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2007-10-27
■[interview]5th-Aさん
このインタビュー企画で、5番目に協力して下さったのは
劇作家の阿藤智恵さんである。
このインタビューでは、お名前はすべてふせているけど
阿藤さんには、ことさらにお名前を出すことをお願いした。
なぜなら、阿藤さんは作家だからである。
私には、そのことがとても大事だったのだ。
私は、文章を書いて暮らしている。
今は占いの文章を書いて暮らしている。
ホロスコープを書いて、そこから連想したことを言葉にして
雑誌やインターネットにそれを公開し、それで原稿料をもらって生活している。
このことは、今にあって思えば実に「自然に」そうなったのだが、
経緯を振り返るとただの一度も、この地平を目指して歩いたことはない。
私はいつも他のものになりたかった。
会社員とか、技術者とか、学者とか、そういうものになりたかった。
小説を書いて作家になりたかったけれど、その夢はわりと早い段階で打ち砕かれた。
だから、社会的にいろいろな人に認められたり褒められたりするような
いいお仕事していらっしゃいますねと言われるような、そういう仕事に就きたかった。
私は優等生気質があってプライドも高かったから
そうなるように、がんばった。
相当がんばった。
でも、どれにもなれなかった。
チャレンジしたけど、だめだった。
そうした幾多の挫折の果てに、今、こうして占いの文章を書いて暮らしている自分がいる。
ガリガリ目指したものとはべつのことをやっている。
この先どう変わっていくかということは別として
ここ数年、この「占いの文章を書いて暮らす」ということについて、私は納得していた。
自分の選択の結果、自分でそうしたのだということを知っていた。
時間も労力も注ぎ込んで、この「仕事」を一生懸命やってきたという自負もある。
がんばったからってなんでもうまくいくというワケじゃないとは
幾多の挫折経験から重々解っている。
だから、この仕事を通して
喜んで頂いたり、勉強させて頂いたり、チャンスを頂いたり、
およそ仕事をする上で「やった!」と感じられるようなことに、日々、恵まれ続けてきたことに
ほんとに、ありがたさを感じていた。
まずは働けるというのは素晴らしいことだし、
さらに、とても素敵な方々に巡り会えたし、
悩みや怒りも来るべくしてきた「私のもの」だった。
占いを書くということを通して得たそれらの体験を、私は幸福だと感じた。
無論、恥や迷いを感じるのはしょっちゅうだったし、
いつも自問自答の繰り返しだし、
いろいろな人にいろいろなことを言われてきたけど
それでも、自分でそれを創り出して、それが仕事になっているのだということが
ある保留を意識した上で、腑に落ちていた。
この「保留」は、占いとは何か、ということ、そして
自分はどこを目指しているのか、ということだ。
私は今、自分が、文章を書くこと以外にノウがないことと、
小説を書くためのいくつかの能力が自分に徹底的に欠如していることを知っている。
そして、今、かつて幾度かのりこえてきたのと同じような、
ある種の「岐路」に立っていると感じている。
そういう状態で、阿藤さんに会った。
インタビューするにあたり、阿藤さんが作家であるという「前提」は、
そんなわけで、私にとっては脅威でもあり、福音でもあったのだ。
阿藤さんとは、このインタビュー以前にも一度、お会いしたことがあった。
彼女の知人がその印象を「スーパーボールみたい」と評したそうだが、まさに言い得て妙だと思った。
小柄で「あいくるしい」という表現がピタリとはまる阿藤さんは、
その清楚な小花柄のような印象からは想像もつかないほど
魂の激しさとぎゅっと稠密に詰まった世界観を持った、完全な「作家」なのだ。
この場合の「完全な」は
クオリティとかそういうことを指しているのではない。
それ以外のものになりようがない、という意味で完全なのだ。
彼女の筆の先からも、口からも、およそ彼女の血肉に根ざさない言葉は出てこない。
全て何らかの形で彼女の細胞が生み出した、滋養に満ちた有機野菜みたいな言葉だ。
このいきいきとした生き物の感触は、言葉を使うに当たってその目的地が違うためにうまれる。
人はコミュニケーションしようとして言葉を語るが
彼女は自らの絵を描くために言葉を語るのだ。
それは誰かに伝達され利用される、意図を持った「情報」ではない。
なにげないヒトコトでも、冗談でも、借り物の言葉は出てこない。
それは「そういうふうにしかならない」のだ。
阿藤さんは長らく演劇の世界で活動をしている。
その当初は、女優だった。自分で演じていたのだ。
それがあとになって、劇作家、つまり脚本を書く側に転じた。
かつて、彼女はあるパフォーマンス集団に所属し、ヨーロッパ公演に出かけた。
パフォーマンスには阿藤さんの他に、もう2人の女優さんが出演していた。
公演旅行はとてもタイトなスケジュールで、
夜は満足に眠れず、食事の事情も良くなく、
舞台の合間、阿藤さんは共演の女優さんの一人といっしょに、
目の下に大きくクマを作りながら「辛いね、苦しいね」と愚痴を語り合った。
そして、ステージに立ち、阿藤さんは身体の不調をこらえながら演技をした。
だが。
さっきまで同じように青い顔をして愚痴を言い合っていた彼女のほうは、違った。
目は輝き、目の下のクマは消え去り、みちがえるようになっていた。
さらにステージが進むにつれて、疲れるどころか、
どんどんいきいきとよみがえっていくのだった。
この様子を、阿藤さんは「舞台の上で光合成するんです」と言った。
役者というのは、上手か下手かではない、とそのとき思ったんです。
どんなに辛くても、疲れていても、舞台の上でお客さんを前にすると、
そこでどんどんチャージできるのが、役者なんです。
舞台があってお客さんがいる、というそのシチュエーションで光合成できる人、
というのがいて、それは私とは民族が違うんだ、種族が違うんだ、と思ったんです。
阿藤さんは女優から劇作家に転身した。
周囲もそれを勧めてくれて、ごく自然にそうなった。
そして、そのことが正しかったと感じている。
いわゆるそういう「民族」「種族」だったわけである。
演劇という世界に住む民族であるという意味においては女優さん達と同じだけれど
その中でも細かい種族や部族があるのだ。
そのなかの、自分は「劇作家」という種族である。
こういうアイデンティファイが、実感を伴って、阿藤さんの日常に根を張っている。
この「民族が違う」という言い方は、すごくおもしろかった。
阿藤さんは現在、専門学校でお芝居を教えているが、
教える上でも、そういうふうに見るようになった。
演技がうまいかへたかではなくて、そういう民族かどうか、なんです。
もしそういう民族の人だったら、ヘタだろうが何だろうが、やるしかないんです。
「才能」とか、「適性」とか、そういう言葉がある。
でも、こういうふうにいろんな方とお会いして感じるのは
才能や適性ということが語られるときの言葉の貧困だ。
貴方は才能がある、貴方は適性が高い、という言い方の、そのなんと浅いことか。
人間社会はものすごく分業されていて、
みんなとても特殊なポジションで仕事をしている。
多くの人が「こんなことは誰がやっても同じだ」と思いながら日々、
目の前の仕事に注力しているが、
果たして本当に「誰がやっても同じ」なのだろうか。
あるいは。
「誰がやっても同じ」というのは、成果から逆算した「才能」の話である。
この結果は、誰がやっても同じように出る、という考え方である。
でも、この「誰が」のほうが実は、問題なのかもしれない。
つまり、誰もが、自分が思っているほど「オールマイティ」ではない、ということだ。
「私はとても平凡です」
という言い方は、ほんとはとても思い上がった言いぐさなのかもしれない。
「フツウの幸せが欲しい」
なんて、荒唐無稽なイマジネーションなのかもしれない。
人はみんな、他の人と比較して驚くほど「特殊」で、
ほとんど「ある一つか二つのことにしか使えない」存在なのかもしれない。
そのことにたどり着くまでにいくつもの挫折を必要とする人もいれば
一直線にたどり着く人もいるのだろう。
阿藤さんはかつて、ある夢を見た。
一人のおじいさんが、猿に餌をやっていた。
そのおじいさんが「神様」だということを、阿藤さんは知っていた。
それで、彼女は「神様に聞きたいことを聞かなきゃ!」と意気込んだ。
