそれぞれ違いますが、私のことを「木を見て森を見ず」だと言いたいのでしょうね。
ですが、私がこの場で知りたいのは、あくまで「木」についての話で「森」についてではありません。(もちろん、これはあくまでもこの場でのことであって、私も「森」に関しての自分なりの考えはありますし、皆さんが「木」の話なんかよりも「森」の話の方が大事だと思われていることも良く分かります。)
ですから「この木は何の木?」と聞いている人間に対して、「そんなことはどうでもいい。なぜ森全体を見ないのだ」と言われても私は困ってしまいます。
「木を見て森を見ず」というのは、一本の木をもって森全体を語ろうとする人に対する批判であって、私ももちろんその通りだと思いますよ。
ですが、そもそも一本の木について語っている人に対して「なぜ森を見ようとしないんだ?」というのは見当違いですし、私は一本の木をもって森を語るようなことは一切していません。



私の「刑事裁判的手法」への批判も的外れですね。
例えば、井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件は、歴史的な事実であると同時に、現在の法でいうところの「殺人事件」という刑事事件でもあります。
この事件を当時の歴史的な事実としてどう評価するかは歴史研究の役割です。そのような場合に重要なのは、井伊直弼が殺された事自体であって、例えば、その時用いられたのが刀なのか銃なのかを議論することはあまり意味がないでしょう。
ですが一方で、単純な事実関係を探ろうとするときには「刑事裁判的手法」が有効になります。遺体に致命的な刀傷があれば、凶器は刀であると推測できるし、弾痕があればそれは銃によるものだと推測できるでしょう。

佐藤さんの文章を読むと、このような歴史的評価と単なる事実が同であったのかを区別できていないのかあるいは混同されているようですね。
ですが、いくら歴史的評価や解釈が変わろうとも、それによって凶器が銃から刀に変わるなどということがないことはご理解いただけると思います。

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[31251] 天地さん、ヒマそうですね
名前:本間康二
日時:2007/11/20 20:40

 軍隊が好きなのか? 戦争をしたいのか? 平和を憎むのか? 命が大事だと思わないのか? 国境を認めるのか? 女性を大事と思わないのか? 子どもを可愛いいと思わないのか?
 そんなことでいいんじゃないですか? こないだ、別のところであなたのご意見を伺ったが(ここでか?)、そんなに違いがあるとは思えなかったけどね。
 相性が悪いんだろうな、折耶さんとは。
 俺なんかだと、案外話せるかもよ。あんまりこだわらないからね、俺は。天皇制も認めていいと思ってるし。自衛隊があるから九条が護れたという意見に最近会って、なるほどなあと頷きもした。
 あんた、国籍、人種の違いなど認めてないでしょ? だったらいいじゃないか。仲良くやろうぜ。日本人同士がちょっと方向性が違ったり、敬うものが違うというだけでこう、いがみ合ったり罵りあったりするこたねーよ。
 あんた、それともアメリカが好きか? アメリカはアジア人同士争わせたいらしいから。そういう了見なら俺は闘うよ。許さないよ。

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[31250] 佐藤君は、読書感想文を書いてくるように
名前:天地健
日時:2007/11/20 19:16

>つい先日も、「税は行政サービスへの対価にすぎない」など
>というトンデモを宣うので、「参政権と税は、政治史上・立
>憲主義史上不可分の関係があった」という常識を指摘したら、
>「ワケの分からない修辞を言うな」と言っていました(笑)



で、税金関係の本を読んで勉強したかな?



