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1592-1598
壬辰戦乱:文禄・慶長の役、朝鮮出兵、壬辰倭乱、万歴朝鮮役
by yasoshima
秀吉の朝鮮
出兵を調査中
●主な戦い 文禄の役(壬辰倭乱) 慶長の役(丁酉再乱)
●主要戦没者(武将・高官・要人) 日本 李氏朝鮮 明
●動員兵力 日本軍 明・朝鮮軍
●その他
1.李氏朝鮮の石高は?
2.李舜臣の幻影
3.主な戦闘の規模と李舜臣の戦場
4.朝鮮出兵の水軍概観
5.李舜臣プロバガンダ
6.鳴梁大捷のはずが逃げ回る李舜臣の航路図
7.文禄の役で李舜臣は何と戦っていたのか?
8.閑山島海戦はどれぐらい大勝利か?
主な戦い
●文禄の役(壬辰倭乱) page top
1592.
04.14 釜山鎮の戦い
04.15 東莱城の戦い
04.25 尚州の戦い
04.28 忠州弾琴台の戦い
05.03 漢城陥落
05.07 巨済島・玉浦・合浦の海戦
05.08 赤珍浦の海戦
05.18-28 臨津江の戦い
05.29 開城陥落
05.29 泗川の戦い
06.02 唐浦の海戦
06.05 唐項浦の海戦
06.05 龍仁の戦い
06.07 栗浦の海戦
06.15 平壌陥落
07.08-09 錦山(熊峙・梨峙)の戦い
07.08 閑山島の海戦
07.10 安骨浦の海戦
07.17 平壌攻撃(祖承訓の攻撃)
07.18-19 海汀倉の戦い
08.22 延安の戦い
09.03 釜山浦の海戦
09.16 鏡城の戦い
10.06-10 晋州城の戦い
10.16 咸興の戦い
11.15 吉州長平の戦い
1593
01.06-09 平壌の戦い
01.25-27 碧蹄館の戦い
02.12 幸州山城の戦い
06.19-29 晋州城の戦い
主な戦い
●慶長の役(丁酉再乱) page top
1597.
07.14-16 漆川梁の海戦
08.17 黄石山の戦い
08.13-16 南原城の戦い
09.06-07 稷山の戦い
09.16 鳴梁の海戦
12.23-01.04 第一次蔚山の戦い
1598
0922- 第二次蔚山の戦い
09.17-10.01 泗川の戦い
09.19-10.07 順天の戦い
11.19 露梁津の海戦
主要戦没者(武将・高官・要人)
●日本 page top
●戦死大名 日本
1597.9.16 鳴梁の海戦
来島通総(伊予鹿島1.4万石動員700人)
1592.10.24 陽智にて狩猟中に襲撃受け死亡
中川秀政(播磨三木14.0万石動員3000人)
●戦死属将・家臣 日本
1592.06.05 唐項浦の海戦
森 村春(蜂須賀家政家臣、3000石)
1592.06.14 大同江渡河前の戦い
木村智清(宗義智家臣侍大将)、黒田次郎兵衛(黒田家)
1592.06.? 順安城攻撃
志佐純高(松浦鎮信家臣志佐純意の嫡子)
1592.07.07 閑山島の海戦
脇坂左兵衛(脇坂安治家臣)、渡辺七右衛門(脇坂安治家臣)、
真鍋左馬允(脇坂安治家臣)
1592.07.17 平壌城守備
日高喜(松浦鎮信家臣甲斐守)、松浦源次郎(松浦家臣)、
1592.09.29 咸鏡道
西村半右衛門(鍋島家臣)
1592.10.上旬 咸鏡道
江口与左衛門(鍋島家臣)、三浦左右衛門允(鍋島家臣)
1592.12.?
竹内吉兵衛(小西家臣、講和使を明軍が処刑)
1592.? 阿波
光富権助(長曽我部元親家臣戦傷が元で阿波で死亡)
1593.01.08 平壌城の戦い
小西ルイス?(小西行長の弟?)、小西アントニオ(小西行長の従兄弟?)、
日比谷アゴスト(小西家臣日比谷了珪の孫)、
小野木又六(小野木重勝家臣重勝の弟)、太田弾正(五島家臣)、
太田江十郎(五島家臣)、青方新八(五島家臣)
1593.01.26 碧蹄館の会戦
十時連久(伝右衛門、立花宗茂家臣)、池辺永晟(龍右衛門、立花宗茂家臣)、
安東常久(善右衛門、立花宗茂家臣)、 小串成重(忠左衛門、立花宗茂家臣)、
小野成幸(立花宗茂家臣)、 横山景義(小早川秀包家臣)
1593.01.28 吉州城の戦い
山口与三右衛門(加藤清正家臣)
1592-1593○ 咸鏡道撤退までに陣没した鍋島家家臣
諸岡彦右衛門、永田源左衛門、横尾十五左衛門、
中島九郎兵衛(病死)、納富六郎、武藤主嘉允、
馬渡相右衛門、武藤新九郎、乙咸五兵衛、
高木内蔵助、姉川平右衛門(中務大輔)、水町平右衛門(丹後守)、
鹿江太郎左衛門、公文六郎兵衛、緒方牛之介、
1593.02.12 幸州山城攻め
明石与右衛門(宇喜多家臣)、戸崎彦右衛門尉(毛利家家臣)
1593.03.12 京城の西三里の戦い
中屋善四郎(毛利家家臣青原尾中山城主)、
1593.06.22-29 第二次晋州城攻め
△松井興之(細川忠興家臣、重臣松井康之の嫡男)
戦傷が元で1593.06.29死亡
1593.?熊川?
桑名親勝(長曽我部成親家臣1200石)
1597.02.22 蔚山
柳生久三郎(浅野幸長家臣厳勝の長男宗厳の嫡孫500石)
1597.09.16 鳴梁の海戦
得居通年(来島通之,伊予風早3000石,来島通総の兄)
菅正蔭(菅達長の第四子)
1597.12.27 蔚山籠城戦
冷泉元満(毛利輝元家臣)、阿曽沼元秀(毛利輝元家臣)、
都野家頼(毛利輝元家臣)、
原田信種(加藤清正家臣病死説有り)、貴田統治(加藤家臣孫兵衛)
??
和田頼国(堀内氏善家臣、勘之丞、数十人を率いた水軍の将)
●病死大名 日本
羽柴秀勝(美濃岐阜16.0万石1592.9.9巨済島)
加藤光泰(甲斐府中24.0万石1593.8.29西生浦)
五島純玄(肥前福江1.4万石1594.7.28熊川)
戸田勝隆(伊予大洲7.0万石1594.10.23帰国途中)
長谷川秀一(越前東郷槙山11.0万石1594.01.29?生還説有り)
池田秀雄(伊予国分8.0万石1597?)
牧村利貞(伊勢岩出2.6万石1593.07.02?)
足利(喜連川)国朝(?1593?)
