2007年11月10日(土)
第3回証人尋問の報告と資料 
平成19年11月9日沖縄集団自決冤罪訴訟

第3回証人尋問の報告と資料
 

 第3回証人尋問が終わりました。
今回の裁判のクライマックスである長い1日でした。11月9日(金)の朝、大阪地裁に列んだ傍聴券(65席)を求める彼我の人数は10時抽選締め切り段階で693名でした。約700名のうち、当方が半数を少し超える程度で彼我の人数は拮抗していると思います。抽選の結果入廷できた方の中で、私が確認できた当方支援者、関係者の人数は30余名。ここでも彼我は拮抗と当初思いましたが、のちに、抽選に当たって入廷していた方々のうち、かなりの数が、傍聴席を確保できていないジャーナリズム関係者である事も分かり、この方々は独自で抽選券獲得のためにアルバイトを雇ったり、関係者を動員していたと思われます。そう言う方々が少なくとも5名以上いたようであるので、そうすると、純粋な支援者で入廷できた人数は原告側の当方が、被告側を少し引き離していた事になると分析しています。
 今回は近畿各地からだけでなく、関東からも多数の支援の方々が来てくださり、また個人で遠方より来られ、気合いで当選された方もおられました。また、毎回10名から20名程度の傍聴券獲得のために動員をかけてくださるある団体は、この日100名の動員をかけてくださいました。列んだ総数700名の7分の1を占めてくださったわけで、関係者に深く感謝いたします。関西でおつきあいのあるすべての団体、組織が動員してくださり、おかげで、どうしても入廷していただかなければならない方々は全員、いつものように入廷していただけました。秦郁彦先生、中村粲(あきら)先生、藤岡信勝先生のお3人にも、入廷していただく事ができました。
 裁判に結集してくださったすべての皆様、諸団体に深く感謝します。けれどもまた、被告側も総力を挙げ、全国から動員した模様で、彼我は厳しく拮抗しており、裁判の行方が予断を許さぬ事を象徴していると私は感じました。
 10時30分開廷。この日の当方代理人弁護士は、法廷の原告代理人席前列奥より、大村、松本、中村、岩原の各弁護士。後列奥から、高池、徳永、木地の各弁護士で7名です。高池弁護士は東京からの参加で、当裁判に出廷してくださるのは2度目でした。被告側代理人弁護士は、いつも通り前列3名のみで、奧より近藤、秋山(若い方)、秋山(年配の方)の各弁護士でした。

 裁判の記録は、恐ろしいほど早く速記録がイザブログに掲載されており、また、産経新聞の報道も大変正確です。イザブログ掲載の速報は語り口が実際の尋問とは違い、統一され、プロによって整理されており、また、無意味な発言の部分、及び正確な生年月日の確認の部分等プライバシーに関わりすぎると思われるところも省略されています。さらに村長、助役等についても、本名が省略されている部分が散見されますが、極めて適切に編集された詳録となっているので、この配信の末尾に、そのまま貼り付けさせていただきます。
イザブログ様 ありがとうございます。
現在次のアドレスで確認できます。


イザ!ブログの記事


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99444/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99496/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99530/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99573/
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99545/ 

裁判のあと、すぐに弁護士会館にて報告集会を持ちました。
裁判を傍聴できなかった方々も集まってくださり、報告集会会場は当日まで一切報道しなかったにもかかわらず、60名を超える方が参加してくださいました。
弁護士全員の自己紹介、及び本日の裁判に関する報告やコメントが出されました。また上記東京より参加の秦、中村、藤岡、3人の先生方からも意見を頂戴しました。
 徳永弁護士は、徳永の読み方が誤読だと言うに止まらず、曾野先生の読み方も誤読だと断定し、通常の読者の読み方はことごとく誤読になってしまうような書き方をしたことを反省せず、誰も読めないような読み方を求める大江氏の主張を、裁判官が受け入れるとは思えないと語りました。数々の意見や分析が出されましたが、省略いたします。
 皆様、まことにありがとうございました。
次回、最終の口頭弁論は12月21日午後1時15分からです。
集合時刻等は追って連絡させていただきます。
 皆様、今後とも何とぞ宜しくお願い申し上げます。 (文責 南木隆治)
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 〇集団自決訴訟 大江さんら証言としてNHKニュースを動画で見る事ができる。

http://www3.nhk.or.jp/news/2007/11/10/d20071109000151.html
放送内容は以下のとおりである。
『この裁判は、太平洋戦争末期、沖縄の座間味島の守備隊長だった梅澤裕さん(90)と渡嘉敷島の守備隊長の遺族が「住民に集団自決を命じたかのような本の記述は事実ではなく、名誉を傷つけられた」と主張し、出版元の岩波書店と執筆者の大江健三郎さんに本の出版中止などを求めているものです。9日、大阪地方裁判所で、原告と被告の双方から直接話を聞く尋問が行われました。原告の梅澤さんは「村の幹部らが自決したいので、手りゅう弾を分けてほしいと申し出てきたが、死んではいけないと断った」と証言し、集団自決を命じていないとあらためて主張しました。一方、被告の大江さんは「軍の関係者らが『降伏はするな』、『アメリカ軍に上陸されたら自決しないといけない』と住民に繰り返し言っていたために、集団自決が起きたと考えている。本には、隊長個人ということではなく、日本軍の総体という意味で命令、強制があったと書いたが、訂正する考えはない」と証言しました。この裁判の原告側の証言は、高校の教科書から集団自決に日本軍が直接関与したとする記述を削除させた検定意見の根拠の1つにもなっています。判決は来年春の見通しです。』
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産経新聞報道
毅然とした態度で無実訴え 梅沢元守備隊長2007.11.9 12:18

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711091218003-n1.htm

このニュースのトピックス:沖縄集団自決
 「自決命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人尋問が始まった沖縄の集団自決訴訟。住民に集団自決を命じたと記述された座間味島の元守備隊長、梅沢裕さん(90)は、毅然(きぜん)とした態度で“無実”を訴えた。確証がないのに汚名を着せられ続けた戦後60余年。高齢を押して証言台に立ったのは、自分のためだけではない。無念のまま亡くなったもう1人の元守備隊長と旧日本軍、そして国の名誉を守りたい一心だった。

 地裁で最も広い202号法廷。梅沢さんはグレーのスーツに白いシャツ姿で入廷した。終始しっかりとした口調で尋問に答え、焦点となった集団自決前の状況について問われると、「(村民に対し)弾はやれない、死んではいけないと言いました」と語気を強めた。

 梅沢さんにとって決して忘れることのできない出来事をめぐる証言だった。米軍が座間味島に上陸する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た場面は強烈な印象として残っている」という。

 大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を開いていた夜、村の助役ら5人が訪ねてきた。

 《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといにならないように老幼婦女子は自決します》

 助役らは切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴(しゆりゆう)弾などの提供を求めた。驚いた梅沢さんは即座に断り、こう言葉を返したという。

 《自決することはない。われわれは戦うが、村民はとにかく生き延びてくれ》

 戦後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、週刊誌に「梅沢少佐が島民に自決命令を出した」と報じられた。そして、戦後まもなく発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で隊長命令説が記述され、沖縄の文献などに引用されていることを知った。

 「お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」

 転機が訪れたのは57年。戦没者慰霊のため座間味島を訪れた際、米軍上陸直前に会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。戦後、集団自決は隊長命令だったと述べていた女性は苦しみ続けた胸の内を吐露し、「隊長は自決してはならんと明言した」と真相を証言してくれた。

 さらに62年、助役の弟で戦後、村の援護係を務めた男性が「集団自決は兄の命令。(戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく)遺族補償を得るため隊長命令にして申請した」と述べ、梅沢さんの目の前で謝ったという。

 「彼から『島が裕福になったのは梅沢さんのおかげ』と感謝もされた。ようやく無実が証明され、これで世間も治まるだろうと思った」

 だが、隊長命令説は消えなかった。大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』など多くの書物や教科書、さらに映画などでも隊長命令説が描かれた。梅沢さんはいう。

 「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」

大江健三郎氏「軍命令説は正当」と主張 
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711092144016-n1.htm
2007.11.9 21:44
このニュースのトピックス:沖縄集団自決
 先の大戦末期の沖縄戦で、旧日本軍が住民に集団自決を命じたとする本の記述は誤りとして、当時の守備隊長らが、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店に損害賠償や書物の出版・販売差し止めなどを求めた訴訟の口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であり、本人尋問が行われた。大江氏は「参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決は軍隊の命令という結論に至った」と述べ、軍命令説の正当性を主張した。今回の訴訟で大江氏が証言するのは初めて。  

 一方、大江氏に先立ち尋問があった原告の一人で元座間味島守備隊長、梅沢裕さん(90)は「(自決用の弾薬などを求める住民に対し)死んではいけないと言った」と軍命令説を強く否定。もう一人の原告の元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一さん(74)は「大江さんは直接取材したこともないのに、兄の心の中に入り込んだ記述をし、憤りを感じた」と批判した。

 訴訟は、来年度の高校日本史の教科書検定で、集団自決を「軍の強制」とした記述を修正した根拠にもなったが、その後、教科書会社が削除された記述を復活させる訂正申請を出している。

 大江氏は座間味、渡嘉敷両島の元守備隊長2人が直接自決を命じなかったことは認めたうえで、住民に手榴(しゅりゅう)弾が配布されたケースがあることを指摘。「当時は『官軍民共生共死』の考え方があり、住民が自決を考えないはずがない」と軍の強制があったと述べた。自著『沖縄ノート』について「強制において(集団自決が)なされたことを訂正するつもりはない」と語った。
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イザブログ転載 平成19年11月9日証人尋問 梅澤氏、赤松氏、大江氏、の詳細報道。
イザ!ブログの記事


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99444/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99496/

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http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99545/ 




【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないことを言うな」と拒絶
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99444/
11/09 15:14更新

この記事について書かれたブログ(8)
 沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。

                               
 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」
 梅沢さん「はい」
 原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」
 梅沢さん「はい」
 原「当時はどんな装備だったか」
 梅沢さん「短機関銃と拳銃(けんじゅう)、軍刀。それから手榴(しゅりゅう)弾もあった」
 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
 梅沢さん「戦えない」
 原「陸上戦は予定していたのか」
 梅沢さん「いいえ」
 原「なぜ予定していなかったのか」
 梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
 原「どこに上陸してくると思っていたのか」
 梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」
 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」
 梅沢さん「していない」
 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」
 梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」
 原「5人はどんな話をしにきたのか」
 梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
 原「誰から言われているという話だったのか」
 梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」
 原「どう答えたか」
 梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」
 原「弾薬は渡したのか」
 梅沢さん「拒絶した」
 原「5人は素直に帰ったか」
 梅沢さん「執拗(しつよう)に粘った」
 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」
 梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」
 原「その後の集団自決は予想していたか」
 梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」
 原「集団自決のことを知ったのはいつか」
 梅沢さん「昭和33年の春ごろ。サンデー毎日が大々的に報道した」
 原「なぜ集団自決が起きたのだと思うか」
 梅沢さん「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」
 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」
 梅沢さん「とんでもない」
 原「島民に餓死者はいたか」
 梅沢さん「いない」
 原「隊員は」
 梅沢さん「数名いる」
 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」
 梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」
 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」
 梅沢さん「昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」
 原「団長の娘の手記には、梅沢さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」
 梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」
 原「団長以外の4人の運命は」
 梅沢さん「自決したと聞いた」
 原「昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」
 梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」
 原「その後の団長からの手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」
 梅沢さん「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」

 《団長は戦後、集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》

 原「(昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」
 梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」
 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」
 梅沢さん「1人で行った」
 原「会って、あなたは何と言ったか」
 梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」
 原「そうしたら、何と返答したか」
 梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」
 原「どんな話をしたのか」
 梅沢さん「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」
 原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」
 梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)長老は『気の毒だ』と反対した」
 原「その反対を押し切ったのは誰か」
 梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、押し切った」
 原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」
 梅沢さん「資力がなかったから」
 原「裁判で訴えたいことは」
 梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」
 原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」
 梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」
 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」
 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」

 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》

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【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置していない」梅沢さん11/09 17:15更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99496/

この記事について書かれたブログ(9)
 《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》

 被告側代理人(以下「被」)「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたのは知っていたか」
 梅沢さん「島の長が島民に教育していたと思う」
 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」
 梅沢さん「それくらいは浸透していたと思う」
 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」
 梅沢さん「そういうことは、新聞や雑誌が言っていたことだ」
 被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」
 梅沢さん「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」
 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」
 梅沢さん「私から基地隊長にお願いした」
 被「軍の装備について。軍にとって手榴(しゅりゅう)弾は重要な武器か」
 梅沢さん「はい」
 被「女子青年団長が軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」
 梅沢さん「はい。団長から聞いた」
 被「(座間味村史を示し)『民間人だし足手まといになる』『万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いている女性のことは知っているか」
 梅沢さん「知らない人だ」
 被「こんなことがあった、というのは知っているか」
 梅沢さん「こんなことはありえない」
 被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという女性の手記は知っているか」
 梅沢さん「言うはずがないと思う」
 被「別の女性は『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」
 梅沢さん「そういうことは知らないし、ありえないと思う」
 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」
 梅沢さん「ありえない」
 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」
 梅沢さん「知らない」
 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」
 梅沢さん「知らない」
 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」
 梅沢さん「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」
 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」
 梅沢さん「同じだ」
 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」
 梅沢さん「言った」
 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」
 梅沢さん「言った」

 《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》

 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」
 梅沢さん「違う」
 被「別の機会の会話の録音テープがあるのだが、助役の弟が『公表しないでほしい』と言ったのに対し、あなたは『家族や知人には見せる。公表は考える』と答えているが、間違いないか」
 梅沢さん「はい」
 被「じゃあ、家族に見せるためと、証言を頼んだんでしょう」
 梅沢さん「それだけのためじゃないですよ」
 被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか」
 梅沢さん「去年」
 被「どういう経緯で読んだのか」
 梅沢さん「念のため読んでおこうと」
 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「昭和55年に出した島民への手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響下にあり、まったく遺憾である』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」
 梅沢さん「私は『軍は関係ない』とは言っていない」
 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」
 梅沢さん「全然認めていないわけではない」

 《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》

 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという軍令を島民に出したか」
 梅沢さん「出していない。兵も配置していない」
 原「軍は何かしたのか」
 梅沢さん「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」
 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」
 梅沢さん「ありえない」
 原「軍は全島に展開していたからか」
 梅沢さん「はい」
 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、(曽野綾子さんの著書で軍命令説に疑問を示した)『ある神話の背景』は読んでいたのか」
 梅沢さん「はい」
 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか」
 梅沢さん「知っていた」
 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅沢さんの名前は書かれていなかったという意味か」
 梅沢さん「そういう意味だ」

 《被告側代理人も再び質問》

 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」
 梅沢さん「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」

 《梅沢さんの本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》



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【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】赤松さん「タブーのような状態だった」11/09 20:07更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99530/

この記事について書かれたブログ(3)
 《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎氏が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」

 赤松さん「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」

 原「沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」

 赤松さん「読んだ。大学の近くの書店で手に入れた」

 原「戦争の話には興味があったのか」

 赤松さん「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、よく読んだ」

 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」

 赤松さん「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」

 原「お兄さんに確認したことは」

 赤松さん「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、本棚で見つけて持って帰った」

 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」

 赤松さん「2、3冊はあったと思う」

 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」

 赤松さん「そりゃショックだ。329人を殺した大悪人と書かれていた。もう忘れていたが、最近になって、ショックで下宿に転がり込んできたと大学の友人に聞かされた」

 原「最近まで忘れていたのはどうしてか」

 赤松さん「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できたのだと思う」

 原「『ある神話の風景』は、どういう経緯で読んだのか」

 赤松さん「友達が教えてくれた。無実がはっきり証明され、信頼を取り戻せた」

 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」

 赤松さん「間違った書物は削除、もしくは訂正になると思っていた」

 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」

 赤松さん「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」

 《大江氏が身を乗り出すようにして赤松さんの話を聞く》

 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか」

 赤松さん「はい」

 原「訴訟を起こしたきっかけは」

 赤松さん「3年前にある人から話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」

 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」

 赤松さん「難しい本なので飛ばし読みしたが、兄が誹謗中傷されているのはよく分かった」

 原「悔しい思いをしたか」

 赤松さん「はい。沖縄で極悪人と面罵(めんば)されたのですから。兄は自決命令を出していないと無実を訴える手記を出していたが、ペンも凶器になるということだ。兄は手記の中で、『沖縄ノート』の資料の質を問い、証人を示すのがジャーナリストの最低限の良心と問うていた」

 《原告側代理人の質問が終了》

 被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」

 赤松さん「ない」

 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求めたことがあったか」

 赤松さん「なかったでしょうね」

 被「『沖縄ノート』が店頭に並んでいると教えてくれた人が、裁判を勧めたのか」

 赤松さん「そうなりますか」

 被「お兄さんの手記は読んだか」

 赤松さん「読んだ」

 被「『島の方に心から哀悼の意を捧(ささ)げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」

 赤松さん「知っている」

 原「裁判は人に起こせと言われたのか」

 赤松さん「確かにそうやけど、歴史として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」

 《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した》



【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「日本軍の命令だ」
11/09 21:45更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99573/

この記事について書かれたブログ(7)
 《午後1時50分ごろ、大江健三郎氏が証言台に。被告側代理人の質問に答える形で、持論を展開した》

 被告側代理人(以下「被」)「著書の『沖縄ノート』には3つの柱、テーマがあると聞いたが」

 大江氏「はい。第1のテーマは本土の日本人と沖縄の人の関係について書いた。日本の近代化に伴う本土の日本人と沖縄の人の関係、本土でナショナリズムが強まるにつれて沖縄にも富国強兵の思想が強まったことなど。第2に、戦後の沖縄の苦境について。憲法が認められず、大きな基地を抱えている。そうした沖縄の人たちについて、本土の日本人が自分たちの生活の中で意識してこなかったので反省したいということです。第3は、戦後何年もたって沖縄の渡嘉敷島を守備隊長が訪れた際の現地と本土の人の反応に、第1と第2の柱で示したひずみがはっきり表れていると書き、これからの日本人が世界とアジアに対して普遍的な人間であるにはどうすればいいかを考えた」

 被「日本と沖縄の在り方、その在り方を変えることができないかがテーマか」

 大江氏「はい」

 被「『沖縄ノート』には『大きな裂け目』という表現が出てくるが、どういう意味か」

 大江氏「沖縄の人が沖縄を考えたときと、本土の人が沖縄を含む日本の歴史を考えたときにできる食い違いのことを、『大きな裂け目』と呼んだ。渡嘉敷島に行った守備隊長の態度と沖縄の反応との食い違いに、まさに象徴的に表れている」

 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」

 大江氏「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『〜という命令』とした」

 被「日本軍の命令ということか」

 大江氏「はい」

 被「執筆にあたり参照した資料では、赤松さんが命令を出したと書いていたか」

 大江氏「はい。沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』にも書いていた」

 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」

 大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」

 被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」

 大江氏「そう」

 被「守備隊長に責任があると書いているのか」

 大江氏「はい」

 被「実名を書かなかったことの趣旨は」
 大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」

 被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」

 大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」

 被「渡嘉敷や座間味の集団自決は軍の命令と考えて書いたのか」

 大江氏「そう考えていた。『鉄の暴風』など参考資料を読んだり、執筆者に会って話を聞いた中で、軍隊の命令という結論に至った」

 被「陳述書では、軍隊から隊長まで縦の構造があり、命令が出されたとしているが」

 大江氏「はい。なぜ、700人を超える集団自決をあったかを考えた。まず軍の強制があった。当時、『官軍民共生共死』という考え方があり、そのもとで守備隊は行動していたからだ」

 被「戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』という教えも、同じように浸透していたのか」

 大江氏「私くらいの年の人間は、子供でもそう教えられた。男は戦車にひき殺されて、女は乱暴されて殺されると」

 被「沖縄でも、そういうことを聞いたか」

 大江氏「参考資料の執筆者の仲間のほか、泊まったホテルの従業員らからも聞いた」

 被「現在のことだが、慶良間(けらま)の集団自決についても、やはり軍の命令と考えているか」

 大江氏「そう考える。『沖縄ノート』の出版後も沖縄戦に関する書物を読んだし、この裁判が始まるころから新証言も発表されている。それらを読んで、私の確信は強くなっている」

 被「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」

 大江氏「普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている。悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」

 被「『(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」

 大江氏「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」

 被「アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」

 大江氏「アイヒマンには、ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」

 被「アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」

 大江氏「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」

 被「赤松さんの命令はなかったと主張する文献があるのを知っているか」

 大江氏「知っている」

 被「軍の命令だったとか、隊長の命令としたのを訂正する考えは」

 大江氏「軍の命令で強制されたという事実については、訂正する必要はない」

 《被告側代理人による質問は1時間ほどで終わった》



【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任を取るとはどういうことなのか」11/09 21:47更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99545/


この記事について書かれたブログ(4)
 《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》

 原告側代理人(以下「原」)「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」

 大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」

 原「島民はどこに逃げられたというのか」

 大江氏「実際に助かった人がいるではないか」

 原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」

 大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」

 原「集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」

 大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」

 原「集団自決は予見できるものなのか」

 大江氏「手榴(しゅりゅう)弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」

 原「赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」

 大江氏「事実ではないと思う」

 原「その根拠は」

 大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」

 原「(沖縄タイムス社社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」

 大江氏「事実と考えている」

 原「手榴弾を島民に渡したことについては、いろいろな解釈ができる。例えば、米英に捕まれば八つ裂きにされるといった風聞があったため、『1発は敵に当てて、もうひとつで死になさい』と慈悲のように言った、とも考えられないか」

 大江氏「私には考えられない」

 原「曽野綾子さんの『ある神話の風景』は昭和48年に発行されたが、いつ読んだか」

 大江氏「発刊されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんを批判している部分が3カ所あるから読んでくれ』と発送された。それで、急いで通読した」

 原「本の中には『命令はなかった』という2人の証言があるが」

 大江氏「私は、その証言は守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」

 原「ニュートラルではないと判断した根拠は」

 大江氏「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」

 原「しかし、この本の後に発行された沖縄県史では、集団自決の命令について訂正している。家永三郎さんの『太平洋戦争』でも、赤松命令説を削除している。歴史家が検証に堪えないと判断した、とは思わないか」

 大江氏「私には(訂正や削除した)理由が分からない。今も疑問に思っている。私としては、取り除かれたものが『沖縄ノート』に書いたことに抵触するものではないと確認したので、執筆者らに疑問を呈することはしなかった」

 《尋問が始まって2時間近くが経過した午後3時45分ごろ。大江氏は慣れない法廷のせいか、「ちょっとお伺いしますが、証言の間に水を飲むことはできませんか」と発言。以後、ペットボトルを傍らに置いて証言を続けた》

 原「赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読んだのは誤読か」

 大江氏「内面は代弁できないが、赤松さんは『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しいために読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」

 原「作家は、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」

 大江氏「(傷つけるかもしれないという)予想がつくと思いますか」

 原「責任はない、ということか」

 大江氏「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」

 《被告側、原告側双方の質問が終わり、最後に裁判官が質問した》

 裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」

 大江氏「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」

 《大江氏に対する本人尋問は午後4時前に終了。大江氏は裁判長に一礼して退き、この日の審理は終了した》

イザブログ様 転載させていただきありがとうございました。南木

2007年11月10日 09時06分 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(2) |
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2007年11月09日(金)
裁判支援のお願い
この裁判は皆様からの支援金によってのみ支えられています。弁護士の沖縄派遣費用、集会のための会場費、通信費等の一切を皆様のご支援によって運営できております。まことにありがとうございます。
何卒、一人でも多くの方のご協力を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます。
尚、当会会計は厳正に運営さており、下記以外の別の口座に振込を指示するちらし等が過去に散見されていますが、当会と一切関係ありません。振込は必ず下記の口座にお願いいたします。
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

郵便振替口座
 

00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)                    
代表    南木隆治
(みなきたかはる)
                      
会計責任者 吉田康彦
(よしだやすひこ)
2007年11月9日 16時30分 | 記事へ |
2007年11月07日(水)
沖縄集団自決冤罪訴訟第3回証人尋問予定
沖縄集団自決冤罪訴訟第3回証人尋問予定
平成19年11月9日(金)
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/
大江健三郎氏証人尋問
沖縄集団自決免罪訴訟第3回証人尋問
傍聴券獲得に列ぶ人は彼我併せて
500人以上になる見込み
傍聴席は65席しかありません。
皆様是非傍聴券確保にご協力ください。
傍聴券の抽選は朝1回だけです。
途中休憩を挟んで再入廷するとき、
券を持っていれば人が交替しても問題ありません。
 
・日時 平成19年11月9日(金)午前9時半までに集合
    ※傍聴券の配布は、9時45分頃
・場所 大阪地裁(大阪市北区西天満2-1-10)
TEL 06-6363-1281
・内容 10時半〜正午     梅澤  裕  氏 証人尋問
    13時半〜14時10分  赤松  秀一 氏 証人喚問
    14時半〜16時半    大江 健三郎 氏 証人喚問
2007年11月7日 02時09分 | 記事へ | トラックバック(0) |
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2007年09月12日(水)
沖縄集団自決冤罪訴訟第2回証人尋問
沖縄集団自決冤罪訴訟第2回証人尋問
 
南木です。
9月10日 那覇地裁における、金城重明証人尋問速報 (沖縄集団自決冤罪訴訟)です。
弁護団の皆様、まことにお疲れ様でした。
沖縄で弁護団のサポートをしてくださった皆様、まことにありがとうございました。
皆様、ごらんになっておわかりのように、当方に圧倒的に有利な、大きな成果がありました。
皆様のご支援に深く感謝いたします。
以下、弁護団よりの速報。
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9月10日 金城重明証人尋問速報

《証言不適格の証人》

本日の証人尋問で明かになったことは、被告側の証人として法廷に立った金城重明が、そもそも渡嘉敷の集団自決が赤松隊長の命令によるものであることを証言するに相応しい証人ではなかったということ、すなわち証言適格のない証人であったということである。

金城重明は、法廷でも集団自決が軍命令によるものであることを主張し、その根拠として、(1)昭和20年3月20日に役場に17歳以下の少年が集められ兵器軍曹から手榴弾を渡され、その際に「米軍の上陸は必至である。1発は敵兵に投げ、1発は捕虜にならぬよう自決用に使え」と命じられたこと、(2)軍から自決命令が伝えられたらしいという噂があったこと、(3)村長が天皇陛下万歳を三唱したのは自決命令にほかならないこと、(4)最も危険な場所である軍の西山陣地の近くに村民を集合させたのは、自決を命じるのと同じだ、といったことを挙げた。

なにか新しいことを証言するかも知れないと身構えていた弁護団にとっては、金城重明の証言が、これまでいろんなところで語ってきたことを整理しただけのものだったことに対して、なにやら肩すかしをくらったような感じがした。 命令が出たらしいという噂があったことを語るだけで隊長命令の存在を証言することができなかった金城重明は、しかし、反対尋問によって、彼が軍命の根拠としていた上記(1)〜(4)に対し、重大な疑念を抱かせる結果になった。

《誰も貰わなかった手榴弾〜20日交付説の虚妄》

まず、(1)の3月20日手榴弾配布の命令説であるが、なによりも、当時16歳であった金城重明自身が、そうした命令を受けていないことを明確に語ったことは重大である。金城重明は、20日に役場に集められたこともなく、兵器軍曹から手榴弾を交付されることもなかった。もちろん「1発は自決のために使え」という命令も受けてなかったのである。金城重明の言い訳は、兵器軍曹から手榴弾を配られたのは渡嘉敷部落だけであり、阿波連部落には、手榴弾の配布はなかったということであった。それが軍の命令なのであれば、阿波連に伝えられないということがありえようか。
さて、それでは、渡嘉敷部落で手榴弾をもらったものがいるのかと聞けば、なんと、もらったものは誰も知らないというのである。与那嶺次郎、小嶺勇夫、安里広信ら渡嘉敷部落の同級生も、同級生で役場の職員だった吉川勇助も3月20日に手榴弾をもらっていない。当時14歳だった知人の金城武則も。では、金城重明はいつ誰から20日の手榴弾配布という話を聞いたのだろうか。その答えは、家永訴訟の証人尋問の少し前に、安仁屋教授から富山新証言を教えてもらい、富山新順に連絡をとって会って聞いたというものだった。曽野綾子は、家永訴訟で、その徹底的調査にもかかわらず20日の手榴弾交付の話は、誰からも聞いたことがないと証言し、その話に根本的疑問を呈していたが、その証言が裏付けられた形である。他方、金城重明が、なぜ富山新順の話を真実だと信じたのかは、全く不明のままだ。  

《自決命令って単なる噂?》

(2)の隊長命令伝達に関する証言は、本来、隊長命令の有無が争点になっている本件訴訟でもっとも重要なもののはずだった。しかし、金城重明が証言したのは、「命令がでたらしいという噂」に過ぎなかった。金城重明の近著『集団自決を心に刻んで』(平成7年)でも、「事実関係には争いがある」との注が入っているのだから、「噂」しか証言できないのはしかたがないとはいえ、被告側の証人としてはいかにもパンチがないのである。しかも、その「噂」を話していた村民は誰かと尋ねてもはっきりとした答えはなかった。後知恵で命令を語っているといわれてもしかたがないであろう。
そのあたりの弱点は、金城重明も認識しているようで、それが次の「万歳三唱命令説」につながったと思われる。

《万歳三唱命令説のこじつけ》

(3)金城重明がその体験から証言できるのは、集団自決前に古波蔵村長が音頭をとった「天皇陛下万歳」の三唱だった。彼は、軍からの自決命令そのものだと強弁した。最近の新聞でも、そんなことを語っているらしい。しかし、音頭をとった村長や幹部達は自決せずに生きていたのであり、ちょっと頭を冷やして考えれば、それが軍からの自決命令だという理屈に大きな飛躍があることは誰でもわかる。しかもだ。金城重明は、昭和46年に書いた『潮』の「体験手記」でも、『ある神話の背景』に引用された「手紙」でも万歳三唱のことは全く出て来ない。軍命令の有無が争点になっていた家永訴訟において提出された「意見書」や証言においても、万歳三唱には一切触れられていないのだ。村長の万歳三唱が自決命令だと感じ、「その光景が脳裏に焼きついている」というのが真実ならば、家永訴訟においてさえ、そのことを証言していないというのはおかしいではないかという真っ当な疑問に対し、金城重明から納得できる説明はなかった。ちなみに、村長の万歳三唱を軍からの自決命令だと感じたと話している村民がいるかと尋ねたが、記録されたものはなにもないという答えだった。万歳三唱命令説の証言は、最近になって金城重明が唱えた独自の見解、即ち、こじつけに過ぎないのである。   

《西山集合命令説の自家撞着》

(4)の西山陣地集合命令説は、もともと集合の「指示」を「命令」と曲解するだけでなく、軍の陣地の側は最も危険な場所だったという後知恵を当時の村民に認識にすり替えるトリックを必要とするこじつけにすぎない。金城重明は、しかし、最も危険な場所に住民を集めるということが軍が自決を強要したことの証拠であるかのように断言してみせた。裁判所へ来てする話ではないだろうとは思ったが、本当に証言したのだからしかたがない。
それなら当時どこなら安全だったのかという問いを投げかけたが、はっきりした答が返ってくるはずもない。なんと金城重明は『潮』の体験記のなかで、西山陣地近くに移動した村民の心情として軍の側なら安全だし、保護してもらえるかもしれないという期待があったと書いていたのだ。これを突っ込むと、米軍が上陸する前の認識で、上陸後は、米軍の側が安全だという認識に変わったという。もう、むちゃくちゃである。金城重明は、家族や村民を殺した後、米軍に惨殺される覚悟で斬り込みに行ったと証言していたはずだった。鬼畜米英に対する恐怖は、西山に集合したときにもあったのである。米軍から軍民を区別しない空襲と艦砲射撃を受けているのだから当然だろう。むしろ、金城重明の証言は、そんな露骨なこじつけをしてまで、赤松隊長に集団自決の責任を押し付けようとする暗い執念のようなものが印象づけられる結果に終わった。

《なんともいい加減な話》

金城重明は、最近の沖縄タイムスのインタビューで集団自決後、赤松隊長から「軍は最後まで生き残って戦況を報告しなければならない。住民はそうではない」と直接聞いたとの新証言をしていた。弁護団としては、今回の証言で、この新証言が飛び出るのではないかと身構えていた。もし証言があれば、なぜ今まで、そんな大事な事実を沈黙してきたのかと突っ込むつもりでいた。ところが、主尋問は、この新証言にかすりもせずに終わってしまったのだ。反対尋問の最後で、このことについても尋ねてみたのだが、「住民はそうではない」の部分は、事実と違うので、削ってください、とのことだった。金城重明が、インタビューアーの期待に答えようとしてつい口が滑ってしまったのか、インタビューアーの間違いかは、はっきりしないままだったが、なんともいい加減な話である。記者にも金城重明にも、人間の罪と名誉がかかった問題だという意識がまったくないのだろう。

そうして本日の証人尋問は終わった。

《明かになったのは・・・》

家族だけでなく複数の村民にも手をかけることになった金城重明の過酷な運命に深く同情する。確かにそれは戦争という異常事態、沖縄戦という不条理がなせるわざだった。誰も彼を裁くことはできない。しかし、確かな根拠もない理屈をかざして、隊長の自決命令があったと証言して、赤松嘉次に罪を押し付けるというのは別のことである。そもそも金城重明は、集団自決とは何かを語るべき証人であり、隊長命令や軍命令の有無を語るべき証人ではなかったのだ。この日、明かになったのはそのことだった。

以上  

2007年9月12日 07時27分 | 記事へ | コメント(5) | トラックバック(4) |
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2007年07月28日(土)
沖縄集団自決冤罪訴訟第1回証人尋問
 沖縄集団自決冤罪訴訟第1回証人尋問

平成17年7月27日(金)の沖縄集団自決冤罪訴訟第10回口頭弁論・第1回証人尋問は、 午前9時45分、朝から夏の暑い日差しが照りつける中、これまで最大の220名の人々が、記者席に多くとられたため、69席しかない傍聴席を獲得するため大阪地裁前に並びました。並んだ人数は全体で220程度、そのうち相手側が130,当方90位だと思います。
被告側の動員数が勝り、せっかく並んでいただいたのに、法廷に入れなかった方が当方で相当数出ました。
また、集合時間最終ぎりぎりを 午前9時50分集合としていたため、抽選券に間に合わない方もあり、申し訳ありませんでした。最終当方の動員数100名を超えていました。

   10:00−00:00 皆本義博氏 証人尋問
   13:30−14:25 知念朝睦氏 証人尋問、
   14:40−16:30 宮城晴美氏 証人尋問


午後の部のさらに後半、宮城晴美の尋問になってようやく入場券に余裕がでて、待っていた方には入っていただく事が出来ました。
皆本さん、知念さんとも、「自決命令など聞いたことがない」と明確に証言されました。
また、宮城晴美氏を尋問された徳永さんの尋問は白眉でした。宮城氏が、軍による自決命令があったと、見解を変えたのはわずか1月前の本年6月だとはっきりさせたこと、そして今も、梅澤さんが自決命令を出したと主張しているわけではなく、軍に責任があり、そうであるなら部隊長の梅澤さんに責任があると考えるようになったに過ぎない、と言うことを認めさせた事で、梅澤ルートの証人尋問は完勝に終わったと言えます。
宮城氏は、「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」と証言しました。
しかし、そう考えるようになったのがわずか1ヶ月前である事について、深見裁判長が「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどでした。

この日の証人尋問に先立って、当方より提出してある準備書面(9)を以下に示しますので、ご一読をお願いします。

次回以降の裁判
9月10日(月)  那覇地裁 
   13:00−15:00 金城重明氏 証人尋問
(出張尋問のため、傍聴はありません)

11月9日(金) 大阪地裁 
        時間未定 10:00-11:20 梅沢裕氏 証人尋問
               13:30−14:00赤松秀一氏 証人尋問
               14:00-16:00大江健三郎氏 証人尋問
12月21日(金)13:15 最終の口頭弁論 結審
(この日程は今回新たに設定されました)
来年3月頃までに判決が出るものと予想されます。
尚、上記の通り、9月10日に那覇地裁へ出張尋問に行かねばならず、弁護団、及び事務局員の出張費に新たに相当の費用が必要です。
何卒、一人でも多くの方のご協力を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

郵便振替口座
00900−6−316826


(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)   
                 
代表    南木隆治
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平成17年(ワ)第7696 出版停止等請求事件
原 告 梅澤 裕  外1名
被 告 大江健三郎 外1名