>なにを根拠に仰っているのかは存じませんが、少なくと
>も政治学・憲法学の常識には反していると思いますよ(笑)


>少なくとも、立憲主義史的には、参政権と徴税とが不可分
>に拮抗して進展してきたのは常識中の常識です。元々とは、
>そういう意味です。「納税は行政サービスを受ける対価」
>などとまぁ、何を根拠にいっているのやら・・・。


過去のコメントから引っ張ってきました。
「政治学・憲法学の常識」から、「立憲主義『史』的」にスライドしてますが、歴史を論じても意味ないよ。
現在の普通選挙の話をしてるんだから。


在日が「我々は日本人と同等の税金を払っているのに参政権がないのは不公平だ」と主張してきたことに対して、そもそも現代の普通選挙において納税と参政権はリンクしないけれども、在日は税金を優遇されていることが明らかになったために彼ら自身の主張が崩れてしまったことを、私は指摘したまでですが。これに対して、参政権の歴史を論じたから何なのか。金を持っている人間だけが政治を動かせるという不合理ない制度を改革して、現在のようになったわけでしょ。


ま、この記事とは関係ないので、続きはこちらで。
http://www.news.janjan.jp/government/0711/0711070311/1.php



>ま、これを機会に、例えば、「立憲政治上、税と
>は行政サービスへの対価であり、参政権との間に
>は何の関係も見いだされたことはない」というご
>見解についての学説上の裏付けでも聞いてみるこ
>とにしましょうかねぇ(笑)


だから、本屋で「小学生まんが ぜいきんのひみつ」とかそういうのを読んできなよ。
赤面するから。


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[31249] 「原則である」と「原則であったらいいなー」は全然違います
名前:天地健
日時:2007/11/20 19:15

>要は我々国民がどういう原則を重視するかです。


>民主主義のもとではそういう規範原則を国民の選択するか
>否かの問題です。


>しかし「疑わしきは罰せよ」という表現はともかくアメリ
>カではかなり前からそういう考えになっています。


>この原則に関しては私は正しいと思うので私はそれが原則
>(であるべき)だといったのです。



要するに個人的な願望ですね。
その妥当性についてはともかく、以下の文章からはそうとは読めないため指摘させていただきました。


>「疑わしきは罰せよ」がむしろ原則です。







> 佐藤さんの書き込みですが、私も細部にこだわるのはい
>いとして、集団自決でも慰安婦問題でも、何故ある一面だ
>けに関心があり、歴史やそこでの人々の様々な経験を総合
>的に判断して意味を解釈しようとしない人々が多くいるの
>か、また証拠や事実をなぜ、特定の一面に矮小化し、あと
>のことには関心が無いと思える人がいるのか本当に不思議
>です。


「細部」「ある一面」「矮小化」と言ってますけど、突っ込みを入れられているのはこれを主張している人たちが大々的にアピールしてきたことですよ。それに大して有効な反論が出来ずに、なんで勝手に「細部」とか言い出すのか。むしろ、「矮小化」しているのはそちら側だし、間違っているのが「細部」だとするなら、尚更ホイホイと謝罪・訂正すれば済む話でしょう。それをやらずに、「細部」等といっても説得力がないですよ。その「細部」とやらを、堂々と訂正しましょうよ。なぜそれが出来ないのですか。あなた方が重要だと考えているから訂正できないのではないですか。




>社会科学的視野という意味でも正常では全く無い。本間さ
>んの表現じゃないけれど、一種の病気に思えますが、他の
>面では健全な考えの人々が、こと歴史問題に絡むと、被害
>者への鈍感力を含む、極端な一面性を発揮するのですから、
>やはり一種のイデオロギーかなと思います。結論が先にあ
>ってロジックは手段、あとは何を聞いても自分に合わない
>ものは拒絶するという。だたそう言う人々が日本で多くな
>れば歴史の理解において、日本人が世界からどんどんずれ
>て孤立化し、自分の観念的でかつ主観的世界に閉じこもる
>ことになり、その結果世界からはまた戦前のように理解の
>出来ない異人種のような印象で見られることにならねば良
>いがと切に思います。せっかく、黒澤明や、宮崎駿や、他
>の日本人の普遍的ヒューマニズムあふれる芸術作品や、日
>本の優秀な技術の製品のせいで、日本が世界の多くに人々
>からより身近な存在になってきたというのに。