伊東祐勝(伊東祐兵日向飫肥5.7万石?1594?帰国中日向)
●病死属将・家臣 日本
島津久保(義弘の子1593.9.8巨済島)
原田宗時(伊達家臣対馬原田城主山嶺源一郎の子)
戸沢光盛(戸沢家当主肥前名護屋途上)
色部長実(上杉家臣重臣)
岡 利勝(宇喜多家臣重臣)
松浦定(松浦家臣1593元宗家筋)
伊東義賢(伊東家臣伊東義益の子)
北郷忠虎(島津家臣加徳島時久の子)
平田歳宗(島津家臣1598平田光宗の子)
伊勢貞真(島津家臣1593有川貞則の子)
島津朝久(島津家臣1593巨済島豊州島津家当主)
島津忠辰(島津家臣薩州島津家当主薩摩摩出水領主)
桑折政長(伊達家臣1593釜山浦宗長の子石母田重長の父)
乃美宗勝(毛利家臣重臣乃美賢勝の子)
香宗我部親氏(長曽我部家臣1592香宗我部親秦の嫡男)
伊与木国安(長曽我部家臣幡多郡伊与木郷の伊与木城主高康の子)
江原親次(宇喜多家臣1598釜山浦宇喜多秀家の娘婿)
●戦死−病死 未分類 日本
1592明石右近(宇喜多秀家重臣、明石全登の子?)
1592梶佐古道尋(長曽我部成親家臣柳瀬五郎兵衛の三男)
△1593加藤重正(加藤清正家臣加藤可重[清左衛門、右馬允]の嫡男)
△1594吉見元頼(毛利輝元重臣、吉見広頼の嫡男)
1597土持久綱(高橋元種家臣土持久綱の嫡男)
1597須佐美甚太郎(加藤清正家臣須佐美紀伊守の養子)
1599? 平田宗正(島津義弘家臣重臣平田豊前守宗祇の子)
文禄? 木付直清(大友吉統家臣木付統直の嫡男鎮直の孫)
? 江上家種(鍋島家臣竜造寺隆信の二男蓮池城主)
? 小原信忠(宇喜多家臣)
? 牧源之丞(宇喜多家臣江原親次の義父)
? 深水頼蔵(加藤清正家臣西生浦?)
○戦死説有り生還大名 日本
亀井茲矩(因幡鹿野1.3万石。後に3.8万石,1612年死去)
細川興元(細川忠興の弟。後に谷田部1.6万石,1619年死去)
波多 親(松浦・壱岐8.0万石。鎮,信時,藤童丸,三河守。常陸の筑波山に配流後病没)
主要戦没者(武将・高官・要人)
●李氏朝鮮 page top
●文禄の役(壬辰倭乱)1592〜
1592.04.14釜山の戦い
鄭撥(釜山鎮僉使従三品)、尹興信(多大浦僉使従三品)
1592.04.15東莱城の戦い
宋象賢(東莱府使正三品)、洪允寛(助防長正三品?)、
趙英珪(梁山郡守従四品)、宋鳳寿(代将)、廬蓋邦(教授)
1592.04.26聞慶の戦い(尚州戦直後)
申吉元(聞慶県監従六品)
1592.04.28忠州の戦い
申[石立](三道都巡辺使?)、金汝[山勿](前義州牧使?)
李宗張(忠州牧使正三品)、
1592.05初 漢城入城前
張智賢(義兵将)
1592.05.18?臨津江の戦い
申[石吉](咸鏡兵使従二品)、劉克良(助防将?)
金百寿(義兵将?)、金光鋏(義兵将?)、洪鳳祥(軍官)
1592.06.05龍仁の戦い
白光峯?(先鋒将?)、李之詩(助防長?)、
李光仁(古阜府使?)、鄭淵(咸悦県監従六品)
1592.06.19江原道金化
元豪(原州牧使?、助防将正三品)
1592.07.全州熊峙の戦い
鄭湛(金提郡守従四品)
1592.07.10錦山の戦い
高敬命(義兵将?)、趙憲(義兵将?)、霊圭(義兵僧侶?)、
高因厚(義兵?)、柳彭老(義兵?)
1592.07.17 南海の弥助項の戦い
韓百禄(釜山僉使)
1592.07.18磨天嶺の戦い
元喜(富寧府使、正三品)
1592.07.末 安城
洪彦秀(義兵?)
1592.08.02彦陽攻め
金虎(義兵将?)
1592.09.01釜山攻撃
鄭運(鹿島万戸正四品)、尹思恭(前万戸?)
1592.09 仁同の戦い
張土珍(義兵将?)
1592.10.04第一次晋州城の戦い前哨戦
柳崇仁(慶州左兵使従二品)
1592.10.10第一次晋州城の戦い
金時敏(晋州牧使正三品)
1592.10.末 鉄原
沈岱(京畿観察使従二品)
1593.06.28第二次晋州城の戦い
崔慶会(慶尚右兵使従二品)、黄進(忠清兵使従二品)、
徐礼元(晋州牧使正三品)、李宗仁(??)、
金千鎰(義兵将?)、沈友信(義兵将?)
金俊民(巨済県令?)、姜希輔(義兵将?)
●慶長の役(丁酉再乱)1597〜1598
1597.06.10安骨浦・加徳島攻撃海戦
金軸(平山万戸正四品)、安弘国(宝城郡守従四品)
1597.07.16漆川梁の海戦[巨済島の戦い]
元均(三道水軍統制使正三品?)、李億祺(全羅道右水使正三品)
崔湖(忠清道水使正三品)、斐興立(興陽県監助防将従六品)
1597.08.16南原城の戦い
李福男(全羅道兵使従二品)、任鉉(南原府使正三品)
金敬老(助防将?)、申浩(別将(蛇龍山城)?)
呉応井(防御使?)、李徳恢(南原判官従五品)
李春元(求礼県監従六品)、呉応鼎(順天府使正三品)
鄭期遠(接伴使?)、閔濬(接伴使?)
1597.08.17黄石山城の戦い
郭[走ゾ(前 安陰県監?)、趙宗道(前 咸陽郡守?)
白土霖(前 金海府使?)
1598.10.02順天城攻撃海戦
黄世得(蛇渡僉水使従三品)
1598.11.18露梁津の海戦
李舜臣(三道水軍統制使正二品?)、李英男(加星浦水僉使従三品)
方徳龍(楽安郡守従四品)、高得蒋(興陽県監従六品)
●その他&未整理戦死者 李氏朝鮮
金練光(淮陽府使正三品)1592.05.中
李[王玉](慶尚道左兵使従二品)1592.05.12?李朝により処刑
申格(副元帥?)1592.05.18李朝により処刑
洪汝諄()1592反乱民により処刑
李渾(咸鏡南兵使従二品)1592.07反乱民により処刑
宋儒真(反乱将?)1593.01.?反乱により漢城攻撃前に処刑
李山謙(?)1593.02.?反乱により漢城攻撃前に処刑
(反乱将連座 呉允宗金千寿李春福金彦祥宗万福李秋金永)
金悌甲(原州牧使正三品)1593.06.29戦死
禹性伝(義兵将大司政正二品)1593.07.?慶尚道で追撃中疲労死
緒沫(星州牧使正三品)1593戦死
李夢鶴(反乱将?)1596.07.?忠清道で反乱後に処刑
金徳齢(反乱将?)1596.07.反乱の罪で処刑
孫仁甲(?前僉使?)