神様に会えるなんて滅多にないチャンスだ、
せっかく逢えたんだから肝心なことを是非とも、聞いておかなければ。
そう思って、焦りつつも力を込めて聞いたことは、これだった。
「演劇は、ありますか?」
小説を書いても、占いを書いても、こうした文章を書いていても
私はいつも心の中に引っかかりを感じ続けている。
阿藤さんもやっぱり、それを感じたのだ。
演劇は社会の役に立っているのだろうか。
単なる、演じる側の自己満足に過ぎないんじゃないだろうか。
人の心に影響を与える、元気を出してもらう、とは言うけれど
それは本当に社会や人々にとって、必要なことなんだろうか。
仕事って、もっと大事なものがたくさんあるじゃないか。
アフリカではたくさんの難民が飢餓に苦しみ、
常に世界のどこかで戦争が起こっている。
理不尽な搾取、理不尽な犯罪、虐げられて孤独な人々。
そういう社会においてこれを立派な仕事と呼べるのか。
「演劇は『ある』のか」
つまり、この社会の中に、演劇ってものは「アリ」なのか。
これが、阿藤さんの、夢の中の神様への質問だった。
これから先も、廃れずに、必要とされて、それが必要であって、「あり」続けるのか。
神様が答える前に、目が覚めた。
でも、彼女はその答えは「ある」だということがわかっていた。
最近、阿藤さんは「ツォツィ」という映画を見た。
南アフリカのアパルトヘイトを描いた映画だった。
映画館を出てから、一緒に見ていたお母さんに、阿藤さんは聞いてみた。
「もし世の中が天国みたいに平和になったら、文学はなくなるかなあ」
お母さんは少し考えてから、こう答えた。
「人の死と恋愛はあるから、文学はある。安心しい」
人の心が痛む限り、そして、その痛みが人が生きることの根本にあるかぎり、
文学はなくならないのだった。
たしかに、そうかもしれない。
歴史的に、演劇は小説よりも前からある、のだそうだ。
歴史の黎明期、人間が物心ついた頃からすでに、演劇はあった。
どんな民族にも、どんな文化にも、演劇に類するものが存在する。
そして、今もある。
映画やドラマ、舞台など、日々誰もが「芝居」に接している。
観客がいて、ステージがあって、そこでドラマが展開する。
人がいる限りそれはずっとあるだろうとおもう、と阿藤さんは言った。
何に役に立っているかは、口では言えないけれど、
何にもなっていないけれど必要なものなんだ、という確信が、今はある。
何の意味があってやっているのか解らないし、
たとえば舞台なら舞台で、お客さんが5,6人しかいなかったとしたら
結局その人達にしか影響を与えないわけだけれど、
でも。
「あると思いますね」
阿藤さんは、何度も言い方を変えながら、そう語った。
私にはまだ解らないのだ。
占いが「あり」なのかどうかもわからないし、
文章創作というものが「あり」なのかどうかもわからない。
阿藤さんのようには、確信が持てない。
多分、もっとちゃんとした仕事をしなくちゃ、と思っている自分が
常に心のどこかにいて
「自分で思ったことを文章にする」というようなこんなわけのわからないことを
「仕事」と呼びたがっている自分に罪悪感や恥を感じながら生きている。
ただ、同じ疑問を発しながら、
それを肯定できる人を見ていて、その言葉を聞いていることは
私にとって、快いことだった。
それは、自分が肯定されているような気持ち、というのではなくて
なんというか、生まれたばかりの赤ん坊を見ているような、
もぎたてのつやつやしたみずみずしい果実をながめているような、
そんな感じだった。
そこに、絶対的にいいものがあって
それは私のものじゃないけれど、それを見ているのは気分がいいのだった。
私は徹底的にわだかまっている。
自分の中に、ふてくされてすねたようなものがうずくまっている。
阿藤さんは一時、芝居作りに疲れ果て、絶望して
小説を書こうと思い立ったことがある。
10頁ほど書いて、そこで
「私は作家なのかもしれない」
と思ったそうだ。
そこまでなら、だれにでも一回くらいはありそうな話なのだが
阿藤さんは更に先を行った。
彼女はそこで、家族全員に手紙を書いたのだ。
「私は作家になってしまいました、そうなっちゃったみたいです」と。
これは、単なる職業選択の宣言のように見える。でもその真意はべつのところにあった。
たとえば、阿藤さんが家族のことを描くとする。
この家族が作中では完全なフィクションで想像上の家族だったとしても、
阿藤さんが作家であることを知っている友人知己は、なんとなく
それが阿藤さん自身の家族をモデルにしているのでは、と思うだろう。
或いは、阿藤さん自身が意識しなくても、
やはり、自分の基本的な部分を培った人間関係である家族の姿は
作中の人物のなかににじみ出て、現れ出てしまうだろう。
そういう意味で、阿藤さんが作家になるということ
すなわち、阿藤さんの家族が作家の家族となるということは、
阿藤さんにとって
「ひとことことわっておかなければならないこと」
だったのだ。
作家になるということは、家族に影響を及ぼすということ、だったのだ。
迷惑をかけるかもしれないし、恥ずかしさを感じさせるかもしれない。
そういうことだった。
阿藤さんは、自分の脚本の舞台を見に行くのが大好きなのだ。
お客さんが喜んでくれて、感動したり反応したりしてくれるのを見るのが大好きで、
その表情を見たいし、もう、お客さんに触りたい!と思う、と、
いかにも嬉しそうに言った。
批判されたり苦言を呈されたりすることはないんですか、と私が聞くと、
劇場でお芝居を見終わって「阿藤さんですね」と声をかけてくる人は
芝居を気に入って、褒めてくれる人たちなんです、と笑った。
なるほど。気に入らなかったらさっさと帰るだろう。
彼女は、「見ている人に影響を与える」ということを意識している。
阿藤さんは以前、妊婦をテーマとした作品を書くよう頼まれたことがある。
そのとき、彼女は出産や妊娠に関することを徹底的に調べた。
人は、ある種の表現を「自分のこと」として受け取ることがある。
自分も体験したことがあること、自分が今まさにその状態にあることなどが
芝居や文学で表現されているとき、
人は「自分のことが描かれている」と感じる。
そして、そこに自分の体験とのズレや、いい加減にまとめて描かれたことがあると、
怒りを感じたり、深く傷ついたりする。
そういう「影響」を、阿藤さんはこのとき、文字通り「触る」かのように意識した。
だからそのときはすっごくしらべました、と彼女は言った。
誰かに影響を与える
ということは、私には、とてもおこがましい考え方のように思える。
私なんかがだれかに影響を与えることがあるとは思えない
というのが、私のスタートラインとなった基本的なスタンスだ。
それは個人的な関係においても、表現の場においても、そうだった。
誰かに影響を与えるかもしれない、なんて思い上がったことは思えない。
誰も私の言うことなんか本気にしないだろう、と、思いこんでいるフシがある。
だから、阿藤さんが「家族や観客に影響を与える」ということを
とても生々しく、真剣に感じ、そこに責任を負おうとし、
活動の意味を見いだそうとしているのを見て、
私は身体の芯が冷たくなっていくような感じがした。
そして同時に、あの「民族」と言い方を使うとしたら
この人は創作する側、そして発信する側の「民族」なのだろう、と思った。
そういう種族なのだ。
自分の「表現」が他者に影響を及ぼすということを解っているのだ。
だれしも、他者に影響を与えることができる。
誠実な人ほど、それを知っている。
「私なんか誰にも影響を与えたりできないだろう」
という想定は、一見、謙虚な態度に見える。
でも実はそうじゃない。
たとえば、私が誰かに恋の告白をしたとする。
そのとき、相手は私に気がなかったとして、
その人は私にどういうふうに反応するだろうか。
その相手がもし、「自分なんか誰にも影響を与えないだろう」と思っていたら
おそらく、曖昧な返事をしたりごまかしたりして
自然消滅させようとするだろう。
自分が相手を何とも思っていないのと同様、
相手も、一時的な気の迷いを忘れてくれるだろう、と思うかもしれない。
一方、「自分は相手に影響を与えるのだ」と考える人だったら
「ごめんね、そんな気持ちはもてない」とはっきり言うだろう。
はっきり言わなければ、相手はずっと同じ気持ちでいるだろうし
曖昧なことを言えば、期待してしまうだろうと予測できるからだ。
後者の方が誠実なのだ。
おそらく、自分が相手に対して与える影響が大きい、と想定する人のほうが
