「フィリピン着任当初は、彼女ができたりして楽しかったよ。スペイン人とフィリピン人の混血のメスティソでね。名前はゴリン・フェルナンデス。16歳でね。彼女の家がやってる雑貨屋によく遊びに行ったよ」
ルソン島南部のリパ飛行場に着任した昭和19(1944)年当時を、添田裕吉さん(87)は目を細めて振り返る。
ゴリンさんは日本兵の間でミス・リパ市とうわさされるほどの美少女で、英、西、ラテンなど五つの言語を解する才女でもあった。英語が使えたためすぐに親しくなった添田さんにある時、彼女が思いつめたような顔で告げた。
「添田サン、ヒミツ。ワタシ、ココロ、イタイデス」
それが彼女の恋心の告白と分かるまで、少し時間がかかったという。それからは店だけでなく、日曜日に彼女の家にまで遊びに行くようになった。
「でもね。彼女は目立つもんだから、日本軍に拉致されてね。慰安婦として山の中に。最後は殺されとる。証言されれば戦争犯罪になるから。口封じでね」
「えっ……」。私が添田さんの話に絶句したのはこれで3度目だった。
米軍がルソン島に上陸した昭和20年1月、添田さんたちは臨時歩兵となって北部山岳地帯に転戦した。その後のゴリンさんの消息は、飛行場警備のためルソン島南部に残り、終戦後にマニラの捕虜収容所で再会した友清高志さん(故人)から聞かされたという。
友清さんはフィリピン戦のことを書いた本を2冊出版しており、その中で、自分が所属した連隊の住民虐殺の模様も克明に描いている。そのうち昭和48年に出した「ルソン死闘記」に、連隊幹部の慰安婦として連行された30人のフィリピン人女性が、司令部の移動に伴って処分される前に、兵士たちにあてがわれた時の様子が出てくる。
《「いいか、いやがるなら強姦(ごうかん)してもいい。しなくともいい。とにかく後は殺すことだ。いいな!」
兵隊たちは女の群へ殺到した。しきりにだれかの名を呼ぶ女、助けを求めて泣き叫ぶ声、悲鳴。中には胸で十字を切る女もいる》
昭和58年に出版し、大宅壮一ノンフィクション賞候補となった「狂気」という本では、友清さん自身が命令でフィリピン人母子を殺(あや)めた模様も描かれている。
《銃剣は女性の抱いた幼児の脇腹に突き刺さった。その時幼児は身を起こそうとして私をふり仰いだ。その眼が私を見るやニコッと笑った。それは信じられない、まるで天使のような顔だった。火のつくような泣き声をあげ、痙攣(けいれん)をはじめたのはその直後である》
「ルソン死闘記」では、友清さんは一切母子殺害に触れていない。自ら手にかけた幼子の目にさいなまれ続けた元兵士は38年後、ようやくそれを文章で告白したのだ。
添田さんは言う。
「ズバリ書いたもんだから、友清は部隊の連中から総すかん食らったようです。実は我々が飛行場におったころもゲリラが多くて疑わしい住民を引っ張ってきて7、8人銃剣で処刑したことがあるんよ。中には女のゲリラもおってね。かわいそうだった。処刑は若い兵士がやらされるんよ。命令されたらしょうがない。目をつぶってやるわけ」
添田さんはゲリラに殺された戦友の死体が忘れられないという。服を取られて裸にされたうえ、首から上がなくなっていたのだ。
シベリアシリーズで知られる画家の香月泰男氏は、現地人のリンチで全身の皮膚をはがされ、満州の線路脇に転がされていた日本人の「赤い屍(し)体」を、原爆で黒焦げになった「黒い屍体」と対比させてこう書く。
《その男も王道楽土建設の幻想にあざむかれて、満州開拓にやってきた貧農の息子かなにかで、彼自身戦争の被害者だったといえるような男かもしれない。しかし、それでもやはり私の眼には、それは加害者のあがなわされた死として映った。……私たちシベリア抑留者も、いってみれば生きながら赤い屍体にされたのだ。……戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない》
日本最大の出征兵士の送り出し港だった門司港。加害を贖(あがな)わされた「赤い屍体」や「首のない裸の死体」の悲しみと日本人が真向かうのに、これほどふさわしい場所がほかにあるだろうか。【福岡賢正】<次回は21日に掲載予定>
毎日新聞 2007年11月15日 西部朝刊