            原告準備書面(9)                          平成19年7月25

大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中

                  原告ら訴訟代理人
                    弁護士  松  本  藤  一

                    弁護士  sc  永  信  一

                    弁護士  稲  田  朋  美

                    弁護士  高  池  勝  彦

                    弁護士  岩  原  義  則

                    弁護士  大  村  昌  史

                    弁護士  木  地  晴  子

                    弁護士  本  多  重  夫

                    弁護士 中  村  正  彦

   弁護士 青  山  定  聖 弁護士  荒 木 田    修

   弁護士 猪  野     愈   弁護士  氏  原  瑞  穂

   弁護士 内  田     智   弁護士  小  沢  俊  夫

   弁護士 勝  俣  幸  洋   弁護士  神  崎  敬  直

   弁護士 木  村  眞  敏   弁護士  田  中  平  八

   弁護士 田  中  禎  人   弁護士  田  辺  善  彦

   弁護士 玉  置     健 弁護士  中  條  嘉  則

   弁護士 中  島  繁  樹 弁護士  中  島  修  三

   弁護士 二  村  豈  則 弁護士  馬  場  正  裕

   弁護士 羽  原  真  二 弁護士  浜  田  正  夫

   弁護士 原     洋  司 弁護士  藤  野  義  昭

   弁護士 三ツ角   直  正 弁護士  牧  野  芳  樹

   弁護士 森     統  一
第1 照屋昇雄証言について
1 被告主張
 被告は、被告準備書面(11)で照屋昇雄(元琉球政府援護課職員)証言が信用できないと主張する。
 被告はその根拠を、照屋が琉球政府に採用され中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務したのが1955年(昭和30年)12月であり、1956年(昭和31年)10月1日には照屋が南部社会福祉事務所に配置変えとなり、さらに1958年(昭和33年)2月15日に社会局福祉課に配置換になっていることをあげ、照屋が、社会局の援護局に在籍していたのは1958年(昭和33年)10月のことであるという。
 そして当時、照屋は同局の庶務課に在籍していたのであるから、「昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を勤めていた」とする照屋証言は、上記の琉球政府の人事記録に反しており虚偽であるとする。
2 辞令の存在と照屋証言の真実性
 しかし、照屋は1954年(昭和29年)10月19日付で琉球政府から「援護事務を嘱託す 日給壹百五十円を給する 社会局援護課勤務を命ずる」とする辞令を受領しており(甲B63) 、さらに1955年( 昭和30年) 5月1日付で琉球政府行政主席比嘉秀平より援護事務嘱託であった照屋昇雄に対し「旧軍人軍属資格審査委員会設置規定第四条の規定により旧軍人軍属資格審査委員会臨時委員を命ずる」とする辞令が発給されているのである( 甲B64) 。
 照屋の証言と辞令からすれば、照屋が1954年(昭和29年)10月19日から、社会局援護課に勤務し、援護事務嘱託として稼動し、さらに1955年( 昭和30年) 5月1日から旧軍人軍属資格審査委員会の臨時委員として稼動したことが明らかである。
 さらに1956年(昭和31年)1月8日に願により嘱託を解かれるまで照屋が援護事務業務を遂行していたことも、琉球政府発行の公式書類により明らかである(甲B65) 。
 照屋は真実、復員業務事務の中で復員調査票を作成し、さらに援護事務の一環として各部隊の戦況、現地の状況を調査し、アメリカ側の資料とも照合して戦況調査を行ない住民の自決者についての情報も集めて役所に提出した。
 これらの活動結果がその後の集団自決に援護法の適用が決定された際の具体的な適用の際の資料として活用されたものである。
 この点については、原告が第7準備書面21頁において「この昭和31年頃までに、渡嘉敷村では、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていた照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。
しかしながら、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった」と指摘しており、この指摘が時期の点でも正確であることが了解いただけよう。
3 補足
 そうしてみると、被告提出の乙56の1ないし乙59は、照屋が1958年( 昭和33年) 10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかったとする被告主張の根拠にはなり得ないし、また「照屋氏は1958年( 昭和33年) 10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかった」とし照屋が渡嘉敷島で住民から聴き取り調査をしたり、自決命令があったとして援護法適用のために活動したということは考えられないとする主張も全く根拠がないことになる。
 乙56の1及び2は、照屋が1956年(昭和31年)1月8日に願いにより(援護事務)嘱託を解かれた前後の処遇に関するものである。
 具体的に指摘すると、嘱託で働いていた照屋は、1955年(昭和30年)12月31日に琉球政府に三級民生管理職として正式に採用されたので(乙56の1)、それを受けて直ちに願いを出し、援護事務嘱託を解く決定を琉球政府になしてもらったのであり、その日付が1956年(昭和31年)1月8日であったのである(甲B65)。年末年始を挟んだため8日程度の間が空いているが、実質は完全に連続性のある身分の移動といえるのであり、乙56によって、逆に甲63ないし65の真実性がより明らかになっている。
 乙56ないし58のような援護課勤務でない別の時期の照屋の勤務に関する資料を提出して、照屋が社会局の援護課に勤務したのは1958年(昭和33年)10月からであり渡嘉敷島住民のための援護事務は行っていないと被告が主張するのは、悪意に満ちた誤導というほかはない。

第2 阿嘉島の野田隊長による自決命令について
1 被告主張
 被告は、準備書面(7)第2の3の(2)(15頁)において、「座間味島においては、集団自決の発生当時、住民は『自決せよ』との軍命令(隊長命令)をうけていたのであり、阿嘉島においては、野田少佐による自決命令の訓示がなされていた(乙9・730頁)。同じ慶良間列島の渡嘉敷島においてのみ、戦後、島に残っていた者の責任回避のために軍命令があったという話が言われ始めたとする原告の主張には、何の根拠もはない」と主張する。
 さらに被告準備書面(10)第4の1の(3)(11頁)でも「大城昌子が『阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなったときは玉砕するように命令があったと聞いていました』(乙9・730頁)と証言しているほか『座間味村史』上巻(乙49・357頁)にも同様の記載がある。さらに、阿嘉国民学校慶留間分教場の校庭で野田隊長の訓示を聞いた與儀九英氏は、野田隊長が『敵ノ上陸ハ必至。敵上陸ノ暁は全員玉砕アルノミ』と厳しい口調で大声で住民に訓示していたと明確に証言しており(乙48)、慶留間島において野田義彦少佐の住民に対する玉砕訓示があったことは明白である」と述べる。
この野田隊長による自決命令については、原告は、準備書面(7)49頁以下で、その不存在を主張したが、改めて、以下内容を補足して、かかる命令の不存在と野田隊長の行為が《梅澤命令説》及び《赤松命令説》の根拠と何らならないことを指摘する。
2 野田隊長による自決命令の不存在−『沖縄県史』第10巻より−
 まず、大城昌子証言は「いざとなった時には玉砕するように命令があったと聞いていました」とするものであり、大城昌子自ら玉砕命令を受けたものでもなく、他人から玉砕命令を聞いたというものであり単なる伝聞にすぎない。しかも、この大城証言はその後にさらに、「その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。…(中略)…考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」と、命令とは無関係に自らの意思で自決したという決定的な言葉が続くのである(乙9・73
0頁)。

 また、そもそも座間味村には座間味島、阿嘉島、慶留間島があり(うち阿嘉島及び慶留間島に、野田戦隊が配置されていた)、阿嘉島の事例は、本件訴訟で問題となっている座間味島の集団自決とは別のものである。そして阿嘉島では、集団自決は一件も発生しなかったことを県史がみずから認めているのである(乙9・700)。被告の主張のように野田隊長による「自決命令の訓示」があったと仮定しても、阿嘉島で集団自決が一件も発生していないのであるから、野田隊長の訓示は何の意味も持たなかったことになる。
 さらに阿嘉島の義勇隊員であった中村仁勇は「野田隊長は住民に対する措置という点では立派だったと思います」と野田隊長の住民に対する対応を評価する。そして中村は、「(3月)26日の切り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って、『住民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』と聞いたわけです。野田隊長は、『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』と指示したそうです」と証言する(乙9・708頁)。この言葉は、3月26日の段階で野田隊長から自決命令が出ていないことを雄弁に物語っている。
 さらに中村は、「6月末ころだったんですが、中岳というところに部落民みんなを集めて『住民は逃げたければ逃げてもいい。ただし、兵隊の逃亡は容赦しない』という命令がありました。それから住民はどんどん島を抜け出して、最後まで残っていたのは、私の家族とか郵便局長の家族とか、ほんのわずかの人数でした。島の周辺にはひっきりなしにパトロールの舟艇がやってきて、浜へおりて合図をやるとすぐに迎えにきて座間味の方へ連れていくんです。…
(中略)…部落民がはじめて島を抜けだすのは、命令があった時よりもずっと前からで(あった)…」などとも述べている(乙9・710頁)。野田隊長が、住民に自決を求めていなかったこと、住民が投降することを認めていたことは、ここからも明らかであろう。
 なお、阿嘉島の垣花武一も「その後公然と逃亡許可がおり、6月22日、野田隊長は『降伏したい者は山をおりてよし』という命令を出したため、3分の2近くの者が小さい子供たちを連れて米軍の方に行きました」と、中村仁勇と同様の証言をしている(乙9・725頁)。
 加えて、阿嘉島の住民中島フミは「軍曹に殺してくれとお願いした。するとその人は『お前たちは心の底から死にたいとは思っていないから殺さない』といわれた」と証言する(乙9・718頁)。自決命令が出ていれば、殺してくれと頼まれて拒絶する理由はない。殺してくれと頼まれても拒絶していることは、自決命令のなかった証左といえる。
2 野田隊長による自決命令の不存在−『座間味村史』下巻より−
 『座間味村史』下巻(乙49)においては、「慶留間部落民は、前月(2月)八日の『大詔奉戴日』に阿嘉駐屯の戦隊長・野田少佐から訓示を受けた際、隊長がしきりに『玉砕』について話していたことが脳裏にひっかかっていた。この『玉砕』の話の内容について詳しく覚えている人はいないが、隊長がこと細かに『玉砕』について説明していたことから、ほとんどの住民が“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味だな”と解釈していた。ただその場では自分たちとはおよそ無縁の話だと、そんなにこだわりもせず聞き流した程度であったが、上陸によって、住民たちは野田隊長の訓示の意味を悟ったという」との記載がある(乙357、358頁。下線部は原告代理人)。
 しかし、そもそもこのような訓示があったか否かがまず問題である。前記の沖縄県史第10巻(乙9・昭和49年)においては、大城昌子が伝聞ではあるがそのような訓示について論及しているが、平成元年発行の座間味村史下巻においては、「内容について詳しく覚えている人がいない」として結局具体的に野田隊長の訓示内容を証言できる者がいなかったことが明らかとなっている。
 この座間味村史下巻の第2編第5章は、ほかならぬ宮城晴美が十分な調査をして執筆した部分であり(乙63・2、3頁)、宮城晴美の調査をもってしても不明であった野田隊長の玉砕訓示の内容が、現在になって突然與儀九英によって具体的に明らかにされた(乙48)というのも、釈然としないところである。
 そして、このような野田隊長の玉砕訓示が仮にあったとしても、それは(與儀を除いて)「内容について詳しく覚えている人がいない」程度の話であり、さらに“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味であると「解釈した」が、「自分たちとはおよそ無縁の話だと聞き流した程度であった」というのであるから、およそ具体的な「命令」とは考えられないものである。
 さらに、「玉砕」という言葉自体についても、「軍民一丸となって死を恐れずに敵に向かっていき精一杯戦うべし」という士気高揚の意味にとるのがむしろ自然であり、また自決を示唆するものとしても、「いよいよ米兵に虐殺陵辱されそうになったら」という条件付きのものとも取ることができる。
 いずれにしても「全員玉砕アルノミ」との言葉を、「軍の足手まといにならぬように住民は先に自決せよ」というような意味の自決命令と解するのは、あまりに無理矢理な解釈と言わざるを得ない。
4 まとめ
 以上の点からすると、被告は大城昌子証言、與儀九英証言を著しくねじ曲げて、野田隊長による住民への自決命令があったと強弁しているに過ぎない。
さらに本質的な問題は、本件で争われているのは、阿嘉島でも野田隊長でもない、渡嘉敷島の赤松戦隊長と座間味島の梅澤戦隊長(原告梅澤)から自決命令が出たか否かであるという点である。
 赤松戦隊長と梅澤戦隊長の自決命令の根拠(状況証拠)にするために、断片的な証拠から、およそ現実にあったとも思われない野田隊長の自決命令について阿嘉島や慶留間島の例を持ち出すのは牽強付会そのものであり、このような主張は問題を複雑化させ争点を曖昧にするだけである。
 被告は渡嘉敷島の赤松隊長と座間味島の梅澤隊長から自決命令が出たか否かについて、直截に根拠を示すべきなのである。
以 上
2007年7月28日 10時04分 | 記事へ | トラックバック(8) |
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2007年06月23日(土)
大江健三郎氏を法廷に呼び出そう!
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
   
代表 南木隆治
 
大江健三郎氏を法廷に呼び出そう!

 平成17年8月5日、先の大戦において、沖縄の座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長 梅沢裕・元少佐(88)ご本人と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)が、大江健三郎氏と岩波書店に対し、名誉棄損の謝罪広告等を求めて大阪地裁に訴えを起こされました。
私たちはこの訴えをまったく正当な、勇気ある行動と思います。沖縄戦に関しては、「軍命令」によって集団自決が発生したという過った情報が子供たち対象の書物や、映画、教科書にまで書かれ、すでに大量に独り歩きしており、これ以上到底放置できない状況です。
 風聞に基づく報道等により、座間味島の守備隊長だった梅澤少佐と、渡嘉敷島の守備隊長だった赤松大尉は、残虐非道な命令の主であり、村民の犠牲により自らは生き延びた卑劣漢だという全くいわれのない非難を浴びてきました。  
 やがてその風聞は曽野綾子氏の「ある神話の背景」等によって架空の「神話」であることが明らかになりましたが、赤松大尉と梅澤少佐が、犠牲となった多くの沖縄村民の補償を有利にするべく公には沈黙してきたこともあって、風聞は消滅しませんでした。
今回の裁判は梅澤、赤松両氏の名誉を回復するだけでなく、日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻す国民運動です。
 おかげさまで、裁判は我が方の圧倒的優勢の内に進行し、すでに9回の口頭弁論を終え、7月27日(金)、9月10日(月)、11月9日(金)の証人尋問を残すだけとなりました。
 その中で、本年平成19年3月30日、文部科学省が来春から使用される高校教科書の検定結果を発表しました。そこで注目されたのは、沖縄集団自決を軍の命令とする記述に初めて検定意見がつき、出版社が修正したことでした。ようやく軍命令による自決という誤った記述が教科書から削られました。
 この文部科学省の快挙に我々は諸手を挙げて賛同しましたが、雑誌『正論』編集長の大島信三氏は次のように賛同のメッセージを発表してくださいました。
 大島先生。ありがとうございました。
 
大島信三のひとことメモより。
2007年03月31日

「定説」を広めたのは、主に岩波書店だった。そのうちの1冊は、曽野さんの著書が刊行される3年前の昭和45(1970)年に出版された大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』(岩波書店)。大江氏らの著書で名誉を傷つけられたとして元守備隊長らが、大阪地裁に提訴。「沖縄集団自決冤罪訴訟」は、平成17(2005)年10月28日、大阪地裁で始まった。原告側の徳永信一弁護士は、『正論』(平成18年9月号)でこう述べている。
<大江氏は、まず、どんな調査のもとに、何を根拠にして、赤松元大尉を「罪の巨塊」などと断定し、アイヒマンのごとく絞首刑にされるべきだと断罪したのかを弁明しなければならない。やがて法廷の証言に立つという大江氏の約束が果たされる日を待ち遠しく思う。そのとき、彼はなにをどう語るのだろうか>
 この裁判で読み上げられた梅澤裕元少佐の意見陳述書が、今回の「軍命令」修正に大きな影響を与えたとされる。昭和20(1945)年3月23日、海上挺進第1戦隊の隊長として梅澤元少佐は、座間味島にいた。米軍上陸目前という緊迫感に包まれていたその夜、島の幹部が本部の壕をおとずれた。自決のための手りゅう弾や実弾をわけてほしいという。梅澤元少佐は、こう諭(さと)したという(『正論』参照)。
<決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。弾薬、爆薬は渡せない> 梅澤元少佐の証言には、村民と部隊との良好な関係が端的に表されている。大江氏の『沖縄ノート』には、故意かどうか知らないが、そういう雰囲気はない。いずれにしても、
徳永弁護士が述べたように、こんどは大江氏が発言する番である。
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裁判予定




7月27日(金) 大阪地裁 午前9時50分集合
   10:00−00:00 皆本義博氏 証人尋問
   13:30−16:30 知念朝睦氏 証人尋問、
           宮城晴美氏 証人尋問

9月10日(月)  那覇地裁 
   13:00−15:00 金城重明氏 証人尋問

11月9日(金) 大阪地裁 
        時間未定 梅沢裕氏 証人尋問
             赤松秀一氏 証人尋問
    (大江健三郎氏 証人尋問)


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 この訴訟は皆様の募金によってのみ活動が維持されます。
ここまでの裁判を支えてくださった皆様のご協力に深く感謝いたします。
本当に有難うございました。どうか裁判が続く限り、引き続き精神的にも、資金的にもご支援賜りますよう御願い申し上げます。

上記の通り、9月10日に那覇地裁へ出張尋問に行かねばならず、弁護団、及び事務局員の出張費に新たに相当の費用が必要です。
何卒、一人でも多くの方のご協力を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

郵便振替口座
 

00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)                    
代表    南木隆治
(みなきたかはる)
                      
会計責任者 吉田康彦
(よしだやすひこ)
2007年6月23日 10時12分 | 記事へ | トラックバック(2) |
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2007年05月27日(日)
沖縄集団自決冤罪訴訟第9回口頭弁論の報告
沖縄集団自決冤罪訴訟第9回口頭弁論の報告


 平成19年5月25日(金)の口頭弁論の報告をいたします。傍聴券獲得に並んでくださった皆様、まことにありがとうございます。またご支援をくださっている皆々様、本当にありがとうございます。いよいよ次回より証人尋問が始まり、裁判は最大の見せ場を迎えます。被告大江健三郎の尋問について実現可能性が非常に高まって参りました。 
 この日午後1時前、激しい雨の中、裁判所前には81席の傍聴券獲得のため、彼我あわせて120名程度の人々が集まりました。全員が傘を広げているため、多く見えますが、実際は前回より双方とも動員数は少なかったように思えます。これは激しい雨が原因であると思え、双方とも、傍聴券は得やすい状況でした。彼我の人数比は凡そ半々程度でした。
 傍聴席はぎっしりと詰まって空席はなく、被告側の追いつめられ、押し詰まった感情が湿気をさらに重く感じさせる気配を漂わせていました。裁判の途中で、被告側傍聴人より裁判長の説明の内容に関する不規則発言が出、裁判長より傍聴人は発言する権利はないと言う当然の注意と、次回は退廷もあり得るとの警告を受けました。
 まず被告側、秋山弁護士の準備書面朗読があり、次に我が方 岩原弁護士、中村弁護士の準備書面朗読がありました。
 秋山弁護士は「米軍の捕虜となることを禁じていた証拠がある」とか、「現に捕虜となったと言う理由で処刑された例がある」等々の本件と直接関係のない弁論を終始展開し、梅澤、赤松の両隊長が自決命令を出したかどうかと言う、この裁判の最大の争点について、結局何も新しい弁証を展開する事ができませんでした。どれほど探しても、両氏が自決命令を出した証拠はこれまで見つかっておらず、被告側代理人弁護士は既に追い込まれ、困り果てていることが今回も露呈しました。
 岩原弁護士と、中村弁護士は別紙、原告準備書面(8)の要旨を読み上げ、上記のような論点ぼかしばかりを被告側は試みているが、それは無意味である事、そして、むしろ瀕死の状態にある日本軍少尉が、島民保護のために非常に心配りをした新証拠が、逆に出てきている事等を述べました。
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/30/
(今回甲B59として提出した「潮だまりの魚たち」という座間味村の証言集)
 既に、皆様ご存じの様に、高等学校歴史教科書から、「軍による自決命令があった」と言う記述を削除するよう検定意見がついた事で、裁判は我が方が圧倒的有利に進んでいます。
 ただ、沖縄県では、今回の文部科学省の教科書検定を不服とする各種の抗議集会や、自治体での検定意見撤回要請の決議なども次々と進められているようです。沖縄を支配してきた左翼勢力にとっては、今回の教科書検定の結果は驚天動地の、足下が根こそぎ揺らぐ事件だったのです。我々がようやく司法の裁きによって手に入れつつある歴史の真実を、特定の政治力によってねじ曲げ、沖縄を本土から分離しようとする謀略がうごめいています。沖縄県を本土とを対立する政治状況に常に持ってゆきたいと願う政治勢力の跋扈を許さないため、沖縄県民を含むすべての日本人が、日本人としての誇りと、歴史の真実を直視し、先入観を持たない姿勢を尊重していただけるよう、私は祈りたいと思います。

 さて、ところで、当日の要旨朗読では、当方の制限時間を超えている事に被告側代理人 秋山弁護士より異議が出され、最後まで陳述する事ができませんでした。それは「被告大江健三郎に対する尋問の必要性について」の部分であり、実は最も重要な部分でしたので、別紙「原告準備書面(8)の要旨」を是非皆様に読んでいただきたいと思います。
 被告大江健三郎の証人尋問は、その必要性を、裁判官と双方の弁護士との進行協議において裁判長自身が認めておられ、裁判官によって必要との判断が下されています。
 そして、裁判所が、大江氏の尋問を必要だと考えていることが明らかである以上、大江氏がこれを拒み続ける場合は、拘引の可能性もあります。拘引されたくなければ別紙、朝日の読者に対して行った約束、
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/31/
を守って出廷するべきだと言わねばなりません。
 被告大江健三郎は、本件訴訟提起直後、朝日新聞のコラム「伝える言葉」にこう書きました。「求められれば、私自身、証言に立ちたいとも思います。その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもりです」と約束しています(甲B56として提出済み)。
 言葉に矛盾する行動は、その言葉を蔑ろにすることであり、なによりも言葉を発した者に対する信頼を失わせます。それが著名なノーベル文学賞受賞作家とあれば、およそ「言葉」に対する信頼は地に墜ち、出廷しないことで日本の恥を世界に晒し、ノーベル文学賞にも泥を塗る事になります。
 被告大江健三郎は、「伝える言葉」で述べた自らの言葉を裏切るべきではありません。

 以上の点について、今回「原告準備書面(8)」において以下のように詳しく言及しています。ここに再掲しておきます。
全文は
http://minaki1.seesaa.net/
にあります。
  第3 被告大江健三郎に対する尋問の必要性

 被告らは、被告大江健三郎に対する本人尋問を証拠申請せず、原告らによる申請につき、その必要性がないとしている。 

 しかし、これまで被告大江健三郎は、『沖縄ノート』に事実として記載した「日本人の軍隊の《部隊はこれから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」につき、その執筆の根拠を十分に主張・立証しているとはとてもいえないばかりか、当該記載をなんら訂正することなく、本件提訴後も50刷を新たに発行し、現在も販売し続けていることを正当化する理由については本件訴訟においては、ほとんど何も論じてこなかった。 

 そして平成19年4月17日の朝日新聞コラム「定義集」において、「私は1965年に初めて沖縄を訪れたのですが、ずっとお付き合いの続いた牧港篤三氏から、沖縄戦から五年かけての徹底的なインタビューについて聞きました。氏が執筆者のひとりである『鉄の暴風』を筆頭に、現地で手に入るすべての記録、歴史書、評論を読み、新川明氏ら、私と同世代の沖縄の知識人たちとの話し合いを重ねて、この本を書きました。」とはじめて『沖縄ノート』執筆の根拠資料等について明らかにした。   
    
 ところが、被告大江は、『沖縄ノート』の出版後に公表された曽野綾子著『ある神話の背景』が『鉄の暴風』における《隊長命令説》が当事者の取材を経ない伝聞に過ぎなかったことを暴露し、その信憑性を大きく揺るがした『ある神話の背景』には全く触れようとしない。『鉄の暴風』にも登場する安里喜順や知念朝睦といった直接の証人が、赤松隊長の命令を完全に否定していることについても沈黙し、その後出版された『沖縄県史第10巻』や家永三郎著『太平洋戦争』から《赤松命令説》の記述が削除されたことについても全く論及しない。ももちろんのことながら、沖縄人の立場から沖縄戦を告発してきた上原正稔が『沖縄戦ショーダウン』で赤松隊長の命令を虚偽だとしたことや、現在も旧日本軍を厳しく糾弾する大江志乃夫や林博史が、その著作のなかで、赤松隊長命令の存在に疑問を呈していることについても何ら触れるところがないのである(甲B36、37)。

 『沖縄ノート』における赤松隊長らに対する人格非難は、『ある神話の背景』の著者である曽野綾子をして「『罪の巨塊』などと神の視点に立って断罪したことは、人間の立場を越えたリンチである」(甲B3)と言わしめるほどの激烈なものである。被告らは、かかる激烈な人格非難を含む『沖縄ノート』を本件訴訟提起後も新たに50刷を発行し、全国の書店における販売を継続し、もって原告らの心情と名誉を激しく侵害し続けているのである。

 また、かつて被告大江は、柳美里の『石に泳ぐ魚』の名誉毀損性が問われた裁判に陳述書を提出し、その作品によって傷つき苦悩する人間が生じないよう配慮して何度でも書き直す必要を説き、「その発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまでも尊重されねばなりません」と述べている(甲B50)。

 かかる思想をもっているはずの被告大江が、「人間の立場を超えたリンチ」と評される表現を一切書き直さないまま、現在も販売し続けている理由について被告大江に直接問い、その倫理的根拠と矛盾の有無を明らかにする権利を原告らは有しているはずである。

 とりわけ被告らは、渡嘉敷島における赤松隊長の命令につき、当事者の赤松隊長が死去していること等をもって、原告側において単なる虚偽ではなく「全くの虚偽」であることを立証すべきだと主張しているのであるが、原告らは、その立証には、著者である被告大江に対する直接の尋問を行うことが不可欠であると考えている(単なる虚偽性であれば客観的資料に基づき決定しうるとしても、客観的な虚偽を超えて『全くの虚偽』というには、その主観性をも問題にすべき事柄である)。   

 またこのことに関して「定義集」には、現在被告大江が「軍が島民との接点で、二発あたえる手榴弾の一発で敵を殺し、もう一発で『自決』するよう命令したこと」を確信していることが述べられているが、『沖縄ノート』に記載されている《部隊はこれから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という軍命令ではなく、手榴弾の交付をもって「命令」と解釈することについての論拠と、それが「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」という『沖縄ノート』の主題とどう結びつくのか、また、その事実が「人間の立場を超えたリンチ」と評される『沖縄ノート』の本件各記述をどのように正当化するものであるかについて、著者の見解を直接確認する必要があるのである。

 被告大江は、本件訴訟提起直後、同じく朝日新聞のコラム「伝える言葉」において「求められれば、私自身、証言に立ちたいとも思います。その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもりです」と約束した(甲B56)。

 言葉に矛盾する行動は、その言葉を蔑ろにすることであり、なによりも言葉を発した者に対する信頼を失わせる。それが著名な作家とあれば、およそ「言葉」に対する信頼は地に墜ちる。

 被告大江は、「伝える言葉」で述べた自らの言葉を裏切るべきではない。

                                  以上
次回 第10回期日の予定
7月27日(金)証人尋問
傍聴券抽選は午前10時。午前9時50分集合
午前10:30−12:00  証人 皆本義博氏
午後1:30−4:30 証人 知念朝睦氏 宮城晴美氏

次々回 第11回 期日の予定
9月10日(月)証人尋問 沖縄に出張尋問の予定
午後1:00−3:00頃 証人 金城重明氏

第13回期日の予定
11月9日(金)証人尋問
午前10:00、または10:30−12:00 証人 梅澤裕氏 赤松秀一氏
証人 大江健三郎氏

尚、法廷で陳述してくれている当方弁護士全員の沖縄現地調査、及び個別の案件での数度の出張を事務局として実施いたしました。また9月の沖縄出張尋問には多数の弁護士、及び当方関係者の出張が必要であり、事務局として再度、本格的な募金の必要が発生しています。
 皆様、今後も何卒この裁判が圧勝のうちに終結できますよう、金銭面でのご支援もよろしくお願い申し上げます。            

平成19年5月27日
 沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会代表 南木隆治

ご支援金は以下までよろしくお願い申し上げます。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』郵便振替口座
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2007年5月27日 17時38分 | 記事へ | コメント(1) |
大江健三郎が出廷を宣言している新聞記事
大江健三郎が出廷を宣言している新聞記事

大江健三郎氏は平成17年8月16日(火)朝日新聞の「伝える言葉」という欄に当裁判への出廷の意志を明確に示し、「求められれば、私自身、証言に立ちたいと思います。その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもりです。」と宣言しています。

当方弁護団は大江健三郎氏の証人申請をしています。
大江氏はよもや逃げるようなことはせず、堂々と出廷して、何故、何を根拠にその著書『沖縄ノート』において現地調査も一切せず、あのような誹謗中傷を書き連ねる事ができたのか、明らかにしもらわねばなりません。
2007年5月27日 05時22分 | 記事へ | コメント(0) |
2007年05月25日(金)
原告準備書面(8)の要旨
原告準備書面(8)の要旨


『原告準備書面(8)』は南木の資料室南別館にあります。
どうぞご覧ください。
http://minaki1.seesaa.net/

原告準備書面(8)の要旨
平成19年5月25日  
  
弁護士 岩原義則 
弁護士 中村正彦  
弁護士 徳永信一

1 被告らの争点ぼかし、論点ずらしについて
 今回の準備書面の  頁以下では、今一度、対象となる「沖縄ノート」に記載された「命令」の中身について整理し、被告らの主張が如何に事実から目を背け、争点を混乱させる意図があるかについて、明らかにしました。
「沖縄ノート」において、被告大江健三郎は、「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動を妨げないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」という命令が、赤松大尉・原告梅澤少佐によってなされたと断定した上で、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」と評価評論し、更に、峻烈な人格非難をしています。重要なところですが、被告大江健三郎の評論の前提となった事実は、「沖縄の民衆の死を抵当」と対比される「本土の日本人の生」を示すことができる中身を持った「命令」であります。これを私たちは、《無慈悲直接隊長命令》と名付けました。これに外れる「命令」があったとして主張・立証したとしても、名誉毀損における事実の対象を主張・立証したことにはならないのです。
 被告らの論点ズラしの手法として大きく分けて3説があります。@「手榴弾を渡した」ことが命令とする「手榴弾(交付=)命令説」、A戦前の「共生共死」の思想等政治体制から「命令」があったと論じる「政治体制命令説」、B慶良間列島での「集団自決」が日本軍の指示、強制等によりなされたとして「命令」があったとする「広義の強制(広義の命令)説」です。これらは、いずれも、赤松大尉・原告梅澤少佐が《無慈悲直接隊長命令》を出したと断定できるものではありません。例えば、@は手榴弾を防衛隊等が交付したから「命令」があったと評価できるとするに過ぎないものですし、Bは主体を何ら特定されない「兵隊」としたり、住民らが受け取った言動を「命令があったに違いありません」等と評価を含むもので、その内容としても一定しないものなのです。
「沖縄ノート」は、「沖縄の住民の死」と、「本土の日本人の生」とを対比させることに主眼が置かれていることは間違いがありません。その例として、被告大江健三郎は、赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令説》を出しているのです。しかし、本件における赤松大尉率いる赤松隊、原告梅澤少佐率いる梅澤隊は、特攻隊の役目を背負い、自ら死ぬことが予定されていました。「生」を考えない若しくは予定しない特攻隊たる「本土の日本人」が、「万が一のために」、生き残っているはずの「沖縄の住民」に対し、手榴弾を交付することになれば、被告大江健三郎が予期し前提とした「沖縄の民衆の死を抵当に」「本土の日本人の生」と評価して論ずることはできません。ましてや、曽野綾子が「人間の立場を超えたリンチ」と評したほどの凄まじい人格非難の言葉(「罪の巨塊」「ペテン」「屠殺者」「戦争犯罪者」「アイヒマン」等)を連ねることを正当化できるものでもないのです。正に「沖縄ノート」は、赤松大尉・原告梅澤少佐が、《無慈悲直接隊長命令》を出した張本人であり、世紀の悪人であるとの誤った事実を断定していることで成り立ち得るのですが、被告らは、この《無慈悲直接隊長命令》を出した張本人であるとの立証には逃げてばかりいるのです。
このように《無慈悲直接隊長命令》を立証しえない事実を主張すること、これにより、争点を混乱させることは許されません。本件の争点は、あくまで名誉毀損対象文書に記載されている赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令》の事実の有無であり、それ以外のなにものでもないのです。
  
 被告大江健三郎は、本土の日本人と沖縄の民衆とを完全に分断させ、事実とは異なる赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令》を例に挙げて、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる」「本土の日本人の生」を論じました。しかし、反対にいわば「本土の日本人の死を抵当に」「沖縄の民衆の生」を、被告らの言葉を借りれば「命令」したという例として、今回甲B59として提出しました。「潮だまりの魚たち」という座間味村の証言集です。これには、《無慈悲直接隊長命令》とはされていません。それどころか、この167頁には、互いに知り合いでなく偶然に合流した致命傷を負い死に瀕した少尉と部下達、当時22歳の証言者宮里育江たちとのやり取りが記載されています。
致命傷を負った少尉は、死期を悟り、上等兵と伍長に言います。
「自分はもう駄目だから、この日本刀で刺し殺してくれ。それから、この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい。」
 少尉の傷の状況を知っている二人は承知しました。しかし、日本刀を使うことは残酷だと判断したのか、伍長の持っていた拳銃を使いました。
 一発で息の絶えた少尉の遺体は魂が故郷に帰れるようにと、本土の方へ頭を向けて横たえられました。育江たちは泣きながら土をかぶせました。しばらくすると、今までこんこんと水が湧き出ていた近くの小さな泉が少尉の死と共にかれてしまいました。「どうしたのだろう」と不思議に思いました。水を無くしては生き延びられないと、育江たちは移動することにしました。
 その後、少尉を埋めた一帯は日米両軍の最後の激戦地となり、たくさんの日本兵の墓地となりました。「泉の水が消えたのは、少尉の魂が水を吸い取って、その場所の危険を育江たちに告げたのではなかろうか」と後日、彼女たちは語りあって冥福を祈ったといいます。
  
 この場面は、証言者宮里育江たちが自決に失敗した後のものですが、自決命令とは相容れないことを少尉は部下に言っています。死に瀕した少尉は「娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい」と部下に言っています、被告らの言葉を借りれば「命令」しているのです。
 なお、被告らは、これとほぼ同じ内容の宮里育江の証言が収録された「座間味村史 下巻」を乙50として「自決命令」があった証拠として提出しています。被告らの主張が如何に根拠のないことが分かるというものです。
やはり、赤松大尉・原告梅澤少佐による《無慈悲直接隊長命令》はなかったのです。

2 『秘録沖縄戦記』復刻版における《梅澤命令説》《赤松命令説》の削除
 本日提出しました原告準備書面(8)においては、集団自決に関する重要な文献である、『秘録沖縄戦記』の復刻版(甲B53)の記述についても大きく取り上げております。
 すなわち、被告らは、座間味島での集団自決に関する《梅澤命令説》、渡嘉敷島での集団自決に関する《赤松命令説》の真実性を示す有力資料として、昭和33年発行の『秘録沖縄戦史』(乙4)、さらにはそれを著者山川泰邦が全面改訂してタイトルを改めた昭和44年発行の『秘録沖縄戦記』(乙7)を挙げています。確かにそれらには具体的に原告梅澤及び赤松大尉による自決命令が記されていました。
この『秘録沖縄戦記』は長く絶版になっていましたが、昨年10月に、著者山川泰邦の長男であり那覇市役所助役職にあった山川一郎が発行者となり復刻されました。
 注目すべきなのは、この復刻版においては、元版に記載されていた原告梅澤及び赤松大尉による自決命令の記述が、完全に削除されていることであります。
具体的に述べますと、座間味島の集団自決については、次の記述が削除されました。
(島への艦砲射撃が始まった日の部分ですが)「村民に対し梅沢少佐からきびしい命令が伝えられた。それは、『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。」
   これが復刻版では、原告梅澤による自決命令はおろか、軍の関与を示す叙述も全くなくなっているのです。
 渡嘉敷島についても同様です。元版にありました「赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった」との記載が復刻版では完全に削除されたのです。
 この重大な改訂の説明として、復刻版においては、「本復刻版では『沖縄県史第10巻』(1974年)並びに『沖縄資料編集所紀要』(1986年)を参考に、慶良間諸島における集団自決等に関して、本書元版の記述を一部削除した。」と断り書があります。これらの資料の著名性や重要性は、原告側がこれまで指摘してきたところです。

3 史実の検証に耐えられなくなっている《梅澤命令説》《赤松命令説》
さて、この『秘録沖縄戦記』の内容改訂が示すことは、《梅澤命令説》《赤松命令説》が史実の検証に耐えられず、むしろ、真実でないことが今や完全に明らかになっているということであります。
 そして、通常の人権感覚や良識を有する発行者や出版社は、誤った記載のあることが明らかになった過去の出版物は、絶版にしたり、復刻をする際には誤りを修正するということを当然になすものなのです。
 この裁判でも問題とされている「真実に反する記載」は、些細な事実の誤認ではありません。戦中戦後を誠実に生きた2人の平凡な市民を、集団自決の命令者すなわち「住民大量虐殺の責任者」と断罪糾弾する極めて重大な内容を有する誤りです。そのことからすれば、書籍の復刻にあたりこのような全面削除がなされるのは、極めて当然のことであります。
これに引き比べますと、被告らの姿勢は全く対照的です。
 どれだけ史実の検証が進み、真実が厳然と明らかになった現在も、被告らは決してそれを受け入れようとしません。被告らは、『沖縄ノート』についても『太平洋戦争』についても、「梅澤命令、赤松命令はあったのだ。間違いとは認めない。謝罪も、訂正もしない。これからもこの内容のまま売り続けるのだ」、この裁判でそう言っています。それが正義に叶う、との信念かもしれません。
 しかし、もし、「真実」よりも「図式」が大事になってしまったら、たちまちそこにあるはずの正義は失われてしまうのではないでしょうか。

ノーベル賞受賞の栄誉を誇る大作家である大江健三郎氏、そして日本の良心を体現するともいわれる有名出版社岩波書店が有する「ペンの力」は、言うまでもなく強大なものです。それゆえにいっそう、彼ら被告らの言説は、平凡な市民であり戦後大変弱い立場に追い込まれた原告梅澤さん、故赤松大尉、そして2人の近親者らの名誉や感情を、激しく傷つけているのです。
 今は亡き赤松大尉の「私は自決を命令していない」というタイトルの手記(甲B2)に遺された言葉は痛切です。
「私には大学に行っている娘がある。この娘が事件を知って『お父ちゃんは軍人やった。軍人なら住民を守るのが義務じゃないか』と質問したことがある。そのとおりなのだ。いかににして島を死守し、最後の一兵まで戦うかに夢中だった状態の中でも、われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた。/いまさら、弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で“殺人鬼”なみに悪しざまに面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるの何としてもつらい。」
(さらに、《赤松命令説》を述べる多くの書物に対して述べている部分ですが)
「村の戦記の記述を一から十までウのみにし、さらに尾ヒレ手ビレをつけて、さも現場にいて、すべてを見知っていたかのように描写する魂胆に憤激をおぼえる。/兵士の銃を評論家のペンにたとえれば、事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最低限の良心ではないか。」
(そして手記の最後ですが)
「どうか私のいうことも信じてほしい。私も戦争中から戦後の今日にいたるまで、戦争という巨大な“罪過”のただなかで苦しめられ、痛めつけられてきた人間なのである。ここに述べるのは、私の血の叫びであるといえば、読者諸兄はやはり眉をひそめられるであろうか。」 

 赤松大尉がこのような「血の叫び」をもって訴えた「ペンの暴力」を、被告らは今もおさめようとしていません。この裁判でこの被害からの救済の道が原告らに拓かれなければ、もう二度と、原告梅澤さんの名誉回復や、原告赤松秀一さんら故赤松大尉の近親者の敬愛追慕の情の保護の機会は、巡ってこないでしょう。     以 上
2007年5月25日 21時50分 | 記事へ |
2007年04月01日(日)
原告準備書面(7)は南木の資料室南別館にあります。
2007年03月30日
沖縄集団自決冤罪訴訟原告準備書面(7)
南木の資料室南別館

http://minaki1.seesaa.net/


南木の資料室南別館を準備しました。

原告準備書面(7)は南木の資料室南別館にあります。
どうぞご覧ください。
平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件   
原  告  梅澤  裕 外1名
被  告  大江健三郎 外1名 

原告準備書面(7)
平成19年3月30日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中
           
  
             
2007年4月1日 08時52分 | 記事へ | コメント(1) |
2007年03月30日(金)
教科書検定 集団自決に軍関与を削除 
平成19年3月30日は第8回口頭弁論でしたが、
ちょうどこの日、教科書検定により、沖縄戦での集団自決が軍の命令によって、あるいは軍の関与によって起こったという記述が教科書から削除される事が分かりました。
大変よきことであると思います。
すばらしいことで、これでこの裁判を起こした目的の半分は達成されました。

明日31日朝刊に全紙報道される予定ですが、これまですでに為された報道を以下にアップしました。
また、原告の梅澤さんは裁判所で以下のように記者会見しました。

http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page026.html
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page027.html


この日の裁判の詳しい経過報告は追ってアップします。
傍聴に並んだ総数は150名以上、当方は傍聴券を入手するために並んでくださった皆様のご協力で、全員が傍聴できました。当方と、被告側の人数比は恐らく6対4程度で、法廷での被告側弁護士の気の毒なほどボロボロの状態と反比例して、被告側の動員は回を重ねる毎に力が入っており、注意が必要です。また、当方がお顔を知らないだけで、純粋にこの裁判に関心を持って傍聴に来ておられる方々も回を重ねる毎に増えてきている印象を持ちました。

柳原事務局次長のからの速報を以下に掲載します。

 先ほど「沖縄集団自決冤罪訴訟」裁判とその後の記者会見、報告集会がおわりました。
傍聴に参加下さった方々ありがとうございました。
裁判は7月に愈々証人尋問が行われます。
被告側は大江をよばないようですので、原告側から要望する予定です。
本日は2時半から記者会見をさせていただきました。
徳永弁護士から今までの裁判の流れと今後の報告があり、
その後記者の方から「教科書から軍の命令の記述が削除されますがどのようにもおもわれますか」
と質問があり、梅澤さんは「とてもうれしいよ、こんなうれしいことはありません」と話されました。
私はその場で涙がながれてきました。梅澤さんは60年間どのような気持ちですごかされたか、素直な気持ちで話されて記者の皆も真剣に聞いていました。赤松さん(弟)も喜びの感想を述べれていましたが、それを聞いて梅澤さんは「赤松は死んでしまった、奥さんもしんでしまったどんなに無念だったろうか」と赤松大尉の気持ちを代弁され「私の冤罪を晴らす事もたいせつですが、子供達の教科書からこの記載が消えることが子供達にとってもよかったと」言われていました。
その報告集会ではその話を聞いてる記者の顔が皆いい顔をしていたと話されました。
取り急ぎご報告まで!

