私は新聞記者という職業に就いていて、記事を書いて給料をもらっていますが、実は年々、新聞や雑誌のさまざまな記事に目を通すのが辛くなってきました。自分のことを棚に上げないと言えないことかもしれませんが、あまりにも扇情的で、たまたまその件について事情を知っている者から見れば、事実とは言いにくい記事、決めつけた記事が多すぎるからです。あえて言えば、これまでの年月の中で自分もそれに類する記事をいくつか書いてきたのではないかという思いが、余計に気分を憂鬱にします。
特に今朝の某週刊誌の記事には、ここまでやるかという思いがして、暗澹たる気持ちになりました。関係者に迷惑をかけるので具体的には書きませんが、関係者の一人は「人間の血が通っていないのではないか。日本は法治国家だから、いずれはっきりするだろう」と話していました。こういう記事を読むと、報道とは何のためにあるのかと、表現の自由とは何だろうかと疑問を感じざるをえません。
マスコミの役割として、よく「権力」を監視することだと言われます。公権力というと、政治家、司法警察、許認可権を持つ役所…などを言うことが多いようです。ふつうはそういう意味で使用されていますが、この権力という言葉はけっこうあいまいで、恣意的に使われると何を指すのか分からないことがままあります。反権力を標榜する立場からは、社会システムや資本家=権力という視点もうかがえます。ちなみに、広辞苑によると、「他人を押さえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力」とありました。
なんでこんなくだらないことを長々と書き連ねているかというと、司法・行政・立法の3つの権力につぐ「第4の権力」といわれるマスコミは、権力を弄んでいるのではないかという危惧が、私の中で強まっているからです。権力を監視するという美名の下に、やっていることは倒閣運動だったり、自分達の意に沿わない意見を封殺することだったり、印象操作だったり、女性スキャンダルの暴露だったり…。最近は、ネットの社会ではこうしたマスコミのあり方への批判は盛んですが、ネットで何を書かれようが売り上げに響かない限り、あまりこたえないでしょうし。
自分が記者やっていて、新聞社からの禄を食んでいて、マスコミについてあれこれ言うのはおかしいと言われるかもしれませんが、記者である前に一人の日本人であり、人間であるので、このところの報道のあり方が心配でなりません。もちろん、マスコミがこういう存在であるのは今に始まったことではないでしょうが、このところ、余りにも露骨に過ぎるような気がしています。日本で言論の自由が謳歌されているのは本当にいいことだと思うし、だから私も食べていけるわけなのですが…。
権力とは違いますが、「権威」についてもこれはどうかな、と思う報道が過去にいろいろありました。特に皇室については、当事者たちがまず訴えてくることはないし、宮内庁が抗議してきてもどうということはないので、いいかげんな報道や、いわゆる「飛ばし」記事が横行してきたと思います。ちょっと古い記事ですが、11年前、社会部で宮内庁を担当していたときに、こんな記事を書きました。
《【社会部発】週刊新潮の皇室記事 一方的報道は不公正
[
週刊新潮(六月二十日号)が掲載した「天皇陛下突如御静養の背景に秋篠宮殿下」の記事で、宮内庁は訂正を求めて抗議を行った。新潮側は「記事には自信があるが、再調査して返事をする」と回答を留保したが、皇族が立場上、発言・反論されないのを承知の上での報道に“不公正”のにおいがする。
問題の記事は、天皇陛下が前庭神経炎で静養されたのは心痛によるところが大きく、背景には秋篠宮さまの行状がある、といった内容。「宮内庁関係者」の話として、秋篠宮妃紀子さまの父、川嶋辰彦・学習院大教授が四月二十一日、御所を訪れ、陛下に秋篠宮さまの女性問題に関して苦言を呈したとし、「これでは陛下のご心痛も増すばかり」「皇位継承順位第二位の重みをどう受けとめておられるのか」などと批判する。
だが、記者が取材した範囲では、川嶋教授が同日、御所を訪ねたことはなく、記事の命である事実そのものが成り立たない。
仮に訪問があったとしても、どうして陛下のご病状に結びつくのか。
記事は「(秋篠宮さま)ご自身の口から本音を伺いたいものだ」と締めくくられているが、原則として皇族が直接、反論されることはない。必要があれば記者会見がセットされる。それが現在の皇室取材の暗黙の了解だ。同誌はそれを認めていないようだが、皇族が反論しないことをいいことに書きたい放題というのは、不公正というしかない。
同誌は四月十八日号でも、「秋篠宮殿下度重なる『タイ訪問』に流言蜚(ひ)語」と題し、秋篠宮さまに女性問題があるかのように報じた。両号とも「このままでは英王室の二の舞い」などと心配。同誌の松田宏編集長は、記事は社員の執筆として、掲載意図を「国民は陛下のご病状を心配している。そういうこともあって、いろいろ取材した結果の記事。陛下のご心労は推論できる」と説明するが、同誌のやり方は、王室をちゃかした英大衆紙と同じに思える。
事態を重く見た宮内庁は訂正要求のほか「秋篠宮さまは皇籍離脱発言などしていない」「夫婦仲はギクシャクしていない」など事実誤認をただす申し入れをしたが、同庁としても異例のことだ。
こと皇室に限らず、反論しない存在に向かって事実を確かめずに一方的な批判を行うのでは、ジャーナリズムとはいえないと思うのだが。(阿比留瑠比)》
当時の私が現在よりさらに未熟な記者だったため、今にして思えば表現がちょっとな、と思う部分や詰めが甘いところがありますが、こんな記事を書いたところ、私は当時の週刊新潮に「宮内庁の番犬」と書かれました。別に、宮内庁という役所をかばおうとしたわけでは、全然無かったのですが。
記事が出た後、紀子さまのお父様である学習院大の川嶋教授から社会部の私あてに電話がありました。川嶋氏は、自分は毎日のスケジュールを詳細にメモ帳につけていると話し、新潮が御所を訪れたと書いた当日とその前後の日程について詳しく説明してくれました。そして、メモ帳そのものを見せてもいいとも言ってくれました。川嶋氏も新潮の記事がよほど悔しかったのではないかと推察します。私は、これを元に反論記事を書こうと考えたのですが、当時の私の記者としての未熟さと、上司の判断もあって、これは活字になりませんでした。今でも残念に思っています。
当時の週刊誌報道に出てくる(宮内庁担当記者)(宮内庁関係者)などのコメントの数割が、仮にも記者や関係者なら絶対に勘違いしないような間違いや、とんちんかんなものだった話は以前のエントリでもちょっと書きました。のちに、著名な元週刊誌編集長が回想録の中で、皇室報道についてはテキトーな部分があったと正直に書いているのを読み、ああやっぱりと思ったものです。
重ねて言いますが、私は報道機関が「権力」に対しても、「権威」に対しても変な遠慮をせずに、堂々と言いたいことを言い、報道できることはとても大切で重要なことだと思っています。ただ、もはやマスコミ自体が一つの巨大な権力・権威と見なされているのに、その点にはほうっかむりして、いたずらに反権力・権威を気取って無責任な批判(ときに誹謗中傷)を書くだけでいいのかと疑問に思うのです。政治でも警察でも何でも、おかしい点はおかしいと書くべきですが、昨今の報道ぶりは、どうもそれとは違う動機と意図ばかりが目立つように感じるのです。私の気の迷いならそれはそれでいいのですが。
by gouriki
完成間近・映画「南京の真実」…