一見傲慢で自意識過剰のように見えて
実は、誠実で責任感のある人、なのだ。
人が人に影響を与える。
つまり、誰かの心を動かしたり、
誰かを変化させることができたりする、ということだ。
阿藤さんはそれを、ごく当然のこととして語る。
とても基本的な、ありのままのこととして語る。
お芝居を作り、観客に触れ、その感動した表情を見てきた彼女にとって
自分がやったことが誰かに「影響を与える」というのは
まったく「リアル」な光景なのだろう。
私は文章を書くけれど、
それを読んでいる最中の人とか
読んだ「直後」の人とかに接したことはほぼ、ない。
読後の表情を見ることなどできない。
読者は私からはとても遠くにいる。
紙の向こう、ディスプレイの向こう、どこか彼方にいる。
だから、このところレクチャーやサイン会などのイベントで読者の方に会うとき、
常に動揺し、どうしたらいいかわからない、という気持ちを味わっていた。
読みました、と直接伝えて頂き、感想を言って頂きながら、
そのことをどう捉えていいかわからなかった。
自分が人の心を動かしたり、「影響を与え」たりすることがあるなんて
どこか半信半疑で、そのことを解っていなかったのだ。
阿藤さんはそれを知っているのだ。
だから彼女は生命力と色彩ではちきれそうに膨らんだ蓮のつぼみのように
強力な世界観で自分を満たしてそれを外にはじけ飛ばすことができるのだ。
そこに幾重にも「自分」を重ねていくことができるのだ。
ものを調べ、考え、人と接し、言葉を練って、
そうして、身体全体を通して表現していくことが可能なのだ。
私は阿藤さんに会う前、彼女の作品を3つほど読んでいた。
骨組みが堅牢で稠密かつ繊細、彼女には目の前にないものが細かく見えるのだ。
それは私も経験したことがある。
見えていることを書く。
ただしその「見えているもの」は、自分以外の人には見えない。
それをいったんバラして再度組み立てなおすようにして言葉をつむいでいくとき、
他人の頭の中に一つの世界を描き出すことができる。
その脳細胞を動かしてある画像を作り出すことができる。
その映像は、私たちが見ているのと同じものでは決してない。
でも、一つの形ある世界であって、実体なのだ。
この奇妙な営為を、阿藤さんは「仕事」とよび、「ある」と確信している。
私はこれを疑っていて、中途半端に取り扱いかねて
手の中にもてあまして、ためつすがめつしている。
いつも同様、阿藤さんに、
一つ何か今お持ちのものの写真を撮らせて下さい、とお願いした。
彼女は一切迷うことなく、このノートを取り出してテーブルに置いた。
ナカミも見せて下さった。
黄色い柔らかい紙に、シャープペンシルやペンで
たくさんの破片が書き連ねてあった。
図や絵になっているページもあった。
構想を練り、いくつも言葉を試し、描き、
画家のクロッキー帳かスケッチブックのようだった。
私もこういうものを持っている。やっぱりそうだよねと思った。
すごくその「仕事する時の手触り」にリアリティがあって
そこにはものを書く人間の日常があって
彼女は
「これだけ長いことやっていても、
書くノウハウとか手順とかスタイルとか
全然決まっていないんです」
と言っていたけど
それこそがまさに、仕事のスタイルなんだなとおもった。
このノートの持ってる日常の感じが「仕事」で
それに関して阿藤さんが負っているものは
他者への影響であり、演劇が「ある」ということだった。
阿藤智恵さん、というペンネームは
彼女の愛する劇作家、アントン・チェーホフから来ている。
何もかもうまくいかなくて落ち込んだとき、
嘆きのあまりご自身の本名の字画が悪い、とお母さんに文句を言ったら、
お母さんがこうこたえたのだ。
「じゃあ、お母さんがペンネームをつけてあげるから、好きな作家の名前を言いなさい」
阿藤さんは「じゃあ、アントン・チェーホフ。」と言い、
お母さんはしばらく考えて「阿藤智恵」と、娘を再度命名したのだった。
阿藤さんはこの名前を、とても気に入った。
私は、この話を聞きながら、チェーホフの「三人姉妹」の一節を思い出した。
「やがて時が経つと、わたしたちも永久にこの世にわかれて、忘れられてしまう。
わたしたちの顔も、声も、なんにん姉妹だったかということも、
みんな忘れられてしまう・・・」
楽隊の音が鳴っていて、それを聞いていると、
自分たちが何のために苦しんで生きているのかわかるような気がする・・・
私がうろおぼえにそのあたりを口にすると、阿藤さんがひきとった。
そう、「それがわかったら、それがわかったらね!」。
チェーホフの「三人姉妹」は、胸がしめつけられるほど悲しい。
多くの人が味わっている悲しみが何種類も、
いたいたしいほどリアルに描かれている。
愛する人に愛されない痛み、愛する人と結ばれ得ない痛み、
所有しているものを奪われる痛み、価値あるものを地に落とす痛み。
様々な喪失と空疎が、幾重にも層を成して描かれている。
何のためにいきているのか、何のために苦しんでいるのか、
それがわかったらね!という長女オーリガのセリフは、
詠嘆というよりも悲鳴に近い圧力を感じさせる。
オーリガではなく自分がそれを言ったような気がして
自分の声がアタマの後ろから聞こえてくるような気がしてどきりとするのだ。
阿藤さんは、自分が作品を作る時はいつも
それを見た人が、生きていきたい、と思うようなものをつくりたい、と言った。
見た人が、明日からも生きていこう、と思えるような演劇を作りたい。
阿藤さんが「大好き」というチェーホフのこの悲しみは、
それと矛盾するような気がした。
私がそう言うと、阿藤さんは、こう答えた。
確かに、どの作品でも、チェーホフの書く人々は苦しんだり悲しんだりしていて
救いようがないように見えます、
でもそういうふうに苦しんだり悲しんだりしている人たちの姿が
たまらなく美しいんです。
チェーホフはそれをきっと、とてもいとおしいと思っていたと思うんです。
だから、登場人物の苦しさや悲しみを見たあとで、
自分は明日から生きていこう、と思える。
それは、その生きているありのままの姿がうつくしくいとおしいからなんです。
阿藤さんのお話を聞いているその間中、
ここに書ききれない様々な、おもしろい話と言葉に心を奪われながらも
私はずっと一つのことを思っていた。
それは、私が大好きなエリック・ホッファーの一文をもじったものだった。
「もし、私に絵が描けたら、この人の肖像画を何枚も何枚も描くだろう。」
私は、彼女の話を必死にメモしながら、そのメモの中にこの一文を滑り込ませることに成功した。
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彼女の話を聞きながら、頭に浮かんだ一節がもうひとつあった。
少し長いけれど引用する。
サマセット・モームの「サミングアップ」より。
「・・世界では何百万もの人が飢餓線上にあり、地球上の広い部分で自由が死につつあるか既に死んでいる状態にある。恐ろしい戦争が数年おきに繰り返され、その間は無数の人にとって幸福は手の届かないところにあるのだ。人生に価値を見いだせぬ人がいるし、また、何世紀もの間、苦難に耐えることを可能にしていた未来への希望がはかない夢に終わりそうだと知って、呆然となった人もいる。こういう厳しい世界を思うと、芝居や物語や小説を書くのは、いかにも無益ではないかと自問せざるを得ない。私の考え得る唯一の答えは、作家の中には書く以外のことが何もできないように生まれついた者もいる、というものだ。書きたいから書くのでなく、書かざるを得ないから書く。世の中にはもっと差し迫ってすべきことがあるのかもしれないが、魂を創造の重荷から解放せねばならないのだ。たとえローマが燃えていても書いているのだ、世間の人は、消火のためにバケツ一杯の水も運ばないからと軽蔑するだろうが、仕方がない。バケツの運び方を知らないのだから。それに、火事を見ると心が躍り、様々な表現で頭がいっぱいになるのだ。」
ものを書く人間だけじゃない、
火事を見てバケツを運ぶしかない人、
火事を見てバケツを運ぶ人を組織するしかない人、
火事を見て火事のことを他人に伝えようと走るしかない人、
みんな「そうするしかない」人なのであって、他のことは、できそうでもできないのだ。
そして、その「そうするしかないこと」にたどり着くために
ほかの「本質的にはできないこと」をいくつか経験しなければならないことも多い。
これは迂回でも迷子でもなく、クリティカル・パスなのだ。