柳原
2007年3月30日 23時30分 | 記事へ | コメント(0) |
2007年01月19日(金)
沖縄集団自決冤罪訴訟第7回口頭弁論の報告
沖縄集団自決冤罪訴訟第7回口頭弁論の報告
                          南木隆治
 1月19日(金)午後1時30分より大阪地裁大法廷で 沖縄集団自決冤罪訴訟第7回口頭弁論がありました。我が弁護団は前回に引き続き、今回も50枚に及ぶ準備書面を用意して、圧倒的な力量の差を見せつけて裁判に臨みました。前回、被告岩波書店、大江健三郎の代理人弁護士が準備した書面はわずか3枚で、あまりにお粗末な状態でしたが、今回は、その内容の空疎な事は別として、なんとか20枚を超える書面を準備し、また裁判後の正式の報告集会も被告側としては初めて会場を準備して開いていました。
 裁判所前には傍聴席獲得の抽選が始まる午後1時前には、これまでで最多の200名近くの人々が集まりました。当方100名、被告側80名程度で、当方は半数近い方が傍聴券獲得のために並んでくださっているので、最終的に法廷には、傍聴したい我が方の同志は全員入れたと思います。被告側がこれほどの動員を見せたのはこれが初めてであり、相手あっての裁判ですので、こうして盛り上がってきている事を、とてもうれしく思います。
 盛り上がれば盛り上がるほど、結論が出たときの影響は大きいからです。
 被告側代理人弁護士が今回主張した内容は、法廷の傍聴人の前で何とか体裁を取り繕うために出しているような、証拠にも何もならないものばかりでした。
例えば「米公文書館で見つかった当時の米軍の作戦報告書」は既に当方弁護士によって分析済みですが、何ら梅澤、赤松両部隊長が自決命令を出したかどうかと関係のない資料であり、また軍の命令があったと言う事を証明する資料ですらありません。
 また、「座間味や渡嘉敷の『集団自決』は当初から援護法の対象だった。」等と、彼らが言っているのは、あきれたことに最初の決定に至るいきさつについては知らないと言うことで、当初というのは2回目からの事らしく、そのような取り上げるにも当たらないへりくつでは、とうてい日本の法廷で通用するはずもありません。我々は最初のいきさつについて述べているのです。
 また、赤松隊長がスパイ容疑の人間を処刑したことをもって、赤松隊長を残虐な人間と決めつけ、沖縄の作家 上原正稔(まさとし)氏の新聞連載『沖縄戦ショーダウン』について、そこで赤松隊長を人格者として描いていることはそう言うわけで信憑性がないなどと、良く言えるものだとあきれます。いったい少しでも戦場という極限の環境について考えたものであれば、恐らく小学生でも、スパイ容疑者を処刑する苛烈さと、人格者と呼ばれることは十分両立することが分かるであろうに、恥ずかしくないのかと同情してしまうほどです。
 実際裁判長の表情にもそのことは既にはっきりと現れていると私は思いました。
 徳永弁護士が徹夜で纏めた当方の準備書面要旨を同時にアップしますが、渡嘉敷村の依頼を受けて曾野綾子氏が書いた碑文が渡嘉敷島の自決場にあり、さらにそれを補強する形で、この上原氏の文章を掲載したプレートが設置されている事が述べられています。
 曾野氏、上原氏の見解は渡嘉敷島公認の見解なのです。
 被告たちは本当の島の声を封印し、嘘の沖縄を、沖縄の心などと言って触れ回り、沖縄県民を日本国民から切り離そうとする策謀の中で動いているものたちだと言うことが見えてきます。
 
 それにしても、被告代理人弁護士は声も小さく、本当は自信がないことがありありとその態度に表れており、この裁判を担当したことを悔やんでいないはずがないと私は思います。我が方は36名の弁護士に参加していただき、この日も法廷に5名が出て、その全員が直前まで、寝食を忘れて、使命感からこの裁判に臨んでいる弁護士ばかりです。それに対し、被告側は3名しか弁護士はおりません。
 再度、この日裁判に参加した弁護士5名を紹介します。
松本藤一、・永信一、大村昌史、岩原義則、中村正彦、の5名です。各弁護士は毎回、被告側が考え出す可能性のある、あらゆる立論を想定してあらかじめ論破し、さらにそのお互いの論を徹底してつぶし合って、いかなる論によってもつぶすことのできないものだけを書面で提出するという方針をとっています。
 この日、裁判終了後、梅澤さんご夫妻、赤松さん(隊長の弟さん)と、姪御さん、弁護士5名全員を含め約40名が、新しく建てられた弁護士会館に集まって、報告集会を開きました。 弁護士全員が自身の思いを熱心に語り、原告の梅澤さん、、赤松さん、そして多くの方々の質疑応答、意見表明がありました。支援者あっての裁判だと言うことをどの弁護士も語りました。
 この裁判は、他の裁判に比較して、調査、研究が格段に重要であり、本気で取り組む弁護士がどれだけいるかが決定的です。どれほど優れた弁護士でも、一人ではできない膨大な調査、研究を実施するチームワークが必要です。それにしても利害損得を超えて、我が国の名誉を守ろうとする弁護士がこれほどおられ、しかも松本弁護団長以外は皆私より若いという事は本当にすばらしいことです。
 この若い弁護士たちは必ず日本の将来の重要なリーダーになると私は確信しています。
 我々を支えてくださる広範な人々のネットワークは日々大きくなって行くばかりです。 皆様、どうか今後ともご支援を何卒よろしくお願い申し上げます。

尚、次回第8回口頭弁論は 3月30日(金)
    第9回口頭弁論は 5月25日(金)


共に傍聴券抽選は午後1時より。よって午後1時の5分前には裁判所前に集合してください。改訂は午後1時30分です。
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page019.html
 この訴訟は皆様の募金によってのみ活動が維持されます。何卒、一人でも多くの方のご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

郵便振替口座
      00900−6−316826
(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)

 
2007年1月19日 23時04分 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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原告準備書面(6)の要旨(1月19日第7回沖縄集団自決冤罪訴訟口頭弁論)
原告準備書面(6)の要旨(1月19日第7回沖縄集団自決冤罪訴訟口頭弁論)

 〜 沖縄の声を騙る被告らの自滅 〜       
そこにあるのは愛であった。」(渡嘉敷戦跡碑文より)
          弁護士 徳永信一       

1  赤松命令説を全面削除した家永三郎著「太平洋戦争」

本日提出した原告準備書面(6)は、まず本件訴訟の対象としている「太平洋戦争」を取り上げています。これまでも指摘してきたように「太平洋戦争」は、昭和61年発行の第2版から、それまであった渡嘉敷島における集団自決が赤松隊長の命令によるものであるとした赤松命令説を完全に削除しています。その当時、家永三郎が、原告となった第3次家永教科書裁判が係属中でした。それは、沖縄の集団自決の真相が争点の一つとなった訴訟であり、その係属中に、家永三郎自身が、その著書である「太平洋戦争」から赤松命令説を全面削除した事実は、曽野綾子氏の「ある神話の背景」が出版されたことによって、日本軍の沖縄戦を厳しく批判する家永三郎氏でさえ、それが考証に耐え得ない虚偽であることを認めたものに他ならないのです。

2  渡嘉敷戦跡碑文「そこにあったのは愛であった」 
 
今回新たに提出した渡嘉敷村の郷土資料「わたしたちの渡嘉敷」は、渡嘉敷村の小学校6年生に郷土史を教える教材として渡嘉敷村教育委員会が編纂したものです。そこには、昭和54年に集団自決の現場に立てられた戦跡碑の碑文が掲載されています。碑文は曽野綾子氏が村の依頼を受けて書いたものでした。それは集団自決の現場を訪れたものにその真相をこう教えています。「… 豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数カ所に集結したが、翌27日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。…」 集団自決という渡嘉敷村の凄惨な歴史は、命令によって強制されたものではなく、愛によって選択されたものだったのです。また、その傍らには上原正稔氏の文章を掲載したプレートが設置されています。上原正稔氏は、自らの取材の過程において、集団自決の真相が、軍隊からの自決命令ではないことを知り、根拠のない風説をもって赤松・梅澤両隊長を非難してきた沖縄のマスコミに対し、真実に謙虚となることを主張し、その過程を琉球新報に連載した「沖縄ショーダウン」に綴った沖縄のジャーナリストでした。被告らは、「赤松さんは人間の鏡だ」という村民の声を拾い上げた上原正稔氏を、日本軍側の取材だけで事実を歪めたかのような的外れな批判を行い、今なお真実を訴えるその声に耳を貸そうとしません。そして勝手に「沖縄の声」を騙り、真実を封印しようと躍起なのです。真実の「沖縄の声」がそして「渡嘉敷の声」がどこにあるかを知りたければ、渡嘉敷島に集団自決の現場を訪ねるがよい。そして、そこに立つ戦跡碑の前にたたずみ、沖縄の潮騒に耳を澄ませば聞こえてくるはずです。           

3 「太平洋戦争」に残された梅澤命令説  

「太平洋戦争」は、しかし、第2版以降も、座間味島での集団自決が梅澤隊長の命令によるものだとした記述を変えませんでした。宮城初枝氏の告白、即ち、座間味島の集団自決を命じたのは梅澤隊長ではない、梅澤隊長は、玉砕命令を求めて会いに行った村の幹部に対し、これを断って帰したのでした。忠魂碑前での玉砕は、帰村途上、宮里盛秀助役ら村の幹部から発せられ農協職員であった宮平恵達氏に伝令を指示したものでした。その真相の告白は、梅澤命令説の虚構性を一点の曇りもなく証明することになりましたが、その告白の全貌が公表されたのは、宮城初枝氏がその戦争体験を綴った手記「とっておきの体験記」を託された娘の宮城晴美氏の著作「母が遺したもの」を待たねばなりませんでした。平成12年のことでした。「太平洋戦争」第2版が昭和61年に発行されたものであることからすれば、そこに梅澤命令説の記述が残されたこともやむをえないとする余地が全くないわけではありません。しかし、家永三郎氏の死後、宮城初枝氏の告白が公表され、事件の真相が明らかになった以上、「太平洋戦争」の誤った記述を改めないままその販売を続け、梅澤氏を苦しめ続ける岩波書店の行為が許されないものであることは明らかです。被告らが、いまもなお、忠魂碑前集合玉砕命令の存在をもって梅澤命令説を押し通そうとする不実な姿勢は率直に言ってわたしたちの理解を超えるものです。これまで裁判所に提出された証拠は、宮里盛秀から玉砕命令あることを聞いたとする宮里盛永の「自叙伝」をはじめ、宮村幸延の「証言」と神戸新聞のコメント、本田靖春氏の「第1戦隊長の証言」、そして本日提出した「沖縄の証言(上)」に掲載された宮里恵美子氏の証言(それは、宮城初枝氏の告白のとおり、宮平恵達が忠魂日前の集合と玉砕を伝えて回ったというものです。)も含め、すべて宮城初枝氏の告白と符号するものであり、その真実性はますます強固なものとなっています。他方、被告らは、この宮城初枝氏の告白を覆すにたる何らの証拠も提示しえていないことを、今ここで確認しておきたいと思います。

3 「沖縄ノート」の過剰な人格非難   

原告準備書面(6)は、続いて被告である大江健三郎氏の「沖縄ノート」の記述が、赤松隊長と梅澤隊長に対する過剰かつ執拗な人格非難を浴びせる究極の人身攻撃であることを論証しています。「沖縄ノート」は、渡嘉敷島、座間味島にあった軍隊の責任者である赤松・梅澤隊長が《部隊は、これから米軍を迎えうち、長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動を妨げないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という誠に無慈悲な命令を下しながら、自らは生き延びて、一般市民に埋没して生活し、いまだ沖縄に向けたなんらのあがないもしていないとの非難を浴びせています。続いて、曽野綾子氏をして「神の視点にたって人の罪を裁く人間の立場を超えたリンチ」であるとの痛切な批判をいわしめた「あまりに巨きい罪の巨塊」という表現、そして赤松隊長を「屠殺者」に譬え、ホロコーストの責任者として絞首刑になった「アイヒマンと同じく沖縄法廷で裁かれるべきだったであろう」という究極の人格非難を、後にノーベル賞まで受賞するその文章力を駆使して執拗に繰り返しているのです。被告らは、これらの記述を「日本人全体のあり方を論評した」ものであり、「集団自決の責任者個人を非難しているものではない」と言い訳しているのですが、呆れた詭弁とはこのようなものをいうのでしょう。

4 柳美里著「石に泳ぐ魚」事件に提出された大江意見書の忠告 

大江健三郎氏は、柳美里氏の小説「石に泳ぐ魚」による名誉棄損ないしプライバシー侵害が争われた別事件で裁判所に意見書を提出しています。そこには、作品を公表することによってモデルとなった人に苦痛を与える行為が、「人間の尊厳」に基づく憲法の精神に反するものであり、言論の力を貶めることになることが書かれています。そして自分自身がしてきたように(?)「なんどでも書きなおし、その代わり文学的幸福を味わう」ことを諭していました。大江健三郎氏は、その意見書で柳氏に忠告したように、直ちに、そして何度でも自らの作品を「書きなおし」虚偽の誹謗によって傷つく人をつくってはならないことを、行為をもって示すべきなのです。そして、これまで放置してきた自らの不実な言葉の責任をとって、この法廷で真実を認め、自らの文章に誤りがあり、それを放置してきたことの理由を釈明したうえ、これまで人格攻撃してきた梅澤氏や赤松隊長の遺族に謝罪し、さらには、大江氏の言葉を信じてきた多くの読者を裏切ってきたことを真摯に詫びるべきなのです。       

5 被告らの主張の破綻と玉砕   

本日、被告らが提出した証拠、例えばアメリカの公文書、援護法の認定をめぐる記事は、なんら赤松及び梅澤両隊長命令説とは関係ありません。宮村幸延氏或いは大城将保氏の陳述は、それまでの自らの言説にほうかむりする恥ずべき虚偽でした。 次回の弁論で逐一徹底的な批判を加える準備はすでに整っています。しかしながら共に提出された梅澤氏と沖縄タイムス社とのやりとりの録音に至っては、なぜこれを被告らが提出してきたのか、その分析に頭を抱えています。そこには、梅澤氏が虚偽の書き換えを最後まで要求しながらも、沖縄タイムス社が座間味村の公式見解なるものを盾にして虚偽を押し通す不実な姿勢を見せたことから、もはや新聞社としての良心に訴えても叶わぬことを悟り、 「座間味村の人たちの援護金を無くそうとは思わない。もうこれで最後にする。2度と訂正は要求しない」と述べたことが表れていました。上原正稔氏の「トップシークレット」には、米国軍人の手記に、阿嘉島の野田隊長に戦後の日本の復興のために投降を勧告した梅澤隊長の“武士道精神”を称賛する下りが紹介されていますが、録音のやりとりは、玉砕命令を拒絶した場面と同じく、その武士道精神が如何なく発揮された場面であったといえましょう。 被告らは、証拠のないまま、梅澤氏と真実を述べた勇気ある証言者たちの人格非難ばかりを繰り返しています。録音テープの提出は、その手詰まりと混乱の末に、あえて自暴自棄の玉砕を慣行したものと評するほかはありません。 
           以上
                  
2007年1月19日 22時30分 | 記事へ |
2006年11月11日(土)
原告準備書面(5)の要旨 第6回口頭弁論H18.11.10(金) 
沖縄集団自決冤罪訴訟
第6回口頭弁論H18.11.10
原告準備書面(5)の要旨


弁護士 松本藤一 弁護士 中村正彦 弁護士 徳永信一

1 本日、原告から提出しました準備書面(5)の前半では、座間味島での集団自決に関する《梅澤命令説》という虚構を、この期に及んでもまだ押し通そうとする被告らの弁解や原告主張への反論に対する再反論を、徹底的に行っています。提出書面は50頁を超えるものですが、時間の関係上、そこから重要な部分を2点ご紹介します。

 ひとつは、「《集団自決隊長命令神話》が通説になったのは援護法適用のための方便だいうが、それでは、昭和27年施行の援護法施行以前の、昭和25年に初版が発行された『鉄の暴風』に、その神話が述べられている理由が説明つかないではないか」という、被告らの反論への再反論です。
 
 座間味島では、確かに援護法以前から、《隊長命令神話》が風説としてありました。それはなぜでしょうか。
 
 住民の手記や宮村盛永氏の『自叙伝』などの資料をみますと、多くが「忠魂碑前での玉砕」に向けた集合命令を受けたことを証言しています。しかし、そこには命令の主体が書かれていません。ただ、多くの村民は、「忠魂碑前に集合し玉砕する」という命令を、軍命令と受け取り、それが後に風説のもととなったと考えられるのです。宮城晴美さんは『母の遺したもの』においてこう解説します。

「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令と思った。というのも、これまで軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからある。」
宮城初枝さんが「真実の歴史を残す為には此れから私のやるべきことが残っております。」として原告梅澤さんに宛てた手紙の中で、「忠魂碑前の集合は、住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。」と述べ、住民の誤解と村の方針のために虚偽に加担したことを梅澤さんに謝罪し、こう結びます。「お許し下さいませ。すべてが戦争のでき事ですもの」と。
 真実、玉砕命令を下したのは梅澤部隊長でも軍でもありませんでした。
 それを明らかにしたのが、まさに宮城初枝さんの勇気ある証言でした。その証言をもとにして娘の晴美さんが書いた『母の遺したもの』には、自決のための弾薬をもらいに行ったところ梅澤部隊長に「お帰り下さい」とはっきりと断られた助役の宮里盛秀氏らが、次にどういう決断をしたかが、こう語られています。
「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。
 盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」
 
 宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです。

この点とも深く関連するのですが、2つ目の重要な原告からの再反論は、宮里盛秀助役の父親であった宮村盛永氏の『自叙伝』についての評価です。
被告らは、この『自叙伝』には、梅澤部隊長による自決命令があったことを示す記述があると主張します。
 しかし、きちんと読みさえすれば誰にでもわかるように、この『自叙伝』には、梅澤部隊長による自決命令はどこにも書かれていません。

 逆に、宮村盛永(当時の姓は宮里)が、一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程が、次のとおりなまなましく記載されているのです。

「明くれば二四日午前九時からグラマン機は益々猛威を振い日中は外に出る事は不可能であった。敵の上陸寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅するのも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春子らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談したら皆賛成であった。」
「丁度午後九時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。」
 この文章から明らかなように、まず一族で「玉砕」するのがましではないかと言い出したのは盛永氏であり、相談した家族は皆賛成し、玉砕の覚悟を固めて部落へと急いだのでした。「玉砕」が、軍の命令によるものではなく、むしろ住民の自然な発意がもととなっていたことがはっきり表れています。
 
 さきほど述べました宮里盛秀氏らが発した《忠魂碑前集合玉砕命令》は、激しい戦闘のなかで追い込まれ、死を覚悟した住民の自然な発意や感情を背景にしてなされたものだったのです。

2 準備書面(5)の後半部分は、渡嘉敷島での集団自決に関する《赤松命令説》の神話をいまだに主張する被告らに対する反論です。

(1)まず、はじめに。
前回の法廷で紹介した照屋昇雄さんの《人間の良心》に基づく勇気ある証言によって渡嘉敷島の神話もまた、援護法適用のための方便として村の公式見解になっていったことが明らかになりました。赤松隊長が自決命令を出したという《赤松命令説》は、すでに曽野綾子氏の『ある神話の背景』によって根拠のない神話であったことが明らかになっていますが、最後に、なぜかかる神話が、援護法適用以前に『鉄の暴風』に記述されたのかという疑問が残ります。
 渡嘉敷島では、敵に包囲されて逃げ場を失い、渡嘉敷村の幹部が協議するうちに自然と玉砕するしかないという話となり、古波藏村長が音頭をとって、防衛隊が配った手榴弾などによる集団自決がなされました。そのことは『鉄の暴風』以外の多数の資料によっても確認されています。 
ところが、集団自決で死なずに生き残った者もいました。生き残った者は集団自決さえしなければと死者への哀惜の念が一挙に吹き出したのです。
曽野綾子氏が『ある神話の背景』で語るところでありますが、「本当の渡嘉敷の悲劇は、戦争が終って、出征していた兵士や島を出ていた人たちが帰って来た時に始まった。」「生存者の中には、その立場上、事件について説明責任を免れぬ人たちもある。」典型的な人物は古波蔵元村長でした。集団自決の音頭をとっていながら生き残った村長として、これらの責めを受けたことは当然予想されます。古波藏村長はその責め苦を少しでも軽くするために、存在しない隊長命令を主張せざるをえなかったことが推測されるのです。
 琉球政府で援護業務を担当して渡嘉敷島の村民の聴き取り調査をした照屋昇雄氏は、「古波藏村長は、住民を集めて全部死ねと言って演説もしているが」、自己の責任を否定し、軍に責任をかぶせることに奔走した結果、村民から信用がなくなった事情を明らかにしています。
さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。

(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありま
すが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。

(3)さらに、『鉄の暴風』の著者太田良博氏による『ある神話の背景』批判に対する反批判を行いました。
太田氏は、著書『戦争への反省』に収録した沖縄タイムス上での論戦において『ある神話の背景』に対して縷々反論を試みています。例えば、新聞社が直接体験者でない者の伝聞証拠を採用するはずがないという建前論を述べています。しかし、これに対し、曽野氏は「新聞社の集める『直接体験者の証言』なるものの中には、どれほど不正確なものがあるか分からないとし、例えば「直接体験者の売り込みだという触れ込みの中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真として朝日新聞が掲載した、直ちに間違いを認め撤回した例を指摘し、太田氏を「新聞は間違えないものだ、と素人のたわごとのようなことをいうべきではない。」と批判しています。太田氏は「自決命令の真相を知っている思われる2 人の人物、知念少尉と安里喜順がいるが、真相を語っているとは思われない。」としていますが、『鉄の暴風』では「地下壕内の将校会議で非戦闘員を自決させ、軍人は食糧を確保して、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』という赤松隊長の発言に副官知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と記載しています。知念氏が真相を語るはずがない、だから取材していないとしながら、知念氏の内面の葛藤まで踏み込んだ描写を知念氏自身から確認しないまま記載したことこそ、『鉄の暴風』の赤松命令説が捏造によるものであることを如実に物語っているといえます。太田氏の強弁と詭弁を交えた弁解が、自己撞着で捻転した挙げ句に破綻を来していることは明らかです。

(4)太田氏は沖縄タイムス上での論戦において、「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦シ
ョウダウン』の著者でした。
上原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白しているのです。 さらに、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」と結論しています。
『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。 
 いま、上原氏の「沖縄の人々の責任は限りなく重い」という言葉に込められた沖縄の良心の叫びを、噛みしめる時が来ているのです。
以上 
2006年11月11日 09時04分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2006年09月02日(土)
第5回口頭弁論原告準備書面の要旨(H18年9月1日)
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田村圭司氏(ジャーナリスト)
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BUTTERFLY BALL
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第6回口頭弁論 11月10日(金)
第7回口頭弁論 平成19年1月19日(金)
共に12時55分集合。13時傍聴券抽選 13時30分開廷。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
郵便振替口座
00900−6−316826
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9月1日第5回口頭弁論
原告準備書面(4)の要旨
    弁護士 大村昌史   弁護士 ・永信一

1 今回の書面の主たる内容は、被告の主張に対して反論を加えるものですが、そのなかで、この度、新たに勇気をもって「軍命令は自分たちが創作したもの」との決定的な真実を産経新聞に語った照屋さん、梅澤さんに真実を告白した宮城初枝さんと宮村幸延さん、そして赤松さんに真実を告げた伊礼蓉子さんの4人が示した沖縄の良心を顕彰するものです。
                 
2 被告らは、原告の梅澤さんが述べている事実関係に対して様々な反論を試みています。
 例えば、宮村幸延氏が「隊長命令説は遺族等援護法の適用を受けるためにやむを得ず作り出されたもの」と書き綴った『証言』と題する書面は、幸延氏が作成したものではないとか、原告梅澤が同行した2人の男に幸延氏が泡盛を飲まされ、泥酔状態で書かされた可能性があるなどと主張しています。
しかしながら、本日提出した補充陳述書の中で梅澤さんが述べている通り、梅澤さんが幸延氏と会った時、幸延氏は泥酔していたどころか、梅澤さんに謝罪した上で、それまでの胸のつかえを一気に取り去るように、援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を切々と語りました。そして、今日の座間味島の繁栄が梅澤さんの犠牲の上に成り立っていることを述べ、真摯な謝罪を繰り返したのです。
    『証言』と題する書面は、その際、幸延氏自身が、一言々々慎重に言葉を選びながら作成したものです。決して被告がいうようなものではありません。
そのことを裏付ける証拠が書面自体の中にもあります。書面の末尾には「梅澤裕殿」との宛名があり、そのうち「裕」の字が明らかに誤っています。梅澤さんが自らの字を誤って書く筈などありません。また、書面の筆跡は極めてしっかりとしています。幸延氏が泥酔状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じる筈です。これらの点を、被告らはどのように考えているのでしょうか。
 そればかりではありません。幸延氏は、その後、神戸新聞社の取材に対しても、同様に、隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ず、『歴史を拡大解釈』してつくったものだと答えています。ところが、被告は、なんと神戸新聞の記事は、幸延氏に対する取材のないまま造られた捏造記事だと主張しています。これに対しては、この記事を書いた神戸新聞の中井元記者から、数回にわたり取材を行ったことを証明する陳述書が提出されました。最早、その証言の信用性を疑う余地は全くありません。
    被告らは、幸延氏の証言がその後になって変わったと主張していますが、神戸新聞の記事がでたあと、幸延氏に直接会って事情を聞いた本田靖春氏の『第1戦隊長の証言』には、神戸新聞の記事によって幸延氏が、村当局から強い圧力をかけられて苦しんでいたことを示唆する証言が書かれています。
幸延氏もまた、歴史の真実を知る一人でした。そして、戦後の日本の繁栄の中で、誰にも言えない苦しみを一人で抱え続けて来た人物でもありました。「隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ず作り出されたもの」という幸延氏の証言は、正に、良心の呵責を解き放つために人間に宿命付けられた、善なる魂の叫びであります。   

被告らから投げかけられた次なる反論は、梅澤さんが、沖縄タイムス社との昭和63年12月22日の会談で、『鉄の暴風』に掲載されていた自決命令の記事について、今後訂正や謝罪要求をしないことを明言した、という点です。
しかしながら、これも事実の歪曲です。この沖縄タイムス社との会談については、その経過内容を物語る重要な証拠があります。
まず、本日証拠として提出した、「謝罪の事」と題する書面です。
この書面は、梅澤さんが、宮村幸延氏に書いて貰った前述の『証言』を沖縄タイムス社に提示して、『鉄の暴風』の訂正と謝罪文の掲載を要求した時に、沖縄タイムス社が作成したものです。幸延氏の『証言』を見せられた沖縄タイムス社は明らかに動揺し、梅澤さんに対し、謝罪の内容をどのように書いたら良いか尋ねて来たため、梅澤さんが一言々々、自らの求める謝罪内容を口で伝え、沖縄タイムス社の方で書き取ったもの、それがこの書面なのです。    
 その後、梅澤さんは、昭和63年12月22日、再び沖縄タイムス社と会談しました。
しかしながら、沖縄タイムス社は前回の時と態度を一変させ、逆に、梅澤さんに書面を提示して、それに押印するよう求めて来ました。その書面が、本日証拠として提出した『覚え書』と題する書面です(甲B29)。その内容は、今後梅澤さんが沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしないという一方的なもので、既に沖縄タイムス社の社長の印鑑まで押してあったのです。   
そのような強引なやり方に対し、梅澤さんが強く非難したところ、沖縄タイムス社からは、訂正と謝罪に応じられないことについて、それ以上、説明することはできませんでした。そして、最後は、応対した沖縄タイムス社の3名が揃って、梅澤さんが自決命令を出したものではないことを認め、非を詫びて謝罪し、間違いを訂正することを約束したのです。   
被告らは、梅澤さんがそれ以上追及せずに帰った点を歪曲して、「今後訂正や謝罪要求をしないことを明言した」などと主張しているのです。
もし本当に被告らの主張する通りであれば、梅澤さんは沖縄タイムス社が用意していた前記『覚え書』(甲B29)に押印している筈です。 
実は、会談後間もなく、沖縄タイムス社から梅澤さんの下に書面が送られて来ました。本日証拠として提出した「『謝罪』要求について(回答)」と題する書面です(甲B30)。その内容は、結局、謝罪を拒否するというものでしたが、その書類の日付は会談が行われた日の2日前である昭和63年12月20日でした。会談よりも前の日に作成された書面が、会談の後に送られて来ているのです。勿論、会談の時には一切提示されていませんでした。   
沖縄タイムス社の対応の右往左往は、内部の動揺と混乱を端的にあらわすものといえます。中井記者が書いた神戸新聞の記事には、沖縄タイムス社の牧志伸宏氏が、「梅澤命令説は調査不足があった」とのコメントが掲載されており、当時すでに沖縄タイムス社が『鉄の暴風』の内容に疑問を抱いていたことは間違いありません。被告らは牧志役員室長の談話についても神戸新聞の捏造だと主張していますが、そうであれば当時、沖縄タイムス社が黙っているはずがありません。もちろん神戸新聞に対する抗議はいままでなされたことはないのです。被告らの主張は、荒唐無稽をとおりこして滑稽ですらあります。

次に、被告らの反論は、宮城初枝氏の証言を纏めた『母の遺したもの』(甲B5)にも及びます。
  宮城初枝氏は、『母の遺したもの』の中で、「梅澤隊長による自決命令はなかった」と証言しています。その初枝氏が、昭和38年に発行された『家の光』への投稿の中で、逆に「梅澤部隊長から自決命令があった」と書き綴っていることから、被告らは、『母の遺したもの』における初枝氏の証言の信用性には疑問があるといいます。
  しかしながら、『母の遺したもの』には、著者である宮城晴美氏(初枝氏の子)が、はっきりと、「(『家の光』の)原稿をまとめるにあたり、『自決命令』についてどう記述するか、母はずいぶん悩んだ。」と書いています(甲B5の254頁)。つまり、初枝氏自身、『家の光』への投稿に際して、自らの投稿内容が真実に反していることを十二分に認識していたのです。被告らの反論は、全く反論になっていません。
  現に、昭和57年6月、梅澤さんが座間味島で初枝氏に再会した際、初枝氏は、長年一人で抱え続けて来た苦しい胸の内を一気に吐き出すように、「隊長は、自決してはならん、弾薬は支給しないと明言しました。そのことを知っている唯一の生き証人です。」と話し、梅澤さんに何度も謝罪しているのです(甲B33)。
そして、その翌月の昭和56年7月には、初枝氏から梅澤さんに、次のように切々と綴られた手紙が届いています(甲B31)。

真実の歴史を残すためには此れから私のやるべき事が残っております。
あの悪夢のような二十五日の晩のでき事は五人の中、私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。
後、一人は生きていて欲しかったのでございます。
誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。
私の戦後は終っておりません。
    今後、下谷さんが悲劇の座間味の本を再発行する事になりましたので好い機会ですので訂正させて頂き度いと思います。当時の島のふん囲気の軍命を出し、誰がも(誰もが)知れない真実を自分一人で知り乍ら、忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。
      何時も私の心境は梅沢様に対して済まない気持でいっぱいでございました。しかし、村の方針に反する事はできませんでした。
      お許し下さいませ すべてが戦争のでき事ですもの。

その後、更に初枝氏から梅澤さんに、『とっておきの体験手記』と題する手記の写しも送られて来ました(甲B32)。それには、弾薬を渡すよう村の助役が申し出たことに対し、梅澤さんがはっきりと拒んだことが書き綴ってあります。

初枝氏もまた、歴史の真実を知る一人であり、誰にも言えない苦しみを一人で抱え続け来た人物でもありました。「梅澤隊長の自決命令はなかった」という初枝氏の証言もまた、良心の呵責を解き放つための善なる魂の叫びであります。
自らの証言で、他人を、「自決命令を下した張本人」にまで仕立て上げてしまったという、深い心の傷を持つ者にしか為し得ない、最大級の真摯性と迫真性を有する証言であります。

2 人は良心の呵責に耐えることが出来ない。そして、真実を語り始める。
  平成18年8月27日付の産経新聞は、原告赤松秀一さんの兄赤松嘉次大尉が滞在した渡嘉敷島での集団自決について、赤松大尉の自決命令はなかったと報じました。元琉球政府職員の照屋氏が真実を語ったのです。
  照屋氏は、やはり援護法の適用のために自らが関与して隊長命令説を作り出した事実を、はっきりと語っています。島に1週間ほど滞在して、援護法の適用を受ける資格があるかどうか、100人以上の男女から聞き取り調査を行ったが、集団自決が軍の命令だと証言した住民は1人もいなかったと断言しています。
  照屋氏は、今になって真実を語る理由を次のように述べています。

      今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った。

      赤松隊長が新聞や本に「鬼だ」などと書かれるのを見るたび「悪いことをしました」と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。…赤松隊長に…安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない。

照屋氏もまた、歴史の真実を知る一人でありました。そして、深い心の傷を持ち続けた人物でもありました。

以上の魂の叫びを前に、被告大江健三郎及び被告岩波書店は、具体的にどのような調査を行い、どのような裏付けを取って真実を見極めたというのでしょうか。
  確かな事実は、自決命令がなかったとする証言が次々と出ている現時点においても、尚、被告らが出版を継続し、原告らの名誉を毀損し続けている事実です。














