竹下和男の良書との出会い
第17回:語学の達人たち(3):「シュリーマン伝」
ルートヴィヒ著・秋山英夫訳
 ハインリッヒ・シュリーマン(1822−1890)については、ドイツの一寒村に牧師の子として生れ、貧困の中から商人として巨万の富を築き、その富を使ってトロイアなどエーゲ文明の遺跡を発掘した立志伝中の人物として知らぬ人はいないであろう。

 彼の成功物語は「古代への情熱」(岩波文庫など)の第1章で自ら語っているように、数奇なロマンに溢れたもので、伝記文学としても白眉のものといえる。

 彼はいかにして、巨万の富を築くのを可能にできたのか。その大きな理由はその類まれなる「語学力」にあった。10数カ国語を自由自在に駆使し、他の商人よりいち早く情報を把握してビジネス・チャンスを次々に掴んで富を築いて行ったのだ。

 彼は多くの外国語を極めて短期間に習得した語学の達人と言われている。
 そこで今回は特に彼の語学習得法の秘密に焦点を当てて述べてみたい。

 彼の勉強法は、「古代への情熱」第1章に述べられている。

(1) 非常に多く音読すること。

(2) 決して翻訳しないこと。

(3) 毎日1時間あてること。

(4) つねに興味ある対象について作文を書くこと。

(5) これを教師の指導によって訂正すること。

(6) 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること。

 彼はさらに、会話をものにするために、その外国語が話されている教会にかよって説教を聴き、一語一語を口真似するということもやったという。

 シュリーマンの学習法は、物語を丸暗記するという特徴的な方法を取っている。

 英語では、当時よく読まれていたゴールドスミスの「ウェイクフィールドの牧師」とウォルター・スコットの「アイバンホー」を丸々暗記している。

 物語を丸暗記する方法は、ストーリーがあるので記憶に残りやすく、文章を丸々憶えるので熟語やコロケーションなどの言いまわしがそのまま身につく。この方法で彼は英語を僅か半年でマスターした。

 フランス語もこの同じ方法で、「テレマコスの冒険」と「ポールとヴェルジニー」を丸暗記して半年でマスターし、続いてオランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語を流暢に話し書くことができるのにそれぞれ6週間以上かからなかった。

 伝記には明確に書かれておらず、これは、あくまで私の推測であるが、オランダ語以降の勉強は、同じ上記の物語の本を入手して学習したに違いない。既にストーリーがわかっているため文法書や辞書を引く手間が大幅に省け短期間の学習が可能になるからである(同じヨーロッパ語族という有利性もあったであろうが)。

 シュリーマンの成功の出発点は、ロシア語をマスターしたことであった。ロシア語の学習は難しくこれによって他の商人を出し抜くことができたのだ。このロシア語の勉強でも同じ「テレマコスの冒険」をテキストにして、この本の丸暗記という方法を取っている点に注目したい。同じ物語の本を使って各国語を横断的に次々に征服していく彼の語学学習法は今日的視点からも誠に合理的で優れたやり方と言えよう。

 ここまではよく世間に知られていることであるが、今回紹介するルートヴィッヒの本は、その語学習得法の秘密のベールの深奥をさらに垣間見せてくれるまたとない良書なのだ。

 ルートヴィッヒは、遺品として残されているシュリーマンの語学学習ノートなどを詳細に研究してこう述べている。

 「彼は自分の選んだ多くの単語をふくむ長い単語帳と、これらの単語を使った一連の文章を、一枚の紙のうえに教師に書いてもらい、一字一字、文字をまねながら全体を書き写し、それを暗記する。ついで彼は他の単語をふくむ二枚めの表を作製してもらい、一枚めの表を手本にして、新しい単語をつくったり文章を構成したり、他の文章と組みあわすことを試み、それを教師に訂正してもらう。こうして彼は辞書を使いながらきわめて急速に、自分の語彙をふやし、ついにその文章がいよいよ長くかつ複雑となるまで、それをつづけてゆくのである」(本書 P74〜75)

 ギリシャ語の学習では、

 「これらのノートに書かれている文字は、しだいに達筆となり、新しい単語が出てくると、彼はフランス語やその他のことばで見出しをつけている。…この練習帳では小学校の生徒にかえったように、抹殺したり、インクのしみをつけたりしている。しかもその間に、先生の筆跡で訂正の筆がはいっている…」(本書 P76)

 このギリシャ語の練習帳に書かれたシュリーマン自身の文章を少し引用すると、

 「そのあと、…わたしはどうしたら内陸へ行けるか、どうしたら金持ちになって土地を買い、えらい人になれるかを考えた。」

 「わたしとタバコの取引をやる気はありませんか。ロシアでも、大きいタバコ農場をつくらないものだろうか。ロシア政府は便宜を与えないだろうか?」

 「わたしは、じぶんが貪欲なことを知っている。…こんなにまでがつがつしている事を止めねばならぬ。…戦争中ずっと、わたしは金のことばかり考えていた。」

 この文から読み取れるのは、彼がまず記憶しなければならぬ単語や熟語を選定し、それらを含ませて、過去の自分の体験や自分が心からやってみたい事などに結び付けて文章化する。それを教師にチェックさせて正しいものとし、記憶するという方法をやっていることだ。

 現在の学習法では、重要な単語・熟語を含んではいるが、自分とは一切関係ない短文を無理やり次々と記憶してゆくのが一般的であろう。しかし、シュリーマンの方法は、記憶術による夢のような連想力を働かせることができるのだ。両者を比べてみて、記憶保持に雲泥の差が出るであろうことは容易にわかろう。

 シュリーマンの語学学習法は、同一の物語を素材にして多言語にわたっる学習すること、自分に切実なこと密接なことを文章化して暗記し、その文章をつなげて行く事で長文も書けるようにすること、ネイティブの発音を徹底的に模倣すること、といったことに集約できそうだ。

 繰り返すようだが、今日の語学学習者にとっても参考になる優れた方法をシュリーマンは、100年前に実行していたのだ。また、この本の序文には、遺品には、彼が自分で作った10カ国以上の辞書があるという記載がある。残念なことに、それがどんな編纂方式をとっているかはこの本には書かれていない。

 シュリーマンは、なかなかの活動家で、江戸幕末にわが国にもやって来ている。訪問したのは、横浜と江戸で、当時の日本の風景・日本人観など実に冷静な観察をおこなっていて興味深い(参考文献2)。

 彼が発見したプリアモスの財宝は、彼の死後、遺言によりベルリン博物館に寄贈されたが、第2次世界大戦直後から行方不明となっていた。数年前、それがロシアで発見され現在公開されて今なお黄金の輝きを放っている。


(文献)

 本書=ルートヴィッヒ「シュリーマン伝」白水社

1. シュリーマン「古代への情熱」岩波文庫
2. シュリーマン「シュリーマン旅行記 清国・日本」講談社学術文庫
3. ムアヘッド「トロイアの財宝」角川書店

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竹下和男
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