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韓国にある前方後円墳について
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韓国の古墳調査

   韓国全羅道地方の前方後円墳調査
      北九州との関わり/倭系と思われる大刀や半島とは違う形式があったりする
           http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44
           http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=82

  韓国の前方後円墳・慶尚南道の松鶴洞1号墳が、実は重なり合った3基の円墳だった!
           http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku207.htm

  韓国にも日本式固有墓である前方後円墳がある


“韓国にも日本式固有墓である前方後円墳(長考型古墳)がある”

1972年 7月17日, 某日刊紙に当時高麗大博物館主任で勤めていたユン・セヨンが ‘韓国の中のゾンバングフワンブン’と言う題目で寄稿文を載せた.
当時慶煕大学校そのファングヨングフン教授とユン・セヨンなどが忠南付与窺岩面ハブソングリの五目山, 旧峰面九龍里のワウ山など平野地帯にある丘陵 4ヶ所を共同調査した結果だった.

ところでユン・セヨンなどがこの丘陵たちをいわゆる張古墳(ゾンバングフワンブン)と判断したのだ.
以後 30余年が経った今, 日本より築造時期が 200年も遅いこの韓半島南部のゾンバングフワンブン論争は韓・日考古学界で一番熱い論争距離(通り)になっている.
同時にその誰も扱いにくい ‘熱いじゃがいも’だ.
果してこの日本式墓がどんなに韓半島から出て論難を起こしたしまた墓の主人公は誰だろう.
日本人だろう, それとも韓国人だろう.
2回にわたってその熱い論争の中に抜けて見る.


◇“韓国で発見された日本式古墳”=ユン・セヨンなどの主張で考古学界は蜂の巣をほじくっておいたように阿修羅場になった. ギングブヒ文化在位元会が開かれた.
長考のように見えたと付けられた張古墳は日本用語で前方後円墳.
後には丸い原型のボングトブン,
前には四角い方形の祭壇形態が用意されている姿なのにまるでかぎ穴あるいは長考形態を見せている.

西紀 3世紀中葉~6世紀後半にかけた日本古代国家形成期に造成された独特の形態の墓.
当時最高権力者である王や地域の顔役である首長の墓と知られている.
日本全域に 2,000ここが越えるように分布している.

日本歴代天皇の墓は皆の形態だ.
一番有名なことが ‘仁徳天皇陵’だ.
彼は西紀 398年に死んだし垓字で取り囲まれた, 巨大な丘陵みたいな墓(長さ 1q)は大阪(大坂)にある.
我が国でも日帝強制占領期間である 1938年全南羅州反南面新村里 6胡粉・徳山里 2胡粉が日本の前方後援分科似たり寄ったりだと報告された事がある.
しかし光復後には誰もその主張をそのまま信じなかった.
したがって我が国に高麗大学日本の典型的な墓である張古墳が存在するということは想像もできない事だった.
そんな状況で中堅学者であるユン・セヨンなどがその存在を主張するようになったから考古学界が衝撃を受けたことだ





◇“掘り出す必要ない”=その年 7月下旬文化在位元会は黄教数とユンズ二人の調査内容を持った.
これらは古墳の位置が山や丘陵ではない平野地帯に築造された点と墳丘の外形的形態と規模,
そして当時農耕地小路との関連など立地條件が日本のいわゆる ‘前方後円墳’と等しい条件を取り揃えたと説明した.
そして科学的な糾明のためには発掘調査が必要だと主張した.
当時筆者は文化再演言い立ての学芸研究士で勤めながら説明会席に参観することができた.
ところで文化財委員たちの反応は冷ややかだった.
一言で納得することができないと一蹴したし発掘調査の必要性もないと結論を下した.
その頃発表した二人の戸惑いと言う(のは)….

当時考古学籍な学問の雰囲気は我が国に日本の墓形態である ‘前方後円墳’が存在するという事実自体が理由如何を問わず容納されなかったのだ.
そうした 11年後睡眠下に掛かっていた ‘張古墳問題’がまた浮び上がった. .




◇日本で大きい反響起こした韓国の ‘長考型古墳’=強じん区嶺南大学校教授は 1983年 6月嶺南大学新聞に ‘咸安-高声地方前方後援分の発見と意義’の論文を発表した.
江郊数が紹介した代表的な張古墳は慶南古城の無機酸古墳, 全南羅州の新村里 6胡粉, 慶南咸安のマルイサン 16・22胡粉, 慶北高令の本館洞古墳だった.
ところで彼は日本固有形式と知られている ‘前方後円墳’は日本の物ではなく韓半島で渡って発展したことと言う(のは)主張も忘れなかった.
しかし我が国の考古学界は何の反応を見せなかった.
返ってこの発表を見た日本でむしろ大きな反響を催した.