               原告準備書面(2)要旨  
                                          
     弁護士 徳永信一   弁護士 大村昌史   弁護士 木地晴子
                             
1 今回の準備書面では、本件訴訟の最大の争点である本件各書籍、すなわち家永三郎著「太平洋戦争」、岩波新書「沖縄問題二十年」、同じく岩波新書で被告大江健三郎が著した「沖縄ノート」に記述され、引用されている沖縄県慶良間列島で生じた集団自決が「軍命令で強制された」という神話、すなわち、座間味島の集団自決は梅澤隊長の命令によるものであり、渡嘉敷島の集団自決は赤松大尉の命令によるものであるという《隊長命令説》が果たして真実か否かという問題を扱っています。       
2 座間味島の守備隊長だった梅澤元少佐は、集団自決はなかったと明言しています。梅澤さんによれば、アメリカ軍の上陸を目前に控えた3月25日、軍の陣地を訪れた宮平盛秀助役ら5人が「いよいよ最後のときが来ました。老幼婦女子は、予ての決心のとおり、軍の足手纏にならぬ様、又食糧をのこすため自決します。」といい自決のための爆裂または手榴弾、実弾を求めたのに対し、「決して自決するでない。共に頑張りましょう」といい、毅然として断ったといいます。            
  にもかかわらず、沖縄タイムス社の『鉄の暴風』や座間味村が厚生省に提出した『座間味戦記』に梅澤隊長の命令が記載されたことから、長らくこれが歴史の通説となりました。しかし、やがて、真実が世に表れるときがきました。       
3 最初に真実を報じたのは、昭和60年7月30日付神戸新聞でした。「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望のふちにたたされた島民
たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道しました。そこには軍陣地を訪ねた5人のうちの唯一の生き残りである宮城初枝の「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」という証言が掲載されています。こうした動きのもと、「沖縄県史」の解説文で《梅澤命令説》を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、「紀要」に梅澤隊長の手記を掲載したうえ、梅澤命令説の根拠となった手記「血塗られた座間味島」を書いた宮城初枝が、「真相は梅澤氏の手記のとおりであると言明している」と記述し、実質的に県史を修正している。その後、昭和61年6月6日付神戸新聞は、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」との見出しを掲げ、大城主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」というコメントを掲載しています。
 4 続く、昭和62年には、座間味村役場の宮村幸延元援護係が真実を証言した。遺族会の会長でもあった宮村幸延は、「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任兼村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。」とし、命令を発した宮里元助役の「弟である宮村幸延が遺族補償のためやむをえず隊長命令として申請した」ことを証した親書を梅澤さんに手渡したのです。昭和62年4月18日付神戸新聞は、「命令者は助役だった」「遺族補償得るため『隊長命』に」の見出しを上げ、宮村幸延の「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を拡大解釈することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」と苦しい胸のうちを吐露するコメントを掲載しました。   
 5 そして平成12年には、軍陣地を訪ねた5人の島民の唯一の生き残りであり、集団自決の語り部をつとめていた宮城初枝から手渡された手記をもとに、その長女宮城晴美が著述した『母が遺したもの』が発行されました。そこには、心ならずも梅澤命令説を認める証言をしてしまったこと、その虚偽を書いた手記を月刊誌『家の光』の懸賞論文に投稿し入賞したこと、梅澤命令説が独り歩きをはじめ、長く良心の呵責に苦しんでいたこと、最後に梅澤少佐に会って謝罪した経緯等が詳細に記載されていました。昭和32年4月、座間味村で実施された厚生省の調査で、「役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自らかたることはせず、投げかけられる質問の一つひとつに、『はい、いいえ』で答えた。そして厚生省の役人からの『住民は隊長命令で自決したと言っているが、そうか』という内容の問いに宮城初枝は『はい』と答えたという。」宮城晴美は、このときの証言などをもとに、厚生省に提出された『座間味戦記』がまとめられ、これを引用して作成した手記『血塗られた座間味島』が月刊誌『家の光』に掲載された経過を記述しています。そして、ついに昭和52年3月26日宮城初枝は、著者に対し、「悲劇の座間味島」で書いた集団自決命令は、梅澤隊長ではなかった。でもどうしても隊長の命令だとかかなければならなかった」と語ったのでした。その後、昭和65年12月、宮城初枝は梅澤さんとホテルのロビーで再開します。宮城初枝は、梅澤氏に「どうしてもはなしたいことがあります」といって役場職員ら5人で隊長の元に伺ったときの話をはじめ、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」といい、「ほんとうですか」と大きく目を見開いた梅澤さんに「そうで」とはっきり答えると、梅澤さんは、その両手で宮城初枝の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからずに「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言い続け、やがて嗚咽し、「男泣き」に泣いたということでした。その後、宮城初枝から「援護法」の適用のためにやむをえず梅澤さんを悪者にしたことの経緯を告白された梅澤さんは「島の人を助けるためでしたら、私が悪者になるのはかまいません。私の家族に真実が伝われば十分です」といったといいます。梅澤さんは、「沖縄ノート」をはじめとする無責任な書物で描かれたような自らの生き残りのために村民に集団自決を命じた極悪非道の卑劣漢などではなく、戦後も島民のため、自ら犠牲を引き受ける「武士道精神」を発揮した「大和魂」の持ち主であり続けたのでした。 
 6 渡嘉敷島における集団自決が軍命令による強制であったとする《赤松大尉命令説》も『鉄の暴風』や『沖縄県史』に記述されたことで長らく通説とされてきましたが、座間味島の《梅澤命令説》と同じく虚偽であったことが明らかになっています。 
   赤松大尉を悪の権化のように書いた戦後ジャーナリズムの先鋒の一人であった大江健三郎の『沖縄ノート』は、赤松命令説を前提として「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」などと記述して赤松大尉を口を極めて誹謗していますが、これを読んで集団自決事件に興味をもった作家・曽野綾子が徹底した取材と史料分析をもとに昭和48年に著した『ある神話の背景』は、赤松命令説が全く証拠に基づかない虚構であることを白日の下にしました。  
 7 『ある神話の背景』のなかで、曽野綾子は、渡嘉敷島の自決命令について、その発令、伝達、受領の過程を追い、そのいずれも証拠を欠いた幻であることを見事に論証しています。発令者とされた赤松大尉はこれを明確に否定していますし、赤松大尉の傍らにあった副官の知念元少尉は『鉄の暴風』では、将校会議で集団自決が決定されたのをきいたとき「悲憤のあまり、慟哭した」と記述されているが、県史の手記でも「赤松隊長は、村民に自決者が生じたという報告を受けてはやまったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。私は赤松の側近の一人ですから赤松隊長から私を素通りしていかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なんて私はきいたこともみたこともありません。」とこれを明白に否定しています。そして伝達者とされた安里喜順もこれを否定し、むしろ赤松大尉が「あんたらは非戦闘員だから、いきられる限り生きてくれ」といわれたことを証言しているのです。そして、赤松命令説を主張していた古波蔵村長は、自決命令をいつ誰から受け取ったかどうかについては曖昧な供述を繰り返すばかりで、軍命令の存在を明らかにすることがありませんでした。
   そしてまた、『ある神話の背景』は、赤松部隊からは、自決に失敗した渡嘉敷島民を救護するため、衛生兵が派遣されているという事実を明らかにしています。赤松大尉が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明のつかないことです。
渡嘉敷村資料館には今でも赤松大尉の恩賜の時計と浮田堅太郎軍医の聴診器が記念品として飾られています。この事実は、多くの島民が赤松命令説が虚偽だということを知っていることをあらわしているのだと思われます。
 8 『ある神話の背景』が発行された後、渡嘉敷島での赤松大尉の自決命令はなかったとの評価が定着しています。沖縄県史を編纂した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、『沖縄戦を考える』のなかで、「赤松隊長以下元隊員たちの証言を付き合わせて自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については、今のところ曽野説をくつがえすだけの反証はできていない」としました。
9 そして座間味島の集団自決における《梅澤命令説》を事実として記載しているためこの訴訟の対象とした家永三郎著『太平洋戦争』は、初版本で渡嘉敷島での集団自決について赤松大尉命令説を記述していたのを、昭和61年の第2版の発行にあたり、赤松隊長の自決命令を含む渡嘉敷島の記載を完全に削除しました。このことは、著者家永三郎と岩波書店が赤松隊長の自決命令を虚偽であると認識していた何よりの証拠であります。
10 最後に集団自決に及んだ島民たちの心情について、島民たちの供述から拾った事実に触れておきたいと思います。
   沖縄県史第10巻には沢山の島民たちの手記ないし供述が収められています。
   座間味村慶良間の大城昌子は『自決から捕虜へ』のなかで、次のように述べています。
    「前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。
米軍の上陸後二時間程経った午後十時頃、追いつめられ一か所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。数時間前までだれ一人として想像もできなかった事が、 わずかの時間でやってのけられたのです。
私は父と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、捕虜となってしまいました。これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未遂のため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し分けなさでどうすればいいのか全くわからず、最後の「忠誠」である「死」までうばわれてしまった米軍がにくらしくて、力があるなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。
米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。それに対して、敵につれていかれる我が身を考えると情けなくて、りっぱに死んでいった人々の姿を見る度に自責にかられるため、しまいには、死人にしっとすら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました。」
11 座間味村字座間味の宮里美恵子は『座間味の集団自決』のなかで集団自決の心理を次のように述べています。
「阿佐道の方に出てみると、艦砲射撃が激しいので、私達は伏せながら歩き続け、やっと忠魂碑前にたどりつきました。しかし、そこには私の家族の他に、校長先生とその奥さん、それに別の一家族いるだけで他にだれも見当たりません。死ににきたつもりのものが、人が少ないのと、まっ赤な火が近くを飛んで行くのとで不安を覚え、死ぬのがこわくなってきました。
ほんとに不思議なものです。『死』そのものは何もこわくないのです。けれども、自分たちだけ弾にあたって『死ぬ』という事と、みんな一緒に自ら手を下して『死ぬ』という事とは、言葉の上では同じ『死』を意味しても、気持ちの上では全く別のものでした。その気持ちはうまく言えません。
 ‥‥
私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引きうけてくれ、身支度を整えるよういいつけました。「天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え、「死ぬ気持ちを惜しまないでりっぱに死んでいきましょう。」と言ってから、一人の年輩の女の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぽうに手りゅう弾を投げつけました。その中の二コが一人の若い女の先生と女の子にあたり、先生は即死で、女の子は重傷を負いました。
12  渡嘉敷島での集団自決の当事者であり、目撃者であった渡嘉敷村阿波連の金城ナヘは、その供述録『集団自決とそのあと』の中で、敵米軍の侵攻という特殊状況下における人間の心理と集団自決の実際を如実に物語っています。
   大粒の雨が、私たちの行く手をさえぎっていましたが、今、目の前に浮いている山のような黒い軍艦から鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱めると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。 
   私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。上空には飛行機が飛び交い、こんな大勢の人なので、それと察知したのか、迫撃砲が、次第次第に、こちらに近づいてくるように、こだまする爆発音が、大きくなってきていました。
   村長の音どで天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。 
   防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。
   とうとう、この若者は手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのかー、殺してー」とわめいていました。 
   その時、私には「殺してー」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるような共感の気持ちでした。
    意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった‥‥。
13 集団自決命令の神話を流布し定着させたのは、なんだったのでしょうか。人間は、たとえば軍の命令など外部的な要因がなければ自決などするわけがないという平和な時代の安直な思い込みが原因ではないかと思っています。そして、この「軍命令による強制」という安直な図式は、かえって沖縄戦における集団自決の真実から目をそらせることになったのではないでしょうか。大江健三郎の「沖縄ノート」は、まさしく、「軍命令による強制」「残虐な日本軍」という安直な図式に安座し、いささかもこれを反省しようとしなかった戦後のありかたを象徴しているように思われます。    
  日本人が戦後の図式による呪縛から解かれ、真実と日本人の本来の姿に目覚めるためにも、この裁判を通じて沖縄戦の真実が明らかにされることを心から望んでいます。そして、日本人として、今一度、当時の誇り高き日本人の心について考えてみてほしいと思います。 
                                    以上
2006年9月2日 12時44分 | 記事へ | コメント(4) |
第5回口頭弁論準備書面(9月1日)
平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件   
原  告  梅澤  裕 外1名
被  告  大江健三郎 外1名 

原告準備書面(4)
平成18年9月1日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中
           
               原告ら訴訟代理人
弁護士  松  本  藤  一

弁護士  ・  永  信  一

弁護士  稲  田  朋  美

弁護士  高  池  勝  彦

弁護士  岩  原  義  則

弁護士  大  村  昌  史

弁護士  木  地  晴  子

弁護士  本  多  重  夫

                  弁護士 中  村  正  彦 
弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直    
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原 洋   司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一 



第1 本書面の概要
   本書面は、提訴前に絶版されていた『沖縄問題二十年』にかかる訴えを取り下げるとともに、『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』の出版頒布にかかる不法行為の成立時期を、書籍や新聞記事等の公刊時期との関係において特定したうえ、第4で原告梅澤の補充陳述書(甲B33)に基づき、第5で神戸新聞の中井元記者の陳述書(甲B34)に基づき、なお《梅澤命令説》を真実であると強弁する被告準備書面(3)に対する反論を行い、第6で平成18年8月27日に産経新聞紙上に掲載された照屋昇雄元琉球政府職員の証言に基づいて《赤松命令説》の虚偽が決定的になったことを論じ、第7で、被告らが最後に依拠する座間味島での《忠魂碑前集合=軍命令説》と渡嘉敷島での《手榴弾配布=軍命令説》を徹底的に批判し、被告らの主張になんらの根拠のないことを明らかにするものである。
   そして、逆境のなか、真実を明らかにした宮城初枝、宮村幸延、伊礼蓉子、照屋昇雄らが示した沖縄の良心を顕彰するものである。

第2 訴えの変更   
   被告らによれば、亡赤松元大尉が渡嘉敷島での集団自決を命じたとの虚偽をもってその名誉と人格を誹謗した本件書籍二『沖縄問題二十年』は、昭和49年に絶版されたとのことであり、今般原告らにおいてもその事実を確認することができた。 
絶版となった経緯は詳らかにされていないが、その時期が《赤松命令説》の虚偽性を明らかにした曽野綾子著『ある神話の背景』が発刊された昭和48年の翌年であることから、『沖縄問題二十年』における《赤松命令説》の記述が事実に基づくものではないことを悟った著者らの良心的判断に基づくものであると察せられるところである。  
思うに、家永三郎著『太平洋戦争』の初版本(甲B7)にあった渡嘉敷島集団自決《赤松命令説》の記述、すなわち、  
    「赤松隊長は、米軍の上陸に備えるため、島民に食糧を部隊に拠出して自殺せよと命じ」      
  との部分が削除・撤回されたのが昭和61年であったことと比較してみても、『沖縄問題二十年』の著者らによる絶版の措置は、「過則勿憚改」に習ったものと評価することができよう。 
   よって原告らは、本件書籍二『沖縄問題二十年』にかかる訴えを取下げ、請求の趣旨第1項を下記(A)のとおり、請求の趣旨第2項(2)を下記(B)のとおり変更する。


(A) 被告株式会社岩波書店は、別紙一記載の書籍及び別紙三記載の書籍を出版、販売又は頒布してはならない。
   (B) 被告株式会社岩波書店は、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞及び日本経済新聞の各全国版に別紙六記載の謝罪広告を別紙六記載の掲載条件にて各一回掲載せよ。

第3 不法行為責任の発生時期について   
 1 真実性と相当性
座間味島での集団自決が原告梅澤の命令によるものだとする《梅澤命令説》も、渡嘉敷島での集団自決が亡赤松元大尉の命令によるものだとする《赤松命令説》も、いずれも虚構であったことは、すでに論じてきたところから明らかであるが、被告らがこれらを真実と誤信したことにつき相当な根拠が認められれば、不法行為責任が阻却される余地がある。
   《梅澤命令説》ないし《赤松命令説》を真実と誤信することの相当性は、世に表れた関係者の証言等の「根拠」によって推移するものであるが、本件各書籍の出版頒布と「根拠」となるべき証言等を時系列にまとめたものが末尾添付の別表である。原告らは、これに基づいて本件各書籍の相当性につき、以下のとおり主張する。  
 2 本件書籍一『太平洋戦争』の場合          
   座間味島の集団自決にかかわる《梅澤命令説》は、宮城初枝が『家の光』に寄せた手記を唯一最大の根拠としていたが、昭和60年7月30日付神戸新聞(甲B9)に、宮城初枝が「梅澤少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」とする供述が掲載された時点で、その根拠は失われ、相当性が揺らぐことになった。昭和62年4月18日付神戸新聞(甲B11)に宮村幸延の『証言』(甲B8)とインタビュー記事が掲載されたことによって、《梅澤命令説》の虚偽性が明らかとなり、これを真実と誤信する相当性は完全に失われることになった。そして平成12年に宮城晴美著『母が遺したもの』(甲B5)が出版されたことによって、その虚偽性は広く知られるようになった。        
よって、《梅澤命令説》を記載した本件書籍一『太平洋戦争』(文庫版)の頒布については、平成14年に出版された当初から不法行為が成立する。 
 3 本件書籍三『沖縄ノート』の場合     
   渡嘉敷島での集団自決にかかる《赤松命令説》は、その発端となった『鉄の暴風』初版本の出版当時(昭和25年)から不確かな風説と伝聞に基づいて創作されたものであり、相当な根拠を欠くものであったが、昭和48年5月に曽野綾子著『ある神話の背景』が発行され、そのことが明らかにされた段階で、これを真実と信じる根拠は全く失われた。今般、渡嘉敷島においても援護法に基づく救済のために事実に反する赤松隊長の命令を創作したという元琉球政府職員の照屋昇雄の証言(甲B35)が世に出るに及んで、その虚偽性は決定的なものとなった。      
   よって《赤松命令説》に基づき赤松元隊長を「罪の巨塊」を犯した極悪人として描いた本件書籍三『沖縄ノート』は、出版された昭和45年当時から不法行為を構成する違法有責な著作物であったとする余地があるが、本件訴訟では、『ある神話の背景』が出版され、その相当性の欠如が明らかになった昭和48年5月以降に出版された第5刷以後の頒布につき、不法行為責任が生じるものとする。     
                 
第4 原告梅澤の補充陳述書      
 1 被告らは、平成18年6月2日付準備書面(3)において原告梅澤がその陳述書(甲B1)で述べる事実関係に対して縷々反論を行っている。
しかしながら、それらはいずれも事実を捻じ曲げるものであり、原告梅澤の主張を裏付ける各証言が為された際の具体的状況、及びそれに裏打ちされた各証言の真摯性、迫真性を全く理解しない全く不当なものである。
2 宮村幸延の『証言』について  
  被告らは、上記『証言』(甲B8)は宮村幸延(以下「幸延」という。)が作成したものではないとか、原告梅澤が同行した2人の男に泡盛を飲まされ、泥酔状態で書かされた可能性があるなどとして原告梅澤の主張に疑問を投げかけているが、上記『証言』が作成された経緯は、原告梅澤が補充陳述書(甲B33)で極めて具体的に述べている通りであり、被告らの反論は全く理由がない。
⑴ 合同慰霊祭が行われた昭和62年3月28日、原告梅澤は集団自決に関する村の見解を尋ねるべく田中登村長に会ったが、補償問題を担当していた幸延に聞いてくれといわれ、やむなくその足で、幸延を訪ねていった。誰も同行せず、1人で行ったのである。もともと両名は面識があり、その日も再会を懐しんだという。 原告梅澤が訪問した理由を話すと、幸延は、突然原告梅澤に謝罪し、それまで抱え続けてきた胸のつかえを一気に取り去るように、援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を切々と語った。そして「こんなに島が裕福になったのは、梅澤さんのお蔭です。貴方がこの島の隊長であったことを誇りとしています。しかし無断で勝手にやったこと、本当に済みませんでした」と、心からの真情を述べた。 
⑵ 甲B8号証の『証言』は、以上の経緯の中で宮村幸延が述べたことを文書にして欲しいと原告梅澤が依頼し、幸延自身が一言々々慎重に言葉を選んで作成したものである。決して原告梅澤の方で原稿を書き、幸延に押印だけさせたものでもなければ、泥酔状態にあった幸延に無理やり書かせたものでもない。原告梅澤が原稿を書いたのであれば、末尾宛名の「裕」の字を誤る筈がないし、幸延が泥酔状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じる筈である。
⑶ 当日、両名は杯を酌み交わして義兄弟の契りを交わし、幸延の父盛永の遺訓にまで話は及んだのであった。宮村家は名門の軍人の一家であり、軍服姿の写真と多数の表彰状が飾られていた。原告梅澤は宮村家に約3時間滞在していた。
幸延がその後『証言』を覆すに至ったのは、何らかの大きな圧力が加わったとしか考えられない。

3 沖縄タイムス社との会談(昭和63年12月22日)について
被告らは、当該会談において原告梅澤が沖縄タイムス社に対し、『鉄の暴風』に掲載されていた自決命令の記事について訂正や謝罪要求をしないことを明言したなどと主張しているが、これも真実を捻じ曲げる不実なものといわざるをえない(以下、甲B33)。
⑴ 原告梅澤は沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日付の手紙で、記事の訂正と謝罪文の要求をした(甲B27)。
これに対し、同社役員室長の牧志伸宏(以下「牧志」という。)から原告梅澤に、「再度、事の是非を究明し、貴殿の要求事項についてのご返事を差し上げたい」との回答が来た(甲B15の1及び2)。
 その後、原告梅澤は、昭和63年11月1日、陸軍士官学校時代の同期生岩崎禮三(以下「岩崎」という。)に付き添って貰い沖縄タイムス社の大阪支社に赴き、幸延から得ていた前記『証言』を提示して、『鉄の暴風』の訂正と謝罪文の掲載を再度要求したところ、明らかに同社が動揺し、遂には同社の新川明(以下「新川」という。)が謝罪の内容を尋ねて来たため、原告梅澤において口述し、その内容を新川が書き取った(甲B28)。
 ⑵ その後、原告梅澤は、昭和63年12月22日、上記要求に対する回答ということで沖縄タイムス社大阪支社において新川ら3名と再度会談した(前回と同様、岩崎に立ち会って貰った。)。
そうしたところ、沖縄タイムス社は態度を一変させ、「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」との主張に固執して譲らないばかりか、「以後原告梅澤が沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしない」とする内容の書面(甲B29の『覚え書』)を示し、それに押印するよう求めて来たものである(因みに、その書面には、既に沖縄タイムス社の社長の印鑑まで押してあった。)。
そのような不実なやり方に対し、原告梅澤が強く非難したところ、結局、具体的な材料を何も持たない沖縄タイムス社としては対応の術がなく、それ以上の説明は何もできなかった。そして、実際に具体的な証拠を提示して説明する原告梅澤に対し、最後は、応対した沖縄タイムス社の3名が揃って、原告梅澤が自決命令を出したものではないことを認め、非を詫びて謝罪し、間違いを訂正する旨約したものの、謝罪文の提出については即答を避けた。
原告梅澤は気持ちが治まらなかったが、同席した岩崎の諌めもあって、その日はそれ以上追及せずに帰ったものである。
⑶ 被告らの主張は、以上の事実を都合良く捻じ曲げたものである。もし被告らの主張するような経緯であれば、原告梅澤は沖縄タイムス社が用意していた前記『覚え書』(甲B29)に押印している筈である。 
⑷ なお、会談後間もなく、沖縄タイムス社から原告梅澤に「『謝罪』要求について(回答)」と題する書面が送られて来た(甲B30)。結局謝罪を拒否する内容のものであったが、当該書類の日付は会談の2日前である「1988年12月20日」となっていた。しかしながら、会談の時には原告梅澤には一切提示されていない。 
⑸ 神戸新聞記事に掲載された沖縄タイムス社役員室長(当時)の牧志伸宏の談話(甲B10)からうかがえるように、当時既に沖縄タイムス社は、《梅澤命令説》の真実性に疑問を抱いていたのであり、宮城初枝に続く幸延の証言の持つ意味は十分理解していたはずである。上記会談前後に沖縄タイムス社がみせた右往左往ともいうべき対応の乱れは、内部の動揺と対立の存在を端的に示すものであり、その後の座間味村公式見解なるものを楯にとってなされた硬直した対応の鉄面皮ぶりは、同社の政治性を如実に表しているといえ、真実を追究すべき報道機関の良心に悖るものといわざるをえない。  

4 『母の遺したもの』と初枝からの手紙 
  被告らは、宮城晴美著『母の遺したもの』(甲B5)の中で「梅澤隊長による自決命令はなかった」と証言している宮城初枝(以下「初枝」という。)が、昭和38年4月に発行された『家の光』に投稿した手記において、「梅澤部隊長から自決命令があった」と述べていたことを理由に、『母の遺したもの』における上記初枝の証言の信用性に疑問を呈している。
しかしながら、このような見解は、証拠の持つ信用性の評価を誤っていることは一見して明らかであり、苦し紛れの強弁にすぎない。  
 ⑴ 『母の遺したもの』には、はっきりと「(『家の光』に投稿した手記の)原稿をまとめるにあたり、『自決命令』についてどう記述するか、母はずいぶん悩んだ。」と書いてある(甲B5の254頁)。すなわち、初枝自身、『家の光』への投稿に際して、自らの投稿内容が真実に反していることを十二分に認識していたものである。
   現に、昭和57年6月、原告梅澤が座間味島で初枝に再会した際、同女は、長年一人で抱え続けて来た苦しい胸の内を一気に吐き出すように、「隊長は、自決してはならん、弾薬は支給しないと明言しました。そのことを知っている唯一の生き証人です。」と話し、自らの辛さを滲ませながら原告梅澤に何度も謝罪している(甲B33)。
 ⑵ その翌月、原告梅澤の自宅には、初枝から、次のように切々と綴られた手紙が届いている(甲B31)。

真実の歴史を残すためには此れから私のやるべき事が残っております。
あの悪夢のような二十五日の晩のでき事は五人の中、私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。
後、一人は生きていて欲しかったのでございます。
誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。
私の戦後は終っておりません。
      今後、下谷さんが悲劇の座間味の本を再発行する事になりましたので好い機会ですので訂正させて頂き度いと思います。当時の島のふん囲気の軍命を出し、誰がも(誰もが)知れない真実を自分一人で知り乍ら、忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。
       何時も私の心境は梅沢様に対して済まない気持でいっぱいでございました。しかし、村の方針に反する事はできませんでした。
      お許し下さいませ すべてが戦争のでき事ですもの。

手紙を読み終えた原告梅澤は沖縄復興のために良心の呵責に苛まれてきた初枝の苦労を思い涙したという。 
その後、更に初枝から、自らの手で書き綴った手記の写しも送られて来た(甲B32)。そこには、昭和20年3月25日の出来事、即ち、初枝ら5人が部隊の壕に来たこと、村の助役が原告梅澤に対し自決のための弾薬を渡すよう申し出たこと、それに対して原告梅澤がはっきりと拒んだことが書き綴ってある。
⑶ 以上に貫かれている初枝の心境、及び、それに基づく「梅澤隊長の自決命令はなかった」との告白は、真実を知る者、それも、自らの証言で他人を「自決命令を下した張本人」に仕立て上げてしまったという深い心の傷を持つ者にしか表現出来ない真摯性と迫真性を有している。
   最早如何なる弾劾も及ばない。「梅澤隊長の自決命令はなかった」とする初枝の各証言が最高度の信用性を有する証拠であることは、一片の疑問を差し挟む隙もない。

第5 中井和久記者の陳述書と神戸新聞報道   
1 はじめに
  被告らは、その準備書面(3)において、神戸新聞の昭和60年7月30日、昭和61年6月6日及び昭和62年4月18日の各朝刊に掲載された昭和20年の沖縄座間味村での集団自決に関する記事(甲B9ないし11)に掲載された関係者の談話について、同新聞による直接の取材がなかった、あるいは、同新聞の取材に対して当人はそのように話していないなどの主張をしている。
  そこで原告ら代理人は、上記記事の取材・執筆をなした同新聞中井和久記者(当時)にその点を確認した。中井元記者は、十分な取材を重ね、談話を掲載した関係者には取材により直接話を聞いて記事を執筆したことを断言した(甲B34)。 
  以下、具体的に述べる。

2 沖縄タイムス社牧志伸宏に対する取材
  被告らは、甲B第10号証の昭和61年の神戸新聞記事中の沖縄タイムス役員室長牧志伸宏の談話(「梅澤命令説などについては調査不足があったようである」)について、「神戸新聞記載のとおり牧志氏が述べたか疑わしい」と述べる(被告準備書面(3)2頁)。
  しかし、中井元記者は、沖縄タイムスへの電話取材は確かに行い、記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34・4頁)。
 そして、この報道の内容の社会的歴史的重要性からしても、沖縄タイムスに対する影響力の大きさからしても、また、新聞記者の当然の職業倫理からしても、沖縄タイムス社の牧志のコメントを中井が捏造したとでもいうような被告らの主張は、全く真実に反することは明らかである。
敢えて言うまでもないが、もし、そのかかる捏造の事実があれば、当該記事が神戸新聞に掲載された段階で、沖縄タイムス社や牧志が強く抗議して大問題となったはずである。しかるに、沖縄タイムス社は、神戸新聞に抗議した形跡すらない。被告らの主張は荒唐無稽を通り越して滑稽ですらある。  
3 宮城初枝の談話について
 被告らは、甲B第9号証の昭和60年の神戸新聞記事中の宮城初枝の談話について、「同記事は、原告梅澤が神戸新聞の記者に働きかけて掲載させたものであり、上記初枝発言は原告梅澤の言い分をもとに掲載された疑いがある」などと主張する(被告準備書面(3)7頁)。
  しかし、中井元記者は、宮城初枝への電話取材は、確かに、複数回行い、記事にした真実の話をしてもらったことを明言し、そのコメントをする際の宮城初枝のためらいや、宮城初枝から原告梅澤に対する強い罪の意識が伝わってきたことも記憶していると述べている(甲B34・3頁)。
  そもそも神戸新聞が、原告梅澤だけの言い分をもとに、これだけ重大な報道をなし核心的な証言をなしている宮城初枝のコメントを勝手に作り出して掲載する理由など全く考えられない(もし、そのようなことがあれば当時から大問題になっていたはずである。)、被告らの指摘するような「疑い」が全く非現実なものであることは明白である。  
4 沖縄県資料編集所主任専門員大城将保の談話について
  被告らは、甲B第10号証の昭和61年の神戸新聞記事中の大城将保沖縄県資料編集所主任専門員の談話(「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」)について、「神戸新聞記載の大城将保氏のコメントは、大城氏への取材にもとづくものではない」などと主張する(被告準備書面(3)8頁)。
  しかし、やはり神戸新聞の中井元記者は、大城への電話取材は確かに行い、記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34・3、4頁)。
  繰り返しになるが、神戸新聞あるいは中井元記者が、大城の談話を捏造するなどということは、ありえないし、そのようなことをわざわざなす合理的理由がない。
  大城はこの談話の内容を否定していると被告らは述べるが、この記事の掲載後、大城あるいは沖縄県資料編集所から、この記事や談話について、神戸新聞に「このようなコメントはしていない」という主旨の抗議をしたという事実はない。ことは沖縄の歴史にかかわる重大事である、もし、記事が捏造ならば、大城ないし沖縄県資料編集所からの抗議がないことはありえない。

5 宮村幸延の談話について
  被告らは、甲B第11号証の昭和62年の神戸新聞記事中の宮村幸延の談話(「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが擁護壁を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を『拡大解釈』することにした。戦後はじめて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」)にいて、「すべて原告梅澤からの取材にもとづくもので、宮村幸延氏に直接取材したものとは考えられない」と主張する(なお、宮村幸延の姓については、この訴訟では原告被告ともに再三「宮平」との記載がでてきているが、これはいずれも誤記であるので、原告準備書面の分は、ここで訂正する。原告幸延の姓は、戦前は「宮里」であり、戦後は改姓して「宮村」である)。
  しかし、この点についても中井元記者は、宮村幸延への電話取材は確かに行い、記載の主旨のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34・4、5頁)。
  この記事は、記事中で「Aさん」とされている宮村幸延の「証言」が報道内容の核心であり、記事の意義は宮村幸延の証言に尽きるものであることは、一読して明らかであるが、そのような意味を持つ宮村幸延のコメントを、中井元記者が、直接の取材もせずに、あたかも当人が述べたかのような書きぶりで捏造したなどということが、常識的に考えられるであろうか。
  そしてまた、宮村幸延にしても、この記事の掲載後、この記事や談話について、神戸新聞に「このようなコメントはしていない」との主旨の抗議をしたという事実は一切ないのである。

6 小括
  以上述べたとおり、被告らは、神戸新聞の一連の報道について、不都合な部分には全て、「関係者はそのような取材はされていない」、「そのようなコメントはしていない」と述べてやみくもに否定を重ねるが、そこには確たる根拠は全くない。取材でコメントをした当事者らが一部談話内容を否定しているものも今ではあるようであるが、彼らが沖縄での激烈な政治的圧力や地域的しがらみ等から後でコメントを撤回せざるを得ないところに追い込まれていることは、容易に推測できる。   
少し考えてみればわかることである。
神戸新聞の一連の報道は、歴史にかかわる重大事を扱うものであり、それまでの通説を覆すものである。当該記事が神戸新聞という有力な媒体に掲載されれば、渡嘉敷島でのそれにかかわる曽野綾子の『ある神話の背景』の際もそうであったように、喧々諤々の論争が巻き起こることは必至であった。しかも当時、沖縄集団自決をめぐる教科書記述をめぐっては政治闘争としての色彩の濃い家永三郎教科書裁判(第3次訴訟)が係争中でもあった。そのような状況のなか捏造した談話を掲載するなどありえないことは余りにも明らかである。 
神戸新聞の取材や報道を全否定する被告らの主張は、無理に真実を捩じ曲げるものであり、何よりも、マスコミの公共的使命を果たすべく真実を探究し、このようなセンシティブな問題について論争を覚悟で記事掲載に踏み切った神戸新聞の報道姿勢を冒涜するものである。
  
第7 照屋昇雄元琉球政府職員の証言と赤松命令説の終焉           1 渡嘉敷島の集団自決については、『鉄の暴風』(乙2)、『慶良間列島  渡嘉敷島の戦闘概要』(乙10)あるいはこれらを基に出版された多くの沖  縄戦記に「赤松隊長の自決命令があった」との記載があった。
⑴ 『鉄の暴風』(昭和25年出版)では、「住民に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた(乙2・33頁)とされ、
⑵ 「恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」(乙2・34頁)とあり、
⑶ 「日本軍が降伏してから分かったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」(乙2・36頁)と記載された。
2 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年頃作成と思われる)では、
「昭和20年3月28日午前10時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集ったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約2、3百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された(乙10・12頁)と記載された。
3 『ある神話の背景』発行による赤松命令説の破綻 
しかし、曽野綾子氏著作の『ある神話の背景』が出版(昭和48年5月30日)され、赤松元隊長の自決命令という神話の虚構性が暴露された。その結果、沖縄県史8 巻(乙8)(1971年〈昭和46年〉4月28日発行)では、「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。」と記載されていたものが、沖縄県史10巻(乙9) (1974 年〈昭和49年〉3月31日発行) では、
渡嘉敷島について「西山陣地の北方に行くと陣地外撤去を厳命された。手榴弾
が配られた。どうして自決する羽目になったか知る者は居ないが、だれも命を惜しいと思うものはなかった。」(乙9・689〜691頁)と記載され自決命令が否定される内容となった。   
4 大城将保(嶋津与志)の『沖縄戦を考える』(昭和58年5 月15日発行)(甲B24・212,216 頁)は、   
「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の『神話』に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない。」とし、その結果、赤松隊長命令が虚偽であるとの評価が定着するに至った。  
5 自決命令説破綻後の動き 
『ある神話の背景』の出版と大城将保(嶋津与志)の『沖縄戦を考える』の前記総括の後、赤松隊長の集団自決命令説に固執する者は、家永第3 次教科書裁判での沖縄出張尋問などを通じて、富山真順元兵事主任の昭和20年3月20日の手榴弾配布を主張し、手榴弾配布は自決命令と同じであるとして、否定された自決命令説の挽回を図り、これを支持する朝日新聞の記事(乙12)や沖縄県史通史編(乙13)もあったが、赤松隊長の自決命令が虚偽であることは今や一般に知られることとなったと言える。
しかし、何故、虚偽の自決命令が流布したのかについては、なお十分に明確になったとはいえない状況にあった。
6 琉球政府社会局援護課元職員照屋昇雄の新たな証言 
 平成18年8月27日付産経新聞に、渡嘉敷島の集団自決について戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄(82才・那覇市)が「遺族たちに戦傷病者遺族等援護法(以下援護法という)を適用するために、軍による命令ということにして自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」と証言したことが掲載された。
照屋元職員は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるために渡嘉敷島で聴き取りを実施した。同法では一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動したことにして「準軍属」扱いとすることを企図し、照屋氏らが赤松隊長が住民に自決を命じたとする書類を作成して、日本政府の厚生省に提出したことにより集団自決の犠牲者は、準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったというのである。
⑴ 照屋元職員は、ここで「渡嘉敷島では聴き取りをするために1週間程滞在し、100名以上から、話を聞いたが、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった。」「なんとか、援護金を取らせようと調査し、厚生省の援護課に(琉球政府)の社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか」と頼んだ。」「厚生省に軍隊の隊長命令なら救うことが出来るといわれて、『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。」「住民はこのことを分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった。」と語っている。
⑵ 赤松隊長の同意の経緯と内容の詳細については、自決を命じた『住民に告ぐ』という文書の存在が明らかではないため更なる調査の余地を残しているが、いずれにせよ当時の琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を努めた人物が渡嘉敷島の村民100人以上から聴き取りをしたが、軍の自決命令を証言した住民が一人も居なかったという事実は重大であり、虚偽の自決命令が援護申請のための方便として利用されたというのは、《赤松命令説》をめぐる論争を終焉させる決定的な事実である。
⑶ 照屋元職員は、集団自決の実情について次のように証言する。
「民間人が招集して作った防衛隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬなら家族みんなで死のうという考えがあった。さらに軍国主義のうちてしやまいん、一人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、皆が自決していった」(甲B35)。
⑷ 赤松隊長による自決命令は、援護法の申請のために渡嘉敷村当局が敢えて虚偽を捏造したものだという原告らの主張に対し、被告らからは、『鉄の暴風』の出版された昭和25年には援護法の適用の問題は発生していないから、援護申請のために虚偽の捏造ということはあり得ないとの反論がされている。しかし、『鉄の暴風』出版前に、外地から帰還した者の家族の中で、ある家族は全滅、ある家族は生きているという事実にさらされた際、島に残っていた者はその責任を追求されることになり、その責任を回避するために軍命令によるものだとせざるをえず、それがいかにもありそうな風説として流布したものと理解することができる(甲B18・168頁)。照屋元職員が産経新聞に語った当時の実情を、戦後帰還した者に説明しても理解して貰えるわけがなかったのであろう。
⑸ しかし、今回の照屋元職員の供述に照らすと、当時の女子青年団長であった伊礼(旧姓古波藏)蓉子の以下の言葉の持つ意味は大きい(甲B2・220〜221頁)。
「赤松さまのことが話題にのぼる度に、歪んで書かれた渡嘉敷村の戦記がすべて事実に反することを証明し、その誤解をとく役目を果たさせて戴いております。最後まで部隊と行動を共にして終戦を迎えましたが、その間、赤松さまの部隊の責任者としての御立派な行動は、私たちの敬服するところでした。(中略)村民に玉砕命令を下したとか、いろいろ風評はございますが、それは間違いで、あの時赤松様の冷静沈着な判断によって、むしろあれだけの村民が生きのびることができたのでと申しましても決して過言ではございません。ゆがめられた戦記を読んで赤松さまを誤解している一部の反戦青年の来島反対にあい、渡嘉敷島まで行かれなかったかことは私たちはじめ、渡嘉敷の村民は心から残念に思っております」

