2007-11-12 ピング・ウーに
■Plug DISSOLUTION
君のおかげで私も生物の目的を認識できた。生物の目的は死ぬ事だ。
マトリックス・レボリューションズより、スミス
さて。
始末はいまだ果たされていない。それは全く遅延させられたままである。
その事はすでに状況の追認か、もしくは黙認だと認められるべきだろう。
そしてそれがかつて掲げられていた大義と一致するか。非常に疑問だ。
ところで
公共性、正当性、そして暴力の問題を扱う次のようなエントリ群があった。
盗人なれば猛々しい - d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/
公共性の貴族 - d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/
属性に対する優遇 - d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/
このエントリについては色々問題があり、殊に最初のエントリに対しては
すでにブックマーク上でもいくつかのツッコミがなされている。しかしその
ツッコミは決して十分なものには思われない。最後の日付に書き手自ら
ブックマークで述べるように、根幹に関わる部分での反論は見られない。
まずは、その根幹だろうと思われる部分をいくつかピックアップしておこう。
福祉の中に公共の介入によってのみ達成できる
暴力性があること自体は認識しておく必要がある
属性に対する優遇 - d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/
公共性の貴族の特権が、その弱者性にそもそも由来するように
見えても、根本のところはそれを正義と見なす者の数が物を言う
公共性の貴族 - d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/
しかしこれは誤りである。何故誤っているかと言えば、これが弱肉強食を
想定出来ていないからだ。これは平等な人間という観念を先取りしている。
この事を理解するためには次の例を考えてみれば解りやすい。ジョナサン・
ジョースターは人間の内で強力である。勿論その彼でも10人がかりなら
きっと倒されてしまう事だろう。だが三・四人を引きずる事なら出来ていた。
あるいはマヌケが千人集まればマルクスやカントなどに匹敵するだろうか。
いずれにせよ、弱肉強食であれば人間の頭数はその差異と関連せざるを
えない。つまり数が直接的な問題解消因子となるとはとても言えなくなる。
それにも関わらず、Mr_Rancelot氏は数をのみ問題にしている。ここには
各人の差異を捨象し単位化する力がすでに作用している。数は力ではなく
その結果なのだ。そしてその結果を力だと誤認する事には錯誤を見るべき
である。それは現今の公共性の出現因を公共性そのものに求める錯誤だ。
それは実際のところ、現今の公共性を天与神授のものだと見るにも等しい。
人間を単位化し一般的な人間と言う観念の渦に各人の差異を回収させる
べきだ、という考えが密かでありつつも確かな前提とされているからである。
勿論、説明された理路としてそうなっていると言う事とその発言者の本意
とを短絡させるような事をするつもりはない。しかし次の指摘はしておこう。
それは公共に伴う暴力性を何故問題と見たのか、この理路では説明不能
だと言う事だ。弱肉強食ではなく現今の公共性を結局のところ是だとした
理由もまた見失われる。そしてその構成力を見失われた公共は暴走する。
公共性の出現因を公共性自身に求める事は公共性の手綱を手放す事だ。
それはさながら、死を賭して戦う意味を理解出来ないスミスにも似ている。
生物の目的が死ぬ事にあるとすれば、何故道端でやがて死ぬのではなく
戦う事を選んだのか。彼にはそれが理解出来ない。彼は人間を知らない。
私は一番大切な事を覚えている。我々は今生きている!
マトリックス・リローデッドより、モーフィアス
さて
そして公共性の出現因だが、それは要するに高貴さから来たと思われる。