阿藤さんの「仕事」はそういうふうに決まっていて
そして、おそらく全ての人がきっと、こういうふうに自分の「仕事」を決めているはずだと思った。
モームのこの一文は、社会的人間がその社会の中で自分の位置を得るということそのものを
語っているような気がするのだ。
■[interview]3rd-Kさん
「インタビュー」3人目は、20代後半のKさんという女性だ。
Kさんの住む街は、私にとっては懐かしい街だ。
小学校の頃4年ほど、そこから1駅の場所に住んでいたからだ。
そこは、そのあたりでは一番の繁華街で、
幾度も遊びに行った、小学生の私にとって特別な場所だった。
そこに行けば、ちょっと背伸びした大人の遊びができた。
大人の遊びといっても、お小遣いを持って商店街を歩くくらいだったけど
でも、電車に乗って街に行くのはトキメキのイベントだった。
子供の頃は駅に着くと必ず、
近くにあった串団子を食べた。
串団子というのは私にとって、幼少の頃から
みたらしだんごと餡だんごしかなかった。
この2種類だった。
だが、ここにはそうではないものがあった。
磯辺だんごである。
おもちにおしょうゆを刷毛で塗って、それにおのりがまきつけてあるのである。
子供だった私はこの団子を見た時感動し
それ以来、ここに行けばこの磯辺団子を食べていた。
あれからウン十年
久々にこの駅に降り立つと
パブロフの犬状態に口の中が磯辺団子の味でいっぱいになった。
おそるべし
子供時代の味覚体験。
しかし。
ウン十年ぶりの駅前から
昔の面影は跡形もなく消えていた。
駅ビルが建ち、駅前ロータリーは高架となり
いわゆる「地方都市の駅前」の典型、
どこに行っても同じ構造のあの景色に変わっていた。
駅を出ると空中に広場があり、そこから通路があちこちに伸びている、あの風景だ。
日本の地方都市の主要駅は、どこだろうがみんな同じである。
一事が万事、この調子である。
立川や町田に行った時は、
「ああ、地方都市はどこにいってもこうだよね」と思っただけだった。
私はそこの昔の姿を知らないから、今の姿をあたりまえのように受け取ったのだ。
しかし今回は違った。
私は、ここの、昔の風景を知っているのである。
それが今は跡形もなく失われ、他の幾多の駅と全く変わらない、
コピーのような景色に変わってしまっているのである。
過去は過去であって、二度と戻ってこないのは解っている。
でも、これほど徹底的に「過去が失われてしまった」と感じたことはなかった。
だれでも、なんとなく、
懐かしい場所に行けば過去がそのままそこに残っていて
懐かしい人や懐かしい出来事に心の中で会える、と
思っているもんじゃないだろうか。
たとえ、そこにはもう、知っている人がいなくても、
あの出来事が二度と起こらないのは解っていても、
それでも、その場所がその風景を守ってくれている限り、
その思い出に出会えるし、その思い出がちゃんと、「確かにあったこと」だと
保証してもらえる気がするんじゃないだろうか。
この風景の様変わり、
私は思い出の世界から追い出されたような悲しみを感じて身震いした。
こんな気持ちは感じたことがなかったけれど
きっと多くの人が、景色が変わるたびに、こんな思いを感じているのだろう。
少し早めに着いたので、周辺をブラブラした。
かつての商店街が駅ビルの裏側に残っていて、少しホッとした。
商店街には地元資本のデパートがあって(多分今は違うのだろうけど)、
そこの屋上遊園地で小さな観覧車に乗るのが
小学生の私にとっては、至福の時間だったのだ。
今回はそこまでいけなかったけど、またこようとおもった。
時間になって、駅の構内にもどり、Kさんと待ち合わせた。
Kさんは20代後半の女性だ。
携帯で話しながら人混みの中に探し当てた彼女は、
クリーム色の肌がふわっとなめらかで、
ひとみがつやつやと木の実のようにひかる、かわいらしい方だった。
駅中のスターバックスに入って、座席を選んだ。
Kさんのおなかには赤ちゃんがいる。
禁煙席と喫煙席の別があるのかな、と店内を見回したが、表示はない。
Kさんが「このお店は全席禁煙なんです」と教えてくれた。
そうか、ちゃんとチェック済みなのだ。
前述の通り、Kさんは妊娠中である。
旦那さんはもともと子供をほしがっていて、
Kさんも子供は嫌いじゃない、というかむしろ
小児科で医療事務の仕事をしていたこともあるくらい、好きなほうだったので
結婚3年目を迎え、自然にそうなった。
結婚して旦那さんと暮らすうち、Kさんの心に、ある疑問が湧いてきたのだそうだ。
子供ができて、いっそうその疑問が気になりだした。
インタビューへのご応募メールでもそのことにはすこし、触れられていて
このインタビューでは、そこが目的地になるのかな、と思ったが
どうも、そうではなかった。
なんとなく、そのテーマは、重要なターミナル駅のような感じで
何度もそこに戻って、乗り換えをして
だんだん、そのあたりの地域を探検していくような、そんな対話になった。
Kさんは長女で、
親御さんは共働きだったが、おばあさんも同居していて
大変かわいがられたのだそうだ。
「あんたは最初の子供だから、蝶よ花よと大事に大事に育てたんだよ」
と言われて育った。
それで、自分でもごく自然に、そう思っていた。
だが、結婚してから、そのことに疑問符が付いた。
すなわち。
大事に育てたんだよ、蝶よ花よと育てたんだよ、という
繰り返し言われたそのことは
果たして、ほんとにそうだったのだろうか、ということである。
子供時代の話、学生時代の話を、夫とすると、
どうも「それはおかしいよ」と言われるようなエピソードがたくさん出てくるのだ。
そう指摘されて、確かに自分でもオカシイと思い始めた。
この疑念から、あらためていろいろ思い返してみると
様々な思い出がよみがえった。
中学から高校に進学する時も、
一緒に考えたり相談したりする気配はなかった。
担任の先生に促されて初めて、関心を持った様子だった。
成人式の時も、自分でローンを組んで準備した。
朝早くから着付けに行ったら、
美容院ではたくさんの家族が来ていて、
お母さんがつきっきりであれこれ世話を焼いているのに、Kさんは一人だった。
家に帰ったら「どうしたの?」と驚かれた。
両親は、その日が成人式だと気づいていなかったのだった。
高校を出たあと就職したけど、
肉体的にあまりにハードな労働条件で身体をこわして転職を余儀なくされ
その後、資格取得のために稼ぎながら学校にいった時、
金銭的にも肉体的にも相当厳しい状況だったのに、
何の関心も示さず、サポートもしてくれなかった。
確かに両親は子供をかわいがろうとしていたのかもしれない。
でもそれは、自分の都合に合わせて子供を、
いわばおもちゃのように扱っていただけで
本当は、Kさんのことなど、考えていなかったんじゃないだろうか。
Kさんはそう考えはじめた。
このことはKさんから見た風景であり、
おそらく、親御さんに話を聞けば、
また違った事情や物語が展開されるのだろう。
説明や補足、記憶のズレなどが出てくるだろう。
それは、どちらが正しいとか間違いとかではなく、どうしようもなくそうなのだ。
主観とはそもそも、そうしたものだろうと思う。
更に言えば、こういうことには「客観」はない、と私は考えている。
恋愛関係や親子関係のような、密接で、内的で、濃度の高い関係性の場において、
「客観的事実」というのは存在しないはずだ。
ただそこには、参加している人間の人数分だけ「主観」があって
あくまで「主観」同士が、
食い違ったり解り合ったり重なり合ったり反転したりするだけなのだ。
大事なのは、「客観的に見て、誰が何をしたか」ではなく
「おのおのの主観の中に、何が生起したか」だけ、なのだ。
ここでは、Kさんの親御さんが彼女に対してほんとに無関心だったかどうか、
あるいは、そのような行動をしたか、が問題になるのではなくて
Kさんが、そのように扱われたと「感じた」こと、
あるいは、おそらく
その思い出について、今、怒りや悲しみのような、
いや、そのような名前では何とも呼びにくいような、
深く冷たい、解きほぐしがたい結び目のような思いを
不安や疑問という名前で呼びながら抱えている、そのことだけが
一番大事な、厳然とここにあるテーマなのだ。
どうしてそうなったんだとか、誰の責任だとか、事実はどうだとか、
そんなことは問題ではない。
少なくとも、たとえば私が誰かに寂しかった体験を話したとして
私はその人に、そういうふうに思って欲しいと思った。