照屋元職員の証言は、伊礼蓉子と同じく、赤松隊長を虚偽の自決命令を出した極悪人のままに放置出来ないとするものであり、前述した座間味島の宮城初枝の証言と同じく沖縄の良心と受けとめるべきものである。

第7 忠魂碑前集合=軍命令説と手榴弾配布=軍命令説
 1 被告らは、座間味島の集団自決にかかる《梅澤命令説》及び渡嘉敷島の集団自決にかかる《赤松命令説》の直接的根拠を示すことができないままであるが、座間味島においては、忠魂碑前に集合するよう村民に指示があったことをもって、軍による集団自決命令の根拠だとしたり、渡嘉敷島においては、米軍上陸前になされた手榴弾の配布こそが軍命令の証拠だと強弁する。   
 2 忠魂碑前集合=軍命令説の破綻
忠魂碑前に集合せよとの指示は、原告梅澤とは全く関係なく出されたものであることは、宮城初枝の各証言ないし『母の遺したもの』をみれば明らかである。
   初枝は、原告梅澤にあてた手紙のなかで、
「忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます」
と村民の誤解を弁明している。
 また、被告らは、宮村盛永の『自叙伝』(乙28)に「忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさいとのことであった」ことを引用し、これを短絡的に軍命令と結びつけようとする。しかし、当該記述の直前には、「早速盛秀が来て家族の事を尋ねた」とあり、玉砕命令を告げたのが盛秀であることが明らかになっている。
当時、座間味村の兵事主任兼助役であった盛秀は、宮村幸延が『証言』で自決命令を出した当人であるとした幸延の兄・盛秀その人であった。宮城初枝によれば、助役であった盛秀は、道すがら出会った初枝を誘い、玉砕するため原告梅澤に武器の提供を願い出て断られ、逆に「生き残るよう」説得されたのである。
 宮村盛永の『自叙伝』には、盛秀らが「玉砕」の意思を固めていく過程が描かれており、宮村幸延の『証言』(甲B8)の内容が真実に合致していることを裏付けるものである。確かに宮村幸延は、集団自決当時座間味島にいなかった。しかし、『自叙伝』をまとめた父・盛永から、兄・盛秀の最後を含め、ことの一部始終を聞かされていたのである。  被告らは、外にも、村民が玉砕のため忠魂碑前に集合した事実を含む供述の存在を指摘するが、それが軍命令とは全く関係のないものであることは、既に明らかになっている。
   3 手榴弾配布=軍命令説の破綻                      渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠    は、詰まるところ、米軍上陸前の8月20日に手榴弾が配布されたとい    う富山真順の証言に尽きるようである。
     富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。
     被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。
     同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。
     米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。
                                 以上
2006年9月2日 12時40分 | 記事へ |
2006年08月31日(木)
嘉敷島の集団自決は軍命令ではなかったと証言(産経新聞)
敷島の集団自決は軍命令ではなかったと証言!「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん(産経新聞)

すばらしいページをつくってくださいました。
http://blog.zaq.ne.jp/tachikoma/article/490/

皆様、9月1日よろしくお願いします。
沖縄集団自決冤罪訴訟第5回口頭弁論
9月1日
抽選午後12時55分集合
大阪地方裁判所(高裁と同じ建物)大法廷
抽選は裁判所裏で(裁判所の北側です)

渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言 元琉球政府の照屋昇雄さん
産経新聞(平成18年8月27日)

大阪版では最初の記事だけが掲載されていますが、東京版は複数の面で記事が掲載されました。
豊吉広英記者は非常に掘り下げたしっかりとした記事を書いてくれました。
ありがとうございました。

■渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言 元琉球政府の照屋昇雄さん
産経新聞(平成18年8月27日)



 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の
暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)   
               
◇【用語解説】渡嘉敷島の集団自決 沖縄戦開始直後の昭和20年3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人。                  
◇【用語解説】
戦傷病者戦没者遺族等援護法 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。法の目的に「国家補償の精神に基づ
く」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。



■渡嘉敷島の集団自決 「大尉は自ら十字架背負った」(産経新聞平成18年8月27日)


 「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦の渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。
 赤松元大尉は昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。任務は120キロ爆雷を積んだベニヤ製特攻艇を使った米艦船への体当たり攻
撃。ところが、20年3月の米軍主力部隊上陸前、作戦秘匿を理由に出撃前に特攻艇の自沈を命じられ、終戦まで島内にとどまった。

 戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。

 照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。

 こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。

 ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。

 45年3月、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、島で抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。中学の教科書ではいまだに『集
団自決』を強制されたりした人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」(清水書院)と記述されている。

 渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。

 同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、はっきりとは言えない。しかし、命令があったという人に実際に確認するとあやふやなことが多いのは事実。島民としては、『命令はなかった』というのが、本当のところではないか」と話した。

 今回の照屋さんの証言について、「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟を支援する会」の松本藤一弁護士は「虚偽の自決命令がなぜ広がったのか長らく疑問だったが、援護法申請のためであったことが明らかになった。決定的な事実だ。赤松隊長の同意については初めて聞く話なので、さらに調査したい」とコメント。昨年、匿名を条件に照屋さんから話を聞いていた自由主義史観研究会の代表、藤岡信勝拓殖大教授は「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、今回全面的に証言することを決断されたことに感動している。また一つ歴史の真実が明らかになったことを喜びたい」と話している。

 照屋さんは、CS放送「日本文化チャンネル桜」でも同様の内容を証言。その様子は同社ホームページで視聴することができる。

                  ◇

≪照屋昇雄さん「真実はっきりさせようと思った≫

 照屋昇雄さんへの一問一答は次の通り。

 −−なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか

 「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」

 −−当時の立場は

 「琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」

 −−渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか

 「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」

 −−その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか

 「1人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」

 −−ではなぜ集団自決をしたのか

 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」

 −−集団自決を軍命令とした経緯は

 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」

 −−赤松元大尉の反応は

 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」

 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」

 −−住民は、このことを知っていたのか

 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」

 −−あらためて、なぜ、今証言するのか

 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。
赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に
短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」


是非傍聴と報告集会にご参加下さい!
○第5回「沖縄集団自決」冤罪訴訟裁判の傍聴のお願い

・日時 18年9月1日(金)午後1時半

・場所 大阪地裁代02号法廷

・午後1時傍聴抽選(5分前までには裁判所北側入り口前集合)

○報告集会  同日午後2時半から4時ごろ

場所   中央公会堂地下  大会議室

次回

○第6回「沖縄集団自決」冤罪訴訟裁判の傍聴のお願い

・日時 18年11月10日(金)午後1時半

・場所 大阪地裁代02号法廷

・午後1時傍聴抽選(5分前までには裁判所北側入り口前集合)

○報告集会  同日午後2時半から4時ごろ

場所   中央公会堂地下  大会議室
2006年8月31日 04時14分 | 記事へ |
2006年06月10日(土)
第4回口頭弁論準備書面
第4回口頭弁論準備書面
弁護団で何度も検討し、被告側準備書面が6月2日に出されてから、全面的に書き換え、8日夜徳永弁護士が徹夜でまとめた力作です。膨大な分量が検討の上削除され、新たに書き加えられました。
結集した全弁護士の献身的な努力のたまものです。

平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件   
原  告  梅澤  裕 外1名
被  告  大江健三郎 外1名 

原告準備書面(3)
平成18年6月9日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中
           
               原告ら訴訟代理人
弁護士  松  本  藤  一

弁護士  ・  永  信  一

弁護士  稲  田  朋  美

弁護士  高  池  勝  彦

弁護士  岩  原  義  則

弁護士  大  村  昌  史

弁護士  木  地  晴  子

弁護士  本  多  重  夫

弁護士 中  村  正  彦 
弁護士 青 山 定 聖  弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈   弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋  弁護士 神 崎 敬 直
   
弁護士 木 村 眞 敏  弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人  弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦  弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則  弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三  弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕  弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫  弁護士 原 洋   司
弁護士 藤 野 義 昭  弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹  弁護士 森   統 一 



第1 はじめに
被告の準備書面(3)は、《軍の命令による集団自決》という命題にかかわる渡嘉敷島の《赤松命令説》と座間味島の《梅澤命令説》の虚構を明らかにした原告準備書面(2)に対する反論であり、あくまで《赤松命令説》及び《梅澤命令説》が歴史的真実だと強弁するものであるが、子細に読むと分かるように、むしろ、それは『ある神話の背景』と『母が遺したもの』によって白日のものとなった両説の虚構性を塗りつぶし、沖縄住民が見舞われた集団自決の悲劇を、あくまで「非人間的な日本軍」による残虐な犯罪との評価を押し通すべく詭弁を弄し、もって歴史を捏造せんとする人たちの存在とその手法を浮き彫りにしている。

 例えば、座間味島の《梅澤命令説》については、これを聞いたとされていた唯一の証人である宮城初枝が、「命令を発したのは梅澤さんではない」という真実を告白し、その告白が『母の遺されたもの』に掲載されたことによって天下に明らかにされ、座間味村の公式見解であった《梅澤命令説》が援護法の適用を受けるためになされた方便であったことが明白になったにもかかわらず、被告らは、その座間味村の公式見解なるものを楯にとって尚も《梅澤命令説》が事実であるとの強弁を維持せんとしている。
すなわち、昭和63年11月18日付座間味村の回答によれば、「真相を執筆し陳情書を作成した宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長、有力村会議員中村盛久がはっきり証言している」というわけである。しかし、「はっきり証言している」という証言者の証言内容は、沖縄県史を含めどこにも記録されていない。とりわけ真相を執筆したとされる宮村盛永は、集団自決の実際を自筆の『自叙伝』に記述しているが、そこには、米軍上陸前から住民らが自発的に「米軍が上陸してきたら一緒に玉砕しよう」との意思を確認し合っていたことが克明に記述される一方、そこには軍の命令もそのことをうかがわせるような記述も一行もないのである(昭和63年小説新潮1月号『第一戦隊長の証言』・甲B-26)。
また、被告らは、座間味村の回答書に宮村幸延の証文が原告梅澤の強要によるかのごとき記載があることを取り上げ、これを云々するが、神戸新聞の中井和久記者は宮村幸延を取材し、「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を“拡大解釈”することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」とのコメントを昭和62年4月18日付神戸新聞に掲載しており、更に、その後に現地取材を行ったノンフィクション作家の本田靖春は宮村幸延にも取材し、同人が、原告梅澤に差し入れた証文について村当局から叱責を受け、「当時、島にいなかったものがなぜ証言できるのか」と糾弾されて一言もなかったと述べたことを記録している。座間味村に蔓延している真実をはばかる微妙な政治的雰囲気を伝える話である(甲B−26)。
いずれにしても、宮村盛永が作成した陳情書が、援護法の適用を受けるための方便であり、そのための政治的文書であったことは明らかであり、座間味村の公式見解なるものも、そうした政治的方便の上塗りでしかなく、宮村幸延の証文にかかる座間味村の見解も、村当局に瀰漫する政治的雰囲気を反映したものと推測されるのである。
  歴史的事実が、そうした事実の裏付けのない政治的主張によって根拠づけられるものではないことは多弁を要さない。本件訴訟における真実性の立証は、事実に基づくものであるべきであり、ためにする政治的主張に基づくものであってはならない。《梅澤命令説》が事実だと強弁する被告らは検証に耐えうる事実を主張すべきである。
  
渡嘉敷島における《赤松命令説》に関し、昭和63年になって突如として登場する富山真順の新証言なるものも同様である。それまでさまざまなところで渡嘉敷島での集団自決や手榴弾について語りながら、一言も触れなかった「3月20日、17才未満の青少年の非常招集、手榴弾2個配布、一個は敵を殺すため、一個は自決するためと説示」との証言に信用性がないことはもちろん、赤松隊がまだ特攻で死ぬ覚悟でいた時点における手榴弾の配布を、「軍隊が生き延びるために住民に死を強いる」自決命令だとすることに飛躍とすりかえと無理があることは明らかであり、その証言内容を、集団自決命令の動かぬ証拠と強弁する被告らの主張が詭弁であり、破綻していることは明らかである。
さらにまた、被告らは、客観的証拠により虚構が明らかとなった《梅澤命令説》と《赤松命令説》につき、その真実性の土俵における不利を如何ともしがたいため、その脆弱を補うべく、百人斬り訴訟事件判決の基準、すなわち歴史的事実に関する表現は、「一見明白に虚偽」ないし「全くの虚偽」でなければ、違法ではないという判断基準を用いるべきだと主張する。
名誉権等の人格権を侵害してまで「虚偽」の表現を保護する理由がないことからすれば、「虚偽」であっても「一見明白な虚偽」ないし「全くの虚偽」でなければ許容されるという前記判断基準の不当性は明らかであるが、当事者が死去してから20年以上が経過した後に書かれた表現が問題にされた百人斬り訴訟の基準を、本件においてもち出すことが誤りであることは余りにも明らかである。
けだし、座間味島の集団自決命令を出したと書かれた梅澤元隊長は、今も生きて本件訴訟を闘っているのであり、渡嘉敷島の集団自決命令を発したと書かれた赤松元隊長は、本件書籍二『沖縄問題二十年』が発行され、本件書籍三『沖縄ノート』が発行された当時、生身の人間として生き、さまざまな生活関係において筆舌に尽くしがたい屈辱を強いられたのである。歴史的事実をめぐる論争だから、虚偽であっても構わないという論法が、いかに誹謗言論が跋扈した状況と、原告梅澤らが強いられた被害の実態とかけはなれたものであるかは、わずかな想像力を用いるだけで充分である。
以下、富山真順の新証言、すなわち3月20日の手榴弾交付をもって集団自決命令の証拠とする《手榴弾交付命令説》が全くの詭弁であること並びに被告らが判断基準としての適用を主張する「百人斬り訴訟判決基準」の不当性等について詳述する。

第2 《手榴弾交付命令説》の詭弁 
 1 渡嘉敷島の《赤松隊長命令説》が伝聞や風説に基づく『鉄の暴風』により創作され、それが独り歩きして定着したものであることが、徹底的な現地取材と綿密な考証を基にした曽野綾子著の『ある神話の背景』(1978年発行)で明らかになったことは原告準備書面(2)で論じたとおりである。
そのことは《赤松隊長命令説》を記載した本件書籍一『沖縄問題二十年』が『ある神話の背景』出版の翌年に絶版になり、沖縄県史が訂正され、1983年(昭和58年)5月15日出版の嶋津与志著『沖縄戦を考える』で「軍命令は虚偽」とする曽野説への評価が固まった。そして、文部省の検定に抵抗し、家永教科書裁判を戦った家永三郎が、その裁判継続中にもかかわらず、その著書である本件書籍二『太平洋戦争』が第二版(1986年)から《赤松命令説》を削除した時点で、《赤松命令説》は根拠のない虚記であったとの評価が定着したものと解すべきである。
   しかし、尚も赤松隊長の命令による集団自決という神話の復活を試みるものがあった。1988年(昭和63年)に朝日新聞に掲載された富山真順元兵事主任の証言、すなわち、「3月20日、17才未満の青少年に非常招集がかかり、二個の手榴弾が交付され、一個は敵を倒し、一個は自決用との説示がなされた」を内容とする証言とこれを針小棒大に拡大解釈して行うこじつけの執念である。   
 2 富山真順が、渡嘉敷島の資料に登場するのは、以下の資料である。

  ? 『沖縄戦記』(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)の『渡嘉敷島に於ける戦争の様相』(乙3)では、その22頁に、昭和20年3月27日「新城(富山)真順をして村民の西山陣地北方の盆地での終結場所を赤松部隊に連絡させた。」とある。
  ? 昭和28年3月28日の日付のある『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(乙10)の資料1の12頁には、「昭和20年3月27日駐在巡査安里喜順を通じ集合命令を伝えられた住民は、西山へたどり着いた。・・まもなく兵事主任新城至純をして住民の終結場所に連絡せしめたのであるが、赤松隊長は以外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。」とある。
  ? 1971年(昭和46年)11月号の『潮』(甲B18)の212頁上段から中段にかけて、古波蔵村長から機関銃を借りてこいと言われ、その意思を率直に受けて防衛隊長屋比久孟祥と役場の兵事主任新城真順は集団より先駆けて日本陣地に駆け込み「足手まといになる住民を撃ち殺すから機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた」ことが記載されている。
  ? 富山真順は同号の『潮』(甲B18)に手記を寄せている。そこで富山真順は、「顔見知りの幹部候補生の学生にあうと涙を流して『あなた方は、生きのびてください。米軍も民間人まで殺さないから』というのです。若いのにしったりした人でした」「自決のことは話したくないんですがね。いざとなれば敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた。」(甲B21−122頁中、下段)と述べているのである。
  ? 1987年(昭和62年)3月31日に出版された渡嘉敷村史資料編がある。そこには富山真順の戦闘体験の陳述があるが、「17才未満の少年に手榴弾を配った」という事実の記載そのものが全くないのである。
3 1973年(昭和48年)5月30日、曽野綾子氏著作の『ある神話の背景』が出版され、赤松元隊長による自決命令という神話の虚偽が暴露された。その結果、沖縄県史8 巻( 乙8) (1971
年( 昭和46年) 4月28日発行) では「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。」と記載されていたものが、1974年( 昭和49年3月31日に発行された沖縄県
史10巻( 乙9) では、渡嘉敷島について「西山陣地の北方にいくと陣地外撤去を厳命された。手榴弾が配られた。どうして自決する羽目になったか知る者は居ないが、だれも命を惜しいと思うものはなかった。」( 乙9- 689,690,691頁)と記載され自決命令が否定
される内容となった。
  4 さらに大城将保( 嶋津与志) 氏は『沖縄戦を考える』( 昭和58年5月15日発行)(甲B24−212,216頁)で「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の" 神話" に対して初
めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない。」とし、その結果、赤松隊長命令が虚偽であるとの評価が定着するに至った。
  5 東京地裁に継続した家永・教科書裁判第三次訴訟の東京地裁の審理中、曽野綾子に対する1988年(昭和63年)4月5日の尋問で以下の事実が明らかになった。
    村の兵事主任( 富山真順) に対し「( 昭和20年3月25日に17才未満の青少年や役場の職員に非常召集を掛けて役場に集まらせたという事実を知っているか」( 乙24−218頁質
問88) との原告代理人の質問に対して、曽野綾子は「村の兵事主任がそれだけのことを知っているということを誰も言わなかったし、兵事主任に会った記憶もない」と答えた( 同回答乃至問91
の質問とその回答) 。
    すなわち、件の非常招集が『神話の背景』の出版の為の調査時には村民に知られていなかったことが明らかにされたのである。さらに、曽野綾子は、富山真順が集団自決なり、避難命令の問題なり、手榴弾の問題なりを聞いたとしたら、「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」「若い方を招集したり、何かをしたと、そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」と答え、それほど大きな関心をもって調査していた曽野綾子が事実を察知していたならば、まず富山真順にあって話しを聞き、さらに『神話の背景』にも書いたと断言するのである(乙24−220頁問94,95と回答)。 ところが、その当時、「このことを、土地の人は誰も言わなかった」というのである( 乙24
−220頁問96〜101と回答)。事実がなかったからである。
  6 1988年(昭和63年)6月16日の朝日新聞にこれまで全く知られていなかった「17才未満の青少年や役場の職員に昭和20年3月20日に非常召集を掛けて役場に集まらせ、一発を敵に、一発を自決用に手榴弾を配った」という記事が掲載された(乙第12号証)。
前記富山真順の手記や東京地裁での前記曽野証言からすれば、富山真順は、17才未満の青少年らに非常招集をかけて、手榴弾を配った事実について曽野綾子の調査時には全く表明していなかったことが明らかである。また渡嘉敷島の村民も、誰も、富山真順の当該経験を知らなかったことも明らかである。結局、事実そのものが無かったのであり、後日富山真順が捏造したものと推測するほかはない。
  7 さらに1990年( 平成2年)3月31日に渡嘉敷村から発行された渡嘉敷村史通史編は、「渡嘉敷の兵事主任であった富山真順( 旧姓新城) が自決命令があったこと
を明確に証言した。」と記載した。村史の該当箇所の執筆者である安仁屋政昭沖縄国際大学教授は「手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。・・・住民が密集している場所で、手榴弾が実際に暴発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」とする(乙13−197頁下段〜198頁上段)。
    その記載から明らかなように、手榴弾の交付が自決強要の物的証拠だとする論は、執筆者である安仁屋政昭沖縄国際大学教授の「評価」であって、「事実」そのものではないのである。すなわち、安仁屋は、手榴弾の交付は自決命令と同じことだという評価的レトリックを介して、『鉄の暴風』に記載されて独り歩きした《赤松隊長命令説》における命令を手榴弾の交付を置き換えて、その存在をこじつける詭弁を弄しているにすぎない。あくまでも軍が持久戦を戦うために村民に犠牲を強いるという冷血非情の自決命令が出されたという事実があったか、無かったかが問題なのである。
  8 『神話の背景』によって隊長命令が虚偽であったことが定着する中、家永教科書裁判の主体となっていた社会的勢力が、その神話の復活を図ろうとして仕掛けたのが、昭和63年6月16日付朝日新聞であり、それまで全く知られていなかった「3月20日の手榴弾の配布」という記事であったと推測されるのである。富山真順がこれほど重大な事実を当時、経験していたのであれば、村史資料編の富山真順の戦闘体験の陳述書にも、その余の資料にも当然にその事実が記載されて然るべきであり、それがなかったということは余りにも不可解である。
富山真順は、前記のとおり、村民を自決させるべく機関銃を借りようとして赤松隊長に断られたことが記録されており、手榴弾についても「いざとなれば敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた。」と語っていた人物である。逆に、幹部候補生の「あなたがたは生き延びてください」という言葉を紹介していたことを合わせて考えると、3月20日の手榴弾交付の事実もそれが集団自決命令と同じだという論も、あとから考えついた作為的なこじつけであることが強く推測されるのである。
9 また、渡嘉敷村史資料編と同村史通史編(乙13)のいずれもその戦争編は、安仁屋政昭沖縄国際大学教授の執筆にかかる。1987年(昭和62年)作成の村史資料編中の富山真順の陳述書に、全く影も形も無かった「17才未満の少年らの呼集、手榴弾の配布、自決の指示」が村史通史編に書き込まれるに至った背景には、安仁屋教授の意図が強く働いていることが推測される。
安仁屋教授は、第3 次教科書裁判の東京地裁の審理にも証人として供述しており、曽野氏の証言も知る立場にあったことから、赤松隊長の自決命令が虚偽として定着した状況を打破することを企図したと解することができるのである。
従来は昭和20年3月27,28日にあったか否かで議論されていた赤松隊長が発したという自決命令について、家永教科書裁判第3次訴訟の曽野証言によって、それがあったとする《赤松隊長命令説》が完全に破綻したことから、その2カ月後の昭和63年6月16日の朝日新聞に掲載された富山真順の新証言なるものによって、自決命令の有無を手榴弾の交付にすりかえ、しかも、昭和20年3月20日に日付を遡らせることで、《赤松隊長命令説》の詭弁的復活を企図したのである。
しかし、そもそも赤松部隊は3月20日の時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突入する予定であり、守備隊に転身し、持久戦を闘うことは全く予定していなかった。特攻隊として出撃する部隊として当然なことであるが、村民のことには全く関心をもっていなかったのである。このことは『ある神話の背景』に収められた赤松元隊長の次の発言からも明白である。
「正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは、頭に
ありませんでした。何故かとおっしゃるんですか。我々は特攻隊です。
死ぬんですから、後のことは、誰かが何とかやるだろうと思ってました。少なくとも、我々の任務ではない、という感じですね」
(甲B18−36頁)。
赤松部隊は3月25日までに米軍の攻撃で舟艇の大部分を喪失し、作戦の秘匿を優先した上官の命令で、残った舟艇の自沈をやむなくし、守備隊に転進し、持久戦のために山に登ったのであった。
仮に、仮定の話として赤松部隊が特攻のために出撃し、村民に手榴弾が残され「一発は敵をやっつけ、一発は自決のため」ということだったとしても、「捕虜になるよりは死を」という村民の意思に応えたものに過ぎない。そうであれば、かかる手榴弾の交付をもって、「沖縄住民の命を犠牲にして軍が生き残るため」になされた「非人間的な日本軍」の象徴的非道として人々の記憶に焼きつき、最大限の道徳的非難を受け、被告大江が「罪の巨塊」と呼び、発令者である赤松元隊長が「アイヒマン」になぞらえられた「自決命令」とは、性質も内容も全く異なるものであることは明らかである。

第2 百人斬り訴訟判決基準の問題点
1 はじめに  
被告らは、事実について、百人斬り訴訟における「一見して明白に虚偽」(「百人斬り訴訟一審判決」)(乙1)、「全くの虚偽」(「百人斬り訴訟控訴審判決」)を要すべきと主張している。
   しかしながら、「百人斬り訴訟判決基準」は、「真実」を蔑ろにする基準であり、「真実」の探求を阻害するものであり不当である。
しかも、東京高裁昭和54年3月14日判決(高等裁判所民事判例集32巻1号33頁)を代表する「虚偽」で足りるとした判例を、「はじめに結論ありき」の基準として機能するように改悪した基準である。
また、「一見明白」、「全くの虚偽」を付加することで、刑法が表明する国法秩序とも矛盾し、最高裁の依って立つ価値判断をも無視した、理論的にも問題がある不明確な基準でもある。
  
2 「真実」を蔑ろにする基準
「百人斬り訴訟判決基準」は、「真実」を蔑ろにする基準である。
「百人斬り訴訟判決基準」は、「虚偽」であっても、違法性が認められない余地を大幅に残すもので、基準として耐えられるものではない。「歴史的事実における表現の自由」の大切さは理解できる。しかしながら、「百人斬り訴訟判決基準」によれば、「虚偽」ではあるが、「一見明白」または「全くの」虚偽でないとして、「虚偽の」「歴史的事実の表現の自由」を認めることになる(まさに、百人斬り訴訟判決は、「一見明白」「全くの」という基準を付加することで「虚偽」の事実の流布を認めたもので、結論ありきの不当な基準である。)。
歴史事実においても最も重要なのは「真実」である。「百人斬り訴訟判決基準」は、名誉権等の人格権侵害を伴う事実と乖離した無責任な言説の跋扈を容認するものであり、ひいては真実の探求と発見を阻害することにつながる。これが、歴史的事実における表現の自由、ひいてはその目的である歴史学の進歩に資するとは到底いえないことは明らかである。

3 東京高裁昭和54年判決を改悪した基準
  「百人斬り訴訟判決基準」は、上記東京高裁昭和54年判決に反し、これを「はじめに結論ありき」の基準として機能するように改悪した基準である。
東京高裁昭和54年判決(@死後四四年余を経た・・・かような年月の経過のある場合A摘示された事実が虚偽B事実が重大C時間的経過に関わらず敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したことを要件とする。)は、概ね「百人斬り訴訟判決基準」と同じもので、その理論の導き方も同じ様ではあるが、要件としては「虚偽」で足りるとして、「一見明白に」とか「全くの」という要件を付加していない。「百人斬り訴訟判決基準」は、一見この東京高裁昭和54年判決を下敷きにしながら、学説上も何ら根拠が見あたらない、また、何らの理由もなく「一見明白に」または「全くの」という要件を加重することで、「虚偽」を立証しても足りないとして、歴史的論争に巻き込まれた名誉毀損の被害者における救済の途を事実上閉じるものである。
また、昭和54年東京高裁判決は、「死後四四年余を経た・・・・かような年月の経過のある場合」の基準として判示されているが、「百人斬り訴訟」の事案は、「約20年」の経過のものである。44年も経た後の基準が、「虚偽」で足りるのに、なぜそれより半分も短い「百人斬り」では「一見明白」「全く虚偽」の要件が加重されるのか、理由は記載されていない。
「百人斬り訴訟判決基準」は、一見東京高裁昭和54年判決を下敷きにしながら、その実態は、「はじめに結論ありき」の基準として機能する改悪をしているのである。

4 刑法と齟齬し、理論的にも問題がある不明確な基準
  また、刑法が表明する国法秩序の観点からも、「百人斬り訴訟判決基準」は、妥当ではない。刑法上の死者に対する名誉毀損(刑法230条2項)の構成要件は、「虚偽の事実を摘示」することである。虚偽の事実の摘示であれば、刑法上、構成要件に該当する違法行為として犯罪が成立し、「一見明白な」とか「全くの」という要件が加重される必要はないのである。しかしながら、「百人斬り訴訟判決基準」によれば、刑事上犯罪が成立するはずの「虚偽」の事実を摘示する場合にも、「一見明白」または「全くの」虚偽ではないとして、損害賠償が認められないということにもなる。やはり、このような理論構成は、刑法の立場と大きく矛盾するものであり、国法秩序の整合性の観点からも妥当ではないことは明らかである。一般的にみて民事上の損害賠償の成立は、刑法上の犯罪成立よりも、より緩やかで足りるはずである。
  
また、名誉毀損に関する最高裁判例理論によれば、名誉毀損があったとしても真実性があれば違法性が阻却され、真実ではなくともそれを真実と誤信したことに相当性があれば、責任が阻却されるのである。真実性ないし相当性ある表現に限り、被害者の名誉権等の人格権の保護に優先するという価値判断である。「百人斬り訴訟判決基準」は、徒に「虚偽の」表現の自由を優先させるもので、最高裁の判例が示した、真実性、相当性ある表現の自由に限り個人の名誉権等の保護に優先するという価値判断を無視したものである。

  さらに、最高裁の判例理論は、「真実」か「虚偽」かという「真実性」の判断も、相当な根拠に基づいたものかという「相当性」の判断も、証拠により客観的に判定し得る明快な基準である。ところが、「真実」か「虚偽」かは、客観的に判定し得る基準ではあるが、「一見明白」「全くの」虚偽か、それとも単なる「虚偽」かを客観的に判定することはできない。むしろ、「百人斬り訴訟判決基準」は、「一見明白」「全くの」というマジックワードを用いて結論を恣意的に動かすことができることにもなる不明確な基準である。
  かかる理論的にも実際的にも問題があり、不明確で恣意的は判断が可能になる「百人斬り訴訟判決基準」を無批判に本件に流用せんとする被告の主張は到底容認できない。

第3 本件における「百人斬り訴訟事件基準」の非適合性
   敬愛追慕の情の侵害の不法行為の要件について被告らがその主張の根拠として援用する2つの判決の基準は、全く事情が異なる本件事案には適用される余地がない。
  以下、その理由を詳述する。
1 はじめに(結論)
   原告赤松が兄赤松大尉に対し抱いていた敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を被告らが侵害したとの原告側の主張に関し、被告らは、死者に対する敬愛追慕の情を害する不法行為の成立には、当該事実摘示が、@死者の名誉を毀損するものであり、A摘示した事実が虚偽であって、かつBその事実が極めて重大で、遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受任し難い程度に害したといえることが必要とする(被告準備書面(1)3頁)。通常の名誉毀損のケースにおいては、特定の事実の摘示により名誉が毀損されれば直ちに違法であり、摘示事実が虚偽であることまでは違法性評価の段階では要求されないことからすれば、このAの点は、立証責任の転換が図られているものと評価できる。
  また、被告らは、死者に関する事実が「歴史的事実」に関するものである場合は、上記Aの虚偽性の要件については、「一見明白に虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと」を要する(被告準備書面(1)3頁)、あるいは「摘示された事実がその重要な部分において全くの虚偽であること」を要すると主張する(被告準備書面(3)25頁)。
  そのうえで被告らは、本件の原告赤松の請求は「死者に関する歴史的事実」の摘示に関するものであるから、不法行為の成立には、上記の厳格な要件を満たされることが必要であると指摘する。
  しかし、上記のような被告らの解釈は失当である。
  一般的に、死者の名誉が毀損されれば、それにより遺族は死者に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害され、不法行為が成立すると解されるべきである。
  そして、摘示された当該事柄が公共の利害に関する事実であり、かつ、事実摘示が公益を図る目的でなされた場合で、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、例外的に敬愛追慕の情の侵害について違法性が阻却され、不法行為が成立せず、また、真実であることが証明されない場合でも、行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときは、故意または過失がなく、不法行為は成立しないと考えられる。
  本件においては、被告らによって死者赤松大尉の名誉が毀損されたことにより、原告赤松は赤松大尉に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害されたものであり、不法行為が成立する。
 そして、不法行為の成立を否定する被告らが、事実の公共性、目的の公益性及び事実の真実性あるいは事実を真実と信じるについての相当の理由の立証責任を負うと解される。
2 死者の名誉の毀損から生じる遺族の敬愛追慕の情の侵害
 死者に対する名誉毀損行為により、遺族が死者に対する敬愛追慕の情が傷つけられ、精神的苦痛を被ったときは、遺族に対する不法行為として一般私法上の救済の対象となり得ることは、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(判例時報1071号33頁。小説「密告」事件)、東京地裁昭和58年5月26日判決(判例時報1094号78頁。受田代議士事件)等においても認められている。
  さらに、大阪地裁平成元年12月27日判決(判例時報1341号53頁。エイズ・プライバシー訴訟)も、当該事案においては、問題の報道は死者の名誉を著しく毀損し、かつ生存者の場合であればプライバシーの権利の侵害となるべき死者の私生活上他人に知られたくない極めて重大な事実ないしそれらしく受け取られる事柄を暴露したものであり、そのような報道により遺族(死者の両親)は死者に対する敬愛追慕の情を著しく侵害されたものである旨認定し、遺族の敬愛追慕の情という人格的利益の侵害による不法行為が成立することを、正面から認めている。
  そして、前記エイズ・プライバシー訴訟においては、違法性阻却事由については、「当該事柄が公共の利害に関する事実である場合で、かつ、取材及び報道が公益を図る目的でなされた時には、当該取材の手段方法並びに報道された事項の真実性又は真実性を信ずるについての相当性及び表現方法等の報道の内容等をも総合的に判断したうえで、遺族の個人に対する敬愛追慕の情の侵害につき違法性が阻却される場合がある」と判示し、基本的に、名誉毀損一般に関する違法性阻却の判断(最高裁昭和46年6月23日判決)にならった枠組みを示している。
  すなわち、これらの裁判例においては、死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と比べて、虚偽性の面で、立証責任を転換したり、特段に要件を厳格化するという判断はなされていないのである。
3 被告らの主張する要件について
 被告らは、遺族の敬愛追慕の情を害する不法行為の成立については、前記のとおり、摘示事実の虚偽性について請求側に立証責任を課すなどの厳格な要件を満たすことが必要とし、それを裏づける裁判例として、東京高裁昭和54年3月14日判決(「落日燃ゆ」事件)を挙げる。
  しかし、この「落日燃ゆ」事件は、死者が亡くなって44年余りを経てから死者の名誉を害するような事実について記述された部分のある著作物が初めて出版された事件であり、そのような相当に長い年月の経過があるという特殊な個別的事情に鑑み、「歴史的事実に移行した」事実については「歴史的事実探究の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という判断から、かような立証責任の転換が図られたものである点に留意されねばならない。
  一方、本件についてみれば、本件書籍二、三とも、赤松大尉の生前に出版されたものであり、その時点では、摘示された事実は「歴史的事実に移行した」ものではなく、「歴史的事実探究の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という価値判断が働く余地は全くない。
  その意味で、「落日燃ゆ」事件判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件が適用されるべきであると考えるのは、失当である。
4 「歴史的事実」であることに基づく要件の厳格化について
 被告らは、死者に関する事実が「歴史的事実」に関するものである場合は、敬愛追慕の情の侵害の不法行為の要件のうち、虚偽性については、「一見明白に虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと」あるいは「摘示された事実がその重要な部分において全くの虚偽であること」という形にさらに厳格化することが妥当と主張し、それを裏づける裁判例として、百人斬り訴訟第一審判決(乙1)及び控訴審判決(乙27)を挙げる。
  この両判決は、「死者に関する事実も、時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくもの」であり、「歴史的事実については、その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ、各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから、たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても、相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合には、歴史的事実探究の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となる」(乙1・108、109頁。この部分は控訴審判決でも変更なし)という観点から、前記のような虚偽性の要件の厳格化を導いている。
 そして、両判決は、「本件各書籍は、両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり、問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は、既に、日中戦争時における日本兵による中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべき」(乙1・110頁。傍点は原告ら代理人。この部分は控訴審判決でも変更なし)と判示して、厳格化した要件の適用をなしている。すなわち、事実摘示された本人の死後一定期間が経過している点を当該事実が「歴史的事実」であると認定する主たる根拠としているのである。
 これに対して本件においては、繰り返しになるが、問題の出版行為は赤松大尉の生前に開始されたものであり、「相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合」には該当しないケースであることは、明白である。
 その意味で、百人斬り訴訟第一審判決あるいは控訴審判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件が適用されるべきであると考えるのは、失当である。
5 まとめ
 結論として、本件においては、死者に関する事実摘示が問題となっていること、あるいは摘示事実が歴史的事実であることを根拠として不法行為の要件を厳格化することは不相当であり、名誉毀損の場合の通常の判断の枠組みが用いられるべきである。
 前記1のとおり、本件においては、被告らによって死者赤松大尉の名誉が毀損されたことにより、原告赤松は赤松大尉に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害されたものであり、不法行為が成立する。
 そして、不法行為の成立を否定する被告らが、事実の公共性、目的の公益性及び事実の真実性あるいは事実を真実と信じるについての相当の理由の立証責任を負うと解するのが相当である。
                                    以上
2006年6月10日 04時44分 | 記事へ |
第4回口頭弁論原告準備書面要旨
平成18年6月9日 第4回口頭弁論
徳永弁護士、中村弁護士が実際に朗読した準備書面。
      

