ねずみ島............ねずみ島物語ねずみ島.....2002/10









あなたとねずみ島、私とねずみ島、みんなのねずみ島物語




長崎港口に「ねずみ島」と 呼ばれる小さな島があります。
長崎市小瀬戸町の旧ねずみ島(皇后島)海岸、 水泳指導の場として市民に親しまれていた場所。
夏が来ると長崎の小学生は、正会員であることを示す木札を首からぶらさげ
大波止からねずみ島へ渡りました。この子供たちは「ねずみっこ」と愛称で 呼ばれました。
しかし 1972年(昭和47年9月)ねずみ島閉鎖

現在は埋め立てられてしまいました。

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このねずみ島での水泳指導は
長崎遊泳協会
(田中直一会長)によって
行われてきました。

日本泳法小堀流 踏水術を基本に
水泳の普及をめざした水泳道場です。
水を踏むことを基本とする泳法。
長崎遊泳協会の歴史は古く、
1902年(明治35年)発足 

今年 2002年は発足から
100年目を迎えています。

創立時の会員数は810余名。
明治の終わりには、2399人
( 明治41年には協会が企画して第一回九州競泳大会が開催され観衆は2,000人を超えた。)
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この発足時に関与した歴史上の人物の話

西郷四郎伝記


異郷に生きる会津の古武士
会津藩の武士の子として慶応2年(1866年)生。
嘉納治五郎と出会い講道館へ。
そして「山嵐」の技で柔術を倒し、講道館の基礎を作った。
―――向こう通るは、西郷四郎――――
と、歌にまでうたわれた四郎だったが

「おれは、ただの柔道家で終わりたくない。
あのままでは、おれは何もできない人間として、かたまってしまいそうだ。
国のためになる仕事をしたい

と、講道館をあとにする。
その後の西郷四郎の生活は長崎に移り、長崎は、四郎にとって第二の故郷となる。
四郎が長崎にうつる少し前の長崎県知事は、会津出身の日下義雄(くさかよしお)、
初代の長崎市長、北原雅長も会津出身、長崎時代の四郎に大きな影響をあたえたのは
二本松出身の鈴木天眼。
 天眼は東洋日の出新聞社にいて、四郎は、その片腕として編集長をつとめる。
 そして天眼といっしょに、各方面によびかけてつくった「長崎遊泳協会」では、四郎は監督だった。

"長崎の海は、きれいだった。

大波止から団平船(だんぺいせん)という舟にのって、
協会のつくった水泳場のあるねずみ島に渡る子どもたちの声が
海面をゆるがせてひびいてきた。

砂浜にいすをおいて、子どもたちを監督する私の心には
故郷合津の常波川(とこなみがわ)で泳いだワンパク少年のころの、思い出がうかんでいた。"


四郎は長崎を離れて「尾道」に移る。
尾道へ来てからは、柔道の話はしなくなり武道としての水泳についても、ほとんど語らず
ひとり静かに、庭で弓をひく昔の武士の姿だった
 大正11年(1922年)12月23日、57歳で死去。

 東京の講道館では、六段の位をさずけて、その功績をたたえた。
講道館の柔道は、その後、ますます発展して、現在は世界の柔道として、オリンピックの種目にもなった。

 ねずみ島は、今は埋め立てられたが、水泳場を長崎市民プールに移してて
、長崎遊泳協会は現在も活躍し、今も西郷四郎の武道の精神が伝えられ
古武士のような西郷四郎の姿が語りつがれている。
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  以上は 会津若松市教育委員会掲載情報から抜粋 編集。
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明治43年の西郷四郎。紋付羽織姿。
団扇を持っていられるのが長崎遊泳協会の田中直治主任師範。

長崎遊泳協会発足時、西郷四郎は37歳ということになります。
尾道に移って二年後57歳で死亡していますので
長崎在住期間は20年くらいでしょうか?
長崎と会津、遠く離れているのに色んな縁があったのですね、
「男の浪漫」が感じられる波乱的な一生
会津出身、柔術、講道館柔道、「山嵐」の技
黒澤明 監督映画第一作目「姿三四郎」のモデルが西郷四郎です。



