安波茶・沢岻の戦闘 (あはちゃ・たくしのせんとう)
歩兵第64旅団司令部 旅団長 有川主一少将 独立歩兵第23大隊 大隊長 山本重一少佐 独立歩兵第21大隊・独立歩兵第15大隊・独立機関銃第14大隊 第2歩兵隊第3大隊本部・ 独立歩兵第22大隊第1中隊 米国 第1海兵師団 第1海兵連隊・第5海兵連隊・第7海兵連隊 (米軍側の記述は全て「海兵隊」の公刊戦史を使用している) 日本側の公刊戦史を青 米軍側の公刊戦史を赤 その他の記録からの抜粋を黒で表記している 安波茶方面においては、強力な米軍の攻撃に対し、辛うじて安波茶南側高地を保持していた。 5月7日0900から日本軍の抵抗を減殺する方策が協議され、1200に攻撃開始が決定した。第5連隊第1大隊、及び第1大隊の右に投入された第7海兵連隊第3大隊L中隊が中央を前進、、第3大隊及び第2大隊が敵の側面に圧迫を加えて限定的に前進することにした。この日は火炎放射器と爆破班で敵の洞窟陣地を爆破したが、その進出距離を見ると「安波茶ポケット」に対しての楽天的な見方は吹き飛んだ。 5月8日 安波茶・沢岻北側地区で接戦が行われ、前田部落方面への米軍の進出によって苦戦を続けた。 日本軍の機関銃は見事というべきか、こちらからは見つけ出すことが出来ないが、それは安波茶ポケットを全部見渡せる視界の利いた所に配置されていて、この谷間を横断する者に対していつでも射撃できるようにしていた。「おい、すごいじゃないか、あの機関銃の撃ち方、今まで聞いたことのない最高に訓練された技能を持っているぜ。よく聞いてみろ、あの発射音」。私たちは息を切らしながらも、その日本兵の機関銃手の発射音を畏敬と賛嘆の混じり合った思いで聞いた。機関銃手はまだ私たちに向かって撃ち続けている。一連射毎に実に正確なリズムで、2発、3発、また2発の間隔をおいて撃ち続ける。 (第5海兵連隊第3大隊K中隊 ユージン・スレッジ伍長手記) 安波茶付近においては米軍は不断の圧迫を加え続けていた。 第7海兵連隊第3大隊と第5海兵連隊第3大隊(第7連隊へ配属中)は攻撃に際して第5海兵連隊第1大隊及び第2大隊から直接支援火力を受けるよう計画され、攻撃準備射撃に引き続き1200から各大隊は攻撃を開始した。 第7海兵連隊第3大隊が暴露した左翼から敵の射撃を受けて停止した以外、進撃は順調のうちに最初の目標に達し、第5海兵連隊第3大隊が第1海兵連隊第1大隊と同じ稜線上に達した。1515には第7海兵連隊第1大隊が城間から進出して第7海兵連隊第3大隊と第5海兵連隊第1大隊との間隙を封鎖した。 5月9日午後に新しい師団命令が発出された。第7海兵連隊と第1海兵連隊は新しい連隊境界線をひかれ5月11日の攻勢開始のための態勢を取るように指示された。1855、第7海兵連隊長は前線に東から第1大隊・第3大隊・配属の第5海兵連隊第3大隊を並べその指揮を執ることとなった。 この第5連隊第3大隊と第7連隊第3大隊の攻撃では最初の250m程はわりと順調に進撃した。だがその直後には左翼が敵の激しい砲火に曝されて進撃は停止した。観測所から煙弾を撃てとの命令が出たので急遽黄燐弾を発射して煙幕を形成した。日本軍の90ミリ砲弾がこちら目がけて雨のように降り注ぎ、近くで炸裂する。完全にわが方の砲撃を上回っている。破片が風を切る音がする。大きな砲弾が爆発して土砂が舞い上がる。それでもこちらも撃ち続けた。左翼の部隊が苦戦に陥っている。何が何でも援護射撃をしてやらねばならない。(第5海兵連隊第3大隊K中隊 ユージン・スレッジ伍長手記) 5月10日 第5海兵連隊第1大隊は2度の日本軍の逆襲を受けたが、0600に攻撃命令を発し、0800にはA中隊を先頭に縦隊で攻撃を開始した。迅速に約450mほど前進し軍の境界線にまで進出、C中をA中隊の左側に進出させ大隊の最前線を強化した。 