●捕虜 李氏朝鮮
臨海君(朝鮮国王の王子李H)
順和君(朝鮮国王の王子李[王土]ジク)
李弘業(鏡城判官従五品)
柳永立(咸鏡道観察使従二品)
韓克誠(咸鏡北道兵使従二品)
李彦誠(蔚山郡守従四品)1592.04.15東莱城の戦い
主要戦没者(武将・高官・要人)
●明 page top
●明軍戦死
1592.07.17平壌の戦い
載朝弁(参将)、史儒(遊撃)、
張国忠(?)、馬世隆(?)、
1598.01.04第一次蔚山城の戦い
廬継忠(参将)、楊万金(遊撃)、
1598.04.20 茂朱の戦い(咸陽沙斥駅)
李寧(副総兵)
1598.10.01 泗川の戦い
李寧(参将)、廬徳功(遊撃)、
1598.11.18露梁海戦戦死者
搦q龍(明水軍副将),陶明宰(中軍)
動員兵力
日本軍 page top
●文禄の役
▲第1軍
小西行長 7000人(肥後宇土 20.0万石)
宗義智 5000人(対馬府中 1.0万石)
松浦鎮信 3000人(肥前平戸 6.3万石)
有馬晴信 2000人(肥前日野江 4.0万石)
大村喜前 1000人(肥前大村 2.5万石)
五島純玄 700人(肥前五島 1.4万石)
▲第2軍
加藤清正 10000人(肥後熊本 19.5万石)
鍋島直茂 12000人(肥前佐賀 35.7万石)
相良頼房 800人(肥後人吉 1.8万石)
▲第3軍
黒田長政 5000人(豊前中津 18.0万石)
大友吉統 6000人(豊後府中 23.6万石)
▲第4軍
毛利吉成 2000人(豊前小倉 6.0万石)
島津義弘 10000人(薩摩大隅 60.5万石)
高橋元種 600人(日向県 5.0万石、以下4名で計2000人)
秋月種長 400人(日向財部 3.0万石)
伊東祐兵 600人(日向飫肥 5.7万石)
島津豊久 400人(日向佐土原 2.8万石)
▲第5軍
福島正則 4800人(伊予今治 20.0万石)
戸田勝隆 3900人(伊予大洲 7.0万石)
長宗我部元親 3000人(土佐浦戸 22.2万石)
蜂須賀家政 7200人(阿波徳島 17.7万石)
生駒親正 5500人(讃岐高松 15.0万石)
来島通総 700人(伊予風早 1.4万石)
▲第6軍
小早川隆景 10000人(筑前名島 35.7万石)
小早川秀包 1500人(筑後久留米 3.5万石)
立花宗茂 2500人(筑後柳川 9.9万石)
高橋直次 800人(筑後内山 1.8万石)
筑紫広門 900人(筑後山下 1.8万石)
▲第7軍
毛利輝元 30000人(安芸広島 120.0万石)
▲第8軍
宇喜多秀家 10000人(備前岡山 57.4万石)
▲第9軍
羽柴秀勝 8000人(美濃岐阜 24.0万石)
細川忠興 3500人(丹後宮津 23.0万石)
▲諸隊
中川秀政 3000人(播磨三木 14.0万石)
宮部長煕 2000人(因幡鳥取 13.1万石)
南条元清 1500人(伯耆羽衣石 6.0万石)
稲葉貞通 1400人(美濃郡上 4.0万石)
亀井茲矩 1000人(因幡鹿野 1.4万石)
木下重堅 850人(因幡若桜 2.0万石)
斎村広英 800人(但馬竹田 2.2万石)
明石則実 800人(但馬城崎 2.2万石)
別所吉治 500人(但馬八木 1.5万石)
垣屋恒総 400人(因幡浦住 1.0万石)
▲水軍
藤堂高虎 2000人(伊予粉河 2.0万石)
九鬼嘉隆 1500人(志摩鳥羽 3.0万石)
脇坂安治 1500人(淡路洲本 3.0万石)
加藤嘉明 750人(淡路志知 1.5万石)
菅平達長 250人(淡路岩屋 1.0万石)
桑山一晴 1000人(紀伊和歌山 2.0万石)
堀内氏善 850人(紀伊新宮 2.7万石)
杉若氏宗 650人(紀伊田辺 1.9万石)
▲奉行
石田三成 2000人(近江佐和山 19.4万石)
大谷吉継 1200人(越前府中 5.0万石)
増田長盛 1000人(近江水口 5.0万石)
加藤光泰 1000人(甲斐甲府 24.0万石)
前野長康 2000人(但馬出石 5.3万石)
●慶長の役 日本軍(一部推定) page top
▲右軍 計約64150人
毛利秀元 30000人(周防山口 120.0万石、全州会議後に毛利秀元20000人が中軍、吉川広家10000人が右軍)
加藤清正 10000人(肥後熊本 19.5万石)
黒田長政 5000人(豊前中津 18.0万石、全州会議後に中軍)
鍋島直茂 12000人(肥前佐賀 35.7万石)
池田秀雄 1650人(伊予大洲 1.2万石)
長宗我部元親 3000人(土佐浦戸 22.2万石)
中川秀成 2500人(豊後岡 7.4万石)
目付: 早川長政(全州会議後に中軍)、 垣見一直、 熊谷直盛。
▲左軍 計約48800人
宇喜多秀家10000人(備前岡山 57.4万石)
小西行長 7000人(肥後宇土 20.0万石)
宗 義智 1000人(対馬府中 1.0万石)
松浦鎮信 3000人(肥前平戸 6.3万石)
有馬晴信 2000人(肥前日野江 4.0万石)
大村喜前 1000人(肥前大村 2.5万石)
五島純玄 700人(肥前五島 1.4万石)
毛利吉成 2000人(豊前小倉 6.0万石)
蜂須賀家政 7200人(阿波徳島 17.7万石)
生駒親正 2700人(讃岐高松 15.0万石)
島津義弘 10000人(薩摩大隅 60.5万石)
秋月種長 300人(日向財部 3.0万石)
高橋元種 600人(日向県 5.0万石)
伊東祐兵 500人(日向飫肥 5.7万石)
相良頼房 800人(肥後人吉 1.8万石)
目付: 太田一吉、 竹中重利。
▲水軍(船手、左軍) 計約 7200人
藤堂高虎 2800人(伊予板島 8.3万石)
加藤嘉明 2400人(伊予松前 10.0万石)
脇坂安治 1200人(淡路洲本 3.3万石)
来島通総 600人(伊予ノ内 1.4万石)
菅平達長 250人(淡路岩屋 1.0万石)
目付: 毛利高政、
▲城番 計約20000人
小早川秀秋10000人(筑前名島 52.3万石)釜山浦城
立花宗茂 5000人(筑後柳川 13.2万石)安骨浦城
高橋直次 500人(筑後内山 1.8万石)加徳城
筑紫広門 500人(筑後山下 1.8万石)加徳城
小早川秀包 1000人(筑後久留米 3.5万石)竹島城
浅野幸長 3000人(甲斐府中 21.7万石)西生浦城
目付: 毛利重政。
動員兵力
●李氏朝鮮軍 動員 page top
(注記 下記の数字の妥当性信頼性は未検討)
1593.01.11 明軍 経略替画 袁黄 への朝鮮軍八道への布陣報告より
京城江華府
崔遠 4000人(全羅道兵使)
権徴 400人(京畿道巡察使)