「結論が先にある」とのことですが、これ、残念ながらあなた方にバッチリ当てはまるんですよ。


「日本軍=日本政府が悪い」という結論が先にあって、この命題を立証するための事柄ばかり。


具体的に指摘します。
あちこちで言ってることなんですが、慰安婦問題や沖縄集団自決問題で日本の「関与」を主張している人たちは、北朝鮮の拉致問題で「証拠を出せ」と擁護していた人たちと見事に重なるんですよ。日本の「悪事」に関しては、関与なる抽象的な概念を持ち出してどこまでも結び付けようとする。一方で、北朝鮮の拉致に関しては、「証拠はあるのか」「民族差別だ」とか「一部の者がやったにすぎない」とか、極力関係を切断しようとする。大江健三郎氏もバッチリこのタイプですよね。


こういうのをまさに「結論が先にある」というのです。




で、最後に。


>被疑者の人権を最重視する際の原則なのです。その
>原則を、多くの人権問題について無頓着と思える人
>々が、集団自決や慰安婦問題にだけ「軍名があった
>か否か」の点に関して旧日本軍の名誉について持ち
>出すのに非常な違和感を持つのは私だけではないで
>しょう。


「お前らは人権問題に普段無頓着なんだから、名誉なんかないんだよ」ってことですか。怖いねー。こういう、高みから見た態度がサヨクが嫌われる要因なんですよ。じゃあ、北朝鮮祖国の人権問題に無頓着な朝鮮総連所属の在日には名誉はないってことですかね。


何事もそうですけど、ある主張をする前に自分たちや自分たちの仲間に同じロジックが適用されることをシミュレートしてみることをお勧めします。それをやらないから、突込みが入るんですよ。


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[31247] 訂正
名前:山口一男
日時:2007/11/20 05:22

軍名ー>軍命

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[31245] 追加コメント
名前:山口一男
日時:2007/11/20 05:17

くどいかもしれませんがもう一言。天地さんの質問をもう一度読み直すと、薬害の場合は「疑わしきは罰せよ」が原則と私が書いたことに対し


「この「原則」は初めて聞いたんですけど、どこで規定されている原則なのでしょうか。あるいはどういった学者が唱えており、それは学説上通説と言えるレベルのものなのか。そしてこれは一般常識として通用する原則なのか。不勉強な私に教えてください。」


とあるのですが。説明は前の書き込みでしましたが、もっと根本的な判断基準の違いがあるようなので追加です。 一般的な「疑わしきは罰せず」も、薬害などの例外的な「疑わしきは罰せよ」も、倫理規範です。歴史的事実とかの類ではありません。だからそういう倫理・規範を強調した思想家・学者はいるでしょうが「学説といえるレベル」などという基準は全く無関係で、民主主義のもとではそういう規範原則を国民の選択するか否かの問題です。仮に「薬害の危険性があっても、多くの犠牲者が出て薬害が確定するまでは、製薬会社の製造販売の自由を保障し、医者に判断をまかせよ」と言う「疑わしきは罰せず」の原則を薬害問題にも適用せよと、多数の国民が望むならそれでも良い。「一般常識であるかどうか」これも倫理問題には関係ない。要は我々国民がどういう原則を重視するかです。今までの常識と異なる新しい考えも、多くの人にそれは良いと受け入れられれば新たな常識となります。法倫理というものについて、天地さんは根本的に誤解をしているのではないか。権威者がどうこういったから、いうから、その法倫理が重要となるのではないのです。それが法の適応を受ける国民にとってその安全や幸せに寄与するものかどうか、また公平なものかどうか、そこが問題なのです。考えを組織だって提示するのは専門家であっても、判断し選択するのは常に我々国民です。ただ薬害の例にみられるように「疑わしきは罰せず」は絶対原則ではない。被疑者の人権を最重視する際の原則なのです。その原則を、多くの人権問題について無頓着と思える人々が、集団自決や慰安婦問題にだけ「軍名があったか否か」の点に関して旧日本軍の名誉について持ち出すのに非常な違和感を持つのは私だけではないでしょう。
  最も、集団自決の件については、軍の存在原因(必要条件という表現をとった人がいましたがそのとおりで、軍の行為がなければ起こりえなかった)と言う点は私は十分すぎる証拠があると見ており、「疑わしき」などという範疇の問題ではないと確信していますが。


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