戦車部隊は計画通りに支援を開始したが、適切な経路が見つけられずに歩兵部隊と合流することが出来ず、単独のA・C中隊は0845に正面及び両翼からの激しい機関銃および迫撃砲の射撃、更に背後からも的確な射撃を受けるにに至り死傷者が一気に増加した。負傷者の搬送は不可能であり急遽戦車及び装甲車がその任に当たったが、複雑な地形によって前線との調整がうまくいかなかった。1700、大隊長は大規模な発煙を要請、この援護下に各中隊に負傷者を搬送し撤退することを命じた。1945までに第5海兵連隊第1大隊は朝方に進出した線まで後退を完了した。 第5海兵連隊第2大隊は12両の戦車及び火焔戦車の支援を受けて安波茶渓谷の敵をほぼ制圧した。火焔放射によってまず安波茶渓谷の北斜面を焼き尽くし、引き続いて戦車砲で第2大隊および第1大隊担当地区の敵陣地を破壊していった。戦車部隊と共にG中隊が渓谷に侵入、火炎戦車とともに日本兵を撃滅した。E中隊とF中隊はそれぞれが渓谷を渡り、日本兵の掃討を行った。 第7海兵連隊第1大隊は左側面が無防備な状態であった。当初敵の反撃もなく順調に前進、第1大隊長は0842に先頭中隊であるB中隊の左にA中隊を並べて前線を強化するように指示した。友軍の砲兵射撃や81ミリ迫撃砲を沢岻丘陵の稜線部や集落に集中射撃させているにもかかわらず、沢岻丘陵からの敵迫撃砲や機関銃射撃が徐々に強まってきた。1145、第5海兵連隊の行動地域にある渓谷から機関銃射撃を受けた。この射撃によりB中隊は背後から射撃を受ける結果となり前進が滞った。この機関銃射撃に対して迫撃砲の射撃下に第7海兵連隊第2大隊G中隊が攻撃を行ったが失敗、第1大隊長は部隊を停止させた。左に隣接する第5海兵連隊第1大隊が1700に撤退を開始したため、第1大隊も元の位置まで撤退を開始した。 5月11日 11日夜半後退命令を受けた独立歩兵第23大隊長山本重一少佐以下50〜60名が沢岻に到着して有川旅団長の指揮下に入った。同大隊の戦力は歩兵砲中隊40〜50名(大隊砲一門)を主とするもので、各中隊はほとんど戦力がないという状況であった。 第7海兵連隊第1大隊および第2大隊は激しい敵の反撃に遭遇しながらも第3大隊の前方目標に対し両翼から敵拠点を包囲して約700m前進、沢岻丘陵に確固たる地歩を確立した。この際多くの死傷者を生じ、支援にあたった戦車部隊が負傷者の後送任務を請け負うほどであった。 第2大隊F中隊は沢岻丘陵の稜線を越えて沢岻集落の郊外に達したが、反対斜面にある洞窟陣地やトーチカからの激しい反撃に遭遇した。それ以上の進撃は不可能と判断され、その後は大隊が確保した稜線付近の敵を掃討する任務に変更した。第1大隊C中隊は1116に稜線の頂上部に達したが、やはり激しい抵抗に遭遇した。そのため第1大隊長は午後の早い段階にA中隊を投入、前線を確保するとともに左の師団境界線付近まで進出するように命令した。両中隊は戦車・火炎放射器・手榴弾・爆雷などを使用して洞窟陣地を封鎖して占領を確実なものとしていった。 第5海兵連隊地区にあっては第2大隊が安波茶ポケットの敵を潰滅させ、第1大隊は第7海兵連隊第1大隊の後方に回り込んで敵の重要な拠点を排除した。 第1海兵連隊第2大隊の攻撃目標は大名丘陵の西側にある高地帯で、第1大隊を超越して前進を計画した。左翼のE中隊は沢岻丘陵の反対斜面および大名丘陵正面の両方から正確な射撃を浴びせられ釘付けとなったが、鉄道沿いに前進するF中隊だけが順調に目標に向かって前進することが出来た。1300にF中隊の後方にあるG中隊に対し攻撃命令が下達されたが、G中隊は激しい砲撃に曝されて死傷者が増大した。1600にはF中隊が目標の一部に到達して確保したため第22海兵連隊第2大隊と連携が取れるようになった。第1海兵連隊第2大隊と第7海兵連隊との間隙には第1海兵連隊第3大隊が投入された。 5月12日 安波茶南側で孤立奮戦していた独立機関銃第14大隊は13日夜包囲を突破して沢岻付近に後退したが、途中で大隊長村上甚太郎中佐は戦死し、下士官以下数名が到着したのみであった。 