金千鎰 3000人(倡義使)
禹性伝 2000人(義兵将)
水原府
権慄 4000人(全羅道巡察使)
揚州
高彦伯 2000人(防御使)
揚根郡
李軼 3000人(義兵将)
驪州
成泳 3000人(義兵将)
安城郡
洪李男 300人(助防将)
忠清道稷山
李沃 2800人(忠清道兵使)
平沢県 等
その他の軍 3000人
その他
その他の軍 5000人
慶尚左道
安東府
韓孝純 10000人(慶尚左道巡察使)
蔚山郡
朴晋 25000人(慶尚左道兵使)
昌寧県
成安 1000人(義兵将)
霊山県
辛[石甲] 1000人(義兵将)
慶尚左道
晋州
金誠一 15000人(慶尚左道巡察使)
昌原府
金時敏 15000人(慶尚左道兵使)
陜川郡
鄭仁弘 3000人(義兵将)
宣寧郡
郭再祐 2000人(義兵将)
居昌県
金? 5000人(義兵将)
全羅道
順天府
李舜臣 5000人(全羅左水使)
李億祺 10000人(全羅右水使)
その他の軍 10000人
咸鏡道
咸興府
成允文 5000人(咸鏡道兵使)
鏡城府
鄭文孚 5000人(評事)
安辺府
金友皐 100人(別将)
金信元 100人(助防将)
江原道
麟蹄県
姜紳 2000人(江原道巡察使)
平安道
順安県
鄭希玄 2000人(平安道左防御使)
李桂 300人(義兵将)
曹好益 300人(召募官)
龍岡県
金応瑞 7000人(平安道右防御使)
李思命 1000人(助防将)
大同江下流
金億秋 300人(舟師)
黄海道
黄州
李時言 1800人(黄海道左防御使)
載寧郡
金時老 3000人(黄海道右防御使)
延安府
李庭[香奄] 4000人(黄海道巡察使)
合計 17万2千4百人(←報告の数字)
但し、上記の数字の合計は166400人
●李氏朝鮮水軍 page top
1595.03.04 王朝への実数報告より
全羅左水使 李舜臣 戦員717/船員3072人、戦船26/亀船 5/偵船31隻
全羅右水使 李億祺 戦員425/船員2171人、戦船24/偵船24隻
慶尚左水使 李守一 戦員 31/船員 240人、戦船 3/偵船 3隻
慶尚右水使 斐楔 戦員 55/船員 398人、戦船10/偵船10隻
●文禄の役 明軍(先遣隊、遼東兵) page top
副総兵 祖承訓、
参将 載朝弁、郭夢徴、
遊撃 史儒、王守官、
兵力 5000人
●文禄の役 明軍 本隊
経略 宋応昌
提督 李如松
副総兵 楊元、李如柏、張世爵、任自強、祖承訓、孫守廉、
査大受、劉[糸廷]、
参将 李如梅、李如梧、方時春、楊紹先、李芳春、駱尚志、
葛逢夏、[イ冬]養中、憑仲纓、
遊撃 呉惟忠、李寧、梁心、趙文明、高徹、施朝卿、戚金、
高昇、銭世禎、銭世禎、婁大有、周易、王問、沈惟敬、
(未分類 王有権、王維貞、高策、王必廸、宋大斌、)
兵力 70000人
●慶長の役 明・李氏朝鮮軍 page top
1597年12月、蔚山へ南下した部隊
邢玠(経略)
本軍 計 8500人
明軍 8500人 楊鎬(経理)、麻貴(提督)、朝鮮軍 権慄(都元帥)
左協軍 計16600人
明軍12600人 李如梅(副総兵)
鮮軍 4000人 李時言(忠清兵使)
中協軍 計16900人
明軍11700人 高策 (副総兵)
鮮軍 5200人 成允門(慶尚右兵使)
右協軍 計23600人
明軍11600人 李芳春(副総兵)
鮮軍 3300人 鄭起龍(慶尚左兵使)
計 56900人(明軍44400人、朝鮮軍12500人)
1598年8月以降、南下した部隊
万世徳(経理)、 邢玠(総督)
東路軍 計29500人 蔚山の後、泗川へ
明軍24000人 麻貴(提督)
鮮軍 5500人 金王瑞()
中路軍 計15800人 泗川へ
明軍13500人 董一元(提督)
鮮軍 2300人 鄭起龍(慶尚右兵使)
西路軍 計23600人 順天へ
明軍13600人 劉[糸廷](提督)
鮮軍10000人 権慄(都元帥)、李時言(忠清兵使)、黄慎(全羅巡察使)、李光岳(全羅兵使)
水路軍 計20500人 順天へ
明軍13200人 陳璘[王+米/舛](都督)
鮮軍 7300人 李舜臣(三道統制使)
計 89400人(明軍64300人、朝鮮軍25100人)
●その他
1.李氏朝鮮の石高は? page top
朝鮮出兵時の李氏朝鮮の石高推定
秀吉の太閤検地による日本の石高は約1800万石と言われ人口も同程度と言われています。
●推定1
朝鮮半島の面積から気候の似ている同時代の日本の東北地方に換算してみる。
東北地方(6.7万km2山地62.0%太閤検地199万石)
↓
換算→朝鮮(約22万km2山地60-80%)●653万石。
参考 気候が温暖な中部地方の場合は
中部地方(6.7万km2山地70.9%太閤検地517万石)→▲1698万石
800万石〜1000万石程度?
2.李舜臣の幻影 page top
(大幅に暫定版)
政治的意図から脚色されすぎた感のある李舜臣について書いてみようとか思います。
東郷平八郎が李舜臣を誉めたという事実はなかったし、
李舜臣の攻撃により日本軍の補給が断たれたこともなかったし、
李舜臣は百戦百勝でもなかったし、
李舜臣は聖将でもなかった。
これらを踏まえて、李舜臣の実態に迫りたいと思います。
ちなみに「李舜臣」を同時代の日本の武将に例えると最近は「後藤又兵衛基次」が近いと思うようになりました。
3.主な戦闘の規模と李舜臣の戦場 page top
文禄慶長の役(壬辰倭乱、朝鮮出兵、1592-1598)における海戦はWW1における航空戦やWW2におけるアフリカ戦線のように物語としては華やかなものの、戦争の行方を浮沈させるような要素のない支戦線でした。
それは航続力や戦闘継続時間が短く、海岸に依存した当時の水軍特性によるもので、帆船などを使った西洋の海戦とは次元が異なり、陸軍や海岸支配に大きく制限を受けた水軍による戦いでした。
以下に主な戦いの規模を羅列しました。
陸戦については5〜10万人規模の陸戦が何度も繰り返されています。
海戦については大規模な海戦でも動員兵力としては両軍で2万人前後にす過ぎません。 さらに、操船のための船員がいることを考えれば戦闘員は更に減少します。
●文禄の役 投入兵力
約26,700人 1592.04 忠州野戦(小西行長、他18700。 申[石立]、他8000。)
約25,000人 1592.05 臨津江野戦(加藤清正10000。 金命元、他他15000。)
約51,500人 1592.06 龍仁野戦(脇坂安治1500。 李洸、他50000。)
約 7,500人■1592.06■閑山島海戦(脇坂安治1500。 李舜臣、他6000?)