誰が悪いとか悪くないとか、私の勘違いだとか、そういうことじゃなくて
ただ私が悲しかったのだということを知ってくれればいいとおもった。
そのほかのことは、自分でなんとかできるのだ。
なんとかするし、なんとかするしかない。
だれだってそうだ。
それを誇り高く引き受けているからこそ、こうして他人に語れるのだ。
Kさんは、子供ができて、子育てに関心を持った。
本を読んだり、子育てサークルに行ってみたり、いろいろな勉強をした。
子供ができた人たちは皆、とても嬉しそうだし、
みんな「おめでとう!」と祝福してくれる。
でも、Kさんは、そういう「盛り上がり」をどうしても、感じられなかった。
子供に関心が持てるかどうか、自信がなかった。
自分がやってもらえなかったことを、
どうやったら子供にしてあげられるだろう。
仕事なら、他の人がやっているのをお手本にしてできるじゃないですか、
とKさんは言った。
でも、子育ては、自分が親にされたことが「お手本」ですよね。
そうなると、どうしていいかわからない気がするんです。
Kさんが読んだ子育て本の中の1冊には、
「無視は一番の虐待である」
と書かれていた。
この一文は、Kさんの印象に強く残った。
無関心であること、無視すること。
両親は果たして自分に関心を持っていたのだろうか。
口では「大事にした」というけれど、本当のところはどうなんだろうか。
Kさんの両親は、両親ともに、それぞれ片親の家庭で育った。
両親の親たちも苦労を重ねていて、
おそらく、2人とも、
十分に関心を持ってもらって育った、とは言えないだろう、とKさんは言った。
Kさんの言うことはわかるような気がした。
ようは、両親も、お手本となるような子育てをされていなかったのかもしれないのだ。
確かに両親も、きっと、一生懸命だった。
ただ、どうすべきかがわからなかっただけ、なのかもしれない。
親子の関係性には、「相続」がある。
継承されていくものがある。
おばあさんが母親にしたことが、母から子へと何らかの形で受け継がれ、
さらに、その子供が自分の子供を持った時、同じことが形を変えて繰り返されていく。
何らかの自分の問題点に気づいた時、
多くの人が子供時代を思い出し、親との関係に疑問を感じる。
そして、その親を恨んだり批判したりするのだが
よくよく親に話を聞いてみると
その親もまた、自分の両親に似たような思いを強いられていたりする。
そこから更に、遡ることができることもある。
私自身、自分の心にある妙なクセに気づいて
それがどこからできあがったのが探った時、
やっぱり両親との関係の中になにかがある、と思ったけれど
その両親もまた、自分の子供時代、さまざまな体験をしていたし、
祖母や祖父にも、その源流となるような体験があったのだった。
だれでも子供の頃は、自分の環境を自分で変えることはできない。
子供は、あたえられた環境をすべて、そのまままるごと受け止めるしかない。
それが「当然なのだ」と思うしかない。そこで生き延びるしかない。
愛とゆたかさに恵まれて育つ人もいるだろうけれど、
否応なく重い荷物を背負わされる人もいる。
多くの人は何らかの形で
祖父母の代から、更にもっと前の代から連綿と受け継がれてしまった石ころや岩を
多少は、持たされているのだろう。
Kさんは、親を恨んでいる、というふうではなかった。
犯人捜しをして、犯人を見つけた!という感じでは、全くなかった。
ただ、親が自分に対して「大事にした」と言いながら、
そこにある種の無関心な態度があったとして
今度は自分が子供を持つことになったが
果たして、自分は愛情を持ってこの子を育てられるのだろうか、
という不安と疑問を感じているのだった。
さらに。
子供ができた時、つわりがきた。
五感が鋭くなり、身体の自由が少しずつ、奪われる。
行きたい場所にも行けなくなったり、気にしなければならないことが増える。
今までは「自分優先」だったのに、これからは「子供優先」になる。
そのことについての焦りや不安、怒りのようなものもある。
子供を持つということは、一時的にであれ、
自分の労力や身体や時間や、持っている全てのモノを
子供に与えてしまうということなのだ。
「自分」は後回しになる。
このことを、わだかまり無く受け入れられるのだろうか、という不安が
Kさんの中に、どんどん湧いてきた。
とはいえ、
Kさんは、子育てに関心を持ち、いろいろな媒体に触れ、
実に様々な情報を仕入れているのだ。
「子供に関心が持てないかもしれない」
「子供ができてわあっと盛り上がっている他の人たちに共感できない」
と言いながらも、
ものすごくよく勉強しているのだ。
話の端々に、それが出てくる。読んだ本、参加した勉強会、行ってみたサークル。
私ならこんなに熱心に動けるだろうか、と私は自問した。
確かに、身体の中にもう一人の人間が宿って
その人間に対して責任を負わなければならない、となったら
自分だって何をはじめるか解らない。
でも、やっぱり、
Kさんの心にあるものと、実際の行動とのギャップは、
とても印象的だった。
Kさんには姪御さんがいる。
姪御さんが生まれた時、Kさんは「おかしくなった」。
どうおかしくなったかというと、まさに「ねこっかわいがり」したのだ。
何でも買ってあげるし、何をされても腹が立たず、文字通り、あまやかしたおした。
かわいくてかわいくてしかがたなかったのだそうだ。
それと同じものが自分の手に入る、とは思えないんですね、と私は聞いた。
Kさんは、自分の子供っていうのは、また違うんじゃないかと思う、と、心もとなさそうに頷いた。
いつでも子供を最優先にできるかどうか、自信がないんです、と言った。
私には子供はいないけれど、その気持ちは想像できた。
Kさんの話は全般に淡々としていて、情緒的な感じではなかった。
悲しみに暮れたり、深刻になったりすることはなくて
自分を少し遠巻きにして「観察」している感じがあった。
以前、日本でワールドカップが開催された時、
Kさんは非常に入手困難なチケットを「当てた」ことがある。
大会よりもずいぶん前にその抽選があったので、
「当たった」という知らせが届いたのをそのままに、忘れるともなく忘れていた。
まあ、誰でも応募すれば当たっちゃうんだろうな、くらいの認識だった。
大会が近くなり、テレビでは
チケットが高額で売買されているというニュースが騒がれはじめた。
その値段を見てびっくりし、そういえば私もその紙を持ってる、と思い、探し出した。
サッカーには特に興味があるワケじゃなかったので、
結局、手続きをして知人に譲った。
お宝鑑定団とかに出ている人を見ると、気持ちがわかるんです、とKさんは言った。
自分ではその価値の解らないものをどこかに持っていて、
ある日突然、それはものすごい価値がありますよ! といわれてびっくりする、
あの気持ちがよくわかる気がするんです。
このセリフは、とても印象に残った。
なぜなら、私には、その気持ちが少しもわからないからだった。
多分、Kさんと同じような体験をしていたとしても、わからないだろうとおもった。
でもそういうことは、現実に、確かにあるのだ。
価値の解らないものを持っていて
それがある日、不意に、誰かに発見される。
自分でその価値を知る。
そういう体験が、ある。
驚きを感じ、それを使えるようになる。誰かにあげることもできる。
Sさんに会った時も、最初の方に話を聞いた時もそうだったけれど
お話をしていると必ず、こういう「印象的なひとこと」というのがある。
それは、その人がたどってきた道のりの中で得た、
ある「経験則」みたいなものじゃないかと思う。
その経験則は、その人の人生に繰り返し刻まれていて、
その人の価値観や特徴となってあらわれるのだろう。
だれもがそういうフレーズを一つか二つ、
いや、もっとたくさん、持っているものだろうと思う。
そういうフレーズは、自然にぽろりと出てきて、
聞いている人間の耳に残る。
ざあっと鳥肌が立って、今大切なことを言われたんだ、とわかる。
それは、私へのアドバイス、などじゃなくて、
言ってみれば、ある種の「知恵」なのだ。
特別な、その人が身をもって体験したところからしか現れない、「知恵」なのだ。
その人でなければ生み出せなかった、でも、ごく普遍的な「知恵」なのだ。
本当の知恵っていうのは、それを知ってるだけではどうにもならない。
それを知って実戦する、というのでもない。
ハウツーとか、イイ言葉とかでもない。
習慣や条件でもない。法則やルールでもない。