大名行列




ねずみ島の名物行事と言えば、「大名行列」

江戸時代肥後細川藩の参勤交代の行列道中のおり殿様と姫を乗せたみこしを担いで大井川を
渡った場面を 再現しています。

最初の大名行列は1911年に競技大会の余興として披露されたのが始まり。
当時は、みこしだけだったが二年後には供回り、道具持ちが加わり総勢数百人の道中絵巻が
繰り広げられるようになった。

大名行列がある日のねずみ島には、長崎市内から沢山の人たちが見物に押しかけて島は大賑わい。
みこしの大名役は長崎市長、姫役は会員の中から選ばれた。
総勢300名の道中絵巻は ねずみ島の名物のひとつです。

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大名行列を見たことは何度かあります。
殿様が代々の長崎市長、私の頃は 田川勉さん。
殿様とお姫様の神輿を入れ墨の模様をつけた
雲助の男性が担いで海を行列して泳いで行きます。
腰元の女子部員がお姫さまのみこしの後を
真剣な表情で しずしずと立ち泳ぎで
進む姿が記憶に残っています。
子供の目からは、まるで忍者みたいな
感じで新鮮な驚きでした。
雲助さんの背中には、入れ墨絵が
描かれています。


木製の大滑り台




大滑り台は、大正後期から昭和初期にかけて ねずみ島にありました。

同協会の会員増を目的に専門の大工が作った木製の大すべりたい。
「ねずみ島は子供たちの天国。砂浜も海水もきれいで、ほっとけば一日中泳いでた」
と田中会長の お言葉。
大勢の子供たちが この大滑り台を見上げて、じっと見守るなかを両手を勢いよく
突き上げて威勢よく海に飛び込む少年達の姿、爽快!

しかし、この滑り台から滑るためには、バケツに水を汲んで、それを持って海岸から歩いて島の頂上まで
登って、まず水を滑り台に流して箱や板に乗ってその水の上をすべりおりたので 一回一回バケツを
持って丘の上まで登るのは大変だったそう、遊園地等 なかった頃だから、
子供たちは 重いバケツを汗流しながら運んでは、「爽快感」と「スリル」を楽しんでいたのでしょう



ねずみ島と大波止を結ぶ定期船


長崎市のおおはと桟橋とねずみ島を結ぶ定期船は一日九往復、十八便。
大勢の子供たちを乗せた二隻の団平船「朝日号」「日の丸号」を結びつけて力強く走る蒸気船は曳船の
「崎陽丸」(72.85トン)。
補助船は専用船。救助用の為で師範挌の先生たちが乗り、
誤って海に転落する子供がいないか目を光らせていた。
これらの船はロープでそれぞれ結わえられた船団で一度に三千人近く運ぶことができた。

船上での楽しみは「豆流し」。
はじき豆を木綿の袋に入れ、ねずみ島
おやつが出来上がった。



ねずみ島と正会員




ねずみ島には四面の海水浴場があり、中央に三階建ての「記念館」右側に「本部」の事務所があった。
ここが「長崎遊泳協会本部」の建物。
正会員の子供たちは事務所前の海で練習に励んだ。
小堀流の古式泳法を基本とし、時代と共にクロール、バックなどの西洋泳法も教科に加えられた。
甲。乙。丙。丁という段位があって、帽子の色と線、同時にまわしの色も変わる。
昇段試験も、遊泳技法とともに立ち泳ぎ、飛び込み、潜水など、その泳法、距離、速さなどが
採点評価される。
上位になるとねずみ島一周遊泳や深堀遠泳など高度な科目が課された。

本部の左手に広がる海岸は一般向けの海水浴場で正会員が泳ぐのは禁止されていた。
正会員の行動は 学校の違いは関係なく すべて班ごと。
甲一班から二班へ、乙三班から丙一般へと進級するたびに新しい友達ができる。
互いに励ましあい友情が深まった。
遊泳道場は毎年 8月31日まで。