約16,000人 1592.07 第一次平壌城戦(小西行長、他10000?。 祖承訓、他3000。 金命元、他3000。)
約27,900人 1592.10 第一次晋州城戦(細川忠興、他20000。 金時敏、他3800+援軍4100。)
約68,000人 1593.01 第二次平壌城戦(小西行長、他15000。 李如松、他43000。 金命元、他10000。)
約61,000人 1593.01 碧蹄館野戦(小早川隆景、他41000。 李如松、他20000。 金命元、他。)
約33,300人 1593.02 幸州山城戦(宇喜多秀家、他30000。 権慄、他2300+援軍1000。)
約96,400人 1593.06 第二次晋州城戦(宇喜多秀家、他93000。 崔慶会、他3400。)
●慶長の役 投入兵力
約23,000人■1597.07■漆川梁海戦(藤堂高虎、他7200+島津3000。 元均、他13000。)
約66,000人 1597.08 南原城戦(宇喜多秀家、他59000。 楊元、他3100。 李福男、他3000)
約13,000人 1597.09 稷山野戦(黒田長政、他5000。 解生、他8000。)
約 9,200人■1597.09■鳴梁海戦(藤堂高虎、他7200。 李舜臣、他2000。)
約86,500人 1597.12 第一次蔚山城戦(加藤清正、他10000+援軍20000。 楊鎬、他44000 。 権慄、他12500。)
約39,500人 1598.09 第二次蔚山城戦(加藤清正、他10000。麻貴、他24000。 金応瑞、他5500。)
約44,800人 1598.09 泗川城戦(島津義弘、他8000。 董一元、他34500。 鄭起龍、他2300。)
約62,600人 1598.09 順天城戦(小西行長、他13700。 劉[糸廷]、他26600+陳璘、他5000。 権慄、他10000+李舜臣、他7300。)
約20,300人■1598.11■露梁津海戦(島津義弘、他8000。 陳[王+米/舛]、他5000。 李舜臣、他7300。)
注記:
1.■は海戦。
2.中世の戦争なので計画数、実働数、想定数により数値の正誤があります。
異論については別の数字と根拠を提示した検討をお願いします。
3.主な出典、李?錫「壬辰戦乱史」、旧参謀本部「朝鮮役」等。
4.水軍の動員数は明確ではなく、下記報告より概算で「戦船×約100人」として想定した。
1595.03.04 李舜臣の報告 鮮軍 計136隻(戦船68/偵船68)、計7109人(戦員1228/船員5881)
1597.05.17 韓孝純の報告 鮮軍 戦船134隻、13200人。
なお、日本水軍については逆に隻数が明確でない。
海戦へ投入された隻数と兵力(戦闘員+船員)はさらに考察の必要がある。
4.朝鮮出兵の水軍概観 page top
4.朝鮮出兵の水軍概観
a.1592.04-緒戦の釜山近辺の朝鮮水軍の敗北及び自滅(文禄の役 開戦)
b.1592.05-朝鮮水軍による釜山西方へ展開していた輸送船攻撃(李舜臣の活躍)
c.1592.07-急造日本水軍の編成と迎撃の失敗(閑山島海戦)
d.1592.09-日本側沿岸防御戦術の確立と李舜臣艦隊の攻撃失敗(釜山攻撃,熊川攻撃等)
e.1597.07-準備された日本水軍の逆襲と朝鮮水軍の壊滅(慶長の役 開戦,漆川梁海戦)
f.1597.08-日本軍の水陸並進作戦の成功(慶長の役 緒戦-南原城攻略まで)
g.1597.09-日本水軍先遣隊の敗北(鳴梁海戦)と李舜臣水軍の群山までの後退
h.1597.11-日本陸軍の全羅道撤退と朝鮮水軍の南岸への再進出
i.1598.09-明鮮陸水軍による順天城攻撃と失敗
j.1598.11-日本救援水軍の迎撃と順天封鎖の失敗(露梁海戦)
まとめ
1.戦役全般に渡って日本の兵站ラインである「名護屋(九州)-壱岐-対馬-釜山」の海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
2.日本側は当初水上決戦思想も攻撃水軍も準備して居らず、南岸を西進する作戦もなかった。
3.水軍は陸軍を追い出せないが、陸軍は水軍を追い払うことが出来る。
基本的に当時の航海には毎晩停泊する沿岸が必要であり、敵勢力下の沿岸に停泊すると逆襲により壊滅する恐れがあるので、水軍の活動圏は沿岸情勢によって大きく制限された。
4.同規模で船体攻撃指向の朝鮮水軍と船員攻撃指向の日本水軍が正面切って戦えば朝鮮水軍が有利。
5.停泊中の水軍が襲撃を受けると戦闘力が発揮できず極めて脆弱。
6.停泊中でも陸上からの援護が受けられる場合は攻撃側水軍が不利。
秀吉の朝鮮出兵で李舜臣が阻止したと言われる「水陸並進作戦」とは何か?