古代史において韓・日関係は根本的に韓国が日本に先に進んだ文化の伝授者として浮動の位置を持っていた. 一方常に被害意識を持っている方が日本だった.
それで日帝強点期にはいわゆる任那日本府説(任那日本府説)を既定事実化したのだ.
すべて分かるところのように任那日本府説は日本最初の統一国家である大和(大和)政権が 4世紀後半~6世紀まで約 2世紀の間韓半島南部地方を植民地で支配したという説を言う.

ところでこのような誤れた植民史観を光復後からはこれ以上主張することができなくなったのだ.
そんな状況で日本にだけ存在しているいわゆる ‘前方後円墳’が韓国にもあるという主張が発表されると興奮しなければならなかったのだ.
言うとこの前方後援粉餌伽揶地域で確認されることで日本の文化が韓国に伝わったという決定的な根拠になることと同時に任那日本府説が蘇ることができることと判断したからだった.
この時から日本のゾンバングフワンブン研究者たちは強じん区教授を日本に招待する一方, 我が国の高声・咸安地方の張古墳を観察するために繁繁慶尚道地方を尋ねた.







◇韓国は黙殺, 日本は賛否論争熾烈=ところで我が国の慶南の高声と咸安等地を訪問して発表された
‘張古墳’聞く観察した日本の研究者たちも賛否の見解が変わった.
特に論難の対象になったことは高声無機酸古墳だった.
無機酸古墳は高声宋学洞に分布している伽揶時代墓たちの中第1胡粉. たとえ外形が正確な形態の日本式 ‘前方後円墳’の姿ではなくても、一方が高くて低い一方が比較的平坦な地形を見せている.
したがって日本の前方後援分科非常に似ている姿を見せていた.
このようだから見る人ごとに墓ふたつが付いた双墳で感じることもできて ‘前方後円墳’でも感じることができる素地が多かったのだ.

このような賛否論難の渦中にシムボンググン東亜大学校教授が口舌に上がった.
日本の一元老学者が宋学洞古墳を訪問した時一緒に現場を見回してヨダムサムよ言った言葉が日本人学者によって過ち引用されたのだ.

“私の故郷が高声だから幼い少年時代にここ(宋学洞第1胡粉の上)に上って来て正月15日ダルジブ乗せる遊びをした覚えます”(シムボンググン).
日本人学者はこの無機酸古墳が “前方後円墳ではない”という立場だった.
ところでその日本学者は韓国人たちが一方の丸い封墳を平坦にさせてその所で火遊びしたというふうに入ったのだ.
言うと二つの墓が皆原型の封墳, すなわち双墳でしたがって一方は高くて一方は平たい, 一般的な張古墳ではないという主張だった.
これはこのコソン洞古墳が長考型古墳という強じん区教授のお正月を正面から駁する主張だった.


ここに強じん区教授はシムボンググン教授に直ちに確認した.
シムボンググンは “火遊びで平坦作業を韓日があるというものを言ったことがない”と解き明かした.
強じん区はまた現地人々の証言を通じて “現在の姿が元々の姿そのままなのに日本の元老学者が自分の主張に迎えるように歪曲した”と駁したのだ.
とにかく日本学者たちの中元老学者たちは高声宋学洞古墳が前方後援粉餌欄主張を否定する方で若い学者たちは肯定する方だった.
我が国の学者たちは宋学洞第1胡粉が ‘張古墳’という強じん区教授の主張を黙殺したが日本人研究者の間で賛否論争はもっと深くなった.



[関連記事] 日本式古墳発掘 韓日 表情

“名画洞で前方後円墳にそっくりな古墳が発掘された.
6世紀当時古代日本は百済と伽揶地方から相当な文化的な影響を受けたが活発な人的交流を通じて日本文化も韓半島に流入されたということを立証する”

1994年 5月20日付け日本朝日新聞は 1面トップで光州名画洞古墳出土事実を報道した.

長考型古墳の存在を立証させるいわゆる円筒状土器が初めて確認されたからだった.
21日朝古墳を掘り出した国立光州博物館は青瓦台教育文化首席から電話に出るなど大きいひどい目にあった.

