
謝るって、どうしてなんだろう?
今朝のTBSラジオ「永六輔・その新世界」の番組の中で「あやまる」と言う事が話題となっていた。
人は誰でも幾度と無く他人や親族に謝る機会があっただろう。最近は行政不祥事や食品偽装が相次いで、あちらこちらで謝罪会見が花盛り。その度に眉間にしわを寄せ、深々と頭を下げる光景があちこちで見られるが、正直そんな姿を私は見たくない。
「謝っている姿であるのは確かだが、一体この人達は『謝る行為』だけに注力し、謝ると言う『本質』は一切分かっていない。」と感じるからだ。『薬害エイズ』であれ程官僚が謝罪した厚生労働省が、今また
『薬害C型肝炎』問題で隠蔽がバレてしまい、ペコペコと省懲りなくマスゴミの前で頭を下げている。食品会社の偽装では『パートがやった事』と啖呵を切っていた某料亭が、実は組織ぐるみで不正をしていた事がばれて、社長のクビが飛んでしまう見っとも無い結果に。挙句の果てに「NOVA」の前社長は、資産を持って雲隠れ(まァこれは論外)など…責任の「せ」の字すら感じられない謝罪に、うんざりする人は堀端だけだろうか。
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今一つ気になるのは、今日販売の中央公論12月号の特集に『一億総クレーマー社会』と言う記事が組まれていて立ち読みしてきたが、権利や主張ばかり欧米化した結果、かつて日本社会の根幹を作ってきた『共同体的利益』が失われ、社会通念上不必要な謝罪が横行し『声が大きい者だけが得をする』歪んだ社会になりつつあると警告を発していた。
私達も企業人として、顧客がクレームを投掛けてくれば『まず謝罪する事』を教えられている。しかしながら、最近では明らかに『相手側の責任に帰する原因』だと分かっても『企業の社会的責任』を盾に自分の責任を帳消にしようとする人が後を立たない。企業は訴訟沙汰を恐れて『法令順守』を社員に求めているが、味噌も糞もゴタマゼにする『歪んだ法令順守』が歪んだクレーマー社会を助長してるのではないのだろうか。そこで物分り良く『是々非々』とした謝罪対応をしていれば、今マスゴミを騒がしている『モンスターペアレンツ』などは出てこなかったのだ。
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永さんの番組の話に戻るが、作家・野坂昭如さんの謝り方に関するエッセイが紹介されていた。
((紹介された野坂さんのエッセイ))
…自宅にTELが掛かってくると、まず謝罪する。自宅にTELを掛けてくるのは編集者しかなく、その殆どがクレームである。私は電話に出た途端の声色や、編集者の年齢に応じて、自分が謝罪する時の声の大きさや声色を変えて対応する。そうする事が相手に対する礼節であると感じてるからだ…
「なるほどね…」妙に私は感心してしまった。
要は誤り方にも『空気を読む』考えが必要なのである。どこぞの企業や官僚が『謝罪会見』のための研修をやってるのとは違って、長年の人間関係を見続けた人生の先輩が『謝る事の極意』とでも言えるアドバイスをして貰った様だ。同年代同士で謝る、上司や親・年長者に謝る、一般大衆に謝る、各々何が必要で自分がそこで如何なる立場にならねばならないのかをよーく考えないと『亀田父』の如く、謝罪が火に油を注ぐ事態となるだけだ。
しかし問題は、原因がそれだけではないと言う事だ。誤られる側も『落しどころ』まァ吉本新喜劇風に言うなら『今日はこの位にしといたるわァ〜』と相手の謝罪を受け入れるタイミングを見極めねばならない。悪意なく作為的な謝罪でなければ、受け入れて切りを着けるべきではないか。その本質を見抜ける力を我々は学ばねばならない。上記にも述べた『モンスターペアレンツ』等のクレーマーは、問題にかこつけて自分達が特別扱いを受けたいとする『下心見え見え』な自己中人間である。そういう人間と見られて扱いを受けるようになってはいけない。
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ところで、上の写真は広島の平和公園にある平和記念碑に書かれた言葉だ。
『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから』
しかし…この言葉は一体『誰が』『誰に』言ったのか…主語がない、と永さんは指摘する。アメリカが日本に対して言ったのか?日本軍国主義者が被爆者に対して言ったのか?。未だあいまいのまま放置されている。永さんは言った。
「こんないい加減な謝罪しか出来ない日本の政府・官僚を、私達は許してはいけないと思うんです。」
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本当に傷を受けた人間は相手の謝罪が心からのものかどうかということに敏感です。「日本人はこんなに謝っているのにそれでもゆるしてくれない」と不平をもらす日本人は、謝罪ということを頭を下げた回数でしか測っていない。一方クレーマーたちは、相手が土下座すればそれが会社や学校の保身のためであっても満足します。自分が優位に立ちたい、という願望がクレームの動機だからです。だから本当に心からの謝罪をさせたいのならば、謝罪を要求する側にも心構えが必要だと思います。
2007/11/10(土) 午後 11:05
STARさん、いいとこ突きますね。日本では「謝罪」という概念がないのでしょうか。「これだけ謝ってやったのだから…。」という話は「謝罪」の本質を知らないと言えましょう。ただ長らく武士の社会であった日本では謝罪=死(ハラキリ)であると履き違えている。松岡前農相の時だって謝罪せず死んでしまった。何の謝罪の本質がなってませんよ。
2007/11/11(日) 午後 1:40
謝罪とは、自分の行った行為を明らかにして、反省することです。
この、自分の行った行為を明らかにしないところに、日本人の弱さがあると思います。
謝罪には、責任の所在を明らかにすることも大事です。
2007/11/13(火) 午後 7:28
平和記念碑に『過ちは繰り返しません』と刻んだのが大きな過ち。
し→させ が正しいと思う。
そうですね・・・「謝罪」とは、後悔と赦しが無ければ成り立たないでしょう。どちらかが欠けているなら、謝ることは誤りです。
2007/11/14(水) 午前 2:33 [ ib200574 ]