   原告準備書面(3)の要旨

                弁護士 ・永信一  弁護士 中村正彦 
 
【1】 本日、原告から提出しました準備書面(3)は、たった今、被告代理人が朗読された被告らの準備書面(3)に対する反論になります。
 被告らの準備書面では、既に曽野綾子氏の『ある神話の背景』によって完膚なきまでに否定された《赤松命令説》と『母の遺したもの』に記録された座間味島の集団自決命令の経緯に接した唯一の証人である宮城初枝氏の証言によって覆った《梅澤命令説》をあらゆる捏造とこじつけを駆使してなんとか押し通そうという詭弁と強弁でありました。論じられた曽野綾子氏の『ある神話の背景』に対する非難は、事実に基づかない揚げ足とりの類であり、すでに『ある神話の背景』そのものと曽野綾子氏自身の証言によって論破されているものばかりです。むしろ、被告の準備書面が取り上げた主張は、すでに歴史的に虚構性が明らかになった沖縄集団自決の悲劇を、あくまで「非人間的な日本軍」によるものであったとして押し通そうとする人たちの執念とその捏造と欺瞞の手法を明らかにするものといえましょう。

【2】 例えば、座間味島の《梅澤命令説》につきましては、被告らは座間味村の公式見解なるものを楯にこれを貫き通す構えです。昭和63年11月18日付座間味村回答書に曰く、「真相を執筆し陳情書を作成した宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長、有力村会議員中村盛久がはっきり証言している」とのこと。しかし、はっきり証言しているという両人の証言の内容は、沖縄県史を含めどこにも記録されていません。とりわけ宮村盛永氏(この人は、梅澤さんに証文を差し入れた宮村幸延氏とそこで自決命令を出したとされた宮村盛秀氏の実父です)は、沖縄戦と集団自決の実際を自筆の『自叙伝』に記録していますが、そこには、助役だった盛秀氏を含む盛永氏の子女が、米軍上陸前から住民たちが自発的に米軍が上陸してきたら玉砕しようと誓い合っていた事実が克明に記録されており、他方、軍の命令をうかがわせるような記述は一行もないのです。
また、前記座間味村の回答書は、宮村幸延氏の証文が、梅澤さんの強要によるものであり、事実ではないもののように書いてありますが、神戸新聞の中井和久記者は、宮村幸延氏を電話取材し、「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが非難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一審で、歴史を拡大解釈することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」とのコメントを得て、昭和62年4月18日付神戸新聞にこれを掲載しています。更に、上記記事掲載後に後現地取材したノンフィクション作家の本田靖春氏は、宮村幸延氏に直接会い、同人が、梅澤さんに差し入れた証文について村当局から厳しく叱責され、「当時、島にいなかったものがなぜ証言できるのか」と糾弾されて一言もなかったと述べていたことをその著作『第1戦隊長の証言』に記録しています。
こうした事実をみるに、宮村盛永氏が作成した座間味村の陳情書が、援護法の適用を受けるための方便であり、そのための政治的文書であったことは明らかであり、座間味村の公式見解なるものもその上塗りにすぎないものであり、宮村幸延氏の証文をめぐる村の見解も、村当局に瀰漫する微妙な政治的雰囲気を反映したものであると強く推測されるのです。
本件訴訟は、名誉権等の人格権侵害を行った記述の「真実性」が問われている訴訟です。歴史的な事実や「真実」が、そうした政治的主張に基づくものであってはならないことは明らかです。被告らは、裏付けのない村の公式見解なる政治的表明に頼るのではなく、客観的な検証に耐えうる事実を提示して論ずべきなのです。

【3】 さて、渡嘉敷島における《赤松命令説》に関しては、昭和63年6月16日に朝日新聞に掲載された富山真順氏の「新証言」とこれに全面的に依拠した渡嘉敷村史通史編が主張されています。新証言の内容は、「3月20日、17才未満の青少年に非常招集がかけられ、手榴弾2個を、一個を敵に、一個を自決用に配った」というものです。富山真順氏は、かつて村民を殺害するべく機関銃を借りにいき、赤松隊長に断られたことを吹聴していたことが集団自決をめぐる手記に記録されている人物です。自らもさまざまな機会に集団自決のことを語っています。例えば「いざとなれば敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた」とか「顔見知りの幹部候補生の学生にあうと涙を流して『あなか方は生き延びてください。米軍も民間人まで殺さないから』というのです。若いにしっかりした人でした」という、むしろ軍による自決命令を否定する内容の手記が『潮』に掲載されていますが、そこには「17才未満の青少年に自決用の手榴弾を配布した」旨の記述は一切ありません。前記朝日新聞の記事の前年にあたる昭和62年に出版された渡嘉敷村史資料編に収
:\$5$l$?IY;3??=g;a$N@oF.BN83$N5-=R$bF1MM$G$9!#IY;3??=g;a$NA05-D+F|?7J9$K7G:\$5$l$?>Z8@$N?.MQ@-$K$O=EBg$J5?Ld$,$"$k$H$$$o$6$k$r$($^$;$s!#
さらに、仮にこの証言を真実だとしてみても、米軍が上陸する前、赤松隊と村民が協力しあって特攻用の舟艇等の整備作業を行っていた3月20日の時点での「手榴弾の交付」が、なぜ悪名高い集団自決命令の根拠となるのかについては、不思議としかいいようがありません。そもそも赤松隊は、この時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突入する予定であり、後日、守備隊に転身し、持久戦を闘うことになろうとは夢にも思っていなかったのです。『ある神話の背景』に収められている赤松隊長の言葉によれば、「正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは、頭にありませんでした。何故かとおっしゃるんですか。我々は特攻隊です。死ぬんですから、後のことは、誰かがなんとかやるだろうと思ってました。すくなくとも我々の任務ではない、という感じですね。」
特攻で全滅する決意だった時点において住民に手榴弾が配られ、一発は敵に、一発は自決のためということであったとしても、それは「捕虜になるよりは死を」という村民の意思に答えたものに過ぎないのであり、そうだとすれば、かかる手榴弾の交付をもって、住民に自決を命令したと解釈するのは明らかな飛躍です。ましてや「沖縄住民の命を犠牲にして軍が生き残るため」になされた「非人間的な日本軍」を象徴する悪事として人々の記憶に刻まれ、被告大江健三郎の『沖縄ノート』で、「罪の巨塊」とされ、赤松隊長は「アイヒマン」と同じく処刑されるべきとの最大限の道徳的非難を浴びせられるような「自決命令」とはその内容も性質も全く異なるものだということは明らかです。被告らが援用している「手榴弾の交付=集団自決命令」という《手榴弾交付命令説》は、欺瞞的レトリックを用いた典型的なすりかえの詭弁であるといわねばなりません。

【4】続いて本件の重要な法律的争点、すなわち「亡くなった人に対する名誉毀損によって遺族が傷つけられた場合に、法律的には、どのような要件を満たせば不法行為として損害賠償責任が発生するのか」という問題について、原告らの主張を述べさせていただきます。
 原告の赤松さんは、この裁判において、兄である故赤松大尉に対して抱いている敬愛追慕の情を傷つけられたとして損害賠償請求をしていますが、これに対し、被告らは、「生きている者に対する名誉毀損の場合と異なり、死者に対する敬愛追慕の情の侵害が不法行為となるのは、極めて厳しい要件を満たした場合だけである」と主張し、その最大の根拠として、先般控訴審判決がありました百人斬り訴訟の判決を持ち出しています。

その百人斬り訴訟の一審判決は、こういう趣旨を述べました。
 死者に関する事実の発表が「歴史的事実」に関するものである場合は、その基礎事実の重要部分が「一見して明白に虚偽」であるにもかかわらずあえて摘示したことを、原告の側で立証せねばならない。
 そして先月24日に言い渡されました同訴訟の控訴審判決は、「一見して明白に虚偽」という基準は少し修正しましたが、基礎事実の重要部分が「全くの虚偽」であることを訴える側が証明しなければならないと判示しました。ほとんど同じ内容です。
 そのうえ、どちらの判決とも、百人斬りがあったことは、「一見にして明白に虚偽」あるいは「全くの虚偽」とは認められないとして、遺族の請求を棄却したのです。
 被告らは、この沖縄集団自決命令円冤罪訟でもそういう、訴える側にとって厳しい要件、基準が用いられるべきだと言うのです。

しかし、このような基準の立て方自体に、いくつもの問題が指摘できます。
 まず、これらの基準は何よりも「真実を蔑ろにする基準」と言わねばなりません。死者に関する名誉毀損事実の発表が実は「虚偽」であっても、一見して明らかに虚偽でなければ、あるいは「全くの」虚偽とはっきりしていなければ違法ではないのですから、ただの「虚偽」というのに比べて、違法とならない範囲を大幅に広げているのです。歴史的な事実においても、やはり最も重要なのは「真実」であるはずですが、百人斬り訴訟の判決はそれを大きく曲げたのです。この判決も、内容を読みますと実質的には摘示事実に真実性がないことを認めています。したがって、ただの「虚偽」の基準であれば、原告勝訴となるところです。ところがそれをあえて、逆の結論を導くために、「一見にして明白に虚偽」あるいは「全くの虚偽」などという基準を持ち出したのではないか、との非難を免れません。
 また実際にも、百人斬り訴訟以前の重要な判例として、やはり死者の名誉の毀損が問題となった小説「落日燃ゆ」事件判決というものがありますが、その判決では、問題の虚偽性の点については、ただ「虚偽であることを遺族が証明すればよい」としただけで、「一見して明白に虚偽」とか「全くの虚偽」などということは求めませんでした。そもそも、名誉権等の人格権を侵害する「虚偽」の表現を保護する理由はないというべきです。「全くの虚偽」でなければ裏付けのない「虚偽」であってもいいということであれば、無責任な言論が跋扈し、歴史的真実の探求はかえって後退することになります。
 さらに法理論的に考えても、おかしいのです。民法よりもより違法性について厳格に考えられている刑法において、死者に対する名誉毀損という罪がありますが、その条文でも「虚偽の事実を摘示する」ことで直ちに違法になるということになっていて、「一見して明白に虚偽」とか「全くの虚偽」などということは求められていません。民事の事件でそのような厳格な基準を用いることは、刑法に表れた法秩序とも整合しないのです。

百人斬り訴訟の判決は、このように基準を厳しくする理由として、「死者に関する事実も、時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくもの」であり、「歴史的事実については、その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ、各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから…(中略)…、歴史的事実探究の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となる」と述べています。
 そして、「本件各書籍は、両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり、問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は、既に、日中戦争時における日本兵による中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべき」として、厳しい基準で考えるべきだとしたのです。
 
 しかし、この沖縄集団自決命令冤罪訴訟においては、被告らによる問題の出版行為は、赤松大尉の生前に開始されたものであり、「歴史的事実を探究しようとした」というような事案では全くありません。
 その意味で、百歩譲って、百人斬り訴訟判決が定立した基準が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件が適用されるべきであると被告らが主張する点には、大きな欺瞞があります。

 結論として、本件においては、死者に関する事実摘示が問題となっていること、あるいは摘示事実が歴史的事実であることを根拠として不法行為の要件を厳格化することは不相当であり、名誉毀損の場合の通常の判断の枠組みが用いられるべきです。
 本件においては、被告らによって死者赤松大尉の名誉が毀損されたことにより、原告赤松さんは赤松大尉に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害されたものであり、不法行為が成立します。そして、不法行為の成立を否定する被告らが、事実の公共性、目的の公益性及び事実の真実性、あるいは真実でなかったとしても事実を真実と信じるについての相当な理由があったのだということについて、立証責任を負うのです。

ましてや原告の梅澤さんは、まだこうして生きておられます。当然に、通常の名誉毀損の基準により救済が図られねばならないのであり、歴史的事実探究の自由などの論法によって、その途が閉ざされてはなりません。
 
 以上、「自決命令」の有無という事実の側面からも、表現の真実性をめぐる法的な枠組みからみても、被告らの今回の主張は、まったく理由がないといわざるをえないのです。
                                      以上
2006年6月10日 04時41分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』第4回口頭弁論(H18.6.9)の速報
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』第4回口頭弁論(H18.6.9)の速報


代表 南木隆治
平成18年6月9日午後1時30分より大阪地裁大法廷で『沖縄集団自決冤罪訴訟』第4回口頭弁論があり、後に述べるようにこの裁判に我が方が勝訴できるだけでなく、「百人切り訴訟」の行方にも決定的な影響を及ぼし、流れを変えるであろうと思われる、我が弁護団のきわめて重要な意見陳述がありました。また、深見敏正裁判長より、我が方の訴えに関して、「具体的、個別的に、いつの時点から損害賠償を請求できる違法な状態が発生していると考えるのかを、問題とされているそれぞれの著作毎に、時系列の一覧表をつくってほしい」との要望が我が方に示され、裁判官が我が方の訴えを真摯に受け止めてくれており、間違っても門前払いをしようなどとは考えていないことがはっきりし、勝訴の気配を感じさせる法廷でした。我が弁護団の陳述を含め、きわめて大きな成果のある、歴史的な法廷でした。
この日、傍聴券獲得のために裁判所北川に並でくださった方々の総数は120名を越えており、第1回50名未満、第2回83名、第3回90名と比べて、飛躍的に増加しました。これはもちろん我が方の支援者数がますます増加している事もありますが、被告側支援者やあるいは中立の方々(大江ファン、岩波関係者、その他ここには書きませんがこちらで把握した被告側支援者)等が前回の数名から、大幅に増えたためです。
予定されている席は81席ですので、抽選の結果法廷には入れなかった方が、被告側には相当出たのではないかと思われます。当方は傍聴券確保の為にのみご協力くださった方も多く、入るべき方々は全員法廷に入る事ができました。ご協力くださった皆様、本当にありがとうございます。
さて、法廷は、被告側の、我が方への反論から始まりました。後にホームページに資料としてアップしておきますが、そのすべてがすでに当方弁護士によって詳細に検討され、何ら有効性を持たない反論でした。彼らはこの準備書面を6月2日に提出しました。よってそこの書かれていることのすべてを詳細に、同じ法廷でただちに論破されるとは予想できなかったものと思えます。
我が弁護団は今回6名の弁護士(松本、徳永、中村、岩原、大村、木地の各氏)が出廷し、被告側は3人名です。準備書面の朗読を徳永信一弁護士と中村正彦弁護士が連続して行いました。中村弁護士はこれが大法廷デビューの新進気鋭の弁護士です。被告側弁護士たちの朗読が弱気を感じさせる小さな声だったのに比べ、徳永、中村両弁護士は、傍聴席の誰にも聞こえる声量、自信のある声音で、完膚無きまで、その日提出された被告の反論をただちに論破してしまい、中村弁護士の朗読が終わると傍聴席から一斉に拍手が起こりました。
今回の法廷は裁判所が我が方に好意的であると感じられることが散見されました。法廷入場の時の係官も、前回我が方が被告側傍聴人に「帽子を取れ」と注意したことがあったからか、帽子を被ったままの傍聴人に、帽子を取るよう、入場の際注意している姿も見受けられました。
今回の裁判は、今も継続中の『靖國訴訟』とは質的に全く異なっています。それは歴史的事実確認のための膨大な資料との格闘を弁護士に強いると言う点なのです。我が事務局の理事吉田氏は関係する膨大な方々との連絡を取り持ち、また、事務局次長 柳原氏が気の遠くなるような量の資料を弁護士の
求めに応じてただちに日本中を探し回って集めてくるだけでなく、自らも研究して新資料を発掘するなどめざましい働きをしてくれています。又、事務局長の白井氏が各種団体への当会の宣伝を相当広げ、着実にその成果を上げています。それらが重なって、皆様のご協力が得られ、総合的に弁護師団をサポートできている事が、今回の大きな飛躍を勝ち取れた一因であると思います。
今回、6月2日に被告代理人が提出した我が方への反論準備書面を、9日当日に完全に論破してしまうために、我が弁護師団は、すでに準備していた膨大な準備書面を、数日間でほとんど全面的に書き直しました。正確な情報に基づく徹底的な事実の検証を我が方はすでに終えているので、このようにただちに反論できたのです。
被告の反論を完全に論破しただけでなく『百人斬り訴訟』の流れを変えうる論拠を提出したという点で、今回の法廷は歴史的な法廷でした。死者に関する事実の発表が「歴史的事実」に関するものである場合は、「一見して明白に虚偽」もしくは「全くの虚偽」でなければ名誉を毀損したことにはならないという『百人斬り訴訟』での基準の立て方は一見もっともらしく聞こえても、その実は虚偽の言論を養護し、虚偽の反日的歴史認識を法廷においても温存させようとする苦し紛れの思考から出てきた言い回しであり、裁判官の保身のための詭弁であると私には思われます。お互いの立論をつぶし合うまでの議論を重ねて、我が弁護団が到達した結論は、『百人斬り訴訟』裁判官の解釈は、刑法の解釈と矛盾しているという事でした。
刑法においても、死者に対する名誉毀損という罪がありますが、その条文でも「虚偽の事実を摘示する」ことが直ちに違法になるということになっていて、「一見して明白に虚偽」とか「全くの虚偽」などということは求められていません。民事の事件でそのような厳格な基準を用いることは、刑法に表れた法秩序とも整合しないのです。(この部分、準備書面のまま。別便でお送りする準備書面本文を必ずお読みください、)
知ってしまえば、コロンブスの卵のような「発見」ですが、決定的であり、この訴訟だけでなく、『百人斬り訴訟』に決定的影響を及ぼすと思われます。
裁判が終わって、いつもの通り、梅澤さん、赤松さんを囲んで、中之島中央公会堂で報告集会を開きました。多数の支援者にお集まりいただき、まことにありがとうございました。新資料や、情報をその場で提供してくださった方々もあり、同志の団結力を高めた非常に充実した集会でした。
 深見敏正裁判長の「いつの時点から違法になると考えられるのか原告で検討、主張せよ」との訴訟指揮に我が弁護団は明快な資料を提出するでしょう。
裁判は佳境に入ってきます。
次回第5回口頭弁論は9月1日(金)午後1時30分より。同じく大阪地裁大法廷。傍聴券の抽選は今回と同じく、午後1時よりですので、5分前にお越しください。今回同様、皆様のますますのご支援を賜りますよう、また、引き続き裁判費用のご支援を皆様にお願いいたします。
尚、月刊誌『正論』7月1日発売号(8月号)に『沖縄集団自決冤罪訴訟』に関する徳永弁護士の力作が掲載されます。是非お読みください。今回上記のような理由で全面書き直しに必要が生じ、8日の夜は徳永氏は徹夜で準備書面を仕上げ、裁判に臨みました。
皆様、どうか私どもへの支援を引き続きよろしくおお願い申し上げます。



『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
代表 南木隆治
副代表 黒田秀高、 
事務局長 白井恭二、 
事務局次長 柳原由紀夫、
会計責任理事 吉田康彦、  
理事 山本明・中村元三・行岡豊、  
監査 椿原泰夫、
顧問 藤岡信勝・岩田義泰・上杉千年・皆本義博・中村粲

協力団体 自由主義史観研究会 昭和史研究所 靖国応援団 大阪の教育を正す府民の会 関西戦中派の会 大和心のつどひ 宗教教育研究会 大阪読書研究会 新樹会大阪 関西自由主義史観研究会 大阪教育連盟 大阪ビジョンの会、 日本をよくする大阪の会、新しい歴史教科書をつくる会大阪

当会ホームページアドレス http://blog.zaq.ne.jp/osjes
事務局〒569-0855 大阪府高槻市7-55-107吉田方『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
TEL 072-695-4512    FAX 072-695-5919
原告訴訟代理人(弁護士)目録 松本藤一、稲田朋美、・永信一、本多重夫、大村昌志、木地晴子、高池勝彦、青山定聖、荒木田修、猪野愈、岩原義則、氏原瑞穂、内田智、小沢俊夫、勝俣幸洋、神崎敬直、木村眞敏、田中平八、田中禎人、田辺善彦、玉置健、中條嘉則、中島繁樹 中島修三、二村豈則、馬場正裕、 羽原真二、浜田正夫、原洋司、藤野義昭、三ツ角直正、牧野芳樹、森統一、濱田剛史、中村正彦

この裁判は皆様の支援金によってのみ支えられています。
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』郵便振替口座

00900−6−316826
2006年6月10日 04時39分 | 記事へ |
2006年03月26日(日)
『沖縄集団自決冤罪訴訟』第3回口頭弁論の報告
『沖縄集団自決冤罪訴訟』第3回口頭弁論(平成18年3月24日)の報告
                         

    『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』代表 南木隆治

平成18年3月24日午後1時30分より大阪地裁大法廷で『沖縄集団自決冤罪訴訟』第3回口頭弁論がありました。
今回、皆様方から前回以上のご支援を賜り、大変盛り上がった裁判となりました。
皆様に深く御礼を申し上げます。

今回傍聴席獲得のために並んだ人の数は前回を上回っており、また、若い学生さんや、ジャーナリスト志望の皆さん、多数の友好団体の皆さんも来てくださり、開廷前から裁判所前では同志の会話が弾みました。さらに今回は、『大阪靖國訴訟』等各地の靖國裁判を立ち上げた左派活動家の姿もちらほら見られたことが興味深かったです。

傍聴席は満席で裁判が始まりました。
今回、原告代理人弁護士として当方より出廷したのは松本藤一、・永信一、大村昌志、木地晴子、岩原義則、の5名の弁護士でした。原告準備書面(2)要旨をお読みください。今回は大村昌志、木地晴子の両名の弁護士が、その全文を法廷で朗読しました。
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/17/

また、この元となる原告準備書面は徳永弁護士渾身の力作で、1冊の小冊子になるほどの分量の準備書面です。

http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page022.html

大村昌志弁護士、木地晴子弁護士のお二人とも当会としては初めての法廷デビューでした。

大村弁護士は準備書面前半を、木地弁護士は後半を朗読しました。
大村弁護士は大変よく通る声で、又木地弁護士はやや関西風のアクセントで書面を朗読し、裁判官にも、傍聴席にも非常に良い、品格のある弁護団の印象を与えたと思います。

裁判終了後、前回と同じく、場所を移して、報告会、検討会を行いました。梅澤さん、赤松さんはもちろんのこと、梅澤さんの奥様、赤松さんの姪御様も前回に引き続きご参加くださり、今回は梅澤さんご自身も沢山お話になり、会場の時間いっぱい夕方まで熱心な議論や、報告が続きました。

皆様。ご多忙のところ、多数ご参集くださり、まことにありがとうございました。

次回第4回口頭弁論は6月9日金曜日、
場所は同じく大阪地方裁判所大法廷です。
開廷は午後1時30分。
傍聴券抽選は午後1時です。(時間厳守)

一人でも多くの支援者に傍聴していただくことが重要です。是非皆様のご協力をお願いいたします。

また、裁判継続に必要な精神的、物質的支援を是非多数の皆様に賜りますよう、重ねてよろしくお願い申し上げます。この裁判は皆様の支援金によってのみ支えられています。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』郵便振替口座

00900−6−316826

http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page019.html

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』代表 南木隆治
副代表 黒田秀高、 事務局長 白井恭二、 事務局次長 柳原由紀夫、会計責任理事 吉田康彦、  
理事 山本明・中村元三・行岡豊、  
監査 椿原泰夫、
顧問 藤岡信勝・岩田義泰・上杉千年・皆本義博・中村粲
協力団体 自由主義史観研究会 昭和史研究所 靖国応援団 大阪の教育を正す府民の会 関西戦中派の会 大和心のつどひ 宗教教育研究会 大阪読書研究会 新樹会大阪 関西自由主義史観研究会 大阪教育連盟 大阪ビジョンの会 日本をよくする大阪の会、新しい歴史教科書をつくる会大阪

当会ホームページアドレス 
http://blog.zaq.ne.jp/osjes

事務局〒569-0855 大阪府高槻市7-55-107吉田方
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

TEL 072-695-4512   
FAX 072-695-5919

原告訴訟代理人(弁護士)目録 
松本藤一、稲田朋美、・永信一、本多重夫、大村昌志、木地晴子、高池勝彦、青山定聖、荒木田修、猪野愈、岩原義則、氏原瑞穂、内田智、小沢俊夫、勝俣幸洋、神崎敬直、木村眞敏、田中平八、田中禎人、田辺善彦、玉置健、中條嘉則、中島繁樹 中島修三、二村豈則、馬場正裕、 羽原真二、浜田正夫、原洋司、藤野義昭、三ツ角直正、牧野芳樹、森統一、濱田剛史、
中村正彦              
2006年3月26日 05時28分 | 記事へ |
平成18年3月24日沖縄集団自決冤罪訴訟第3回口頭弁論 原告準備書面(2)要旨
平成18年3月24日 沖縄集団自決冤罪訴訟 第3回口頭弁論 原告準備書面(2)要旨

これは実際に 法廷で、 大村昌史弁護士、木地晴子弁護士 が読み上げ、朗読したものです。


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原告準備書面(2)要旨  
                                          
     弁護士徳永信一   弁護士 大村昌史   弁護士 木地晴子
                             
1 今回の準備書面では、本件訴訟の最大の争点である本件各書籍、すなわち家永三郎著「太平洋戦争」、岩波新書「沖縄問題二十年」、同じく岩波新書で被告大江健三郎が著した「沖縄ノート」に記述され、引用されている沖縄県慶良間列島で生じた集団自決が「軍命令で強制された」という神話、すなわち、座間味島の集団自決は梅澤隊長の命令によるものであり、渡嘉敷島の集団自決は赤松大尉の命令によるものであるという《隊長命令説》が果たして真実か否かという問題を扱っています。       
2 座間味島の守備隊長だった梅澤元少佐は、集団自決はなかったと明言しています。梅澤さんによれば、アメリカ軍の上陸を目前に控えた3月25日、軍の陣地を訪れた宮平盛秀助役ら5人が「いよいよ最後のときが来ました。老幼婦女子は、予ての決心のとおり、軍の足手纏にならぬ様、又食糧をのこすため自決します。」といい自決のための爆裂または手榴弾、実弾を求めたのに対し、「決して自決するでない。共に頑張りましょう」といい、毅然として断ったといいます。            
  にもかかわらず、沖縄タイムス社の『鉄の暴風』や座間味村が厚生省に提出した『座間味戦記』に梅澤隊長の命令が記載されたことから、長らくこれが歴史の通説となりました。しかし、やがて、真実が世に表れるときがきました。       
3 最初に真実を報じたのは、昭和60年7月30日付神戸新聞でした。「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望のふちにたたされた島民
たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道しました。そこには軍陣地を訪ねた5人のうちの唯一の生き残りである宮城初枝の「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」という証言が掲載されています。こうした動きのもと、「沖縄県史」の解説文で《梅澤命令説》を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、「紀要」に梅澤隊長の手記を掲載したうえ、梅澤命令説の根拠となった手記「血塗られた座間味島」を書いた宮城初枝が、「真相は梅澤氏の手記のとおりであると言明している」と記述し、実質的に県史を修正している。その後、昭和61年6月6日付神戸新聞は、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」との見出しを掲げ、大城主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」というコメントを掲載しています。
 4 続く、昭和62年には、座間味村役場の宮村幸延元援護係が真実を証言した。遺族会の会長でもあった宮村幸延は、「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任兼村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。」とし、命令を発した宮里元助役の「弟である宮村幸延が遺族補償のためやむをえず隊長命令として申請した」ことを証した親書を梅澤さんに手渡したのです。昭和62年4月18日付神戸新聞は、「命令者は助役だった」「遺族補償得るため『隊長命』に」の見出しを上げ、宮村幸延の「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を拡大解釈することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」と苦しい胸のうちを吐露するコメントを掲載しました。   
 5 そして平成12年には、軍陣地を訪ねた5人の島民の唯一の生き残りであり、集団自決の語り部をつとめていた宮城初枝から手渡された手記をもとに、その長女宮城晴美が著述した『母が遺したもの』が発行されました。そこには、心ならずも梅澤命令説を認める発言をしてしまったこと、その虚偽を書いた手記を月刊誌『家の光』の懸賞論文に投稿し入賞したこと、梅澤命令説が独り歩きをはじめ、長く良心の呵責に苦しんでいたこと、最後に梅澤少佐に会って謝罪した経緯等が詳細に記載されていました。昭和32年4月、座間味村で実施された厚生省の調査で、「役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自らかたることはせず、投げかけられる質問の一つひとつに、『はい、いいえ』で答えた。そして厚生省の役人からの『住民は隊長命令で自決したと言っているが、そうか』という内容の問いに宮城初枝は『はい』と答えたという。」宮城晴美は、このときの証言などをもとに、厚生省に提出された『座間味戦記』がまとめられ、これを引用して作成した手記『血塗られた座間味島』が月刊誌『家の光』に掲載された経過を記述しています。そして、ついに昭和52年3月26日宮城初枝は、著者に対し、「悲劇の座間味島」で書いた集団自決命令は、梅澤隊長ではなかった。でもどうしても隊長の命令だとかかなければならなかった」と語ったのでした。その後、昭和65年12月、宮城初枝は梅澤さんとホテルのロビーで再開します。宮城初枝は、梅澤氏に「どうしてもはなしたいことがあります」といって役場職員ら5人で隊長の元に伺ったときの話をはじめ、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」といい、「ほんとうですか」と大きく目を見開いた梅澤さんに「そうで」とはっきり答えると、梅澤さんは、その両手で宮城初枝の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからずに「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言い続け、やがて嗚咽し、「男泣き」に泣いたということでした。その後、宮城初枝から「援護法」の適用のためにやむをえず梅澤さんを悪者にしたことの経緯を告白された梅澤さんは「島の人を助けるためでしたら、私が悪者になるのはかまいません。私の家族に真実が伝われば十分です」といったといいます。梅澤さんは、「沖縄ノート」をはじめとする無責任な書物で描かれたような自らの生き残りのために村民に集団自決を命じた極悪非道の卑劣漢などではなく、戦後も島民のため、自ら犠牲を引き受ける「武士道精神」を発揮した「大和魂」の持ち主であり続けたのでした。 
 6 渡嘉敷島における集団自決が軍命令による強制であったとする《赤松大尉命令説》も『鉄の暴風』や『沖縄県史』に記述されたことで長らく通説とされてきましたが、座間味島の《梅澤命令説》と同じく虚偽であったことが明らかになっています。 
   赤松大尉を悪の権化のように書いた戦後ジャーナリズムの先鋒の一人であった大江健三郎の『沖縄ノート』は、赤松命令説を前提として「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」などと記述して赤松大尉を口を極めて誹謗していますが、これを読んで集団自決事件に興味をもった作家・曽野綾子が徹底した取材と史料分析をもとに昭和48年に著した『ある神話の背景』は、赤松命令説が全く証拠に基づかない虚構であることを白日の下にしました。  
 7 『ある神話の背景』のなかで、曽野綾子は、渡嘉敷島の自決命令について、その発令、伝達、受領の過程を追い、そのいずれも証拠を欠いた幻であることを見事に論証しています。発令者とされた赤松大尉はこれを明確に否定していますし、赤松大尉の傍らにあった副官の知念元少尉は『鉄の暴風』では、将校会議で集団自決が決定されたのをきいたとき「悲憤のあまり、慟哭した」と記述されているが、県史の手記でも「赤松隊長は、村民に自決者が生じたという報告を受けてはやまったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。私は赤松の側近の一人ですから赤松隊長から私を素通りしていかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なんて私はきいたこともみたこともありません。」とこれを明白に否定しています。そして伝達者とされた安里喜順もこれを否定し、むしろ赤松大尉が「あんたらは非戦闘員だから、いきられる限り生きてくれ」といわれたことを証言しているのです。そして、赤松命令説を主張していた古波蔵村長は、自決命令をいつ誰から受け取ったかどうかについては曖昧な供述を繰り返すばかりで、軍命令の存在を明らかにすることがありませんでした。
   そしてまた、『ある神話の背景』は、赤松部隊からは、自決に失敗した渡嘉敷島民を救護するため、衛生兵が派遣されているという事実を明らかにしています。赤松大尉が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明のつかないことです。
渡嘉敷村資料館には今でも赤松大尉の恩賜の時計と浮田堅太郎軍医の聴診器が記念品として飾られています。この事実は、多くの島民が赤松命令説が虚偽だということを知っていることをあらわしているのだと思われます。
 8 『ある神話の背景』が発行された後、渡嘉敷島での赤松大尉の自決命令はなかったとの評価が定着しています。沖縄県史を編纂した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、『沖縄戦を考える』のなかで、「赤松隊長以下元隊員たちの証言を付き合わせて自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については、今のところ曽野説をくつがえすだけの反証はできていない」としました。
9 そして座間味島の集団自決における《梅澤命令説》を事実として記載しているためこの訴訟の対象とした家永三郎著『太平洋戦争』は、初版本で渡嘉敷島での集団自決について赤松大尉命令説を記述していたのを、昭和61年の第2版の発行にあたり、赤松隊長の自決命令を含む渡嘉敷島の記載を完全に削除しました。このことは、著者家永三郎と岩波書店が赤松隊長の自決命令を虚偽であると認識していた何よりの証拠であります。
10 最後に集団自決に及んだ島民たちの心情について、島民たちの供述から拾った事実に触れておきたいと思います。
   沖縄県史第10巻には沢山の島民たちの手記ないし供述が収められています。
   座間味村慶良間の大城昌子は『自決から捕虜へ』のなかで、次のように述べています。
    「前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。
米軍の上陸後二時間程経った午後十時頃、追いつめられ一か所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。数時間前までだれ一人として想像もできなかった事が、 わずかの時間でやってのけられたのです。
私は父と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、捕虜となってしまいました。これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未遂のため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し分けなさでどうすればいいのか全くわからず、最後の「忠誠」である「死」までうばわれてしまった米軍がにくらしくて、力があるなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。
米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。それに対して、敵につれていかれる我が身を考えると情けなくて、りっぱに死んでいった人々の姿を見る度に自責にかられるため、しまいには、死人にしっとすら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました。」
11 座間味村字座間味の宮里美恵子は『座間味の集団自決』のなかで集団自決の心理を次のように述べています。
「阿佐道の方に出てみると、艦砲射撃が激しいので、私達は伏せながら歩き続け、やっと忠魂碑前にたどりつきました。しかし、そこには私の家族の他に、校長先生とその奥さん、それに別の一家族いるだけで他にだれも見当たりません。死ににきたつもりのものが、人が少ないのと、まっ赤な火が近くを飛んで行くのとで不安を覚え、死ぬのがこわくなってきました。
ほんとに不思議なものです。『死』そのものは何もこわくないのです。けれども、自分たちだけ弾にあたって『死ぬ』という事と、みんな一緒に自ら手を下して『死ぬ』という事とは、言葉の上では同じ『死』を意味しても、気持ちの上では全く別のものでした。その気持ちはうまく言えません。
 ‥‥
私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引きうけてくれ、身支度を整えるよういいつけました。「天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え、「死ぬ気持ちを惜しまないでりっぱに死んでいきましょう。」と言ってから、一人の年輩の女の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぽうに手りゅう弾を投げつけました。その中の二コが一人の若い女の先生と女の子にあたり、先生は即死で、女の子は重傷を負いました。
12  渡嘉敷島での集団自決の当事者であり、目撃者であった渡嘉敷村阿波連の金城ナヘは、その供述録『集団自決とそのあと』の中で、敵米軍の侵攻という特殊状況下における人間の心理と集団自決の実際を如実に物語っています。
   大粒の雨が、私たちの行く手をさえぎっていましたが、今、目の前に浮いている山のような黒い軍艦から鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱めると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。 
   私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。上空には飛行機が飛び交い、こんな大勢の人なので、それと察知したのか、迫撃砲が、次第次第に、こちらに近づいてくるように、こだまする爆発音が、大きくなってきていました。
   村長の音どで天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。 
   防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。
   とうとう、この若者は手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのかー、殺してー」とわめいていました。 
   その時、私には「殺してー」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるような共感の気持ちでした。
    意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった‥‥。
13 集団自決命令の神話を流布し定着させたのは、なんだったのでしょうか。人間は、たとえば軍の命令など外部的な要因がなければ自決などするわけがないという平和な時代の安直な思い込みが原因ではないかと思っています。そして、この「軍命令による強制」という安直な図式は、かえって沖縄戦における集団自決の真実から目をそらせることになったのではないでしょうか。大江健三郎の「沖縄ノート」は、まさしく、「軍命令による強制」「残虐な日本軍」という安直な図式に安座し、いささかもこれを反省しようとしなかった戦後のありかたを象徴しているように思われます。    
  日本人が戦後の図式による呪縛から解かれ、真実と日本人の本来の姿に目覚めるためにも、この裁判を通じて沖縄戦の真実が明らかにされることを心から望んでいます。そして、日本人として、今一度、当時の誇り高き日本人の心について考えてみてほしいと思います。 
 