「水陸並進作戦」の定義を「同一の攻略目標に向かって陸軍と水軍が海路と陸路からお互いに連絡を取り合い、協力して障害を排除しつつ信仰する作戦」とした場合。
この定義を適用すると朝鮮出兵で日本軍の行った水陸並進作戦と呼べるのは慶長の役(1597.08)緒戦の釜山から南原攻略までの作戦、また第一次蔚山城攻防戦(1597.12-1598.01)の援軍が釜山から陸路と海路に分かれて同時攻撃を行った事例ぐらいと考える。
以下は水陸並進作戦とは言わない。
例1、輸送船が陸兵を乗せて釜山へ上陸する。
例2.陸軍が全羅道西岸を制圧して李舜臣の行動を拘束する。
5.李舜臣プロバガンダ page top
今や韓国での李舜臣観は、三国志に於ける蜀の豪傑 関羽が関聖帝君(関帝、旧くは武神・現在は主に商業の神)として神格化された如く、あるいは戦前日本が忠義の手本として楠木正成を持て囃して政治利用したように、救国の英雄、不敗の名将・・・様々なプロパガンダにより、抗日の象徴としてIDOL化されている。
また、同時に俗説の流布と粉飾によって、等身大の評価が疎かになっていることも事実である。
これら伝説が流布され、秀吉の朝鮮出兵に於いて水軍敗因説が通説となって今に至る背景には下記の様な経緯が考えられる。
(現状、急造版なので一部記憶から作成しているが、大筋は間違っていないものと思う)
1.根底にある問題
日本に於ける源義経の人気の根元に「平家物語」「義経記」などの元本、そしてそれらを活用した講談本や演劇などで繰り返し民衆に親しまれてきた民衆史観があることは有名である。
李舜臣を抜擢した同派閥の柳成龍(李氏朝鮮王朝の高官として戦役を指導)の残した「懲リ録」、李舜臣自身の残した「乱中日記」が自己賞賛・自己弁護的傾向にあり、今日に至るまで、これらの記録が繰り返し先行研究されてきた。
朝鮮では乱中日記を忠武公全書として編集した。
日本では懲リ録は江戸時代の日本で翻訳・出版、乱中日記は朝鮮総督府によって原文が刊行された。
2.水軍敗因論の萌芽
緒戦で李氏朝鮮側に見るべき勝利がなく、退勢にあった戦局で李舜臣が希な勝利を挙げたこと、及び戦意高揚のためのプロパガンダとしてリアルタイムで李舜臣を賞賛・昇進させたこと。
緒戦の外交交渉で小西行長が「いずれ西海に日本水軍が現れ逃げ場はなくなるので降伏しろ」との恫喝を真に受け、同派閥の李舜臣の勝利を結びつけることにより、政権の中枢にいた柳成龍が「懲リ録」に「日本君は水陸並進作戦を企画していたが李舜臣によって挫折した」と評価・記述したこと。
(実際には積極戦闘用の水軍は編成されず、海路侵攻作戦も存在しなかった)
3.李氏朝鮮での李舜臣プロパガンダ
戦役直後の功臣顕彰では李舜臣は元均と権慄と共に三人が最高の評価を受けていた。
その後、異民族撃退の為の戦意高揚策として過去の実績から李舜臣を顕彰し、外敵に抗す官僚の手本として忠武公全書を刊行するなどの再顕彰を行った。
ただし、この時点では国民国家でない李氏朝鮮で無学な民衆に李舜臣の功績が浸透したとは思えない。
4.水軍敗因論の定着
太平の世が続いた江戸時代、太平記や忠臣蔵の物語が流行したように、庶民の娯楽として書籍や演劇によって歴史講談が普及した。
また、一時は臣従・運営までしていた豊臣政権を簒奪した徳川政権は、晩年の豊臣秀吉や石田三成を貶め、徳川政権を正当化するために豊臣秀次の粛清や朝鮮出兵を愚行と位置付けた。
この結果、秀吉の朝鮮出兵の民衆史観として分かり易い敗因が必要となり、前述1項の李氏朝鮮に於ける李舜臣評価を考証なしに輸入し、「戦闘に於ける敗北=戦役の失敗」という誤解を内包しつつも民衆に受け入れやすい通説が流布されることとなった。
(分かり易い敗北の無かった陸戦と違い、海戦の敗北を戦役の敗北と結びつけた史観の成立、歴史講談や日本外史で語り継がれていった)
この通説は細かい検証を為されないまま日本中に普及し、明治以降も拡大再生産されることとなる。
5.日本海軍のプロパガンダ
明治海軍は組織的には陸軍より生まれ、陸海軍並立の統帥組織となった。
このため予算の確保は死活問題であり、島国である日本の海防を国民に宣伝し海軍権益拡大の為の支持を得る工作を行った。
このため、当時一世を風靡したマハンの海上権力理論を支持し、独自の研究にも取り入れたが、この時日本海防史上の失敗例として秀吉の朝鮮出兵に於ける水軍敗因説を採用し、明治海軍は詳細な研究の無いままに、通説に便乗して李舜臣を海軍拡大の道具に利用した。
つまり、李舜臣を褒め称え、引き替えに軍艦建造や海軍拡大の予算を獲得していたのである。
(この結果、西洋初期の李舜臣観は日本の講談史観に影響されること大である)
一方、韓国併合条約によって李氏朝鮮の遺民を日本国民として統治する必要のあった日本政府は国民国家に相応しい民衆教育の一環として朝鮮に於ける郷土の英雄として李舜臣の逸話を普及させた。
しかし、それでも大日本帝国は学問としての日本の歴史としての朝鮮出兵史の近代的研究を続けていくこととなる。
6.戦後日本の転向
太平洋戦争の敗戦によって、日本の価値観は大きく変質した。
戦前の国粋的な民衆迎合の拡張論は影を潜め、戦争反省という美名に基づいた侵略アレルギーによって通常国家に於ける通常の軍備・教育とうが歪み、萎縮していく。
同時に秀吉の朝鮮侵略もタブー視されて冷静さを失い、学問研究としてはむしろ戦後の方が後退しているようにしか思えない。
また、歴史小説などの題材としても政治的な圧力を恐れて朝鮮出兵に冠する記述はほとんどスルーされてきた。
教科書記述だけでなく江戸時代の民衆史観へ先祖返りしたままの状態が60年以上も続いている。
7.独立後の韓国のIDOL
戦後の日本の動きに逆行するが如く、新興独立国となった韓国では国民の一体感の保持、手のひらを返したように反日政策が施行され教育や研究も多分に政治的なものとなった。
つまり日帝が軍拡や国民教育に利用していた李舜臣観をそのまま韓国の政治のために利用したのである。
このため李舜臣の評価に否定的な考察はほぼ定着していないと言えよう。
8.学問としての朝鮮出兵
まあ、秀吉の朝鮮出兵に水軍敗因論(李舜臣勝因論)を持ち出す韓国人には「日帝の尻尾」とでも称す、称号進呈を行うべきでしょう。
そして、そろそろ戦後を終わられる時が来ているのではないかと思う。
●評価の冷静性
不思議に思って調べ始めたこの分野、色々な史料や研究資料を見ていく内に、ようやく自分なりの歴史観を持つことが出来ました。
それは、朝鮮出兵の最大の問題は「後方を喪失した侵攻」が何をもたらすのかと言うことであり、また水軍の能力についても「制海権を左右するのは当時の陸上依存の過大な水軍による決戦ではなく、陸軍による沿岸支配」にあると言うこと。
そして、下記の研究に行き当たり「我が意を得たり」と納得すると共に、偏向・非普及の現状に憂慮を示し、意訳を引用します。
引用元は「朝鮮役水軍史」有馬成甫著、空と海社、1942.01(執筆は開戦直前)より統括からの意訳。
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1.秀吉の朝鮮出兵に於ける水軍敗因論の否定
論者の多くは朝鮮役が成功しなかった原因を日本水軍の不利に求めている。
これは「海上権力(制海権)の掌握は全局面を支配する」と言うマハンの海上権力論に基づく論理である。しかし、この論理は更に検討を必要としていると思う。
マハン以来、今日に至って海上権力なる語が多く用いられて居るが、厳密に言えばマハン時代の海上権力なる理念と、朝鮮役当時の事情とは全くその境遇を異にして居た。
マハン時代は軍艦を以て水上兵力の全部と認識し、従って敵水上兵力を破壊すれば海上権力を掌握することが出来たのである。