なおさら日本の近・現代史歪曲のため死ぬことだった時だった.
ところで今度は日本が任那日本府説を再び言い張ることができる糸口が見えて, それを待ったというようの仕事をした有力紙が 1面トップ記事で扱ったからじんま疹を起こすに値した.

“それでは私たちがあちら(日本)の支配を受けたという話ですか. 何か対応策が必要ではないですか”.
しかし博物館としては ‘学問的な接近’ 外にはこれといった数がなかった.
‘長考型古墳’の出現を取り囲んだ韓・日両国のアレルギー反応を端的に見せてくれる事例だ.
余波は 1992年盗掘によって緊急発掘を実施した咸平の信徳古墳にまで及んだ.
発掘が終われば当然正式発掘報告書を出さなければならないの.


しかしこの信徳古墳見てからは掘り出してから 11年が去る今にも出ない状態だ.
ただ行政用報告書にだけ作成されただけ. ‘スィスィ’ する本音は “まだ時ではない”と言う事.
日本の場合、前方後円墳研究論文だけ数千編で関連書籍だけでも数百圏に達する状況.
ところで 5人もならない研究者だけ奮闘する私たちの与件があまりにもみすぼらしい.
まだ能力不足なのでもうちょっと勉強した後資料を出さなければならないという雰囲気だったことだ.
“実は研究結果によっていろいろに解釈されることができます.
こんな状況でこのごろ右傾化雰囲気の濃い日本が我田引水格で解釈する恐れがあります.
ところでそれを私たちが論理的に駁する用意ができたのか…”.
学者たちの心配だ.
遺跡数があんまり少なくて 10ここに過ぎなくて全南地方に現われたいわゆる日本式墓を研究して見るとひょっとすれば元手も捜す事ができないという意識が広まるする.

しかし韓・日間歴史共同研究が徐徐に活発になっている状況.
ここでそのまま捨ておくことはできない.
イゴンム国立中央博物官長は “20余年間のたゆまぬ努力で任那日本府説払拭に大きいお手助けになった ‘伽揶研究’を他山の石にしなければならないこと”と明らかにした.

〈利己換気者 lkh@kyunghyang.com〉




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[関連記事] 韓半島 ‘長考型古墳’安くて 日学界悩み


“韓半島に前方後援粉餌あるということは ‘真夏の夜の寝言’に過ぎないの話だ”

“どうしてないと断定するのか. 韓国学界をゴムさせて研究するようにしなければならない”

韓半島全南地方の ‘長考型’ 古墳出現を眺める日本学界の視覚も複雑で尖鋭だ.
韓国学界が ‘任那日本府説’の悪霊出沒を心配するように、
日本学界も ‘賛反両論’の渦で相変らず脱することができない.

“韓半島には前方後円墳ない”と主張する方は、この墓祭りが ‘天皇家計’の墓に神聖視されるという点を土台に敷いている.
日本固有ののと同時に最高権力者たちの墓が韓半島にあったわけないというのだ.
この憂慮は韓半島の甕棺墓や, 株丘墓が日本前方後援分の源流であることもできるという仮定から始まった.
なおさら天皇家計と百済係の親縁性が現われている状況だからもっと憂わしいしかない.

一方 ‘肯定では’を主張する方は古代社会でも日本文化が韓半島に影響を及ぼしたという証拠に、この墓を見ている.
光州名画洞古墳発掘を朝日新聞が 1面トップ記事で報道したことと同じ脈絡だ.
名画洞・月渓洞の ‘長考型古墳’を掘り出したソングナックズン国立金海博物官長と朴重患国立全州博物館研究官などの言葉.

“肯定論者たちは韓国学界の研究をけしかける側面もあるようです.
実は彼らの立場(入場)では韓半島でいきいきとした前方後援粉餌出たら私たち羨ましがる側面もあるようで….
日本の場合前方後援粉餌チォンファングミョになっていていくら学者でも近付くのが大変ですね”

もちろん今この瞬間韓半島南部の長考型古墳出現を置いて ‘任那日本府’を出して主張する日本学者はほとんどない.
しかし歴史と言う時代状況で自由ではない事.
国家が危機に落ち込む時は特に民族意識を強調するしかなくて歴史はその風に乗るようになる.
だから私たちや日本やいっぱい神経を逆立てるしかない.