2006年3月26日 04時04分 | 記事へ |
2006年03月25日(土)
第3回口頭弁論原告準備書面(全文)
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page022.html

沖縄集団自決冤罪訴訟
第3回口頭弁論
平成18年3月24日
大阪地方裁判所大法廷
原告準備書面


長大な準備書面を徳永弁護士が作成してくれました。
このブログに掲載しきれないので、私(南木)のホームページにリンクを張ってあります。上記アドレスをご覧ください。このブログ掲載の「準備書面要旨」と併せてご覧ください。
2006年3月25日 09時05分 | 記事へ |
第3回口頭弁論(平成18.3.24)原告準備書面(1)要旨
原告準備書面(1)要旨

                           弁護士 徳永信一
  
1 本件訴訟の争点は、被告代理人による先程の陳述からもうかがえるように、家永三郎著「太平洋戦争」の記述における歴史的事実の評価・論評、大江健三郎著「沖縄ノート」の記述における匿名性の有無、「沖縄問題二十年」の除斥期間、そして死者の名誉毀損等の判断基準など多岐にわたりますが、なんといっても主たる中心的な争点が、「真実はなんだったのか」というところにあることは明らかであります。本件訴訟が対象としているこれら書籍が依拠してきた今から約60年前、太平洋戦争末期の沖縄戦中に発生した住民集団自決という悲劇が、座間味島の元守備隊長だった原告梅澤少佐と、渡嘉敷島の元守備隊長であった原告赤松さんの兄・赤松大尉が、出した自決命令によるものであったという風説、それが、果たして事実に基づくものであるかどうかというところにあります。 

この点、私たちは、2人の作家、歴史研究家が著述した重要な著作の存在を指摘しておきたい。ひとつは、1973年に発行された曽野綾子氏の「ある神話の背景」、もうひとつは2000年に発行された宮城晴美氏の「母が遺してくれたもの」です。
渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の命令によるものだったとする〈赤松命令説〉の根拠を徹底的に調査検討して「ある神話の背景」を出版した曽野綾子氏は、平成12年の第34回司法制度改革審議会において次のように語っています。
   
これほど激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決命令を出した、という証言は、ついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。
 
「母が遺してくれたもの」は、座間味島の集団自決が原告梅澤少佐の命令によるものだという神話の根拠とされてきた宮城初枝氏の証言が、援護法の適用を受けるために事実を改変したものであったことを、その宮城初枝氏本人が娘である著者に告白したことを公表した書籍です。その一節を紹介すると、 

「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。 母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。 島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。 それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。
  
 この二人の著作によって、慶良間列島での集団自決が、梅澤少佐と赤松大尉の命令によって強制されたという巨悪の神話は、完全に覆ったといってよいでしょう。
 
2 さて、曽野綾子氏は、先程の司法改革審議会において、続けて次のように述べておられます。

 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまだ沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかったと言っていません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていないというだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた文書が出てくるかれ知れないではないですか」と答えたのを覚えております。しかし、こういう風評をもとに「罪の巨魁」という神の視点に立って断罪した人もいたのです。それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました。
  
ここで赤松大尉を「神の視点に立って断罪」したとされているのが、「沖縄ノート」を書いた被告の大江健三郎氏であることは、少しでも沖縄戦の歴史に関心を持つものにとっては明らかなことでしょう。   
  
ところが、驚いたことに、大江健三郎氏は、この裁判では、「沖縄ノート」の表現は匿名であって、赤松大尉の実名を出さずに「渡嘉敷島の元守備隊長」としているのだから、名誉毀損は成立しないという論法をとりました。 しかし、被告らが援用する昭和31年の最高裁判決がいう「一般の読者の普通の注意と読み方」という基準は、ある表現が名誉を毀損するかどうかということに関する判断基準であり、ここで問題とされている「匿名性」の有無、すなわち、著述された登場人物が誰なのかという「同定可能性」の問題、あるいは、特定情報の共有者の広がりにかかる「公然性」といった次元の異なる事柄を敢えて混同するものであり、そのことは、作家・柳美里氏の小説「石に泳ぐ魚」にかかる名誉毀損が争われた事件の判決が、本件被告らと全く同じ主張をしていた作家と新潮社の主張を退け、最高裁で維持されていることからも明らかです。
       
表現の「同定可能性」の判断は、共同通信北朝鮮スパイ報道事件判決が示した基準、すなわち、原則として「その表現自体から表現対象が明らかであることを要する」としても、「当該報表現以外の実名報道等が多数に上り、国民の多くが当該事件にかかわる人物の実名を認識した後は、・・・多くの実名報道と同じものだと容易に判明する態様での匿名表現は、匿名性を実質的に失う」という基準においてなされるべきなのです。

被告らが要旨を朗読した準備書面(1)においても、赤松大尉が集団自決を命じたことを記載した多数の書籍が発行されていたことがあげられています。さらに、「沖縄ノート」にも取り上げられている赤松大尉が渡嘉敷島での慰霊際出席を阻止された事件を、多数の新聞、週刊誌、グラフ誌が実名報道していることからすれば、「沖縄ノート」の匿名性はもとから失われており、そこで大江健三郎氏がその内面の領域にまで立ち入って描いた若干25歳の「元守備隊長」が赤松大尉であったことを、多くの読者と国民が了解していることは、被告らがなんと言おうと否定しようのない事実なのです。

3 さて、被告らは、死者の名誉毀損に関し、「一見明白で虚偽であるにもかかわらずあえて適示したこと」を要するという主張をしています。  
死者の名誉毀損や歴史的事実の論評に対して適用されるべき違法性判断の基準のありようについては、追って徹底的に反論する予定ですが、ここでは、重大な視点をひとつ指摘しておきたいと思います。  
それは、「沖縄ノート」も「沖縄問題二十年」も、赤松大尉の生前に著述され、曽野綾子氏の「ある神話の背景」の出版によって、その虚偽性が濃厚ないし決定的になった状況のなかでも、出版・販売が続けられ、もって生前の赤松大尉の名誉を毀損し、その生活を破壊し、筆舌に尽くし難い苦痛を押しつけてきたということです。  
「沖縄ノート」は、単に死者の事跡や歴史を論じたものではありません。生身の人間として生活していた赤松大尉の人格評価をその内面にまで立ち入って徹底攻撃する、まさに「人間の立場を超えたリンチ」でした。 
それがどのようなものであれ、死者に対する名誉毀損ないし歴史的事実にかかわる表現に係る違法性判断の「緩和された」基準を適用することが許されないことは、人間の条理に照らし明らかです。 
  
4 この裁判で責任を追及している岩波現代文庫の「太平洋戦争」は教科書裁判で有名な家永三郎氏の著作です。 
   この「太平洋戦争」は、初版にあった渡嘉敷島での赤松大尉による集団自決命令の記述を第二版から削除し、沖縄戦の集団自決については、梅澤少佐が命令したとする座間味島でのものだけを掲載しています。
   被告らの今回の準備書面では、なんと第二版が出版された1986年当時、梅澤少佐の命令で座間味島での集団自決が生じたという《梅澤命令説》が歴史的事実として承認されていたという驚くべき主張がなされています。そうであれば、教科書裁判の過程において根拠を失ったために、第二版から削除された《赤松大尉命令説》は、それが歴史的事実ではないことが承認されたことになりましょう。 
   また、既に述べたように、座間味島の集団自決における《梅澤命令説》が虚偽であったことは、現在、歴史的事実として確定しています。  
そして「太平洋戦争 第二版」が出版された1986年においても、既に複数の関係者の否定証言から梅澤命令説は疑問視されており、沖縄県でも通史の見直しがなされていることが報道されています。岩波現代文庫の「太平洋戦争」が出版された2002年には、宮城晴美著「母の遺したもの」(2000年12月発行)の出版により、「梅澤命令説」の虚偽性は決定的になっていました。この時期に、敢えてこれを出版した岩波書店の行為は、まさしく「歴史の捏造・歪曲」にほかならず、真実を重んじるべき出版社の社会的使命にもとるものといわなければなりません。 

5 《梅澤少佐命令説》の怪しさは、被告らが真実性の有力な根拠として挙げている沖縄タイムス社出版にかかる『鉄の暴風』の記述からも明らかです。 
その初版本には、次のような一節がありました。

「日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三ヶ所で歩哨戦を演じたことはあつたが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」

不明死を遂げたとされた原告梅澤は生きており、本件訴訟を提起しています。この事実は、曽野綾子氏が批判したように、「鉄の暴風」が、住民に対する直接の取材もなしに、根拠のない風聞に基づいてなされ、その後一人歩きして「神話」をつくっていったことを如実に示しています。

6 最後に「沖縄問題二十年」に関する被告らの仮定的主張、すなわち、それが1974年に出庫停止になっており、すでに20年の除斥期間が経過したという主張に対する反論を申し上げます。
 まず、2002年に「太平洋戦争」を文庫化したことにみられる岩波書店の「歴史の捏造・歪曲」に向けられた出版姿勢に照らすと、今後の「沖縄問題二十年」復刊のおそれは否定できないのであり、出版停止命令等の必要性は優に認められるというべきです。
 そして、「沖縄問題二十年」の出版・販売による加害行為は、出庫停止後も古本市場での流通、図書館等での閲覧という形で現在も継続されており、岩波書店は、その回収等によりこれを停止するという条理に基づく義務を有しているにもかかわらず、これを放置しています。この不作為による加害行為という視点を没却した岩波書店の除斥期間に係る主張は全く失当であります。 
  
7 原告らは、次回以降、「ある神話の背景」等に基づいて渡嘉敷島、座間味島での集団自決が赤松大尉、梅澤少佐の命令によるものだとする「神話」が全く根拠のないものであったことを、さらに補充して論証する予定ですが、それに先立ち、被告らの加害行為とそれによる人権侵害の甚だしさを明確にするべく、岩波書店に対し、本件各書籍の各版、各刷毎の発行年月日、発行部数等について明らかするよう求めます。   
                                   以上
            
2006年3月25日 06時38分 | 記事へ |
2006年01月27日(金)
沖縄集団自決冤罪訴訟第2回口頭弁論の報告
沖縄集団自決冤罪訴訟第2回口頭弁論(平成18年1月27日)の速報

 本日、沖縄集団自決冤罪訴訟第2回口頭弁論が大阪地裁大法廷であり、傍聴人の抽選が行われ、法廷はほぼ満席の状態で裁判が始まった。
 傍聴人の90パーセント程度が我が方の支持者であったと思われる。また、どちらを支持するか明確でないかもしれない、若い学生風の方も散見され、当裁判が徐々に注目度を増している事が感じられた。
 前回は被告側(岩波書店、大江健三郎)の代理人弁護士が出廷せず、我が方の一方的な陳述で裁判が終わった。今回初めて被告席に3人の弁護士が着いたので、原告、被告の双方が揃っての最初の裁判である。
 我が方は、松本、徳永、大村、岩原、木地の5名の弁護士と、原告の梅澤さん、赤松さんが原告席に着いた。
 被告側の言い分を完膚無きまでに論破した当方弁護士の準備書面要旨を、以下に速報の形で報道する。これは実際に全文、徳永弁護士が法廷で読み上げたものである。
 
 裁判が終わってから、梅澤さん、赤松さんの支援をしてくださる方々で、報告会を持ち、50名以上の方が参加してくださった。弁護士の報告、説明のあと、多くの方の質問、発言があり、非常に充実した報告会となった。
 新しい出会いや、交流もあり、さらに支援の輪が広がった。
 皆様。本日、ご多忙のところ、多数ご参集くださり、まことにありがとうございました。 

追って、もう少し詳しい報道をいたします。
次回の期日は3月24日(金)午後1時30分より。本日と同じく、大阪地裁大法廷。傍聴券の抽選は午後1時の予定である。               
             南木隆治
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件  
原 告  梅澤  裕 外1名
被 告  大江健三郎 外1名 


原告準備書面(1)要旨

                           弁護士 徳永信一
  
1 本件訴訟の争点は、被告代理人による先程の陳述からもうかがえるように、家永三郎著「太平洋戦争」の記述における歴史的事実の評価・論評、大江健三郎著「沖縄ノート」の記述における匿名性の有無、「沖縄問題二十年」の除斥期間、そして死者の名誉毀損等の判断基準など多岐にわたりますが、なんといっても主たる中心的な争点が、「真実はなんだったのか」というところにあることは明らかであります。本件訴訟が対象としているこれら書籍が依拠してきた今から約60年前、太平洋戦争末期の沖縄戦中に発生した住民集団自決という悲劇が、座間味島の元守備隊長だった原告梅澤少佐と、渡嘉敷島の元守備隊長であった原告赤松さんの兄・赤松大尉が、出した自決命令によるものであったという風説、それが、果たして事実に基づくものであるかどうかというところにあります。 

この点、私たちは、2人の作家、歴史研究家が著述した重要な著作の存在を指摘しておきたい。ひとつは、1973年に発行された曽野綾子氏の「ある神話の背景」、もうひとつは2000年に発行された宮城晴美氏の「母が遺してくれたもの」です。
渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の命令によるものだったとする〈赤松命令説〉の根拠を徹底的に調査検討して「ある神話の背景」を出版した曽野綾子氏は、平成12年の第34回司法制度改革審議会において次のように語っています。
   
これほど激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決命令を出した、という証言は、ついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。
 
「母が遺してくれたもの」は、座間味島の集団自決が原告梅澤少佐の命令によるものだという神話の根拠とされてきた宮城初枝氏の証言が、援護法の適用を受けるために事実を改変したものであったことを、その宮城初枝氏本人が娘である著者に告白したことを公表した書籍です。その一節を紹介すると、 

「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。 母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほ
とんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。
島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。
それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。
  
 この二人の著作によって、慶良間列島での集団自決が、梅澤少佐と赤松大尉の命令によって強制されたという巨悪の神話は、完全に覆ったといってよいでしょう。
 
2 さて、曽野綾子氏は、先程の司法改革審議会において、続けて次のように述べておられます。

 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまだ沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかったと言っていません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていないというだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた文書が出てくるかれ知れないではないですか」と答えたのを覚えております。しかし、こういう風評をもとに「罪の巨魁」という神の視点に立って断罪した人もいたのです。それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました。
  
ここで赤松大尉を「神の視点に立って断罪」したとされているのが、「沖縄ノート」を書いた被告の大江健三郎氏であることは、少しでも沖縄戦の歴史に関心を持つものにとっては明らかなことでしょう。     ところが、驚いたことに、大江健三郎氏は、この裁判では、「沖縄ノート」の表現は匿名であって、赤松大尉の実名を出さずに「渡嘉敷島の元守備隊長」としているのだから、名誉毀損は成立しないという論法をとりました。 しかし、被告らが援用する昭和31年の最高裁判決がいう「一般の読者の普通の注意と読み方」という基準は、ある表現が名誉を毀損するかどうかということに関する判断基準であり、ここで問題とされている「匿名性」の有無、すなわち、著述された登場人物が誰なのかという「同定可能性」の問題、あるいは、特定情報の共有者の広がりにかかる「公然性」といった次元の異なる事柄を敢えて混同するものであり、そのことは、作家・柳美里氏の小説「石に泳ぐ魚」にかかる名誉毀損が争われた事件の判決が、本件被告らと全く同じ主張をしていた作家と新潮社の主張を退け、最高裁で維持されていることからも明らかです。       
表現の「同定可能性」の判断は、共同通信北朝鮮スパイ報道事件判決が示した基準、すなわち、原則として「その表現自体から表現対象が明らかであることを要する」としても、「当該報表現以外の実名報道等が多数に上り、国民の多くが当該事件にかかわる人物の実名を認識した後は、・・・多くの実名報道と同じものだと容易に判明する態様での匿名表現は、匿名性を実質的に失う」という基準においてなされるべきなのです。被告らが要旨を朗読した準備書面(1)においても、赤松大尉が集団自決を命じたことを記載した多数の書籍が発行されていたことがあげられています。さらに、「沖縄ノート」にも取り上げられている赤松大尉が渡嘉敷島での慰霊際出席を阻止された事件を、多数の新聞、週刊誌、グラフ誌が実名報道していることからすれば、「沖縄ノート」の匿名性はもとから失われており、そこで大江健三郎氏がその内面の領域にまで立ち入って描いた若干25歳の「元守備隊長」が赤松大尉であったことを、多くの読者と国民が了解していることは、被告らがなんと言おうと否定しようのない事実なのです。

3 さて、被告らは、死者の名誉毀損に関し、「一見明白で虚偽であるにもかかわらずあえて適示したこと」を要するという主張をしています。死者の名誉毀損や歴史的事実の論評に対して適用されるべき違法性判断の基準のありようについては、追って徹底的に反論する予定ですが、ここでは、重大な視点をひとつ指摘しておきたいと思います。  
それは、「沖縄ノート」も「沖縄問題二十年」も、赤松大尉の生前に著述され、曽野綾子氏の「ある神話の背景」の出版によって、その虚偽性が濃厚ないし決定的になった状況のなかでも、出版・販売が続けられ、もって生前の赤松大尉の名誉を毀損し、その生活を破壊し、筆舌に尽くし難い苦痛を押しつけてきたということです。
「沖縄ノート」は、単に死者の事跡や歴史を論じたものではありません。生身の人間として生活していた赤松大尉の人格評価をその内面にまで立ち入って徹底攻撃する、まさに「人間の立場を超えたリンチ」でした。 それがどのようなものであれ、死者に対する名誉毀損ないし歴史的事実にかかわる表現に係る違法性判断の「緩和された」基準を適用することが許されないことは、人間の条理に照らし明らかです。   

4 この裁判で責任を追及している岩波現代文庫の「太平洋戦争」は教科書裁判で有名な家永三郎氏の著作です。    
この「太平洋戦争」は、初版にあった渡嘉敷島での赤松大尉による集団自決命令の記述を第二版から削除し、沖縄戦の集団自決については、梅澤少佐が命令したとする座間味島でのものだけを掲載しています。   
被告らの今回の準備書面では、なんと第二版が出版された1986年当時、梅澤少佐の命令で座間味島での集団自決が生じたという《梅澤命令説》が歴史的事実として承認されていたという驚くべき主張がなされています。そうであれば、教科書裁判の過程において根拠を失ったために、第二版から削除された《赤松大尉命令説》は、それが歴史的事実ではないことが承認されたことになりましょう。    
また、既に述べたように、座間味島の集団自決における《梅澤命令説》が虚偽であったことは、現在、歴史的事実として確定しています。  
そして「太平洋戦争 第二版」が出版された1986年においても、既に複数の関係者の否定証言から梅澤命令説は疑問視されており、沖縄県でも通史の見直しがなされていることが報道されています。岩波現代文庫の「太平洋戦争」が出版された2002年には、宮城晴美著「母の遺したもの」(2000年12月発行)の出版により、「梅澤命令説」の虚偽性は決定的になっていました。この時期に、敢えてこれを出版した岩波書店の行為は、まさしく「歴史の捏造・歪曲」にほかならず、真実を重んじるべき出版社の社会的使命にもとるものといわなければなりません。 

5 《梅澤少佐命令説》の怪しさは、被告らが真実性の有力な根拠として挙げている沖縄タイムス社出版にかかる『鉄の暴風』の記述からも明らかです。 
その初版本には、次のような一節がありました。「日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三ヶ所で歩哨戦を演じたことはあつたが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」不明死を遂げたとされた原告梅澤は生きており、本件訴訟を提起しています。この事実は、曽野綾子氏が批判したように、「鉄の暴風」が、住民に対する直接の取材もなしに、根拠のない風聞に基づいてなされ、その後一人歩きして「神話」をつくっていったことを如実に示しています。

6 最後に「沖縄問題二十年」に関する被告らの仮定的主張、すなわち、それが1974年に出庫停止になっており、すでに20年の除斥期間が経過したという主張に対する反論を申し上げます。 
まず、2002年に「太平洋戦争」を文庫化したことにみられる岩波書店の「歴史の捏造・歪曲」に向けられた出版姿勢に照らすと、今後の「沖縄問題二十年」復刊のおそれは否定できないのであり、出版停止命令等の必要性は優に認められるというべきです。 
そして、「沖縄問題二十年」の出版・販売による加害行為は、出庫停止後も古本市場での流通、図書館等での閲覧という形で現在も継続されており、岩波書店は、その回収等によりこれを停止するという条理に基づく義務を有しているにもかかわらず、これを放置しています。この不作為による加害行為という視点を没却した岩波書店の除斥期間に係る主張は全く失当であります。   

7 原告らは、次回以降、「ある神話の背景」等に基づいて渡嘉敷島、座間味島での集団自決が赤松大尉、梅澤少佐の命令によるものだとする「神話」が全く根拠のないものであったことを、さらに補充して論証する予定ですが、それに先立ち、被告らの加害行為とそれによる人権侵害の甚だしさを明確にするべく、岩波書店に対し、本件各書籍の各版、各刷毎の発行年月日、発行部数等について明らかするよう求めます。                                      以上
2006年1月27日 20時48分 | 記事へ |
2005年10月31日(月)
沖縄集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論の報告
沖縄集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論(平成17年10月28日)の報告  
                 南木隆治

この日、午後1時半から裁判であったが、私ども『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』のメンバーと弁護士は梅澤さん、赤松さんを囲んで、裁判所近くで集まって、裁判の準備に余念がなかった。
 1時になり、傍聴券の抽選となったが、80席近くある大法廷の傍聴席に対して、抽選開始時刻で集まったのは40名程度(我が方30名程度、残り10名程度は初めて見る顔)しかおらず、結局無抽選で、全員傍聴できることになった 。今回は、岩波書店側は被告も代理人弁護士も来ておらず、準備ができていないとのことで、我が方の一方的な申し立てとなった。よって被告側傍聴人も非常に少なかった。(今後この裁判を世間に知らせ、皆様の一段のご協力をいただきたいと南木は切にお願いします。)
 裁判官は 端二三彦裁判長、島田佳子裁判官、本松智裁判官 である。
 最初なので裁判名を書いておく。
平成17(ワ)第7696号
第1回弁論 出版差し止め等。 原告 梅澤裕 他。 被告 株式会社岩波書店 他。

 裁判が始まる頃には傍聴席もさらに埋まり傍聴人は約60名近くになった。
 さて、裁判の中身に入る前に、我が方の弁護団について、皆様に紹介しておきたい。ご存じの通り、『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』は『靖國応援団』の延長上に結成されたが、『靖國応援団』では徳永信一、稲田朋美(今回衆議院議員に当選)、松本藤一の3弁護士だけだったのが、ホームページを見ていただけばお分かりのように、今回はなんと34名で10倍以上の成長率である。会社だったら株価は10倍以上になって良いところである。そういうわけで、岩波書店と、大江健三郎が何人の弁護団を組むのか分からないが、自らの役割に国家を支える真のエリートとしての責任感と自覚を持って参加してくれた我が弁護団を打ち破ることはそう簡単にはできないであろう。今回裁判に実際に参加し、法廷に入ったのは松本藤一(弁護団長)、徳永信一弁護士の他に、岩原義則、大村昌史、木地晴子、本多重夫、そして東京から駆けつけてくれた高池勝彦の計7名の弁護士である。
 このほかこの日は 原告梅沢裕・元少佐(88)には奥様が、同じく原告故赤松嘉次・元大尉の弟 赤松秀一氏(72)には姪御様が同伴され、支援する我々に更なる勇気をを与えてくださった。
 まず、松本弁護士が裁判進行について裁判長に説明し、次に訴状を岩原弁護士が読み上げた。最初岩原弁護士は大法廷での朗読は初めてだそうで、声が小さかったが、後半声はよく通るようになった。若い岩原弁護士はこれがデビュー戦である。私たちの運動はこうして若い弁護士を国家の礎となるようなリーダーに育て上げてゆくところにもあるのだ。次に梅澤さんが戦後60年の今、汚名に泣いてきた私の戦後の歩みを裁判官様に分かっていただきたいとしっかりした声で切々と訴えた。次に赤松氏が意見陳述書を朗読し、最後に松本弁護士がマイクなしで、法廷の傍聴席の最後列までよく響く声で『原告弁護団意見陳述書』を朗読した。この報告書と、ホームーページにその全文を記載する。
 法廷は被告側が完全に空席のまま、進行した。我が方は裁判官から見て右翼に陣取り、原告として裁判を進める事が(当たり前の事だが)『靖國応援団』としての3年間の補助参加に比べてどれほどやりやすいかを事務局、弁護士、支援者一同感じ取っていた。何しろこの間まで、周到な準備をしても、前日に却下され(いわば不意打ちのKOパンチを喰らい)、それでも必死の思いで立ち上がってもう一度裁判当日の朝に補助参加人を立てても、それをまた情け容赦なく却下され、弁護士すら法廷から追い出されていたのだ。そのような理不尽に耐え、裁判闘争を続けた経験はしかし無駄ではなかった。ボロボロのサンドバック状態を体験したのちに、今や10倍以上の規模に再編成された我が弁護士の軍団に勝てるものたちがいるのか。その弁護士たちは、今や、徳永氏も,松本氏も論壇にデビューし、稲田氏は衆議院議員になった。しかも法務委員である。私はこの救国の弁護団が、日本を隈無く覆い尽くした戦後の閉ざされた被植民地的言語空間を法廷で打ち破り、日本再生への強力な機動部隊となってくれる事を確信している。人々は得体の知れないものたちが、ノーベル賞作家や、岩波書店を相手に勝てるものかと思っているだろう。今に見ているが良い。誰が本当のことを言っていたのか、誰が嘘を言って国民をだまし続けていたのか、白日の下にさらされる日は近い。我々は巨大な嘘で固めた言語空間の中に閉じこめられてきたのである。ついにその言語空間が崩壊する日が数えられはじめたのである。我々は歴史を作っているのだという自覚の中にある。
 大成功のうちに裁判は終わった。次回期日は平成18年1月27日(金)午後1時30分である。被告代理人弁護士からは簡単な答弁書は裁判所に提出されているが、訴えに関する調査が済んでいない等の理由で裁判の準備が整わず、被告側代理人は出廷できる状態ではないとのことである。そこで最後に徳永弁護士が裁判長に、梅澤さんの年齢のことにも触れ、いたずらに裁判を引き延ばすことなく、速やかに審理を進めていただきたい旨を訴え、裁判長はそれを受諾した。裁判長より、次回期日に先立って、原告、被告の両弁護士と裁判進行についての進行協議をしたいと提言があり、それは12月15日と決まった。おおむね3裁判官とも、真摯な態度で我が弁護士、および梅澤、赤松両氏の陳述を聞いてくださっているとの良い印象を受けた。大変な裁判を担当しているという裁判官の緊張感も傍聴席で感得された。
 
 裁判の後すぐに裁判所記者クラブで記者会見を開いた。靖國訴訟の時と同じように、ほぼ全社が取材されたと思う。また、当裁判所記者クラブ会員ではないが、沖縄タイムズが取材を希望されたのを当方が受諾したので、同社から2名の記者が出席して、熱心に取材された。どのような記事が掲載されたか見てみたいところである。
 徳永弁護士は事実の検証なしに展開されている戦後の言語空間とは何かを記者の皆さんにも考えていただきたいと訴え、原告 梅澤、赤松両氏の名誉を回復することがもちろんこの裁判の目的であるが、それは同時にこうして裁判に訴えなければ戦後の「閉ざされた言語空間」は打破できないのかという問いかけでもあると語った。「大江さんに来てもらいたいですか」と記者のの問いには、『もちろんですが、すでに大江氏は朝日新聞に、裁判に出て中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫したいと言っているので、是非それを聞いてみたい。そして大江健三郎の「良心」を法廷で見てみたい』と答えた。 

 さて、裁判の報告会を南森町のトーコーホテルに場所を移して行った。裁判に出ておられなかった方の参加や、チャンネルさくらの取材もあり、約50名程度で借りていた部屋はちょうどいっぱいになった。
 私が冒頭挨拶し、松本弁護士、徳永弁護士、梅澤さん、赤松さん、岩原弁護士、大村弁護士、また、私から事務局のメンバーを紹介し、さらに司会の吉田氏から、チャンネルさくら様と同放送の支援者様、及び駆けつけてくださった兵庫県会議員 和田有一朗先生の紹介があった。裁判所にも、報告会会場にも大学生、大学院生などの若い方の参加も多く、この裁判の影響が世代を超えた広範な広がりを今後持ちうる事が予感された。
 次回1月27日に向けて、今後周到に準備と、情報収集に努めるが、皆様方からの情報が有れば、何でも結構ですのでお送りください。すでに多くの方から支援の振り込みもいただいており、深く感謝申し上げます。次回は一人でも多くの方に裁判所まで足を運んでいただけると幸いです。大江健三郎ご本人に是非出廷していただきたいものです。

資料は『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/1
に掲載してありますので、いつでもごらんになれます。


以下のサイトからトラックバックをいただいておりましたのでこちらに掲載させていただきました。
沖縄集団自決命令に関して 2005年10月15日 23時15分 by BUTTERFLY BALL

集団自決強要の虚偽について。

以下、沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会ブログ...

沖縄集団自決命令に関して
http://blog.livedoor.jp/one_fire_ball/archives/50127270.html
BUTTERFLY BALL

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2005年10月31日 05時33分 | 記事へ |
原告弁護団意見陳述書
原告弁護団意見陳述書(沖縄集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論)(平成17年10月28日)
弁 護 士 松本藤一

1.今回の訴訟について弁護団を代表して意見を陳述します。
すぐる沖縄戦では慶良間列島で多くの死者が出、集団自決もありました。軍のせいだとか、戦傷病者戦没者等の援護のために部隊長命令による自決として申請がされたりし、マスコミにより激しい報道合戦がありました。
そもそも問題の発端は慶良間列島の座間味島と渡嘉敷島の集団自決で果たして部隊長の自決命令があったのか否かです。部隊長の自決命令がなかったことは既に明らかになっております。
座間味島の梅澤元隊長には昭和57年に生き残りの女子青年団長宮平(改正後宮城)
初枝氏みずからが、隊長命令などなかった、戦傷病者戦死者の遺族の援護申請のために集団自決の隊長命令があったと虚偽の申請をした。申し訳ありませんと詫びを入れている事実があり、さらに昭和62年には座間味村の援護担当として活動した宮村幸延氏が隊長命令による集団自決と虚偽の事実を記載して援護申請をしたと詫び状を入れております。渡嘉敷島の赤松部隊については、曽野綾子氏の「ある神話の背景」などで詳細な考証が試みられ、赤松隊長の自決命令が無かったことは今や否定できない事実として受けとめられております。
2.部隊長命令がなかったことは明らかになっているにもかかわらず、事実を調査することもなく、マスコミは未だ隊長命令があったかのように虚偽を押し通し、虚偽が明らかになったと見るや、ある者は「軍命令はなかったが、住民の気持ちはじわじわと戦争に向けられていた」とか「国のために死を強制した皇民教育が問題である」などと争点ずらしを図り、虚偽による深刻な名誉毀損を現在も押し進めております。
マスコミの梅澤、赤松両元隊長に対する誹謗中傷は激しく、報道・言論に名を借りた社会的屠殺行為といっても過言ではないものであり、マスコミの責任は重大であり、部隊長命令による集団自決という虚偽が訂正される必要があります。
3.この間、ノーベル賞作家である被告大江健三郎氏が1970年に出した沖縄ノートは既に49版を数え、この35年の間に虚偽を訂正するに十分な時間も機会もあったにもかかわらず執拗極まりない虚偽記載による名誉毀損が続けられてきました。両名の名誉に対する打撃と、影響は絶大なものといえます。出版した岩波書店にしても同様であります。家永三郎氏の「太平洋戦争」第2刷に至ってはこれらが虚偽であることがいまや明らかになって数十年も経過した2003年に出版されております。
4.両元隊長は悲惨な座間味、渡嘉敷両島の村民の復興を衷心より願うあまり、汚名を忍ぶしかないかと思ったこともありましたが、集団自決の隊長命令がなかったことが一般の評価となった後も、集団自決を命じた隊長というマスコミ報道は続けられ、汚名は雪がれないままでした。汚名を着たまま死ねないと思いながらも、赤松隊長はその願いを果たす機会もないまま昭和55年に亡くなりました。原告赤松秀一氏は兄の汚名を雪ぐべく立ち上がりました。
5.原告梅澤裕元隊長は既に満88才であり、12月21日には89才になんなんとしております。汚名を雪がなければ、自らの終戦はないと決意して今回の訴訟提起に至りました。原告らのこれまでの労苦の数々と高齢を考えれば、特に迅速な審理を裁判所に要請するものであります。
原告が求めている中心論点は「集団自決に部隊長命令があったか否かであります。」
平成17年10月28日

                           弁 護 士  松本藤一
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2005年10月31日 05時29分 | 記事へ |
原告 梅澤裕 意見陳述書
意 見 陳 述 書 沖縄集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論(平成17年10月28日)

一、 梅澤裕でございます。現在、満八八歳になります。
 座間味島島民の集団自決は私の命令によるものと報道されて以来、今日に至るまで、約半世紀にわたり、汚名に泣き、苦しんで参りました。
 それら辛酸の数々と、この裁判に賭ける思いを、裁判官様に是非ともご理解戴きたく、この場をお借りして意見を述べさせて戴きます。
二、 戦時中、私は、当初、昭和一四年九月から騎兵、戦車兵として従軍して参りましたが、昭和一九年一月、船舶兵への転科の命を受けました。
瀬戸内で夜間の猛訓練の後、同年九月、海上挺進第一戦隊の長となり、座間味島に入りました。
 座間味島の人達は、当時沖縄で最も愛国的な村民で、誠心誠意の人達でありました。皆 一致団結して軍に協力して戴いたので、私達も大いに感謝し、私以下部隊は親睦に留意し、非違行為は一件もありませんでした。
昭和一九年一○月に座間味島で空襲があり、兵舎として使用していた学校が焼失し、我 々が座間味村落内に舎営し分散した際も、老人婦人方には若い兵を息子の様に大事にして戴き、双方より食料を分かち合い、甘味品を分け合いました。
この空襲の際に優秀な鰹舟が煙を発したのを見て、隊員は危険の中を飛び込み消し止めました。之も村民に対する感謝の気持の現れに他なりません。座間味島の人達との関係は、極めて良好なものでした。

三、 昭和二○年三月二三日、沖縄本島に先がけ座間味島に米軍の空襲が始まりました。翌二四日に猛爆が始まり、二五日は戦艦級以下大艦隊が海峡に侵入し、爆撃と艦砲射撃で島は鳴動しました。このとき壕に隠していた特攻用の舟艇は殆ど破壊されてしまいました。
問題の日は翌三月二五日のことです。夜一○時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の
幹部が五名来訪して来ました。助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎、校長玉城政助、吏員宮平恵達、女子青年団長宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。
その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
1、いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。
2、老幼婦女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決
します。
3、就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂
させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。
その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であった
のかと。昭和一九年一一月三日に那覇の波の上宮で県知事以下各町村の幹部らが集結して県民決起大会が開かれ、男子は最後の一人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです。
私は五人に、毅然として答えました。
1、決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこ たえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。
2、弾薬、爆薬は渡せない。
折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、五人は帰って行きました。
四、 終戦後、私は鹿児島の疎開先にて療養に励みましたが、座間味島の戦闘で受けた骨髄炎 の傷が癒えませんでした。左膝が曲がらなかったため、尻をついて鍬を使い、畑を耕しておりました。
五、ところが昭和三三年頃、週刊誌に慶良間諸島の集団自決が写真入りで載り、座間味島の梅澤少佐が島民に自決命令を出したと報じられました。
私は愕然たる思いに我を失いました。そして一体どうして、このような嘘が世間に報じ
られるのかと思いました。
たちまち我が家は、どん底の状態となりました。人の顔を見ることが辛い状態となりま
した。実際に勤めていた職場にいずらくて仕事を辞める寸前の心境にまで追い込まれましたし、妻や二人の息子にも世間の目に気兼ねした肩身の狭い思いをさせる中で生きることになりました。
六、 以後、沖縄返還問題に絡め、集団自決の問題はマスコミの格好の標的とされました。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで、ありもしなかった「自決命令」のことが堂々と報
じられるとは、一体どうしたことか。座間味島の人達と励まし合いながら、お国の為に戦って来たのに、どうして事実が捻じ曲げられて報じられるのか。どうしてそのようなことが許されるのか。
余りの屈辱と、辛さと、理不尽さに、人間不信に陥りました。孤独の中で、人生の終わ
りを感じたことすらありました。
七、しかし、昭和五七年六月二三日に「ざまみ会一同地蔵尊建立慰霊祭」が座間味村で行なわれた際に、私は昭和二○年三月二五日に私を訪ねた五人のたった一人の生き残りであった宮城初枝さんから「戦傷病者戦没者遺族援護の申請の際に、梅澤隊長の自決命令があったと記載しましたが、それは事実ではなく梅澤隊長は自決命令を出しておりません。申し訳ありません」と詫びて貰いました。
さらに昭和六二年三月二八日には自決した宮里盛秀氏の実弟で座間味村の戦傷病者戦没者遺族の援護を担当した宮村幸延氏からは援護申請のために梅沢隊長の自決命令があったと虚偽を記載して申請したことを、申し訳ありませんと詫びの念書を貰いました。
これで、世間もおさまってくれるだろうし、座間味の人の苦労を考えると補償が得られ
、助かり、沖縄が復興するのであるから私一人が悪者になったことも意味があったかとも思いました。
ところが私に対する事実に反する誹謗中傷はなお、やまないままでありました。
沖縄が復興し、皆が豊かになった今は私の名誉を回復したいとの思いが日々強くなりま
したが、一人ではいかんとも出来ない状態でした。
八、 しかしながら、長年の思いが実り、様々な方のご支援とご協力を得、この度ようやくこの場に立たせて頂くことが出来ました。
戦後六○年が経ち、日本は平和を取り戻しました。しかしながら、真実に反する報道が続いている限り、私自身に終戦は訪れません。理不尽なことに沈黙したまま、名誉を汚され続けた状態で人生を終えることは、正に痛恨の極みという他ないのです。
私は沖縄の復興を衷心より願っておりますが、沖縄が復興し、豊かになった今、私の名誉回復を果たし、一刻も早く心の平穏を取り戻し、日本国民と同じ心境で、今日の平和のありがたさを心から享受したいと切に願っています。
どうか私の長年の思いをご理解戴き、踏みにじられて来た私の名誉が回復出来ますよう、切にお願い申し上げます。
平成一七年一○月二八日