多分、誰かに出会ったり、なにか問題に直面したりした時、
その知恵が自然に、傘のように、ぱっとひらく。
その知恵が種のように芽を吹いて、花を咲かせる。
その人が意識するとしないとに関わらず
聞き手である私にとって慈雨となるその一言が
その人の生きようの奥底から、降り落ちてくる。
私は、この「価値あるものを持っていたことを不意に発見して驚く」ということが、
「大事にしていると言われ続けたのに、ほんとうは無関心だったのではないか」
ということと、何となく呼応しているなと思った。
呼び合っていて、呼吸のように、作用し合っているように思えた。
でもそれはいったい、どういうことなんだろう。
多分、Kさんは子供を産んで、そこで、たくさんの発見をするだろう。
Kさんは、物事に興味や関心を持つ前から行動し、
行動の中から、実体をすくい上げていくようなやり方を持っているようだ。
それは、お手本がない中で、彼女が繰り返してきた方針で
素晴らしいパワーを持っているように見えた。
「多分お子さんが生まれたら、気持ちも変わりますよ」
なんて言葉も思い浮かんだけど、そうじゃないんだと思った。
ただ、Kさんの子供が生まれたら、そこでKさんは確実に
なにかを発見して、そして、変化を遂げるだろうとは、思った。
その変化がどんなものなのか、想像はつかなかったけど、
でも、とても興味深く、ぜひ出産後にまた話を聞いてみたい、と思った。
そういう意味のことを話したら、
Kさんも、そう思います、と笑ってくれた。
■[interview]2nd-Sさん
「星占いをしないでお話を聞いてなにか書く」
というとらまえどころのない企画。
最初のインタビューは前述の通り、失敗に終わった。
そして数日後、2度目のインタビューを試みた。
午前中に東海道線に乗り、三島まで出かけた。
駅前で待ち合わせたSさんは、35歳の男性だ。
敏捷でやわらかな筋肉を感じさせる方で、
目のひかりの強い、いわゆる超がつくオトコマエであった。
学生時代、山盛りバレンタインチョコレートだったろうと確信した(未確認だが)。
わたくしのような文系不細工乙女OGには、相当まぶしい感じだったので
上がり症に輪がかかり、どうしよう、とまごついたのだが、
Sさんは自然に私のおちつき場所を
「ここね」とイスを決めるみたいに暗黙のうちに決めて下さって、
私はそこにいればいいのだ、と、自然にわかった。
Sさんは、もともと高校教師をしていらしたが、
脱サラして懐石料理の店に弟子入りし、
3年の修行の後、いくつかの小道を抜けてからそば屋を開店されたのだ。
なるほど、先生だったのか。
上記、絶妙の距離感に、さくっと納得がいった。
お話は、興味深いエピソードが特盛りつゆだくで、
お願いしていた2時間を軽くオーバーしてしまった。
Sさんが高校教師を辞めて懐石料理屋さんに修行に入ったのは、28歳のときだった。
これは、料理人の修行をするには「10年遅い」。
フツウは高卒ですぐ弟子入りするものなのだ。
さらに、弟子入りの面接で、お店の親方は、
料理人として形になるには「5年は必要」と言った。
でも、Sさんは、修行は3年、と心に決めていた。
この「心に決めていた」がおもしろかった。
なぜなら、Sさんは「心に決めていた」とおりにしたからだ。
それだけならなんてことないのだが、その「3年後」の状況が問題だった。
2年が経ってしばらくして、親方が脳梗塞で倒れたのだ。
他に兄弟子もいない時期で、Sさんはいきなり親方の代理を勤めることになった。
それまでも人手不足でスパルタに近い修行を強いられていたけれど、
これはきつかったらしい。
煮物を作って親方の入院している病院まで走り、味を見てもらってOKをもらう、
などというドタバタの状態だった。
応急的な処置で症状が回復すると、親方は一度退院し、店に戻った。
けれども根治したわけではなかったので、
改めて、大きな病院できちんと手術をすることになった。
手術をするとなると、また数ヶ月かかる。
この間、親方は、そのころ戻ってきていた兄弟子とSさんの2人に
店を任せるつもりだったのだろう。
だが、この時期はちょうど、Sさんにとっての「修行は3年」の年限にあたっていた。
Sさんは悩んだ。
お世話になった親方が病気で、兄弟子がいるとはいえ、
Sさんなしでは、お店は相当厳しい状況になるのは、解っていた。
フツウに考えたら、落ち着くまで店にいるのがスジだろう。
けれども、どうしてもこれ以上続けることはできない、と思った。
親方が退院してきた時、Sさんに言った言葉が引導だった。
「間に合ってよかった」
つまり、親方のいない店を切り回すことができるほどに
Sさんが修行を積みおえていてよかった、という意味だった。
もっと早い時期に倒れていたら、
休業せざるを得なかったかもしれなかった、ということだろう。
つまり、料理人としてある程度形になったということなのだ、とSさんは思った。
そして同時に、ここまできて、
料理人の修行は3年でも5年でもなく、一生かかるのだ、ということがわかっていた。
「自信と不安が双方向に同時に去来した感じ」とSさんは言った。
人よりも遅いスタートと、自分で決めた短い年限の分、
それまでのSさんには、焦りがあった。
でも、一通りの形になったということと、これからもずっと修行は続くのだということ、
この2つが腑に落ちた時、
これまでのムリな状況に際してSさんを支えてきた強いモチベーションが
がっくり落ちてしまったのだ。
5年は必要といわれたところを必死に3年で修めようとし、
さらに、親方不在という大きな山を乗り越えきったところで、
「タイミング」が来てしまった。
Sさんは、お店をやめることに決めた。
親方に辞意を伝えに行くと、当然、親方は怒った。
やめたい時期まではまだしばらく時間があったのだが、
「そんなつもりならもう明日から来なくていい」と激昂された。
これを真に受けて、Sさんはその日を限りにお店をやめてしまった。
こんな顛末なら、親方とSさんの関係修復は不可能のように思える。
でも、Sさんは違った。
親方が手術のため入院した病院に、Sさんはお見舞いに行ったのだ。
そこで謝罪をし、そんなに立ち入った話はしなかったけれど、
職人同士、お互いに通じ合うものがあった、解り合えたと思う、とSさんは言った。
このあと、親方は回復せずに、40代の若さで亡くなったのだそうだ。
危篤の報をうけたときはもう意識がなく、そのお見舞いが最後の対話となった。
お通夜の日にもお店の予約は入っていたので、弟子達が集まってお店を手伝った。
そのとき、Sさんは他の兄弟子達のやり方を見て、あることに気づいた。
料理屋には様々なカラーがあって、技術も千差万別なのだ。
だから、あるお店で修行をするとその店のやり方が身に付く。
一人でやっている場合も、自己流になっていく。
親方の弟子は、みんな、どこかほかの店から移ってきたり、他の店に移ったりしていて、
亡くなった親方の技術をそのままの形で受け継いでいるのは、
Sさんだけだったのだ。
それに気づいて、泣けて、告別式に出られないほど涙が止まらなかった、
とSさんは言った。
Sさんのお話の中には何度か、
誰かの期待や、誰かとの約束を、どうしようもなく裏切らざるを得ない、
という場面が出てきた。
でも、その相手については「今でもお世話になってます」というのだ。
私だったらそんなの、絶対に二度と相手に会えない、と思うようなシビアな状況でも、
Sさんはあとで、会いに行くのだ。
それで、そのあともずっと、関わっていく。
そのことが次のステップに進む時に、力になったり、きっかけになったりする。
怖くないのかなあ、どうして行けるのだろう、と、私は不思議で仕方がなかった。
「そんなのはありえない」と思いこんでいたものが、
「ある」場面をありありと見せつけられた気がして、動揺した。
自分の意志と周囲の期待や思いが食い違う時、
Sさんは悩むんだけれど、基本的には自分の意志に忠実だった。
でも、そこでは、関わる人々を「切り捨て」てはいない。
私にはそういう経験がほとんどないので、
それがどういう感触なのか、わからなかった。
Sさんは、最後のほうで、「僕は人に捨てられないんです」と言った。
それは、Sさんのほうが、人を捨ててないんだと思う、と私は思って、そう言ってみた。
行った行為と、それを行った「人」とが、
もしかしたら、頭の中で切り離して置かれているのかもしれない、と
後で考えてみた。
「罪を憎んで人を憎まず」
という言葉があるけれど、あれと似ている。
よく