この日の子供たちは名残を惜しんで なかなかねずみ島から帰ろうとしなかった。

長崎の子供達の思い出の島は、昭和47年長崎外港埋め立て計画により閉鎖。
その後、長崎県の港湾工事で島は陸続きとなり、正会員用の砂浜は消えた。

それでも毎年一月、残った一般会員用の海で恒例の「寒中水泳大会」が行われ
「長崎っこ」の思い出がいっぱい残っている「ねずみ島」に子供達の歓声が戻る。



「ねずみ島」  山本健吉(詩人)




あの頃長崎の子供たちには、泳ぎに行く鼠島という小さな無人島が、港の口にありました。
私たちは大波止で団平船に乗って、島まで小蒸気船で曳航されるのですが
この時の思い出をあなた(佐多 稲子)が書かれたのを覚えています。
はじき豆(固く干して煎ったそら豆)を入れた小さな木綿袋にヒモをつけ、海中に
ぶら下げながらひかれて行くと、島に着くまでに豆はやわらかくなり、塩味がしみてきます。
そんなものがどうしておいしかったのだろうと不思議ですが、子供たちはそんな工夫が得意だったのです。

その鼠島の水泳場が、数年前に閉鎖されたと聞きました。海水汚染が原因だそうです。
長崎港外はいくつも小島が散在していて、多島海のような景観ですが、その一つ香焼島と対岸の深堀との
あいだを埋め立てて大型の造船所を作ったため、潮の流れをせき止めてしまい、海水の自浄作用を
低下させたためと想像されます。

あの島の水泳道場で、もう長い間、長崎の少年たちは泳ぎを覚えてきたのです。
それが閉鎖されたということは、長崎の少年少女にとって、島がなくなり、海がなくなったということでしょう。
あたらかけがえのないものを、長崎市民は失ってしまったと残念です。
大型タンカーを作るためには、狭い港内の長崎造船所では、進水式をやれば船が対岸にぶつかる形で、
どうにもならなかったのでしょう。
けれども長崎市民に大きな犠牲を強いたその新造船所が、今は船舶界不況で操業停止状態だと聞くと、
くやしい思いがこみあげます。
ろくに反対運動も起こらなかったのは、今の少年たちはね海で泳げなくても、
プールで泳げば満足だというのでしょうか。
そういえば、東京や横浜で、泳げる海やなぎさが姿を消していく一方、やたらにプールが作られるようです。

それだけ今の少年たちからは、「自然」が次々に遠ざけられて行くのですね

以上【双点】より




「ねずみ島追想」  長崎在住 宇佐美 基典氏


昭和のはじめの頃の話です。
小学4、5、6年の時、私は夏休みには長崎港外鼠島に毎日のように海水浴に出かけていました。
ねずみ島には長崎遊泳協会というのがあって、主として小学生を対象にして
小堀流という古式泳法を教えていました。
三千人くらいの会員がいました。ねずみ島は小さい島なので、海岸は芋の子を洗うように混雑していました。
それほど混雑していても事故があったという話は聞いたことがありませんでした。
それは やはり泳法をみっちり教え込んだことと、指導、監視の先生の数が
非常に多かったせいもあろうかと思われます。
ねずみ島には海岸から100メートルくらい離れたところに団平船が
イカリで固定してあり、この団平船には飛び込みの練習用に
二階建てのヤグラが組んでありました。


六年生にもなると泳ぎにも自信が出来、
混雑する浅い砂浜で遊ぶことはしないで「やぐら」の
周辺でほとんど時間を過ごしました
飛び込みはやれるし、水はきれいだし、
疲れると団平船で一休みできました。

< この「やぐら」で一番の人気者は石井多喜夫さんでした。

旧制長崎県立瓊浦中学四年生の石井さんは、
先生の下の位の初段で赤い帽子に白線をつけて
助教をやっていました。
黒縁めがねで丸顔で 泳がなくても浮きそうな体型でした。

石井さんは「馬泳ぎ」の名人でした。
頭と尻を水面から出来るだけ出して泳ぐ難しい泳法です。
馬泳ぎは小堀流ではありません。

小堀流伏身の型はス水面に一直線になって浮かぶ型ですが石井さんが
馬泳ぎで泳ぐ姿には驚嘆、苦笑、敬意をもって喝采したものです。

私も石井さんと同じ瓊浦中学に入学しました。石井さんは五年生です。
学校では石井さんは、サッカーをして体格は益々立派でした。
卒業式の当日、在校生も卒業生も丸坊主の中、石井さんは、頭髪を伸ばしていて校長先生から
「不心得者、残念だ」と挨拶の中で付け加えられました。
しかし それは進学せずに、卒業後すぐに社会人になるからでした。