ソングナックズン官長は “右傾化傾向が濃い現在の日本で極右派考古学者である柳田みたいな人は韓半島土着勢力の遺物も日本産だと主張する”と明らかにしている.
そんな主張などが右傾化ブームに乗って教科書に載せられるとかすれば….
問題は歴史を今日の民族・国家概念で眺めれば私たちや日本学界も常にその模様その体たらくになるという点. 古代に何の国家や民族の概念があっただろうか.
そんな観点で馬韓と倭(倭), それも北九州地方の交流などを察すれば解答は易しく出ることもできる.

〈利己換気者 lkh@kyunghyang.com


[韓国史ミステリー](13)‘長考型古墳’(下)


-墓の主人公は?

忠南付与(1972年)で始まって慶南古城宋学洞古墳(83年)につながった日本式墓(長考型古墳) 論争は 90年代に入って新しい局面に入る.
無茶に全南地域で蕃鎭のだ. 前述したように日本の若い学者たちは ‘任那日本府説’をもしか取り上げることができないか耳をチォンググッして ‘韓半島長考型古墳の存在’を肯定した.
しかし韓国研究者たちは全面不正だった.

◇全南地域にだけ存在した ‘長考型古墳’=そんな中 ‘私一人で研究’に取り組んだ強じん区教授は 85年全南海南長考峰古墳・竜頭里マルムドム古墳測量調査結果明らかな形態の長考型古墳なのを確認した.
しかし韓国学界は相変らず “外形だけ前方後援であるだけ実際は自然丘陵”と一蹴した.
そうした 90年全南咸平信徳古墳が盗掘師によって染躪される事件が起る.
緊急調査をした国立光州博物館はこの信徳古墳が日本の ‘前方後円墳’ のような方法で造成されたことを初めて公式確認した.
しかし (上)便で明らかにしたように発掘報告にも出さなかったし, 総合調査も ‘スィスィ’しながら成り立たなかった.
まだ ‘韓半島に忽然と現われた日本式墓’というこれ ‘熱いじゃがいも’を握って研究する人がいなかったのだ.
その後全南霊岩スッポン峰古墳を筆頭で咸平長考山古墳, 光栄月産里古墳, 光州月渓洞・名画洞古墳など栄山江流域を中心にこの長考型古墳が続々と発見された.

一方 80年代 ‘張古墳’ 論争を主導した慶南古城宋学洞古墳は 99年から 3回にわたって実施された東亜大博物館発掘結果 ‘長考型ではない’という最終判定を受けた.
もう 70年代論争の始発点になった忠南付与古墳は自然丘陵で明かされた事がある.
長考型古墳は結局栄山江流域を中心にした全羅道地域でばかり現われる ‘日本式墓祭り’であるのだ.

◇日本式墓の起源は韓半島株丘墓?=今 ‘長考型古墳’に対する研究は避けることができなくなった.
問題は二つだった.
この墓の起源(起源)が韓半島か, それとも日本かと言うことと、そうだったら墓を積んだ人は日本人(倭である)なのか, 韓国人(馬韓の土着勢力)なのか言うのだった.
今後の韓・日古代史問題でも必ず解かなければならない謎であることだ.
いくつかの前提條件がある.
この墓が韓半島では西紀 5世紀全般~6世紀全般, すなわち約 100年度まだならない期間の間 ‘きらっと’と登場してから消えてしまった墓祭りという点.
また栄山江流域でやっと 13期万が調査された. 一方日本には 2,000ここや確認調査されたし造成時期も 3世紀中盤~6世紀後半までだ.
結局この長考型古墳は調査された墓の幸運にめぐまれて, 造成時期をよく見れば日本の方が先に進むという意味だ.

そんな前提の下長考型古墳の祈願問題をよく見よう.
82年ギムワンリョング教授は “古代慶尚道人々が日本に渡って故郷の住居跡地形, すなわち前方と後援で生じた丘陵を選んでナムグァックを配置して作った墓祭り”と主張した.
90年北朝鮮のリゾングナムは “鴨緑江流域の積石塚の中原型のゾックソックブに四角い形態の祭壇形態石垣団が造成されたことから始まった”と高句麗起源説を開いた.

粘り強く ‘韓半島起源説’を主唱して来た強じん区教授は
“ワンブン(丸やかな墓)と放糞(四角い墓)の結合で, そしてウォン分科祭壇の結合で作われたこと”と言いながら “その源流は我が国”と思った.