「男は別れた女のことをいつまでも未練がましく思い出すけど、
女はあっさり忘れてしまう」
と言われるけど、これもなんとなく結びつく。
要は、ひっかきあいのケンカをしても、どんなに嫌なことがあっても、
時間がたつと「相手の行為」や「起こった出来事」はだんだん記憶の中でうすれていき、
「その人」だけが記憶として残るのかもしれない。
出来事ではなく、存在が心に残るのかもしれない。
もしそうだとしたら、確かに、時間が経てばまた、会いに行ける。
私は、自分の心の中にいる、もう立ち去ってしまった人の幾人かを想起して
その人達から「起こった出来事」を切り離してみた。
すると、その人達は一様に、穏やかで、少ししょんぼりして、
弱くて明るい様子になった。
話しかけることができそうな気がした。
もちろん、これは私の勝手な想像で、べつにそれがどう、というわけじゃないんだけど。
Sさんの選択については、
多分、この話を聞いた人によって、感想は様々だろうと思う。
自分にはそんな真似はできない、と思う人もいるだろうし、
深く共感する人もいるだろう。
その場にいなければ、本人でなければ、絶対にわかり得ないこともたくさんある。
だれもがそういう「現場」で、自分のこととして選択を続けている。
さらに、「もう一方の選択肢を試してみる」ことは
誰にも、絶対に、できない。
だからその選択の「是非」は、だれにも、決して、判らない。
だけど、私は「自分の意志に最終的には忠実である」ことは
基本的に最善の策だと思っている。
たとえそれがどんなに「状況」に逆らうように見えたとしても、
「ほんとにやりたくないこと」をやっていい結果が出ることは、多分
ありえないだろうと私は思っている。
でも、現実の中では、
「ほんとうはやりたくないことを、周囲のために選び取る」ことが
往々にして行われている。
ある種類の犯罪は、そのような環境を土壌にして生まれている。
賞味期限の書き換えとか、牛肉に他の肉を混ぜるとか、
多分、現場の人は「そんなことはしたくない」はずなのだ。
そしてそこで「みんなのために」「自分を守るために」選ばれた選択肢が
後でもっと大きな問題を引き起こしたりする。
自分の意志に忠実であることは、おそろしいことだ。
でも同時に、多分、正しいことでもある。
どちらが安全でどちらが危険、ということはないだろう。
あとで傷つくかもしれないリスクは、
自分の意志と周囲の期待のどちらを選ぼうが、
多分、大して変わらないのだ。
Sさんにお話を伺ったのは、お休みのお店の中だった。
私は、インタビューの時にはひとつ、皆さんにお願いしようと決めていたことがあり、
Sさんにもそれをお願いした。
それは、何でもイイからそのとき持っているものの写真をとらせてください、
ということだった。
Sさんは、じゃあ、この壁、と、お店の壁を指さした。
このお店は元々スナックだったのだ。
三島は東海道の宿場町として栄えた場所で、もともとこのあたりは遊郭だった。
ご多分に漏れず、そこは時代が下って歓楽街に姿を変え、今、地方都市なりに縮小が進んでいる。高齢化しているらしいです、71歳のママがいたりね、とSさんが教えてくれた。
昔はみんな若かったのだ。若くて綺麗で、華やかだったのだ。
未来がどうなるかなんて、誰も気にしていなかったのだ。
昨日と同じ今日が来て、今日と同じ明日を迎えているあいだに、
いつのまにか、71歳になってしまったのだろう。
そのおばあさんの気の遠くなるような「日常」が思われた。
お店の一番奥に位置するこのレンガの壁面は、
職人さんがきちんと積み上げたもので、今はこんなのにはなかなかお目にかかれない。
この壁が決め手となって、Sさんはここにお店を開いたのだった。
この壁は、ずっとスナックの壁で、ここでただカラオケを聞いていただけじゃなくて、
男と女の酸いも甘いも、みたいな、たくさんの場面を、
ずっと見つめてきたはずなんです、とSさんは言った。
私はその壁に触った。
固くて、ざらっとしていて、でも少しあったかいような気がした。
この壁の前で繰り広げられた、たくさんの物語のシーンを想像した。
女の人が泣いていたり、誰かが怒っていたり、グラスが割れたり、
誰もいないお店の中で誰かがギターを弾いたりしていたのだろう。
明け方、ママが扉を開けると、外の光と一緒にネコが帰ってきたのを見ただろう。
帰り際に見せて頂いたお店の前庭には、山野草が植わっていた。
秋だから、しっとりと静かな感じだったけれど、春にはスミレや小さな花も咲くのだろう。雑草はちゃんと根っこから抜かないとダメだよ、とかお客さんに言われるんです、と、Sさんは笑った。
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Sさんに伺ったお話の中では
絶対書きたいネタが少なくとももう2つ、ある。
また後日、書いちゃうと思う。
射手 2007/10/27 09:54 重版おめでとうございます。手元にあるゆかりさんの本は全て初版だぁ!とこちらまで妙に嬉しくなりました。手放す予定はありませんが、50年後お宝鑑定団にまとめて持って行こうかな。12月の出版も本当におめでとうございます。今からとっても楽しみにしてます。
iyukari 2007/10/27 09:56 ありがとうございます。ほんとに、完全に「お陰様」です。ありがとうございます。ひたすらうれしいです。感謝です。
みどり(かに3) 2007/10/27 10:06 重版決定、おめでとうございます!!
それは、本当にめでたいことです! いまや出版社もそう簡単には重版を決めません(たぶん)、「売り切れゴメン」で逃げ切ってしまうことが多いんです。そんな世の趨勢の中、重版が決まったということは、「星読み」がきっとコンスタントに売れ続けたから、だと推察します。つまり最初の勢いだけでなく、毎月何冊かずつ売れて、だからこそ重版してもきっと売りきれるだろう、と幻冬舎さんが判断したのでしょうね。いや〜、本当にすごいことです。
今日は銀座産経学園ですよね。こんなめでたいニュースを読んだ後で、お会いできること、嬉しいです。楽しみにしてます。
iyukari 2007/10/27 10:29 みどりさんありがとうございます!本日お目にかかれるのですね、楽しみにしております^^)
陸 2007/10/28 01:09 インタビュー記事、すごくおもしろかったです…(あまりに単純な言葉ですみません)
ぐんぐん引き込まれて一気に読んでしまいました。
そういったパーツの具体的な描写はなかったのに、読み終わった時に、Sさんの料理人としての『手』が頭に浮かんできました。
素敵な文章…ゆかりさん、かっこいいです!
ny(いて1) 2007/10/28 08:34 インタビュー、小説を読むような味わいです。と、男脳と女脳の違い思い出しました。嫌な事は忘れる男脳(リセット機能)。嫌な事をいつまでも忘れない女脳(学習機能)。ってことは、男前な脳になると’切り離し’思考になれそうですね。>どっちがいいというわけでなく。
千奈★水がめ1 2007/10/29 04:22 ゆかりさんへ♪
どうしても、どうしても、私事なのですが、報告したいことがあって!
つい先日、ゆかりさんの『虹』の日記を見て、『そうか〜、私、これからも頑張れるかどうか、その気持ちが本物かどうか、試されてるのかもしれない!』ということに気がついて、『ならば、答えは出てる!諦めない☆』って思えたその矢先!
『虹』の話じゃないけど、本当に予期してない時に欲しかった連絡が入り、思いっ切り私の純粋な気持ちをからかわれ(笑)、嘘でも嬉しい言葉をいっぱい言ってくれました☆
久しぶりに『進展』したような気がします☆
占いには、9月は山場とあったのに、個人的にも忙しく、何もやり取りができず、本当に不安でした。
今月も仕事面が大きく取り上げられていて、2年近くの私の努力はどうなるんだろう・・・と思うと、とても不安で。
でも、ゆかりさん、年報も、月報も、週報も、ここへ来て、大当たりです(笑)!
これから、もうお互いに私の気持ちを『公認』で(笑)、関わっていけそうです☆
不思議な、大変な『約2年』でした(笑)。
土星って凄いです・・・(笑)。
いえいえ、実は、これからが本番なのでして、夢を叶えるチャンスを頂いたと思って、まだまだ頑張ります☆
ゆかりさんのお陰です♪
何度も何度も、ゆかりさんの占いに救われて来たんですよ☆
本当に本当に、ありがとうです☆
ゆかりさんも重版おめでとうございます!