その後の石井さんの進路は知りませんでした。日本は支那大陸に進出するようになり、
昭和6年には満州事変、昭和7年には上海事変が起こりました。事変とは 戦争と同じです。

昭和7年の春浅いある日の朝礼で校長先生が
「先輩の石井多喜夫君が上海で名誉の戦死を遂げられました」と話されました。

石井さんは瓊浦中学、第三回卒業生でわが中学最初の戦死者、まだ21才の若さでした。

「岬」掲載文より抜粋。



あなたとねずみ島の思い出は?
長崎在住、栄子さんよりメール。2002/09/18


OH!ねずみ島懐かしい!
首から木の札ぶらさげて、その紐に五円玉を通し近くの権藤豆屋さんで買った「はじき豆」を袋に入れ
紐に結わえ、バスケットには おにぎりとソーセージ。
隣近所の友達と30分位で大波止に。手前に短い陸橋があって、ここを渡るのは怖くて心臓パクパク。

クラスは甲、乙、丙に分かれていたような。水泳帽子の線が違うんですよね。
進級すると帽子につける線を頂いて得意になって帰り、縫い付けてくれる母の側でくっついて見てました。
水際に一列に並んで足バタバタの練習、横泳ぎ、立ち泳ぎ、沖の飛び込み台まで。ねずみ島一周遠泳。
入道雲もくもくの空とダンベ船の油の臭いと共に思い出されます。

水泳教室は午前中で終わり、持参したおにぎりを食べると、子供だけの自由な楽しい時間でした。
私がワクワクし夢中になったのがアサリ取り。
弁当を食べ終わり空になったバスケットいっぱいになるまで取って持ち帰りました
毎日のあさり攻撃に参った母から「もう、アサリは持ってこんでね」」と言われた思い出。
帰り支度と着替えが終わると一目散に駆け出してつめたーーい「ひやし飴」を。
甘いもの好きな私の欠かすことの出来ない楽しみでした。
背中は日焼けでヒリヒリ。水ぶくれで皮が剥けていたのも今では懐かしい思い出です。

少し泳げるようになった頃のことです。
沖へ向かって泳いでみました、と言っても足が届く所辺までのつもりでした。
届いてると思ったら、届かない!びっくりして必死でバタバタしていると足が着いたので
ほっとして立ってみました。

その私の肩を誰かがふんわりと触れたのです。

知ってる人かと笑いながら振り向くと同じ歳位の知らない男の子がうつぶせになって浮かんでいました。

あれからもう40年以上経ちましたが、未だに その手の感覚を覚えていて悲しい忘れられない思い出に
なっています。
水難事故はどのくらいあったのでしょうか。
監視の方々がしっかりされていても、広い海ですもの。悲しい事故が起こります。
小船に引き上げられるその子を海の中に立ち尽くし茫然として見つめながら、海の怖さを
子供の私は初めてこの時、教えられたのです。

楽しい場所、懐かしい場所、そして 時には命が奪われた場所でもあったと、夏が来るたびに
 あの日のことを思い出すのです。



あなたとねずみ島の思い出は?
横浜在住の信子さんから電話で。2002/09/18


「ねずみ島、なつかしかねぇ、思い出話?
ねずみ島に岩があったん、覚えてる?
あの岩にね、牡蠣さぁ、ほら うちかき みたいな牡蠣がいっぱい くっついててね
それを石でコンコンで叩いて中身を海の水で洗って食べてたよ
味?おいしかったよー
はじき豆もおいしかったねえ
そうそう、近所の熊井染物店のおじさんが大波止でだんべせんから降りるときに
足をはさまれて怪我しなった事も覚えてるよー
小学校の頃は ねずみ島に泳ぎに行ったけど、高校くらいになったら 東望の浜や
福田や宮摺や茂木や川原や、いろんな海水浴場ができたけん、あっちこっちに行く
ようになったもんねぇ、
そいでもさ、ねずみ島は なつかしかー