しかし、潜水艦が出現し、更に航空機の戦闘力が進歩するに至り、今や単純に敵水上兵力の破壊のみを以て、海上権力の掌握を意味することは出来なくなった。
これと同様に未だ機械力が充分進歩せず、艦船の戦闘行動が多分に風浪の支配を受けていた時代に遡れば、マハンの言っていた意味の海上権力なる思想は適用することは出来ない。
換言すれば朝鮮役時代にあっては、陸上作戦の助けなく水上兵力のみにでは敵水上兵力を破壊することは到底出来なかったのである。
「海を制するものは世界を征服する」と言う事がよく言われている。
この理念は一見真理のように感じるが、事実は異なる。
英国を例に取ると、陸を制し、空を制し、資源を制してこそ、艦隊が持つ力が発揮され、世界を制することが出来るのであるが、海のみを制すべくどのように艦隊を運用しようとしても、その背面力が欠けている場合は、決して世界制覇の大業を遂げることは出来ないのであることを明記しなくてはならない。
現在進行中の英独戦争について見てもこれは明瞭なことである。
朝鮮役の場合に於いては、朝鮮水軍は度々我が水軍の一部を破壊したが、進んで我が兵站交通線を脅かすことも出来ず、或いは我が作戦を妨害する程積極的な行動にも出ることが出来ず、結局朝鮮水軍は海上権力を掌握することが出来なかったのである。
従って我が水軍もまた海上権力を失墜したと言うことが出来ない。
つまり「海上権力が失墜したが故に全戦局が不利に陥った」と言う論理も成り立たないのである。
要するに陸上の兵力と海上の兵力とは、相互に密接不可分の関係にあるものであるから、只単に水軍のみの立場から海上権力の喪失を以て朝鮮役が成功しなかったと言う論理は、事実的に正鵠を得ていないのみならず、理念としても誤っていると言うべきである。
換言すれば、マハンの海上権力理論は朝鮮役の場合は当てはまらない。
同様に今次の欧州戦争に於いてもまた同じと言わねばならない。
2.秀吉の朝鮮出兵に於ける教訓と分析
朝鮮役の教訓は至る所で連戦連勝した我が軍が何故終極的な成功を見なかったという点に帰すべきであろう。
この点は現下我国の直面している支那事変に於いて、特に甚深の考慮を為さなくてはならないことである。
一言にして言えば再び朝鮮役が如き不覚を繰り返さない様、国民の研究と努力とを必要とすると言うことである。
思うに、戦争の勝敗を決する要素は決して単純なものではない。
局部的な戦闘の勝敗−陸・海・空各軍に至り、南北東西の各方面に広がり、年月を重ねる戦闘の成果、そして前線の軍隊をして遺憾なくその能力を発揮させる銃後の政治力、工業力、資源力、輸送力等の充実。戦闘の成功を有効にする外交の活躍等、幾多の国家としての要素が総括累積したものが一戦役の総決算となるのである。
そして、その核心を形成するのは言うまでもなく人的要素であって、実に国民の志気如何にあることを銘記しなくてはならない。
困苦欠乏に遭っては蔚山籠城に示した将士の苦忍を偲び、大敵に遭っては泗川新塞に島津軍の顕した善謀勇闘を思い、また敵方の甘言に接しては小西の陥れる錯誤に鑑み、それら貴重なる先輩の体験を活用し、以て今次事変の戦果を全うし、皇威発揚の終極的成果を確保するため努力することは、これ当今我が国民の直面する責務であると言わねばならない。
朝鮮役水軍史を叙すに際し一言所見に及ぶことしきり。
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6.鳴梁大捷のはずが逃げ回る李舜臣の航路 page top
1597.
09.16−李舜臣 狭い鳴梁海峡で地の利を生かした迎撃戦を企画(乱中日記)
09.17−李舜臣 早朝倭船200隻発見の報告.侵攻する倭船133隻を迎撃31隻を撃破,馬多時(菅"又四郎"正陰?)を斬る.倭船は侵攻を諦めた.風と潮流で停泊できず,夜半に唐笥島へ後退(乱中日記)
−李舜臣が鳴梁で侵攻してきた倭船200隻を12隻で撃退,馬多時(菅"又四郎"正陰?)を斬った.(懲リ録)
−藤堂、脇坂、菅、加藤らが大船14隻,小船数百隻駐屯の水営城を襲撃.毛利高政、藤堂高虎は敵船に切り込み負傷.大風が吹いて敵船は撤退,夕暮れに敵船小船数隻を撃破(毛利高棟文書)
−水営に敵船代償13隻を発見,海流が早いため中型船のみで攻撃したところ先鋒の過半が被害を受けて来島通総戦死,毛利高政と藤堂高虎負傷.5時から20時まで戦闘が続いた.風を待って鳴梁海峡を抜けて追撃したが敵船を捕捉できなかった(高山公実録)
−全羅道の珍島にて日本勢が李舜臣と不利な海戦を行って菅又四郎正陰が戦死(直茂公譜考補)
09.18−李舜臣 北上,於外島に移動,避難民多数に遭遇.(乱中日記)
−李舜臣 避難船約300隻に遭遇,勝利の祝辞と食料を受領(追記版:乱中日記)
−藤堂、脇坂ら、鳴梁海戦の戦場を見廻り、敵船の皆無を確認(毛利高棟文書)
09.19−李舜臣 於外島で2名戦死,2名重傷[当日の被害?](追記版:乱中日記)
−藤堂、脇坂、菅、加藤が戦勝報告(毛利高棟文書)
09.20−李舜臣 北上,法聖浦が日本陸軍に制圧済み(乱中日記)
09.21−李舜臣 北上,蝟島で多数の避難民と避難船に遭遇.(乱中日記)
09.22−李舜臣 北上,古群山島に滞在(乱中日記)
09.23−姜コウ 霊光沖で藤堂水軍の信七郎の捕虜(看羊録)
09.24−姜コウ 務安に朝鮮-人捕虜集結,和船数千隻.後に右水営-順天を通って日本へ移送(看羊録)
09.27−鄭希得 七山島で阿波水軍の森忠村の捕虜(月峯海上録)
10.09−李舜臣 右水営へ帰還,城内外共に人気が無く悲惨[後に制圧されていた麗水の左水営に帰還したときと同じ感想](乱中日記)
10.11−李舜臣 安便島へ移動,暫く滞在(乱中日記)
10.29−李舜臣 根拠地を右水営でなく木浦へ据える(乱中日記)
●鳴梁海戦概観
1597年、慶長の役が始まり南原城攻略後に明暦08.25の全州会議以後日本軍は4軍に分かれて分進する。
日本水軍の構成は計7600人[藤堂高虎(2800人,伊予板島8.3万石), 脇坂安治(1200人,淡路洲本3.3万石), 加藤嘉明(2800人,伊予松前6.0万石), 来島通総( 600人,伊予風早1.4万石), 菅 達長( 200人,淡路岩屋1.0万石) ]
一方、07.16の漆川梁海戦の朝鮮水軍大敗後に水軍統制使に再任された李舜臣は戦力を再構築しつつも日本水軍の進撃を抑えられず後退を続ける。
そのような情勢下で鳴梁海峡の地の利を生かして日本水軍の先鋒部隊に一撃を加えたのが鳴梁海戦であり、来島通総、得居通年[来島道之]、菅正陰が戦死し、藤堂高虎や毛利高政が負傷した。
しかし、戦力比は如何ともし難く、日本水軍本隊との対決を避けた李舜臣は戦場を放棄して海戦即日より撤退した。
日本水軍の鳴梁海面の制海権を保持したため、海戦直後に右水営の水軍基地、対岸の珍島を攻略し、更に全羅道西岸へ進出して約一ヶ月間の掃討を行った。
李舜臣は約一ヶ月の間、北方へ退避したのちに日本の水軍及び陸軍の全羅道撤退を確認してから再進出を行っている。
当時の水軍の活動には陸上支援が不可欠であり、鳴梁海戦と同時期に日本左軍による全羅道掃討作戦のため、李舜臣は制海権を失ったと言える。
また、日本水軍の後退も朝鮮水軍の前進も、陸上の敵味方の制圧状態とリンクしている。
7.文禄の役で李舜臣は何と戦っていたのか? page top
8.閑山島海戦はどれぐらい大勝利か? page top
NAVER韓国人に聞くと、李舜臣のもっとも偉大な勝利は閑山島海戦らしく、曰く「世界四大海戦」、曰く「日本水軍が8980人を失った海戦」だそうで韓国で検索しても多数ヒットします。
しかし、豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱)に於ける「閑山島海戦」は果たしてどれぐらいの大勝利だったのでしょうか?