第7海兵連隊第2大隊E中隊(左)・F中隊(右)は戦車および火焔戦車の協力を得て沢岻丘陵反対斜面の掃討を実施した。E中隊正面の目標に対しては艦載機による航空攻撃が実施されて丘陵一帯は破壊し尽くされた。だが日本軍の抵抗も凄まじく、沢岻丘陵の突出部から連隊境界線に沿って進撃するF中隊は93発の迫撃砲集中射撃を浴びた。1522に沢岻丘陵上でE中隊が第1大隊C中隊と接触し連携が取れたためその夜は沢岻集落の北側および高地において防御線を構築した。 1030、この中隊がF中隊と並列となってから攻撃が開始された。前進経路は至るところで日本軍の狙撃兵が待ち構え、大名丘陵付近からは激しい機関銃射撃を受け続けた。特に第2大隊左翼は完全に日本軍砲兵部隊の観測下に置かれている様相を呈し、各中隊はほとんど前進不能であった。日没時にはその場で掩体を構築せざるを得ない状況となり、最も前進した箇所でも11日の前線から数メートル進撃しただけであった。 第2大隊の左から攻撃した第3大隊K中隊・L中隊は第2大隊の側方を東側に前進しようとした。安謝川の南岸の土手を遮蔽物として南東進し一部が大名渓谷方向約300m程前進したが、敵の砲撃が増大したために停止した。 5月13日 第1海兵連隊第3大隊に対して夜明け前に激しい逆襲が行われたが、手持ちの武器を駆使して辛うじて撃退した。1200には第3大隊K中隊の火力支援を受けたL中隊と戦車部隊が大名渓谷の入口にある高地を占領するために南東に向かって攻撃を開始したが、その目標高地に達したと同時に3方向から激しい機関銃射撃を受けるとともに迫撃砲・手榴弾・小銃射撃の嵐に巻き込まれた。撤退は避けられない状況となり、戦車が援護射撃や発煙弾を撃ち込みながら死傷者の後送に当たり、部隊は元の攻撃開始の位置まで撤退した。同じようにL中隊も側面から激しい銃撃を受けて撤退した。 沢岻丘陵は5月13日に第7海兵連隊によって完全に確保された。第7海兵連隊第1大隊C中隊は0235に日本軍の逆襲を受けたが撃退した。0737には大隊から沢岻丘陵の掃討命令を受領、第2大隊の掩護下に攻撃目標を沢岻集落の南側に設定した。A中隊が0821に攻撃を開始したが、反撃もなく0912には徒歩で沢岻集落に進出した。1330には大隊は目標線に達し、B中隊がA中隊の左後方に占位して攻撃態勢を整えた。 5月14日 沢岻の洞窟陣地には死を決した歩兵第64旅団長有川少将以下が依然として頑張っていた。第62師団長は有川旅団長を撤退させることを考え、軍司令部とも連絡し、軍司令官からの撤退の示唆を得て、14日夜師団長の親書持参の連絡将校を派遣して後退を命令した。有川旅団長以下は14日夜全員斬込を準備中のところ、0時頃師団の撤退命令が到着したために、斬込を中止し所在部隊に撤退を命ずるとともに、旅団長以下血路を開いて15日未明首里北側に後退した。旅団司令部は撤退時二十数名の戦死者を出した。 独立歩兵第15・21・23大隊、第2歩兵隊第3大隊なども14日夜沢岻から首里北側地区に後退した。独立歩兵第22大隊第1中隊(生存者34名)は大名に後退して同大隊第2中隊長の指揮下に入った。 5月14日、第5海兵連隊第3大隊K中隊は、今や全てが灰燼に帰して見る影がなくなった沢岻集落に入った。頑丈な石垣だけが残っているだけだった。その時前方300mに異様な光景を目撃した。450人ほどの日本軍が瓦礫の中を退却しているのである。時間をおいて彼らに対して砲撃が始まった。びっくりした日本兵は慌てて逃げ出す。ところが彼らの逃げる様子を見ていると決してパニックにに陥った人間ではない。雨あられと降り注ぐ鉄の暴風に見舞われ、こちらに背を向けて走っているときでも、私たちは彼らの背中に何かしらの自信に満ちた一種の威厳を感じ取った。彼らは命からがら逃げているのではない。堅固に築城された後方の防御陣地に単に移動しているに過ぎないのだ。