起源説と関連, 日本学界の一般的な見解をよく見よう.
日本学界はブングミョ(墳丘墓), すなわち四角くて周りに窪み施設を取り揃えた方形株丘墓(方形周溝墓)の突出部が環境によって変化していわゆる ‘前方後円墳’で発展したとしながら日本自生説を主張した.
ところで問題は最近になって我が国の全羅道地方で祈願前後に造成されたように見える株丘墓(畝周辺に窪み施設をかけた畝)が相次いで発掘されているという点だ.
それで日本側主張どおり株丘墓が ‘前方後円墳’の電信なら韓半島起源説が説得力を得るようになるわけだ.
韓半島株丘墓の相次ぐ発見は日本学者たちを狼狽するようにしている.




◇墓主人公は韓国人なのか, 日本人なのか=それなら韓半島長考型古墳の主人公はだれか.
この問題は ‘情緒上’ ‘民族感情上’ 韓・日学界を熱く焼いたし今後とも焼く, 宿命の論争距離(通り)だ.
ところで先に古代社会でこのような民族感情や国境の概念を論ずるのが無意味なことがあるという点を私たちは見逃してはいけない.
その前提の下いろいろの主張などを検討して見よう.

▲まず韓国人という説である
墓の主人公が当時栄山江流域で住んだ馬韓土着勢力の首長というのだ.
これ ‘土着勢力説’ 主張もさまざまだ.

@先に当時馬韓地域は百済の完全な繩張に入らなかったという点を留意して見よう.
言った状況で馬韓は百済・新羅・伽揶・倭(倭) の間で袖なしの胴着外交を広げる.
ところでこの栄山江流域首長たちがなぜ(日本九州地方)との交流を強化しながらなぜの墓である張古墳を書いたという主張がある.

Aもう一つは馬韓勢力が百済の影響圏の外にあったことと同じく, 九州地方も日本の中央勢力から脱していたという仮定をして見よう.
この状況で栄山江流域の豪族勢力がこんな九州勢力と交流しながら九州の墓祭りである張古墳を使ったという説もある.

B他の見解もある.
百済が領域を広げる中に栄山江流域の馬韓勢力を圧迫する.
そんな状況でその間なぜとの往来を通じて ‘ゾンバングフワンブン’を見た馬韓勢力が百済の南下にアッピールする意味でなぜの墓祭りを書いたという主張であることだ.


▲日本人という説
@栄山江流域になぜの貿易センターみたいな所があった.
こちらで携わる有力ななぜの商社駐在員が故郷の墓である ‘前方後円墳’を使わなかっただろうかと言う推測だ.

A日本研究者たちの中ではどうして系統の人々が栄山江流域で住んでいたと主張する.
これら中一部が 5世紀後半~6世紀全般に百済の中央貴族に進出した人々がいた.
結局この墓は百済貴族に編入された歪計百済官僚という主張だ.

▲馬韓の亡命客という説
これと関連, イム・ヨンジン全南大教授は独特の学説を広げる.
当時日本列島には高句麗・百済・新羅・伽揶・馬韓などで移った王仁博士人々がいた.
ところでなぜと伽揶人たちが団結して大和政権を立てる.
その激変期でブックギュシュに席を取っていた馬韓の移住民たちが亡命客の身分でまた故郷である全南地方に渡って来たし、この時日本の長考型古墳を使ったというのだ.

◇“墓主人公は日本で帰還した
‘馬韓である’の物”=すべての主張がそれなりの論理と説得力を取り揃えている.
しかし筆者の考えはこのようだ.
韓半島で株丘墓を苦かった全南地方の馬韓勢力の中で一部がなぜで移住した.
ところでなぜに移った馬韓移住民の後裔たちがまた 5世紀後半~6世紀全般にわたって元々の故郷である栄山江流域に帰って来る.
この墓はあの時使われたのではないか.


これらの帰還は当代韓半島情勢と無関係ではない.
西紀 475年漢城百済は高句麗の侵攻で首都を公州に移す. 対格便器だったことだ.
百済の支配構造が変わって弱くなった.
そのすきに乗じてなぜで移住した馬韓勢力の中で一部が大韓海峡を渡って帰って来たという仮説だ.


とにかくこの墓に対する謎はまだ明快に解けたのではない.
文献史学者たちとの共同研究が必要だ. それでこそ実体に近付くはずだ.




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enjoyjapan_8&nid=908628&work=list&st=&sw=&cp=1


2005年2月15日