●a.閑山島海戦の概要
閑山島海戦は、文禄の役における海戦の一つ。
文禄元年(1592年)7月7日に閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治の水軍が朝鮮水軍の誘引戦術により撃破された。
●b.閑山島大捷の作り方
まず初めに李舜臣を韓国最大の英雄であると絶対的に盲信します。
そして李舜臣賛美の為の韓国歴史司祭の言葉を決して疑ったり批判しません。
1.李舜臣の戦果報告、倭船の発見数を大船36隻+中船24隻+小船13=計73隻、撃破・拿捕を大船35隻+中船17隻+小船7隻=計59隻としています。(見乃梁破倭状)
2.大船を安宅船、中船を関船、小船を小早船と置換して解釈します。
3.魔法係数の安宅船=200人、関船=100人、小早船=40人を撃破・拿捕に代入し、全損兵員と解釈します。
4.結果、閑山島海戦に於ける脇坂水軍の損失兵員は8980人(=200x35+100x17+40x7)の莫大なダメージとなります。
5.はい、「閑山島世界四大海戦」できあがり。そして「日本軍の水陸並進作戦を挫折させた」などと主張すると更に誇らしいでしょう。
●c.脇坂安治の動向
1592年所領、脇坂:淡路洲本3.0万石の大名、階位:従五位下中務少輔。
01.1590年02月 1500人 (参考)小田原役、動員定数
02.1592年03月 1500人 文禄の役、動員定数
03.1592年04月 文禄の役 開戦、脇坂は対馬にて船舶輸送の管理担当
04.1592年06月 5月中旬より内陸配置。漢城郊外の龍仁戦闘では来襲した李洸将軍他の朝鮮軍5万以上を逆襲・撃破。
05.1592年07月■6月14日より釜山にて水軍を編成。九鬼・加藤の準備を待たずに単独出撃を行い、開山島海戦で敗北。
06.1592年08月 海岸防御戦術を命令され、以後の朝鮮水軍攻撃を撃退。
07.1593年03月 1000人 晋州城攻撃計画(当初)、動員定数
08.1593年05月 900人 晋州城攻撃作戦、海岸配置兵力及び築城動員定数
09.1595年01月 1500人 再出陣計画、動員定数
10.1597年02月 1200人 慶長の役、動員定数
11.1597年08月 1200人 南原城攻撃兵力
12.1600年09月 990人、(参考)関ヶ原の合戦、動員兵力
●出典
c-01.(「秀吉朱印状・天正十七年(1589)十二月五日」船手人数)
c-02.(「天正記」ちやうせん国御進発の人数つもり)
c-07.(「秀吉朱印状・文禄二年(1593)三月十日」覚)
c-08.(「秀吉朱印状・文禄二年(1593)五月二十日」覚、同 朝鮮国御仕置の城の覚)
c-09.(「秀吉朱印状・文禄五年(1596)正月十五日」高麗国動御人数帳覚)
c-10.(「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書)
c-11.(「南原城図」)
c-12.(「参謀本部 関ヶ原役」)
●d.朝鮮水軍の規模
朝鮮艦隊は李舜臣24隻(板屋船21,亀船3)、元均7隻、李億祺25隻の約50隻と言われている。
1595.03.04の朝鮮王朝への実数報告等の戦船数から推測すると非戦闘員も含めて約7000人程度の規模の兵力となる。
また、朝鮮艦隊の兵力を別の視点から見て、板屋船の定員を150人から200人と見積もっても7000人から10000人超の兵力が動員されていたと推測される。
●e.閑山島大捷はどれぐらい大勝利か?
1.3万石の大名とは、概算3万人の人間が一年で消費する生産力を持った領土を持っているという意味であり、概算指標としては領土の人口は3万人に相当する。
2.3万石1500人の動員は外征動員としては限界に近い数値であり、内訳の4から6割は人夫や水夫などの非戦闘員である。大名毎の政治経済事情で動員定数の充足率は前後する。
3.閑山島海戦に参加した脇坂軍は前月まで漢城方面の陸戦兵力として戦闘を実施したばかりであり、転換命令により水軍としては急造されたものだった。
4.閑山島海戦で武将の 脇坂左兵衛・渡辺七右衛門・真鍋左馬允(水軍出身、座礁上陸後に責任を感じて切腹) の三名の幹部が戦死している。
5.脇坂安治も鎧に矢を受けたがの船は漕ぎ手が多い為に撤退に成功した。また脇坂艦隊の内、多くの船が陸に追い込まれて座礁し、約200名が巨済島に上陸して帰還している。
以上を勘案すると脇坂安治が閑山島開戦で敗北したことは間違いなさそうであり、その死傷損失兵力は最大推算で600人前後であり、開戦時の動員定数兵力の1/3から1/2程度の打撃を受けたと考えられる。
●f.まとめ
閑山島海戦は韓国人が思っているほど大規模な海戦でもなく、また兵力比較をしても大兵力の朝鮮水軍がさらに戦術を上手に使って順当に脇坂艦隊を撃破した海戦と言える。
しかし、脇坂艦隊の兵力損失量は多く見積もっても数百人単位であり、他の戦いと比較しても多いとは言えない。
そういえば脇坂記の機器から生還した脇坂安治を称した「十死一生」をもって、死傷率9割と主張した韓国人も居ました。
また、韓国側が推測した日本水軍の損失数は、大名の御座船など少数しか建造されていない安宅船が日本に多数有るような誤解をするなど史料批判不足であり、8980人の兵員損失推定には動員数から見ても大きな無理がある。
ただし、日本軍の快進撃を受けて連敗を期した李氏朝鮮では緒戦期に於ける貴重な勝利であり国内国外に向けて数少ないプロバガンダソースとして勝利を利用した。
また李舜臣を抜擢した東人派要人の柳成龍などが党勢拡大の為に勝利を宣伝し、懲ヒ録などの記録が日朝で閲覧された結果、当時の日本軍に存在しなかった架空の水陸並進作戦を閑山島大捷で挫折させたり、日本軍が通商破壊のために補給不全に陥ったという妥当でない俗説が流布されることになる。
●つまり何が言いたいかというと
韓国人の8980人損失推定数は脇坂安治の総動員兵力1500人が6回も全滅しないと成立しないということ。
また、所感としては脇坂は死傷者五百人前後の損失を出したのではないかと思います。振れ幅を見ても損失は1/3から2/3程度に感じます。(それでも脇坂には大損失です)
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