それから、ゆかりさんが星占いをして下さっていて、本当によかったです☆
実際にお会いできたことはないけれど、こうやってパソコンや携帯や本などを通じて、ゆかりさんとふれ合うことはできます☆
私、全然うまいこと言えませんが、ホロスコープとかは趣味程度でしか分かりませんが、私はただ純粋に、本当にゆかりさんの星占いが大好きです☆
ゆかりさんは星占いのプロだからこそ、星占いに関して悩んだりすることもあるんだな〜と思います。
違っていたら、ごめんなさい。。。
自信を持って、ゆかりさんの思ったようにトライしていって下さいね☆
どんなゆかりさんの占いでも、人によって伝わり方は違っても、全く通じないことや響かないことなんて無いと思います☆
大丈夫ですよ☆
応援しています☆
ゆ@てんびん。 2007/10/29 06:20 インタビューの記事を読んで、不思議と涙が止まらなかったです。
ゆかりさんの文章はとても気持ちが籠もってて、
一つ一つの出来事を大事になさってる感じがします。
ゆかりさんを身近に感じられる、暖かい文章だなあっていつも思っています。
だからみんな読みたくなるんでしょうね。もちろん私も。
重版、本当におめでとうございます。
ゆゆ@いて 2007/10/29 20:11 「傲慢さ」なんとなく、仰ることわかります。
わたしはカウンセリングの勉強をしています。
プライベートで出会うひとがなにか問題を抱えていそうなときに、
カウンセリング的な聴き方をするかどうか、葛藤を起こします。
それは傲慢じゃないのかって。
ゆかりさんが、権威を振りかざすって書かれたのを読んで、
わたしのやっていることもそうかも、とおもいました。
でも、自分のほうがなにか困っているとき、
ちょっと目線を変えられる言葉などをもらうと、うれしかったり、
有難く思っている自分もいます。
とくに、それが見ず知らずの人だったりすると尚更です。
そのひとの傲慢さ、快感を味わいたいという気持ちも感じるけど、
おせっかいだなあと思うけど、でも同時に、自分への思いやりの気持ちも
受け取ることができます。
困っているひとは、相手が傲慢であろうとなかろうと、それは二の次で、
自分自身が楽になれるかどうかが第一のテーマではないかとおもいます。
バーで出会った方の「ほぐし」確かに、その方は、ほぐされることまで
望んでおられなかったのかもしれませんね。
けれど、ゆかりさんは「ほぐしてあげたい」と思われた、その相手への気持ちは
事実としてあって、もしかしたらもっと別な「ほぐす方法」が適切だったかも、だけど、ゆかりさんの思い遣りを受け取れなかったのは、もしかしたら相手の女性の問題なのかもしれませんね。と思いました。
メメ 2007/11/01 14:51 初めてコメント致します。いつも週報、月報、メルマガなど、
石井さんの「星読み」楽しみに読んでいます。
ただ今回は、石井さんの仰っている事・なさっている事に疑問を感じたので
ちょっと思った事を残そうと思いました。
>要するに、私は星占いという眼鏡をかけて人やものをみているのだ。
>自分の、人間としての目では、人を見ていないのだ。
>無意識に、この世界を星占いという鋳型にはめようとしているのだ。
>生身の人間を、乾いたあの2次元の世界に押し込めようとしているのだ。
との事ですが…これの、何がおかしいんでしょう?いけないんでしょう?
だって、筋トレは「星読み」サイトであり、
このサイトでの石井さんと言う存在は、星読みをする人ですよね。
(もちろんあくまで「筋トレと言うサイトの中では」の話です)
見ている人は、数多有る星占いの中で、石井さんの読み方をあえて選んで見ている方達ですよ。
分かった上で毎週読んだり、思い当たる所に思いを馳せたり、あるいは質問や相談をしている訳です。
言い方を変えると、「石井さんの星占いの眼鏡で自分を見たい」、そう言う事だと思います。
お互い様です。お互いにそこを分かっていて欲しい。
眼鏡置いたらそれは別の話です。
もし石井さんがその眼鏡が不満で、外して同じ事をしたいなら、
それはそれで全く別の所でゼロから始めるべきなのでは?
正直言って今の状況(星読みサイトで星読みファンに呼びかけて星読み眼鏡なしの「読み」を行う)は
私のファンだから協力してくれる人だっているよね〜と
思いついた事に対して、都合良く手近な物使ってやってみようとしてるだけにしか…
「星読みサイト」で「星読み閲覧者」に対して呼びかけるのはちょっとフェアじゃないと感じてしまいます
まあ別に本人同士がそれでOKなら問題無い話なので、最初はそれ以上の感想を持っていませんでした。
乱暴な言い方になりますが、サイトでも何でも、
人気が出て来てコンテンツ・作品以上に作者の人気を感じられるようになると
それにあやかって頼み事をしたり、欲しい物をアピールしたりなんて事はよく有るし
それで閲覧者に助けて貰えるのもその人の実力です。おお、石井さんすごいな、そんな感じです。
でも今回このメッセージを読んでしまうと「…ええ?」と。。
石井さんご本人が、サイトコンテンツへの人気やニーズと
ご本人のしたい事、そして協力して貰える事、がゴチャゴチャになってるのかなあと感じました。
星読みサイトで得た人気や信頼を使って、
赤の他人の身の上を聞き出し、ただ自分の価値館や見る目だけで判断・分析する。
それってかなり危険だと思います。色んな意味で。
占い師なら占いを使っている。カウンセラーなら自分の修めた学問や研究に則っている。
これらは人が人を分析判断するのに必要な客観性、「ツール」です。
ツールを抜きにすると言う事は、それだけで「客観性」を欠く事になります。お互いに。
協力する人にはそれでいいのでしょうが…
その時点で既に「それでいい、この人に関わって貰えるなら」と言う、個人から個人への依存心が有るだけで。
全ての占い、占いをする側、占いを受ける側に言える事ですが
占いと言う眼鏡掛けてるからこそ
相談する方も色々喋るし読んでるって側面が有るでしょう。
昔から言われてる事ですがが、「占い師はカウンセリング能力も問われる。」
それゆえに、だんだん占い抜きに占い師に依存してしまう相談者もいる訳ですが
今石井さんが行っている事って、その逆の様に感じます。
占いする側による相談者への依存。
要するに占い抜きにして今までみたいな事をするって話。
それは…
新月 2007/11/01 20:30 メメさんに全く同感です。
心情的に応援はしたいけれど、
「石井ゆかり」業としてではなく、
他の名前で始めるのがスジかと感じました。
美都 2007/11/13 16:12 ちょっと年齢が行っているものです。かつて、あの年齢になったら、自信満々に生きていて人生は楽勝なんだろうな!と思っていた年代を次々と突破してみて・・。
どんなに立派な仕事をしている方でも、100%の自信で日々歩んではいないのだなと知ったことです。
そして、人は自分を知りたいがゆえに、だれかに自分と言うものを聞いて欲しいと思ったりします。
でも「全部、まず受け入れます。」という姿勢の人はなかなかいません。ゆかりさんの言葉、文章に触れ、この方ならと思ったからこそ、話してみたいと思ったのであって、この場発信だからこそ、実現できたのだろうと感じました。
占いにつながる何かが後ろに隠れていても、ゆかりさんという人に話してみたいと思ったのだと思います。
信頼をしていない人には、自分を語れないですし・・・。
語ったことで、さらに自分が見えて、驚いたり、蓋をしたくなったりもあるかと思います。占いには、本来そんな面もあるような気がします。
mikuri(蠍2) 2007/11/14 10:02 ゆかりさん、今回のこの内容、素晴らしいです。
私がゆかりさんの占いが好きなのは、多分にゆかりさんの文章力にあると思っています。
そして、占いの内容もさることながら、全然私自身について書かれているものでもないのに、驚くほどのシンクロがある事です。
『たとえそれがどんなに「状況」に逆らうように見えたとしても、「ほんとにやりたくないこと」をやっていい結果が出ることは、多分ありえないだろうと私は思っている。
でも、現実の中では、「ほんとうはやりたくないことを、周囲のために選び取る」ことが往々にして行われている。』
今、私は「ほんとうはやりたくない事を周囲のためにするかどうか」について悩んでいるところ、だったから。