あなたとねずみ島の思い出は?
福岡在住のY.Sさんからのメール2002/09/19


さて鼠島のことですが
ここ4年間は2ケ月に1回日帰りで長崎に行っているとはいえ、墓掃除と会合や知人
訪問で手一杯で、とても港外までは手が回りません。50代の見聞では、開発と言う埋
め立てが進んで、かっての面影は殆ど亡くなっていました。
古きよきながさきは我々の心の中で生きていると思った方がよいでしょう。
若き日の永井荷風が既に大正時代に長崎の衰退を美しい文章で予言しています。
エッセイ集『紅茶の後』に収められた「海洋の旅」を文学部がある大學の図書館でご覧下さい。


あなたとねずみ島の思い出は?
下関在住のmichiko さんからのメール2002/09/20


向日葵ギャラリーのねずみ島のコーナー 日に日に充実していきますね。
とても楽しみ です。
向日葵さんの 技量に感心するばかり・・・・!
大勢の長崎人の心に こんな に思い出を残してくれた島に感謝!
そして 楽しかったあの頃の夏休み・・・バンザ イ!!
                                     michiko


なんだか、ホロり、そして前向いて歩こう!

2002/09/23             向日葵


「長崎新聞」連載記事のコピー、「目で見る長崎市百年」の本、
長崎の妹からおくってもらった本、みなさんからのメッセージをもとにして
このページが出来上がりました。
ご協力いただいたみなさん、ほんとにありがとうございました。

この「ねずみ島」がきっかけで 私の亡くなった父の、生前のアルバムや
母への沢山の手紙、遺書、写真などが母から私に
「持っといてくれんね」と妹を通して送られてきました。

父は大正元年生まれの「ねずみ年」生きていたら現在90歳です。
新興善小学校、瓊浦中学時代と「ねずみ島」に通い、毎日新聞社に勤めながら夏になればねずみ島で
師範として、子供達に教えていたという父の姿が浮かんできました。

昭和20年の4月、特派員で行った沖縄の戦場の中、従軍記者として働き、6月のなかば頃、ひめゆり部隊の
真実を見つめたあと、約束の場所に向かうために摩文仁の海に入りました。

泳ぎは得意のはず、大好きのはずの海で、魚雷を受け33歳で死亡、今も沖縄の海の底に眠っています。


昭和12年の夏 26才の父。

写真の中の父しか知らず
父の声は知らない私でしたが
古いアルバムの中からも、母への手紙の中からも
私に語りかけてくれた気がしています。

ちよっと涙ぐんだ時もあったけど、笑顔で背中を
叩かれた気分、「はい、まっすぐにがんばります!」
ありがとう!           

2002年9月23日





ありがとうございます。皆様からのメール ご紹介

《寺田様より》

ねずみ島のページを、山下さんのご紹介で拝見しました。
とても、懐かしく、嬉しく、何度も読ませていただきました。

私の父は田中直一、先日100周年の行事を協会長として つとめさせていただきました。

貴女様のお父上と同じ大正元年生まれ、11月に90歳になります。
ご存命でいらしたら、きっとご一緒に活動させて頂いてましたでしょう。
父に、是非とも読んでもらいたいと弟のほうへ知らせました。

すばらしいページを開いていただき心よりお礼申し上げます。
時々、拝見させていただきますこと、楽しみにいたします。
           有難うございました。

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《返信》

ほんとに ほんとに びっくりいたしました。
偶然の不思議さに「自分で生きているのでなく目に見えないものに生かされている」を実感してしまいます。

田中直一様、私は存じ上げなかったのですが このねずみ島物語を作成するきっかけになった長崎新聞の
連載記事で現会長さんだと知りました。

長崎の妹と母へ資料を頼んだ時に、母が電話で

「田中さんは、お父さんと水泳仲間。お父さんも ねずみっこだったとよ。
遺族会から沖縄にお墓参りに行った時、田中さんが一緒に【新聞記者の碑】まで来てくださって
一緒にお参りしていただいたとよ!」