そしてそこでまた戦う。もし後退の命令が出ていないのなら、彼らはその場に留まって熾烈な反撃を行う。いづれにしろ日本兵は死ぬまで戦うつもりなのだ。(第5海兵連隊第3大隊K中隊 ユージン・スレッジ伍長手記) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八原博通高級参謀著「沖縄決戦」より有川旅団長の後退問題 有川旅団司令部は、5月12日には完全に馬乗り攻撃を受け、旅団長自ら手榴弾を投じつつ戦闘するといった悲境である。これを見殺しにするか、あるいは重囲を突破して後退させるか重大な問題になってきた。有川将軍は鹿児島出身で薩摩隼人型の人物である。斗酒なお辞せず、辺幅は飾らず、悠々たるタイプの人だ。軍司令官が同郷のよしみで「貴様は田舎の百姓親父のような風采だったのに、将官になったら多少将官らしい感じになってきたな」と揶揄されると、旅団長は「閣下も、近頃は軍司令官振りが板についてきましたが、まだまだ十分とは言えませんな」と応酬するほど遠慮ない打ち解けた間柄であった。かつて、将官達の宴会で、軍参謀長が「有川、貴様生意気だ!」と言ったという噂まである。軍参謀長や第62師団首脳部は、有川旅団長は軍司令官と同郷なのを鼻にかける嫌いがあるというので、心よからず思う節があった。しかも有川旅団は、牧港・伊祖方面の戦闘以来勇戦はしているが、戦績が芳しくなく、軍、師団首脳部の印象があまり良くない。そこに今回のような状況が起こったので問題がややこしくなる。 5月13日夕方、第62師団参謀長から私に電話がかかってきた。上野参謀長は例の熱気のある早口で、「八原君、ご承知の如く、今有川少将が馬乗り攻撃を受けている。師団長は少将に対し、現陣地を固守して死ぬるようすでに親書を送られた。従来このような境地に追い込まれた指揮官は、後退を命ぜられるのが常であるのに、有川少将をここで見殺しにするのは情において忍びない。部下もまだ相当生存していることだろうから、なんとか救出し、今後の戦闘を続けて指揮してもらいたい。しかし、師団長がすでに厳命を下しておられるので、自分としては手の下しようがない。軍の方で良い思案はないだろうか」 という相談だ。 こんな場合、私もまた人並みに気が弱くなる性分である。戦術理論上からして、沢岻付近を全滅を賭してまで死守する必要はない。私は軍参謀長に 「師団長藤岡将軍の真摯にして厳然たる処置は師団長の立場上命ぜられたと存じます。軍としては、この際有川将軍に後退を命ぜられるのが適当であります」 と意見を具申した。参謀長、軍司令官ともに別に拘泥される様子もなく、すぐ同意して下さった。私は大喜びで後退させる旨を上野参謀長に伝えたが、彼の喜びは私以上のものがあった。この夜遅く、有川将軍以下同司令部の生存者は巧みに敵の包囲を突破し、無事首里市内に後退した。 |
歩兵第64旅団司令部が沢岻に置かれており、旅団長以下本部要員が所在していた。しかしながら、ここに列挙された部隊は、それまでの戦闘により各部隊とも実勢力は50名程度以下にまで低下している。特に独立歩兵第21大隊は伊祖高地の戦闘・58高地の戦闘でほぼ全滅に近い状態で沢岻に後退して来た。 独立歩兵第23大隊が実際に沢岻に到着したのは5月11日夜半であり、この時期は安波茶南側地区(地図の日本軍陣地最右翼付近)にあったが、沢岻地区の戦闘で重要な役割を果たしているため「基幹」という表現を使用している この日の米軍は第1海兵連隊の60高地攻撃に重点を置いているようで、安波茶ポケット(米軍はこの渓谷をポケットと名付けた)では大規模な攻撃を実施していない ユージン・スレッジ伍長手記は日本語訳され「泥と炎の沖縄戦」として出版されている この日第1海兵連隊が50m閉鎖曲線高地(Hill60)を攻略して沢岻高地北西端に達したため、それに伴って第5海兵連隊第3大隊と第7海兵連隊第3大隊を南進させている。 