梅   澤     裕
2005年10月31日 02時34分 | 記事へ |
原 告 赤松秀一 意 見 陳 述 書
意 見 陳 述 書
沖縄集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論(平成17年10月28日)

             原 告 赤松秀一

沖縄戦当時、25歳で元海上挺身第三戦隊の隊長を務め、特攻断念ののち、渡嘉敷島の死守を命じられた赤松嘉次大尉の弟の秀一です。

 そもそもの事の起こりは、沖縄タイムスからの昭和二十五年に出版された『鉄の暴風』によって兄が『神話的大悪人』に仕立て上げられました。当時は終戦間も無いドサクサの時期で、渡嘉敷島に渡ることすら出来ない中、直接関係のない証言者からの聞き取りを元に米軍の占領下にあった沖縄の風潮にあわせてでっち上げられたものです。これが一人歩きしまして昭和三十四年には時事通信社から沖縄タイムスの編集長上地一史氏が『沖縄戦史』、続いて岩波書店から中野好夫氏の『沖縄問題二十年』家永三郎氏の『太平洋戦争』などが何れも『鉄の暴風』の孫引きで出版されましたが、当時は兄や家族に対する批判はそれほどひどいものではありませんでした。

沖縄返還(昭和四十七年)を目前にした四十五年三月末、兄は渡嘉敷村長はじめ村民の招きを受けて『集団自決二十五回忌の慰霊祭』に参加する為、戦友の方々と共に沖縄に渡りましたが、兄は独り労働組合、反戦団体などの抗議集団に取り囲まれて渡嘉敷島に渡ることが出来ず、翌日船をチャーターして花束を贈るという事件が起こりました。これを、全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて兄の悪評が一気に広がりました。大江健三郎氏の『沖縄ノート』は、この風潮に便乗するが如く、その年の九月に岩波書店から出版されました。その中で兄は住民に集団自決を命令した悪の権化であると決めつけられただけでなく、嘘と自己欺瞞を繰り返す恥知らずな人間として描かれました。

一方、「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神のごとき裁きの口調に恐怖を感じ」、そこに描かれた神話的大悪人の話に疑問を抱かれた曽野綾子氏は、九月に行われた慰霊祭参加報告会を皮切りに多くの関係者に積極的かつ精力的に取材され、関連文献を調査されてついに四十八年五月、『ある神話の背景 沖縄渡嘉敷島の集団自決』を出版され、兄の戦隊が特攻に出撃しながったのは兄の上官である大町船団長の命令であること、軍からは自決命令は出ていないこと、軍は島民の食糧は徴発していないことなど細部に至るまで検証されており、この本が兄や家族をはじめ戦隊の方々の大きな心の支えになったことと思います。

私自身も新聞、雑誌があまりにも書きたてるので或るいはと疑いを持ったこともありましたが、お蔭で兄への信頼感は揺るぎないものなりました。悪評を書いた著者もこの本を読んで誤りに気づきおいおい廃刊に至るであろう、これで一件落着と思っておりましたが、五十五年には兄も亡くなり、『ある神話の背景』が絶版となった後も岩波書店では『沖縄ノート』などは現在に至るまで版を重ねてたいした修正もなされずに出版されていることを最近になって教えられました。また学校の歴史の教科書にまで『軍命令で集団自決』と書かれていることを知りました。

本土防衛の犠牲となった多くの沖縄の方々のためならと、汚名を忍ぶことで年金が給付されるならと、敢えて沈黙を守った兄の気高い心情が踏みにじられていると感じました。名状し難い心の痛みとともに、虚偽がまかりとおる今の世の中に対して強い怒りを覚えました。 
兄の無念を晴らし、後の世に正しい歴史を伝える為にもと今回の提訴を決意しました。
裁判所におかれましては、この想いを受け止めて下さり、公正迅速な審理を遂行していただけますよう、心からお願い申し上げる次第です。

       平成17年10月28日

                 赤松秀一
2005年10月31日 02時26分 | 記事へ |
産経新聞10月29日(土)朝刊社会面
産経新聞10月29日(土)朝刊社会面(大阪では31面)

<旧日本軍名誉毀損訴訟  元少佐、改めて自決命令否定
 旧日本軍の梅澤裕・元少佐(88歳)と故赤松嘉次・元大尉の弟、秀一(72歳)が、昭和20年の沖縄戦のさなか、座間味島と渡嘉敷島で住民に集団自決を命令したとする誤った記述で名誉を傷つけられたとして、岩波書店とノーベル賞作家の大江健三郎に計二千万円の損害賠償や謝罪広告の掲載などを求めた訴訟の第一回口頭弁論が二十八日、大阪地裁(端二三彦裁判長)であった。
 梅沢元少佐は意見陳述で、「昭和五十七年に座間味村の女性から『遺族援護の申請の際に自決命令があったと記載したが事実でない。申し訳ありません』とわびてもらった」と改めて自決命令の事実を否定。「真実に反する報道が続いている限り、私に終戦は訪れません」と訴えた。
 赤松さんは「兄の無念を晴らし、正しい歴史を伝えるために提訴を決意した」と述べた。>
2005年10月31日 02時19分 | 記事へ |
2005年08月06日(土)
訴    状
訴    状
        
               平成17年8月5日                 
大阪地方裁判所 御 中


         原告訴訟代理人
              弁 護 士   松  本  藤  一

              弁 護 士   稲  田  朋  美

              弁 護 士   ・  永  信  一

  別紙原告訴訟代理人目録記載のとおり


謝罪広告等請求事件

訴訟物の価額   金 32,552,000円
   貼用印紙額    金    119,000円
   予納郵券     金      6,900円


 当事者の表示  別紙当事者目録のとおり


請 求 の 趣 旨

1 被告株式会社岩波書店は、別紙一記載の書籍(「太平洋戦争」)、別紙二記載の書籍(「沖縄問題二十年」)及び別紙三記載の書籍(「沖縄ノート」)を出版、販売又は頒布してはならない。
2(1) 被告株式会社岩波書店及び被告大江健三郎は、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞及び日本経済新聞の各全国版に、別紙四記載の謝罪広告を別紙四記載の掲載条件にて各1回掲載せよ。
 (2) 被告株式会社岩波書店は、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞及び日本経済新聞の各全国版に別紙五記載の謝罪広告を別紙五記載の掲載条件にて、別紙六記載の謝罪広告を別紙六記載の掲載条件にて各一回掲載せよ。
3(1) 被告株式会社岩波書店は、原告らに対し、各金1000万円及びこれに対する本訴状送達の日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 (2) 被告大江健三郎は、原告らに対し、各金500万円及びこれに対する本訴状送達の日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決並びに第3項につき仮執行の宣言を求める。


請 求 の 原 因

第1 当事者
1 原告梅澤裕(大正5年12月21日生)(以下「原告梅澤」又は「原告梅澤少佐」という)は、第二次世界大戦中の沖縄戦において米軍が最初に上陸した慶良間列島の座間味島で第1戦隊長として米軍と戦った陸軍士官学校(52期)出身の元少佐である。
2 原告赤松秀一(以下「原告赤松」という)は、同じ沖縄戦において慶良間列
島の渡嘉敷島で第3戦隊長として米と戦った陸軍士官学校(53期)出身の元大尉である故赤松嘉次(大正9年4月20日生・昭和55年1月13日死亡)(以下「赤松大尉」という)の弟である。
3 被告株式会社岩波書店(以下「被告岩波書店」という)は、1913年創業
の各種図書の出版と販売等を業とする会社であり、別紙一、二、三記載の書籍
(以下「本件書籍一」「本件書籍二」「本件書籍三」、又は、「太平洋戦争」、「沖縄問題二十年」、「沖縄ノート」という)の出版を行っている。 
4 被告大江健三郎(以下「被告大江」という)は、文学賞である芥川賞、ノー
ベル文学賞を受賞した作家であり、日本文芸家協会及び日本ペンクラブの理事であり、本件書籍三「沖縄ノート」の著者である。

第2 沖縄戦と座間味島・渡嘉敷島における集団自決
1 昭和16年12月に日本軍の真珠湾攻撃で始まった大東亜戦争は、昭和17年6月のミッドウエー海戦を機に日本軍が劣勢となり、昭和19年6月米軍がサイパン島に上陸した。日本軍がサイパン島を喪失すれば、米軍の長距離爆撃機による日本本土の直接爆撃を可能とすることから、島を守るために激しい戦闘が繰り広げられたが、昭和19年7月サイパン島は陥落した。昭和19年10月、フイリピンでのレイテ作戦が遂行され日本軍の反撃が試みられたが、昭和20年2月には遂に米軍の硫黄島上陸を許し、次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態にあった。
2 昭和19年3月南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第32軍が編成され、サ
イパン陥落前後の同年6月頃から実戦部隊が沖縄に駐屯を開始し、同年10月頃までに沖縄に配備された守備軍は第9師団(満州の牡丹江から編入した部隊)、第24師団(満州の旭川第7師団を編成替えした北海道出身者中心の部隊)、第62師団(華北で編成され、京漢作戦などに参加した近畿・北陸出身者中心の部隊)、独立混成第44旅団、砲兵部隊、海軍の沖縄方面根拠地隊などであった。これら沖縄守備軍・第32軍は「球部隊」(たまぶたい)と呼ばれていた。
3 昭和20年3月23日から沖縄は米軍の激しい空襲にみまわれ、24日からは艦砲射撃も加わった。米軍の最初の目標は、沖縄本島の西55キロメートルに位置する慶良間諸島の確保であった。慶良間海峡は島々によって各方向の風を防ぎ、補給をする船舶にとっては最適の投錨地であった。
米軍の慶良間諸島攻撃部隊はアンドリュー・D・ブルース少将の率いる第77歩兵旅団であり、空母の護衛のもと上陸用舟艇で上陸作戦にのぞんだ。作戦の狙いは沖縄本島総攻撃に備え、水上機基地と艦隊投錨地の確保と神山島を占領し、沖縄上陸の援護砲撃をすることであった。
4 慶良間列島には座間味島、渡嘉敷島、阿嘉島などがある。昭和19年9月、
座間味島には原告梅澤少佐が指揮する海上挺進隊第1戦隊が、阿嘉島と慶留間島には野田義彦少佐の指揮する海上挺進隊第2戦隊が配備されていた。そして渡嘉敷島には赤松大尉が指揮する海上挺進隊第3戦隊が配備された。海上挺進隊はベニヤ板製の小型舟艇に120キログラム(3秒瞬発信管使用)の爆雷2個を装着し、速力20ノットで、敵艦隊に体当たり攻撃して自爆することが計画された海の特別攻撃隊である。しかし、結局、出撃の機会はなく舟艇を自沈させた後は、海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。
5 原告梅澤少佐の守備する座間味島と、赤松大尉の守備する渡嘉敷島で米軍の
攻撃を受けた昭和20年3月25日から28日にかけてそれぞれ座間味島の村民及び渡嘉敷島の村民の多くが集団自決による凄惨な最後を遂げた。

第3 本件各書籍における原告梅澤・赤松大尉による集団自決命令の記述   
本件書籍一「太平洋戦争」と本件書籍三「沖縄ノート」は、下記のとおり、原告梅澤少佐が座間味島で自決命令を出して多くの村民を集団自決させたと記述しており、本件書籍二「沖縄問題二十年」と本件書籍三「沖縄ノート」は、下記のとおり、赤松大尉が渡嘉敷島で自決命令を出して多くの村民を集団自決させたと記載している。
これらの書籍は、広く公衆の読書・閲覧に供されているところ、多くの読者は、かかる記述を事実と誤信する結果になっており、もって原告らの名誉は甚だしく毀損され、その人格権は著しく侵害されているのである。  
 1 原告梅澤の集団自決命令の記述     
(1)「太平洋戦争」における集団自決命令に関する事実摘示   
a 本件書籍一「太平洋戦争」は、その300ページ8行目から、「座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。」と記述している。
b 前記記述は、原告梅澤少佐が座間味村民に忠魂碑の前で集団自決を命じ、さらに生き残った島民の食糧をも取り上げ命を奪ったという事実を摘示している。 
  (2)「沖縄ノート」における集団自決命令に関する事実摘示   
a 本件書籍三「沖縄ノート」は、その69ページ10行目から、「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとり自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうであろう」などと記述している。    
   b 思うに、「日本人の軍隊が命じた住民に対する自決」「血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」といった記述からは、座間味島における集団自決命令が座間味島の守備隊長によって出されたことがうかがえるところ、 座間味島の守備隊長が原告梅澤少佐であることは日本の現代史を研究するもの及び原告梅澤少佐を知るものならばだれでも知っている事実である。 
すなわち、本件書籍三「沖縄ノート」の69頁10行目以下の文章は、原告梅澤少佐についてのものであり、原告梅澤少佐が村民に対する集団自決命令を下し、沖縄の民衆の死を「抵当」に生きのび、沖縄に向けてなにひとつ贖っていないという事実の摘示をしたものである。  
2 赤松大尉の「集団自決命令」の記述 
(1)「沖縄問題二十年」の「集団自決命令」に関する事実摘示   
a 本件書籍二「沖縄問題二十年」は、その4ページ13行目から、「だが、立ちあがることもなければ、闘うこともなく、民衆を殺しただけの軍隊もあった。ほとんどすべての沖縄戦記に収録されている、慶良間の赤松隊の話がもっとも顕著な例である。那覇港外に浮かぶ慶良間列島は晴れた日には、琉球大学のある丘から一望のもとに見渡せる美しい島々で、戦前は鹿の住み家として知られていた。この慶良間列島の渡嘉敷島には、赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130名が駐屯していた。この部隊は船舶特攻隊で、小型の舟艇に大型爆弾2個を装備する人間魚雷であった。だが、赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。そして住民約3百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で、『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで闘いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』と主張した」と記述している。
b この記述は、赤松大尉が渡嘉敷島の村民に対して集団自決命令を下し、多くの民衆を殺したという事実の摘示をしたものに他ならない。
(2)「沖縄ノート」の「集団自決命令」に関する事実摘示(その1) 
a 前述したように、本件書籍三「沖縄ノート」は、その69ページ10行目から、「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとり自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうであろう」と記述している。   
b 「日本人の軍隊が命じた住民に対する自決」「血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」という記述からは、渡嘉敷村での集団自決命令が渡嘉敷島の守備隊長から出されたものであることがうかがえるところ、渡嘉敷島の守備隊長が、赤松大尉であったことは現代日本史に詳しい者及び赤松大尉を知る者ならばだれでも知っている事実である。       したがって、本件書籍三「沖縄ノート」の69頁10行目以下の文章は、赤松大尉について言及するものであり、赤松大尉が集団自決命令を下し、沖縄の民衆の死を「抵当」に生きのび、沖縄に向けてなにひとつあがなっていないという事実を摘示するものであることは明らかである。 
(3)「沖縄ノート」の「集団自決命令」に関する事実摘示(その2)  
a 本件書籍三「沖縄ノート」は、その208頁1行目から、「このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民初め数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、『命令された』集団自殺を引き起こす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の深いところを、息も詰まるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かって《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。」と記述している。
b 思うに、「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男」「『命令された』集団自殺を引き起こす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」「戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたと報じた」との記述が、渡嘉敷島の守備隊長であった赤松大尉に関するものことであることは、日本の現代史を研究するもの及び赤松大尉を知るものにとっては明らかであり、したがって上記記述が、赤松大尉が渡嘉敷島村民に対して集団自決命令を下したという事実の摘示、或いは、これに基づく意見論評であることは論を待たない。  
(4)「沖縄ノート」の「集団自決命令」の事実摘示(その3)
a 本件書籍三「沖縄ノート」は、その210頁4行目から、「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうことは、あまりにも巨きい罪の巨塊の前で、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、次第に希薄化する記憶、歪められた記憶に助けられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、1945年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。1945年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、1945年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。本土においてすでに、おりはきたのだ。かれは沖縄において、いつ、そのおりがくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的には追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたちも本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追求の手が27度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。おりがきたら、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ。日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできるのだろう?あの渡嘉敷の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったのではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである」と記述する。
b 思うに、「慶良間の集団自決の責任者も」「渡嘉敷島に乗りこんで」「渡嘉敷島で実際におこったこと」「あの渡嘉敷の『土民』のようにかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だった」という記述が、渡嘉敷島の守備隊長であった赤松大尉のことを指すものであることは、日本の現代史を研究するもの及び赤松大尉を知るものにとっては明らかであり、したがって前記記述は、赤松大尉が渡嘉敷島の村民に対して集団自決命令を下したという事実を摘示し、これに基づいて意見論評するものであることは明らかである。                  
3 本件各書籍の記述による名誉毀損等の不法行為   
以上述べてきたところから明らかなように、本件書籍一「太平洋戦史」、本件書籍二「沖縄問題二十年」、同三「沖縄ノート」を読むものの大多数は、座間味島で集団自決命令を下した守備隊長が原告梅澤少佐であり、渡嘉敷島で集団自決命令を下した守備隊長が赤松大尉であり、両隊長は、そのような残酷な命令を出して無辜の島民の多数を強制的に死なせながら、自らは生き延びた非道で卑劣な人物であると認識することになる。    
本件各書籍における上記各表現が、原告梅澤及び赤松大尉の社会的評価を低下させ、その名誉を毀損するものであることは明らかであり、更には原告赤松も赤松大尉の弟としての立場と宿縁から、その固有の名誉を害されてきたことは疑いを容れる余地がない。    
とりわけ、本件書籍三「沖縄ノート」は、渡嘉敷島の村民集団自決が赤松大尉の命令によるものであると断定的に決めつけたうえ、これを前提にして赤松大尉を「ペテン」「屠殺者」「戦争犯罪人」呼ばわりしたうえ、「ユダヤ人大量殺戮で知られるナチスのアイヒマンと同じく拉致されて沖縄法廷で裁かれて然るべきであったろう」といった最大限の侮蔑を含む人格非難を執拗に繰り返すものであり、しかもそれが高名なノーベル賞作家である被告大江が著述したものであることから、今日でも広く社会に影響を及ぼしており、原告赤松は、かかる赤松大尉の人格を冒涜し尽くす故なき誹謗表現により、実兄である赤松大尉に対して抱いていた人間的な敬愛追慕の情を著しく侵害されたものである。  
本件各書籍における前記各表現が原告らの名誉その他の人格的利益を違法に侵害し、原告らに筆舌に尽くしがたい精神的苦痛を与える不法行為であることは明らかである。

第4 集団自決命令は架空だった    
今日では、座間味島と渡嘉敷島のいずれにおいても、以下のとおり、日本軍による集団自決命令がなかったことが明らかになっている。    
1 原告梅澤少佐による座間味島の集団自決命令について
(1)事実
昭和20年3月25日に米軍の攻撃があった際、座間味村の幹部5人が原告梅澤少佐を訪ね、「集団自決させて欲しい、駄目なら手榴弾が欲しい。小銃があるから実弾を下さい。」と懇願したが、原告梅澤少佐に「生き延びてくれ、弾薬は渡せない」と拒絶された。しかし、村民らは、原告梅澤少佐の説諭にもかかわらず、次々と集団自決を決行し、凄惨な最期を遂げた。
    これが事実である。     
(2)証言者ら 
原告梅澤少佐に弾薬供与を懇願に行った5人のうちで生き残った女子青年団長は、一時期部隊長の集団自決命令があったと証言し、その後、原告梅澤に対し、部隊長の自決命令はなかったと謝罪している。
また、自決した助役の弟は、座間味島の戦没者、自決者の補償交渉に当たる座間味村の担当者となり、原告梅澤少佐による自決命令があったと証言していたが、昭和62年3月28日、座間味島を訪ねた原告梅澤に「勝手に隊長命令による自決とした事はすみませんでした」と謝罪している。   
(3)新聞報道
原告梅澤少佐の集団自決命令については、神戸新聞が昭和60年7月30日、同61年6月6日付紙面で、それが架空のものであったことを報道し、同62年4月18日では「遺族補償を得るために『隊長命令に』」とその真相を報道し、さらに東京新聞は昭和62年4月23日「大戦通史 勇気ある訂正」「弟が証言補償得やすくするため」と報じた。  
2 赤松大尉の集団自決命令と曽野綾子著「ある神話の背景」について  
渡嘉敷島における赤松大尉による集団自決命令があったという世間に流布された風聞に疑問をもった作家・曽野綾子は、現地に足を運び、関係当事者に直接取材するなどの徹底した調査を行い、昭和48年に文芸春秋社から出版された「ある神話の背景」を著述し、赤松大尉による集団自決命令があったことを支持する証拠がないことを明らかにした。
その後、今日に至るまで、赤松大尉による集団自決命令に関わる前記風聞を裏付ける何らの証拠も現れていない。

第5 原告らの蒙った損害とその回復 
   本件書籍一「太平洋戦史」、同三「沖縄ノート」の原告梅澤少佐に関する前記記述は、虚偽の事実を摘示して原告梅澤の社会的評価を著しく低下させ、その名誉を甚だしく毀損し、もって原告梅澤の人格権を侵害し、筆舌に尽くしがたい精神的苦痛を与えた。
本件書籍二「沖縄問題二十年」、同三「沖縄ノート」の赤松大尉に関する記述は、虚偽の事実を摘示して原告赤松の社会的評価を著しく低下させ、その名誉を甚だしく毀損してその人格権を侵害したうえ、原告赤松が実兄・赤松大尉に対して抱いていた人間らしい敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を回復不能なまでに侵害した。
被告岩波書店は本件書籍一、同二、同三の発行者であり、被告大江は本件書籍三「沖縄ノート」の著者であり、共に原告らに対する名誉等の人格権侵害について不法行為責任を負うべきものである。
原告らの名誉回復と精神的苦痛を慰謝するためには、被告同岩波書店は本件各書籍の記述に対して訂正、謝罪広告を掲載し、原告らに慰謝料の支払いをする必要があり、被告大江は本件書籍三「沖縄ノート」の記述に対して訂正、謝罪広告を掲載し、原告らに慰謝料の支払いをする必要がある。
よって、原告らは、人格権(名誉権)に基づき、被告岩波書店に対し請求の趣旨第1項記載の本件書籍一、同二、同三の各出版、販売、頒布の差止めを求めるとともに、民法709条、同719条及び同723条に基づき、原告らの名誉回復の適当な措置として、被告岩波書店と被告大江に対し、請求の趣旨第2項記載の各謝罪広告の掲載を求め、民法709条、同719条及び同710条に基づき、被告岩波書店及び被告大江に対し、請求の趣旨第3項記載の慰謝料の支払い(原告らに対する各金500万円の限度で被告らは共同不法行為に基づく連帯責任)を求めて本訴に及ぶ。


添 付 書 類 

1 除籍謄本                2通
2 商業登記簿謄本              1通
3 上申書                  1通
4 訴訟委任状                2通

以 上










            当事者目録


〒569−1147   大阪府高槻市土室町58番1号
              原   告    梅澤裕                          

〒536−0024   大阪府大阪市城東区中浜3丁目7番4号
              原   告    赤松秀一                          

〒101−8002   東京都千代田区一ツ橋2丁目5番5号
              被   告    株式会社岩波書店                          
            上記代表者代表取締役 山口昭男                          

〒157−0066   東京都世田谷区成城4丁目10番2号
              被   告    大   江   健 三 郎 

    別紙一
               書籍目録一

      題名      太平洋戦争
      著者      家永三郎
      発行者     大塚信一
      発行所     株式会社岩波書店
      発行年月日   2002年7月16日  第1刷発行
              2003年2月14日  第2刷発行
      型式      縦  14.8cm
              横  10.5cm
              ページ 463ページ
      定価      1400円

    別紙二
               書籍目録二

      題名      沖縄問題二十年
      著者      中野好夫,新崎盛暉
      発行者     岩波雄二郎
      発行所     株式会社岩波書店
      発行年月日   1965年6月21日  第1刷発行
      型式      縦   17.5cm
              横   10.5cm
              ページ  227ページ
      定価      150円

    別紙三
               書籍目録三

      題名      沖縄ノート
      著者      大江健三郎
      発行者     山口昭男
      発行所     株式会社岩波書店
      発行年月日   1970年9月21日   第1刷発行
              2004年8月25日   第49刷発行
      型式      縦  17.5cm
              横  10.5cm
              ページ 228ページ
      定価      740円



   別紙四

            謝  罪  広  告

大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波書店刊)において、慶良間列島の
渡嘉敷島と座間味島でいわゆる「部隊長命令で、島民を集団自決させた」ことが真実であり、梅澤裕少佐、赤松嘉次大尉が集団自決命令をくだした旨記載しましたが、これは事実に反するものです。これにより梅澤裕少佐殿及び赤松嘉次大尉の遺族である赤松秀一殿の名誉を著しく毀損したことを認め、深くお詫び申し上げます。
     平成  年  月  日
                         大 江 健 三 郎
                    株式会社 岩波書店                   

     梅 澤  裕  殿
     赤 松 秀 一 殿


     掲載条件
       大きさ   二段抜き
       左右    七センチメートル
       子持掛囲み
       見出し   二倍明朝体
       本文    一倍明朝体
       掲載場所  全国版 朝刊 社会面


 別紙五

            謝  罪  広  告

中野好夫、新崎盛暉著『沖縄問題二十年』おいて、慶良間列島の渡嘉
敷島でいわゆる「部隊長命令で、島民を集団自決させた」ことが真実であり、赤松嘉次大尉が集団自決命令をくだした旨記載しましたが、これは事実に反するものです。これにより赤松嘉次大尉及び遺族である貴殿の名誉を著しく毀損したことを認め、深くお詫び申し上げます。
     平成  年  月  日
                                                         株式会社 岩波書店                   
     赤 松 秀 一 殿


     掲載条件
       大きさ   二段抜き
       左右    七センチメートル
       子持掛囲み
       見出し   二倍明朝体
       本文    一倍明朝体
       掲載場所  全国版 朝刊 社会面


    別紙六

    謝  罪  広  告

家永三郎著『太平洋戦争」(岩波書店刊)において、慶良間列島の座
間味島でいわゆる「部隊長命令で、島民を集団自決させた」ことが真実であり、梅澤裕少佐が集団自決命令をくだした旨記載しましたが、これは事実に反するものです。これにより貴殿の名誉を著しく毀損したことを認め、深くお詫び申し上げます。
平成  年  月  日
             株式会社 岩波書店                   

梅澤裕殿                      



掲載条件
大きさ   二段抜き
左右    七センチメートル
子持掛囲み
見出し   二倍明朝体
本文    一倍明朝体
掲載場所  全国版 朝刊 社会面
2005年8月6日 07時38分 | 記事へ |
『沖縄集団自決冤罪訴訟』原告訴訟代理人目録
         原告訴訟代理人目録

〒541−0041   大阪市中央区北浜2 丁目3 番6 号
           北浜山本ビル3階
           松本藤一法律事務所(送達先)
           弁 護 士  松   本   藤   一

〒530−0047  大阪市北区西天満二丁目6番8号 
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           弁 護 士  稲   田   朋   美

〒530−0054   大阪市北区南森町1丁目3番27号
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            弁 護 士   徳   永   信   一  
      


〒530−0054   大阪市北区南森町2丁目2番9号
南森町八千代ビル8階 本多重夫法律事務所
          弁 護 士  本   多   重   夫

〒530−0054   大阪市北区南森町1丁目3番27号南森町丸井ビル5階  大村法律事務所
          弁 護 士  大   村   昌   史

〒530−0047   大阪市北区西天満4丁目6番3号
             ヴェール中之島北402
          弁 護 士  木   地   晴   子

〒530-0054  大阪市北区南森町2-2-9  南森町八千代ビル10階 濱田剛史法律事務
          弁 護 士   濱   田   剛   史

           

〒102−0093   東京都千代田区平河町二丁目16番5号
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〒860−0078   熊本県熊本市京町2丁目1番17号
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          弁 護 士  青   山   定   聖

〒104−0061   東京都中央区銀座6丁目12番2号
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          弁 護 士  荒   木   田   修

〒604−0804   京都府京都市中京区堺町夷川上る絹屋町131
          弁 護 士  猪     野     愈

〒550−0004   大阪市西区靫本町1丁目10番4号
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          弁 護 士  岩   原   義   則

〒780−0901   高知県高知市上町1丁目8番10号
          弁 護 士  氏   原   瑞   穂

〒100−0006   東京都千代田区有楽町1丁目13番11号
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          弁 護 士  内     田     智

〒183−003    東京都府中市宮町1丁目23番3号
           関口ビル5階     小沢俊夫法律事務所
          弁 護 士  小   沢   俊   夫

〒101−0021   東京都千代田区外神田2丁目18番20号
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          弁 護 士  勝   俣   幸   洋

〒100−0014   東京都千代田区永田町二丁目14番3号
           赤坂東急ビル8階   赤坂山王法律事務所
          弁 護 士  神   崎   敬   直

〒541−0045   大阪市中央区道修町2 丁目2番6 号
           道修町後藤ビル5階  木村眞敏法律事務所
          弁 護 士  木   村   眞   敏

〒105−0004   東京都港区新橋四丁目29番6号
           寺田ビル4階402号室
          弁 護 士  田   中   平   八
〒105−0004   東京都港区新橋4丁目29番6号
           寺田ビル4階402号室
          弁 護 士  田   中   禎   人


〒640−8144   和歌山県和歌山市四番丁26番地の2
           田辺法律事務所
          弁 護 士  田   辺   善   彦

〒640−8117   和歌山県和歌山市南細工町12番地
           玉置・石倉法律特許事務所
          弁 護 士  玉     置     健

〒160−0004   東京都新宿区四谷3丁目8番地
           三井ビル502号   鈴木・中條法律事務所
          弁 護 士  中   條   嘉   則

〒810−0073   福岡市中央区舞鶴三丁目8番1号
           まいづる中央ビル206号 中島法律事務所
          弁 護 士  中   島   繁   樹

〒810−0073   東京都千代田区外神田2丁目18番20号
           ナカウラ第五ビル3階 東京昌平法律事務所
          弁 護 士  中   島   修   三

〒450−0002   名古屋市中村区名駅五丁目3番21号
           いとうビル2階    二村法律事務所
          弁 護 士  二   村   豈   則



〒850−0033   長崎県長崎市万才町10番16号
           川上パーキングビル2階 馬場法律事務所
          弁 護 士  馬   場   正   裕

〒700−0811   岡山県岡山市番町1丁目7番26号
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2005年8月6日 07時28分 | 記事へ |
沖縄集団自決冤罪訴訟訴状 提訴報告:プレスリリース 
沖縄集団自決冤罪訴訟 
大阪地裁平成17年8月5日提訴
(報告 徳永信一弁護士)

0 概要   日米が戦った大東亜戦争の沖縄戦では、「鉄の暴風」と形容される熾烈な戦闘が行なわれたが、戦後、座間味島、渡嘉敷島において多数の村民が守備隊長の命令によって集団自決を強いられたという風聞が流布し、これに基づく新聞・週刊誌等の記述によって、検証のないまま一人歩きし、今日では映画や教科書にまで採用されている。
風聞に基づく報道等により、座間味島の守備隊長だった梅澤少佐と、渡嘉敷島の守備隊長だった赤松大尉は、残虐非道な命令の主であり村民の犠牲により自らは生き延びた卑劣漢だという全くいわれのない非難を浴びてきた。  
  やがてその風聞は曽野綾子の「ある神話の背景」等によって架空であることが明らかになったが、赤松大尉と梅澤少佐が、犠牲となった多くの沖縄村民の補償を有利にするべく公には沈黙してきたこともあって、風聞は消滅しなかった。そして、今日「軍による集団自決命令」の神話が教科書にも掲載される事態を憂い、次世代の子供たちに真実を伝え、歪められた歴史を糺すべく本件訴訟を提起した。
1 当事者  
⑴ 原告 梅澤裕(慶良間列島の座間味島の守備隊長だった元少佐)
      赤松秀一(慶良間列島の渡嘉敷島の守備隊長だった元大尉・赤松嘉次の弟) 
 ⑵ 被告 株式会社岩波書店 大江健三郎 ※広く流布し影響力ある責任ある立場  
2 請求   ⑴ 出版・販売・頒布の停止 ⑵ 謝罪広告 ⑶ 慰謝料1000万円×2
3 対象書籍と対象表現
 ⑴ 書籍1「太平洋戦争」・【座間味島の梅澤隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った】(300頁)
 ⑵ 書籍2「沖縄問題二十年」・【だが立ち上がることもなければ、戦うこともなく、民衆を殺しただけの軍隊もあった。(赤松大尉は)そして住民約300名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。】(4頁)
 ⑶ 書籍3「沖縄ノート」・【慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。・・・渡嘉敷で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえただろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。】(210頁)
4  大江と岩波の偽善と瞞着  真実に対する謙虚さと他者に求める倫理的厳格さを自らも貫いておれば、独断×偏見×傲慢×自閉に基づく誹謗言論による人格的尊厳に対する究極の冒涜と、歴史・真実に対する強姦と背信は回避できたのではないか。
加害者の立場にたった責任ある言論人と出版社としての真摯な対応を希望する。  
           
                              
                     
2005年8月6日 07時12分 | 記事へ |
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』結成。
平成17年8月5日
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』結成。
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page019.html

会長 南木隆治

日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻しましょう。

本日、平成17年8月5日、先の大戦において、沖縄の座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長 梅沢裕・元少佐(88)ご本人と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)が、大江健三郎氏と岩波書店に対し、名誉棄損の謝罪広告等を求めて大阪地裁に訴えを起こされました。

私たちはこの訴えをまったく正当な、勇気ある行動と思います。沖縄戦に関しては、「軍命令」によって集団自決が発生したという過った情報が子供たち対象の書物や、映画、教科書ですでに大量に独り歩きしており、これ以上到底放置できない状況です。今回の裁判は梅澤、赤松両氏の名誉を回復するだけでなく、日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻す国民運動にしなければならないと私たちは考え、ここにこの裁判を『沖縄集団自決冤罪訴訟』と名づけ、これを支援する会を結成いたしました。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』(以下、『支援する会』)は松本藤一、稲田朋美、徳永信一3弁護士が代理人をされる事から、これらの弁護士をご存知の方ならどなたもお分かりのように、事務局は現在活動中の『靖国応援団』の構成をほとんどそのまま引継いでいます。また、更に広範な国民の皆様のご支援をいただけるよう『顧問』を設けました。
 今後、裁判継続に必要な精神的、経済的支援を是非多数の皆様に賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
尚、現在発売中の月刊誌『正論』9月号に、松本藤一弁護士の、本訴訟に関する詳細な論文が掲載されています。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
郵便振替口座
      00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』会長 南木隆治
副会長 黒田秀高、 事務局長 白井恭二、 事務局次長 柳原由起夫、
会計責任者 吉田康彦、
幹事 山本明・中村元三・行岡豊・
監査 椿原泰夫
顧問 藤岡信勝・岩田義泰・上杉千年・皆本義博・中村粲


協力団体 
自由主義史観研究会 
昭和史研究所 
靖国応援団 
大阪の教育を正す府民の会
関西戦中派の会 
大和心のつどひ 
宗教教育研究会 
大阪読書研究会 
新樹会大阪
関西自由主義史観研究会 
大阪教育連盟 
大阪ビジョンの会
新しい歴史教科書をつくる会大阪 
上記の他、多くの団体に現在ご協力の依頼中。
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信頼できる関連ホームページ
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/daitoasensou/okinawa.html
http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/

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(新聞報道)
「沖縄集団自決」誤った記述 岩波と大江氏提訴 旧日本軍少佐ら/産経8月6日朝刊


 昭和二十年の沖縄戦のさなかに起きた沖縄・座間味島と渡嘉敷島での住民の集団自決について、自決を命令したとする書物の誤った記述で名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の梅沢裕・元少佐(88)と、故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一さん(72)が五日、岩波書店(東京)とノーベル賞作家の大江健三郎氏を相手取り、計二千万円の損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こした。
 対象の書物は、岩波書店が発行した大江氏の『沖縄ノート』▽故家永三郎氏の『太平洋戦争』▽故中野好夫氏らの『沖縄問題二十年』−の三作品。沖縄戦当時、梅沢元少佐は座間味島の守備隊長、赤松元大尉は渡嘉敷島の守備隊長を務め、両島の集団自決は、米軍の攻撃に伴い、二十年三月二十五日から二十八日にかけて起きた。

 訴状などによると、『沖縄ノート』と『太平洋戦争』は名指しもしくは個人が特定できるような形で、座間味島の集団自決が梅沢元少佐の命令によるものだった▽『沖縄ノート』と『沖縄問題二十年』は渡嘉敷島の集団自決が赤松元大尉の命令によるものだった−とそれぞれ記載。

 しかし、集団自決で生き残った当時の女子青年団長や自決者の弟の証言、関係者への取材などをもとにした作家・曽野綾子さんの著書『ある神話の背景』などから、そうした軍命令はなかったことは明らかで、大江氏らの三作品の記述は「虚偽の事実を示して原告らの社会的評価を著しく低下させ、名誉をはなはだしく棄損して人格権を侵害した」としている。

 大江氏は五日、家族を通じ「訴状が届いていないので詳しいことが分からない」と述べた。
2005年8月6日 06時38分 | 記事へ |
ニックネーム:会長 南木隆治