と話してくれて、更にびっくりいたしました。
自分の父だけど、知らないことだらけだったのです。

田中直一さんと同じく 父も11月生まれ1日だと覚えています。ほんとに「おない年」ですね。

田中さんが、こうしてずっと長崎ねずみ島のために貢献されて守って来られていることを、
きっと父は嬉しい気持ちで見守って感謝して喜んでいることとと確信いたしております。

思いがけないメールに感謝でいっぱいです。

「ねずみ島」が結んでくれた「縁の糸」

田中直一様の ご長命を心より、心より祈っております。

ありがとうございました。




《樋口様より》


こんにちは。
中学、高校の先輩である山下さんのご紹介メールを
見てやってきました。

私の人生の出発点は「ねずみ島」といっても
過言では有りません。
と言うのも、ねずみ島で水泳を覚え
その後中学高校と水泳部に席を置き、
大学では中断したものの社会人になっても
ずっと泳ぎつづけています。

3年前にはドーバー海峡をリレーで泳ぎ、
単独遠泳を目指して今も練習を続けております。

やっぱり、「ねずみ島」が原点と考えています。
なくなっと事を聞いたときは残念でしたし、
その後帰省したときに陸続きになっている島を見て
なんだか凄く昔の思い出のように感じました。

他のページも拝見させていただきましたが、私が大きく目を引いたのが、ご主人が撮影されていた
昭和44年の おくんちのスナップに今は亡き母と弟らしき人物が写っていたことです。

昭和44年と申しますと私は小学6年生で弟は2年生、
祖父が勝山町に住んでおり「おちごさん」としてみこしの先引きをしました。
私もこの行列の少し前を烏帽子を被って歩いておりました。
以上、長くなりました。失礼します。

※ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー※

《返信》

ねずみ島での バタ足練習の水しぶきが浮かんできます。
そこを出発点にして 今はドーバー海峡単独遠泳を目指されているって素晴らしいですね。
ぜひぜひ、達成されますよう願っております。

主人が撮影しました 昭和44年のおくんちのスナップに亡きお母様のお姿を見つけていただいたのですねー
あの年のおくんちの写真は、おちごさんの行列の写真や馬に乗った方々の行列等沢山ございます。
どれかに きっと烏帽子を被って進まれる凛々しい樋口さんのお姿が写っているのかも知れませんね
偶然とはいえ、主人も私も えっ!とびっくり驚いています。
あの頃の長崎は、ほんとに「良かった」ですね。





「童心即詩 詩即童心」

波や砂や貝や潮溜まりの小さな魚を無心に見つめてた頃に
連れて行ってくれるような、 優しさで ふんわりつつみ
こんでくれるような〜 惹きつけられた「書」です。

河口憲三さん

大正三年 熊本生まれ
新聞記者を経て
長崎県佐世保市で月刊「虹」を発行
平成三年死去、「虹」は現在も奥様が
引き継がれて発行されています。
著書 「風塵の譜」「人間賛歌」など





「百年の歩み」
海から陸へと泳ぎ継がれて100年
長崎遊泳協会創立100周年記念誌が
平成14年10月吉日に発行されました。

このねずみ島物語がご縁になり、長崎の田中様より
贈呈していただいたこの ご本。
早速、開いて見ましたら、ねずみ島について知りたかったこと、
見たかった写真等、
この一冊の中に ねずみ島の歴史、長崎遊泳協会の歴史、
記事写真がいっぱいでした。
早速、貴重な写真の何枚かを、このページに掲載させていただきました。
懐かしい、ねずみ島の風景がよみがえってきます。
素晴らしい一冊です、ありがとうございました。

この本のご注文は

 〒 852−8118 長崎市松山町2−2 長崎遊泳協会 
 п@095−845−1212
 FAX095−845−1585

先着100名様 、代金送料込み2500円、まず、FAXにて お申し込みくださいませ。
とても評判がよくて ご注文が多いそうですので もしかしたらもう先着の中に入れないかも
その時は、諦めてくださいね。
発行者 長崎遊泳協会創立100周年記念実行委員会。





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