公刊戦史では「進撃は順調のうちに最初の目標に達し、第5海兵連隊第3大隊が稜線上に達した」とあるが、実際は順調ではなく、相当の苦戦に陥っているのである 独立歩兵第23大隊の右側背は前田高地を突破された第62師団・第24師団の隷下部隊が戦線を整理することが出来ないまま混沌とした状況で混戦あるいは後退を行っている状態であった この5月10日は日本側の公刊戦史ではほとんど触れられていないが、この沢岻正面の戦いでは日本側が限定的な勝利を掴んでいるのである。おそらくは、沖縄第32軍の目は瓦解しかけてる前田高地南部の戦闘に注がれているのだろう。 第5海兵連隊第2大隊の戦闘地域では独立歩兵第23大隊と独立機関銃第14大隊が戦火を交えている。米軍側の公刊戦史では海兵隊の不断の攻撃により日本軍を撃退したような記述であるが、日本軍側にとっては右背後(前田高地側)から米陸軍第77師団第106歩兵連隊等の攻撃を受けたことによっての後退という意味合いが強かったと思われる。 第7海兵連隊第3大隊のこの位置は、途中遮るものがなく、沢岻の日本軍から完全に制されていたため全く動くことが出来なかったのである 第1海兵連隊は沢岻高地の西側平地部を南進している。この地域は概ね平坦で戦車機動も容易であった。さらに、沢岻台上の日本軍は北部正面から侵攻する第7海兵連隊・第5海兵連隊の進撃阻止に主眼が置かれており、この西側の防御には目が向けられていなかった可能性が強い。進撃が滞ったのは、沢岻よりもむしろ大名高地からの射撃によってであった。 一見すると米軍の激しい攻撃で一気に進展が見られたように感じるが、実のところ日本軍からみて最左翼の第1海兵連隊と最右翼の第5海兵連隊第2大隊の進撃によって両翼から包囲されることを避けるために、歩兵第64旅団司令部が沢岻中央部の戦線を後退させたというのが真相だろう。 第7海兵連隊第3大隊は遮蔽物のない台上で釘付けになっていたが、むしろこれを利用して日本軍の火力を集中させ、両翼の1大隊・2大隊の進撃を容易にしようと考えたのではないだろうか。 第1海兵連隊の西側から背後への侵入は日本軍にとって非常に脅威になったはずである。沢岻正面の敵よりも、この側面の敵に対して火力を集中している様相がうかがい知れる 各部隊とも米軍の馬乗り攻撃を受けるに至り、組織的戦闘は5月12日で終了したと言える 独立機関銃第14大隊は前日の11日に第5海兵連隊が完全に制圧した中を敵中突破して帰還している。左の地図の「第5海兵連隊」と書かれた中を突破している。 米軍はついに沢岻稜線を越えて沢岻集落に浸透して来た。 日本軍にとっては第1海兵連隊の動向が沢岻に残された将兵の運命を握っていると言っても過言ではなかった。反対に米軍は何としても沢岻と大名の間の谷に進撃して一気に沢岻高地の日本軍の退路を遮断したかったであろう。日本軍はそれを阻止するために、第1海兵連隊に対して最大限の火力を集中してこれを阻止しようとした様相が左の文面からも読み取れる。13日早朝には逆襲を行っての撃退を試みている。 独立歩兵第23大隊は嘉数(第3中隊/第4中隊)・前田(第1中隊)・安波茶(第2中隊)と逐次に隷下中隊を失い、沢岻においてついにその組織的な戦闘能力を失った。 5月13日は米軍にとっては大名高地攻撃の第1日目ということになるだろう。沢岻集落はすでに日本軍の掃討の段階に入っている。 第1海兵連隊の攻撃は大名高地守備隊にとって直接的な脅威に変化したことであろう。 有川旅団長への撤退命令に関しては沖縄第32軍首脳部内の人間関係が大きく関わっていた。最下段にそのことを示す八原博通高級参謀著「沖縄決戦」の一文を載せる。公刊戦史に記述されている文面が実は全く異なったニュアンスであることがわかるのである 450名は疑問の残る数値であるが、海兵隊にとっては末端将兵に至るまで「日本軍強し」の実感を持ったことであろう。 |