2007年11月12日
「いい時代」たぁ何か?
もののついでですが「いい時代」っていいぐさは、たいていが「過去」についていわれるもので、しかも「皮肉」っぽくいわれる。正味、いい時代だったかどうかはよくわかんない言葉だ。が、本気で「いい時代だった」といわれることもあって、それもまた必ずといっていいほど「過去」である。そして、多分その当の「過去」の時代には、あまりそんなふうには思っていなかったんじゃないかと思われる。
少なくとも、知識人とか報道人はたいていそう思わないように出来ている。あるいは「悪い時代だ」「良くない社会だ」といっておいたほうが格好いいか、無難なのだ。「オールウェイズ」な、懐かしの昭和30年代だって、当のその時代には、貧乏で不潔で非文明的な敗戦国の矛盾だらけに見えてたに違いないのだ。俺は子どもだったから、よくわからんけどね。
大体、知識人が社会的エリートであった時代、彼らは社会の色んな側面が(大衆よりも)「見えて」しまう立場にあり、しかもエリートだから「少数者の孤独」なんかも抱えているので、いきおい「今の世(この国)はダメだ、間違ってる」という危機感に満ちたご挨拶になり、それなりにそれが社会的な責務を果たす動機になっていた。けれど、現在の日本のような高度な大衆社会では知識人そのものが亜流化していて、ただの言説の型に近くなってる。
危機感煽動型「世の中ダメだ論」は、もはや半分以下しか有効じゃない、というのが僕の仮説。「いい時代(社会)」だったときなんて、ホントは一度もないのに、人は「今」をクサすためにそう「言ってみる」だけなのだ。同じ人が、その「いい時代」には、時代や社会をクサし、恨み、批判をさんざいってたりするってのが人の世の常って奴だ。
と同時に、「今」だって、じつはご同様に「いい時代(社会)」でありうる。そういう認識でしか、多分ちゃんと世の中や人を見ることはできない。批判の鋭さをひたすら競う「批判」型知識人は、その競争に最終的に勝つために、どこにも行けないどん詰まりの「批判大王」=裸の王様になってしまったりする。もうそろそろ、それダメなんじゃないか、と僕は思う。
そういう考え方からは「今の世の中、どん詰まりだ」っていう類型しか生まれてこないので、どん詰まり感、危機感を煽るテキヤの叩き売り商売になってしまう。
たしかに、昔だって限られた階層や人、趣味や領域にとっては、ホントに「いい時代(社会)」だったかもしれず、そういう例を挙げることは、いくらでもできる。でも、それって同時にその逆の例(悪い時代だった例)をも挙げられるってのと同程度の説得力しかないよってことだ。
たとえば、戦争の「悲惨」を経験した人は戦後を「いい時代(社会)」というかもしれない。でも、逆に戦時中のほうがよかった人だっているだろうし、戦後、かえって堕落したと思ってる人は確実にいる。何か大事なものを喪失したと感じる人はもっといるだろう。そういう人がいう「いい時代」が果たしてほんとにそうなのか、っていう問題は、同時に「いつの時代も両面がありえた」という観点から考えるべきだろうと思う。そうじゃないと、どっちかが正しいっていう話にすぐ落ちて安上がりしまうから。
議論がメンドウになってきたので、こんへんで。
「いい時代」だったなぁ、って感じ、思うこと自体は別に悪くないけどね。
コメント
コメントを投稿する
トラックバック
トラックバックURL:
http://app.blogs.itmedia.co.jp/t/trackback/77444/10648471
- 雛形あきこAV流出[雛形あきこAV流出] 2007/11/12 19:47
雛形あきこのAV見たことありますか?本物です!
そりゃあ大概、自分にとって
都合が良かった時代
ってことじゃございませんでしょうか?
ご隠居。
もしかして、鬱ですか?
「いい時代」の問題はそれがメディアで語られた瞬間に「個人にとってのいい時代(思い出)」ではなくなり、ある種の同調圧力として働く点だと思います。それが昭和30年代だろうが1980年代だろうがあるいは世代論としての「現在」の優位性だろうが、あまり関係なくその「時代」に象徴させた特定の価値観への同調を要請するためになされることが非常に多い。いちばんわかりやすいのは反共ヒステリーを隠蔽するためのアメリカ50年代のGood Old days化ですが、いうひとのことよりなんとなくみんなが「いい時代」(いつかという問題ではなく)を求めているような雰囲気が個人的には居心地が悪いです。
「今の世(この国)はダメだ、間違ってる」
と気付いたとき、
1.現状を否定する→「世の中ダメだ論」
2.絶望する→あらゆる意味での死
3.それではダメだ→今も「いい時代」である所を模索する
の3つの行動パターンがあると思います。
夏目さんのマンガ論は、
潜在的に"1"と"2"の要素を抱えながら、
"3"を追い求めようとしているところに
価値があるんだろうと個人的に感じていました。
同調圧力として働かせるために「いい時代」を言うのが知識人の常套手段なのは孔子の時代からそうで、本当に失われた楽園があったのかどうかが問題ではなく、未来への規範としてその楽園を本当に実現する気があるのかどうかを問うことに意味があるものではないかと。一度も見たことがないものを想像することはすごく難しいので、過去として創造してモデルの強度をあげるのはまあいたしかないかと。郷愁に流されちゃう人は手段と目的がごっちゃになっちゃったわけです。
昭和50年生まれですけど・・・なんとなく、知識人とか言う人たちのうさんくさ加減を、学生時代に小林よしのりに知らされて以降(よしりん支持という訳ではありません。彼の言説のおかしさも理解してます)、「批判だけする人」に全く価値を見出してません。万年野党と同じで、何の役にも立たない、使えない連中としか考えられませんね・・・。批判は沢山だ。どう、良くしていくの?実現可能な方法出せよ!出せなかったら、黙っとれ!という感じです。それが出来ない知識人なんて、本当に意味がないと思います。
「いい」も「悪い」も「時代」も「世の中」も、とにかくあいまいな語で、それだからこそどう言っても当てはまっちゃうっていう、占いの言葉みたいなところがありますね。
観点や価値観が違っても、「いい時代だった」っていわれると、その目線に無意識に合わせてみたくなって、観点ぬきでその批判能力(否定肯定ふくめての)は僕にもあるよ、と張り合っちゃうような妙な同意が成り立っちゃうのかもしれませんね。
古代ギリシャで「近頃の若者はなっちゃいない。」って既に言われてた、とかいう話を思い出しました。